来客を知らせる声に仕事の手を休め、店の玄関へと向かうと知人の女性が待っていました。
「お久しぶりです」
彼女の挨拶に「ええ、本当に」と答えながら、しかし私は驚いてそれ以上の言葉を返せずにいました。ずいぶんと長い間、会っていない相手だったのです。
それはちょうど、10年目の再会でした。
彼女はメイドの姿をしていましたが、しかし針の城で働くミルファークさんとはまるで異なる姿をしています。
彼女らしいといえば彼女らしく、しかしどこまでも奇妙なその姿。
彼女の顔には、武骨な鋼鉄の仮面がついていました。
◇
目を覚まして窓を開け、冷たい空気を肺の中へと取り込み、気怠い瞼をゆっくり見開き、軋む体を懸命に伸ばして。
私の住むこの町を見下ろし、けれども私の視界に広がるその光景には暖かな日の光といったものはなく、洸蟲晶の仄かな光がぼんやりと輝くばかりです。
朝の来ないこの町には、地平の果てから太陽が昇ることはありません。時計の短針が南東を超えはしても、空に広がる群青の夜がうっすらと菫色へと白むばかりで、それ以上の青を目にすることはありません。
空は、凍っているのではありません。時が経てば姿を変えます。この町に朝や昼が訪れないものだとしても、その色の移り変わりを見れば時が流れていることがわかります。私たちの夜が、群青の夜から菫色の夜へと変わるとき、人間世界には朝や昼が存在していたことを私たちはうっすらと思い出します。
私は小さなため息をついて窓を閉じます。このため息に意味はありません。なんとなく癖のようになっているだけなのです。いつからそんな癖がついてしまったのか、もう思い出すことはできません。寝起きしている屋根裏部屋から階下へと降りて、いつものように自在鍋でお湯を沸かしながら、お客様からお預かりしているデザイン画や裁断図に目を通していきます。仕立てに問題はないかどうか、手順に必要な人員は揃っているか、今日一日の作業を確認している内にようやく頭もはっきりとしてきます。
沸かしたお湯で紅茶を入れ、私はほっと一息つきます。いざ始まれば目が回るほど忙しい仕事場で、穏やかな時間を過ごすことのできる僅かなこの時間が私は好きです。カップから立ち上る湯気に目を細め、椅子に体重をそっと預けます。
しばらくのんびりしていると、一番にやってきたのは、今日も会計担当のサムオウルでした。眼鏡をかけ、生真面目に黒髪を撫でつけたサムオウルは「おはようございます」と頭を下げ、ちらりと私をみると困ったように頬を掻きました。
「どうしたの、サム?」
「おかみさん。いつも言っていますが、もっとゆっくりして頂いて大丈夫ですよ。開店の準備は下のものにやらせます」
「別に、そういうわけではありませんよ。近頃ではずいぶん早く目が覚めてしまうんです」
「ですが……」
「そういうあなただって、店に来るのはいつも一番でしょう」
「私はあなたが心配なんですよ」
サムオウルはなんだか腹を立てているようでした。
「もっと体のことを考えてくださらないと……」
「べつに、どこも悪くしてやしませんよ」
「そういう意味ではなくて」
会話を続けているうちに他の職人たちも次々にやってきます。
「おかみさん、おはようございます!」
「おかみさん。よろしくお願いします!」
元気の良い挨拶。みな私よりも若く、そして才能と熱意に溢れた子たちばかりです。彼女たちに挨拶を返しながら私はサムオウルに言いました。
「でも、私には責任があるわ。この店はグレゴリーさんから私が引き継いだもの。そしてそのグレゴリーさんの前には、別のひとがこの店を経営していたの。この店は──“キャンディー・ベル”は受け継がれてきたものなのよ。やれるだけのことはやっておかなければ」
「でも」
言いかけて、サムオウルは悔しそうに下唇をかみましたが、やがて“朝からこんなことで言い争いをしている場合ではない”とでもいうように頭を振って自分の机へと向かいます。
困ったな、と私は思いました。こんなことでサムオウルと揉めたりはしたくありませんでした。謝るような気持ちでサムオウルに視線を向けると、彼は申し訳なさそうに小さく頭を下げます。
誰かに気を使わせてしまうだなんて、まだまだ私は至らない点が多いようです。
もうすぐ私は30になります。この店で働き始めた当時はまだ13歳でした。その頃の私にとって、30歳という年齢は随分と大人に感じられたものです。世界中のありとあらゆることを知っていて、どんな状況でも頼れるほどに頼もしい。どうして私は、時が経ちさえすれば自分もまたそのようになれるものだと信じていたのでしょう。あのころ夢見ていた理想に比べれば、今の私は随分と頼りなく、ものを知りません。なんだかさみしいな、と私は考えます。理想と現実のギャップは、つまるところいかに過去の自分が子供であったかを示すものでもあります。知らない間にあの頃の自分は否定されていて、その糾弾者たる張本人が私なのですから。
ふう、と眉を下げて悲しんでいると、新入りの子が心配そうにこちらを見ています。慌てて笑顔をつくり、なんでもないよ、と言うために手を振ります。
ごほん。咳をして、私は立ち上がると大勢の前に立って朝の挨拶を始めます。今日一日の予定、大口のお客様、注意しなければならないこと。手短に要件を伝え、「それでは、今日も一日頑張りましょう」と言うと、雇い人たちが大きな声で一斉に返事をしてくれたので、私は自然とにっこり微笑みます。
私はこの店が好きだな、と思いました。そして私は──そんな店の主である自分のことが、やはり好きになれそうな気がしました。
私は私が至らないことを知っています。最高の職人ではもちろんないし、閃きや技術に欠けることも認めています。けれどもそんなことは、働き始めたときからわかっていたことです。私には、目の前の物事を一つ一つこなしていくことしかできないのですから。
私の名はジーナ。私が住むこの町の名は根っこの町。その町の小さな仕立て屋“キャンディーベル”が私の店です。
