そしてまた、時が過ぎる。私の背はすくすくと大きくなって、今では母とほとんど変わらない。もう半年もすれば追い越されてしまうね。母は嬉しさと寂しさが綯い交ぜになった表情でそう言った。すっかり大きくなったねぇ。そういって目を細める母が嫌で、私は思わず口をとがらせた。やめてよ。年寄りみたいなこというのは。
姿かたちが大人に近づいていくと次第に周りの見る目も変わっていく。子供だと邪険に扱われることが減り、その代わりに男たちから薄気味悪い目で見られるようになる。粘りつくような性的な視線が嫌で外へ出かけることが億劫になり、私はなおさら母の傍にくっついていることが多くなった。同い年の友人はといえばウブリエールくらいで、あとは話しかけられても“そうね”とか“どうも”しか言わずにいるのでそのうちに飽きてどこかへ行ってしまう。ウブリエールは呆れていたが構わない。私は今もなお母のことだけを考えている。
大きくなってまず変わったのは、アセルス様と呼ぶことを禁じられたことだ。私は随分と反対したが母からのたっての願いというので頷かないわけにはいかなかった。もう赤ん坊ではないのだから、もし自分を呼ぶのなら母さんと呼びなさい。もし、それが嫌ならば呼び捨てでも構わない。母はそう言ったが、私にはなぜそうしなければならないのかが呑み込めなかった。家族なのに“様”をつけるのはおかしいというのが彼女の理屈だったが、私にとって“アセルス様”という言葉は私の感情すべてを込めた呼び方であって、その言葉を禁じられることは私の感情をも封印するに等しかった。
そのとき初めて私は母への反発を覚えたのだったが、しかしそれは私を反抗や憎悪へと駆り立てたりはせず、私はむしろ贖いを求める罪人のような気持ちで母の願いを受け入れた。たとえ罰であろうとも母が与えたものならばそれは私にとって蜜であり、甘んじて受けるべき苦行だった。
私は心の中でさえアセルスを様づけで呼ぶことを禁じた。これはとても辛いことだった。彼女に向かって「母さん」と呼びかけるとき、また昼日中、学校で(アセルスはいま何をしているだろう)と物思いに耽るとき、大切なものを汚しているような気がした。彼女を馬鹿にしているような気分にさえなり、もうやめてしまおうと何度も思ったかしれない。そもそも心の中のことまでは誰もわからないのだ。私が心の中で母をどう呼ぼうと私は自由ではないか──そう思う一方で私は「アセルス様と呼ばないで」と言った母の気持ちを考える。私は彼女を崇拝していたが、しかし彼女の方はそうではなかった。母が望んでいたのはありふれた家族であり、自らの信者ではなかった。
母とゾズマの会話を聞いてから、私はずっと自分というものを押さえつけて過ごしてきた。私が世界で一番愛する人は私のことを世界で一番愛してはいない。そうはっきりと認識してしかし私は絶望することもなく平然と生きている。幼いころよくしたように母の膝に甘えることはなくなり、その代わりに彼女の顔色を伺うことが増えた。私は彼女に愛されるためにどうすべきかを考えるようになった。
母を母と呼ぶようになってから、不思議なことに私の中でも彼女を崇拝する気持ちは少しずつ薄れていった。他人に対する感情は呼び方にもひっぱられるものなのだろうか。それがもし彼女の思惑通りのものであるのなら、なるほど私は確かに母と呼ぶことでアセルスを家族と強く認識し、その言葉が日常のものとなり体に馴染むにつれて私の中のアセルスの神性は穏やかに後退していく。学校では中等過程を終了し、ウブリエールと共に高等課程へと進んだ。背は伸び、頼んでもいないのに胸が膨らんでいく。今の私は母が魔法使いでないことを知っているし、用務員という彼女の職業が世間一般ではけして羨ましがられるようなものでないことを知っている。
それでも──私にとって、母は、アセルスは、今もなお色褪せることなく輝き続けている。
夏の夕べの汗ばむ小道を、母に寄り添って静かに歩く。じわじわと叫ぶ虫の音に色濃く残る木々の影。あれはなに、と私が聞くと、母はそれがどんなものでも答えてくれる。それまでぼんやりとしか認識していなかった世界を一つずつ指さしては名前を呼んでいく。
あれは朝顔、
「
淡々と答える母が誇らしく、私はなんだか試すみたいに、これは、じゃあこれはとせがむように尋ねる。母はどんな花もその名を答え、やがて私は半ば意地になってその辺の生えている細長い葉の雑草を指さす。
「──じゃあ、これは?」
母は答えなかった。さすがの母も雑草の名までは知らないのだろう。母に恥をかかせてしまったかもしれないと少しだけ罪悪感を覚えて上目遣いに母の顔を覗くと、彼女は視線を遠くへと彷徨わせぼんやりとしている。
「母さん?」
もう一度声をかけると母ははっと我に返り、きまり悪そうに笑った。力のない、弱々しいほほ笑みだった。
「それはね、風知草。風が吹くとさらさらと草が鳴って知らせてくれるんだよ」
「母さんはなんでも知っているのね」
感心して言うと、母は「別になんでもってことはないけどね」と苦笑いを浮かべる。
「だって、母さんは私の質問になんだって答えてくれる。空がなぜ青いのかとか、夕暮れに誰が空の明かりを消すの、とか、子供の頃、私がした質問には全部答えてくれたわ」
「何かの本で読んだり、誰かに教えてもらったからだよ。それでたまたま知っていただけ」
