目の前で正義が悪に勝利するのを馬鹿はずっと眺めていた。自分が想像していたほどの感慨は湧かなかった。腹の底から沸き起こるような歓喜も、それが自らの前にはけして訪れなかったという失望もない。
正義が悪に勝利する。その事実が喜ばしいものであることを馬鹿はおそらく知っていて、けれども心は動かなかった。ただただ茫洋と迫りくる徒労に舌の根がもつれていくような、不快な感覚だけが強く残る。
崩れ落ちるような眩暈にたたらを踏んで馬鹿は──黒騎士セアトはそっと額を押さえる。
この世には正義の味方がいる。その正義の名はアルカイザーという。
アルカイザーは悪の組織ブラッククロスの四天王、シュウザーと闘い、そして勝利する。
「かくして世界には平和が訪れる……か」
ぼんやりと、戸惑うように囁いてセアトは立ち尽くす。
宿敵をついに倒したアルカイサーはセアトに助力に感謝して立ち去って行った。あとに残されたのはセアトただ一人のみ。──ただ一人? いいや、それは違う。セアトはもはや人ではない。一人、という言葉は適当ではない。一人という言葉は、あくまでも人間に向けて使われる言葉だろう。いま、ここ、この場所には、一人もいない。“人”であるものはもう誰も生きてはいないのだから。
セアトは焦げ跡の色濃く残る床に目を向ける。そこにはあまりにもみじめな姿をしたシュウザーの成れの果てが這いずっている。人であることを捨て、全身を機械と化したブラッククロスの四天王。小此木烈人の攻撃によって四肢を損壊し、芋虫同然になったシュウザーは息も絶え絶えに呻きながらひっしに床を這っている。
「し、死なん……俺は……死なんぞ……」
瀕死のシュウザーはセアトの存在すら忘れてしまったかのように一心不乱にもぞもぞと蠢いている。
「馬鹿め……アルカイザー……返り咲いてやるぞ……俺はまだ……次は……お前を……殺してやる……殺して、やるぞ……」
シュウザーはぐぷぐぷと唇の端から血の泡を吹きだす。しかしそれはこみ上げる血に喉を詰まらせているのではない。
彼は、ただ嗤っているのだった。
自分に止めを刺さなかったアルカイザーの甘さや弱さ、そして復活し復讐を遂げられることに喜び、ほくそ笑んでいるのだった。頬の肉をびくりと痙攣させて笑うシュウザーの眼に、セアトは写っていない。重傷を負い朦朧とする意識では、正確に状況を判断することもできないのだ。自分の近くでセアトが冷たい目つきをしていることにも気が付かないのだろう。
「おい」
静かに声をかけると、シュウザーは面白いように動きを硬直させた。満足に動かない上体を軋ませるようにして捻り、ぎょろりと目を剥く。
「み、見逃してくれえ……」
顔には出さなかったが、その言葉を聞いて思わず笑ってしまいそうになった。それほどまでにみじめで、情けない声と表情をしていた。
「さきほどの威勢はどうした?」
「“付き添いだ”とそう言っただろう……お、お前は、さっきの戦いにも手を出さなかった……」
「確かに」
セアトは頷く。
「アルカイザーが戦うというなら、俺に口を出す筋合いはない。──だがな、シュウザー。そしてお前を見逃すかどうかといえば、答えは否だ」
「ひ……」
シュウザーの声が裏返る。
「い、いやだ……。死にたくない……。死にたくないんだ……た、助けてくれ……」
「……」
「金をやろう……お前が望むならブラッククロスの秘密でも武器でもなんでもやる! だ、だから……命だけは……」
「……」
「な、なにが望みだ……? お前はヒーローでも何でもない……」
「……ああ。そうだな。俺は妖魔、針の城の黒騎士。人間世界の諍いにかかわる気はない」
「な、なら……」
「だが、お前は殺しておく」
「何故だ!?」
「先ほども言った筈だ。因縁がある、と」
「因縁……? お前さっきもそう言ったな……。名は二号だと……。そ、そうか……まさかお前は……」
「そうだ。俺は四天王シュウザーを造り出すために改造され、そして廃棄された実験体だ」
「恨み……復讐か……。選ばれなかったものが……選ばれたものを追い落とそうと……」
「どうだろうな。俺にもわからん。それなりの時が過ぎた。昔ほどお前を羨んでいるわけじゃない。だが、それでも……お前はここで殺しておくべきだろう」
「フ、フフ……」
「……何か、おかしいか?」
「ああ、おかしい。結局は何も変わらん。選ばれた者と選ばれなかったものとが入れ替わっただけだ。何が違う? 組織のために改造され、かつてはお前が選ばれず、俺は四天王となった。そして今、俺は死に、お前だけが生き残る……。ならば俺はこう言い残すだけだ。“なぜ俺ではなくお前なのだ”と」
「……ああ、そうだな。何も変わらん。俺もお前も……。だが、生き残ったのはこの俺だ」
「……俺は、やはり死ぬのか?」
「ああ」
「いやだ……。死にたくない……。俺は生きたい! なんのために改造の激痛に耐え四天王になったんだ? 俺は最強だ! そうでなければ意味がない……! いつかはほかの四天王を皆殺しにし、俺こそがブラッククロスの頂点に立つ筈だったのに……この世の、王に……俺は……」
セアトはその言葉にこたえることなく、シュウザーの背中へと無慈悲に剣を差し下した。
「あっ……」
短い叫び声を上げて一瞬痙攣し、シュウザーは沈黙する。
動かなくなったシュウザーを見下ろしてセアトは奥歯を噛みしめる。顔を上げ、挑みかかるように天井を睨みつけて──何もかもこの男の言う通りかもしれない、と考える。
「この世の王に……か……」
身の程知らずの言葉だとは思わなかった。これから死ぬ男が口にするには随分と悲しい言葉だと思いはしたが笑う気にはなれない。
きっと、男なら誰であれ夢見るものなのだろう。誰よりも強くありたい。支配者でありたいと願うことは。
たとえその願いの多くが叶わないものと知っていて、それでもなお諦めきれない願望が男にはある。
最強であること。
王であること。
自分は一体どうなのだろう、とセアトはふと考える。イルドゥンほど自らの強さに拘っているつもりはないが、かといってラスタバンほど無関心であるつもりもない。
(俺は……王になりたいのか)
誰に問うでもなく、心の中でそっと呟く。
(俺は……)
セアトはシュウザーの亡骸へ手を伸ばした。シュウザーの体に残された数少ない武装を剥ぎ取り、自らのものにする。これまで彼が数多くの妖魔に対してそうしてきたようにその力を奪い、わが物とする。
「それでも、勝ったのは……生き残ったのはこの俺だ。……そうだろう……セアト……」
呟いて、セアトは再び天を仰ぐ。シュウザー基地の最奥、人工物に取り囲まれたその部屋からは、星々を臨むことはかなわなかった。
◇
むかしむかしのお話です。
あるところに一人の馬鹿がおりました。馬鹿は馬鹿で馬鹿なのですから、自分が馬鹿であることにも気づいていませんでしたが、しかしあるとき悪の組織の実験体として改造されて、ひょんなことから人並みの頭を手に入れました。喜ばしいことではありました。何しろ馬鹿は馬鹿でなくなりました。その他おおくの人々がそうであるように、それなりの知能とそれなりの常識とを手に入れたのです。
けれども──ふと元馬鹿は思うのです。己が馬鹿であったころ、自分は様々な人間に笑われ、都合よく利用されてきたわけだけれども、やっぱりそれは許せないことなのだと。
だってそうでしょう。石を投げられたのです。川へ投げ落とされたのです。心の底からの親切を馬鹿にされ、口に出す言葉の尽くを笑われてきたのです。
元馬鹿には誇りというものがありませんでした。心の底をさらってみても、これっぽっちも存在してはいなかったのです。何かを成し遂げたことや、ほかの人よりも優れていると思えるようなこととが何一つありませんでした。そうしたことを体験しかけても、必ず誰かが馬鹿の前に割り込んでは「馬鹿だなぁ、どうしてそんなことをしてしまうんだい。迷惑だよ」と言って殴りつけてくるので、馬鹿は「ごめんよごめんよ」と言ってへらへらと愛想笑いを浮かべなければならないのです。
だから馬鹿は思うのです。こうして人並みの頭を手に入れて、けれども自分はもはや取り返しのつかない場所にいる。“失ったものを取り戻したい”とそう感じながら、時が戻ることはない。