14年間、私はここで働いています。つらいことや苦しいこともたくさんあったけれど、最近ようやく『これでいいのだ』と思えるようになってきました。得体のしれない諦念と、飴玉のように優しい自己承認とを手に入れて、私は来月30になります。
ずいぶんと年をとりました。他の方からは「まだこれからじゃないですか」と言われることも多いですが、しかし体の方はあちこちガタがきていてよく故障しますし、視力のほうも悪くなるばかりです。ちょっとした階段の上下で息を荒くしたり、軽い気持ちで持ち上げようとした荷物がまるで動かなかったりして愕然とすることも増えてきました。当時は当たり前に備わっていた体力がいつの間にかに体の内から立ち消え、気が付けばぽんこつロボットみたいになっている自分がいます。
しかし養っていた弟や妹たちはみな手に職をつけて独立していきましたので、金銭的にはとても楽になりました。17年間の内に弟が一度事故に巻き込まれて大怪我を負ったことはありましたが、幸いにも一命は取り留めることができ、それ以外はとくに身内の不幸もなく済んでいます。年に一度は実家へと帰り、様々な出稼ぎ先から集まってきた家族たちと食卓を囲んで互いの近況を語り合います。つい先日までよちよち歩きしていた気さえする弟が筋骨隆々の逞しい成人になって、鑿や鉋を振るう面白さをお喋りしている姿を改めて目の当たりにすると不思議な感慨と同時になんだか自分が母親であったかのような気持ちになります。
そう。あなたもなかなか立派になったのねぇ。しみじみとそう言うと、弟はその時だけは幼い顔をして恥ずかしそうにはにかんでいました。
団欒の場では、誰もが穏やかに幸せを噛みしめています
父がいて、母がいました。三人の弟はそれぞれ鍛冶、縫製、街灯屋の職に就き、二人の妹はメイドをしています。全員で暖かな湯気の立つ食事を摂り、最後にはいつものように檸檬ケーキを食べます。それは幼い時に作ったような蒸しパンケーキではありません。新鮮な檸檬の果汁とたっぷりの砂糖を加えた本物のケーキです。ケーキを九つに切り分け、みんなで口いっぱいに頬張りました。鼻の奥につんと檸檬のさわやかな香りが抜けていきます。おいしいね。ああ、おいしい。そんなことを言い合いながら、いつしか食卓にはしんみりとした空気が漂い出します。誰が口に出すということもありませんでしたが、私たちは残った一切れを黙って見つめていました。
来年もまた、こうして集まりましょうね、と私は言いました。みんなで集まるのよ、全員でね。家族たちは静かに頷き、そうして次の朝、また別々の場所へと旅立っていきました。
私はおそらく幸福な女であろうと思います。今の仕事に不平や不満はありませんし、家族ともこうして顔を合わせることが出来ます。
私は幸せです。なぜならそれはきっと、私たちのような人間がみな『忘れる』という能力を持っているからではないかと思います。どんなに辛いことや苦しいことがあったとしても、いつか私たちは忘れていける。それは貧しい人間にとってなくてはならない技術ではないでしょうか。
私は多くのことを忘れてきました。かつて、私から飴鐘さんを奪った妖魔社会や根っこの町を少しだけ嫌っていたこと。妖魔の貴族様から受けた残酷な仕打ちや、針の城へと消えていった幾人かのお針子たち。職人同士の軋轢や原料費の乱高下など。悩みに悩んで胃が捻じれそうになったことも何度かありましたが、今となってはただの記憶となって心の小箱の奥底にしまい込まれ、日の目を見ることはありません。
店を訪れるミルファークさんの顔を眺めることもその記憶を確認することも、今ではすっかりなくなりました。
17年間ここで働き、『これでいいのだ』と思えるようになりました。けれども『これでいいのだ』と考えるということは、『本当にこれでいいのだろうか』と疑っている証左であるのかもしれません。
月日は目まぐるしく通り過ぎ、瞬く間に17年の歳月が経ちました。17年。思い出そうとすれば、思い出すことはできます。ですがそれは、あまりにも儚いもののようである気もします。私たちが何かを思い出すとき、そこにあるのは「何かをした」とか「どこかへ行った」という言葉でしかなく、その日その時の匂いや温度やらを事細かに覚えているわけではありません。私たちの心は言葉でできています。17年分の記憶はしかし言葉によって圧縮されているのですから、あっという間のことだと感じるのも仕方のないことかもしれません。
私は何かを忘れました。告白します。私は薄情な女です。
13年前、私は運命のひとと出会いました。そのひと──アセルス様は針の城を出る際に私を誘ってくれましたが、私はその手を取ることが出来ませんでした。オウミ、シュライク、そしてクーロンへと、様々な旅先からアセルス様は手紙を送ってくれ、その文面に目を通すたびに私はまるで自分もまたその旅に参加しているような不思議な感覚に浸るのでした。自分の生活を守るためにこのファシナトゥールから離れないこの私とは異なり、世界中のありとあらゆる場所を自在に旅するアセルス様。自由でロマンに溢れたその生き方に憧れながら、しかし私はその旅の困難にいつもはらはらしていました。アセルス様の無事を祈って何通もの手紙を書きました。ある時は従騎士に襲われたと聞いて驚き、またある時は基地で拷問を受けたと聞いて悲しみました。たとえ文面ではさらりと書き流されていようとも、アセルス様がどれほど傷ついていらっしゃるかはわかります。アセルス様の苦境を知って何もできない自分に歯噛みした私は何か自分にもできることはないだろうかと考えましたが、平凡な人間に過ぎない私にできることなどただの一つもありはしませんでした。