「そんなら私は、母さんに教わって花の名前に詳しくなることにする。──母さんは、誰に植物のことを聞いたの? せんせい?」
「うん……」
と言葉を濁す彼女の表情を見て、すぐに私はそれが誰だかを悟った。いつもは頼もしい母がふいに幼く頼りなげな顔をするとき、それはきまって“彼女”の話題になるときだった。
「昔、お世話になった人が植物好きでね。その人に教えて貰ったんだ」
そう言うと母はこの話はおしまいとでも言うように私の背中を優しく押した。私はその手をさりげなくかわして、母の手を握る。
「今日は私がごはん作ってあげる」
「どうしたの急に」
いぶかし気な顔をする母に「さあね」と恍けて、私は目を背けながら手の力を強めた。母の手はどんな時でも不思議なほど熱を感じない。暖かくも冷たくもなく、ただ柔らかですべすべしている。たとえ熱が感じられなくとも、その肉の感触が失われることはない。彼女は生きている。生きて、呼吸をし、胸の心臓を鼓動させている。私は母の手を力任せに振って彼女を困らせながら、聞こえないようにため息をついた。
私はこうして大人になっていく。彼女を母と呼びアセルスと呼ぶようになってから、私はもう彼女が神だとは思っていない。けれどもその代わりに、彼女が実の母だと考えもしない。彼女はいま、私の隣にいる。彼女は肉体を持った一人の女だ。今の私には、それがよくわかっている。
ミスティと名乗った遺物、あの
誘いに乗らない私に対してしかしミスティは焦りを見せることはなく、どこか長閑とさえいえるような態度で私との会話を続けている。
「ねえ、赤薔薇。そろそろ支配者になる気になった?」
ある夜、学校の会合からなかなか戻ってこない母を食卓で首を長くして待っていると、いつものようにミスティがそう言った。私は突然話しかけられることにももう慣れっこになっていたので、平然と窓の外を眺めながら「いいえ」と答える。
「そう、なら仕方がないわね」
「……なんだか、最近は随分あっさりと引き下がるのね」
「無理に急かしたからと言ってどうにかなるというものじゃないでしょう、こういう事は。……それに、私たちは人間に比べればずっとずっと気の長い生き物なのよ」
「嘘でしょう?」私は目を細める。「だって、あなたたちは別の星の支配者で、少し前までは戦争を引き起こしたりしていたんでしょう? 気の長い人がそんなことするかしら」
「あら、気が短いか長いかということと戦争はまるで別の問題でしょう。それに私たちはもはや肉体という枷からは自由になった存在だから、時間の流れにはそれほど拘泥しないの」
「どういうこと?」
「だってあなたは百年もすれば死ぬでしょう?」
「……」
「あなたの説得が無理なら、あなたが死んでから別の宿主を探せばいい。私たちにしてみればそれほど長くはない。それこそ、私たちにしてみれば命は永遠に続くんだから」
「うらやましい話ね」
私はため息をついた。それは本心だった。もしも永遠に生きることができるなら、もしいつまでも母の傍にいられることができたら。
「あなたにだってそれができるのよ赤薔薇。あなたがこの卵を受け入れさえすればね」
「……今日は、その話はもうおしまい。さっきあなたもそう言ったでしょう?」
「そういうのなら、乙女が物欲しげなため息をついてはいけないわ。欲しいものがあるのなら手を伸ばすべきよ」
「私は別に支配者になりたくないと言っているのではないの。あなたの言うことはとても魅力的だし、私自身、力が欲しいといつだって思ってる。……でも、支配者になったその後で何を望むのか、それが私にはわからないの。そして、それがわからないまま支配者になった私は、きっと取り返しのつかないことをしてしまう」
「……人間というのは不思議ね。下らないことをくよくよと悩んで、足踏みをして──そのくせ、いつのまにかに成長してこちらが思いもつかないような変わり方をするんだから、手に負えない。あなたはアセルスをどうしたいの? 跪かせたいの? 愛されたいの? だって彼女のことを想っているのでしょう? 卵を渡せばそれが全て叶うというのに」
「私にだって、そうしたいと思うときだってもちろんある。……でも、やっぱり、それは違う……。何かが違う、そんな気がする……」
私が言葉を濁すとミスティはしばらく黙りこみ、やがて静かに言った。
「彼女とセックスしたいの?」
「馬鹿!」
私がテーブルに両手を叩き付けて抗議すると、ミスティは涼し気な笑い声をあげた。
「じゃあ何が気になっているの? やっぱり“白薔薇姫”のこと?」
「う……」
私は言葉を詰まらせ、無意識に壁に掛けられた装飾剣へと目を向けた。我が家の居間には壁に一振りの剣が飾られている。緑色の鍔をした美しい剣。それは一定以上の力を持つ妖魔だけが持つことを許された武器、妖魔の剣だ。だがこれは母の──アセルスの剣ではない。アセルスの剣はすでにイルドゥンによって砕かれている。だとすればこれは母のものではなく、おそらくは“彼女”の──白薔薇姫の剣である筈だった。なぜ、彼女の剣を母が所有しているのか、それは私もずっと気になっている。
白薔薇姫。私によく似ているというその妖魔。どこかに囚われていて、彼女の剣だけがなぜかここにある。
「ようく考えてみて、赤薔薇」ねっとりと絡みつくような声でミスティは言う。「この
「私が……白薔薇に……?」
「あなたの愛するアセルスは白薔薇姫を愛する。でも、彼女はアセルスの傍にはいない。アセルスの目の前にいるのは、赤薔薇、あなたなのだから」
