やあ、全国の赤カブファンのみんな! とうとうお待ちかねの出番がやってきた。ようやくお会いすることができてオイラも嬉しいよ。
オイラに会いたくて会いたくてたまらなかったろう?
“早く赤カブ様が現れないかしら”“赤カブ様の登場しない幕なんて戯曲の価値がないわ!” そんなご婦人方の有難~い呟きを聞いて、オイラもハンケチを噛みしめながら今か今かと出番を待ち望んでいたよ。お待たせ!
さあ颯爽と道化師赤カブ様の登場だ。この物語の中でも群を抜いて
…………。
んん? なんだかアンタは変な顔をしているね? 納得のいかない顔? 苦笑いかな? ……そう、“こいつは何を言っているんだ?”って、そんな顔だよ。オイラのはしゃぎっぷりがそんなにおかしいかい? 赤カブが人気者だなんて、そんなことあるわけがないって思うかい?
うん! そうだね! オイラもそう思うよ!
オイラはそこまで馬鹿じゃない。オイラはみんなに嫌われている。邪魔者だって思われてる。そのくらいはわかっているさ。
正直に言うよ。オイラには何の力もない。気の利いたことも言えないし闘う力だってありはしない。だけどもそれでもオイラは言うのさ。オイラはオイラを愛しているよ。どうしてかって? だってオイラは闇の迷宮にいたもの。妖魔の君オルロワージュ様の造り出した迷宮に囚われ、長い長い時を一人ぼっちで過ごしていたんだもの。その意味がアンタにだってわかるだろう? うん? 闇の迷宮に残されたということはさ! ……ふふふ、オイラはニヤニヤと堪え切れない笑みを浮かべて言おう。闇の迷宮に残されたということはさ! オイラは誰かの大切な存在だったってことなんだ!
闇の迷宮は犠牲の迷宮。自分にとって最も大切な存在を置き去りにしなければ抜け出すことはできない。だからオイラは絶望なんてしないのさ。……ああ、そうだね。確かにオイラは捨てられたのかもしれない。オイラを大切に思っていた奴はオイラを置き去りにして迷宮から抜け出したわけだからね。お前馬鹿なんじゃないのって言われるかもしれない。でも構やしない。たとえそうだとしてもへっちやらさ。だってオイラは必要とされていた。誰かにとって大切な存在だった。その誰かはオイラのおかげで自由になって、きっとどこかで幸せになっているに違いない。それでいいじゃないか。
オイラの記憶には欠けた所があってどうにもはっきりとしない。なぜ闇の迷宮にいたのかも、その前に誰とどこにいたのかもわからない。……気がついた時には闇の迷宮の中に居て、やたらめったら時を刻む時計たちに囲まれてかちこちぼおんとぼんやりしていた。ここが闇の迷宮だということなぜだかすぐに分かったけれど、自分が赤カブだということ以外には何も分からなかった。永遠に時を数え続ける無数の時計に囲まれて、あまりにもやることがないものだからオイラはあてもなく空想にばかり耽っていた。
オイラのことを大切に思ってくれていた奴はどんな奴だったのかなぁ。男かな、女かな。美しい姫様なんかだと嬉しいな。……ううん、もしかしたら恋人だったのかもしれないぞ。オイラと彼女であてもなく恋の逃避行に出て、うふふ、オイラがこの身を捧げて逃がしてあげたんだとしたら素敵だな。……そうでなかったら、すんごい有名な戦士さんかもしれないぞ。オイラは信頼された相棒で、うっかり妖魔に捕まってしまった相棒を助けるためにこの迷宮に残ったのかもしれない。
うーん。実際どうなんだろう。あんまり高望みしすぎるのもおかしいかな。どんなやつだっていいよ。オイラを大切に思っていてくれた奴なら、とにかく今は幸せになっていてほしい。
どんな奴かな……。男かな、女かな……。人か、妖魔か……それとも、それとも……。
