拍節機は
それは永遠を求めるように飽きることも変わることも止まることもなく時を刻み続ける。
かちり。そしてまた、かちり。人間の骨が折れる時の音。かちり、そしてまたかちり。
旅の途中、立ち寄った土産物屋で私はちっぽけな拍節機を視た。どうしてそんなものがあったのだろう。観光客は動物の置物や食器に目を向けるばかりで、店の隅に置かれた拍節機になど見向きもしない。私がその存在に気づいたのも、私自身が拍節機のように小さな体をしていたからというだけに過ぎない。
でも、私はそれを見つけた。私がそれを見つけたのだ。屈みこみ、顔を近づけた拍子に拍節機が突然動き出して思わず後退る。それからおずおずと近づいて、首を傾げたまま、これは一体なにかしら、まじまじと覗き込んだ。目盛りのついたガラス板に針が取り付けられている。その先に錘の取り付けられた針は左右に首を振り、その度にかちかちと音を立てる。その音を聞いていると、なぜだか理由もなく気分が落ち着いた。瞼が重い。この身をゆっくりと横たえ、ただ静かにこの心を手放して眠りにつきたい気分になる。不思議な機械仕掛けだ。
それが何なのかはじめ私にはわからなかったが、さんざんに頭をひねってようやく思い付いた。そう、これは『永遠』だ。飽きることも変わることも止まることもなくただ決まった節奏だけを繰り返す機械。永遠に幾何を追う、そう定められ生み出された小さな奴隷。そこに何の価値があるのかはわからないが、おそらくこれは『永遠』というものを表現した芸術なのだろう。
人間というものは本当にくだらないものをつくる種族ね。
私は微笑み、うっとりと拍節機を見つめる。
ほんのつかの間ではあったけれど、私はニンゲンが作ったものに心を奪われた。それが
なぜ、そんなものに気を許してしまったのだろう。理由がわかったのはずっと後になってからだ。拍節機が刻むリズムはこの胸の音によく似ていた。拍節機の律動は心臓の鼓動そのものだ。
……いいや、それも違う。拍節機の音が鼓動に似ているんじゃない。私の心臓の音が拍節機に似てきているのだ。
どうして気が付かなかったのだろう。
どれだけそれを厭うても、この胸をくり抜いて取り出すわけにはいかない。人は、妖魔は、心臓の鼓動から逃れることはできない。
いつしか私の耳はしつこく刻み続ける拍節機に支配されるようになっていた。寝ても起きてもあの音が、かちり、そしてまたかちりというあの機械的な音が耳の奥にこだまして離れない。
拍節機は幾何を追う。
それは永遠を求めるように飽きることも変わることも止まることもなく時を刻み続ける。
何も変わらない、ということ。愛することも愛されることも、何一つ変わることなく永遠を超える種族。それが、機械仕掛けのロボットであることを私は知っていた筈だったのに。
私の心臓は日増しに機械仕掛けになっていく。そうして、私はようやく悟った。見るに能わぬ者、邪妖という存在はこうして生まれるのだと。
私の名は紅。半妖アセルス様に手を引かれて私は旅をした。けれども──ああ、本当にどうしてなのだろう。私は何も変わることができずにいる。夢を抱くことも、自らを好きになることもできないまま、ただ白薔薇という毒がアセルス様を犯していくのを指をくわえたまま見守っていることしかできない。私の心臓はいつしか機械のようにただ決まった拍動だけを刻むようになり、私は自分が真に邪妖に成り下がりつつあることを認めないわけにはいかなかった。