馬鹿は贖いを求めました。ごくごく自然な流れです。自分が笑われたその分だけ、別の誰かを笑いたい。他人よりも優れた存在になって、高いところから見下ろして、そうです、ああ自分は生きている価値のある生き物なんだ、と心の底から信じることができなければ、何のために生まれたのかわからないではありませんか。
幸いにも馬鹿は黒十字団という悪の組織の実験体でしたから、自分の体を改造して強くなることはそれほど難しいことではありませんでした。馬鹿の改造を担当していた“博士”を暴力で屈服させ、自分自身の改造を手伝わせます。馬鹿はぐんぐん強くなっていきました。醜かった姿かたちも美しく整い、その立ち振る舞いにも自信が漲るようになります。馬鹿は少しだけ笑うことができました。ほんの少しだけではありましたが、自分のことを好きになれそうな気がしました。
改造を続けるうちに、馬鹿は博士と仲良くなります。馬鹿は博士を無理やり殴りつけて言うことを聞かせていたのですが、博士は妙に懐いてくるのです。へらへらと、弱々しい愛想笑いを浮かべてすり寄ってくる博士を見ていると不思議な気持ちになりました。博士の卑屈な態度というのは、つまるところかつての自分自身の姿そのものだったからです。馬鹿はなんだか博士を殴るのが嫌になりました。博士を殴るのをやめる代わりに、馬鹿は博士にやさしくすることにしました。
そうして、馬鹿と博士は友達になりました。
実際に友達だったのかどうかはわかりません。「お友達になりましょうね」と言ったわけではありません。「いいよ」と返事をもらったわけでもありません。でも馬鹿は時々空を見上げて博士のことを思い出します。それは何百年もの時間が過ぎた今でも変わらないことなのです。
馬鹿はその後も博士とともに仲良く改造を続け、そして当然のように敗れました。敗北したのです。馬鹿は四天王シュウザーを造り出すために改造されていたのですが、そうして改造されていたのは何も馬鹿だけではありませんでした。選ばれるのはいつも、ほんの一握りの存在なのです。博士は処刑され、馬鹿たち実験体も処分されることになりました。
そこで馬鹿は一体の妖魔と出会います。彼女の名はアルキオネといいます。アルキオネは悪の組織の四天王として馬鹿を処分しに来たのですが、結局彼女は馬鹿を殺さず、逆に馬鹿を妖魔にしてくれました。「あたしがお前を選んだら、お前はあたしを選んでくれる?」と彼女は言いました。なぜそんなことを言うのかも、彼女が何を考えているのかも馬鹿にはわかりませんでした。でも構うことなんかありません。死ぬことに比べたらそれが何でしょう。それにだいいち、彼女は馬鹿を選んでくれたのです。生まれて初めてのことでした。理由が何であれ、彼女は馬鹿を選んでくれた、「あなたがいい」とそういってくれました。馬鹿には嬉しくて嬉しくてたまりませんでした。
馬鹿は妖魔になりました。人間をはるかに超える寿命と力とを手にすることができました。薄汚い人間とは違う次元を生きる美しい種族。馬鹿はとても喜びましたが、やがて妖魔の社会のことを知ると大いに落胆します。妖魔の社会は完全な縦社会。妖魔は格上の妖魔にはけして敵わない。そんな話はないじゃありませんか。誰かに馬鹿にされるのが嫌だから人であることを捨てたのに、ようやく妖魔になったと思えばまた別の妖魔に頭を下げて生きていかなければならないなんて。
それでも馬鹿は諦めませんでした。後天的に妖魔となった馬鹿の格はといえば、始祖たる炎妖アルキオネに劣る下級妖魔でしたが、それならばと馬鹿は強くなるために考えました。妖魔という生き物はけしてその肉体が成長することはありません。けれども、モンスターの魂を憑依させて力を手に入れることはできましたし、他の妖魔には用いることのできない力──黒十字団の保有していた武器を初めてとする“道具”を使うことが馬鹿にはできました。また馬鹿は積極的に他の妖魔に対して吸血を行いぐんぐん強くなっていきました。
生まれ持った“格”はけして変わらないはずの妖魔である馬鹿が──たとえば何の力も持たない筈のちっぽけな半妖がその身に流れる血から驚異的な成長を遂げていくように──ようやく中級と呼べるだけの実力を手に入れたそのころ、彼はとある妖魔の君と出会います。
それはまさに衝撃的な出会いでした。妖魔の中の妖魔、魅惑の君、妖煌帝オルロワージュはまさに馬鹿がこうありたいと願う姿そのものだったのです。何者にも侵されぬ強さ、いかなる時にも揺らぐことのない誇り。
“うらやましいなぁ”馬鹿は素直に思いました。こんな生き方ができたら幸せだろう。自らを恥じたり不安に思うことなど何一つなく生きていけたら、それはどんなに暖かな気持ちのするものだろう。馬鹿はオルロワージュに憧れました。自分もこんな存在になりたい、ならなければ、と、そう思ったのです。もともとはただ単に成り上がるためにアルキオネの口利きで妖魔の君へと近づいた馬鹿ではありましたが、この時ばかりは偽りのないまっすぐな気持ちで頭を垂れ、『どうか私を配下にお加えください』と言うことができました。恐る恐る返答を待っていると。オルロワージュは不思議なことを尋ねます。
お前は、永遠をどう思う?
永遠……でございますか?
はて。これは一体どのような意味を持つ質問なのでしょう。たとえば忠誠心が本物かどうか、あるいは馬鹿を部下とすることにどれだけの益があるのか、そういったことを訪ねるのでしたらわかります。馬鹿は実際にそのつもりでおりましたし、その類のことでしたら得意ではないにせよある程度は雄弁に語りつくせる心持でおりました。けれども、永遠。オルロワージュの問いはまるで見当の違うものでした。予想だにしなかった質問に、馬鹿はほんの少しだけ本音を漏らしてしまいます。
……そう、難しく考えずとも良い。余は何も、お前を試そうとしているわけではないのだ。ただ永遠を、“永遠”と呼ばれるものをどう思うのかを尋ねているだけだ。思いついたことを口に出せば良い。
永遠……でございますか。永遠、永遠……。永遠、とは……とても……長く、どこまでもどこまでも続いていくこと、絶えることのないもの……そういったもののことでございましょうか。
ああ、そうだな。永遠とは、継続であり、延長であり、そして不変である……そういう意味を孕む言葉であろう。お前はその永遠をどう思う?
私には……よくわかりません。恥ずかしながら、これまで考えたこともありませんでした。
では、今、考えよ。焦らずとも良い。時は永遠にある。
え、い、えん……とは……。私は……。
うむ。
──申し訳ございません。私には、わかりかねます。
そうか……。
申し訳ございません……。
いや、良い……。では質問を変えるとしよう。お前にとって、永遠とはどういうものだ。これまで、永遠と呼べるようなものを感じたことはあるか。
永遠……それは、生きることや、死ぬこと……そういったことでしょうか。
ふむ。それがそなたにとっての永遠か?。
……いえ……。
では、何だ。
私は、わかりません……。ですが、こうして妖魔として何百年という時を生きてみて、もしも“永遠”が……いつまでも変わらぬものがこの世にあるとするのなら、私にとってのそれは“名前”である……のかも、しれません。
名前……? ふむ……。
かつて人間であったころ、私には一人の友人がいました。……いえ、今となっては、そいつが友人と呼べるものだけの関係だったのかどうか定かではありません。それまでに友など持ちえたことはありませんでしたし、それ以後もありはしませんでした。だから、本当の意味では、私は“友”というものが何なのかわかってはいないのでしょう。ですが、それでも、私は今でもそいつのことを忘れずにいます。何十年、何百年と時を経て、それでもなおとうに滅びた人種族のことを思い出すことがあります。──その男の名は、セアトといます。
……ああ。なるほど……。それが、そなたにとっての永遠なのだな……セアトよ。
おそらくは。
友……。そうか……。なかなか面白い話であった。よかろう、妖魔セアトよ。そなたはこれより“黒騎士”を名乗るがよい。
黒騎士……でございますか。
そうだ。この針の城には無数の乙女たちが眠っている。余にはその乙女を守る騎士が必要だ。そなたは黒騎士として余に仕え、そしてあらゆる敵を排除せよ。
……はっ。身に余る光栄、恐悦至極に存じます……!
