「久しぶりじゃのう、イルドゥン。あの森での一件以来か?」
零姫を連れて発着場へと戻ると、イルドゥンは見るからに不機嫌になった。
「おい……どういうことだ、アセルス。お前は話を聞きに行くと言ったはずだ。連れてくるなどという話は聞いていないぞ」
「私もそのつもりだったんだけど、零姫様も私に協力してくれることになったんだ。……それにさ、あなたが言うような方ではなかったよ、全然。むしろとても気さくで親切な……」
「気さくで親切だと……? その女から離れろ、アセルス。零姫はそんな女ではない。何者かに虜化されているか洗脳を受けているに違いない。何かの罠だ」
「ええ……?」
「お前は本当に変わらんのう、イルドゥン」
零姫は呆れたように目を細めた。
「妾がせっかく挨拶してやったのじゃから返事をせんか。それとも返事の仕方すら忘れてしまったのか? 哀れな蛆虫じゃな。おぬしはまずどこぞの乞食にでも転生してこの世の礼儀というものを学んで来た方が良いぞ」
「…………ふん」
イルドゥンは零姫には視線を向けず、ただ小さくアセルスに対して頷いた。
「どうやら本物のようだ」
「聞いたか、アセルス? イルドゥンというのはこういう奴なのじゃ。日頃のそなたの苦労が手に取るように思い浮かぶ」
「いやぁ、まぁ、それなりに慣れもしますけど………ははは」
「なんだ? おかしいのは俺なのか? 俺はいま、ひどく罵倒されたような気がしたが……。アセルス。零姫を連れていくのはお前の勝手だが、その場合同行はできん」
「いや、悪いけどイルドゥン。それは駄目だよ」
「何がだ」
「私にはあなたが必要なんだ。いてくれなきゃ困る」
アセルスは真摯な眼をして告げた。
「…………」
「前にも話したよね。あなたは私に協力すると言った筈だよ。私はあなたと一緒にやりたいんだ。……私は信頼しているんだよ、イルドゥン。あなたの強さ、迷うことのない決断力や、私の弱さを否定してくれること。これからの私には、きっとあなたのような存在が不可欠だと思うんだ。それにあなたはいつだって……」
イルドゥンが黙ってアセルスの話を聞いているのを、零姫は面白そうに眺めている。
やがてイルドゥンはため息をつきながらアセルスの台詞を遮った。
「……もういい」
「え?」
「もういい、と言ったんだ。相変わらず能書きの多い女だ」
「……じゃあ、悪いけど一緒に来てくれるね?」
「……ほんとうに仕方のない女だ」
イルドゥンは答えなかったが、しかしその場から立ち去ることもなかった。
その会話を傍で観察していた零姫は敵の弱みを嗅ぎつけた軍師のようににんまりと笑みを浮かべ、「これは愉快」と独り言を零す。
「そういえば忘れておったわ。イルドゥン、おぬしは妾の居場所を知っておったそうではないか。じゃというのにオルロワージュが来ないということは、さてはおぬし、妾を庇っていてくれたのじゃな。……いやはや、なんとのう。さてはおぬし、いい奴じゃな」
「違う」イルドゥンはさらに顔を歪めた。「そういうことではない」
「ふふ……照れることはないぞイルドゥン。おぬしはいい奴じゃ。……折角仲間になったのじゃ、たまにはおぬしのことを褒めてやろう。おぬしいい奴、おぬしいい奴」
「だから俺はこの女が嫌いなんだ」
うんざりしたようにアセルスへと怒りをぶつけるイルドゥン。アセルスは苦笑いを浮かべるしかなかった。
◇
その日、ファシナトゥール星間船発着場のタラップをとうとうアセルスは踏んだ。踏みしめる鋼板が古めかしく軋むその音が、彼女にこれまでの旅路を思い出させてくれた。