かちり、そしてまたかちり。呪いのようにこだまするあの音が、私を静かに機械へと変えていく。
長く、とても苦しい時間が過ぎた。クーロン、トリニティ、マンハッタン──そして京へと。様々な星を旅して、ようやく私はあの星、『ミーくんの命の館』で答えを見つけることができた。私が何をすべきなのか。私に何が残せるのかを。
拍節機の音が聞こえる。今ではそれが、私を急かしているようにも聞こえる。──かちり。ほら今だ。……そしてまた、かちり。ほらまた今。かちりと音がするたびに、私は足を踏み出そうか踏み出すまいかと考える。『いつ』が良いだろう。いまかしら……。ああ、また時を逃してしまった。いま一歩踏み出していたら、それで終われていたかしら。かちり。ほら今。そしてまた、かちり。ああ、ほら。いまなら上手くできたのに。
死へのカウントダウンはMM:60で刻まれる。
とても簡単なことだった。ついに決戦を迎えたアセルス様と黒騎士セアトが激しく剣を交えている。でも、アセルス様は勝てない。私はそれを知っている。だから、私はほんの少し足を踏み出すだけでいい。捧げものはここにあるのだから。
降り立ったヨークランドの平原で、私たちはとうとうセアト達に追いつかれた。両者が睨みあうなか、私の幼い主はとんでもないことを言った。「セアトは私が倒す。イルドゥンはハウゲータさんたちを」と。当然、私と白薔薇姫は血相を変えて反対する。従騎士が弱いとは言わないが、その主である黒騎士とはやはり比ぶべくもない。互いに最強の戦力である黒騎士同士をぶつけなくては──。ところが忌々しいことに、当のイルドゥンだけが「それでいい」と頷いた。
「それがお前の選択か、アセルス」
「……うん」
緊張感を滲ませてアセルス様が頷く。
「これはお前の旅だ。アセルス。いちいち誰かに頼らなければ道を切り開けないのなら、どのみちお前はおしまいだ。手は貸してやる。……だが、やはり最大の敵はお前自身で倒さなくてはな」
満足げに答えるイルドゥンに、アセルス様は真剣な目をして答えた。
「わかってる。白薔薇と紅をよろしく」
「誰に物を言っている」
剣を構えたイルドゥンがセアトの従騎士たちと対峙する。私も加勢しようとしたが、実際のところその必要はまるでなかった。
──従騎士ごときが、この俺を阻む気か?
恐れながらイルドゥン様。我々の主は黒騎士セアト様。そして主の命は絶対なのです。
……つまらん台詞だ。
いくらあなたが強かろうと我ら三体がかりでなら……!
お前の言っていることはつまりこういうことか? 三体一でなら黒騎士にも勝てる、と。セアトの底が知れるな。口の利き方には気を付けろ、三下。その言動はお前の主をも愚弄する。黒騎士セアトもそこまで弱くはなかろう。
戦いの決着は一瞬でついた。流水と化したハウゲータをいかなる技をもってしてか両断し、鳩尾をつかれたアルキオネが悶絶し、最後に残ったウロネブリは涙をぽろぽろと流しながら無表情のイルドゥンに最後の抵抗を見せる。
「お、お前なんか怖くない……怖くないぞ……! ボクは……セアトくんのためなら……!」
「黙れ」