……と、まぁこうして馬鹿はオルロワージュに仕えることとなり、後にファシナトゥールが誇る恐怖と力の体現者として謳われる黒騎士の、その第一の騎士として選ばれたのでした。
馬鹿は舞い上がりました。何せ憧れの人から直々に任命されたのです。黒騎士、という名前もなんだか随分とカッコ良さそうではありませんか。ようし、自分はオルロワージュ様のために身を尽くして働くんだ。そうして、いつか自分もオルロワージュ様のように立派になってやるんだ。そう心に誓って、馬鹿は来る日も来る日もあるじのために身を粉にして尽くしました。忠誠という言葉も滅私奉公という言葉も、妖魔のその生き方からはほど遠いものとはまったく気づかぬままに。
初めて馬鹿が疑問に思ったのは、それから何百年もたって新たにイルドゥンとラスタバンとが黒騎士に任命された時でした。それまで黒騎士は馬鹿だけだったというのに、一気に3倍になったのです。最初のうちは、イルドゥンが主であるはずのオルロワージュに対等な口を利くことに対してただ憤慨していた馬鹿でしたが、そうしてイルドゥンを敵視している内にやがて違和感を覚えます。イルドゥンの不遜とオルロワージュの泰然とは、底を同じとするものなのではないかと。妖魔としてより正しいのは──自分やほかの妖魔達がオルロワージュに平伏し畏怖を捧げるような生き方ではなく──イルドゥンの方なのではないか、と……。
馬鹿は、また少しだけ昔のことを思い出しました。
妖魔になったあの時には、自分はもう誰からも支配されないと歓喜した筈だのに。誰に頭を下げることもなく、何の支配も受けずに生きていけるはずなのだと信じていたのに。──自分は今こうして、また誰かに敗北し、膝をついている。それは一体なぜなのでしょう。世界は一体、どうなっているのでしょう。馬鹿は来る日も来る日もイルドゥンのことを観察するうちに、段々と羨ましくなってきました。こういう風に生きられたらいいなぁ、と自分が考えていたその生き方を、まさにイルドゥンは体現していたからです。自分のやりたいことだけをやり、ただどこまでも自らのみを恃むこと。自身の生き方を曲げないこと。そこでようやく、何故オルロワージュがイルドゥンを黒騎士に選んだのかが馬鹿にもわかりました。イルドゥンはどこかオルロワージュに似ていました。
では、自分は?
馬鹿は深く考えます。自分はなぜオルロワージュに選ばれたのだろう。自分はオルロワージュに似ているところがあるのだろうか? 永遠に関するあの質問には何の意味が?
心に落ちた一滴の不安はじわじわと滲み、馬鹿の焦燥は深まります。
ああ、イルドゥンが妬ましい。
だってそうでしょう。いくら妖魔と言ったって、本当のところは誰彼構わず喧嘩をふっかけて生きるわけにもいかないし、ある程度は妥協して我慢して、自分より強い相手には尻尾を振って見せなければ。だってそうでしょう。妖魔の格が絶対だというのなら、たった一体の支配者を除けばそれ以外の妖魔は全て敗北者に堕す筈なのです。イルドゥンだって例外ではありません。オルロワージュと闘って敗れ去ったのなら本当のところは滅んでいる筈だし、そうでなくとももっと腰を低くしているべきでしょう。それなのに。それなのに。それなのに。
どうして。
……馬鹿は、少しだけ疲れてきました。妖魔として長い長い時を生きるにつけ、はじめは見えていなかったものが段々とその輪郭を露わにします。イルドゥンのようになりたい、ならなければ、とそう憧れながら、しかし同時にイルドゥンを強く妬み、憎むようになります。
ある時、馬鹿はオルロワージュからとある少女の世話を命じられます。ヨノメヨチコ、という人間の少女です。ちっぽけな人間でした。大して美しいわけでも賢いわけでもない、むしろどちらかといえば馬鹿一直線と言っても過言ではない少女でした。というよりも馬鹿でした。オルロワージュからは何があってもヨノメヨチコから目を離さず守るようにと命じられてはいましたが、そんなことをする価値があるとはどうしても思えませんでした。オルロワージュと話しているときはどうにもすまし顔でいるようではありましたが、主の見ていないところではきっと鼻でもほじっているに違いありませんし、たとえそうでなかったとしてもいつかほじり出すに決まっているのです。人間、というのはそういう不完全で醜い生き物なのです。馬鹿の中ではそうなっているのです。
……部下である森の従騎士ウロネブリはいつの間にかにヨノメヨチコと仲良くなって、今日も遊ぶ約束をしています。よーちーこーちゃーあーん。あーそーびーまーしょおー。
あのね今日はねえヨチコちゃんにおせんべいのね焼き方を教えてもらうんだよお。そう言ってニコニコしながらウロネブリが報告してきます。そうか、とだけ馬鹿は答えました。何をやっているんだこいつは、と思いはしましたが、馬鹿はウロネブリを傷つけたくありませんでした。ウロネブリを配下に加えてから彼女の身の上話を長々と聞きだし、気が付くと馬鹿は段々ウロネブリを甘やかすようになっていました。ウロネブリがそうしたいのならば仕方がない、好きにさせよう。そう考えはしましたが、しかし馬鹿自身はヨノメヨチコと口をきこうとは思いませんでした。
正直に言います。馬鹿はヨノメヨチコが嫌いでした。まず第一に人間が好きではなかったし、その点を除いても彼女にオルワージュが拘るだけの価値があるとはどうにも思えなかったのです。彼女に綺羅星のような美しさがあればまだ耐えることはできました。彼女に当意即妙の知恵があればまだ忍ぶこともできました。けれどもヨノメヨチコは無為でありました。無能極まりない馬鹿でありました。だからもし、何故ヨノメヨチコなのかと聞かれればそれはオルロワージュが選んだからだとしか言いようがありません。何の努力も苦しみもなく、ただ“選ばれた”というそれだけで彼女は妖魔の君の寵愛を受けたのです。
ヨノメヨチコが人間としての短い生を終えた時、ウロネブリは泣いていました。きっと幼い彼女は人の死というものをまるで理解できていないだろうから、きちんと教えてあげないといけないなぁ、などと考えていた馬鹿は拍子抜けしました。
意外なことは他にもあります。ヨノメヨチコを失ったオルロワージュはファシナトゥールへと帰り、長いあいだ目を覚ますことはありませんでした。仮にも妖魔の君ともあろう存在が、たかだか一人の人間の死に傷ついた。その驚きを、馬鹿はわずかな親しみや軽蔑と共に受け止めます。
オルロワージュが眠っている間、馬鹿には暇ができました。もちろん針の城の秩序を維持するという大義はありましたが、王の恋人たちの世話に奔走することはなくなりました。しかしやらなければならないことはいくらでもあります。にっくきイルドゥンに追いつき追い越せと、セアトは誰にも知られぬようこっそりと数多くの妖魔を食らい、吸収しました。そしてまた、道具を使う、という妖魔社会にはない力を持っていた馬鹿は根っこの町のゴサルスの工房へと出入りし、数々の強力な魔具を身に着けました。
馬鹿は人間こそ嫌いでしたが、下級妖魔に対してはそこまで偏見を抱いてはいませんでした。ですからほかの妖魔たちが“努力する妖魔”であるとして馬鹿にしていたゴサルスに対しても他と同じように扱いました。『黒騎士であるセアト様がこの私を』と、ゴサルスはしきりに感激していました。ゴサルスと話し合い、特別に人間世界の兵器を改造させ、世界に二つとない武器を作り上げます。たとえ自分が中級でしかないとしても、上級妖魔を滅ぼすだけの武器を持てばいい。そうすればいつかきっと──。馬鹿は力を蓄えます。