最後の手紙によればアセルス様はヨークランドへ向かうと仰っていました。暖かな場所なので少しのんびりしていきたい、と書かれていましたし、私もまたアセルス様が僅かでも平和に過ごせる場所であれば良いと願って手紙を書きました。それが10年前のことです。ある時を境にぱたりと手紙は途絶え、アセルス様の消息を知るすべは失われました。どこかで危険な目にあっていたのかもしれません。なにかつらいことがあって、筆を執ることさえできないのかもしれません。そんなとき私は何をしていたのでしょう。何もしなかったのです。いいえ、もちろんミルファークさんや貴族の方たちにそれとなく状況を尋ねてはみましたが、かんばしい答えは得られませんでした。ファシナトゥールにやってきた旅人に外の世界のことを聞き、根っこの町のジーナがアセルス様を探しているとこっそり伝えてくれるように頼みはしました。でもそれだけです。私はこの町を動きませんでした。あの方のことを今でも覚えています。あの方と出会ったこと、あの方と交わした言葉の一言一句を今でもはっきりと覚えています。でも私にはあの方を追うことができませんでした。この根っこの町に取り残されて、私は、いつしか『これでいいのだ』と考えることが増えてきました。
あの方はいま、どこで何をしているのでしょう。私のことなど、もうとうに忘れてしまったでしょうか。そう考えるととても悲しくなります。
◇
消息が途絶えたのは何もアセルス様ばかりではありません。アセルス様と私の手紙のやりとりを仲介して下さっていたあのメイドの方もまた、この10年間ついぞ姿を見せることはありませんでした。彼女はゾズマ様の命令で手紙を届けていらしたそうですが、初めてお会いした時はとても戸惑いを覚えました。何しろお仕着せのメイド服を着ているのにその顔には何やら恐ろしい形をした仮面がついているのです。あまつさえ、名前を尋ねるとメイドさんは「私はなぞのメイド仮面です」と名乗りさえしました。メイド仮面です。彼女はメイド仮面(なぞの)だったのです。どう対応すればよいのかさっぱりわかりませんでした。アセルス様の手紙を持ってきてくださったとはいっても素直に信用して良いのかどうかわかりませんでしたし、仮に真実だったとしてもなぞのメイド仮面に手紙を託してしまうアセルス様もアセルス様でいったいどのような世界に足を踏み込んでおられるのかと困惑してしまいました。
ですが、混乱したのは最初の頃だけで、実際に何度か話すようになってからはとても真面目な方だとわかりましたので、私の方でもことさらに警戒するというようなことはなくなります。メイドさんが来ると自室でお茶を飲みながら近況を報告しあうようになるのにもそれほど時間はかからなかったのではないでしょうか。
メイドさんにアセルス様の旅路の様子を尋ねると、彼女はいつも丁寧に答えてくれました。
「アセルス様はとてもお強い方でいらっしゃいますよ」
と、メイドさんは言います。
「トリニティ基地での拷問。私も直接その場を目にしたわけではありませんが、基地の様子はあまりにも凄惨なものでした。それでもあの方は気丈に振舞ってらっしゃいます。ついこの間まで普通の人間だったとは到底思えないほどです」
そうですか、と答えて私はなんだか誇らしい気持ちになりました。
「お強い方なのですね、本当に」
「ええ。ゾズマ様もずいぶん感心しておられたようです。ですが……」
メイドさんはそこで言葉を濁しました。
「私はときどき怖くなる時があります。アセルス様は誰に弱音を吐くのですか? あの方が強い女性だとしても、いつまでもずっと強いというわけにはいきません。普通の人間であれば発狂してもおかしくはない状況だったのです。あの方はこの針の城という安住の地で妖魔の君の庇護を受け、平和に暮らしていくこともできた。闘い続けることを放棄して安寧を得ることもかなった筈です。でもあの方はそうはなさらなかった。ゾズマ様はそれを面白いと仰っていますが、私はそこまで他人事のようには思えません」
私はその言葉を聞いてはっとしました。と同時に、この仮面をつけた女性に強い信頼と尊敬を感じます。
「ジーナさん。アセルス様はあなたに手紙を書かれています。そのことをどうかお忘れにならないでください」
「はい……。あの……ありがとうございます。あなたと今日、おはなしができて、本当によかった」
「お気になさらないでください」
メイドさんは困ったように首をかしげました。
「私は所詮、仮面をつけたメイドですよ。この言葉だって全部、もしかしたら嘘なのかもしれないのですから」
そう言いはしましたが、しかしメイドさんの口ぶりはいい加減には聞こえませんでしたし、彼女の言動や対応はいつも誠実なものでした。
私は以前にも増して心を込めて手紙を書くようになりました。アセルス様はいつも率直な文章で旅の近況を伝えてお書きになられ、苦しいだとか助けてほしいといったことは当たり前ですが表には出されません。ならばこそ、心に秘めたその寂しさをせめて癒せたなら、と分不相応にも考えた私は、手紙を書く歓びに耽るだけではなく、言葉を学び、言葉を選ぶということを次第に深めていきます。
私はその時、生まれて初めて真剣に文章と向き合いました。記憶の荒野、あてもなく無辺に広がる言語の海原に、私自身の心を過不足なく象ってくれるもの、そしてまた、私自身が想わざる気持ちまでもを掘り当ててくれる言葉のツルハシを探します。手紙をうまく書くことができずに何日も経ってしまったことがあります。こんな言葉ではない、本当に伝えたいのはこんな体裁だけの挨拶ではない筈なのに、と。
メイドさんは嫌な顔一つせず私を待っていてくれました。手紙を前にして私がうんうん唸っていると、ある日彼女は何気なくといった調子でぼんやりと言います。
「──私も、むかし、そんな風にして言葉を探したことがありました。自分でも知らない何かを見つけ出したくて、心の中を浚っては落胆して、一日じゅう頭を抱えていたことがあります」
「その時はどうされたんですか? 最終的に良い言葉は思いつきました?」
尋ねると、メイドさんは淡々と答えました。
「見つかりませんでした」
「え?」
「見つからなかったのです。さんざん、頭を捻りはしたのですが。見つかればいいなぁ、と想いはしたものの、でも無理でした」
「それは……。そんな時は、どうしたら良いのでしょう?」
「さぁ……。私はその時、たぶん、悲しんでいたのだと思います、探し物が見つからなくて、泣いたりしたかもしれません。けれども結局どうすることもできなかったので、私はいまメイド仮面をしています」