押し殺した恫喝にびくりとウロネブリは震え、格上の妖魔が発する重圧に泣きじゃくりながらも懸命に抗う。とうとう立ちあがることもできなくなったウロネブリは鼻血塗れの顔でイルドゥンの足にしがみついた。
「いかせない……いかせないもん……」
うんざりした顔で見下ろしていたイルドゥンは小さく舌打ちをし、その腹を強かに蹴り上げて気絶させた。
「イルドゥン、急ぎアセルス様に加勢を!」
「加勢はしない。セアトはアセルスが倒す。そう言ったはずだ」
「な、何を言っているのですか!? 従騎士たちを無力化したのなら、誰が誰の相手をするかなどという問題ではないでしょう! 戦いとはそういうものです」
「戦いではない。旅だ」
「た、び?」
「アセルスが自分で決めたことだ。他者に舗装させた道を歩いて、そんなものを旅と呼べるのか? 手はもう貸した。あとはアセルス次第だ」
「馬鹿な……」
吐き捨てて、私はアセルス様とセアトの戦いに目を向けた。妖魔化したアセルス様はセアトの繰り出す数々の兵器にも臆することなく剣を構え、懸命に凌いでいる。よく戦っている。だが、やはり──明らかに分が悪い。次第に手数で押され、防戦一方になりつつあるアセルス様をはらはらと見守りながら──しかしその心の中で私はいつしか微笑んでいた。
ああ、やっとこの時が来た。
だって、仕方がないことだろう。
このままでは死んでしまうのだ。
仕方がない。
助けなくてはならないのだ。
だから──、
私は血飛沫の舞う戦場へと躍り出した。僅かな怯えも躊躇いもなく、薄ら笑いさえ浮かべてアセルス様の前に立つ。そして……ああ、そう、何だったろうか、次に口にするべき台詞は……そうだ、きっと、こんな具合だろう。
「“いけない! アセルス様……!”」
いままさにセアトの剣がアセルス様の胸を貫く──その瞬間、飛び出した私は彼女を庇うように立ちはだかった。妖魔の剣が鈍い音を立てて私の肺を貫いていく。目の前でセアトが驚愕に顔を引き攣らせている。……いい気味だわ。さんざ迷惑をかけたしつこい追手。お前などどうでもいいの。だって私は振り向かなければいけない。血を吐き、涙ながらにこう言わなくてはならないの。“アセルス様。ご無事で何よりです”。そうして……。
そうしたらきっと、何もかもが報われるわ。私を抱きしめて、愛していると言ってくれて……、数えきれない感謝の言葉、悲しみの言葉を口にしてくれる。私を見て。私だけを。……そう、あの薄気味悪い白薔薇のことなど、きっとすぐに忘れてくれる。私という犠牲は消えることのない楔となってアセルス様の魂に打ち込まれ、それは永遠に残るだろう。夜ごと疼いて熱を持ち、彼女の心を占有してしまう。なんて美しい物語だろう。誰からも忘れ去られていたこの私が、焼却炉の紅が、オルロワージュ様の愛し子のために散っていく。誰かのために命を投げ出し、守るために死んでいく。それが結末だと言うのなら悪くはない。
振り向こうとして、私は倒れた。体中が痺れて上手く動かない。いけない。震えながら弱々しくアセルス様に手を伸ばし、懸命に彼女の名を呼んだ。
……ああ、温かい。アセルス様が私を抱いてくれている。大声で泣き叫びながら私を抱きしめ、紅、どうして、と何度も何度も繰り返している。なんて心地良い響きかしら。私は血にむせながらうっとりと目を閉じる。その途端、アセルス様はひときわ大きく叫びをあげた。嫌だ、紅、死なないで!