時が流れます。妖魔の君オルロワージュがその血を与え、半妖となったアセルスは針の城から逃げていきます。しめしめ、と馬鹿はほくそ笑みます。これでアセルスを狩る大義名分ができました。馬鹿は最初からこの娘のことが気に入りませんでした。血は妖魔の力の源であり、妖魔の君の血を与えられるということは妖魔の君そのものの力を受け継ぐに等しい。だというのに、このアセルスはそれに感謝するどころか妖魔の社会を嫌って逃げ出していくのです。ただそこにいたというだけでオルロワージュの血を手に入れた元人間。たくさんの妖魔達が焦がれるほど求めてやまない血を享けた女。何の努力も研鑽もなく選ばれた人間。そんな奴はみんな死んでしまえばよいのです。罰を受けて当然なのです。だから馬鹿は部下に命じてアセルスを追いました。苦々しいことに黒騎士ラスタバンはこのアセルスに好意的なようでした。一体何を考えているのでしょう。もしアセルスがその気になればいつか自分たちの地位を脅かしさえするかもしれないというのに。馬鹿は配下の従騎士たちにアセルスを追わせました。オウミ、シュライク、クーロン、そしてマンハッタン。その間に馬鹿はアセルスに肩入れするラスタバンと敵対することとなり、かろうじて、その戦いに勝利します。紙一重ではありましたが、この勝利は馬鹿に自信をつけてくれました。ついに自分は黒騎士にさえ打ち勝った。自分は強い。自分には確かな力があるのだ。もう名前だけの黒騎士とは言わせない。今の自分はあのイルドゥンにすら勝るはずだと。
従騎士たちを引き連れ、馬鹿はとうとうアセルス一行と相対します。ラスタバンの要請でイルドゥンがアセルスたちに与していたのは大きな誤算でしたが、しかし当のアセルスさえ殺してしまえば一行は瓦解する目算でした。いくら黒騎士といえども三体の従騎士相手ならば足止めも可能と踏んだ馬鹿はイルドゥンの相手を彼女たちに任せ、自らはアセルス・紅姫・白薔薇姫に挑みます。白薔薇姫が戦うことなど聞いたこともありませんし、かつては恐れられた紅姫も今では寵愛を失って大幅な弱体化を遂げている。それならば三対一といえど恐るるに足らず。実際、剣を交えたアセルスには大した力を感じませんでした。妖魔化を行い青髪となった彼女には若干驚いたもののだからといって黒騎士を滅ぼすにはまるで足りません。戦いは馬鹿の思惑通りに進んでいました。あと一歩で妖魔の剣をアセルスに突き刺し、その首を落とそうとしたその瞬間──背後でアルキオネ達の弱々しいうめき声が聞こえました。
──従騎士ごときが、この俺を阻む気か?
恐れながらイルドゥン様。我々の主は黒騎士セアト様。そして主の命は絶対なのです。
……つまらん台詞だ。
いくらあなたが強かろうと我ら三体がかりでなら……!
お前の言っていることはつまりこういうことか? 三体一でなら黒騎士にも勝てる、と。セアトの底が知れるな。口の利き方には気を付けろ、三下。その言動はお前の主をも愚弄する。黒騎士セアトもそこまで弱くはなかろう。
……。
戦いが始まる前、アルキオネ達とイルドゥンがそんな会話をしていたのを覚えています。しかしまさか──両者の間にそこまでの力量差があるなどと誰が予想できたでしょうか。アルキオネ、ハウゲータ、そしてウロネブリ。彼の誇る三体の従騎士たちはあっというまに叩きのめされてしまいました。馬鹿は激しく動揺します。イルドゥンが加勢に加われば馬鹿はひとたまりもありません。何ということだ──内心で歯噛みしながら逃げ出すタイミングを窺っていると、奇妙なことにイルドゥンは剣を収めます。アセルス。イルドゥンは静かに言いました。あとは自分で何とかしろ。
イルドゥンが何を考えているのかはさっぱりわかりませんでしたが、しかしこれは明確な好機でした。イルドゥンさえいなければ、アセルス達だけならばその首を落とすのは容易い。逸る馬鹿は再びアセルスに襲い掛かり、そしてその胸をかつてのように貫かんとしたまさにその時──紅姫が割って入りました。しまった、とそうはっきりと感じました。馬鹿が殺さねばならないのはアセルスただ一人です。白薔薇姫や紅姫はあくまでもオルロワージュの寵姫であり、滅ぼすわけにはいかないのです。ああ、それだのに──馬鹿の目の前で紅姫は『死にたくない』と言い残して塵になってしまいました。なぜこうなる──忸怩たる思いでそれでもアセルスを殺そうと向き直った馬鹿はそこで爛々と目を光らせたアセルスに出会います。
そうして、馬鹿は敗れました。
何が何だかわかりませんでした。紅姫を失い激昂したアセルスの瞳。この世全てを焦がすかのような輝き。対峙するだけで腕が、全身が震えだすほどの眼光。馬鹿は畏れを知りました。変貌したアセルスに肩を砕かれ、腹を裂かれました。つい先ほどまで何等の脅威でもなかったはずの小娘が感情一つで支配者へと変じる不条理。選ばれた者の力。
アルキオネたちを連れてほうほうのていで逃げ出した馬鹿は傷の痛みに呻きながら誰にも気づかれずに悔し涙を流します。
「ずるいじゃないか」
馬鹿は心の底から思いました。大切な人を失って悲しむ者は溢れるほどそこらにいる。そんなことは誰にでもできる。でもその中でも選ばれた者は──その悲しみを糧にこの世の理を容易くひっくり返してみせる。誰かを奪われた怒りに覚醒し敵を退ける、という、ばかばかしくあり触れたその結末を引き起こすことができる者が、果たしてどれだけいるでしょう。
それは物語なのです。やがて誰かに語られる、そういう定めを背負ったものの足跡は美しく舗装されていて、馬鹿やセアトのような存在にはきっと歩くことが叶わないのでしょう。
羨ましいなぁ。馬鹿はなおも思います。そうした物語を引き連れて生きていける者、アセルス、そしてオルロワージュのような存在に自分もなりたい、と、そう思いながら、しかし同時に、どうせ自分には無理だろう、と諦めに項垂れます。
物語。
主人公。
ヒーロー。
やはり小此木烈人なんか助けなければ良かった──苦々しい思いでファシナトゥールへ戻った馬鹿を待ち受けていたのは、当然ながら主の厳しい叱責でした。
──確かに、余は言ったな。アセルスを捕らえよと。だが紅を滅ぼせと口にした覚えはない。
も、申し訳ございません……。
セアトよ。余は他者に奪われることを好まぬ。余は余のものを何一つ失ってはならぬのだ。……だが、そなたは余から姫を奪った。そうであろう?
は、……ははっ。
報いを受けよ。セアト。
…………う、ぐっ。
セアトよ。アセルスと白薔薇を捕らえるまで針の城に戻ることは禁ずる。
し、しかし……それでは誰がこの城をお守りするのですか……? ラスタバンは消え、イルドゥンは我らを裏切りました……。後に残った黒騎士は私とウェズンのみ……。
余の言葉が聞こえなかったのか? 余はアセルスを捕らえよ、と言ったのだ。……もとより、針の城には守りなど必要ない。余を凌ぐ妖魔なぞこの世には存在せぬ。
……で、では……私は、『黒騎士』とは一体何のために存在しているのですか。この城を守れと言ったのはオルロワージュ様ではありませんか……。
そうだな……。確かにそう言った。だがな、セアトよ。配下になりたいと言ったのはそなたの方だ。余はその望みを叶えたまで。『城を守る必要がある』と……そう言ったのは、ただの言葉だ。
こ、と、ば……?
そう。『言葉』は、内実が何であれ懐に入れていればいつかは真実になる……そういう性質のものであろう。それを証明したのはセアト、そなたではなかったか。
……恐れながら、わが君。どうしても一つ、お聞かせ願いたいことがあります。
何だ。申してみよ。
私は……我々黒騎士は一体何のために存在していたのですか。我々が黒騎士として選ばれた理由は……一体なんだったのですか……?
