サガフロンティア アセルス編   作:おめかけ

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第二十二幕 永い夜を超えていく

 針の城を出たばかりのアセルスはまだ、世の常識というものを何も知らない。それは仕方のないことだろう。早く独り立ちをと考えてはいてみてもしょせんは齢17の小娘、高等学校で数学や歴史を学びはしても生き方そのものを体得するにはまだまだ遠いその身で彼女は妖魔の国へと連れ去られてしまったのだから。妖魔社会においてはまるで白痴も同然だ。右も左もわからない。持ち合わせといえば白薔薇姫の身に着けた金品だけ。日が暮れれば宿を探すのが旅人の至極明快な原則というものだが、携帯端末すら持ち合わせていないアセルスは宿を探すことさえ困難に感じることがあった。人に聞けば何とかなるだろうという安易な期待はあまりにも浅はかで、浮浪児に金をたかられて連れていかれれば危うく売春宿に売り飛ばされそうになったことも一度や二度ではない。右往左往と困り切って影の落ち始めた夕暮れに焦燥感を募らせたアセルスがふと助けを求めるように隣を見やれば、そこにはほら、いつものようににこやかな笑みを浮かべたお姫様がさんざん連れまわされたことを責めることもなく慰めてくれる。

 

 こういうときもありましょう。仕方のない事です。

 ……ごめん、白薔薇。さっきの人は確かにこっちに宿があるって……。

 

 それは確かに嘘ではなかったし、善意ですらあったかもしれない。その時、地元の人間が案内した場所は確かに宿だった。しかし、初めて暗黒街クーロンを訪れた彼女たちが辿り着いたその宿はといえば区切りのない広間に雑多な筵が敷かれただけの粗末な宿であった。麻薬中毒者(ジャンキー)や強盗紛いの荒くれ者たちとまさか針の城の姫君を共に寝起きさせるわけにもいかない。アセルスが力なく項垂れていると白薔薇姫は静かに目を細め、優雅に周囲を見回すとああ、あちらの方ですねと言って悩みもせずに歩き出す。そんなに簡単にわかるものだろうか……しかし白薔薇の言うことなら、と首を捻りながらもおとなしくついていけば、小一時間も探して見つからなかった宿がかくもあっさりと目の前に現れるのだった。

 

 どうして、わかったの?

 屋根の形状や並び方を見ていれば、なんとなく。そこがどのような区画なのかがわかりますから。

 

 へえ、と、間抜けな感嘆符を漏らしてアセルスは自らの無知無力を恥じて身を捩る。何も自分が博識であると誇っていたわけでもないが、こうして実の社会に飛び出し旅をしてみて、改めて自分がいかに弱くものを知らないのかが身に染みて理解される。

 このままではいけない、と思った。なぜと言って、お姫様たちを針の城から連れ出したのは自分なのだ。これは自分の──アセルスの旅なのだ。自分で考え、自分で責任を取らなければならない筈なのだ。──だというのに、気が付けば自分はいつしか白薔薇姫に頼ることに慣れてしまっている。このままではいけない。自分は強くならなければ。

 アセルスはよく、つまらない失敗をした。自分がしっかりしなければと張り切るあまりに空回りして、かえって迷惑をかけることも多かった。それが楽しい、と笑ってくる紅もいたが、しかし何もかもを笑って済ませてしまうほどアセルスはまた楽天家でもないのだった。

 白薔薇姫は常に正しい。どんなことでも知っている。……少なくとも、そのように見える。本人は“自分は長い時を生きているから”と謙遜しているが、紅に比べれば随分と世慣れしているようだ。ぜんたい、この麗人はどのような生き方をしてきたのだろう。

 たとえば、金があることを安易に示すことは、危険を招くといって安宿の主は嫌うこと。

 たとえば、クーロンのようなスラム街、星間船発着場の近くには、必ず戸籍を売買している仲介者がいること。

 彼女の知恵がなければ早々に身ぐるみを剥がされ、路頭に迷っていてもおかしくはなかった。アセルスが彼女に傾ける信頼は半ば崇拝めいていく。

 シュライクでオルロワージュによって連れ去られ、12年間眠っていたアセルスには既に叔母の手によって失踪宣告が出され、戸籍上は死亡したことになっている。星間世界における身分証明を持たないアセルスは当初、まともに職を探すことさえ困難だった。

 困ったときはなんでも白薔薇に聞いた。恥ずかしいことだとは理解していたが、新しいことを知ることは嬉しかったし、そして何よりも彼女の頼もしさを味わうことが嬉しかった。

 

 夜が来る。暮れなずむ世界に影が落ち、この世を黒く染めていく。地平線の向こうに太陽が沈む。旅の途上、ただでさえ見知らぬ町の風景は夜によってなおさらよそよそしく、不気味にさえ見えてくる。

 もう、宿を探さなければ。そう思いあたりを見渡して、しかしアセルスはため息をつく。

 時に、周囲はまったくの荒野で。時にはあまりにも荒廃とした工場地区ばかりで。時には延々と続く海岸線の途上で。宿は、無い。人家さえも見えない。そんな場所でふと心細くなり、今夜は泊まれるだろうか、泊まれたとして、針の城の追っ手はやってこないだろうかと考え思わず呻いてしまう。日が暮れる。夜が来る。太陽の眼が届かぬ町は指数的に危険度を増していき、騎士気取りのアセルスは無駄に心を逸らせる。闇の帳に隠された夜の街並み。あの枯れ落ちた街路樹の裏からは刃物を持った悪党が湧き出てくるのではないか。あるいは人攫いや変質者が待ち構えているのではないか。緊張に舌は強張り、鈍い不安が胸を貫く。旅を始めたばかりのアセルスは夜を知らない。光の差さぬその場所で何が行われているのかを知らない。無知が増大させた恐怖にじっと耐え、懸命に虚勢を張ってアセルスは足を進める。何しろこれは自分の旅だ。自分が一言、「もう嫌だ」と弱音を吐けばそこで終わってしまう旅なのだ。

 

 ……やっとの思いで宿を見つけたアセルスは、宿代の交渉に四苦八苦しながら宿泊を決める。女三人の旅に奇異の目を向けられ、時には性的な揶揄を投げられながらぐっと堪えて部屋へと急ぐ。部屋に入ったとて安心はできない。鍵は壊れていないか、もしもの時の脱出経路の確認などやることは山ほどある。夜が来る。今日も一日生き延びることができた、と思う……。しかしこの場所は、この星はどうにも自分が求めていた場所ではない気がする。自由になりたいと、自分が自分らしくいられる場所を求めて旅に出た筈だのに、どこにもその場所を見つけられないでいる。だってそうだろう、気を抜けば針の城の妖魔が襲い掛かってくるのだ。のんびりと暮らしていくにはどうにも不都合だ。かといって誰にも追われることのないような場所というのはいかにも危険であったり困難な旅路を要するものだ。夜が来る。ようやくの思いで床に就きさあ明日はどこへ行こうと考えながら心のどこかでアセルスは煩悶を繰り返す。自分が自分らしくいられる場所。そんな場所は、本当にあるのだろうか。自分が自分らしい、とは、いったいどういう意味なのか。そんなものどこにもないのではないか。悲しい気分になったときはたいてい白薔薇姫に視線を向ける。それだけで体の奥に力が湧いてくる。少なくとも、旅をする意味はある。自分はこの(ひと)を守っている。そして……いつか、この(ひと)を、安らぎのある場所へと連れていく。アセルスは目を閉じる。深い眠りの中へと自らの意識を投げ、魂をそっと手放す。

 朝が来る。目を覚ましてアセルスは時々きょとんとする。何故、自分はこんなところにいるのだろう? 文字通り何も知らない女学生のような気分で、自分はシュライクにいたはずなのに、と不思議に思っている。そのうちにはっと我に返り、ああ、何もおかしくはない、これは途中、旅の途中なのだ、と自分に言い聞かせて歯を噛みしめる。ここはシュライクからは遠く離れた場所。帰ろうと思っても容易には叶わない場所。──いや、もとより帰る場所などない。帰る場所はもはやどこにも残っていない。自分はいま旅をしている。帰る場所のない旅。目指す場所の無い旅。あてもなく──果てしなく。途方もなく足を進め地平線のそのまた向こうまでもを超えてなお、辿り着く場所の無い旅なのだ。この旅は終わりを知らずして、いつしか永遠を宿す旅なのだ。

 