「でも、それは……」
「ええ、そうよ。それは赤薔薇を殺すということ。あなたは赤薔薇を殺して白薔薇になるの。そうすべきだわ」
「そんな」
「あなたは待っていればいつかアセルスが振り向いてくれるとでも思っているの? そんなときは永遠に来ないわ。あなたはもっとアセルスをどうやって手に入れるかについて真剣に考えるべきよ。誰かを愛しいと思っても、その人は簡単にいなくなってしまうものだもの……」
諭すように言うミスティに強く反対することもできないまま、私は唇を噛みしめる。
でも。
だとしたら。
白薔薇としてしかアセルスに愛されることができないのなら、私は何のために生まれてきたのだろう。
……。
…………。
ミスティはよく私をからかったり小馬鹿にする。けれども、何度となく彼女と話をしてきた私はミスティの台詞がけして嘘ばかりではないことを知っている。
所有者のアニマを支配することで精神を操る彼らはある時ミスティという一人の少女の手に渡る。ミスティは
だから私には、ミスティの言葉を“知った風なことを言うな”と一蹴することはできなかった。たとえそれがメフィストフェレスのような悪魔だとしても、その瞬間の恋心だけは本物だった筈だからだ。
彼女が話してくれた昔話は私にとても大切なことを教えてくれた。だから、私はミスティのような失敗はしない。やるからには、必ずこの思いを遂げて見せる。
たとえ、それがどんな犠牲を孕んだものだとしても。
◇
我々は生まれながらの支配者であり、人類を遥かに超越した生命体である。だが、だからといって我々は狭量ではない。自らの不完全さを認め、学び、成長する能力を既に獲得している。
我々の第一の失敗はアレクセイ・ゼルゲンという男を所有者に選んでしまったことだった。術の才覚を持たぬこの男は浅慮から不必要な争いを産み、結果としてナイツ一族との因縁を生み出してしまった。我々の行う精神支配は未だ完全なものとは言えず、所有者の行動はあくまでもその感情や気質に沿った形で行われる。発掘者として卓越した才覚を誇るヘンリー・ナイツは我々にとっても優秀な宿主であった。だがそんな彼に嫉妬心を抱いていたアレクセイは
どうしようもない小物であり愚物であったアレクセイ・ゼルゲン。我々はこの男の一件から宿主として選ぶものは強い生命力と知力を兼ね備えた者でなければならないことを悟り、また個人の発掘者として動くことの限界を知った。次に我々は新興宗教の信徒としてアニマ教を扇動し、多くの戦を引き起こすことで多数のアニマを得るようとしたが、この計画はヘンリー・ナイツの息子、あの忌まわしいウィル・ナイツによって破綻する。不本意な形で陸を追われた我々は発掘者の手の及ばぬ海で勢力を蓄えようと一人の海賊を宿主に選び、またしても蛇のようにしつこいウィル・ナイツの手によって海中へと叩き落される。宿主の力だけで戦うことの不利を学んだ我々は辺境の地、ノースゲートに居を移し、そこで一人の少女と出会った。ミスティ。まだ幼く年端もいかぬ彼女はしかし驚くほどの才覚と精神を持っていた。彼女はアニマを扱う術に長け、そしてまた人々を操る技術にも優れていた。それゆえ、開拓者たちを実験材料として無数のアニマを一つに集め兵器とする実験を進めていた我々の元に、ウィル・ナイツの息子リチャード──リッチ・ナイツが訪れた時も我々は微塵の懸念をも抱いてはいなかった。何しろリッチ・ナイツは愚かにも単独行でこの
これは完全に予想外の行動であったが、しかし瞠目すべき一手ではあった。なるほど、リッチ・ナイツを支配することができればほかのナイツ一族を排除することも容易になるだろう。不運にもミスティの思惑は男の自殺という形で成就しなかったが、敵を味方にするというこの発想は我々にとっても非常に有益なものとなった。
ミスティの肉体を失った我々は南大陸の将校、デーニッツを宿主として選定し次なる行動を開始する。そこで我々は多くのことを学んだ。術の才覚こそが全てであったこの時代において、術不能者として生まれたギュスターヴ13世が“鋼”の武器を用いて軍を組織し東大陸の覇者となったこと。アニマを引き出す術だけが戦いのすべてではなく、また個々の力ではなく数こそが真に戦いの優劣を決するものであること。我々はついにデーニッツをギュスターヴの後継者へと仕立て上げ、多くの人間共の支持を得ることに成功した。鋼鉄で身を固めた我が兵たちにはもはやなまなかの術など効かぬ。ヤーデ伯チャールズを易々と葬り去った我々はとうとうこの世の覇権を再び取り戻すかに見えた。だが──だが戦いが個ではなく数であるように、我々の前に立ちはだかった次なる敵はナイツ一族ではなく名もなき人間たちのつながりだった。サウスマウンドトップの戦いさえ凌ぎ切れば圧倒的な戦力で諸侯連合軍を屠り、返す刀でナイツ一族を根絶やしにさえできたものを。三度我々は敗れた。そして逃げ込んだ星のメガリスで我々を追ってやって来た冒険者たち──我らの宿敵ウィル・ナイツ、その孫娘ジニー・ナイツ、ギュスターヴ15世、そしてヤーデ伯カンタールの娘プルミエール。最期の戦いで奴らによって砕かれた我々は星々を流れ、こうして辺境の星ボロへと辿りついた。多くのアニマを失いはしたが力そのものが消えたわけではない。必ずや我々はあの星に王として返り咲いてみせよう。