「……あの、今更こんなことをお尋ねするのは遅すぎるかもしれませんが、どうして仮面をつけていらっしゃるのですか?」
メイドさんは私の質問になにやら考え込んでいましたが、やがてゆっくりと口を開きました。
「仮面、というのは、とても便利なものだと思いますよ。泣いたり怒ったりしていても、誰にもわからないでしょう。他人とどうやって話せばいいのかわからなかったり、自分に自信が持てなかったりしても、仮面をつけると気がずっと楽になります。それにたとえば、仮面をつけることで正直になれるということもあるのではないでしょうか。自らの罪を打ち明ける告解室も、あれは自分と相手の顔が見えないからこそ成立するもの。案外、アセルス様もこの仮面をつければ正直に弱音を吐けるのかもしれませんよ」
「……」
この方は。
私は改めて不思議に思いました。一体どのような人生を歩んでこられたのでしょう。その仮面の下には、どんな顔が隠されていて、いま私の目の前で静かに語る彼女はどんな表情をしているのでしょう……。
◇
10年の歳月が過ぎ、私と彼女は再会しました。メイドさんは足を踏み入れて良いか躊躇っているようでした。
「突然お伺いしてしまって……」
「いいえ、そんなこと!」
慌てて首を振り、彼女を自室へと招き入れます。なにぶん仕事の最中でしたのですぐにというわけにもいきませんでしたが、なんとか時間をつくることができました。
「長い間、何の連絡もできず、申し訳ありませんでした。ジーナさん」
「……一体、何があったのですか? アセルス様はご無事なのですか?」
はやる気持ちに最も知りたかったことを尋ねると、彼女は静かに答えます。
「あの方は弱音を吐かれました」
「え?」
「オルロワージュ様によって白薔薇姫が闇の迷宮に囚われ、あの方はとうとう旅を続ける気力を失ってしまわれたのです。だから私たちは彼女を追っ手から匿うため、ボロという小さなリージョンに結界を張りました。妖魔がアセルス様の血の匂いを追えぬよう、あの方の痕跡となるものは全て絶たねばならなかったのです。手紙を送ることができなかったのはそのためです。……ご心配をおかけして、本当にごめんなさい」
「そうですか。そんなことが……」
やはりアセルス様は苦しんでおられたのだ、と私は忸怩たる思いで胸がいっぱいになりました。そんなことにも気づかず、私はこうしてぬくぬくとこの町で暮らしていたのだと。
「本当に、いろいろなことがありました。アセルス様の心は窶れはて、生きることすらも諦めているように見えました。ゾズマ様は失望したと仰り、私たちはアセルス様を守るのを諦めその場を離れました」
「そんな! では、いま、アセルス様は!?」
「安心してください、ジーナさん。アセルス様はここに戻っていらっしゃいますよ」
「え……?」
「結界が無くなり、誇りを失ったあの方を滅ぼすためにイルドゥン様が現れました。あの黒騎士イルドゥン様を、しかしどういうわけかあの方は味方に引き入れてしまわれたのです。とても力強く宣言されたそうですよ。ファシナトゥールへ帰る、そして白薔薇姫を取り戻すと」
「ああ……」
いつしか私は祈るように胸で両手を組んでいました。アセルス様が戻ってくる! 爆発的な歓喜が背筋を駆け抜けていきます。嬉しさのあまり涙がこぼれそうになりました。喜びを誰かと分かち合いたくて、「ああ、なんてこと!」と目の前のメイドさんに抱き着いて頬ずりすると、困惑しながらも彼女は私の背中をぽんぼんと叩いてくれました。
「ほんとうに、ほんとうに私、心配で……」
「いいんです。長いあいだ教えてあげられなくて、ごめんなさい……」
背中を撫でる手の感触から伝わる優しさに胸がつまりそうになりました。
この女性は私の知らないアセルス様の10年間を知っているのだ。そう思うと僅かに嫉妬を覚えないでもありませんでしたが、どういうわけか彼女の匂いはとても懐かしい匂いがして自分でも不思議なほど安らぐのでした。
私はさっそくアセルス様への贈り物を考え始めました。長い長い旅のはてにようやくご帰還されるのですから、それなりのものを用意しなければ。アセルス様とお会いした時に渡したドレスは、今にして思えばまだ未熟な出来でした。今の私ならばもっと素晴らしいものがつくれる筈です。
あれやこれやと夢見るようにデザインを考えます。それは久しぶりに心躍る時間でした。色は何にしようかしら。妖魔の青、それともあの人の髪の緑? アセルス様といえばやっぱり似合うのは赤色? 前回お贈りさせて頂いたのは軍服のようにかっちりとした中世的なデザインのものでした。それならば今度は、貴婦人が夜会に出かけるような淑やかなものにしようかしら。
頭を捻っていると時折メイドさんが店をのぞきにきます。彼女はなにか仕事があって、しばらく根っこの町に滞在するのだそうです。私はてっきり彼女はアセルス様の手紙を届けに来てくれたのだとばかり思っていたのですが、どうやらそうではないようでした(その点に関して私は大いに落胆しました)。アセルス様は手紙をお書きになってはくれないのかと、そんな風に問い詰めるのはどうにも無作法に感じられましたし、手紙もなしにメイドさんが私を訪ねてきたのは何か理由があるのではないかとも思いました。
その理由というのが私自身だと知ったのは、それから一か月後のことでした。
その日、私はメイドさんに豆料理を振舞う約束をしていました。メイドさんからは他の星の料理をいくつか教わっていましたので、その日は私が特製の料理をつくるつもりでした。
他愛もない話をしながら鍋で豆を煮ていると、店の扉が静かに叩かれます。こんな夜中に誰かしら、と首を傾げながら近づいていくと、扉の向こう側から深く染み入るような男性の声が聞こえます。
「ジーナ」
それは抗いがたく、蠱惑的な声でした。
「ジーナ。アセルス様が針の城へと戻られた。彼女がお前を待っている。今すぐに参ぜよとの仰せだ」
「アセルス様が!?」
思わず声が裏返りました。やはりあの方はこのファシナトゥールへと帰ってきていたのだ! しかもこの私をお呼びになっている!