 なぜ、人は旅立つのだろう。今いる場所を捨て、家族も知り合いも何もかもを捨てて、どうしてどこか遠くへ行こうとするのだろう。希望があるからだろうか。どこかに行きさえすれば、この場所を逃げ出しさえすれば幸福になれると信じて。けれどもそれは、もしかしたら絶望しているということなのかもしれない。いまここにこうして生きている筈の自分が大嫌いで、殺してしまいたくて、もう誰とも会話をしたくない、慰めの言葉や同情も煩わしいだけで、ああ、とにかくどこか遠くへ行きたい、と怯えているのかもしれない。だってそうだろう。今ある場所を愛するならばただの一歩も動く必要はないのだ。自分自身を愛することが出来るなら、何をも変えることなく生きていける筈なのだ。髪形を変えることも、服を選ぶことも、根本的なことを言えばそれは自分を愛していないということだろう。だからすべての旅人はみな心の中に希望と絶望とをぐつぐつと煮立たせた鍋を抱えて苦しみながら地平線の果てへと這って行くのだ。

 世界の果て。辺境──フロンティア。そこに辿り着きさえすればきっと黄金を手にできると信じて、旅人は今日も足を進める。

 

 ある日ある夜のアセルスは極寒の星にいる。夏でも日照時間が四時間にも満たないその土地は、見渡す限りが白い霧で覆われている。人々の吐息や人家の煙、スノーモービルの排ガスまで尽くは凍りつき、冷たく白い霧となって視界を遮るのだ。足元には這いよる雪(フィズー)と呼ばれる冷たい風が雪を巻きあげて流れ、地平の果てまで吹きすさぶ。極地の星、零下50度を優に下る凍結の土地。追手から逃れるためアセルスたちはムスペルニブルの更に果てでしばらくの時を過ごした。一切を死に覆われた純白の世界はただひたすらに清潔にできており、あらゆるものは凍り付いて腐敗することはない。

 アセルス達の住む集落を報道の取材班が訪れたことがあった。もちろんアセルスは撮影を断ったが、他の住民たちは意外なことにこれを歓迎していた。彼らの主な収入源が狩猟であることは間違いではないが、こうして取材や観光から得る金銭、また文化維持政策としてムスペルニブルの臨時政府から支払われる保護費も重要な財源となっている。取材班はもちろんある程度知識を仕入れた状態でこの氷原に来訪したようだったが、いずれも興味深げな様子で現地民の生活を記録していた。海豹の皮を剥いで仕立てた防寒着やブーツで全身をがっちりと覆った住民は目だけを露出させた状態で外へ出る。吐き出す息や鼻水は瞬く間に凍り付き、口元に巻いたマフラーに短い氷柱が垂れ下がる。燃料の買い出しに付き合うことになったある女性記者は地元民の運転するスノーモービルに乗せられて一時間ほど離れた軍基地まで出かけて行ったが、帰ってきた時、彼女の意識は朦朧としており喋ることすらままならない状態であったという。外部の“人間”の体はこの極寒の地に対応して作られてはいない。その日の気温は零下42度、しかしスノーモービル上での体感温度は実に零下70度にも及ぶ。凍傷になりかけた彼女の顔には黒い斑点がぽつぽつとできており、介抱された後で「来なければ良かった」と彼女が思わずつぶやくのを、同行していたアセルスはずっと見ていた。体調一つ崩すことなく、ただ心配そうな顔をして人間を見ていた。

 妖魔の体は寒さに強い。意識を失うような羽目に陥ることはないが、しかしかえってそれが災いし、意識ははっきりしているのに気が付けば体が動かなくなっていた、ということも少なくない。凍傷になるわけでも、寒さに意識を飛ばされることもなく、ただ肉体ばかりが物理的に動きを停めて凍り付いている。

 この地に足を踏み入れて、初めて海豹の毛皮を着こんだ時は自分たちがあまりにも不格好で少しだけ笑ってしまった。ぶくぶくと着膨れしたその有様はヒトとタヌキの合いの子にも似ている。けれども氷河に足を乗せて氷が軋む音を聞いた時、恥や見栄といったものはここでは何の役にも立たないのだとすぐに悟った。いくら自分が寒さに強いとしても細胞が凍り付いてしまえば動くことはできない。だから七枚のタイツの上に毛皮の外套や帽子を着こむのは生きていくために当たり前のことでありごくごく自然なことなのだ。獣の脂に火を灯しナイフで乱雑に切り離した生肉に噛り付いて口元を血で汚すのもこの地で生きる人々にとっては日常の一部であり、その行為に美しいとか美しくないといった概念を持ち込むことはお門違いというもの。

 それは世界の果てと言っても等しい光景だった、とアセルスは思う。凍てついた空気はダイヤモンドのように張りつめ、大地を踏みしめるたびに舞い散る粉雪は死骸から剥がれ落ちる灰に似て。何もかもが静止した凍結世界はそれでいて騒がしく、満ち引きに圧し合いする氷河という氷河がせめぎ合い軋むその音は巨人の足音そのものだ。世界の果ての光景は吹き荒ぶ雪の繚乱。雪花繽紛として乱れ咲くその空隙を不可視の巨人が闊歩する。雪景色に取り巻かれた人はみなその皮を凍らせ、肉はおろか骨に髄に魂までをも停まらせて何らの熱も持ちはしない一個の硝子人形となり果てて心無く呆然と海の白きを眺めて立ち尽くすのかもしれない。自分はこの景色をけして忘れはしないだろう。この場所は生まれ故郷のシュライクとも針の城とも違う。これまで旅したどんな場所とも似ていない。だってこの場所には何もない。どこまでも白くそして冷たく世界が凍り付いていくばかりでそれ以外の一切は存在していない。煩わしいものは何も残されてはいなかった。ただ生きているだけで、馬鹿のように寒さに震えながら雪の暴力に見蕩れていればよかった。美しい、とはっきりとそう思った。けれどもその美しさは、何故だろう、やはりどこか虚ろにも思えた。大自然のすさまじさに歓声を上げ、両手を上げて賛美しながらああ美しいと叫んでこのまま雪にうずもれていくことも不可能ではないような気もしたが、しかしどうしてもその美しさに頷くことはできなかった。寂しいと思った。隣には白薔薇姫がいた。奇麗だねと言えば彼女が静かに頷いてくれた。それは息も止まるほど幸福なことなのかもしれなかった。

でも。

 ……ここが本当に世界の果てなのだろうか? アセルスはそっと考える。確かにここには何もない。追ってくる妖魔はいない。半妖を利用せんと企むヒト種族もおそらくはいない。自然はあまりにも過酷で、その過酷さゆえにあまりにも平和だ。世界の果て。自分が自分らしくいられるという場所。辺境(フロンティア)。この場所がそうか? ──いいや、違う。何かが違う。だってこの場所には、自由はあっても意思が無い。たとえどれだけの平和がこの地に降り注いだとしても、私自身が何かを選び取った結果でなければ平穏を手に入れたとは言えない。でも、だとしたら……。私が望む“私が私らしくいられる場所”とは一体どんなものだろう……。そんなもの、本当にあるのだろうか……自分自身にさえわかりもしないのに。私は一体なにを望んでいるんだろう。私が欲しがっているものは、一体なんなんだろう。そう考えた。そう考えて、けれどアセルスは口には出さなかった。この旅は自分が始めた旅だ。白薔薇にも紅にも、そんな弱気を見せてしまうのは無責任である気がした。だからその代わりにアセルスは、心の中で呪文のように“わたしが欲しいものは”とそう唱えて隣に立つ女性に視線を向けた。お姫様はやはりヒトとタヌキの合いの子のように毛皮でぶくぶくと着膨れしていたが、それでも雪の中でなお白くよりいっそうの透き通りを持って微笑む。オウミの海とはずいぶん違いますね、と彼女は言う。オウミ? 困惑しながらアセルスは頷く。確かにあの海は黒かった。何もかもが凍り付いて固まったこの氷海とはて似ても似つかない。でもどうしてそんなことをいま言うのだろう? メサルティムはいまごろどうしているでしょうね。彼女は言う。うん……。アセルスは力なく項垂れる。むかしむかしあるところに一人の領主がいて一人の領主は一匹の人魚に恋をした。愛した人魚を閉じ込めて一人の領主は悪だったから、通りすがりのアセルスはきっと正義のヒーローで囚われた人魚を助けてあげた。解き放たれた人魚姫は嬉しそうに尾びれを振って深い深い海の中へと帰っていった。これで良かったんだ。アセルスは思う。望んでもいないのに縛り付ける権利など誰にもありはしないのだと。通りすがりのアセルスはきっと正義のヒーローで、けれどもその隣に寄り添う白薔薇姫はもちろんお姫様であってけして王子様でなんかありはしなかったからこんなことを言う。“あの領主はこの水妖をあ、い……”どうしてそんなことを言いかけたのかアセルスにはわからなかった。聞きたくなかった。聞かなかったふりをした。ふりをしただけだということは自分が一番よくわかっていた。だから領主の館を去った後もしばらくアセルスはオウミにいた。彼を見ていた。若い領主が海に取り込まれ、メイドが止めるのをじっと見ていた。何の責任もとれはしないのにそれでも自分はその有様を見ているべきなのだと思った。領主が自殺しようとしたところを、自分が引き起こした事件をずっと見ていた。謝ろうとはまったく思わなかったし領主がした人魚への行いにはいまだ憤慨してもいた。けれども。