敗北から我々は学ばねばならない。しかし、何を学ぶべきなのか? 敗因は一体何だったのか? 我々は長い時間を思索に費やして答えを探る。
人は愚かで、百年足らずで死を迎えるあまりにも儚い生物だ。しかしその人が群れ、武装することで途方もない力を発揮することを我々は知っている。
人から人へと受け継がれるもの。人の意思、人の想い。生殖を行わぬ我々にはもはや遠いその概念が、今では不可思議な光を帯びて我々の感覚器を横切る。人の感情。愛。我々は次に“愛”を学ぶべきなのだろうか。
ミスティ。お前はなぜリッチ・ナイツを愛した。
そして赤薔薇。お前の織り成す物語の結末は如何なるものか。我々は特等席で見物させてもらうとしよう。
卵を握れ、赤薔薇。赤色の血を捨て去って青白い肌を手にせよ。そうすればお前の願いは叶う。
◇
あなたは将来何になりたいの。それはあまりにも唐突で、けれども有り触れた質問だった。あらゆる家族が、親と子とが、いつかは交わすはずの言葉。
尋ねられたことが聞こえなかった振りをして私はぼんやりと窓にもたれかかったまま外の景色を眺めた。せっかくの休日に今日は母と買い物にでかける予定だったのに、生憎の雨で私たちは家に閉じ込められている。気の滅入るように曇り空、ぽとぽとと虫の這いまわるような音を立てる雨足。
「赤薔薇、聞いてるの?」
きいてる、と力なく答えて私は俯く。窓ガラスから伝わる冷気に背中が痺れ、それでもなぜだか離れる気にはなれずに私はそっと息を殺した。
「そうね、お嫁さん、かな。素敵なお嫁さんになりたい」
感情を込めずに言うと、母は「それはまだ早いでしょう」と困惑している。
「誰か気になっている子でもいるの?」
「いないけど」
この人はなんてひどいことを聞くんだろう。
「お嫁さんもいいと思うけど、こういう職業につきたいとかはないの?」
キッチンからは暖かな香りが漂ってくる。夕食のために母が煮込んでいる鼠肉のシチューの匂いだ。いつもならば料理を手伝うふりをして母に甘えに行ったものだったが、この体は強張ったかのように冷たい場所から動こうとはしない。
「もう少したてば高等課程が終わるし、そうしたら晴れてあなたは一人前。どこかに就職してもいいし、もっと学びたいことがあるのなら別の星の大学に行ったって良い」
「うちにそんなお金があるの?」
投げやりに問いかけると、キッチンからむっとしたような雰囲気とともにおたまを鍋のへりに叩き付ける音が聞こえてくる。
「うちにだってそのくらいの貯えはありますー。馬鹿にしないでくださいー」
子供じみた言い方に私はちょっとだけ笑ってしまい、妙にからかうような言い方をしてしまう。
「本当に? 受験の費用だって馬鹿にならないのに? 往復のシップ代があって、学費があって生活費があって、この星の貯金や連絡をやりとりするのにいちいち通信費と手数料を取られるのに?」
「それは……大丈夫だよ。計算してみたけど、結構なんとかなるみたいだから」
「母さんは馬鹿ね」
「うわ。ひどい言いぐさ」
「仮に大学に行くとしても、お金ぐらい自分で稼いで見せるし。一人前だっていうのなら自分のことくらい、自分でなんとかしてみせるし」
「なに、変な遠慮して」
「遠慮じゃないでしょ。自分のお金で学ばなかったら身にもつかない、そういう話でしょう」
「そんなことないよ。たいていの子供はみんな親の金で大学に行くもんだよ」
「私の周りで大学にいく人なんて誰もいないけど」
「ウブリエールは?」
「あの子は発掘馬鹿だからほっといても冒険家になるんじゃない? ほかのみんなだってきっとそうよ」
「それはここがボロだからだよ。もっと別の星に行けば、たとえばマンハッタンみたいな都会では半分以上の子は大学に行くよ」
「おあいにくさま。私はボロ生まれのボロ育ちですの」
憎まれ口をたたく私に、母は妙に心細そうな口調で質問を繰り返す。
「大学に行く気はあるの? ないの?」
「ない」私ははっきりといった。「私は母さんの跡を継ぐわ」
「夢がないなぁ……」
寂しそうに母は言った。私はむきになって言い返す。
「何よ。母さんだって自分でその仕事を選んだんでしょうに」
「私は、ほら、いろいろと事情もあったからさ」
「私にだって事情の一つや二つや三つや四つくらい、あります」
「そうじゃなくてさ」
わずかに声を湿らせ、母が鍋をかき混ぜる音が止まった。
「あなたももう大きくなって、あと少ししたら学校も卒業して……そしたら、そしたらさ、自分で自分の道を選んで、職業について、誰かと出会って、結婚して、新しい家庭をつくって……そういうものじゃない? もちろんここはあなたの家だし、いつでも帰ってきていいけど、でも、子供はいつか独り立ちしていくものでしょう」
「出ていけってこと?」
「そんなことは言ってないよ!」声を荒げたことに動揺したのか、母は力なく「……ごめん」と謝る。
「そうじゃないよ。私だって、いつまでもあなたがいてくれればいいなって思うけど……でも、子供には自分の人生を選ぶ権利があるし、私がその邪魔をするわけにはいかないっていうか……」
「…………」
私は答えなかった。将来のことなんてどうでも良かった。なりたい職業なんてありはしない。結婚して子供を作りたいとも思わない。この家を出ていくつもりなんてまるでなかった。私はただ、この人と、アセルスと一緒にいられたらそれで良いのだ。
けれどももし、それがただのエゴでしかないのなら。