そうこうして来る日も来る日も時を過ごしていると、やがてアセルスと白薔薇姫がやってきた。それから色々あったけれども結局迷宮には白薔薇姫が残ることになり、アセルスとオイラは自由になった。
アセルスは泣いていたよ。白薔薇姫のことが好きだったんだね。白薔薇、白薔薇、と何度も叫んで、子供のように感情を露わにする。
素晴らしいな、とオイラは思ったよ。いや、別に変な意味じゃない。誰かを大切に思うっていうそんな感情がこの世には本当にあるんだって、そう思えたことが嬉しかったんだ。
アセルスは泣いていた。それは大切な誰かのために流す涙なんだ。オイラを失った人もきっとこうやって泣いてくれたに違いない。それはなんて尊いことだろう。
「白薔薇姫さんが迷宮に残ったからオイラが外に出られた。姫さんとオイラの立場が入れ替わった。だから、代わりにお前さんの傍にいるよ」
慰めるつもりでそう言うと、アセルスは一瞬きょとんとして、それから俯いて強く唇を噛みとめた。彼女の頬を冷たい涙が伝っていった。彼女は何も言わなかったけれど言いたいことはだいたいわかった。
代わりなんていない。大切なひとの代わりなんて誰にもできない。
自分以外の誰かを強く想うこと。時には自分よりも世界よりも大事に感じること。その感情の名前をオイラは知らないけれど、でも、そういう気持ちのことを心の底から美しいと思う。
ようやく迷宮から脱出することができてオイラはちょっと考える。これからどうしよう。折角自由になれたんだから、世界中を旅してまわるのはどうだろう。オイラのことを大切に思っていた奴を探し出して、「やあ、久しぶり」と言って……別に恨んでなんかいないよ、せっかく再会できたんだ、また仲良くやろうじゃないかなんて言ったりして……静かに暮らしていくのも悪くはない、そんな気がしたよ。
でも泣いているアセルスを眺めている内に不思議な感情が沸き起こってきた。心を任せるにはなかなか悪くない感情だった。“代わりに”とオイラは言った。オイラは自由になり、白薔薇姫は迷宮に囚われてしまった。代わりに、とはどういう意味だろう? オイラにだって、白薔薇姫の代わりになれないことくらいはわかる。でもオイラは代わりにと言ったんだ。だから……、
だからオイラは、この身に代えてでもアセルスを救ってやらなきゃと思ったんだ。白薔薇姫ならきっとそうするさ。
うちひしがれたアセルスを置いていくのは心残りだったけれどいくら優しい言葉をかけたって彼女を救うことはできない。だからオイラは考えた。考えに考えてまるで良い考えが浮かばなかったもんだから仕方なくドゥヴァンへ行くことにした。笑っておくれよ。これでもオイラは必死だったんだ。
ドゥヴァンで占いを試すとロクな結果が出なかった。手相占いはそもそも手がないって怒られたし植物占いは青紫の芳香スミレの香りって言われたけどなんのこっちゃだった。占いを諦めたオイラはこうなれば仕方ない神頼みだと神社でおみくじを引いた。書かれていた文句は“探し人は滅びの中にあり”だった。だけどオイラは誰かを探しているわけじゃない。アセルスを助けたいだけなんだ。
「困ったなぁ」オイラは弱り果てて大いに嘆いたよ。「どうすればいいんだろう」
地面を見下ろして鬱々としていると、鳥居にもたれてあくびをしていた巫女さんが声をかけてくる。
「これ、もんすたあ。ここは神聖な場所ぞ。お前のような邪悪が居て良い所ではない。とく立ち去れ」
「そんな冷たいことを言わないでおくれよ。オイラ悪いモンスターじゃないよ」
そう言って巫女さんに振りむくと、驚いた、その巫女さんときたらとんでもない美人なんだ!
