本当につまらない星の、どうでもいい町でよち子は生まれた。
空を野良金魚が飛んでいるというのがその星の特徴で、というよりも特徴と呼べるだけのものがそれ以外に存在しない割とどうしようもない星だった。野良金魚を眺めにやってくる観光客相手に金魚の干物やらお刺身やらを売って細々と星の住人達は生計を立てていたがいかんせん金魚以外のウリというものがこれといってなく、全体的に生臭いわ海は汚いわ自然は少ないわで年々客も減っていった。
先細りする経済に町では暗鬱な雰囲気が常に立ち込め、どうせ俺たちはどこにも行けやしないんだといじける者かが大勢現れ路地裏の落書きが無意味に増える。過疎化は進み、町の商店街は次々にシャッターを閉め、駅の近くに建てられた「この星は金魚の星」と書かれたモニュメントだけがやたらと輝いている。道を歩いているだけで空を飛ぶ野良金魚たちがほっぺたやら膝裏やらにぶみんぶみんとぶち当たってくるので大して痛いと言うほどでもないが無性に煩わしい。もう本当に仕様もない星だった。
若者たちは今日稼いだ金を飲み屋で使い果たしながらそれでも俺はいつか別の星へ行くんだと大層な夢を語る。手に小銭を握りしめ、それすらも安酒に消費しながらも若者たちがいつも口にするのは決まって「駅」──星間船発着場のことなのだった。
別の
そんな星の、まさに衰退し滅びつつある町なんかに不運にも生まれてしまったよち子はところで阿呆であった。口をあんぐりと開けたまま道端を駆けまわっては空飛ぶ野良金魚がぬぶりと鈍い音を立てて口の中へ入り込む。むぐむぐ、むぐ、と口の中で金魚を遊ばせ、んぱ、と吐き出す。よち子はげらげらと笑う。なにがそんなに面白いのか自分でもよくわからないのに、よち子は飽きもせず金魚を舐めまわしては笑っていた。脇目も振らずに道と言う道を駆け抜け、顔面に金魚がすごい勢いでぶつかってくるのに顔を顰めては「いたーい!」と言って笑った。
よち子はいつも楽しかった。
5歳になり10歳になり、相変わらず町は薄暗い絶望に包まれていた。気のせいか天気もやたら曇りばかりが多く、人々は空を見上げてはため息ばかりついているのだった。
ようやく変化らしい変化が訪れた時、よち子は12歳でいつものように口を開けたまま疾走していた。何でもどこぞの偉い妖魔が「永遠の花嫁」なるものを探してこの星にやってきたのだという。そんなもんいるわけねぇだろ馬鹿かと誰もが思ったに違いないのだが久しぶりの観光客しかも金持ちそうということもあって住人たちは大いに沸いた。町長が貧相な髭をしきりに捻りつつ「私に任せてくれたまえ」と言い出し、来たる妖魔様ご一行を駅の入り口で待ち構える。この町の良さを是非妖魔の方々にも理解していただくのだ(そして金を落としてもらうのだ)と町長はむやみに張り切った。
船が到着し、現れた白い巻き毛の妖魔は一歩踏み出した途端に顔を歪め「なんと臭い町だ。下賤な」と言い放つ。妖魔らしく顔立ちの美しい人物ではあったが顔つきは非常に険しく、もう一歩踏み出した途端に金魚が頬にぶつかってぶみんと間抜けな音を立てた。
「……不快だ」
嫌悪感を隠そうともせず巻き毛の妖魔はそう吐き捨てると背後を振り返り、主らしき者に「オルロワージュ様、こんな所に花嫁がいる筈がございません。おみ足が汚れます」と膝をついた。
よち子はそんなことなどつゆ知らず、いつものように馬鹿面を晒して「ふはは」と町中を走っている。曲がり角を曲がったとたんにばたりと誰かにぶつかり、「あいたぁ」と呑気に鼻をさすっていると誰かが何かを叫びだした。
「人間風情が! オルロワージュ様になんと無礼な!」