ありがとうございます。アセルス様。私の死を悼んでくれるのですね。私のことを覚えていてくれるのですね。ありがとうございます。それでいいのです。それだけで私には十分です。紅は、それだけで死んでゆけます。
体から力が抜けていく。……そうか、これが死というもの? なんだか不思議な感覚。……でもいいわ。私は満足しているもの。……そうだ、でも最後にもう一度だけ、アセルス様の顔を見ておきましょう。どんな顔をしているかしら。きっと大粒の涙を零しながら、心配そうに私を見ていて下さるに違いないわ。さっきは傷が痛んでよく見えなかったから、最後にもう一度だけ、ご主人様の顔を見ておきたいの。
私は最後の力を振り絞って瞳を開き、アセルス様を見つめた。そして──、
……。
…………。
………………。
◇
紅、という妖魔について語るならば、末期の彼女はとうに妖魔たる自負を失っていた。オルロワージュの寵愛を失い、ファシナトゥールで焼却炉の番人に甘んじていた屈辱。そしてアセルスに手を引かれ旅に出たにもかかわらず、当のアセルスは紅ではなく白薔薇ばかりを見ているという不条理。もはや自らを愛する者などこの世には存在しないのだとそう悟った時、妖魔紅は瞬く間に邪妖へと堕ちていった。小人と化した姿もますます陽炎のように揺らぎ、弱々しく明滅する。もうどうしようもない。どこにいくこともできない。だから彼女は、笑って死んでいくことにした。あの星、『ミーくんの命の館』でそう決めた。美しく死のう、と紅は思った。だからアセルスの身に危険が迫ったその時に、迷うことなくその身を投げて盾となった。盾? しかし盾になどなれるのだろうか。小人の姿、それも邪妖となり存在さえも怪しくなりかけている紅の体に、黒騎士の剣を受けることなどはたしてどうしてできようか。
……。
……。
答えはとても簡単だ。いま、紅の体はかつての姿を取り戻している。メローペと呼ばれ殺戮を繰り返していた炎妖の頃、王の寵愛を一心に受け、残虐なその気性のままに荒れ狂っていた頃と同じ姿。アセルスよりも少しだけ大きく、燃え盛るように美しい肌をしている。
それはなぜか。
最後の最後に紅は笑った。自分の生まれた意味を知った。自分の意味を自分で決めた。アセルスという女を守ることができて満足だと。
だから紅は元へと戻った。邪妖ではなく妖魔としての本来の姿へと。
死にかけだから?
違う。
満足したから?
違う。
最期に紅が手に入れたもの、その名を人間世界ではこう呼んでいる。それすなわち、
──自己愛、と。
紅は歪な形で自分を愛した。今際の際、アセルスの腕に抱かれながら心の底でそっとほくそ笑んでああ自分はなんて美しいのだろうと陶酔している。愛しているのはむろんアセルスなどではない。紅という名の妖魔を愛し、自分という名の物語を愛している。自己陶酔の悦楽に頬を歪めて紅は自己愛を手に入れ、それによって妖魔としての自らを取り戻した。そして──、
紅は最後の力を振り絞って瞳を開き、アセルスを見上げた。アセルスが泣いている。顔をくしゃくしゃに歪めて泣いている。その悲しそうな顔を見た途端、どうしてだろう、喜びに満ちていた心が不意に痛んだ。薄汚い自己陶酔は風船がしぼむように一瞬にして醒め、紅はふと、我に返った。
自分は夢でも見ていたのだろうか。
そして思う。なんて醜い泣き顔だろう。それでオルロワージュの子だなんて嘘だろう。
……ああ、自分は死ぬのか。こんなところで。本当にどうして、自分はこんなところまで来てしまったのだろう。大人しくあの焼却炉でうとうととしていればこんなことにはならなかったのに。まったく馬鹿馬鹿しい話だ。
……認めよう。この女は愚かだ。この女の語る言葉は、何らの力も持ちはしない夢物語だ。こんな女の口車に乗せられてあの素晴らしい妖魔の世界から星間世界へと迂闊にも堕ちてしまったその挙句がこれ? 笑わせてくれる。