「み、み、巫女さん……。あんた、すこぶるつきの別嬪さんだねぇ。オイラは感心したよ」
「もんすたあに好かれても嬉しゅうない」
「まあそりゃそうだろうけどさ! でも巫女さん。ここは神さまのいるところで、あんたは巫女さんなんだろう? だったらオイラの悩みを聞いておくれよ!」
「よっく考えてみるのじゃな植物。仮に神がいたとして生き物の願いをやたらに叶える理由がどこにある。ましておぬしのようなもんすたあの信仰を求むる神など居る筈もなかろう」
「理由なんて知らないよ! 神さまがいるかどうかだってわからない! オイラはただ、自分にできることならなんでもやろうとしているだけさ! 無駄かどうかなんていちいち考えてられやしないのさ! 願いは口に出すためにある! 思いは叫ぶためにある!」
「ふむ」
巫女さんはすっと目を細めた。そうすると急に巫女さんが年を取ったような──なんだかひどく老成した女性のように見えてきた。
「では言うて見よ、化け物。おぬしの望みとは何ぞや」
「アセルスを救うことさ!」
オイラは大きな声で言った。
「あせるす……知らんな」
どうでも良さそうに答えた巫女さんにオイラは慌てて付け加える。
「アセルスっていうのは妖魔の君オルロワージュ様の血を享けた半妖のことだよ。アセルスはオルロワージュ様の元を逃げ出して白薔薇姫と一緒に旅をしていたんだけど、白薔薇姫は捕まってアセルスは悲しいんだ。だから、オイラはアセルスを助けるのさ!」
「オルロワージュ……」
その言葉を呟くと、巫女さんの顔は一瞬泣きだしそうになった。
「そうか……」
とても遠い眼をして巫女さんはため息をつく。
「おぬし、名はなんという」
「オイラは赤カブ!」
「では聞こう、赤かぶよ。おぬしとあせるすはどのような関係なのじゃ」
「んーと」オイラは首を傾げる。「あれ……? ほぼ他人かな」
「では、なぜ他人であるあせるすを救う」
「オイラがそうしたいからだよ」
「なぜ、そうしたいのじゃ?」
「それはオイラにもよくわからないんだ。理由がなきゃ駄目かい? アセルスは涙を流していたんだ。それは大切な誰かのために流す涙だったんだよ!」
「…………」
巫女さんは曇りのない眼でオイラの顔をしばらくじっと見ていた。巫女さんみたいに綺麗な人に見つめられるのは初めてのことだったからどんな顔をしていいのかわからなくてオイラが身をよじったりしかめっつらをしたりして困っていると、やがて彼女は「うむ」と頷いて東の方角を指差した。白魚のような指先で示された方角は途端に神秘に満ちて、なんだかオイラには光り輝いているようにさえ見えてくる。
巫女さんはまるで宣託でも下すような口ぶりでオイラに言った。
赤かぶよ。残念ながら妾には直接おぬしをどうこうすることはできんのじゃ。
しかし因果は結ばれた。運命とでも呼ぶべきものが今ここにはある。
おぬしの言うことがまことであるのなら、物語の鍵を握るのはやはりあやつということになる。ならば導くことくらいは妾にもできるかもしれぬ。
おぬしは言うたな。願いは口に出すためにある、思いは叫ぶためにあると。ならばその言葉、見事貫き通してみせよ。
よいか、赤かぶよ。必要なのは“時”を語ることじゃ。七日七晩道なき道を行き、語るべき言葉を口にすることができたなら──あるいは出会うべき者に出会えるかもしれん。
そう言って巫女さんは胸元から小刀を取り出すと、小指の先を僅かに切った。滲みだした鮮やかな青の血液──そうか、巫女さんは妖魔だったんだ──をオイラに擦り付ける。
「祝福あれ」と巫女さんは言った。ちんぷんかんぷんだったけれどオイラはとにかく「ありがとう」とお礼を言い、彼女が指差した方へと歩き出した。
まずオイラはごろんごろんと転がった。巫女さんの示したのは丁度神社へと続く長い長い階段の真横だったから、オイラは雑木林の茂る斜面を転がりながら落ちていく羽目になった。「わああああん!」体のあちこちを地面にぶつけて目を回しながらオイラは痛みに呻いた。トゲや木の枝が体中に刺さってえらいことになった。転げ落ちるのがようやく止まると、痛くて痛くてぽろぽろと涙を流しながらオイラは再び歩き出す。とにかくこの道を行けと巫女さんは言ったんだ。だったら歩かなきゃ。まっすぐに行かなきゃな。
「アセルス! いま助けるぞ! 待っていておくれよ」
勇気を振り絞るためにオイラは叫んだ。自分自身を奮い立たせるために、光の届かない森の中を単独で進む恐怖に委縮してしまわないように。
「アセルス! お前さんがなぜ泣くのかオイラにはわかるような気がするんだ! わかりたいとオイラは思うんだ!」
お腹が減っても、へろへろになってもオイラはとにかく歩き続けた。巫女さんの言ったように七日七晩、精神の擦り減るまでひたすらに歩き続けた。根っこの足を進めるたびにずきりと傷口が痛む。体全体が熱を持って腫れだしているような気がする。気がつかないうちに舌が震えて、歩いているのか気を失っているのか自分でもわからなくなった。それでも歩くのをやめようとは思わなかった。
「ひい、ひい、ふう……」
ぜえぜえと息をしながらオイラはとぼとぼと歩いている。暗い森の中、どこで知らない鳥がくるうくるうと鳴いていた。ああ、ここには光が差さない。オイラは独りぼっちだ。こんな風に、ずっと──。
オイラは声を震わせて叫んだ。
「永遠のような気がしていたよ! 何が何でも終わらないんじゃないかって思っていたのさ! 闇の迷宮の中じゃ、何もかもが停まって見えるんだ! いくら時計があったって、どんなに時を刻んだって、何も変わりようがなければ時間は凍りついてしまう! 変化のない世界は時が停まった世界。それは本当の地獄だ! オイラはそれを知っている! いつも考えていた! オイラが迷宮に囚われている代わりに誰かが自由になれたのなら、それでもいい! でもどんなに強がったって時々は不安になるじゃないか! このまま本当に外に出られなかったら? この時が停まった世界で、死ぬことさえ出来ずに生き続けることになったら? ……ああ、そうだよ。怖くて怖くてたまらなかった。寂しくて、悲しくて、誰かに傍にいて欲しかった……慰めてほしかった……!