「いま、すぐに参ります!」
私は歓喜に手を震わせながらドアノブへと手を伸ばしました。
「いけませんジーナさん!」
不意に鋭い声を上げたのはメイドさんでした。仮面をつけているためやはり表情はわかりませんが、珍しく声を上ずらせています。焦っているようでした。
「ど……どうされたのですか?」
「“彼”を招いてはいけません。アセルス様はまだドゥヴァンにおられる筈です。彼は嘘をついています」
「え……? でも……」
「ジーナ」
男の声がまた響きました。優しく私の鼓膜を震わせのその声は不思議に信頼できるように思えました。それが妖魔の持つ魅了の力だと私は知っている筈でしたが、しかし逆らうことはできませんでした。アセルス様が私を待っておられる。私はあの人の元へ行かなければならないのだと。私の頭を占めているのはそのことばかりでした。
私は扉を開きました。すると、ぬっと突き出てきた男の腕が私の腕をがちりと掴み、私は恐ろしいほどの力で引き寄せられます。
「ジーナさん!」
メイドさんが悲鳴をあげたようでした。
気が付くと、私は男性の腕に抱かれていました。突然の出来事に顔を上げると、そこにいらしたのは針の城の黒騎士ラスタバン様でした。
「ラスタバン……様……? どうして……?」
「ジーナ。アセルス様がお前を待っているというのは嘘ではないよ。私と共に針の城へ行こう。君は私とあの方を迎える準備をするのだ」
「ジーナさん。その方の言葉を聞いてはいけません!」
戸惑う私のもとにメイドさんの叫び声が届きました。店を飛び出してきた彼女は自動拳銃を構え、ラスタバン様へと強い警告を発します。
「その手をお放し下さい。ラスタバン様。そんなことをしてもアセルス様のお心は変わりません」
「フ、フフ……」
ラスタバン様の喉から隠し切れない笑い声が漏れました。
「そんなちっぽけな武器でどうする気なのだ、君は? このファシナトゥールで黒騎士を相手に銃を抜く、その意味が君にはわかっているのか?」
「くっ……」
警戒したようにメイドさんは後ずさりします。
「たとえ、あなたが黒騎士であろうとも、ジーナさんをお守りするのが私の仕事です。彼女を返してください!」
「勇敢なお嬢さんだ。だが愚かと言わざるを得ないな。怪我をしない内に早くご主人のところへ戻りなさい」
ラスタバン様は鼻で笑うと彼女を無視して私を抱きかかえました。すると銃声と共に傍の石畳が弾けます。彼女が撃ったのです。
「……彼女を、返してください」
ラスタバン様の顔から表情が消えました。
「君は、自分のしていることがわかっていないのだ。この状況で君にできることはない。これは忠告だ。君がするべきことは今すぐこの場を立ち去ること、あるいは一刻も早く助けを呼ぶことだ」
「いいえ……違います。私の仕事は彼女を守ること。私がするべきことは、貴方に立ち向かうことです」
声を震わせながらメイドさんが答えます。
「困ったお嬢さんだ……」
ラスタバン様がため息をつきました。それから彼が片手を軽く振ると、突然メイドさんは吹き飛ばされ、背後の壁に激しく叩きつけられました。
「そこでじっとしていなさい。その方が君のためだ」
「やめてください! ラスタバン様!」
私が悲鳴を上げ、じたばたともがきます。ラスタバン様はこともなげに私を抱え直し、諭すように言いました。
「彼女のためにも、君はじっとしなさい、ジーナ。その方が良い」
動かなくなったメイドさんから拳銃を取り上げ、ラスタバン様は落ち着いた足取りで歩み出しました。
私は恐怖と混乱のためにわなわなと体を震わせることしかできません。誰かあのメイドさんを助けてあげて、と心の底から願いましたが、口は強張って思うように動きません。ラスタバン様への──メイドさんを傷つけた彼への怒りと逆らい難い魅了の力とに引き裂かれ、私の心は千々に乱れていました。
「安心しなさい。ジーナ」ラスタバン様は優しく言います。「彼女の命に別状はない。あれでも妖魔の端くれだ」
「わ、私は……私をどうするおつもりなのですか……?」
尋ねると、ラスタバン様は穏やかに微笑みました。
「革命には物語が必要だ。そうは思わないか?」
「革命……?」
突然の言葉に戸惑っていると、ラスタバン様は楽しそうに語り出します。
「アセルス様の体には、1億年を生きる怪物の血が流れている。それは永遠を生きる支配者の血、全能を唱えうる完全者の血だ。この閉塞した妖魔の社会を変えうるには彼女のような劇物が必要なのだよ、ジーナ。役者は既に揃っている。後に残るのは物語だけだ。革命には物語がいる。思想がいる。激情がいる。君はアセルスという革命の炎にくべられる薪炭となるのだ。想像してみるといい。君を失って泣き叫び、ついには妖魔の君さえも滅ぼすアセルス様の姿を。美しいとは思わないか?」
「そ、そんな……」
確かに、ラスタバン様の言葉は魅力的に聞こえました、アセルス様のために好みを捧げられる。あの方が歩む物語にけして消えぬ挿絵となって残ることができる。それはどれほど悩ましくも麗しいことでありましょうか。どのみち、この状況で私にできることなどはないのです。下手に暴れ、またメイドさんを助けに戻ったとしても、それは彼女をさらに危険に晒すだけです。
「私は……」
答えようとおずおずと口を開いたその時、私は突然ラスタバン様の腕から投げ出されました。路面に腰を強かに打ち付け、慌てて顔を上げると、そこには荒い息をつきながらメイドさんが右手に煉瓦を握りしめていました。彼女は煉瓦でラスタバン様の後頭部を殴りつけたのです。血はついていないようでした。さすがにこの程度で上級妖魔が負傷するということはないでしょうが、不意の一撃にラスタバン様も腕の力を抜いてしまったのでしょう。
「ジーナさんを」メイドさんは肩で息をしながら呻くように言いました。「返しなさい……!」
「…………」
ラスタバン様は何も言わずに目を細めます。メイドさんは倒れていた私の腕を掴み、背後に庇いました。
「ジーナさん。早く逃げてください」
「メイドさん、どうして?」
「アセルス様がファシナトゥールへの帰還を決心された今、あなたを利用しようとする者が現れるのは想定内のことです。それがまさか黒騎士だとは思っていませんでしたが……」
「違います。どうしてそこまでしてくださるのですか? これ以上はあなたが危ない目に遭うだけです。もう私のことは諦めてあなたは」