 いま、この場所で。凍り付いた海を見つめてアセルスは違うんだよと心の中で呟いてとうとう白薔薇から目を反らす。私はメサルティムを助けたかったんじゃあない。私が助けたかったのは貴方で、助けてほしい助けるべきだという言葉を貴方から聞きたかっただけなのかもしれないんだ。お姫様は恐ろしいお城に囚われて可哀そうだから、自由にならなけりゃいけないんだと。

……私が望んでいるものは。

 

 暗い顔をして塞ぎこむアセルスの隣で、白薔薇姫はやはりいつものように残酷な笑みを浮かべていた。

 

 

 

 

 ……行くな、アセルス。行けば、余はそなたを追わねばならん。そなたを追い詰め、狩りたて、そして捕えねばならん。

 どうして……? だって私は、なにもあなたを裏切ろうというわけじゃない。ただ私は、私自身の生き方を見つけたいだけなんだ。運命の全てを貴方に委ねたまま、何もかもを与えられて生きるわけにはいかない。私は強くなりたい。だから……。……いつか、ここには必ず戻ってくるよ。それがいつになるかはわからないけど、でもきっと戻ってくる。その時には、もしかしたら貴方のことを“父”と呼べるようになっているかもしれない。

 だから行くのか、アセルス。そなたはまだ下界を理解してはいない。必ず戻ってくる? 本当にそうか? いいや、アセルス。あらゆるものは瞬く間に失われてしまうものだ。余の血を享けたそなたでさえ、人の世の害意に晒されればいつその命を失うともしれぬ。余はそなたを失いたくはない。行くな、アセルス。

 ごめん……。本当に、ごめんなさい……。

 余は何も失いたくはない。それでも行くのか、アセルス? 余の安寧から紅と白薔薇を奪い去って旅に出ると?

 奪う……そんなつもりはないけど……。白薔薇や……とくに紅には、外の世界を見せてあげたいんだ。このファシナトゥールに閉じこもってばかりいたら、妖魔だっておかしくなってしまう。だから、私は行くよ。

 アセルス。

 オルロワージュ。貴方が本気になれば、この場で私の自由を奪うことくらい造作もない。……なのに、貴方はそうしない。どうして?

 ……旅に出る、とそなたはこうして告げに来た。余がそれを嫌うこともおそらくは承知の上で。ならば、余はそなたを止められぬ。娘が己の成長を望むのであれば父はそれを見守るのが常だ。だが……アセルス。寛容にも限りと言うものがある。妖魔はいつか全てを支配してしまう。妖魔は何もかもを奪い去ろうとしてしまう。そうでなければならないのだ。それが、妖魔の──サガというものだからだ。いつか、余はそなたを追わねばならぬ。追わねば、そなたはきっと失われてしまうだろう。余はそれを知っている。奪われるくらいならば奪う。それが余の在りかただ。

 ごめんよ……オルロワージュ。貴方のことは、嫌いじゃあない。でも私はそれ以上にきっと──私自身のことが嫌いなんだ。だから、行かなきゃ。

 

 

 

 

 

 

 

 そんな会話を交わしたのはいつだっただろう。ずいぶん昔のことのようにも思える。

 もう、何も知らなかったあの頃には戻れない。

 だってそうだろう。

 紅は死んだ。自分のせいで──セアトの剣に貫かれて死んだのだ。

 目の前が真っ赤になった。

 どこかで時計塔の鐘の音が聞こえる。あの鐘が私を呼んでいる。

 ああ、そうだ。

 殺してやろう、と思ったのだ。自分にはその力がある。だから殺そうとそう思った。

 セアト。そしてアルキオネ。こいつらさえ現れなければ紅は死なずに済んだ。

 塵にも等しい中級妖魔が、この私の所有物を奪った。その罪は万死に値する。

 剣を構え、そしてゆっくりと振り下ろした。それだけでセアトの全身が無数に切り刻まれていく。痛みに絶叫し、その瞳に恐怖が宿る。

 ……ああ、なんていい気分なのだろう。初めからこうしていれば良かった。

 そう、我慢なんてしなければ良かったんだ。正義だの何だのとつまらない価値観に拘泥するから、大切なものを失うことになる。そんなことはトリニティの基地で理解していた筈なのに。

 それにしても、喉が渇くな。血が足りない。

「白薔薇、貴方の血を頂戴」

 そう言うと、白薔薇は私を見て目をみはり、ゆっくり後退った。……何をしているの?

「白薔薇」

 もう一度──今度は少しだけ力を込めて告げる。すると、途端に疼き出した首筋の傷を押さえて白薔薇が顔を歪める。

「アセルス様、どうか落ち着いて」

「わかっているんだろ」私は言った。「貴方は既に噛まれているんだから、逃れることはできない」

「貴方はいま、感情に飲み込まれて暴走しています。怒りに我を忘れて……正気に戻った時、傷つくのは貴方ですよ」

「聞き分けのない(ひと)だな」

 私が目を見開くと、白薔薇は短く声を上げて膝をついた。悲しげに見つめる白薔薇のその口元からは隠し切れない欲情の吐息が漏れ出す。

「いけません……アセルス様……」

 もう言葉は必要ないな。そう判断した私は剣を捨て、白薔薇へと歩み寄る。視界の端でセアトたちが逃げていくのが見えた。……どうだっていい。あの程度、いつだって殺せる。大事なのはいまこの私が望むものを手に入れること。時が経つその前に、目の前の全てを支配することなのだから。

「さあ、白薔薇。約束の口づけを」

 そっと白薔薇の頤に手を添え、ゆっくりと唇を近づける。

 さあ。

 愛する者の血液を、この下で存分に味わおう。

 舌を伸ばし、吐き出す吐息で白薔薇を虐めながら、ついにこの牙をお姫様の柔肌へ打ち立てようとしたまさにその時──、

 忽然と、世界に闇が降りた。空は日の光を失い、踏みしめる大地までもが黒い底なしの沼に変貌する。

「これは……?」

「……オルロワージュ様……!」

 私の腕の中で震えていた白薔薇がはっと顔を上げた。……その姿も、私の見つめるその先で瞬く間に闇の中へと吸い込まれていく。

「なんだ、これは!?」

 私はこの世の支配者だ。その筈なのに、伸ばしたはずの指先は白薔薇のドレスを掠め空をきる。胸の音が聞こえるほど傍にいた筈なのに。闇が、怖ろしいほどの闇が粘性を帯びて白薔薇を、そして私自身をも飲み込んでいく。

 

 

 

 

 余に逆らう不届きものたちよ。この迷宮で永遠に彷徨い続けよ。

 その言葉が誰のものなのかを、はじめのうちアセルスは忘れていた。けれども朧な記憶を辿り、声の主に気づいたとき、どうしてもその事実が飲み込むことができなかった。アセルスにとってのオルロワージュは確かに人外、妖魔の王ではあったけれど話せば言葉の通じる存在だと認識してたからだ。

 しかしその声を聞いた瞬間、ぞっとするような寒気が背筋を襲い、気が付けばアセルスは白薔薇姫と共に迷宮にいた。無数の時計が無慈悲に時を刻む場所、光の差さぬ暗黒の空間に。