「私がもし、一人でも生きていけるようになって、この家を出て行って、いままで子育てにかかっていた手間や時間がなくなったらさ……」
時が流れて、いつかこの人と別れねばならないのだとしたら。
もし私があなたの人生に最初から存在していないものだとしたら。
「──あなたは、白薔薇姫を助けに行くの?」
はっと息をのんだ母が、しかし冷静にキッチンの火を止め、ゆっくりと息を吐くのがわかった。私は居間の壁に飾られた剣を睨みつけながら重苦しい言葉を吐き出す。それは私が生まれて初めて行う母への反抗だった。
「……ゾズマから聞いたの?」
「……別に、隠そうともしていなかったんでしょう?」
盗み聞きしたとは言えず話をそらす私に、母は緊張した様子でゆっくりと歩み寄って来た。
「聞かれたら答えるつもりではいたよ。何を答えたらいいのかはわからないけど」
「わからないってことはないでしょう。自分のことなんだから」
「自分のことだからわからないんだよ」
悲しそうに呟く母に、私は声を震わせる。
「わからないのは私の方よ。ねえ、教えて。私は一体何なの。どうして、私は赤薔薇なの。一人前になるのなら、出生の秘密くらい話してくれてもいいでしょう?」
「別に秘密なんてないよ。この星で私はあなたと出会った。あなたは自分で赤薔薇だと名乗ったんだもの」
「そんなのはおかしいわ。あなたは白薔薇姫を失って、そしてたまたま私という赤薔薇と出会った。こんなことってある? 何かがおかしいのよ。そうに決まっている」
「……ああ、確かにおかしいのかもしれない。でもおかしかろうが何だろうが、私たちは家族なんだ。たとえそこにどんな思惑があったとしても、私とあなたが過ごした時間は消えたりしない」
「本当に? 母さんは本当に何も知らないの?」
泣きそうになりながら尋ねると、母は神妙そうに答えた。
「……うん」
「でも」と私は声を裏返らせながら、か細い声でゆっくりと続ける。「それでも私は考えてしまうわ。自分自身が何のために生まれてきたのかって。子供にはみな、願いを込めて名前をつけるものでしょう。でも、私はそんな願いすら持たずに産み落とされて、赤薔薇、そんな名前の登場人物として生きていかなけりゃならない。あなたがかつて失ったひと、闇の迷宮に今もなお囚われている可哀想なお姫様の代替品として、私は後生大事に育てられてきたわ。だけど」
私は髪の毛を掴み取り、捧げものを持つ信者のように掲げる。
「ほら、見て。私の髪は赤いでしょう。母さんの髪は緑で私たちは実の家族じゃなくて、それでも母さんは私を本当の娘として扱ってくれたし、感謝もしてる。……でも、見て? 私の色は赤なの。白ではないのよ……」
「私は別に、そんな……。あなたを重荷に思ったことはないし、あなたを白薔薇の代わりにしたつもりもない!」
「なら、どうして私を拾ったの」
「呼ばれたからだよ。あなたが私の名前を呼んだ、だから、私は……」
「そう……。私があなたを求めたの。だから母さんは私を拾ったのね。私が可哀想だから。助けてあげなければいけないような、弱々しい存在だったから!」
「違う!」
「じゃあ、どうして?」
「出会ったその時は確かにそうだったかもしれない。赤ん坊だったし、そのままにしていたらきっと死んでしまうと思ったから。でも、それだけじゃない。それからあなたを育てたのは、あなたが私の娘だから、あなたのことを愛しているから……」
愛している。その言葉の無機質な響きに必死になって耐えていたものがとうとう崩壊して、私の両目からふつふつと涙が零れていくのがわかった。
「わかるけど……それは、もちろん、言っていることはわかるけど……。でも、それは、ただ、私が、白薔薇姫に似ているから愛したのだって、そういうことでしょう?」
「違うよ……どうしてわからないの、赤薔薇。たとえどれだけ似ていたとしても、あなたは白薔薇とは関係のない、違う人間なんだ」
「意味もなく似ているのに関係が無いから、だから苦しんでいるんじゃない。もし本当に私が白薔薇姫自身だったらどんなに良かったか……」
「赤薔薇……?」
「あなたは私を愛してくれた。でもあなたは、娘という役割の私を守るばかりで、私の気持ちに気づこうともしてくれなかった……!」
母は、アセルスは叫ぶ私をどうしていいのかわからずに戸惑っていた。その姿を見ていると訳もわからずに憎らしくなって、私は彼女の襟元を掴み、さっと唇を寄せた。胸がかっと熱くなった。けれども次の瞬間には怖ろしいほどの恥ずかしさが私を襲い、体の中をうず巻いていた衝動や怒りは瞬く間に冷えていった。
「あなたのことが好きなの」
今にも凍ってしまいそうに冷たい涙が頬を伝っていくのがわかった。それは口にしたが最後、もうけして戻ることのできない言葉だった。
「赤薔薇……」
「私は女の人が好きなの。……ううん、そうじゃない。女の人が好きなんじゃない、ただ、あなたのことが好きなの。私はあなたの娘なんかじゃない。そんな役割なんか、いらない。私はあなたが欲しい。アセルス、私を見て! 私はここにいるでしょう? あなたが生んだ娘でもない、人間でも、機械でも、モンスターでも、妖魔でもない、まして白薔薇姫でなんてあるはずもない……ただ、あなたのことが好きな女……」
掠れた声でそう告げてアセルスの手首を握り自分の胸元へと引き寄せる。アセルスは抵抗することもなく、私に抱きしめられた。