「馬鹿なことを言わないでください!」
メイドさんが叫びました。そんな風に感情的になる彼女を見るのは初めてのことでした。私の肩を痛いほど掴む彼女の手のひらがぶるぶると震えていました。
「あなたはアセルス様を動かす道具にされるのです。妖魔の洗礼を受ければ虜化によって都合の良い操り人形になってしまう。──何もかも忘れてしまうのですよ? 大切な人のことも、アセルス様のことも!」
それは感情を振り絞るような、痛切な叫び声でした。仮面の奥で、彼女が顔をくしゃくしゃに歪めているのが分かるような気がしました。
私はイルドゥン様からミルファークさんの秘密を知らされた時の喪失感を思い出してはっとしました。
けれども……。
どうすれば良いのでしょうか。私を庇うメイドさんの足が震えています。私は彼女を置いて逃げ出すべきなのでしょうか。
「警告はした筈だ。二度はない」
ラスタバン様が冷たく言い放ちました。
「哀れなものだな。勝ち目のない戦いに命を懸けねばならないとは。主人に従うのはメイドの義務というものだが、君の主は随分と残酷な男のようだ」
その言葉にメイドさんはぴくりと肩を震わせました。
「仮面をつけたメイドを従えている妖魔などそうはいない。噂には聞いていたが、やはりゾズマはアセルス様に手を貸しているのだね?」
「ふ……」
その時、緊迫した状況にあってはじめてメイドさんは不敵に笑いました。
「その認識は大いに間違っておられますよ、ラスタバン様。ゾズマ様は私の主ではありません」
「ほう?」興味深げにラスタバン様の眼が光ります。「では誰だ? アセルス様に鞍替えしたのか? それともまさか──我が友人殿かな?」
「決まっているでしょう」
メイドさんはきっぱりと言いました。
「私の主は私です。それ以外の誰でもない」
「フム……。なるほど、君もまた妖魔、というわけか……。よかろう、ならばその仮面を打ち砕き、君の瞳を覗き込んでみるとしよう……」
ラスタバン様は無造作に手を伸ばし、メイドさんの首根っこを掴みあげます。
「う……」
低いうめき声をあげてメイドさんがは暴れますが、上級妖魔の力はびくともしません。ラスタバン様は余裕たっぷりにその仮面を掴み、ぎりぎりと音を立てて締め付けます。
「う……ああ……!」
「最初からこうするべきだったか。……いや、今更それは詮無い話か……」
「メイドさん!」
私が叫び声を上げたまさにその時、メイドさんの右腕が胸元のブローチを引きちぎるのが見えました。
「ラスタバン!」
彼女は叫びながら、ブローチを彼の顔面へと叩きつけました。それは──そのブローチは精霊石と呼ばれる封具でした。精霊の力を封じられた石は割れることによってその力を開放し、彼と彼女との間で爆発します。
ラスタバン様は顔をしかめていました。その隙間からは皮膚が焼け爛れているのが見えましたが、瞬く間にその傷は治っていきます。
対してメイドさんは爆発の衝撃でしばらく気を失っていましたが、すぐに気が付いて起き上がりました。彼女は何の傷も負っていませんでした。しかし、
「その、顔……。なるほど、君が仮面をつけていたわけがようやくわかったよ」
ラスタバン様は言います、メイドさんがつけていた仮面──あの武骨な鋼鉄製の仮面はいまや無残に砕け、僅かに右目を隠すだけになっていました。ようやく露わになってその素顔は──。
「ミルファーク、さん……?」
思わず私は呟いていました。
今まで隠されていたメイドさんの顔は、針の城で働くあの侍女と全く同じ顔だったのです。妖魔の君の口づけによって魂を奪われたあの乙女たちと。
メイドさんはさっと顔色を変え、顔を手で覆いました。
「ミルファーク。ここで何をしている? 君のいるべき場所は針の城の筈だ」
「私はミルファークではありません……!」
ぎりぎりと歯を軋ませながら、メイドさんは声を絞り出すようにして言いました。
「ミルファークではないとするなら、何なのだ。その顔、その姿。ミルファーク以外の何物でもないだろう。君はしょせん魂を持たない侍女人形に過ぎない」
「いいえ、違います。あなたにはわからないのです。他者を操りことをなそうとする脚本家には、自らを演じ手とする者の事情など」
「生憎と、私は舞台に立つ側の存在ではないのでね。……まぁ、どのみち君が何者であろうと私には関係のないことだ。君と同じ顔をしたメイドは針の城に大勢いる。ミルファークが一人消えたところで誰も悲しむまいよ。悪いがモブキャラクターには舞台から降りてもらおうか、ミルファークよ」
「私をミルファークと呼ぶな──ラスタバン!」
怒りに顔を歪めながら、メイドさんはメイド服からフラッシュボムを取り出して地面に叩きつけました。
「逃げますよ、ジーナさん!」
「は、はい!」
メイドさんに手を引かれ、私たちは脱兎のごとく駆けだしました。あまりにも多くのことが起こりすぎて、何が何だかわかりません。私はただメイドさんに導かれ、ついていくのがやっとでした。道すがら私の頭を様々な考えがよぎりました。ラスタバン様は私を利用してどうするつもりだったのか。メイドさんはなぜ仮面をつけていたのか。彼女は何者なのか。
ただ一つ分かっていたことは。彼女は信用できるということだけでした。彼女は妖魔であるという話でしたが、繋いだ手のひらはとても暖かく感じられました。
私たちは根っこの町を抜け、焼却炉へと身を潜めました。
「ここなら少しは安全ですね」
そうメイドさんに告げられ腰を下ろした時、麻痺していた神経が突然回復したように安堵と疲労に体が震え、涙が出そうになりました。状況は未だ切迫していましたが、私はようやく一息ついてメイドさんに感謝しました。
「あの……何から何まで、本当にありがとうございます。私のために……」
「いいのです」メイドさんはまるで気にしていないというように事も無げに答えました。「私が私の意思でやっていることです。あなたが気にすることはありません」
「でも、仮面が……」
心配そうに尋ねると、メイドさんは寂しそうに仮面の断面を撫でました。
「形あるものはいつか壊れるものです。仮面が私の素顔を引き出してくれるものであったとしても、時には素顔が壊れることもありましょう。……ジーナさん。あなたが無事であれば、私はそれで良いのです」