白薔薇の言うことももっともだ。この世のどこかに居場所を探そう、
そうだ。本当はわかっていた。夢や希望を求めて足を踏み出したんじゃない。この子なら私を殺してくれる、そう思っただけだ。居場所なんかじゃない、旅の果てに求めていたのは死に場所なのだ。
これがその結末。アセルスの言葉などしょせんは絵空事。愚かな半妖が聞こえのよい言葉で自らを騙して、針の城から逃げ出しただけ。
死へと近づけば近づくほどに冷徹に冴えていく思考の最中で、舞い降りたアセルスの涙がぽつりぽつりと紅の頬を伝う。
人間の──半妖の涙というものは熱いのだな、と紅は思う。泣いている妖魔など見たことはないし、誰かの涙に触れることはそれが初めてのことだったから。
熱い。……温かい。炎妖である彼女の肌にアセルスの熱が静かに溶けて、そして紅は考える。
……でも、そんな愚かな女に、アセルスに私は何をしてやれたろう。
『──そっとしておいて欲しいならそんな顔をして泣くなよ。寂しそうに涙を流しておいて感情移入されたくないなんて勝手だよ。そんな風に泣かれたら、思い切り抱きしめて、頭を撫でて、あなたのことが好きなんだって言ってあげたくなる』
アセルスは……私を連れ出してくれた。私に優しくしてくれた。この両手をぎゅっと握り締めて、手の中に小さな夢を預けてくれた。それはむなしい希望だったかもしれないし、甘ったれた物語だったかもしれない。
それでも、私がひとときの救いを得たことは嘘じゃない。
『今ここにいても辛いだけなら、どこにも居場所が見つからないのなら……。ここではないどこかの、まだ見たことのない星の辺境地にいつか生きることのできる場所を探そうよ。私はそのために来たんだ。このファシナトゥールを抜け出して私が望んでいられる場所を作り出すために旅をするんだ。だから紅、一緒に行こう』
「…………」
紅はよろよろと立ち上がる。顔を上げ、セアトを見つめ、──そして自らの剣を抜く。
別にアセルスが正しいとは思わない。彼女のことを今さらのように焦がれる気持ちになるわけでもない。だがそれでも、まだ死ぬわけにはいかない、と紅は思う。まだやらなければいけないことがある。
紅が掲げた剣の切っ先の震えを目にして、対峙するセアトは狂人を宥めるかのようにおそるおそる口を開いた。
「紅姫……動くべきではない。すぐに治療すれば助かる。いや、いますぐに治療しなければ助からない。私にオルロワージュ様の寵姫を傷つけるつもりは」
「でもお前はアセルス様を殺すのでしょう?」紅は静かに答える。「だから私が戦うわ。イルドゥンは役には立たない。アセルス様では勝てない。……ならば、私が戦う以外にありますか?」
「しかし」
と口を濁すセアトの背後から、腹の傷口を押さえながら血まみれのアルキオネがふらふらと駆け寄り、紅の状態に気が付いてはっと息を飲んだ。
「そんな体で……立ち上がってどうするのですか?」
心配そうに口走り、それからはっと表情を険しくさせ、咎めるようにアルキオネは言う。
「あなたに何ができるというのですか、紅姫」
「彼女は」紅は俯いたままぼそりと呟く。「私に優しかったわ」
「え?」
「アセルスは私に優しくしてくれた。ファシナトゥールの焼却炉で誰からも忘れられ軽んじられていたこの私は見つけ出し、救い出してくれた」
「だから? それが何だと言うのですか」
「わからない? 私はそれが嬉しかったの。それが全てなのよ。だから……」紅は血の気の失せた顔で弱々しく微笑み、そして静かに吠えた。「お前たちはここで滅ぼしておかなくてはね」
信じがたいという表情を浮かべながら、しかしアルキオネは警戒心を強めるように後退り、おそるおそる問いただした。
「そんな瀕死の状態で、オルロワージュ様の寵愛を失ったお姉さまに我らが倒せると?」
「貴方を炎妖として調教したのが誰だか忘れてしまったようね、アルキオネ」
「……」