「ねぇ、アセルス。あなたが私を大切にしてくれるから、私は自分にそんな価値があるのかと思ってしまう。もし私がいなかったのなら、あなたは白薔薇姫を助けに行ったんでしょう……?」
「そんなことはない……!」
アセルスが私の腕の中で小さく呻く。
「あなたのことが好きよ、アセルス。愛しているわ。……でも、やっぱり、私たちは本当の家族になんてなれないのよ。私はずっと、自分があなたの迷惑になっているんじゃないかって苦しかった。いつも迷惑ばかりかけて、守られているばかりで……あなたに気に入られるため、恩を返すために、いつもいつも気を使って息が詰まりそうだった! まるで家族ごっこよ、与えられた役割を演じるばかりで、私たちは何一つわかりあってはこなかったのだもの!」
「そんなのは考えすぎだ! 親が子供を育てるのは当たり前のことなんだ! 子供はそんなこと気にせず幸せに生きてりゃいいんだ!」
「それでも、そうよ! 与えられたものだけを受け取って、ぬくぬくと素知らぬ顔をして生きていくだなんて滑稽だわ」
アセルスはぎり、と歯を食いしばり、私の肩を掴んで体を引き離す。
「……あなたにだってわかっている筈だよ。赤薔薇。誰も、見返りを求めて人を愛するんじゃない。ただ、私はあなたのことが大切だから……」
傷ついた表情のアセルスに思わず目を反らし、私は唇を噛みしめる。
「ずっとこのままではいられないことだって、あなたにはわかっているでしょう。いつまでも……誰かに守られているばかりでは、どんな卵だって腐ってしまう。いつかは殻を蹴破って、外に出なけりゃ……!」
「赤薔薇……」
「ねぇ、白薔薇姫を助けに行って。私のことを女として愛してくれないのなら、もう、私のことは捨てていいから、あなたの望むことをして」
「できないよ」
「どうして!?」
叫ぶ私に追い詰められるようにしてアセルスは唇を歪ませ、そして壁に掛けられた装飾剣を苦し気に見つめた。
「……刺されたんだよ。白薔薇に」
「刺さ、れた……?」
彼女の言葉が理解できず鸚鵡返しに囁くと、アセルスは泣きだしそうに肩を震わせる。
……確かに、彼女のことが好きだったよ。もしかしたら愛していたのかもしれない。でもわからなかった。オルロワージュに追われていた話は前にもしたね? 彼の手で白薔薇と一緒に闇の迷宮に閉じ込められて、ただひたすらに彷徨い続けて、でも、出口なんて全然みつからなかった……。困ったな、と思ったよ。でもそれほど絶望はしなかった。だって私は一人じゃない。その時は白薔薇がいた。白薔薇がいれば何とかなる、そう思った。針の城から逃げ出した時も、あてもなく旅をしていた時も、白薔薇は私よりもずっとずっと物知りで頼もしかった。彼女はどんな時だって優しくて、完璧で、女神さまみたいな女性だった。……でも、そのうちに白薔薇は突然態度を変えて、それまで見たこともないような冷たい表情をして私を殺そうとした。あなたには失望した、と彼女は言った。旅にわざわざ付き合っていたのは私を苦しめて楽しむためで、でももうそれは飽きたからオルロワージュのところに帰ることにする、そういって私は何度も私の体を切り刻んだ。訳が分からなかった。怖くて怖くてたまらなかった。闇の迷宮に閉じ込められたものは大切なものを犠牲にしなければ抜け出せない。だから、白薔薇は私を残して出ていくつもりだった。“あなたは私の大切な玩具だったけれど、でも、もういらない”。 面と向かってはっきり言われたよ。見ていた世界が音を立てて崩れていくのがわかった。もう何もかもがどうでも良い、そんな気がした。白薔薇がそんな風に私を思っていたのなら、もう生きることになんの意味もない……仕方がない……そう考えて、彼女の剣に身を任せた。彼女が自由になるのならそれでもいいか、そんなことも思った。どうせ私には生きる気力もやりたいことも無い。……だったら、私よりも強くて、私よりも賢くて、そして何よりも自分がどうしたいのかを知っている彼女が生き残るべきなのかもしれないとも思った。
でも……そう言った途端、彼女は私のお腹に剣を突き刺して、迷宮の扉から叩き落した。気を失う直前に彼女の声が聞こえた。なんて詰まらない女。こんな女をここに残して、私を助けるために犠牲になっただなんて自己満足に浸られるなんて癪にさわる。……だから、ねぇ、アセルス。私はやっぱりここに残る。あなたは私を犠牲にして生き残り……そして、一生、苦しみ続ければいいわ。
「だから……白薔薇姫の剣、
「そんな」私は言葉を失う。「そんなひどいひと、さっさと忘れてしまえばいいのに……」
そう口にして、辿りついたその答えに私はよろめいた。それはあまりにも残酷な事実だった。そこまでむごい裏切りを受けてなお、アセルスは彼女のことを忘れずにいる。彼女のことを想い続けている……。
「しろばらひめのことがすきなの?」
呆然としたまま私は言った。アセルスは苦しそうに首を振る。
「わからないよ。今でも」
「私ではだめなの?」
「……赤薔薇。私はあなたのことが好きだよ。でも……」
口ごもるアセルスを私はただじっと見つめていた。助けてほしい、と心の底から思った。だが次に彼女が口にした言葉は、私を徹底的なまでに打ちのめすものだった。
「あなたは……白薔薇になんか似ていない。ちっとも似ていないよ。あなたは白薔薇の代わりなんかじゃない。今日、あなたと話してそれがよくわかった。あなたは、たぶん……私に似ているんだ。いま思い出したよ。私もそうだった。叔母さんに養われることが、嫌で嫌でたまらなかった……。あなたは私に、よく似てる。あなたのことが好きだよ、赤薔薇。でも、私は自分の事があまり好きにはなれない。自分を愛することはできないよ……」