「ここは……?」

 戸惑いに漏らした言葉に、白薔薇姫が優しく答える。

「アセルス様。目を覚まされたのですね」

「白薔薇……よかった……。そうだ……紅は!?」

「……覚えて、いらっしゃらないのですか?」

「セアトに刺されて、それから……そうだ、私のために彼女が戦ってくれた……紅はどこ? 彼女を助けないと!」

「アセルス様」静かに白薔薇姫は答えた。「彼女は……紅は私たちを守るために命を落としました。残念ですが……」

「そんな……」

 力なく膝を落としてアセルスは呻く。

「あの後……突然辺りが暗くなって意識を失い……気が付けばアセルス様とともにこの場所へ倒れていたのです」

「ここは……?」

「ここは、闇の迷宮と呼ばれる場所です。オルロワージュ様が自身の妖力によって生み出した空間。妖魔の君に反した者を罰するための牢獄」

 牢獄だって? 周囲をきょろきょろと見回してアセルスは困惑する。視界の先でぐにゃぐにゃと奇怪に屈曲した無数の扉が浮かんでいる。どう見てもそれまで滞在していたヨークランドの景色とは違う。

「ここは一体何なの? どこか遠くに飛ばされたというなら、なんとか星間船を見つけて戻らないと」

「戻ることはできません」

 白薔薇姫は動じることなくさらりと言った。

「ここは、既存の星間世界──リージョンと呼ばれる星々の枠組みとは異なる場所なのです。この世のどこでもない場所。妖魔の君が生み出した無辺の地獄……」

「……おかしいよ」

 あまりにも白薔薇姫が冷静なので、かえってアセルスは恐慌に舌を上ずらせた。

「オルロワージュはそんなことをする妖魔じゃない。あのひとは話のわかる妖魔だ。こんな乱暴なことはしない。無理やりに自由を奪うような真似は……」

 そう口にして、アセルスは目の前に立つ女性こそがまさに針の城に囚われていた寵姫だということを思い出して口ごもる。

「違うんだ。妖魔が……セアトたちが襲ってくるのだってそれは彼らが私の血を利用しようとしているからで、きっとオルロワージュが出した命令とは違っている筈なんだ」

「どうしてそう思うのですか?」

「どうしてって……」

 アセルスは信じられない様子で白薔薇姫を見つめるが、彼女はいつものように平然と微笑んでいる。

「私たちは針の城を脱け出してきたのです。妖魔の君であるオルロワージュ様がこれを咎めるのは自然なことでは?」

「で、でも……。貴方はそれをおかしいとは思わないの? こうして自由を奪われて腹は立たないの?」

「さあ……私はあの方の寵姫ですから」

「そんな……」

「私たちはこうして自由を奪われました。でも、それ以前に私たちは逃げ出したことであの方を傷つけている。……だとすれば、加害者があの方で私たちが被害者であると言い切る気にはなれないのです」

「そんな……そんなのって勝手だよ。自分がどこにいるかなんて、自分で決めていい筈じゃないか。それを誰かに決められて破ったら罰を受けなきゃいけないだなんてそんなのは間違っているよ」

「ええ……。そうかもしれませんね。でも今は、とにかくこの迷宮を探索してみませんか? もしかしたら、この迷宮を突破する方法が見つかるかもしれません」

 そう言うと白薔薇姫はどちらが上でどちらがしたともつかぬ空間に一歩足を踏み出し、恐れる様子も見せずに歩いていく。

「待ってよ、白薔薇!」

 慌てて駆け寄りアセルスが白薔薇姫の方に手を乗せた時、ちょうど彼女は扉の取っ手を握りしめたところだった。無数に浮かぶ扉の内の一つ、苔むす古めかしい扉が音を立てて開かれる。すると──

 

 ……サマ、魔王サマ……。

 

どこかで誰かが呟く声がする。とても遠い場所で囁かれるその言葉は不鮮明ではっきりとしない。けれどもアセルスは、何故だろう、その声を聞いた途端に不意にこみあげる懐かしさに思わず胸がつまり、泣いてしまいそうになった。懐旧、あるいは郷愁。それは自分が存在していた場所への愛おしさであり、また自分がいまそこには存在していないという悲しみだった。過ぎ去っていく全てのものへの悲哀を綯い交ぜにして胸元を突き上げるその感情にアセルスは呻き声をあげて立ち止まる。

「何だ、今のは……」

「……どうしたのですか?」

 心配する声に顔を上げれば、扉の向こうから白薔薇姫が不思議そうにこちらを見つめている。

「声が、聞こえたんだ……。どこかで聞いたような声が……。貴方には聞こえなかったの?」

「ええ……確かに、声というか……何か音が聞こえはしましたけれど、でも意味のある言葉のようには思えませんでしたが」

「確かに言ってたんだ。魔王さま、って……。何のことかはわからないけど、でも、なんだか……」

「なんだか?」

「どこかで聞いたことがあるような気がした。そんな筈はないのに……」

「既視感のようなものでしょうか」

「わからない。わからないけど……何だろう、この気持ちは……。いったいぜんたい、何だってこの場所は扉ばかりがやたらとあるんだろう」

「迷宮と呼ばれるぐらいですから、やはり閉じ込めた者たちを迷わせるためでしょうか……? どちらにしても、今はとにかく手さぐりにでも進むしかありません」

「あ、待ってよ、白薔薇!」

 動揺を引きずるアセルスとは対照的に白薔薇姫ははやくも次の扉を選び始めている。次に彼女が手に欠けたのは深海よりも深い青を持つ扉、やはり先ほどと同じように捻じ曲がった扉が再び音を立てて開かれる──。

 

 ……あのね、時間と言うのは、本当に、気が付くといつの間にかに過ぎてしまうものでしょう……。

 

 おずおずと語るその声が優しく穏やかに耳元を駆け抜けていき、そして──気が付けばアセルスは訳も分からずに胸元を握りしめている。

「……様。アセルス様……大丈夫ですか……?」

「う、うん……へいき」

 そう答える声が想像していたよりもひどく震えていることを知って、アセルスは苦し気に顔を歪める。これは一体なんだ。私は一体何を悲しんでいるんだ。

「迷宮に仕掛けられた罠でしょうか? 何か、精神的な攻撃に類するような」

「違う……と思う……多分。これはそういうものじゃない……」

 なぜそう思うのか自分でもわからないままに首を振り、アセルスはよろよろと歩きだした。

「それなら、良いのですが……。少し休みましょうか?」

「いや、大丈夫……。まだ始めたばかりだしね……」

 はは、と力なく笑ってみせながらアセルスは次の扉へと向かい出す……。扉を開くそのたびに、見知らぬ声が自分を呼んだ。けして出会ってはいない筈のものが狂おしい程の懐かしさを掻き立て、アセルスの心を千々に惑わしていく。

 

 ……あなたの行く旅路に、どうか幸運がありますように……。

 

 ……あたし思うんだけれど、永遠なんてそんなに大したものじゃない……。

 

 幾度となく繰り返される懐旧と喪失感。開けども開けどもさりとてどこに辿り着くわけでもなくただむなしく扉は開かれ続け、そして──永い、夜が訪れた。

 夜。

 闇の迷宮には朝が来ない。日が昇ることもなければ落ちることもなく、あたりは漆黒の帳に覆われて微動だにしない。全てのものは不気味に歪曲したままぴたりと静止して音一つ立てず、耳に届く音はと言えばどこからか聞こえる時計の針音ばかり。かちり、こきり。時を刻むその音が、かちりそしてこきりと幾何を計りて時間を等分に切り分けていく。胡桃の破裂にも似た乾いた音。世界の果てで胡桃が割れて、時は緩慢に進み続ける。かちり、そしてこきり。時を刻する胡桃の音は殷々と内耳にこだまして、けれど腹が減ることも疲れを覚えることもない。時だけが無限に歩みを続け、自らは何一つ変わらない。はたしてそれは時が流れていると言えるのだろうか。

 扉を開ける

 次の世界へと飛び込む。するとまた誰かの声が聞こえる。知らない誰かの、確かに見知った言葉。アセルスはいつしか泣いている。頬を伝う涙に喉を震わせながら、しかしその悲しみの所以を知らないままに。なぜ自分はこんなにも悲しいのだろう。扉を開けるそのたびに傷つき打ちのめされながらしかしアセルスは足を止めることなく進み続ける……。

 扉を開けて、扉を超える。迷宮に朝は来ない。静かな夜が空をひたひたと覆うばかりで何も変わりはしない。

 扉を開ける。扉の向こうにまた夜が見える。足を踏み出せば、また同じ夜がやってくる。どれだけの時が経っただろうか、同じことを繰り返すうちに白薔薇姫もいつしか無言になり、アセルス達は淡々と扉を開け続ける。

 懐かしい、と思った。自分は何かを懐かしんでいる。……けれども、それが何かはわからない。そんな記憶はアセルスには無い。だというのに何故だろう、どうしてあの声はこれほどまでに心を騒がせるのか。