オイラはこうして自由になることができた。でも、オイラはあの苦しみを知っているんだ! そうさ! 白薔薇姫さんはまだあの迷宮の中にいるんだろう? あの凍った世界でたった独りぼっちでいるんだろう? ……そうして、彼女を失ったアセルスはやっぱり一人ぼっちで、寂しくて、苦しくて、誰かを失う悲しみにああやって涙を流しているんじゃないか!
永遠の気がしていた! でもそうじゃなかった! オイラは自由になれた! 時は確かに流れていたんだ! オイラはそのことを知っているんだ! そのことを、もう一度証明せにゃならないんだ! アセルス! 白薔薇姫さん! オイラは進むよ!」
そうして足を踏み出した瞬間、オイラは切り株の根っこに蹴躓いて無様に転ぶ。
「あいたた……」
弱々しく呻きながらなんとか身を起こすと、切り株に誰かが腰かけている。見ているだけで吸いこまれそうな漆黒の外套を羽織った男だった。青年と言ってもいいくらいの、若々しくて凛々しい横顔をしていた。男はとても美しい顔立ちをしていて、この前の巫女さんといい随分と綺麗な人にばかり会うなとオイラは少しだけ不思議に思う。
「懐かしい、匂いがする……」
男はぼんやりとあらぬ方をみつめて、懐かしそうに目を細めている。独り言を呟くように、男はそっと口を開いた。
「珍しいこともあったものだ。懐旧に誘われ、星を超えてこのような所へやってきてみれば……名も知らぬモンスターが永遠を叫ぶ……」
「あ、アンタ、どちらさんだい?」
「余の名前か? 今は供の者もいない……独りきりだ。今の余は誰でもない影、名前のない生き物だ。……そなたの名は?」
「オイラ、赤カブってんだ」
「そうか」仰々しく頷いて男はオイラを手招きする。「では赤カブよ。余にそなたの話を聞かせてほしい。そなたは今、永遠の話をしていたのではなかったか?」
「永遠?」
オイラは首を傾げた。
「んーと。ああ、そうか……確かにそんなことを言ったかもしれないね」
「そなたは、永遠をどう思う?」
「永遠ていうのはさ」オイラは考えながらゆっくりと言葉を続ける。「なんだか、良い言葉のような気がするよね。永遠の命とか、永遠に続く思い、とかさ。ずっとずっと続くこと、終わらない、消え去ることのないもの」
「ああ、そうだな」
「でもオイラは最近まで長いこと闇の迷宮に閉じ込められていたもんだから、なんだか永遠って言葉が怖くなってきたところなんだ。……ああ、闇の迷宮って知ってるかい?」
「……知っているといえば知っている」
「じゃあ説明は省くけど、その闇の迷宮に囚われて光を浴びることも誰かと会話することもできずに長い時を過ごして、そんなに辛い生活が永遠に終わらない気がしていて……、変わらないことや、どこまでも続いていくことが何よりも怖ろしい、そう思えたんだよ」
「……そうだな。そうかもしれない」
「闇の迷宮には時間が流れていない。時の流れない世界、虚無を湛えた変化のない世界。あれは妖魔の君オルロワージュ様の造り出した世界、オルロワージュ様の世界なんだ」
「ああ……」
「妖魔ってのはみんな長生きだって言うからねぇ。本当に、生まれながらにして永遠を宿した生き物なのかもしれないなぁ……。どんな気分なんだろう。ちょっと想像がつかないや……」
男の雰囲気に流されてオイラはついうかうかと会話に興じてしまったけれど、ようやく自分の目的を思い出してはっとした。
「いけない。オイラ忘れていたよ。やらなきゃいけないことがあったんだ。ごめんよ誰でもない影さん。オイラ行かなくちゃ」
「どこへ行くのだ?」
「ここではないどこかへさ。オイラ、アセルスを助ける方法を探しているところなんだ」
「アセルス?」
「そうだよ。アセルスっていう女の子がいま、大切な人を失って悲しんでいる。オイラはそれをなんとかしてあげたいんだ」
「アセルスは今悲しんでいるのか?」