暖かなその言葉に、私は感極まって彼女に抱き着きました。はるか格上の黒騎士に一歩も引かずに立ち向かった彼女の勇気と、そして私を懸命に守ってくれたその優しさに胸がいっぱいになりました。
「ジ、ジーナさん……」
メイドさは困惑しているようでしたが、構わずに私は思いのたけを告げました。
「……本当に、本当にありがとうございます……!」
「ジーナさん……」
メイドさんはおずおずと私の体を抱きしめてくれました。
「怖かったです……とっても……!」
「いいのです……仕方のないことですよ、それは……。あなたは何も気に悩むことはありません……」
私を包み込むようなその言葉に、自然と涙が零れました。
「──ああ、あなたが私の姉であったらよかったのに……」
私は自分でも無意識のうちに口に出していました。
「え……?」
「ねぇ、教えてください。あなたは私の姉ではないのですか? 私は私の姉をずっと探していました。私が幼いころ、針の城へ奉公に出た姉のことを。姉は針の城でミルファークさんとして働いているのだそうです。……どうして、あなたはお城の侍女と同じ顔をしているのですか? どうして、あなたは私をこんなにも守ってくれるのですか? お仕事だから? それとも──」
「ジーナ、さん……」
それはとても悲痛な声でした。悲しそうに囁いて、メイドさんは私の肩を掴んで引き剥がしました。
「あなたの、お姉さんの名前を、お聞きしてもよろしいですか……?」
「私の姉の、その名前は──」
私はそっと言いました。
「──ディミディエ、とそう言います」
「そう、ですか……」
メイドさんは静かに微笑みました、その笑顔はなんだか泣いているようにも見えました。
「あなたには私の名前を教えましょう。それはゾズマ様と私しか知らない名前です。──私の名は、ディアディム、と言います」
「ああ、そんな……」
自分でもわかっていた返答ではありましたが、私は落胆に打ち震えました。
メイドさんは──ディアディムさんは私の顔をまっすぐに見つめていました。
「私があなたの姉であったなら、どんなに良いでしょう。自分が誰なのかを思い出すことが出来たなら。……でも、私にはそれができないのです。私にできるのは嘘をつくことだけです。実は私はあなたの姉であると、たったいまそれを思い出したのだと、そう口にすることはできます。……でも、それはやはり嘘なのです。本当のことにはなりません……」
「あなたは……?」
「私は針の城でミルファークと呼ばれていた存在です。あなたも知っているように、どこかの女が妖魔の君の虜化を受け、心も体もミルファークという焼き型に刳り貫かれた存在にすぎません。私は多くのことを忘れてしまいました。ミルファークであった前、自分が何者だったのか、思い出すことはできないのです。ディアディムというこの名は、私が自分で私につけた名前です。なんだか、あなたのお姉さんの名前と似ていますね。もしかしたら私は、かつてあなたの姉であったのかもしれません。……でも、やはりそれは、わたしにはわからないことなのです。ごめんなさい……」
「ディアディムさん……」
私はようやく、彼女が仮面をつけていた理由を知りました。彼女が抱えていた孤独を、その悲しみを多少なりとも理解できたような気がしました。
「私は本当のところを言えば、少し諦めていたんです。もう、姉の消息なぞ見つかりっこないと」
私は正直に告白しました。
「でも、諦めるのはまた今度にします。今日、あなたの口からその話を聞いてそう思いました。だってそうでしょう? あなたがそうして自らの記憶というものを求めつづけているのなら、私の姉もそうしないとは限らないじゃありませんか。そうして自分の意思をミルファークさんたちみんなが取り戻したら、いつか本当の記憶だって手に入れるかもしれん。……だから、どうかディアディムさんも、思い出すことを諦めないでください」
「私が私を探し続けることが、あなたのお姉さんを探すことにも繋がると?」
「きっとそうですよ。私たちは、そんな関係で繋がっているんです。仲間です」
「仲間……」
そうつぶやくと、ディアディムさんはほう、と震えるように息を吐きだし、幽かに微笑みました。
「一人じゃないということとは、素晴らしいことですね……」
しみじみと囁いて、彼女は私の手を取り、そっと握りしめました。
「やれやれ……」
冷笑的な声が聞こえたのはちょうどその時でした。
「感動的な話はそこまでにしてもらおうか。私の手を煩わせないでくれたまえ」
「ラスタバン……」
憎々し気にディアディムさんが呟きます。そう、物陰から現れたのは黒騎士ラスタバン様でした。なんとか撒けたものと思っていたのですが、やはり甘かったようです。
「そろそろ私の善意というものを理解してほしいものだな。わざわざこの私自らが出張ってきたのも不要に君を傷つけないためだ。配下の者たちには乱暴なものも多いのでね。……いい加減に認めたまえ。どだい、君たちの力ではこの私から逃げ切ることは不可能なのだよ」
「……不可能だろうが何だろうが、やってみなければわからないでしょう。私は……私は諦めません」
ディアディムさんが顔を強張らせながら力強い口調で答えました。
「わ、私も……私も諦めません!」
「は……」
ラスタバン様は笑いながら俯き、人差し指で額を撫でました。ディアディムさんは油断なく彼を見据えたまま、私を庇うように前に出ます。
「ジーナさん。気を付けてください。次に何をしてくるか……」
「いいや。もう“次”はない」
ラスタバン様の姿が不意に消えた──とそう思った次の瞬間、気が付くとディアディムさんの喉笛は彼の手によって掴みあげられていました。
「あ……ぐ………!」
ラスタバン様は無表情のまま彼女を地面に叩きつけます。鈍い音がして、ディアディムはぐったりと動かなくなりました。
「ディ、ディアディムさん……!」
慌てて駆け寄ろうとした私をラスタバン様の冷たい視線が貫き、私の体はその途端に動かなくなってしまいました。
「そこでじっとしていたまえ、ジーナ」
「あ……」
「私もこんなことをするつもりはなかったのだが……いささか時間がかかりすぎている。これ以上の手間を省くためにも、彼女はここで殺しておく」
ラスタバン様の手がディアディムさんの首に伸びていくのを、私は暗澹とした面持ちで眺めていました。何とかしなければ、とそう思いながら、しかし私の体は黒騎士の視線を受けて動かなくなっていました。誰か、誰か助けて! アセルス様! 助けてください! アセルス様! 必死になって助けを呼びました。すると──、
