……かつて、妖魔の王とその妃との口づけを永遠のものとするために一片の刺草が大地に投げられた。
刺草は乙女の血を吸うものである。恋に破れた乙女の怨念を、大地の底の情念を呑んで刺草はその棘を成長させる。肥大化し、湾曲し、天を衝くほどに聳え立つ刺草は、見よ、あたかも竜の死骸の伽藍の堂と化して軋み続ける。
温かみを求めて差し出された手のひらを刺草の棘は無情にも切り裂いてしまう。皮を破り、肉を割り、そして鮮血を喚ぶ。
なぜなら妖魔の王とその妃にとって口づけとはそういうものであったし、永遠とはそういうものでなければならなかったからだ。
巨大化した刺草の中で妖魔の王は長き時を生きた。伸長した棘を針のごとく研ぎ澄ませたその場所、その王城。針の城。
千の口づけを一つの記憶として妖魔の王は百億年を生き、千に一つの恋煩いをいつしか物語としてまた別の百億年へと挑み続けて怪物となる。そしてその物語の頁を白薔薇の姫は静々とめくり──、百億年の物語の百億の頁を超えて、いま新たに小さな文字が刻まれる。
妖魔の君、オルロワージュの血を享けた愛し子。
支配者を継ぐ娘。
万魔の姫。
世界でただ一人の半妖、アセルス。
ファシナトゥールの中心に君臨する遥か高き城の門をアセルスは訪れる。身に纏うドレスは深紅。小手を覆う袖飾りには赤薔薇の意匠をあしらい、長い裾を翼のようにはためかせて颯爽と歩む。
半世紀にも満たない旅を終えて帰還した彼女を城の住人は無関心を装いながらも腹の底では嘲笑と共に出迎える。針の城を逃げだしておきながら結局は妖魔の王に屈するために舞い戻ってきたのだと。長命を誇る妖魔にとっては瞬きにも等しい時間だったことだろう。オルロワージュの手を逃れはや千年をも超える零姫に比べてみれば、しょせんは半妖、百億年を生きる妖魔の王に比べれば、しょせんは妖魔もどきであると。
アセルスの手がゆっくりと門を叩く。
それでも、旅の記憶は無かったことにはならない。たとえ微々たるものだとしても、旅したことを嘘にはできない。臆することはない。卑屈になる必要もない。
力強い目をしていた。この場所を逃げ出した時とは違う。
その眼に宿る光はけして純粋と言えるものではなかったし、妖魔に特有の傲岸なものでもなかった。しかし前を見つめる彼女の表情に迷いはない。深く静かな覚悟を秘めてアセルスは高らかに告げる。
我が名はアセルス。──門を開けよ!
◇
……暗い目を、していた。
どこを見つめるというのでもない。ただぼんやりと下を向いて、ぶつぶつと何事かを呟いている。投げやりで、無気力で、今にも死んでしまいそうに虚ろな目。かつて相対した時とはまるで違うその姿にアセルスは少しだけ驚き──そしてほんの僅かな既視感を覚えるのだった。
きっと、こんな姿をしていたのではないか、と思う……。この手で赤薔薇を殺し、ボロの星で呆然自失としていた自分とこの男は、おそらくは似た目をしているのではないか。
何かをただただひたすらに呪っていた。この世の理不尽を、運命というものの惨たらしさを憎まずにはいられなかった。
「セアト……」
呻くような囁き声にその男は──セアトはうっそりと顔を上げる。
「アセルス……」
濁り切った声色で憎々し気にその名を呼び、セアトは顔を歪ませて立ち上がる。その姿はもはや、美麗な黒騎士のそれではない。虫食いだらけの襤褸を纏い、奇妙に蠕動する闇を引き連れて──影騎士セアトはアセルス達の前に立ちはだかる。
「俺と、闘え。アセルス」
「セアト……その姿は……」
「俺と闘え、アセルス」
こちらの言葉が聞こえていないかのように、ぐる、と喉を鳴らしてセアトは静かに吠える。
「しつこい奴だ」うんざりした様子でイルドゥンがため息をつく。「あれだけの醜態を晒しておいてまだ妖魔のつもりでいるのか?」
「黙れ、イルドゥン。今の俺は以前の俺ではない……。そうだ……俺は、一人じゃない……」
ぎり、と奥歯を噛みしめる。セアトの目にそこでようやく光が灯り──しかしその力強さに反して、その姿は陽炎のように霞み、明滅を繰り返し始めた。
それまで黙っていた零姫の表情に静かな哀れみが浮かぶ。
「自分の姿が見えていないようじゃな。今のお主はこの世の理から存在すら消えかかっておるというのに」
「なに……?」
「闘う前から勝負は見えておる。セアトよ。まだわからんのか? 今やお主はちっぽけな邪妖に過ぎん」
「ふ……」セアトは口元を歪める。「それは勘違いというものです。零姫。俺は人を超え、妖魔すらも超えた……もはや妖魔の掟ですら、この俺を縛ることはできない。そうだ! ついに俺は手に入れたのだ。オルロワージュ様にすら匹敵する力を!」
ぎらぎらと目を輝かるセアトに零姫の激しい言葉が飛ぶ。
「思いあがるでないぞ、セアトよ。貴様ごときの腕がオルロワージュに並ぶなど、百億年早いわ!」