 あなたは一体誰なんだ。どうして私のことを呼ぶんだ。どうして私は……。

「どうして私は、それが誰なのかもわからないんだろう……」

 寂し気に呟いてアセルスは顔を上げ、涙を堪えた。

 何かを懐かしいと感じることは、きっと忘却を前提としている。目の前にあるものを忘れていなければ懐かしいとは思わない。かつてあなたが愛したものをあなたはいつしか忘れてしまって、だからあなたはそれを懐かしいと思う。懐旧とは裏切り者の証明だ。あなたは過去を裏切った。忘れてしまった。

 扉を開ける。

 見知らぬ誰かをアセルスは忘れる。その誰かが分からないということは自分が誰なのかわからないことと同じだ。懐かしいその人を自分は愛していたのか嫌っていたのか、そんなことさえわからない。自分は一体何なのだ。どんな生き物で、どんな考えをしていて、その人をどう想っていたのだ。わからない。何もわかりはしないのだ。しまいには自分が本当に自分なのかさえ疑わしくなってくる。記憶喪失患者じみた寄る辺のない孤独感。依拠するもののない寂しさ。自分はいったい何を忘れた。忘れてしまった。わからない。名前のない悲しみだけが無辺に降り積もっては散っていく。闇の迷宮。それは、永遠に朝が来ない夜の記憶。

 扉を開ける。夜が来る。

 扉を開ける。夜が来る。

 扉を開ける。

 扉を開ける……。

「駄目だ。どこまで行っても……」

 ドアノブに手をかけたまま、アセルスはとうとう躊躇いを見せた。

「何か、別の方法を考えないと……ねぇ、白薔薇?」

「はい。アセルス様」

 同意を求めると白薔薇姫はいつものように優しく頷いてくれ、アセルスはほっと息をついた。階段に腰をおろして一休みする。

「……白薔薇は、何かこの迷宮について知らない?」

「あまり詳しくは……。オルロワージュ様がその意に逆らったものを罰するための場所だと聞いています。あるいは妖魔の掟に逆らう者が試される場所であると」

「試される、場所……。“迷宮”という名前がつくのなら、出る方法があると思うんだ。そうでなければ闇の牢獄だとか別の名前がついている筈だもの」

「そうですね……」

 あまり困ったようには見えない様子で白薔薇姫は首を傾げる。どこか呑気とさえいえる彼女の態度にアセルスはぎこちなく微笑む。

「……こんなところに閉じ込められて困っちゃうけど、でも、白薔薇と一緒で良かったよ」

「え?」

「たった一人だけだったら心細くて頭がおかしなってしまうかもしれない。でもここには白薔薇がいるから」

「そうですね」ふふ、と白薔薇姫は幽かに笑う。「私もそこまで不安には感じていません。アセルス様はどんな時でも道を切り開いてきた方ですから」

「……そんなことはないけど……でも、ありがとう」

 小さな声で呟くように言う。紅の死がもたらした悲しみはいまもなおアセルスの胸を痛切に掻き乱し続けていた。白薔薇姫がいなければ、とっくの昔に泣き崩れていたかもしれない。だが、いまは打ちのめされている場合ではない。彼女を──白薔薇姫を守らなければ。そのために自分がしっかりしなければならないのだ。いまにも崩れ落ちそうなアセルスの心を白薔薇姫の存在がかろうじてつなぎとめていた。

 そんな時だった。「おーい」誰かがこちらを呼んでいる。しかも今度は扉を開けた時のような幻聴でもない。声の方に目をやれば、植物型のモンスターが根っこの足でこちらへ駆けてくる。アセルスは警戒心も露わに剣を構えるが、モンスターはまるで意に介せずぱっと顔を輝かせながら「おーいおーい!」と叫んでいる。

「お二人さん! どこから来たんだい! オイラの名前は赤カブっていうんだ。よろしく」

「よ……よろしく。私はアセルス。こっちは白薔薇」

 挨拶を返すと、赤カブは無邪気に微笑んで心の底から嬉しそうにしている。

「やあ、嬉しいなぁ。ようやく、ようやく、だよ。この迷宮にオイラ以外の生き物が来るなんて本当に久しぶりだよ! やあ、めでたい!」

「あなたは、なに? どうしてここに?」

「あんた達と同じさ。この闇の迷宮に閉じ込められてるんだ。困っちゃうな!」

「そう、あなたも……」

 にこにこと微笑んだまま、白薔薇姫は穏やかに赤カブの根っこと握手を始める。

「あなたはどれくらいここにいるの?」

「ずっと昔からだよ」

「ここから出る方法は……知らないよね。知っていたらとっくに出ている筈だし」

「知っているよ。……あわわ、知らないよ!」

「……どっちなの?」

 困惑に眉を寄せるアセルスに赤カブはあわあわと視線を泳がせる。

「知っているけど、知らないよ! 言い辛いから言えないよ!」

「赤カブさん。お願いです。教えてくださいませんか」

 白薔薇姫が優しく根っこを握りやわやわと撫でさすると、赤カブはさらに真っ赤になった。

「わ、わ、わかった。この迷宮は……」赤カブはもごもごと口ごもる。「この迷宮は犠牲の迷宮と言われているんだ。何かを犠牲にしなければ出られない……そういう場所だよ。オイラに言えるのはそれくらいさ。それで勘弁しておくれ!」

「なるほど……そういうことですか」

「犠牲の迷宮、だって……?」

 その言葉の不穏な響きに何か嫌な予感を覚えたアセルスは、急に黙り込んでしまった白薔薇姫を心配そうに見つめた。

「……白薔薇? 大丈夫?」

「……ええ。大丈夫です。アセルス様……」

 いつものように微笑んで見せた白薔薇姫は、迷うことなく剣を抜いてアセルスの腹を貫いた。

「え……しろ、ばら……?」

 力なく膝を落として呆然とアセルスは呟く。腹腔からじわじわと血が溢れ、衣服を紅に染めていく。

「あっ…ああ! だから言わんこっちゃない!」

 ひどく怯えた様子で叫び声を上げた赤カブは「えらいこっちゃ」と囁いて逃げ出していき、遠くの扉の陰からおそるおそるこちらの様子を探っているようだったが、そんなことにはまるで気づかずアセルスは目の前に立つ白薔薇姫の表情に心を奪われていた。白薔薇姫はそれまでと何一つ変わらない笑顔のままでいる。何一つ変わらないその顔で彼女は言う。アセルス様。私はこの迷宮から出ることにします。

「白薔薇……」

「仕方がないですよね。そうしなければ出られないのですもの。貴方を“犠牲”にしなければ……」

 ……この(ひと)は何を言っているのだろう。激痛に意識は乱れ、考えがうまくまとまらない。この(ひと)はいったい誰だ? 私はいったい──何を忘れた。自分は彼女のこんんな顔をはたしてどこかで見たのではなかったか……?

「貴方との旅は楽しかったです。アセルス様。そのことに嘘はありません。でも、もう──私は針の城に帰らなくては。オルロワージュ様も随分お怒りのようですし」

「駄目……だよ……白薔薇……。あんな所にいちゃ、いけないよ……。あなたは自由なんだ……あなたは、普通の、優しい女の人なんだ……」

 うわ言のように呟かれた言葉に白薔薇は苦笑する。

「さぁ……どうでしょう。普通の女性はこんなことするかしら……? そんなことより、ご自分の心配をなさるべきではないですか?」

 白薔薇姫は手にもった剣を粗雑に捻りあげ、アセルスは青白い顔に脂汗を浮かべる。

「う……や、やめて……」

「いいえ、やめません」

「どうして……」

「お忘れですか? 私は寵姫。オルロワージュ様の女、あの方のものなのです。旅を終えれば家に帰らなければ」

「違うよ、白薔薇……。あなたはものなんかじゃない……。あなたは、あなたたちはあの城に閉じ込められていたんじゃないか……」

「そう思っていたのはあなただけです。私はオルロワージュ様に命じられたあなたのお目付け役。私は……旅の間、無知なあなたが右往左往するのを面白がっていただけです」

「そ、ん、な……」

「もう旅はおしまいです。アセルス様。あなたとの旅は楽しかった。ありがとうございます」

「いや……待って……白薔薇……白薔薇……!」

「まだ、何か……?」

「あのひとを……愛しているの……?」

「何を言うのかと思えば……」

 白薔薇姫はとうとう残酷な嘲笑を浮かべてアセルスを鼻で笑った。

「ええ、愛していますわ。アセルス様。あなたのことも。……でもアセルス様。たとえ愛玩動物(ペット)にどれだけ好かれても、抱かれたいとは思えません」

「……白、薔薇……」

 呟いて、アセルスは弱々しく瞼を閉じ、そして──幽かな微笑みを浮かべる。

「なぜ──笑うのですか。アセルス様」

「さ、あ……どうしてだろう……ね……? 結局、私はあなたのことが何もわかっていなかったんだと思ったら、なんだか馬鹿馬鹿しくなったよ……ごめん、白薔薇、あなたのことをわかってあげられなくて……」