「うん。アンタ、もしかしてアセルスのこと知っているのかい?」
「それなりにな」
「そうかい! ならアンタも一緒に考えておくれよ! オイラ、アセルスを助けたいんだ!」
「そうか。ならば手を貸そう」
さらりと男は言った。
「え、本当かい? 冗談とかではなくて?」
「ああ。余に少し考えがある。……だが、赤カブよ。その前に一つ聞いておきたいことがある。なぜそなたはアセルスを助けようとする?」
「そんなことどうだっていいじゃないか。早くアセルスを助けようよ」
「大切なことだ」
「……ううん、何だってみんなそんなことばかり気にするのかな? 誰かが困っていたら、それを何とかしてあげたいと思うのは当たり前のことじゃないか」
「なるほどな。では更に問おう。アセルスを助けるために、そなたが死なねばならないとしたらどうする?」
「えっ! オイラ、死ぬの?」
「余の考えている方法をとればそうなる」
ひどいことをごく自然に言ってのける男に唖然としながら、オイラは口を噤む。
「赤カブよ。状況はまるでわからないのだが……そなたはいま、そうして傷だらけになりながらアセルスを助けようと行動している。少なくとも、それだけの覚悟がそなたにはあったのだろう。だがそれはどこまでの覚悟なのだ? なぜ、そなたはアセルスを助けようとするのだ?」
「理由なんて」オイラは苦しげに呻く。「理由なんて、わからないさ……! オイラにだって上手く説明できないんだから……でも」
オイラは歯を食いしばり、目の前の男を睨みつける。
「オイラが死ぬことでアセルスを助けられるのなら、それでも……いいさ」
「赤カブよ。本当にそれでいいのか? よく考えてみるがいい」
「くどい! オイラはこれでいいいんだ!」
「だが赤カブ。そうしてアセルスを助けて何になる。アセルスはそなたのことをさほども知るまい。たとえ救われたとしてもそなたの献身に気付くことさえなく、そなたが死ねばそれきりだ。そなたはきっと忘れられてしまう。なかったことになってしまう……それでもいいのか」
「み、見返りを求めるために生きているわけじゃあないんだ……オイラは……オイラは……」
「そなたは死ぬのだ、赤カブ。本当にそれでいいのだな」
「う……」
気がつくとオイラはぽろぽろと涙を流していた。オイラも涙を流すことができるんだ! ほっとするのと同時に、なんだか訳もなく怖くなった。本当にそれでいいのか、と男は言った。考えろ、と男は言った。オイラはもう一度考えてみた。これまでのこと、これからのこと……。
「記憶がまるでないんだ……!」
オイラが苦しげに叫ぶと、男はうん?と首を傾げる。
「闇の迷宮の前にどこにいたのか、自分が誰だったのかもわからない。だからオイラには、自分はこういう生き物なんだっていう実感が湧かない。思い出すことといえば、迷宮で来る日も来る日も数えていた時計の秒針ばかりだ。支えるものもない、縋りつく言葉もない。生まれたばかりの子供と同じだ……何の経験もない、思い出と呼べるものもろくに無い。だから……だから、ああ……そうか……」
オイラは涙で顔をぐちゃぐちゃにしながら、へらへらと微笑んで見せる。
「オイラは“価値”が欲しいんだ。オイラみたいに自分に自信が無くて、生きていてもいいのかどうかよくわからなくて心細い奴は、誰かを助けたくてたまらなくなっちまうんだ。犠牲を払って、誰かを救って……そうすれば、オイラは良い奴だってことになる。誰かを助けた、意味のある生き物だってことになる……。結局はそういうことなんだ。……でも、それじゃ駄目かい? 薄汚い理由じゃあ、駄目かい? お願いだよ、アセルスを助けておくれよ!。そのためなら、この命を捨ててもいい!」
「いいだろう。赤カブ」
男は厳かに頷くとオイラの頭に手をのせた。
「だが捨てなければいけないのは命ではない。心の方だ。余はそなたの心を打ち砕かねばならん」