針の城を抜け、町はずれの焼却炉へと飛び込んだこと。
オウミで出会った人魚姫と領主の恋のこと。
シュライクでの叔母との再会にアルキオネとの闘い。
クーロンでの貧しくも穏やかな生活、怪しげな医者ヌサカーンとの対話、そしてハウゲータの謎かけ。
それから……。
トリニティ基地に囚われて、拷問を受けたこと。基地の中で出会った少女、フーキとの別れと妖魔化への戸惑い。
小此木烈人と再会し、彼の身に起きた不思議な話。
マンハッタンでの再出発。助けてくれたキャンベル社長や、彼女を狙うIRPOやレッドとの決別。
京における金獅子姫との闘い、イルドゥンの来訪。
そして──闇の迷宮に落とされ、白薔薇姫と決定的な別れを経験したこと。
失意に暮れ、ボロでひっそりと隠遁生活を送ったこと。そこで子供を育てたこと。子供を失ったこと。
自分を殺しに来たイルドゥンとの闘い。
オルロワージュ第一の寵姫である零姫から聞かされた過去の出来事。
10年以上にもわたる長い長い旅を経て、アセルスはここにいる。
自分は帰ってきた。
時は流れた。
今の自分は、ここを飛び出した時の自分とは違う。どんな場所へ放り込まれても一人で生きていけるし、その術を知っている。万能とまではいかないとしても、自分で自分の身を守ることができる。
今の自分は、自らの意思で妖魔になることが出来る。自らの意思で他者と闘い、そして滅ぼすことが出来る。
アセルスはそのことを知っている。
それが良いことなのか悪いことなのか、それは彼女自身にもわからない。だが、何も知らなかった頃に戻りたいとは思わない。
時が流れて、何かが決定的に変わってしまって──かつての弱い自分を殺して、今のアセルスが生きている。
過去を殺して今を生きれば、弱い自分が滅びた未来で私は私を忘却する。
それを悲しいと思いながら、しかし後悔はしない。
旅を始めた時、傍には白薔薇姫と紅がいた。けれども、今、隣に彼女たちはおらず、その代わりにイルドゥンと零姫がいる。 ゾズマとそのメイドはこの星で合流する予定になっているが、まだ姿を見せてはいない。
空 を見上げてアセルスは言う。
「あの頃の私は、何も知らない子供だったね」
するとイルドゥンが静かに答える。
「今だって似たようなものだろう」
「……まぁ、そうかもね。でもあの頃と比べれば随分と違うよ」
「そうか?」イルドゥンはどうでも良さそうに答えた。「まぁ、そうかもしれんな」
きっとその程度のことなのだろう。自分が経験した多くのことは、他者からしてみればおそらくは無価値か、そうでなくとも些末事に過ぎない。何百年何千年と生きる妖魔にしてみれば、半世紀にも満たない人生経験などは茶番に過ぎないのかもしれない。
アセルスはイルドゥンを見上げ、まじまじとその顔を見つめた。
「……何だ」
いつものように不満げな顔でイルドゥンが睨む。今度は何を言い出す気だ、とでも言いたげな顔だ。
「私についてきてくれて本当にありがとう」
そう言うと、イルドゥンはうんざりしたように顔をしかめた。
「しつこいぞ。その話はもういい」
「うん。ごめん。……それで、ちょっと聞きたいんだけれど、私のこと、少しは好きになってきた?」
イルドゥンは何を言われたのかよくわからなかったようだったが、そのうちにようやく理解したのか普段ではけして見せることのない怪訝そうな表情を浮かべてぼんやりと呟いた。はあ?