「……」

「あなたが本当にそうしたいのなら、心からそれを望むのなら……ああ、私は、それでいい……。きっと、“辺境”だなんて、あるかどうかもわからない場所を目指している私なんかより、帰りたい場所を持っているあなたの方がずっと……正しい……。私にはもう、守るべきものもない……。ここに、残るよ……」

 弱々しく呟くアセルスに白薔薇姫はしばらく黙り込んでいたが、やはり表情だけは変えないまま、どうでも良さそうに吐き捨てる。

 

「──つまらない女……」

 

「え……?」

 白薔薇姫は顔を上げ、透徹した瞳でアセルスを見据える。

「……随分と、つまらないことを言うのですね、アセルス様。貴方はいつもそう。針の城を出ていく前、貴方はこう言っていましたね? 与えられるばかりだ、助けられるばかりだ、と。でも、それの何がいけないのですか? 貴方はいつも自分が与える側であろうとする。きっとそちらの方がずっと楽なのですね、貴方には。誰かに救われて生きるよりも、施しを与える側に立って生きる方がずっと。……それは結局、自分に自信が持てない子供の論理。それは与えられることを受け入れられない者が縋りつく“正義”だとか“気高さ”だとかいうお題目なのです。私はあなたの愚かさを愛しています。でも、貴方の感傷に巻き込まれたくはありません」

「子供の論理……か……」

 泣き出す寸前の子供のように顔を歪めてアセルスは苦し気に言葉を漏らす。

「いつか大人になれるものと思ってた。旅をすれば、たった一人で生きられるようになれば大人になれる筈だと」

「あんなものは、アセルス様、旅ではありません」白薔薇姫はきっぱりと答えた。「困っていれば誰かが手を差し伸べてくれる。わからないことがあれば誰かが答えを教えてくれる。──そんなものは畢竟、旅などではないのです。旅をするのであればあなたは一人であらねばならなかった。私の助力を求めた時点であなたは既に堕落していたのです」

「だけど……でも……!」

 厳しい言葉にアセルスは唇を噛みしめる。それは、白薔薇姫と出会ってから初めて味わう彼女への怒り、芽生えたばかりの儚い反抗心だった。

「じゃあ、私はいったいどうすれば良かったの。針の城でオルロワージュに守られ、ぬくぬくと暮らしていれば良かった? あなたたち大人はいつでもそうだ。与えるだけ与えておいて、いつか自分勝手に興味を失って私を捨てていく。……それなら、私は、何もいらない! 私は何も与えられたくなんかないんだ! 私ははやく、大人になりたい……。大人になって、与える側になって、そして、そして……絶対に捨てたりなんかしない……! 忘れたりなんかしない……!」

「世界を“大人”と“子供”の二極に分けて単純化してしまえるから、あなたはいつまでも子供なのです、アセルス様。あなたがあまりにも幼く愚かなことと、あなたの両親があなたを捨てたこととはまるで別のことです」

「違う。親のことなんか関係ない。私はただ……!」

「すぐ傍であなたを眺めているのはとても楽しいものでした。……でもそれは、あなたが常に前を向いていたからです。たとえそれが間違っていても、青春に無知が加担した見当違いの行動であったとしても。……ですがアセルス様、誰かを救うことと、命を投げ出すことはやはり同じではありません。たとえ私に裏切られたとしても、あなたは剣を抜いて闘うべきだった。……私が見たかったのは、きっとあなたのそんな姿だったのかもしれません。あなたが生きることを諦めてこの迷宮に残るというのなら、もはやあなたに物語としての価値はない」

「なら、どうすれば良かったの!? あなたを残して、ただ一人この迷宮から抜け出せというの?」

「ええ、そうです」白薔薇姫は淡々と頷く。物わかりの悪い生徒に興味を失っていく教師のように、投げやりな態度で。「あのオルロワージュでさえ生きることを投げ出そうとはしていない。時の流れにすべてを失ってなお、惨めに生にしがみつく……。生きてさえいれば、失った筈の何かを取り戻せると信じている……。だから、私は針の城へ帰らなければ。あの場所に戻り、妖魔の王が辿り着くその先を見守らねばならないのです。……耳元で囁いてあげなければ、貴方の愛した半妖が生きることを放棄したと。時の流れの濁流に、またひとり乙女が飲み込まれて消えたと」

「あなたは」言いかけてアセルスは白薔薇姫のどこかうっとりとした顔に言葉を失う。「あなたは、いったい何なんだ……。愛しているといって……。オルロワージュを、あのひとをそんな目で見ているの?」

「あなたに何がわかるのですか? あの方を捨てて針の城から逃げ出したあなたに。あの方は、あなたに傍にいてほしいと願ったのではありませんでしたか?」

「私は……あの人を裏切りたかったわけじゃない。でもあのままではいられなかった。あのひとの傍で守られていたところで、何も変えられないだろうことは分かり切っていたから。……だから、私は旅に出たんだ。たとえそれが間違ったことでも。世界を巡って、生きる場所を探して……そして、強くなって、いつかあのひとの言葉に応えるために。……そうだ。私は欲しかったんだ。あのひとを救うことができる力が!」

「オルロワージュを、救う……?」

 珍しく戸惑ったように言葉を反芻して──白薔薇姫はくすりと声を漏らした。

「ひとというのは、本当に、よくよく傲慢な生き物ですね……」」

「え……?」

「一体どこの誰があなたに助けてくれと頼んだのですか? 妖魔の君オルロワージュが? いいえ、あの方はそんなことを口にしたりはしません。それが出来ないからオルロワージュは闘っているのだもの。千年万年と時を超え、“時間”と格闘し続けているのだもの……。……やはり、あなたをここから行かせるわけにはいきません。あなたの無責任な哀れみがやがてオルロワージュの孤独を救うものだとしても、──そんな物語を私は見たくありません。苦しんでいるもののところへ行って、お前は不幸だと囁きかけて……それであなたは、そんな弱者をご立派にも救ってみせる気でいるのですか。今までの苦しみや悲しみを何もかも無かったことにして……?」

「違う……私は、そんなつもりじゃ」

「……私は、誰かが苦しんでいるのが好き、悲しんでいるのが好き。間近で愚か者を眺めているのが好きです。そして何よりも私が愛しているのは、苦しむ者が苦しみ続け、悲しむ者が悲しみ続けること」

「そんな、……そんなのはおかしいよ!」

「そうかもしれません。でもこれはもう私の性分ですから、変えようのない事なのです。アセルス様。苦しんでいる者が救われ薔薇色に頬を染めるとき、私は失われた苦しみを考えます。悲しんでいるものが救われた時、抱いていた悲しみは忘れられてしまう。そんなのは嫌です。……正直に告白いたします、アセルス様。たかだか四半世紀も生きてはいない小娘があの男を救うなどという茶番を私は望みません」

 アセルスは道に迷った子供のように心細く俯き、小さく呟いた。

「それなら、あなたはどんな物語を望むの……?」

「私が望むのは」白薔薇姫は僅かに考え、そしてゆっくりと答える。「苦しみがいつまでも苦しみであり続けること。悲しみがいつまでも悲しみであり続けること。それが……私の望む永遠です」

「永遠……」

 途方に暮れたように囁いて、アセルスは唇を噛みしめる。

「そうやって……あなたはいつまでも語り部として……物語の外側から眺めているだけなのか……。何も変わらない、変えることのない物語を遠目に見ているだけで、あなたは満足なの……?」