『黒騎士』とは名前だ。名前そのものに意味はない。……そうだな、知りたいのであらば答えよう。特に理由はない。先ほども言ったが……余に仕えたいと願ったのはそなたの方だ。だが確かに配下になりたいと願うものは大勢いた。余に闘いを挑み、滅んでいったものも万は下らぬ。その中で何故イルドゥンやそなたを、と問うならば……ふむ、おそらく、それはそなた達がどこか余に似ていたからであろう。
私も……でございますか。
ああ、そうだ。イルドゥンの強情、ラスタバンの野心は永遠を求める余のそれによく似ている。彼奴らに手心を加えたのもどこか似たものを感じ取ったからかもしれぬ。
で、では、私は……。
ああ、うむ。セアトよ。そなたは弱い。そなたの弱さは……余に、とてもよく似ている。だから余はそなたを黒騎士へと任命した。たとえそなたにそれだけの実力がなかろうとも。たとえそなたが上級妖魔には著しく劣る中級であろうともだ。
私が選ばれたのは、私の弱さゆえ……? そ、そんな……。
予想外の言葉に打ちのめされた馬鹿は、従騎士を連れてファシナトゥールを離れます。もうアセルスを捕らえるまでは帰れない。馬鹿は必死の思いで彼女を追いました。
懸命にアセルスの痕跡をたどりながら、馬鹿は失意のうちに身をよじります。
自分はなんて愚かで惨めな存在なのだろう。オルロワージュ様は──自分が敬い憧れたあの方は、自分の力を認めてくれたのではなかったのだ!
『野心』を認められたというのなら、納得することはできました。
たとえ『強情』であったとしても、意志の強さを認められたのなら頷くこともできました。しかし『弱さ』は──。
「ただの、道化じゃないか……」
ぽつりと、馬鹿は呟きます。他の従騎士たちは別の場所を探しています。呼びさえすればすぐにでも駆けつけるはずでしたが、生憎と今は孤独でいた方が気が楽でした。
馬鹿は荒野に立っていました。
その時、彼はちょうどボロという星にやってきていました。それまで訪れたことはなかったのですが、ある時急にこの星の存在に気が付き、そういえばまだ探していなかったことを思い出したのです。殺風景な荒野をとぼとぼと馬鹿は進みます。足取りは重く、気も進みません。馬鹿はすっかり元気をなくしていました。ぜんたい、このままアセルスを見つけたとしてもはたして自分が勝てるのかどうかも定かではありません。かつて味わった苦い敗北が、そして主から受けた『弱い』というあの言葉が、馬鹿の心を静かに蝕んでいきます。
アセルスを捕らえなければ帰ることはできない。しかし、そのアセルスに勝てるのかどうかもわからない。
ああ。
自分は一体なんだろう。自分はきっと誰かに褒められたかったのだ。頭を撫で、価値を認められ、よくやった、すごいなと誰かに言ってほしかったのだ。オルロワージュ様に認められたかったのだ。これが人間の悪い癖だ。奴隷根性がいつまでたっても抜けない。支配者になりたい、とそう考えているはずなのに、気が付けばそれは支配者になって誰かに褒められたいという願いに変わっている。その誰かというのは誰だ。支配者になりたいと言って、その支配者になった自分を褒めてくれるのはつまるところこの自分自身を支配する者に他ならない。
何が弱さだ。生まれついての支配者であるあのお方には、俺の気持ちなどわかるまい……。
馬鹿の心は自分自身の弱さというもので一杯になりました。怯懦と狼狽に知らず知らず腰は引けていきます。
そして──。
荒野を行く馬鹿の目の前に憎きイルドゥンが現れます。イルドゥンはアセルスの生首をぶら下げています。状況はまるでわかりませんでしたが、これを好機とみた馬鹿は己の恐怖を押し隠すべくかえって居丈高に語り掛けます。
「ようやく見つけたぞ、イルドゥン……!」
「久しいなセアト」
「黙れ! 貴様とそのような挨拶を交わすために俺はこんな星へ来たのではない……! さっさとアセルスを渡せ!」
「何だ? お前はまだアセルスを追っていたのか?」
「オルロワージュ様の命は絶対だ……。どんな手を使ってでも俺はその女を針の城へ連れ戻す。……いいか、イルドゥン……! なぜ、お前がアセルスを殺そうとしているのかは問わん。お前が我々に剣を向け針の城を裏切ったことも、今ならば不問に処してやろう。だから、その女の首を俺に寄越せ……!」
「愚かだなセアト」イルドゥンは馬鹿馬鹿しそうに言います。「この首が欲しいのなら奪えばいいだろう。それ以外に何がある」
「愚かなのはお前だ、イルドゥン。針の城の秩序は揺らぎ始めているのだ。次々に黒騎士が反意を抱けばそうもなろう。黒騎士同士が争えばファシナトゥールの勢力は弱まる。お前がアセルスに味方するというのなら滅ぼすしかないが、そうでないのなら話は別だ。理由はわからないが、現在お前はアセルスに敵対しているのだろう。ならばアセルスを渡せ」
「そうだな……確かにこの首はいらんが」
「で、ではイルドゥン……」
「ああ」
「…………」
「どうした、イルドゥン!? さっさとアセルスを渡せ!」
焦った馬鹿が声を上ずらせると、イルドゥンは冷たい眼でこちらを見つめます。軽蔑、あるいは失望の入り混じったその視線は弱り切った馬鹿にはことのほか堪えました。
それでもいい。たとえイルドゥンに馬鹿にされようと、見放されようと、アセルスさえ手に入るのなら、それで……。縋りつくように視線を向けると、イルドゥンはあろうことかこんなことを言い放つのでした。
「──気が変わった。俺は、こいつの側につくことにする」
「なん……だと……?」
とんでもない返答に血相を変える馬鹿に、イルドゥンは肩を竦めます。
「見てわからんのか? ──今、この女は俺のものだ」
「貴様、やはり針の城を裏切るつもりか!」
「裏切ってなどいない。……そもそも、俺は針の城についた覚えはない」
「なに?」
「俺は俺の望むままを生きる。オルロワージュとてそれはわかっている筈だ」
「いくら黒騎士とはいえ、貴様だけで何ができるというのだ、イルドゥン! この俺だけではない、黒騎士ウェズンを初めとする何万の兵、そして妖魔の君オルロワージュ様を敵に回して、それでも我を通すつもりか!?」
「わからんな。お前は違うのか。妖魔は生まれ落ちたその瞬間からただ己のみを愛して生きる者。自分以外の他者は全て征服すべき敵に過ぎない……。もともと、俺はオルロワージュを倒すつもりだった。まぁいい機会だろう」
「オルロワージュ様を倒すだと? 無礼にもほどがあるぞ! 身の程を知れ! 妖魔の掟を忘れたか!」
「だからお前は中級妖魔なのだ、セアト……。妖魔の社会に掟など、あってないようなものだろう。他を魅了する美貌、他を威圧する恐怖、そして何物にも屈しない誇り。三つの要素が妖魔の『格』を決定する。妖魔にとって『格』は絶対であり……だからこそ、逆説的にこうも言える。妖魔にとって『掟』とは破るものだ。妖魔にとって『格』とは無意味なものだ。掟にも格にも屈することなく……ただ己のみを誇るからこそ、俺たちは妖魔なのだ」
「な……」
「お前は最初の一手から誤っている。この女が欲しいのなら戦って奪え。たったそれだけのことだろう」
「黙れ……! 貴様に何がわかるというのだ!? 俺は黒騎士として己の責務を果たす。風に流されるまま空を漂う種のようにふらふらと生き場所を変える貴様とは違うのだ。好き勝手やるために屁理屈をこねるだけの貴様には、俺の誇りはわかるまい!」
「勘違いしているなセアト。別に俺はお前の誇りは否定しない。アセルスを渡せと言ったのが理解できないだけだ。欲しいのなら奪え」
「だから、それは……!」
「お前はアセルスに負けた。どんな理由があるにせよこの半妖に敗北したのだ」