「それが血の影響のせいなのかどうかは知らんが、アセルス……。やはりお前は徐々に発狂しつつあるようだ」
アセルスはくすりと微笑む。
「うん。まぁ……。それはどうでも良いことじゃないかな。自分が狂っているって言われて、そりゃ困ったなぁって反省したりする? しないよね。……私が狂っているかどうかってことは、いまさらどうでも良いことなんだ。私にとっていま重要なことは、貴方が私を好きになったかっていうことだよ」
「そんなことは万に一つもあり得ないが」イルドゥンは言葉を選ぶようにゆっくりと口を開く。「もし仮に俺がお前を好きになったとしてそれが何になる?」
「とても幸せなことだと思うよ。……いま、私に必要なのは誰かを“魅了”する力を学ぶことだと思うんだ。たとえ半妖だったとしても、私にはその力がある筈でしょう。私の目的を果たすためには、この力を上手くコントロールすることが不可欠だと思う」
「とすると、何か。俺はその修行の実験台か?」
「うん」
「……お前も妖魔らしくなってきたな」
イルドゥンが呆れてみせる。
「俺が言うことでもないが、魅了というのはお前のように直截的な言葉で行うものではない筈だが」
「ほかに方法を知らないから。できることからやるしかないし。私にいまできることは、好きな人に好きと言うこと、そして自分を好きになって欲しいと言うこと、それくらいかな」
「いつも言っているが、お前は少し身の程を弁えろ。俺が好きだというのなら、それなりの礼儀というものがあるだろう」
「別に好きじゃないよ」
アセルスは即答した。
「いつも言っているでしょう。貴方にはさんざひどい目に遭わされたよね。私は根に持つ方だからね。今でも恨みに思っているよ。あなたはいつも酷いことばかり言うし……ひどいことばかりする。斬ったり刺したり」
「…………」
「……だから、貴方のことを好きだと言ったのは、あれは嘘だ。私は言ったでしょう。言葉を尽くす、と。私はもっと言葉の使い方を学ばなきゃならない。あのとき貴方に好きだと言ったのは、あれは方便だよ」
「とすると……道すがらやたらと褒めてきたリ持ち上げてきたのは」
「妖魔を口説く練習になると思って」
「お前と言う奴は本当に失礼な小娘だな」
「どうして?」
「どうしてだと? そんなことを言われて腹の立たない奴がいるのか」
「そうかな……。でも、私は私の言葉が嘘だといった。貴方を好きになったことは嘘だって。でもさ、だとしたらその言葉だって嘘かもしれない」
「ああ……?」
「何が本当で何が嘘なんて、結局は誰にもわからない。私が言ったことは、半分は本当で半分は嘘だよ。私は貴方が好きだと言った。それは、半分は貴方を味方に付けなきゃならないと思ったから口にしたことかもしれない。でも半分は本当の気持ち。貴方の強さに憧れたから。貴方のことが嫌いだと言ったのは、半分は貴方のことが心の底から嫌いだから口にしたこと。でももう半分は、照れ隠しみたいなものだよ。どちらの言葉を信じるのかは、貴方が決めてよ」
「……そして、お前はその言葉ですらも嘘かもしれないと言うのだろう」
「うん」
「……普段なら、そうした小賢しい理屈をこね回す阿呆はすぐさま斬り捨てる所だ。俺の怒りは理解しているな?」
「うん……。悪いな、とは思ってる。一応」
「ふん。まあ良い。いい加減、お前のそうした物言いにも慣れてきたところだ。他の妖魔や人間がそんな真似をすれば滅ぼしてやるところだが、近頃ではお前に腹を立てても仕方がないという気もしてきた。ヒトが犬や猫を愛玩するというのは案外こういう気持ちなのかもしれんな。ペットに爪を立てられて本気で腹を立てるのもおかしいか」
「……貴方も大概、失礼な言い方するよね」
「お前にそんなことを言われる筋合いはない」
「はいはい。すみませんでした。……ねえ、イルドゥン。貴方は、オルロワージュみたいに寵姫を持ったり、セアトみたいに従騎士を持ったりはしなかったの? 誰かを虜化したり、好きになったりすることはないの?」
「何だ、急に」
「あなたの話を聞きたくなったんだ。いけない?」
「俺が必要とするのは俺だけだ。他者は必要ない。虜化や支配などに興味を持ったことはないな」