白い巻き毛の男(よち子にはそう見えた)はしきりに騒ぎ立てている。こんな喋り方をテレビで見たことがあったので、そのまま放っておけばそのうちに「控えおろう! 控えおろう!」とでも言いだすに違いないと思ったよち子は少しわくわくして巻き毛の男を見守っていたのだが、そのせいで危うく殺されかけた。巻き毛の男が不意に腰に提げた剣を抜いて切りつけてきたのである。白々とした刃の光がぎらりと反射し、あわや少女は真っ二つ──とその時、巻き毛の背後に立っていた別の妖魔が静止の声を上げた。
──良い。セアト。余は構わぬ。
「は……、し、しかしオルロワージュ様。この星の住人の低劣さときたら。もはや生きている価値すらございません」
──そうか? 余はそう思わぬ。
恐縮しきりのセアトにオルロワージュは淡々と答え、その内にセアトは苦虫をかみつぶしたような顔をして「……かしこまりました」とどこかへ消えてしまう。
その間のよち子といえば、ただ目を丸くしてぽかんとしているだけだった。何しろオルロワージュのように美しい存在を見たことがなかったので、見惚れるよりもまずびっくりしてしまった。……ああ、世の中には、こんなにも綺麗な人がいるんだなぁ。感動するあまりに「ふへぇ……」と間抜けなため息をついてよち子は目をぱちくりさせる。
「……人生って、こんなことあるのね。時間の流れって、不思議なものねぇ……」
無意識に呟いた言葉に、とんでもなく美しい妖魔の君はうん?と首を傾げこのちっぽけなよち子に初めて視線を向けた。
「……今、何と言った?」
話しかけられてはっと我に返ったよち子は眠気を堪えるように慌てて両手で眼を擦り、しかし相変わらずぼうっと口を開けたままのんびりと答える。
「なあに、おじさん」
「余はおじさんではない。オルロワージュだ」
「お……おろろあ……じゅう……」
「オルロワージュだ。言いにくいか」
「縮めておじゅさんじゃ駄目?」
「あまり変わっていないような気もするが……まぁ、構わぬ。ともかく乙女よ、今、そなたは何と言ったのだ」
「変なことを聞くのね。あたしはただ、時間って不思議ねって、そう言っただけよ。ね、あたしはこの町のことが結構好きなんだけれど、でもやっぱり生まれてから何一つ変わらない町だと思っていたから、おじゅさんみたいに綺麗な人が突然現れて、何年経ったっておじゅさんみたいな人は来ないもんだとあたしてっきり思い込んでいたのに、なんだか、気が付いたらいつの間にかに時間が経っていて、変わらないと思ってたあたしの日常が変わって、時間の流れって不思議なものねって、そんなことを言ってたの」
「そうか」
しみじみと囁いてオルロワージュがよち子の頭を撫でる。くすぐったそうによち子はくすりと笑う。
「楽しいか」
「ええ、楽しいわ! 頭を撫でられるのってとても楽しいのね!」
そういうと、オルロワージュはとても真面目な顔をして、余もそう思う、と頷いた。
それからしばらくよち子はオルロワージュに尋ねられるがまましばらく話をした。金魚が好きなこと、近くの干物屋で時々働かせてもらっていること、将来は金魚屋になるつもりだということ。どの話をしてもオルロワージュは「そうか」と言って穏やかに丁寧に聞いていてくれたので、よち子はすっかり嬉しくなって妖魔というのはみんないい人なのだと思い込んだ。
「妖魔ってもっと恐ろしいものだってみんな言ってたけど、それって嘘ね。おじゅさんはこんなに良い人だもの」
「そうか? また別の場所、別の時間では、もっとずっと怖ろしい、邪悪な存在なのかもしれぬではないか」
「そうだとしても、今ここの、この時にあたしの前にいるおじゅさんは優しいでしょう。あたしにとっては、そんなものが全てだと思うわ」