そうして、とうとう、私は自分が恋に敗れたことを認めた。
もうそれ以上の言葉を聞いていることはできなかった。私はアセルスを突き飛ばして一目散に家を飛び出していった。
◇
風が吹いていた。
名前も知らない風だった。どこからやって来たのかも、そしてどこへ行くのかも、何一つ知らずに風は私を取り巻き、そして嬲っていく。惨めにのどをしゃくり上げ、涙で瞼を腫らして、私は墜落した星々に穿たれた荒野を一人歩く。
──さぁ、卵を握れ。
頭の中で誰かが言った。ミスティとは違う声だった。
──お前は支配者になれる。
誰かが言った。なりたくない。私は答えた。そんなものになりたかったわけじゃない。私は“支配”なんか望んでない。
足を一歩進める。自分がどこへ行こうとしているのかそれすらも定かでないまま、私は今にも痙攣しそうな足を持ち上げる。
──お前は白薔薇になれる。
誰かが言った。なりたくない。私は答えた。私は赤い。私は赤薔薇。この体の中にはいま、赤い血潮が流れている。
足を一歩進める。風の吹くままにさすらう旅人のように、ここではないどこかへと目指して私は大地を踏みしめる。
「ようく考えて、赤薔薇」
懐かしい声が聞こえた。それはミスティの声だった。珍しく、私を心配するような声だった。……そんな言い方は、あなたには似合わない。
足を一歩進める。自分の体が少しずつ変わっていくのがわかる。腕や指が少しずつ開かれ、重苦しい音を立てて蠢いている。
「あなたの願いはなに? あなたが望むものは、どんなもの?」
ミスティが私に尋ねる。私は次第に不鮮明になっていく意識を必死に手繰り寄せ、私の愛を考えた。
「私は」
そしてまた誰かが言った。
──さぁ、卵を握れ。
──お前は支配者になれる。
──お前は白薔薇になれる。
そしてまた誰かが言った。
──このリージョン界において、主だった種族は四つあります。ヒューマン、妖魔、メカ、モンスター。この四つデス。
──いいえ。できなかった。手に入れたと思ったその瞬間に、私は彼を失っていた。だから赤薔薇、あなたにはそんな思いをしてほしくないの。
……気が付くと、目の前が真っ赤になった。景色が変わったんじゃない。眼球からとめどなく零れ落ちる血液が、私の視界を真紅に染める。その内にぶちりと音がして私の眼は見えなくなった。
「ほんとうに、それでいいの?」
ミスティが言う。私は答える。
「どうせ叶わぬ想いなら」
もう、何も見えない。突然訪れた暗闇の中で、けれど私は恐れることなくこの荒野に足を踏み出す。必要のなくなった靴を脱ぎ捨て、石ころだらけの地面を素足で踏みしめる。ガラスの欠片や金属片が突き刺さり、足は瞬く間に裂け、滔々と血が流れていく。踏みしめてなお溶け出す私の血液、ぴちゃりと濡れ、静かに流れだす私の命。
腕は高らかな軋みを上げ、千々に分かれた。肌が堅い皮に覆われ、汚らしい苔色に染まる。
どうしようもない飢餓感に何気なくお腹を撫でると、しゃふ、と柔らかな音がして内臓が転げ落ちていくのがわかった。
そしてまた誰が言った。さぁ、卵を握れ。
私は荒野に立つ。それはあの小さな星が墜落した場所、私が
お前もいつかは産んでやらなきゃ。無意識に私は囁き、ゆっくりと卵を拾い上げた。
私は考える。
こうして卵を握るなら、きっと私は大罪人だ。恋に敗れたというただそれだけで、こうして卵に手を伸ばすのだから。
けれども。
こうして願いが届かないなら、愛する人ひとり振り向かせることができないのなら、女の悲しみ一つで世界は滅ぶべきだ。きっと。
私は言った。
さぁ、
私の願いを叶えなさい。
そうして少女は母になり、──そうして、少女はけだものになる。
少女は言った。
長く哀しい遠吠えが荒野に響き渡る。
それは乙女の咆哮だった。
◇
……そうか。それがお前の答えなのか、赤薔薇。
……良かろう。ならば致し方あるまい。物語の話をしよう。
世界の果てで一匹の怪物が生まれる。
怪物の名は赤薔薇。だがその怪物は薔薇の姿をしてはいない。
それは捩くれた
欲しい欲しいと啼くのだ、その枝葉の一つ一つが。無闇矢鱈と繰り返す単為生殖で膨らませた雌しべはぼとりぼとりと斬首の音を立てて種をひりだし、破裂した種は辺りを飛び交う小鳥を捕まえてはぎうぎうと圧し固めて一つの肉塊とする。そうしてできた命の玉を自らの洞へと取り込んで血を啜り肉を齧りと赤薔薇は進む。その身にはらむ本能のまま、星屑のリージョン、ボロ、この辺境の星に暮らす一人の半妖の家を襲う。巨大なその体で屋根へとのし掛かればいとも容易く家は倒壊しその中から険しい顔をして女が飛び出してくる。女の名はアセルス。アセルス・ナイトレス。女は何しろいましがた飛び出した娘を心配していたのだが、まさかその娘が植物型のモンスターとして帰って来たとは思わない。突然変異の化け物かはたまた針の城からの新たな追手かと考えを巡らせ、こんな時に娘が家にいなくてよかったと少しだけほっとする。もはや剣を持たない彼女だが自衛のためにいくらかの武器は当然備えており、取り出した
ここは私の家だ。私と私の娘が帰る場所を壊すな。
そう叫んだ女は床に転がる小瓶の中身を飲み干し、見る間に妖魔へと姿を変えた。