「そう……」
「妖魔や人間が愛だの恋だのと騒ぐことが俺には理解できん。……たとえば、蝉は何年ものあいだ地中で暮らし、成虫になり、地上へ飛び出てからは長くても一か月で交尾を終えて死んでいく。そうした生態に浪漫を感じる者もいるのだろうが、生憎と俺はそうではない。蝉の愛などに興味は持てない。妖魔からすれば蝉も人間も似たようなものだ。たかだか一世紀未満の寿命しか持たずに生まれ、瞬きの内に死んでいく。馬鹿馬鹿しいとは思わないか」
「さあ、どうだろうね? 何十年何百年と生きていれば私もそんな風に思うのかもしれない。でも、愛の尊さと時間の多寡とは関係のないものだと思うな。たった一瞬で恋に落ちることもあれば、百年かけて告げる恋の一つもあるでしょう。どちらの愛の方が、なんて比べるのは、それは野暮だよ」
「……お前と話していると調子が狂うな。なぜこの俺が恋愛談義なぞしなければならんのだ」
「私はそういう半妖なんだよ、多分。私にはその力がある筈だし、その力を使って生きていたいと思う。……言ってみればさ、イルドゥン。私は私の前に立ち塞がるもの全てを魅了してしまいたいんだ。……それが、私と言う妖魔が望む“支配”というものの在り方だから」
「支配、か……。お前はもはや、自分が人間だと言い張る気はないらしい」
「うん……ずっと昔に、知り合いに言ったことがあるんだ。正義の役目というのは、悪を魅了することだって。……でも、それはやっぱり間違っていたと思う。誰かの考えを変えてしまうということは……他者を魅了するということは、結局、洗脳することと何ら変わりはしない。私は私のエゴに基づいて誰かの気持ちや思考を捻じ曲げ、自分に都合の良いものにしようとする。私が選んだ生き方というのは、つまるところそういうものだと思う」
「そうか。……お前がそう決めたというのなら、今さら止めはしない。好きにしろ」
「うん。ありがとう……イルドゥン」
礼を言うと、ふん、とイルドゥンとは尊大に頷いた。
零姫は先ほどから面白そうに会話を聞いているばかりで、自分から加わろうとはしない。久しぶりに訪れたファシナトゥールをときおり懐かしそうに眺めまわしては穏やかな笑みを浮かべている。
ようやく一行が根っこの町の入り口に辿り着いた頃、眼前から一人の女性が駆けてくるのが見えた。成人女性が人の目も気にせずに全力で走っている姿はやや滑稽ではあったが、しかしそれが誰なのかにすぐ気が付いたアセルスは思わず自分でも走り出していた。
こんなに小さいひとだったろうか。まず脳裏に掠めたのはそんな思いだった。出会ったころは、まだ自分はろくに働いたこともない学生で、相手は手に職をつけ、自ら生計を立てていた。敬語を使われはしても、どちらかといえば相手を“大人”として捉えていたアセルスにとっては、久方ぶりに会う彼女の体は随分と華奢に感じられるものだった。それは自分が成長したからなのだろうか。時の流れというものに今また不思議な感慨を覚えつつ、アセルスはこみあげる思いに喉を震わせながら彼女の名前を呼んだ。
「──ジーナ!」
「──アセルス様!」
◇
はしたないことだという自覚はもちろんあったが、しかし久しぶりの再会に湧く心はそうした羞恥心を容易く吹き飛ばしてしまった。ジーナは駆け寄ってくるアセルスに半ば飛びつくようにしてぶつかり、きつく抱きしめ合った。
何度となく彼女の名を呼んだ。何度となく夢に呟いたその名、自らの夜を支配し続けたその名前を思うさま口にできることが心地よかった。しかし──。
彼女の理性はその快楽を思うさま享受していたが、しかし無意識でジーナは仄かな恐怖もまた感じている。
アセルスの肉体は驚くほど熱を持たず、むしろ凍り付いているようでさえある。十年以上も前、まだ幼く右も左も知らなかった自分たちが出会ったあの時にはまだアセルスの体はヒトの鼓動を脈打っていた筈だったが、しかし今は見る影もなく冷え切っている。心臓は動いていない。もしかしたら肉の奥底でか細く拍動してはいるのかもしれなかったが、こうして胸と胸とを合わせてみても感じられるものと言えば甘く香しいアセルスの体臭ばかりで、およそ命と呼べるものは何一つ味わうことが出来ない。それが妖魔というものだとジーナは確かに知っていたが、しかし目の前のアセルスをそれと認めることはできずジーナはわずかに身を強張らせることとなった。