「……そうか」
そう呟いたオルロワージュはどことなく弱々しく見え、よち子は必死に背伸びをしてオルロワージュの頭を撫でてあげようかと思ったがまったく届かなかった。
別れ際、オルロワージュはわざわざ身を屈めてよち子の視線に高さを合わせて言った。
「よち子よ」
「なあに」
「そなたが望むことなら何でも叶えてやろう。金銀財宝でも良い。溢れるほどの贅食でも、そなた好みの美男子でも良い。欲しいものがあれば余に述べよ」
「いらないわ。あたし金魚が好きなの」
「金魚か。ならばとてつもなく大きく、輝くほど美しい鱗を持つ金魚を連れてきてやろう」
「ばかねぇ」すまし顔をしてよち子は言う。「金魚は何の意味もなく空を飛んでいるのがいいの。それが面白いのよ」
「そうか」
「そんなに悲しそうな顔しないで」
「余は悲しんでなどおらぬ」
「なら、いいけど……」
「ならば、よち子よ」オルロワージュは僅かに語勢を強める。「余がそなたを守ってやろう。そなたを傷つけるもの全てから、余がそなたを守ってやろう。そう……永遠にだ」
「永遠なんて」突然の言葉によち子は眉を下げて困ってしまう。「そんな無茶なことしなくてもいいわ。永遠なんて大変だもの。あたし、別に、いまのこのままでほどほどに幸せなのよ」
「いいや守る。無茶だなどとむなしいことを言うなよち子よ。そんなことを言ってはならぬ。良いか、この世に永遠はあるのだ。たとえ何年時が経とうとも、けして失われぬものがこの世にはあるのだ。余がそれを証明してやる」
「そう」と仕方なくよち子は言って足元の小石をぽんと蹴った。オルロワージュの眼はどこか遠くを見ていて、その時だけはよち子を見てはいないのだった。そして──、
──そして、物語は語られる。
時の流れの話をしよう。
オルロワージュはよち子を守る。頭の悪い少女との約束を律儀に守り、雨の日も風の日もよち子を見守り続ける。
永遠だ、とオルロワージュは思う。そう、永遠だ。自分がよち子を守ってやるのだ。けして死なせたりなどするものか。そう思っている。なんて愚かな考えだろう。
よち子は順調に成長する。貧しいこの星では時々誘拐されそうになったり殺されかけたりすることも何度かあったけれど、そのたびにどこからともなくオルロワージュが現れて助けてくれる。一人じゃあない。よち子は微笑みを絶やすことなく少女から娘へと大きくなり、やがて恋をする。
あたし、おじゅさんのことが好きかもしんない。恋って、こういう気持ちのことを言うのかしら。おじゅさんの顔って本当にきれいで、あたしなんだか見ているだけで吸い込まれそうになる時があるの。
余の寵姫となるか、よち子。
……ううん。やめとく。
なぜだ。
あたしはおじゅさんのこと好きだけど、でもおじゅさんの周りにいるお姫様たちみたいに美人じゃないし、頭も良くない。なんだか変でしょ。それにあたし、だからって妖魔になろうとも思えないし。
そうか。
よち子は束の間恋をして、そのまま中学を卒業すると近所の金魚屋に就職した。自らの稼いだ金で生きていくようになり、小さいながらも家を借り、一人で生計を立て、大人になり、年を取り、老い、やがて死んだ。長い時を生きる妖魔にしてみればたった一瞬の事だった。
時の流れとはそういうものだ。生れて生きて、死んでいく。老衰によって穏やかに死につつあるよち子は震える声でオルロワージュに言った。
「おじゅさん。ありがとうね。あなたのおかげでいつも、あたし一人じゃなかった。楽しかったの」
「しかし」オルロワージュはよち子の手を握って言う。「余は約束を守れなかった。そなたを永遠に守るとそう誓ったと言うのに」