「物語というのは元々、そういうものでしょう。作者によって紡がれた物語を語り部は静かに読み上げるだけ」

「違うよ」アセルスは乾いた声で首を振る。「物語は本の中にあるんじゃない。作者だけが物語の全てじゃない。物語は誰かが読んで初めて生まれるものじゃないか」

「私たちはいったい何の話をしているのでしょう? いま、この状況にその話が関係ありますか? 益体もない言葉遊びは終わりにしましょう」

「あるさ。私はあなたの話をしているんだ。白薔薇。あなたは誰かを好きになったんだ。それなのにあなたは、そうしてその誰かが不幸になっていくのを傍観していただけじゃないか。……バッド・エンドがあなたの好み? そんなのは、馬鹿げているね! 物語は、語り部たるあなたの中で生まれるものだ。だとしたら、彼ら彼女らを愚かに仕立て上げているのはあなた自身じゃないか! あなたが嘲笑っている物語と言うのは、つまるところはあなた自身のもの。あなたは自分を馬鹿にして悦に浸っているんだ!」

「……仮に」そこで初めて、白薔薇姫は僅かな逡巡を見せた。「仮にそうだとして、それがあなたに関係ありますか? それはただ、私がそういう妖魔だというだけのこと。私は私の趣味嗜好──私の性分に従うよりほかにないではありませんか? 私は私のしたいように生きて、そしていつか滅びます。たったそれだけのこと」

「そんなのは、嫌だ……。私はあなたと……」

「草むらに名も知れず咲いている花ならただ風を受けてそよいでいればいい。……けれど、お忘れですか? 私は妖魔、白薔薇。全ての妖魔は薔薇の定めの中に生まれた生物です。凡百の花とは違う。どこまでも自らを誇り、そしてあまりにも強烈な自我に殉じて生きていくのが妖魔の性。薔薇の螺旋は渦の激情。何の哀れみも求めることなく、薔薇は気高く咲いて散っていく。あなた如きが口を挟む問題ではありません」

「でも、その花に名前を与えてくれたのはあなたじゃないか。……風知草。初めて出会ったあの時に、雑草だと思っていたものの名前を教えてくれた。風知草はただ風に流されているわけじゃない。どんな風にも耐えたから、あの場所に咲いていたんだ」

「だから? もう言葉遊びはおしまいにしませんか? どのみち、この迷宮に残されていくあなたには何もできないのですから。……それとも、やはり私を倒しますか? 剣を抜き、己の道を通すべく闘いますか?」

「……そんなことは、できない。だって私はあなたが……」

「剣を抜かないというのなら、あなたはここでお仕舞い。……あなたの言う通り、私は鏡写しにあなたの中に私を見ているのかもしれない。……けれども結局、あなたはこの闇の迷宮に永久に囚われたまま一生を終えるのです。愚か者はいつまでも愚かで、無力なまま。あらゆる物語はいつかバッドエンドを迎えるようにできている。だって生き物はいつか必ず死ぬのだから。たとえ妖魔と言えども例外ではありません」

「……」

 黙り込んでしまったアセルスを見下ろし、白薔薇姫は今度こそため息をつく。

「さようなら、アセルス様」

 別れの言葉を告げて踵を返した白薔薇姫の背後に、しかし響き渡るのは獣の唸りにも似た怒りの声だった。振り返れば、腹の傷を抑えて蹲ったアセルスがこちらを見上げている。

 強い目をしていた。

 それはかつてラムダ基地で妖魔と化したアセルスが見せた眼光であり、紅を失ったアセルスが瞳に浮かべた眩い程の光だった。苛烈にして壮絶な意思の焔。激情の炎を浮かべた支配者の眼。 

 その姿を見つめる白薔薇姫はほんのつかのま痛みを堪えるように目を細め、首に刻まれた傷を押さえる。

 違う、とアセルスは言った。

「私には、あなたを倒すなんてことはできない。……でも、たとえ今の私が無力でも、いつか必ずここから抜け出して見せる。……何が、“犠牲”の迷宮だ。自由を手にするために、大切なものを失わなければならないなんて、そんな馬鹿な話があるものか!」

「……どれほど納得がいかないことであっても、仕方のないことがこの世にはいくらでもあるものです」

「……いいや、嫌だね。そんな理屈には頷けない。……そうさ、初めから理屈や常識なんてどうでもいいことだったんだ。そんなものに従うために、私は旅に出たんじゃない。親のことだって関係ない。結局は私の心の……私自身かどうしたいのかって、ただそれだけのことなんだ。正義だとか悪だとか、オルロワージュを救う資格が私にあるのかどうかなんてことは、白薔薇……! 私の知ったことじゃあないんだよ……! 苦しんでいる人を見れば苛々する……。悲しんでいる人を見れば、笑っていてほしくなる……。それだけのことだ。私はそういう生き物で、そうしたいだけなんだ……。白薔薇……! それが私の“性分”だ……! どいつもこいつも幸せになりやがれって、私はそう願う。私はこの迷宮を出ていくし、オルロワージュのことだって救ってみせる!」

「言葉だけなら何とでも言えましょう」

「あなたのこともだ、白薔薇姫!」

「私を……ですか? あなたはこの私を救うと仰るのですか? どうやって? 私は救われたいとさえ望んでいないのですよ。なぜと言って、私は既に満たされているからです。救済を求めるのは自らを不幸だと感じている者のすることでしょう」

「そんなことはない。救われたいとさえ思うことのできない孤独を、心の底からの笑顔で微笑むことを知らない寂しさをこそ、私は変えたいんだ。紅は……オルロワージュが悪いわけじゃない、と言っていた。自分が忘れ去られてしまったのは自分に魅力がないのが悪かったんだと。……でも、そうじゃない。誰が悪いとか、悪が倒されればそれで済むだとか、そんなことは問題じゃあないんだ。私はただ、彼女に笑っていて欲しかっただけなんだ……!」

「私は紅姫とは違います。アセルス様。あの女の弱さを、私は軽蔑します。誰かに寄り掛かることでしか生きられない、そんな生き方をあの女は選んだ。滅ぶのは当然です」

「そんな言い方をするな。彼女は私たちを守ってくれたんじゃないか」

「本当にそうでしょうか? セアトの剣からあなたを庇う振りをして……その実、腹の底でほくそ笑んでいたのではないですか? 生きている理由だとか、生きた価値だとか……そんなお題目に縋りついて、紅姫は拙い自慰行為の果てに滅んでいったのでは?」

「白薔薇!」

「あなたの幼さが、愚かしさが、オルロワージュを傷つけ、紅姫を滅ぼした。……それだけではありません。黒騎士セアトは敗れ、イルドゥンは離反した。針の城の秩序が恐ろしい程の速度で崩れ去っていったのは誰のせいなのか、まだお分かりにならないのですか?」

「それは……」

「私はあなたを責めているのではありません。……それでも私は、やはりこう言わなくてはなりません。幾重もの言葉を弄して声高に理想を叫ぶよりも……たったひと振りの剣をかざして戦い抜くことの方が、ずっと純粋で美しいことだとは思いませんか?」

「できない、そんなことは……」

「剣を抜きなさい。アセルス」

 裁きを下す王の如き冷徹さで白薔薇姫は告げた。

「その剣で“支配”を象るのです。……あなたにはもう理解できている筈です。あなたの知っている白薔薇と言う女は幻の産物。語り部たる私は物語そのもの。物語とは嘘の謂い。そして嘘とは……不実であり、放埓であり、邪悪であることの符牒。……あなたは裏切られたのです。あなたはもう、知っている筈ですよ。ラムダ基地で妖魔化した時、あなたは自らが正義であることの快楽を経験している。誰にも非難されることのない絶対的な正義を掲げて全能を振るうことの心地よさ……あの途方もない官能を」

「できないよ、白薔薇」アセルスは声を震わせて首を振る。「できない……そんなことはできないよ……!」

「まだ、わからないのですか。あなたは騙されていたのです。私が優しいと感じていたのは、それはただの勘違いというものです」

白薔薇姫は淡々と囁く。優しいその声は、しかしどこか相手を糾弾するように硬い響きもまた備えているのだった。

「違う……違うよ、白薔薇」

 押し殺した声でアセルスは呻いた。悲し気に頬を濡らし、しかしけして目を逸らすことなく白薔薇姫を見据えて。

「勘違いしているのはあなたの方だ。私があなたと一緒にいたのは……旅をしたいと思ったのは……あなたが正しいからでも、優しいからでもない。そんなものに理由なんかないんだ。けして言葉にはならないものが、この世にはある。理屈なんかない。論理的な帰結も納得のいく説明もありはしない。ただ私は、私はあなたのことが……!」