戦う理由が私にはある。手に持った鉈を構えて女は言う。途方もない質量を秘めた鋼鉄の枝を何度なくその身に受け、打ち据えられ、しかし女は立ち上がる。怪物がぶるりと身を震わせると赤い果実が無数に落下し、爆発して溶解液をまき散らせた。呻き声をあげて顔を覆う女の皮膚は無残に焼け爛れるが、しかし、見よ。べろりと剥がれ落ちたその皮はしかし血液に縫いとめられるようにしてするすると宙を飛び再び女の顔面を象っていく。
怪物の鋭い根が女の柔らかな腹を削ぎ落とした。だがその根を無造作に掴み、女は力任せに叩き割る。耳を覆いたくなるような叫び声があがる。だが痛みに絶叫する怪物には構わず、女はその樹木への中心部へと歩みを進める。
私は赤薔薇を待たなきゃならないんだ。邪魔をするな。
冷たく告げて強引に枝を切り払い、中心部の核を握りつぶす。戦いはあっけなく終わった。赤薔薇という名の怪物はアセルスの手によって討伐された。
そして──。
その手で赤薔薇を滅ぼして、ようやくアセルスは取り返しのつかないことをしたことに気づくのだ。
妖魔が妖魔武具でモンスターを絶命させるとき、そのアニマを憑依させる。赤薔薇の魂がアセルスの右手──妖魔の小手に吸い込まれていく。流れ込む赤薔薇の意識に全てを悟り、アセルスは絶望の嘆きを上げた。
そう、赤薔薇は知っていた。それはアセルスの命を救った紅にさえできないことだった。赤薔薇が手にしたものの名を我々は既に知っている。
それは“永遠”だ。
ヒューマン。妖魔。メカ。そしてモンスター。この四つの種族の中で唯一モンスターだけが妖魔と一つになることを許される。
支配者になるのでもない。白薔薇になるのでもない。赤薔薇はアセルスを自らのものにしようともしなければ自らの愛を叶えようとさえしなかった。
赤薔薇はただ願ったのだ。アセルスの幸福を。彼女が前へと進むことを。そして選んだ。彼女の武具に憑依し、とこしえに彼女を守護することを。
なんと馬鹿な娘だ。
お前は……。
……。
……赤薔薇。モンスターとなったお前の魂が泣き崩れるアセルスへと語りかける。あなたのことを、愛している。だから、私のことを愛してくれなくてもいい、せめて、自分自身のことを愛してほしい、と。
私が愛したあなたを愛して。あなたが望む未来を目指して。最後にそう言い残してお前は滅びを迎える。ただ純粋な力、どこまでも無垢にアセルスを守護する力として、そっと幽かな光を小手に灯す。
……もういいだろう。あとはアセルスの意識を乗っ取り、このボロに住む全住人のアニマを吸い取るとしよう。
「──本当にそれでいいの?」
我々に語りかける者は誰だ。ミスティか? お前はもう用なしだ。引っ込んでいろ。
「──何か忘れていることはないの?」
……。忘れていること……? そうか。我々は何を学ぶべきなのか、それをすっかり忘れていた。我々はかつてあのサンダイルで“愛”によって負けたのか。その答えを出さねばならん。だが考えたところで答えは出まい。此度の事件でお前が示したものが、真に愛と呼べるものだったのかどうか我々にはわからぬ。このようにエゴイズムに満ち、歪んだ末路を迎えることが果たして愛なのかといえば理解に苦しむ。仮に愛だとしても、我々にお前の如き自己犠牲を行うつもりは微塵もない。我々は覇者であり、支配者なのだから。
だが──ああ、確かに認めねばならないのかもしれぬ。これは負け戦だった。我々はいずれお前が誘惑に屈するものと高を括っていた。アセルスを支配し、その愛を手に入れるか、さもなければ白薔薇へと変じるのだろうと思っていた。だが、そのいずれの予想をもお前は超えた。最期の選択でお前は怪物になることを受け入れた。恋に敗れたお前は自暴自棄なままアセルスを食い殺すのだろう、我々はそう考えた。女というものは一時の感情で全てを滅ぼそうと考える生き物だ。所詮はお前もその類であるとばかり決めつけていたが、そうではなかった。
……認めよう。我々は敗北した。勝ったのはお前だけだ。お前は紛れもなく自らの望みを通して見せたのだ。……そうか、お前は我々がこの後どうするか、それすらもわかっていたのか? そんなはずはあるまい。これはただの気まぐれだ。我々はそれほど甘い存在ではない。……いや、これは考えても詮無いことか。お前の勝ちを認めた時点で我々の行動は決定しているのだから。
ああ、そうだ、赤薔薇。お前はあらゆるものに勝利した。我々がお前を精神支配することができなかったのはお前にアニマが存在していなかったからだ。今まではそう考えていた。だがそれはもしかしたら──お前の中にひっそりと眠るアニマが元は別の誰かのものだったからかもしれない。そうだ、お前はもともと何者でもなかった。ただ、アセルスを愛するために造られた赤薔薇だった。だが今は違う。この結末がお前の魂を証明する。お前のアニマは確かに妖魔の小手へと憑依した。お前は自らの力で命を獲得したのだ。
認めよう、赤薔薇。お前の意思、お前の選択を。そして誓おう。お前の望みを叶えることを。些少ではあるがこの我々の力もまたアセルスに流れ込んでいる。少しは助けになるだろう。
構わぬ。それなりに面白い余興だった。お前の愛したアセルスが滅び去るまで、我々はしばし眠らせてもらうとする。どうせ大した時間ではあるまい。百年、あるいは千年。アセルスがその生を全うするまで、久遠を生きる我々にしてみれば取るに足らん時間だ。
精々その時間を存分に味わえ、赤薔薇。お前がそう望んだのなら。