「ばかねぇ」よち子はくすりと笑う。「おじゅさんはちゃんと約束を守ってくれたじゃないの」
あのね。あたし思うんだけれど、永遠なんてそんなに大したものじゃない。おじゅさんは妖魔だから、永遠って言えば何百年何千年という気の遠くなるような果ての果ての果てのことかもしれないけど、でもあたしにとってみれば、人間の寿命からしてみれば、永遠って百年のことよ。
あたしはもう百歳生きたでしょう。あのちっちゃいころ、金魚を舐めて笑っていた阿呆の頃から途方もなく時間は過ぎて、永遠。いま、ここにいるあたし、永遠を過ぎてあなたに守られたの。だから、これでいいのよ……。
おじゅさん。あたし、あなたのことが好きよ。元気でね。さよなら。
それからオルロワージュはファシナトゥールへ帰ると「余はしばし眠る」と宣言し、三百年間一度も目を覚まさなかった。
時は瞬く間に流れていく。ふと束の間目を閉じて気が付いた時には、昨日知り合った筈の人がみな死んでいる。何百人何千人、出会いと別れを繰り返し積み重なった記憶が「名前」という「言葉」に集約され、消えていく。
オルロワージュはよち子という少女と出会い、短い会話を交わし、そして死に別れる。
シェダルという少女と出会い、王文青という少女と出会い、メテルムミアという少女と出会い、そして死に別れる。
途方もなく生きていればいつか約束の言葉を口にするものが現れる。いつもぼんやりとしていて、あらぬ方ばかりを眺めていて、「時間」という単語を口にして不思議がる少女と出会う。こんなことがあった、と思う。自分はいつか、こんな少女と出会っていたような気がする。何かを失った、そんな気がする。──けれども、それがなんなのかはけして思い出せない。自分が何を忘れたのかも思い出せずに、時を過ごして更に忘却は深まっていく。
同じような少女と出会い、同じような会話をして、同じような別れ方をする。
よち子。シェダル。王文青。メテルムミア。出会い別れた名前が何百年の時の果てにその違いがわからなくなって、はたしてあの会話をしたのは誰だっただろう、金魚が好きだと言ったのは、誰だったのだろう、わからなくなる。
薄れゆく記憶の中ではいつかその名前でさえ忘れてしまうに違いなく、オルロワージュの感情はゆっくりと摩耗していく。
──そんなに悲しそうな顔しないで。誰かが言った。本当にそうか? 「悲しそうな顔」をしてみせながら自分はどこかで、つまらない既視感を覚えてうんざりしていたのではなかったか。
──余は悲しんでなどおらぬ。……ああそうだ。たとえ悲しいと思ってもいつか色褪せる感情ならば、それはきっと物語になってしまう言葉なのだ。
だから、オルロワージュは──。
◇
朝、目を開けて換気のために窓を開け、ああ春が来た、と零姫は思う。
昨日と比べれば気温は少し高いと言う程度で、肌寒いことに変わりはない。それでも今朝の空気を鼻腔一杯に吸い込んで、さらりと静かに風が吹き込み、紛れもなくそれが春のものであると確信する。
季節というものが移り変わるものであることを零姫はもちろん知っているし、ある日突然にスイッチが切り替わるように次の季節へと変化するものではないということも知っている。
しかしそれでも零姫にとっての春はいままさにその瞬間から始まったに違いないし、昨日までは冬で、今日からは間違いなく春なのだ。
少し寒い。けれども、春だと思うそれだけで心持ち暖かいような錯覚に覆われる。匂いの何が違うのかはわからないが、きっと植物の芽吹きや花の開花が風に乗って香るのだろう。
冬が終わり、春が来る。冬が終わってしまって悲しいという気持ちと、春の訪れに心浮き立つ気持ちが混じり合って不思議な気持ちになる。