冷たいその言葉にアルキオネは僅かな怯えを浮かべ、虚勢を張るように大げさな笑い声をあげた。
「あれはもう過去のこと! 何も知らない駆け出しの妖魔であったあの頃と、セアトに仕えるいまの私とは違う!」
「そう思うのなら、かかってくればいい」紅はまっすぐに相手を見つめて言う。「すぐに教えてあげる。貴方が誰に戦いを挑んだのかを」
深く、息を吐き出した。肺の中の酸素という酸素を残らずすべて投げ出すようにして吐き出し、ほんの少しだけ息を吸った。
そして言う。
「我が名は紅。ファシナトゥール第八の寵姫にして、半妖アセルスに連なる深紅の炎。たかだか黒騎士風情の従騎士など、この手で灰にしてあげる」
そう告げた瞬間、大気はどよめき、周囲はたちまちにして茹だるような熱気を帯びた。地平の景色が陽炎に揺れ、空気中の水分が蒸発しあらゆるものが涸れていく。ばちり。音がして、紅の肌が炎に溶ける。今にも倒れそうに震えながら、唇から血を流して紅は笑う。
「アセルス様」紅は言った。「貴方と出会えて良かった」
「駄目だ、紅!」
絞り出すようなアセルスの叫び声を背後に、紅は幽鬼じみた足取りで駆け出した。それは最後の舞いだった。炎の妖魔、紅が踊る死の舞踏。燃え盛る業火で全てを焦がし、息を吸うだけで肺を焼く地獄を描き出すための。
命の最後の一滴までもを絞り出し、死に物狂いで紅は剣を振るう。哄笑をあげ、残虐に頬を釣り上げ、獲物を狩るために炎の息吹を吹き付けていく。
「これは……。このままでは全員滅びてしまう……!」
全身を焼かれる痛みに呻きながら、セアトはなおも躊躇うアルキオネへと必死に叫ぶ。
「でも……!」
「やるしかない……! たとえ相手が彼女であったとしても……! アルキオネ!」
言葉なく、しかしこくりとアルキオネは頷いた。その瞳に涙を滲ませながらも剣を抜き、紅へと打ちかかる。怯えを滲ませながらアルキオネは紅の剣を受けるが、しかし瀕死とは思えない力に吹き飛ばされる。
紅はぜいぜいと息をしながら、その鋭い眼光で敵をねめつけ、熱波を放つ。高熱に取り巻かれたセアトが身を捩り、その隙を逃すまいと紅が剣を振り上げた。主の危機にアルキオネが血相を変える。
「駄目っ! お姉さま!」
「死ね、セアト!」
かつては姉妹と呼ばれたアルキオネと紅、二体の妖魔が絶叫し、──そして、最後の舞いは終わりを迎える。セアトの首元寸前までうち込まれた妖魔の剣。しかし、紅の力はそこで力尽きていた。呆気にとられたように自らの腕を見つめ、そこにもはや何の力が込められてはいないことに気づいて、「ああ」と深く呻き、紅は静かに血を吐いて頽れた。
「お姉、さま……?」
信じられないものを見るようにアルキオネが震える声で囁き、セアトは九死に一生を得た恐怖に顔を引き攣らせながら茫然としている。
「紅!」
叫び声を上げて飛び込んできたのはアセルスだった。慌てて紅の背を抱き留め、瞳を閉じた彼女に呼びかける。だが、紅はもう何も見てはいない。閉じた瞳からささやかな涙を流し、紅は消え入りそうな声で別れを告げた。ごめんなさい、と彼女は言った。ありがとう、と彼女は言った。もっとあなたと、そう言い、そしてまたこうも言った。
ああ。
死にたくない。
アセルスの腕の中で、紅の熱が冷めていく。炎妖である彼女の体はすっかり冷たくなって、そして何も言わなくなる。イルドゥンが顔を顰め、アセルスの背後で白薔薇が笑う。アセルスはそれきり何も言わずに、紅にそっと頬ずりをしてその体を大地に横たえた。
もう言葉は要らなかった。
アセルスの髪は瞬く間に濫りがわしく伸び、その色は妖魔の蒼へと変わる。アセルスの足下には、いつしか深紅の具足が生まれている。燃えるように紅い妖魔の具足を高らかに踏み鳴らし、激昂に震えるアセルスの瞳が瞋恚の炎を宿し爛々と輝く。
「セアト……アルキオネ……」
アセルスはゆっくりと口を開き、静かに告げた。
殺してやる。