「こころ? どういうことだい」
「そなたに真実を教えよう。そなたを迷宮に置き去りにしたのはゾズマだ」
「ゾズマ! あの方がオイラの相棒?」
「いいや、違う。ゾズマは誰のことも大切に思ってはいなかった。だからゾズマは自分自身に痛覚倍増という術を掛けたのだ。赤カブというモンスターを失うことに対する心の痛み、苦しみを操作することで……ゾズマはそなたを疑似的に大切な存在へと変えた。そなたはゾズマが迷宮へ入る直前に生み出された生命。ゾズマが迷宮から脱出するためだけに造られた存在だ」
「あ……」
「残念だが嘘ではない。赤カブよ。そなたは勇敢であった。たとえそれが欺瞞であろうとも、他者のために命を投げ出すことのできるそなたに余は敬意を表する。アセルスが忘れても、余がそなたのことを覚えていよう。赤カブというモンスターがこの世に存在したことを、出来る限り記憶に留めよう……」
知らず知らずのうちに、全身の力が抜けていった。
否定することは簡単だったし、嘘だと叫んで聞かなかったことにすることもできた。でも何故だろうな、オイラは男の話をまるで疑うことができなかったんだ。なるほどなぁ、と思ったよ。
そうかい、としわがれた声が聞こえた。どうもそれはオイラの声らしかった。命の枯れ果てる声だった。オイラは一体何だったんだ? そう思った。けれども、そうして悲しむオイラのどこか奥底で──もう一人のオイラが諦めと共に皮肉めいた笑みを浮かべてこう呟いた。
──わかっていたよ。どうせ、こんなことになるんだろうさ。
◇
男の手の中で赤カブの体は見る見るうちに捩れていき、くしゃくしゃに縮められてゴミのようになった。折り畳まれた肉の隙間から滲み出た体液が大地を濡らした。赤カブの血は赤かった。
男は赤カブの死骸を両手で包みこみ、ぎゅっと握りしめる。命を圧し固めた死骸の球を携え、男はその場から離れる。掌の中で死骸球がぶるりと震える。男はそっと視線を向け、何も言わずに再び歩き出す。
たとえ話をしよう。
たとえば、ある辺鄙な星のゴミ捨て場。ボロと呼ばれるその星は空から降ってくるクズ鉄を集めて暮らしている。そんな星の、ガラクタばかりが打ち捨てられた破滅の場所。物悲しい錆びの臭いや胸の詰まるような廃油の臭いが充満していて、息をするだけでジャンクになってしまいそうな場所。色褪せた車の扉や折れ曲がって罅割れたピアニカが無造作に転がっているそんな場所にとても美しい妖魔が下りたって辺りを見回し、「ふむ」と言う。
ほんの半月ほど前、一人の半妖がこのゴミ捨て場で小さな人形を見つけた。半妖は汚らしい人形を拾い上げ、悲しそうに眉を寄せてそっと人形に唇を落とした。なぜ、汚い人形にそんなことをしたのだろう? もしかしたら、その人形が知っている誰かに似ていたのかもしれない。今はもういないその妖魔のために、半妖はその人形を胸に抱いて静かな涙を流したのかもしれない。
人形はとても裕福な星で造られた玩具だった。既製品ではあったけれどもなかなかに高価で、精巧に造られた人形だった。お姫様の形をしていた。母に玩具を与えられた少女が娘になり、大人になり、「もういらないから」と言って捨てられた人形が彼女なのだった。
半妖はしばらく人形を眺めていたけれども見ているだけで胸が苦しいのか「ごめんよ……」と辛そうに囁き、人形を置いて立ち去っていった。
本当は持ち帰ってほしかったに違いない。でも、人形はその時のことをけして忘れないだろう。与えられた口づけの温かさを、半妖の震える掌の柔らかさを、絶対に忘れたりはしないだろう。
ゴミ捨て場に下り立った妖魔が握りしめていた球体を人形に近づけると、球体はどろりと溶けて人形を覆った。するとある筈もない人形の心臓がどくりと鼓動を始めた。酸性雨に剥げかけていた塗装は見る間に色づき、穢れのない純白の肌になる。
「名前は?」と妖魔が尋ねた。
「あかばら」と彼女は言った。