「ジーナ?」
アセルスが驚いたようにジーナの顔を覗き込む。しかしその肉体に熱はなく、鼓動はない。凍り付いて微塵もせず、在るべき姿を常態として千年を超える生物の体。
「ジーナ……」
困ったようにアセルスが微笑んでいる。考えていることが伝わったのだろう。悲しそうに、しかしどこか慣れたことのように上手く傷ついて見せる。アセルス。ああ、この方は変わってしまったのだ、と根っこの町のお針子ジーナははっきりと悟った。彼女はもう自分と同じ人間ではない。紛れもない妖魔なのだと。
「ジーナ。私はね……」
「アセルス様」
謝罪めいたものを口にしようとしたアセルスを遮り、ジーナはどこかせがむように彼女の体をさらに強く抱いた。
「アセルス様。きっと、お辛いことがあったのですね……悲しいことが、貴方の身に降りかかったのですね……」
その言葉を口にするために、今は自らの悲しみに酔おう、とジーナと思う……。時が流れて何かが変わってしまった。それは当たり前のことなのだ。自分でもそれは分かっていたはずだった。変わったのは何もアセルスだけではない。かつて自分は家族のために彼女の誘いを断った。そしていま自分には、家族だけではなく自らの店と従業員という背負うべきものがある。全てを捨てて彼女にこの身を捧げるということできない。そんなことはずっと前から分かっていたことなのだから。
その思いが懐かしさだけならばアセルスの体をはねのけることもできた。しかしジーナの味わう喪失感は彼女を慰めへと駆り立てるのだった。親愛ではなく、罪悪感によってジーナはアセルスを抱き返した。13年ぶりの抱擁は優しい打算によって交わされることとなった。
「ジーナ……ごめん、ずっと、手紙を出すこともしないで……」
「いいんです。アセルス様。もう何も仰らないで下さい。こうして会えた、それだけで、私には……」
「嬉しい。ジーナ……」
アセルスの腕がゆっくりと背中に這わされ、ゆっくりと力が籠められる。指先が穏やかにジーナの背骨をなぞると、思わず声を漏らしそうなほどの快感がはしった。アセルス様? 驚いて体を離そうしたジーナは、しかし自らの体が不思議に動かないことに気が付いた。確かに感じた筈の抵抗感は一瞬の内に萎え、彼女の全身は疲れ切ったようにぐったりと力が抜けている。
「ジーナ」
アセルスが名前を呼んだ。
「はい。アセルス様」
ジーナはいつの間にか、どこか甘えるように答えている。その瞳は潤んだように熱を湛え、頬はうっすらと赤らんでいる。
「旅をして……ようやくわかったんだ。自分に何ができるのか。自分が何をしたいのか……」
「はい……」
「……ああ、こうして、貴方と再会することができて、本当に良かった。ジーナ。ようやくわかったよ。私は……」
ジーナが陶然と見つめる先でアセルスはゆっくりと唇を開いていく。
13年ぶりの抱擁は優しい打算によって交わされた。しかしジーナにはまだ、妖魔に抱かれるということの意味がわかってはいない。かつてジーナはアセルスを愛していた。それが肉欲によるものか、はたまた幼い乙女の夢想的な憧れによるものかは定かではないが、しかしいずれにせよ時は流れたのだ。己の心を過去から取り戻し、ためつすがめつ眺めることはできない。時は流れた。いかな感情もまたその時の中では色褪せることからは逃れられない。久方ぶりの再会に懐旧が湧き、変わってしまった友人の体への違和感に恐怖と悲しみとを覚え、しかしてジーナの身に残る愛はといえば──それは、出会ったころのものとはやはり同じものではない。アセルスのことを好きだ、と思う気持ち、その思いは──時の流れに浚われて少しずつ少しずつ変質してしまった。下半身を痙攣させて跪くような熱く苦しい想いは時の中に削られ、分別と理性とによって懐旧という名に糊塗されてしまう。