「ぐ……」
「何故戦いを挑まなかった。臆したか、セアト? アセルスに負け、この俺と戦うのが怖ろしくなったのか?」
「舐めるな……! 貴様と俺とは同じ黒騎士。立場の上では同格の筈だ。この俺が貴様を恐れるなど……!」
「だが格では劣る。針の城の黒騎士……中級妖魔はお前だけだ。何故だかわかるか、セアト。お前が半端者だからだ。お前が所詮は人間から転化した妖魔に過ぎず……妖魔らしくもなく努力を重ね、己の弱さを隠すために従騎士を増やし、口では妖魔社会の秩序を謳いながらその実お前自身は妖魔の生き方に馴染めていないからだ」
「だ……黙れ黙れ黙れ! 俺は強くなったのだ! 俺が黒騎士となったのは、オルロワージュ様がこの俺の力を認めてくださったからだ! 俺は……貴様を怖れたりはしない。忘れたか、イルドゥン。貴様の友、ラスタバンですらもこの俺に敗れたことを。剣を抜け、イルドゥン!」
「ああ、それでいい。最初からそうしろ。妖魔の『格』を超えてかかってこい、セアト。お前が俺に負けるのはお前が中級だからではない。お前が弱いからだ。お前の弱さを笑ってやる」
馬鹿は勢い込んで剣を抜きました。何がイルドゥンだ。強がりを口にするだけならだれにでもできる。現実を見ようともせず自分は最強などと吠え続ける愚か者になどこの俺が負けるはずがない。そうだ。勝てば良い。イルドゥンに勝ちさえすれば、オルロワージュ様もこの俺の強さを認めざるをえまい。ああ、俺は勝つ。何としてでも勝ってやる。
奥歯を噛みしめ、目を吊り上げ、決死の覚悟で立ち向かい──
──1分と、12秒で、馬鹿は負けました。
両足と左腕を失い、まともに身動きもとれない姿となった馬鹿は、近づいてくるイルドゥンを睨みつけます。たとえ敗れたにせよ、しかし自分は力を尽くして戦ったのだ。何も恥じることはない。せめて堂々と死を迎えよう──そう信じて、血だらけの顔を懸命に引き締め、淡々と歩み寄るイルドゥンを見つめます。
けれども、何も恥じることはない、そう信じた筈の心は、しかしイルドゥンの足音が響くたびに弱々しく震えてしまうのでした。ああ、自分は死ぬのだ──何も残さず、ただ無為のまま死んで行くのだ──。そう思うと、やはりどうしようもなくこみ上げてくるのは、恐怖、でありました。
どれだけの時を生きようが、人であることを捨てようとも、死ぬことは怖い。自分が消えてなくなってしまうことは怖いのです。
「い、いやだ……」
誇り高くありたいと願う馬鹿の心とは裏腹に、口をついて出たのはそんな言葉でした。
「嫌だ……死にたくない……!」
ぽろぽろと涙さえ零して、いつしか馬鹿は懇願していました。お願いだから見逃してくれ。俺が悪かった。もう二度とアセルスには手を出さない。ゆるしてくれ。たすけてくれ。恥も外聞もなく口にするその言葉その惨めさにひどく傷つきながら、それでも、死にたくない、馬鹿は死にたくないと願うのでした。けれども心のどこかで馬鹿は、こんなことをどこかで見たことがある、どうせこんなことになるのだと自分は思っていた、とも考えます。ブラッククロスの基地で、哀れにも命乞いをしたシュウザーの姿が脳裏を掠めました。殺すなら殺せ、と、そう開き直ることができたならどんなにか楽でしょう。でも馬鹿にはそんなことできやしないのです。なぜと言って、だって死ぬことは恐ろしいし、たとえどんなことがあったとしても生きていたいと思うからです。自尊心をかなぐり捨ててでも、長年の望みを自ら踏みにじることになったとしても。
「許してくれ! イルドゥン! 何もかもが俺のせいだ! この通りだ! どうか俺を見逃してくれ! 死にたくない! 俺は死にたくないんだ!」
必死に頼み込むと、イルドゥンはうんざりしたように呟きました。
「見苦しい妖魔だな」
そうして、イルドゥンは小さなため息をつくと、「どうしようもない」と吐き捨て、立ち去っていきます。
「……ま、」
待ってくれ。そう言いかけて、馬鹿は口を噤みます。何を言うつもりだったのでしょう。やっぱり殺してくれ、とでも言うつもりだったのでしょうか。そんなのは嫌です。だってせっかく助かったのですから。馬鹿は九死に一生を遂げたのです。奇跡的な生還を果たしたのです。これは僥倖なのです。だから、
「あ、ああ……あああああああああああああ……」
きっとこんな風に呻き声を上げることはおかしなことなのでしょう。馬鹿にだって理由なぞわかりはしません。けれども、もしかしたら馬鹿は美しく死ぬ最大の好機を逃してしまったのかもしれません。戦士として黒騎士として在る最後のチャンスを失ってしまったのかもしれません。だって最後にイルドゥンが馬鹿に与えたあの視線は道端のゴミでも見るかのような視線でした。イルドゥンが馬鹿を見逃したのも、もはや馬鹿が相手にする価値すらないと判断したからなのかもしれません。
馬鹿は己の馬鹿を悔いました。そしてその一方で、助かったことに心の底から安堵してもいるのでした。
馬鹿は肉体的にも精神的にもすっかりくたびれてしまいましたが、かといって、この惨めな気持ちでは従騎士たちを呼ぶ気にはなれません。馬鹿はとぼとぼとその場を後にします。みじめったらしく涙を零して、しかし針の城へ帰るというわけにもいかず、どこに行く当てもないままに彷徨いました。馬鹿はボロを離れます。従騎士たちに会うのが何故かとても怖くなりました。馬鹿は地平線の果て、この世のどこでもない場所へと、静かに消えていきました。
気が付くと──馬鹿は深い森の中にいました。誰とも会いたくはありませんでしたから、とにかく人目を避けようとでも考えたのかもしれません。
そこはファシナトゥールの果てに位置する、黒宇森と呼ばれる場所でした。鬱蒼と茂る深い森を抜けて馬鹿は覚束ない足取りで進みます。
森にはちょうど雨季が訪れており、激しい雨が木の葉を振るわせます。水滴は疲れ切った馬鹿の肩を背中を激しく打ち据え、泥に汚れた髪の毛が青白い額からぬるりと垂れ下がりました。
森をしばらく行くと、木陰にゴサルスが腰かけているのが見えました。根っこの町で工房を営む、緑色の体をした醜い妖魔。馬鹿は咄嗟に体を隠し、じっと動きを止めます。こんな姿を見られたくはありませんでした。早くどこかへ行ってくれ──。ただそれだけを一心に願っていると、忌々しいことにゴサルスは「セアト様」と声をかけ、ゆっくりと歩み寄ってきます。
「セアト様」
「……なんだ。ゴサルス」
「その姿……やはり、イルドゥン様に敗れたというのは本当だったのですね」
「……だったら、何だ。俺を笑いに来たのか……?」
「いいえ、私は笑いません」
ゴサルスは大切そうに抱えていた剣を馬鹿へと差し出しました。
「これは“幻魔”と言います。どうかこの剣をお持ちください」
いつもであれば、きっと馬鹿は素直に受け取ったことでしょう。「なかなかいい剣だ」などと適当に褒め、ゴサルスにそれなりの褒美を与えていたことでしょう。けれども、今の馬鹿はそんな気にはなれませんでした。むしろゴサルスの唐突な贈り物に苛立ちさえ覚えます。
「相手が……間違っているぞ……。贈るのならばほかにもっと良い相手がいる筈だ。お前が上級妖魔に認められたいのなら、俺ではなく……」
「いいえ。この剣はあなたのものです。私がそう打ち直しました」
淡々と答えるゴサルスに、馬鹿はかっとなって声を荒げました。
「同情なぞ、いらん! そんなものを望んではいない! 俺のことはもう放っておけ!」
「同情などではございません。セアト様。作り手が使い手に想いを託すのに、理由など要りません」
「俺はイルドゥンに敗れた。負けたのだ! そんな妖魔に何の価値がある!」