「……ト、そのとき上手から謎の妖魔が現れて口上を述べる。“さてここからは台本にない場面だ。即興劇を始めよう……”」
どこからか声が聞こえました。この状況を面白がっているような、自信に溢れた声が空から降ってきます。
「…………ッ!」
それまでけして余裕を失うことのなかったラスタバン様の表情が初めて険しくなりました。素早く振り返ったラスタバン様は腰に提げた剣を抜き、緊張を滲ませながら構えます。彼が見つめるその先には、とても美しい顔をした赤毛の男性が立っていました。乱暴に逆立てた赤い髪に胸元をはだけた淫らな服装、口元にニヤニヤと悪戯な笑いを張り付けたその方は、気取った仕草で肩を竦めます。
「いやあ、久しぶりだね、ラスタバン。まさかこんな場面で君と出会うことになるとは思っていなかったよ」
「これはこれは……ゾズマ様。ご壮健で何よりです」
「うん。世界中を旅して回っていると面白いことばかりでね。中々退屈する暇もない。針の城にいた頃に比べると毎日が充実して困っているくらいだよ。君もどうだい? 外の世界に飛び出してみては」
「私はこれで故郷を愛する妖魔でしてね。外界を味わう前に、まずはこのファシナトゥールを楽しむことから始めようと考えているのですよ」
「へえ、僕にはよくわからないな。生憎と、地元愛とは無縁の男でね。……ところで一つ聞いてもいいかな? いま、君は何をしようとしていたんだい?」
何気ない質問にラスタバン様はふっと口元を引き締めます。
「いえ、なに──御覧の通り、針の城の侍女の職務怠慢を咎めていたのですよ」
「ふうん?」ゾズマ様は倒れているディアディムさんを見つめて首を傾げました。
「なんだか変なメイドだね。割れた仮面をつけている。そんな子、針の城にいたかな?」
「……どうやら彼女は愚かにもオルロワージュ様に反抗し、そればかりかこの私の邪魔さえしたのです」
「なんだって?」ゾズマ様は大げさに驚いて見せました。「それは悪い子だなあ! そんな悪い子は、是非とも折檻してやらなきゃいかんねえ!」
「私も同感です、ゾズマ様。針の城の秩序を保つためにも、不穏分子は排除しなくては」
その言葉に、ゾズマ様はニヤリと笑います。
「針の城の秩序? ──おやおや、君がその言葉を口にするのかい?」
「さて……どういう意味でしょうか」
「いやいや、大した意味はないよ。気にしないでくれたまえ。……でも、あれれ? ちょっと待ってくれないか? なんだかそのメイドさん、見覚えがあるような気がするなあ……!」
「…………」
「なんてことだ! 彼女は僕も知っているよ。それどころか、彼女はミルファークなんかじゃない。僕に仕えてくれるメイドさんだったんだ。ううん? そうすると、なんだかおかしいな。困ったねえ……」
「何が……でしょうか」
「だって君はそのメイドさんは懲らしめようとしていたんだろう? でも彼女は僕の知り合いなんだ。僕の知り合いを傷つけるだなんて、ひどいじゃないか、ラスタバン君」
「そうでしたか……。あなたの所有物を傷つけたというのなら、その非はお詫びいたします。……しかし彼女は、彼女の主はあなたではないと言っていましたが?」
「おやおや、君らしくもない。黒騎士がメイドに騙されていたら仕方がないな。彼女は嘘つきなんだ。彼女の主はこの僕だし、彼女にジーナを守るように指示したのもこの僕さ」
「……そうですか。それは申し訳ありませんでした。私はあなたと事を構える気はないのです。ここは退きましょう」
そう言って身を翻すラスタバン様を、ゾズマ様は楽し気に「まぁ、待ちたまえよ」と呼び止めました。
「話はまだ終わっちゃいない。君は彼女を傷つけたんだ。人間界にはね、謝って済めば警察はいらないという言葉がある。BUKKYOという宗教の有難~い文言だそうだよ」
「謝罪はさせて頂きましょう。お詫びが必要とあれば、貴方の望む玉石もお譲りいたします」
「そうかい」ゾズマ様は気軽に答えました。「なら、命を置いていきたまえ」
ラスタバン様が眉根を寄せます。
「それはあまりにも法外というものでは? 彼女は所詮、メイドでしょう。損害については弁償いたしますが、召使の怪我と貴族の命が釣り合うとは思えませんが」
「そうかい」
その時、ゾズマ様の声は一気に冷たくなりました。彼は残酷な瞳でラスタバン様を見据えます。
「彼女が嘘つきだというのは本当のことだ。しかしながら君もよく知っているように、嘘つきなのは僕もまた同様でね。さきほど僕は嘘をついた。彼女の主はやはり僕じゃない。彼女の主は彼女だけだ。他の誰でもないし、彼女は誰のものでもない」
「誰のものでもないとするなら」ラスタバン様は慎重に口を挟みます。「たかが下級妖魔一匹、たとえ私が傷つけたとして、あなたには関係がないのでは?」
「いいや、違うね」一切の容赦を感じさせないほど冷酷にゾズマ様は告げました。「世の中は複雑にできている。確かに彼女は誰のものでもないさ。──だがな、ラスタバン。それでも彼女は僕のものなのだ。わかるか? お前は僕の所有物を傷つけた──その罪は、死を持って償え」
「まさかあなたがそこまで彼女にご執心とは」
ラスタバン様はため息をつきました。
「あなたは妖魔の中で唯一、闇の迷宮を走破し自由を獲得した方だ。この世の何物にも執着せず、拘泥しない──だからこそあなたとは敵対せずにいられると思っていたのですが……。まさかそのあなたと剣を交えることになるとは、大いなる誤算でしたよ……」
それ以上ゾズマ様は応えることなく、静かに剣を抜き放ちました。ラスタバン様は外套を軽やかに払いながらやれやれ、と首を振ります。
「我が友人殿とは違い、私は力比べにさほど興味がない質でしてね。叶うならば退かせて頂きたいところですが──どうもそれは許されぬご様子。仕方がありませんな。ならば私も剣でこの場を切り開くと致しましょう……。なに、時には脚本家が舞台に立ち、自らの筋書きを正すため配役に指導を加えることも必要でしょうから……」
落ち着き払った態度で剣先をゆらゆらと揺らしながら待ち構えるラスタバン様。
それまでの饒舌を嘘のように押し隠し、静かな殺意を瞳に込めたゾズマ様。
ファシナトゥールにおいても名うての実力者たる二体の妖魔の戦いはこうして始まりました。