しかしジーナはこうして妖魔アセルスに抱かれた。彼女という肉の暖かさを知り、彼女から発せられる芳香を嗅いだ。自らを取り巻く時間が、空間が、不意に粘性を帯び、柔らかく自分たちを包んでいくのをジーナは知った。
禁断の呪文を囁くかのようにアセルスの唇は踊る。
「──ジーナ。貴方のことが好きだよ」
渇望していた筈のその台詞は、しかしとても恐ろしい言葉のような気がした。悲鳴を上げ、脱兎のごとく逃げ出してしまうべきなのかもしれなかった。けれども──ああ──わかっている。そんなことはできっこない。その言葉は蜜であり毒である。飲む者に不死をもたらす[[rb:変若水 > おちみず]]であり、ふしだらな退廃へと誘う阿片なのだ。逃れることなどできはしない。
貴方が好きだ。貴方が欲しい。アセルスは言った。唇が首筋に落とされ、皮膚を甘く食んでいく。引き攣るような痛みと共に、息苦しいほど熱い快楽が首から顎へと昇ってくる。
きっと、妖魔の君にその身を捧げた姉もこういう気持ちだったのだろう。支配者に身も心も委ねて服従する被虐的な感覚。それは紛れもない性の悦びだ。焚火に薪をくべるようにこの命をアセルスという名の炎へと投じれば、焦げ付くほどの狂おしい快楽が待っている。
「ジーナ」とアセルスはなおも言う。「貴方が欲しい」
「いけません、アセルス様」
ジーナは弱々しく呻いた。
「貴方は……この私に家族を捨てろと仰るのですか……?」
血を吐くような思いでジーナはその言葉を口にした。愛する人を拒絶する苦しみに涙さえ零して。
「私がどれほどその言葉を待ち望んでいたことか……けれど、私にはその言葉に頷くわけにはいかないのです。貴方だって、それはわかっている筈でしょう。なぜと言って、その言葉は、貴方がその言葉を口にする意味は……。いけません、アセルス様……そんなことをしたら、貴方はもう……」
悲嘆に暮れるジーナが肩を震わせながら必死に絞り出したその声に、アセルスはふと悲し気に眉を寄せ、しかしきっぱりと答えた。
「私はもう、人間には戻れない」
「そんな……」
決別の言葉にジーナは言葉を失い、目を見開いてアセルスを見つめる。
「大丈夫だよ、ジーナ」
アセルスは困ったように目を伏せ、しかし優しく微笑んだ。
「私は何も奪わない。貴方を束縛することも、強制することもない。貴方はあくまでも貴方のままだし、仕立て屋や貴方の家族のことも、その関係は今までと何ら変わることはない。私は貴方の血を吸ったりはしないよ、ジーナ。私はただ、貴方が欲しい。貴方の体が、その心が欲しい。だから、そう……私は、貴方を“支配”したいんだ……ジーナ。血の契りではなく、虜化と言う魔力の産物でもなく……支配というその言葉だけで貴方と繋がりたい。貴方を愛しているんだ。ジーナ」
それはあまりにも甘美な誘いだった。しかしジーナはそれほどまでに悲しい響きを孕んだ誘惑もまたないように思われた。
自分にとってなんと都合の良い服従なのだろうか。妖魔に恋をした乙女に与えられる選択肢は零と一しかない。全てを捧げるか、全てを諦めるか。針の城で人形となった姉のように意思を無くしてしまわなければアセルスの側にいることは叶わないものと思っていた。しかし今、彼女が口にした契約の言葉はまるで異なっている。自分は虜化されて寵姫となるのではない。どこまでも人間として彼女を愛してほしい、そう懇願されているのだ。アセルスが口にした支配というその言葉はあくまでも言葉でしかなく、何らの隷従を保障するものではない。それでもアセルスはジーナを“支配”するのだという。その言葉の、言葉だけの、あやふやで不確かな関係で結ばれていたいのだという。支配したいというその言葉に頷いたからといって何が変わるわけでもない。時が経てばまた心も移ろうゆえに、いつか彼女を憎むことも蔑むこともあるだろうに、それでもアセルスは言葉以上の契りを求めない。いっそ強引にでも牙を立て、音をあげて乙女の髄液を啜りあげさえすれば永遠に変わらぬ愛が手に入るというのに。たとえ理性では拒んでしまうとしてもジーナとて無理やりにでもそうされた方がずっと心やすらかなことであるというのに。