「かつて、頭のおかしい女に問われたことがあります。この剣で妖魔の君は斬れるのかと。そのとき私は答えませんでしたが、今ならはっきりと言えます。この剣ならば──“幻魔”ならばこの世のどんなものであろうとも切り裂くことができると。どうか、この剣をお持ちください。セアト様」
「うるさい……馬鹿が……」
苦し気に頭をかきむしり、馬鹿は呻きます。
「何故、わからんのだ? お前は俺を蔑むべきだ。敗北者に妖魔が助けを与えるなど、あってはならぬことだろう。妖魔ならば蹴落とせ。俺を蔑み、罵り、ただ己だけを信じて生きていくべきだろう……!」
「できません。針の城に住む貴族の中でも、あなたと白薔薇姫だけは私をまともに扱ってくれました。私の細工物を受け取り、認めてくれました。だから、私はこの剣をあなたに託したいのです」
「馬鹿野郎……。だからお前は下級妖魔なのだ……。だからお前は……俺たちは……!」
「セアト様……」
顔を背け立ち去って行く馬鹿を見つめ、ゴサルスは悲しそうに顔を歪めます。
「それでも、セアト様。この幻魔は……あなたのものです……」
そう言うと、ゴサルスもまた幻魔をその場に置き、その場を去っていきました。
ゴサルスと出会ったことで、馬鹿はより惨めな気持ちになりました。イルドゥンに軽蔑されることよりも、自分よりも下だと思っていたゴサルスに情けをかけられたことの方が何倍も苦しく思えました。羞恥心に体がかっと熱くなり、けれどもその熱を持続させるだけの意思はなく、疲労と屈辱に力は見る間に萎えていきます。
雨はなおも降り続けます。強張った手足を人形のようにぎこちなく動かして、馬鹿は歩き続けました。
どこからか笑い声が聞こえてきました。はじめは気のせいかと思いましたが、薄気味の悪い笑い声は次第に大きくなっていきます。歩いても歩いても笑い声は消えません。ひたひたとしつこくついてきます。どこからか石が投げられました。もちろん避けようとしましたが、ぬかるんだ地面に足は滑らせた馬鹿の額に石が鈍い音を立ててぶつかります。鮮血と共に額は割れ、痛みに馬鹿は唸ります。
「誰だ」
そう叫ぶと笑い声はなおも大きくなり、森全体に響き渡ります。笑い声は一つではありませんでした。森に潜む何百という悪意あるものたちが馬鹿を取り囲み、嘲笑していました。
また、石が投げられます。今度はなんとか避けることができました。しかし一つまた一つと石は増えていき、投げつけられた無数の石に馬鹿の傷が増えていきます。横っ腹に思い切りぶちあたった石に馬鹿は身をよじりました。
「何だ。この俺を誰だと思っているのだ!」
怒鳴りつけると、森の奥から狒々に似た一匹の妖魔が現れました。どこかで見たことがある妖魔でしたが、混乱した頭ではよく思い出すことができません。
「もちろん、わかっているとも。セアト君」
狒々は余裕たっぷりに言います。
「この仕打ち……貴様ら、この俺が黒騎士であるとわかってやっているのだろうな」
「黒騎士? 馬鹿を言っちゃあいけない。私たちは妖魔としての義務を果たしているだけさ」
「義務……だと……?」
「妖魔としての誇りを無くしたもの。醜く愚かとなり果てたもの。そう……“邪妖狩り”は我ら妖魔が果たすべき義務だ。自分の姿を見てごらん」
狒々の言葉に馬鹿は己の手のひらをじっと眺めます。するとどうでしょう、馬鹿の体はいまにも消えてしまいそうなほどに弱々しく、透けているのでした。
「これは……。そんな、嘘だ……! お、俺は……!」
「嘘じゃあない。君はもう黒騎士ではないんだよ。妖魔としての“格”を無くした、見るに能わぬ者。ただの邪妖に過ぎない」
「ち、違う……! 俺はセアトだ……黒騎士セアトだ!」
一匹、また一匹と森の奥から妖魔たちは現れました。そのどれもが獣に近い妖魔です。美しさの欠片もない下級の妖魔、かつて黒騎士であった馬鹿が有象無象のものとして扱った下級妖魔たちが──いまや残酷な狩人として馬鹿を包囲しています。かつて黒騎士セアトが下らぬ妖魔として見向きもしなかった妖魔、また黒宇森での一軒でウロネブリやセアトにてひどく痛めつけられた妖魔が、かつての屈辱を果たすべく憎しみと嘲りに満ちた目でもって馬鹿をとらえます。
「時は、来た。時は流れた。老いを知らぬ妖魔にも等しく時は降りかかり、いかなる妖魔の心もいつかは滅びさっていく。それが今はお前の番というだけのこと」
「違う……。俺は何も失ってはいない。俺は、何も、諦めてはいない……!」
「言葉では何とでも言えるさ。だが心は正直だ。誇りを失った妖魔はその格を落とす。お前の姿がその証明だ」
「違う、違う、違う……!」
「違わない。お前はもうここで終わりだ」
「いやだ……お前らなんかに、この俺が……」
醜い妖魔に体を押さえつけられた馬鹿は泥の中に顔を押し付けられました。「ぶ、ぐふ」汚らしい音を立て、口元で泡が鳴ります。息苦しさに必死になって顔を上げると、誰かに思い切り蹴倒されて再び泥の中へと戻されました。苦々しい土の味が口いっぱいに広がりました。悔しい、と思いました。こんな奴らに。虫けらにも等しい妖魔に。のしかかる妖魔達を振り払おうと懸命に体をよじりましたが、重たい妖魔の体はびくともしませんでした。格を落とした馬鹿の体は、まったくの無力になり果てていました。
狒々の姿をした妖魔が無造作に馬鹿の肩へと噛り付きました。そのまま肉を食いちぎり、くちゃくちゃと汚らしく咀嚼したかと思えば「まずい」と言って吐き捨てます。わ、あ、あ、と馬鹿は叫んだつもりでしたがそれはのどの奥で引き攣った音を立てるだけで言葉にはなりませんでした。また別の誰かが馬鹿の左手に噛みつきました。ぺきりぽきりと軽やかな音を立てて、暖かな妖魔の口腔で指の骨が砕けます。髪の毛を乱暴に毟られます。目玉を刳り貫かれます。わあ、わああ。痛みや悲しみに叫ぼうとして、しかし言葉にはなりません。誰かが馬鹿の服を脱がせました。げらげらと笑い声があがります。やめろ。やめてください。悲鳴は懇願に変わります。誰かが遊び半分に馬鹿の首を絞めました。気の遠くなるその一瞬にぱっと手が離されて慌てて息をしようとしたその途端、また首が絞められます。ゆるしてください。どうか。おねがいだから。
それでも、死にたくはありませんでした。
命乞いをしました。地べたに頭を擦り付けて、どうか見逃してくださいと謝りました。生きていてごめんなさいと言いました。けれども、誰も馬鹿を許してはくれませんでした。泣き叫ぶ馬鹿の体を妖魔たちは抱え上げ、高いところへ放り投げては何度も落として遊びました。57回落とされて、とうとう馬鹿は動かなくなりました。
ああ、死ぬのだ、と馬鹿は思いました。ありったけの呪詛を込めて妖魔達を、この世を呪いました。すでに涙は枯れ果て、流すこともままなりませんでしたので、その代わりに瞳からは滔々と血を流します。
かつて。
一人のちっぽけな人間が人間を憎み、この世を呪いました。その馬鹿者は妖魔となり、今またこうして死の淵に立ちます。
時は流れました。
大地に転がった馬鹿の懐から、ぽろり、と何かが零れます。馬鹿は目を見開きます。
とても良い香りがしました。香しく、馥郁とした何とも言えない匂いです。
それは奪い取ったアセルスの血液でした。
なぜ、馬鹿はそれをすぐに飲んでしまわなかったのでしょう。力が手に入るというのなら、イルドゥンと戦う前に口にしていればよかったのに。
……いまさら、そんな仮定のことを話しても仕方はありませんね。
もしかしたら馬鹿はこう考えたのかもしれません。イルドゥンと闘うのにイルドゥンよりも弱いアセルスの血を飲んでも意味がないと。