冬にしか着ることのできない服。冬独特の食べ物、鳥や虫に獣。それら全てが過ぎ去って今年の冬は終わり、この冬の思い出と共に封印される。
寂しい、と思う。
けれども同時に思うのは、世界中ただ一人自分だけが春の訪れに気づいたのだということと、誰かに早く伝えたい、ということだ。
オルロワージュと朝食を共にするまで零姫はうずうずと待ち侘びていた。ついにその時が来るとナイフを手に取るよりも先に零姫はオルロワージュに告げた。
「知っているかぬし様よ。今日は、もう春なのじゃ」
「そうか」
「のう、ぬし様よ。午前は庭へ散策に出かけよう。まだ早いかもしれぬが、よくよく探してみれば春の花々がいくつか咲いているかもしれぬ」
「ああ」
野原を歩み、木陰に身を屈め、小さな指で草をかき分け、探り当てたその奥には仄かに蒼く花が灯っている。顔を綻ばせ、零姫は振り向いてオルロワージュに報告する。
「見よオルロワージュ。春はここにある」
「そのようだ」
顔色一つ変えないオルロワージュに零姫はぷっと頬を膨らめ拗ねてみせる。
「なんじゃ。感動が足りんぞ。妖魔の君ともあろうものが、自然の趣を理解せぬとは嘆かわしい」
「これは仕方のないことなのだ。零姫」
「言い訳か。見苦しいにもほどがあるぞ、ぬし様よ。この花を見て美しいとは思わぬか。春の芽生えを、命の始まりを言祝ぎたいとは思わぬのか?」
「思う」
「では、なぜ」
「けれども、零姫。百万回の春を愛せば、いつかそなたはまた来る春を憎むようになる。春の訪れに喜び、庭に下りて花を探そうとて、そなたは一体何度それを繰り返す」
「たとえ何度来ようとも、美しいものは美しい」
「そう思えるそなたが余には少し羨ましいのかもしれぬ」
「なぜ、わからん。この世に同じものなど何一つとして存在せぬ。生きとし生ける誰もが、この世の誰とも似ていない。去年の花は今年の花とは違うのじゃ」
「本当にそうか? しかしそなたは去年のものも今年のものも、ただ等しく「花」と言う。言葉では同じだろう」
「言葉は思いとは違う。記憶とは違う」
「いいや、積み重なった記憶は言葉でしかない。そなたは百年前の熱を覚えているか? 百年前の触感をその身に感じることができるのか? 情報は感情によって解釈され、いつか記憶という名の物語になる。この世に真実は残らない。残るのは物語だけだ。「言葉」だけなのだ。花を見た、とそなたは思う。百年前の花、十年前の花、五年前の花、一年前の花。花、花、花、花……口に出して繰り返すうちに、花という言葉の意味は失われて、その音が何を指し示すものだったかを忘れてしまう」
「妾は違う」
「何も違いはしない。零姫よ。余と出会った時、そなたは既に飽いていたのではなかったか。仙女としての倹しくも精錬な生活にも、邪悪と快楽に染まった生活にも、そなたは倦んでいたのではなかったか。だのに零姫、なにゆえそなたは花を愛でる」
……そして何よりも『
──空っぽじゃ。なにもかも。
「そうじゃ……。なぜ忘れておった。なぜ、妾は……」
「余の口づけが欲しいか、零姫」
「ほしい」
口に出して零姫ははっとする。なぜこんな時にそんなことを聞くのだろうと疑問に思うよりも先に、自分はキスを求めていた。何の疑いもなく、ほしい、と答えていた。凄まじい寒気が全身を襲った。
見上げれば、オルロワージュが無表情でこちらを見ている。
「そなたは何も悪くない。余はそなたを愛している」
「妾もじゃ。ぬし様」呻くように零姫は愛を囁き、血が出るほど歯を食いしばる。「しかし、そうか。妾はまだ理解しておらなんだ。虜化……。教えてくれ、ぬし様よ。妾は何を忘れた。ぬし様の牙を受ける前と後では、妾はどう変わってしまった」