旅の終わり、辺境を目指した物語の果てに──アセルスが望んだことは、支配という“言葉”だった。砂漠の果てに立つ陽炎のように縹渺としたそんな幻想こそをアセルスは求めていた。
「それは……」とジーナは答えた。「なんとロマンチックで、しかし……辛く苦しいことでしょう」
「ああ、そうだね……。きっと、虜化された方がずっと楽だろう。虜化されてしまえば、自らの心が変わっていくことに怯える必要もない。妖魔になって、老いることも病めることもなく暮らしていれば永遠の愛というものが手に入るのかもしれないけど……でも、そんなものを私は欲しいとは思わないよ。私が望むのは、いま、この時に交わされる一瞬の言葉だけでいい。それから先に貴方の心変りがあったとしても、私は後悔しない」
「ひどい、アセルス様……。醜く老いていきながら、それでも貴方を想い続けろと仰るのですか? 皺だらけの老婆になっても、乙女のように恋をしろと……?」
「ああ、そうだ。ジーナ。私と共に戦ってほしい。私と一緒に、時間というものに立ち向かってほしい」
「わ、わたしは……」
戸惑いに声を振るわせてジーナは視線を彷徨わせた。嬉しい、と思った。しかし同時に、何かが恐ろしいとも思うのだった。愛に溺れていくことは恐怖だった。理性では恋をして、本能ばかりが恐怖していた。自分は今にも首を縦に振りたがっている。アセルスの胸に抱かれ、優しいその感触を味わうだけで昇りつめそうになる。耳朶を震わせる優しい声色、無数の花々に囲まれるような甘い香り。この[[rb:女 > ひと]]を、愛している。そう思ってしまっている。大切に感じてはいてもそれは思い出の一部で、自らの[[rb:住処 > 根っこ]]を捨てて探しに行くほどではなかったはずなのに。あの日あの夜別れた時には私は行けないと決別した筈だというのに。──こうして久方ぶりに再会して抱かれてみればどうだ、忽ちのうちに心は蕩け屈服してしまいたくなっている。そうだ。分かっていたことだろう。これが魅了というものなのだ。時間や意思など何ら斟酌することなく、あたかも物語を書き換えるかのように運命を決定づける魔の一手。抗うすべなどない。そうだ。彼女が何を言ったとしても、自分は既に魅了されている。彼女にはその力がある。仕方がない。仕方がないことなのだ、これは。幸いにも彼女は言ってくれているではないか。家族を奪いはしない。吸血されもしない。望むのは言葉だけなのだと。何も迷うことなどは無い。約束の言葉を口にさえすれば何もかもを終わりにすることが出来る。これはまさしく魅了だ。魅了とは、[[rb:魅 > ばけもの]]が人の心を[[rb:了 > おわり]]にすることなのだから。だって彼女を愛してる。逆らう理由がどうしても見つけられない。自分は魅了されたのだ。妖魔には誰も逆らうことができないのだ。恭しく膝をつき、この魂を捧げますと言えばいい。自分は貴方という主人に仕える哀れな奴隷ですと。
──そう考えた時、ふとジーナの脳裏に仮面をつけたメイドの言葉がよぎった。“私の主は私です”果敢にも黒騎士に立ち向かったディアディムが口にしたあの言葉。
はっとした。アセルスの力に飲み込まれてはならない。魅了。虜化。彼女はそんなことを望んではいない筈だ。この力は、彼女自身が抑えることのできない呪いのようなものかもしれない。だとしたら自分はそんなものに飲み込まれてしまうべきではない。
「アセルス様」
ジーナは呟く。
支配したい、と彼女は言った。その言葉に頷くことは容易かった。しかしそれはやはり違うことなのだ。このまま彼女が持つ魅了の力に膝をついてはならない。
“私の主は私です”。そうだ。この[[rb:女 > ひと]]を孤独な王にしてはいけない。支配したいというのなら、私もまたこの[[rb:女 > ひと]]を支配しなければ。どちらかが上でどちらかが下である必要はない。支配という言葉で繋がり合うとしても、対等であっていけない理由などはどこにもない。
「アセルス様」