 腹の底で膨れ上がる衝動を持て余すようにしてアセルスは声を上ずらせた。目に涙を浮かべながら、しかし挑むように白薔薇姫を見つめる。

 その瞳は幾千幾億を魅了する妖魔のものではなかったし、己の権利を震えながら口にするだけの弱々しい人種族のものでもなかった。揺れ動き、煩悶を繰り返しながら──それでも中庸を求めるそれは半妖の瞳だった。

アセルスを見つめる白薔薇姫の表情に少しずつ理解の色が広がるにつれ、彼女はどこか困ったように微笑み、それから「わかった」とでも言うように静かに頷いた。

「そう……。あなたが言っていたのは、つまりこういうことだったのですね。愚かで、しかし純粋な者が苦しんでいるのが好きだと言いながら……その者から純粋さを奪っているのは結局のところこの私……そう、そういう……こと……」

 独り言を呟くようにぶつぶつと口を動かして、白薔薇姫は俯く。

「白薔薇?」

「馬鹿な女」

 吐き捨てるようにして白薔薇姫はせせら笑い、その声の冷たさにアセルスはびくりと震えた。

「家畜に恋はしない。そんなことは当たり前のことでしょう、アセルス。身の程を知らない女が口にする睦言というのは滑稽だわ」

「……」

 残酷な言葉に耐えるようにしてアセルスは歯を食いしばる。そんなアセルスを白薔薇は弄ぶように眺めまわし、唇の端を上げた。

「ねぇ、愛しているわ、アセルス。私はあなたを愛してる。あなたが望むなら、いくらでもそんな言葉をくれてあげる。……やはりあなたは、私が思っていたように愚かで、そしてどこまでも純粋にできている。愛しているわ、アセルス。あなたみたいに愚かなモノを、きっと私は愛してる」

「し、白薔薇……」

「私は……とても良いことを思いついたの」

 そう言うと白薔薇姫はアセルスの腹から剣を乱暴に引き抜き、今度は左足の先を切り落とした。ああ、と痛みに呻いたアセルスが脂汗を流しながら顔を上げると、白薔薇姫が冷酷な瞳で見下ろしている。

「立ちなさい」

 静かに告げられたその言葉に、アセルスは半ば魅了されたようにふらふらと頭を揺らし、ぐ、と痛みを堪えながら立ち上がりかける。

「白、薔薇……なにを……」

 答えず、白薔薇姫はアセルスの脇腹を斬りつける。血と臓物を零れ落としながらアセルスは倒れ込んだ。見る見るうちに傷は回復していくが、しかし癒えるよりも早く白薔薇姫は命令を繰り返す。

「立ちなさい」

 全身を痙攣させながらアセルスはふらふらと立ち上がる。あなたは結局、私の口づけが欲しいのですか? 白薔薇姫は言った。違う! 激しい拒絶を見せてアセルスがきっと顔を上げる……。白薔薇姫は構うことなく剣を振るい、アセルスの左腕を切り落とす。再び倒れたアセルスに白薔薇姫は言う。立ちなさい。

「私に抱かれたいのですか、アセルス様? それとも私を抱きたいのですか?」

 小馬鹿にしたように顔を歪めた白薔薇姫に、苦痛に顔をひきつらせたアセルスは首を振る。

「違う! 違う!」

「……何も違わないわ、アセルス」

 白薔薇姫の剣がアセルスを切り刻み、その度に残酷な命令が告げられる。立ちなさい、アセルス。

 それはあまりにも永い夜だった。幾度となく白薔薇姫に切り裂かれ、そしてそのたびに立つことを強要されて──とうとう意識は朦朧とし、立ち上がることさえできなくなって、アセルスは力なく項垂れる。両手両足を無くし、腹につきこまれた剣が内臓を無遠慮にかき回していく。血の気の失せたアセルスの顔を面白そうに覗き込んで白薔薇姫はくすりと笑う。

「あなたは本当に愚かですね、アセルス様。……でも、私はこんな風にも思うのです。闇の迷宮にあなたが残り、私を助けるために犠牲になるだなんて……そんな下らない自己満足に浸られるのもどうにも癪に障ります。……だから、ねぇ、アセルス様。やはりこの迷宮には私が残ることにいたします。あなたは私を犠牲にして自由になり、そして、一生、苦しみ続ければいいのです。……ぞう、その方がきっと面白い。正義を振りかざしたあなたがいつか妖魔の君と対峙し、あの男の苦しみの何もかもを救済して見せるというのなら、あるいはそれこそが私の望む悲劇なのかもしれないのだから」

 とうとう動かなくなったアセルスの首を掴み上げ、乱暴に次の扉へと投げつけると、白薔薇姫は優しく赤カブを呼びつけた。おそるおそるやってきた赤カブは怯えた様子で白薔薇姫を伺っている。

「赤カブさん」

「……は、はいっ!」

「結論がでました。迷宮には私が残ります。彼女を出口まで連れて行っていただけますか?」

「はい。あの……そのう、よ、よろしいんでしょうか……?」

「ええ。構いません。これでいいのです」

 そう言うと白薔薇姫は晴れ晴れとした微笑みを浮かべた。その屈託のない笑顔に赤カブはつかのま陶然となり、慌ててぶるぶると頭を振った。

「何が、なんだか……さっぱりわからない……。でも、これでいいんだね? あんたはとっても怖いお姫さんだけど……でも、ここの残るのはあんたなんだね?」

「ええ」

「そうか……」

 赤カブは不思議そうに白薔薇姫を眺める。

「動機が何であれ、あんたはここに残ることを選んだ……。それがあんたの選択なんだ……。そうか、そういう……」

 白薔薇姫とアセルスを交互に見つめて、赤カブは感慨深げにため息をつく。

「……じゃあ、オイラは行くよ」

「ええ。お元気で」

 小さく手を振る白薔薇姫にぺこりと頭を下げて、赤カブは重たそうにアセルスの体を引きずっていく。

「ねえ、白薔薇姫さん。あんたは……」

 背中越しに声をかけると、白薔薇姫は穏やかな声で「何か?」と答えた。穏やかでいながらしかし感情のこもらない声に、「いや……なんでもない」とたじろいで、赤カブはついに闇の迷宮を後にする。

 

 

 ◇

 

 

迷宮から抜け出した赤カブは意識を失ったままのアセルスを背負い、ひいひいと荒い息をつきながら意識を失ったままのアセルスに語りかける。

「目を覚ましておくれよ。お前さんはそろそろ起きなきゃあならない。だってそうだろう? お姫さんはあの迷宮に残ったんだ。……それがどんなに邪悪な思惑を秘めたものだとしてもね。お前さんは自由になったんだよ、アセルス。笑うこともできる。お姫さんを憎むことだってできるんだ。なら、やっぱり目を覚まさなきゃな。どんなに嫌だとしてもさ」

 長い長い夜が明けて太陽の淡い光が地平線の彼方に滲み、青白い空がうすら寒く風に靡いていく。涙に腫れた頬を冷たい風が撫で、アセルスは僅かに呻いて身じろぎをする。

「ここは……?」

 掠れた声で囁くアセルスの全身は血に染まり、いまもなお流血を続けている。執拗に傷つけられた傷口は容易に回復することなく、じくじくと鈍い痛みを残してアセルスを苛む。疲労と混乱に瞼を痙攣させてアセルスはあたりを見回すと、肩を震わせて赤カブに問うた。

「白薔薇は……?」

「白薔薇姫さんが迷宮に残ったからオイラが外に出られた。姫さんとオイラの立場が入れ替わった。だから、代わりにお前さんの傍にいるよ。オイラ達は自由になれたんだ。ここは闇の迷宮の外だよ」

「そ……」

 何を言おうとしたのだろう。アセルスは短く言いかけたきり口を噤んで黙り込む。赤カブの無神経な言葉にあるいは激高しかけたのかもしれない。あるいは自らに振りかかったことを思い出して言葉を失ったのかもしれない。いずれにしても当初アセルスは感情を抑え込み、腹の底から膨れ上がる感情に堪えようとした。大人にならなければ。強くならなければ。そう知っていながら──しかし、彼女は未だそうはなれないのだった。

「しろ……ばら……」

 その名前を呼べば耐えきれないものと知っていてアセルスはなおも襲い来る喪失感にその名を呼ぶ。

「白薔薇……白薔薇ぁ……!」

 初めて味わう裏切りや信じる者との決別に千々に心を乱して、アセルスは子供のように泣き叫んだ。

 夜が明け、訪れた寒々しい朝に乙女の慟哭が響き渡る。それは自らの半身を奪われたかのような嘆き声であり、聞く者の心を否応なく疼かせる悲しみの発露だった。

 

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