「それは誰にもわからないことなのだ、零姫。自分が何を忘れたのか、何を失ったのか。その答えを出せるものはどこにもいないのだ」
「そんな……」
◇
たとえば小手毬の花を乙女は愛す。今年の花はことのほか小さく美しい。次の年の小手毬は大ぶりなものが目立ち色は少しくすんでいる。また次の年には花数が多く絢爛に咲き誇り、また次の年には珍しく八重花、柔らかく丸みを帯びてまさに手毬のように手の中で揺れる。
言葉を尽くそう。花を語ろう。花はいつでも美しい。乙女の愛す小手毬の花は庭に咲いて幾億万。そのどれもが微細に異なり、花数が違えば色合いが違い、形が違えば重みが違う。
存在するすべての花はみな違う。生きている。生きているから違うのだ。機械種族のように大量生産される無機物とは違うのだ。
花は唯。花は無二。
この花は乙女の花だ。
今ここにある花は、去年のものとも昨日のものとも違うのだ。
「本当にそうか? 妾にはわからぬ……」
冷たい溜息をこぼして零姫は手の中の花に視線を落とす。
「花は確かに美しい。しかし……」
隣ではオルロワージュが目を閉じ、長い眠りについている。ため息をついて、零姫は静かに語りかける。
のう、オルロワージュよ。妾は確かにこの花を美しいと思うのじゃ。……しかし、その思いをおぬしと分かち合うことはできぬのじゃな。
それというのも全ては「時」のせいなのか。ただおぬしが妾よりも気の遠くなるほど長い時間を過ごしてきたから枯れているというだけで、いつか妾もおぬしのように花を見ても心ひとつ動かない永遠の怪物になってしまうのか。
おぬしの言うこともわからないではないのじゃ。何事にも初めてというものがある。おぬしとした初めてのキスを思い出すだけで、今でも魂が燃える。初めのキスは2回目とも3回目とも違う。……けれども500回目と501回目との違いは妾にはもうわからぬ。その感触は薄れて消えてしまった。時の彼方の地平線に飲み込まれてしまった。違う、とそう思いながらその違いが極小でしかないのならあるいは同じなのかもしれぬ。
いつか……いつか妾は初めてのキスのことすら朧なまま、大切なことを何もかも忘れて痴呆めいた至福に溺れてしまうのか。
たとえば記憶。
たとえば思い出。
ああその通り、おぬしの言うように、人の心は移ろうもので、時の流れにその香りを嗅げば必ず無常の匂いがするものじゃ。妾の心はいつだって揺れておる。
のう、オルロワージュよ。そなたを愛しいと思う妾の心、嘘ではないぞ。おぬしはしっかり乙女の了解を得てから吸血を行う。妾がおぬしに吸血を乞うたのは、妾がそうしてほしいと心底願ったからじゃ。この男が好ましい、そう思えたから妾はおぬしを招き入れた。それは間違いではない。……しかし、それ以降のことはどうなのじゃろうな。
妾はおぬしの虜となって後悔はしておらぬ。しかしその心もまた虜化されたものだとしたら、おぬしを想うとき胸を締め付けるこの狂おしさも何も、すべては虜化によって演じられたもの、妾の身体を流れるおぬしの血が語る筋書きに過ぎないのかもしれぬ。
オルロワージュ。この世に愛を証明することはできるのか。永遠を求めると言って、おぬしはその存在を証明する方法を知っているのか。妾にはわからぬ。
虜と言う名の皮を着て、寵姫という名の役割を演じて、永遠と言う名の舞台に立った。しかしその中身は? 何もかもを脱ぎ捨てて虜化から逃れえたとしたら、妾はそれでもおぬしを愛しているのじゃろうか……?
零姫は眠るオルロワージュにそっと顔を近づけて口づけを落とした。
涙を流すことはもはやできなかった。