もう一度ジーナは言った。驚くほどの勇気が胸の内に溢れていくのが分かった。初めて自らアセルスの腕を取り、抱きすくめて手繰り寄せる。私も貴方を愛しています。そう言って口づけを交わした。私は私の意思でこの[[rb:女 > ひと]]を愛す。そう決めた。泣き出しそうなアセルスの表情から、静かな歓喜が伝わってくる……。
ちっぽけな町娘、お針子ジーナはこうしてアセルスと結ばれた。それは長い妖魔の歴史にあって、初めて牙を介さずに繋がった恋人であった。
◇
セアトに敗れ、滅びた筈のラスタバンが現れ、ジーナを攫おうとした一件をアセルスが知ったのはその夜半、ジーナの部屋のベッドでのことだった。
「ラスタバンが?」
「はい。あのディア……メイドさんとゾズマ様が助けてくださいました」
「そう……」
アセルスは申し訳なさそうにジーナの体を背後から抱くと、ジーナの首筋に顎をのせたまま「ごめんね、巻き込んでしまって」と静かに謝った。吐息が耳にかかる心地よさにうっとりと目を閉じたままジーナは、私のことはいいのです、と首を振る。
ジーナとの暖かな夜を過ごしたアセルスは次の朝、ラスタバンの友人でもあるイルドゥンにさっそくこのことを話した。そもそもラスタバンと出会ったのは何年も前のことであり、交わした言葉も大して長くはなかったため、ラスタバンという妖魔についての印象がそれほど深くはいアセルスは首を傾げながら尋ねる。
「確かに……ラスタバンさんは私がこのファシナトゥールを変えることを期待しているとか言っていたような気もするけど……でも随分昔のことだし」
「時が来た、ということだろう。お前が妖魔の力にも慣れ、かつこの俺とゾズマ、そして妖魔の君にも匹敵する力を持つ零姫が与しているのだからな。これほどオルロワージュを倒す好機もそうそう無いと考えたのだろう」
「だからって……ジーナを利用して私を操ろうだなんて、そんなのはおかしいよ。何か事情があるんじゃないの? セアトに負けて誰かに脅されているとか」
「無いな」イルドゥンは言下に否定した。「そもそもあいつはそういう奴だ。何を企もうとも不思議ではない」
「そういう奴って……」
アセルスは戸惑ったように言葉尻を濁す。
「仮にも友人でしょうに」
「確かに奴は俺の友だが、その意味を考えたことはない。あいつはよくよく謀の好きな妖魔だからな。俺もよくはめられる。奴が何か面倒なことを考えているのなら、闘って滅ぼせばいい。それだけだろう」
「それはまぁ、そうだけど……いいの? あなたの友達なんでしょう?」
「だから何だ? お前の言うことは相変わらずよくわからんな。そんなことよりもなぜあいつはさんづけで俺は呼び捨てなのだ。その方が気になるんだが」
「日頃の行いでしょう」
「……」
むっつりと黙り込んだイルドゥンには構わず、アセルスは聳えたつ針の城を見上げた。あそこにはオルロワージュがいる。明日、アセルスは自らを娘と呼んだ妖魔の君に謁見する予定だったが、やはり予想通りそこに辿り着くにはいくつかの関門が待ち受けているようだった。黒騎士ラスタバン、一度は敗北している金獅子姫。そして、
(白薔薇……)
心の中でアセルスは呟き、弱々しくそっと目を伏せる。彼女の言葉を思い返すだけで、胸の底が抉られるように痛む。彼女は何と言ったのだったか? ……そうだ、白薔薇姫は言った。自分にはオルロワージュに会う資格などは無いと。一億年を生きる不死者に対して口にできるだけの台詞を持ちはしないのだと。
彼女は明確な蔑みさえ浮かべてアセルスを見下ろしていた。そして彼女はその唇ではっきりとこう言ったのだ。オルロワージュを愛している、と。
明日、アセルスはオルロワージュに会い、いくつかの言葉を交わすだろう。それはすなわち、白薔薇姫が告げた言葉との闘いでもある。
自分はいま、初めて彼女の言葉に逆らおうとしているのかもしれないとアセルスは思う……。旅の途中、彼女の言うことはみな正しかった。自分はただ、母を追う小鴨のように付き従っていればよかった。だが今は違う。白薔薇姫とアセルスはいま、敵対していると言っても良い状況にいる。
そうだ。闘わねばならない。闘う理由が自分にはある。
あの日、闇の迷宮での記憶を自分は乗り越えなくてはならないのだから。
軋む心を抑えるために、アセルスは胸元にそっと爪を立てる。