あるいは──ただ単に怖かったのかもしれません。もしアセルスの、妖魔の君の血を飲んで強くなることが出来なかったら──自分にその資格が無いと知ってしまったら、と、そう考えて。
正解はわかりません。今にも死のうとしている馬鹿にとっては、何が正しいことなのかもう考える時間はありませんでした。
縋りつくように、馬鹿は血液の入った硝子瓶を銜えます。何度衝撃を加えられても割れることのなかった瓶が、その時だけは不思議なほど容易に割れました。
ひたり、と。粘つくように震える血が馬鹿の舌を舐めます。ずるずると意地汚い音を立てて血を啜り、ぐびぐびと喉が鳴ります。
割れ飛んだ硝子の破片は血を写してぎらぎらと鈍く光りました。
敗北者の意地がするすると血液に溶け、沸々と泡立ちます。
妬み、嫉み、あるいは嫉妬。そして憎悪。力あるものや正義への渇望と怒り。それら全てが混沌の血に溶けていき、馬鹿の胃の腑の奥底で焦げ付いていきます。
オルロワージュは黒騎士セアトをこう評しました。その弱さはオルロワージュのそれとよく似ている、と。
オルロワージュの弱さ。失ったものにそれでも手を伸ばすこと。
魂の向こう側で時計塔の鐘の音が震えます。ぼおん、と深く、幽遠と時を掻き鳴らす鐘の音。その音はこの世の真理を静かに告げます。そう──、
──失ったものは、取り戻さねばならない。
自分は何かを失った。時の流れに奪い去られた物を、己は取り戻さなければならない。
時の流れに爪を立て、この世の条理を捻じ曲げろ。
俺は。
「俺は……」
何かを失った。
「何かを、失った……」
だから取り戻さねばならない。
「だから取り戻さねばならない……」
この世に永遠はあるのだと、証明するために……。
「永遠を超えてなお、この俺が生きるために……!」
誰かが馬鹿を笑っています。何かつぶやいているぞ、こいつ。そんな風に笑っています。
でも、もう、今ではそれほど気になりません。
馬鹿の体は見る見るうちに腐り果て、おぞましい匂いと共にぼとぼとと肉が落ちていきます。脂の滴る腱が弱々しい鳴き声を上げ、捻じれては千切れ、捩れては溶け落ち、降りしきる雨の中、黒宇の森の血と肉と泥の大地に混ざります。馬鹿の体はこれ全て一片の塵芥となって融解し、無形の泥水へと融解を遂げました。泥が混じり、血に塗れたその液体はどす黒く濁っています。黒く、あまりにも黒く。ちょうど大地にぽっかりと穴が空いたかの如く、光さえも吸い込んでしまうほど。汚れた大地の底に凝った液体はぬるりと隆起し、うねり、やがて再び妖魔セアトの姿を象り始めました。けれども、その姿はもはや元のものとは異なるもの。純然たる漆黒の、虚無を湛える影。
ゆらり、と影が揺れます。蜃気楼のようにその輪郭は霞み、不確かに震えます。
馬鹿は静かに叫びました。
「幻魔よ……!」
そのまま空へと手を伸ばし、現れた剣を掴み取りました。どよめきと共に妖魔達が気色ばみます。慌てて馬鹿から剣を奪おうとしますが、触れようとしたその瞬間に剣ごと馬鹿の体は溶けて消えてしまいます。とぷり、と穏やかな音を立てて、後には静寂を湛えた闇が広がるばかりです。
妖魔の君、オルロワージュが元は影の魔物であったように──“影”そのものと化した馬鹿は逆に妖魔達を襲い出しました。
しとしとと涼しく濡れる影の姿。影の化身となったその生き物──人でなく、黒騎士でもないもの──影騎士セアトはこうして生まれました。
己を取り囲み嘲笑っていた妖魔たちをみな殺しにした影騎士セアトは、腹の底で膨れ上がる全能感に酔いしれながらもしかしやがて奇妙な飢餓感に気が付きます。そうだ、とセアトは思い出します。自分は何かを失った。だからそれを取り戻さねばならないのだ。……そして、何かを取り戻すためには、力が必要だ。自分には力が要るのだ、と。そのためには──。
妖魔の君、オルロワージュが持つ『影』の姿を宿し、かつてとは比べものにならないほどの絶大な力を手に入れたセアトは──しかし、それでも馬鹿でありました。
セアトは配下である三体の従騎士を呼びます。どれだけ遠く離れてはいても、呼びかけさえすれば主従関係にある彼女たちには声が届くのです。現れた従騎士たちはセアトの変わり果てた姿を見てたいへん驚きましたが、それでも行方知れずだった主を心配してか喜びの声をあげます。
「セアトくん!」
ウロネブリはセアトの足にしがみ付いて顔をぐりぐりと擦り付けました。
「どこ行ってたのお。心配したんだよ!」
「ああ。済まない」
セアトはウロネブリの頭をぐりぐりとなぜます。するとウロネブリは「へへっ」と嬉しそうに微笑みました。
「本当よ、セアト。てっきりあんたイルドゥンにやられたんじゃないかって」
「そうだぞ。セアト。それにその姿はどうしたのだ? 一体、何があったのだ?」
口早に尋ねてくるアルキオネとハウゲータに、セアトはなお一層確信を深めます。ああ、そうだ。俺には取り戻さねばならないものがある。守らねばならないものがある。
「アルキオネ。ハウゲータ。ウロネブリ。……俺は、強くならなければならない。だから……」
だからセアトは言いました。
「──お前たちの血を、その命を俺にくれ」
その言葉に、アルキオネは悲しそうに微笑み、ハウゲータは達観したように目を細め、そしてウロネブリは困ったように顔を伏せ、しかしすぐさま頷きました。
「うん。いいよ」
ウロネブリははにかみ、セアトの外套をそっとつまみます。
「ボクはセアトくんか好き。だからセアトくんが望むことはなんでもしてあげる。だってセアトくんがいなかったボクはここにはいないし、とっくの昔に死んでたんだから」
まっすぐにセアトを見つめるウロネブリに、ハウゲータは肩の力をすっと抜いて、やれやれ、とでも言いたげに首を振りました。
「自らの欲望にのみ従うという点では、我ら三騎士の中で最も妖魔らしいのは案外この子なのかもしれないな。……だが、まぁ、悪くはない。こんな物語も悪くはないかな。私も構わないよ、セアト。愛するお前がそう望むのなら、この命くらいいつでもくれてやろう」
最後に残ったアルキオネはどこか寂しそうに遠くを見つめながらそっと囁きます。
あれから──。
あなたと出会ってから、本当にいろんなことがあったよね。
あなたったら、理屈っぽい女をつれてきたり、鼻水垂らした子供を連れてきたリしてさ。でも、あなたと一番最初に出会ったのは、やっぱりあたしなのよね。
あたしがあなたを選んだの。あなたが、あたしを選んだの。
本当のことを言えば、あたしはその時別にあなたのことが好きでもなんでもなかった。それはそうよね。だって初対面だったんだから。
でもあなたと出会って、針の城に仕えることになってさ。いろんな敵と闘って、人間の子供を守ったりしてさ。
いろんなことがあったね。何十年、何百年、何千年と時が過ぎて。
本当にさ。情って奴が湧くものよね。なんだかんだでさ。
あたしは、あなたのことが好きになった。
あたしはあなたのことが好きだとそう思いながら、もしかしたらそれは、あなたが人間らしいからなのかもしれないと思ってた。
あたしはずっとずっと、心の中で妖魔になり切れないあなたのことをほんの少しだけ馬鹿にしてたのかもしれない。
だから、きっとこれでいいんだわ。あなたは私たちの力を吸って、誰よりも強くなるべきよ。
セアト。いつかあたしたち、約束したよね。
あなたが望むなら、いくらでもこの血をあげる。
だから、強くなって。セアト。そうしてあたしを、支配者の女にして。
セアトはアルキオネをきつく抱きしめ、そしてその首に牙を打ち立てました。それと同時にセアトの足元からするすると立ち上った影は瞬く間に周囲を、セアトと三体の従騎士たちを飲み込み、後には何も残りませんでした。