「……零姫」声を押し殺してセアトは拳を握る。「私の言葉が真実かどうか……全ては戦ってみればわかること」
「格の違いもわからぬ身の程知らずが……。貴様ごときがこの妾に勝つつもりか?」
セアトは首を振る。
「今の私はあの方の命で動いている身ではありません。用があるのは……そこにいるアセルスのみ。叶うなら、貴方には退いていただきたい」
「……笑わせるな、小僧」
冷たく目を細めた零姫は言うが早いか幻術で生み出した黒猫をセアトへ放つ。黒猫──死の呪いに満ちた術法生物は触れた瞬間に敵をショック死させる筈であった。
しかし、セアトの胴体へと触れた黒猫はその瞬間、とぷり、と吸い込まれるようにして消え失せる。セアトの黒装束──身に纏うその闇に吸い込まれるようにして。
不可思議な現象を目にした零姫はセアトを睨みつける。
「貴様──セアト。その力は……」
「貴方は既にご存知の筈だ。これは妖魔の君の血の力……。貴方がオルロワージュ様を吸血したように、アセルスの血を吸って俺はこの力を手に入れた。だから……今ではこんなこともできる」
ゆっくりと、何の警戒心も抱かせぬほどの静謐さでセアトは膝をつき、床に手を当てる。するとその手が触れた地点から波紋が広がるようにして波打つ闇が伸び、瞬く間に零姫とイルドゥンを飲み込んでいく。
「何度も言わせるな」
イルドゥンは静かに呟く。
「この程度で俺を倒せるとでも思っているのか?」
「そうだろうな。だが容易く出られるとも思ってはおらん。決着をつけるには十分な時間だろう。俺はアセルスを倒す。貴様は闇の中で黙って見ていろ」
言い捨て、床から手を放すセアト。零姫とイルドゥンは蠕動する闇の中に沈み込み、ついには消えてしまう。
「舞台は整ったぞ……アセルス。もはやお前を守る者はいない。これが最後の戦いだ。剣を取れ、アセルス」
それまで口を挟むことのなかったアセルスは、どこかへと消えた仲間を心配することも、殺意に満ちたセアトの言葉に怯えることもなく、ただ淡々と問いを発した。
「ハウゲータさん達はどうしたの?」
「なに?」
「あなたの従騎士達はどこへ行ったの?」
「それがいま、何の関係があると言うんだ? これは俺とお前との闘いだ」
「あるさ。私はハウゲータさんと約束をした。彼女に負けない物語を見つけて見せる、と。私はまだその誓いを果たしていない。これが最後の戦いだというのなら、その前に彼女と言葉を交わしておきたい。こんな大事な時に彼女たちがいないのはおかしいでしょう」
「残念だったな、アセルス。その誓いを果たすことはもうない。あいつらは……我が従騎士はみな、俺が喰った」
「……どういうこと?」
さっと表情を変え動揺を見せるアセルス。
「なぜそんなことをした。彼女たちは、あなたのために戦っていたんだろう」
「そうだ。あいつらは俺のために存在した。主のために生き、主のために滅ぶ。それが従騎士の定めというものだ。強くなるために……俺は、奴らの血を吸ったのだ! わかるか、アセルス! すべては貴様を超えるためだ!」
顔を歪め、苦し気に言葉を絞り出すセアト。悲痛さえ滲ませるその表情にアセルスは悔し気に呻いた。
「馬鹿野郎……」
「なに……?」
「あなたには帰る場所があったんだ。あなたのことを想うひと、愛してくれる女性があなたにはいたんじゃないのか!? どうして、あなたはそんな簡単に居場所を捨ててしまえるんだ!」
「簡単に、だと!? ふざけるな! 俺がどれだけの思いでこの力を手にしたと……!」
「……」
「……旅人は、自らの場所を愛せぬが故に棲み処を捨てて足を踏み出すのが常だ。今いる場所を愛することが出来るなら、己の全てを受け入れ肯定することができるなら旅立つ理由などは無いのだから。貴様とてその一人の筈だぞ、アセルス。貴様は針の城を逃げ出したのだ。貴様がファシナトゥールへ来なければ、白薔薇姫を連れだしなぞしなければ、俺はこんな場所に立ってはいなかった……!」
「その点に関してだけは、私の非を認めるよ、セアト。だけどね、だからと言ってあなたに命を狙われることを甘受する気にはなれない。あなたにそこまで憎まれる理由が、私にはわからないんだ」
「ああ、そうだろうとも」憎々し気にセアトは呟く。「持てる者は自らの幸福に気づくこともなく、無自覚に敗者を見下すものだからな」
「私が一体何をした? どうして、あなたとの戦いで紅は死ななければならなかったの? その命を散らさなければならないほどの罪が私にはあると?」
「ああ、そうだ、アセルス……!」
呪詛を吐き出すようにしてセアトは答えた。
「貴様のような存在はただそこにいるというだけで俺を苦しめる。私が何をしたかだと? ああ、そうだ、確かに貴様は何もしていないとも! 何もしていないにも関わらず、貴様は運命に選び取られたのだから。何の努力も研鑽もなく、貴様はオルロワージュ様の血を享けた。まったくの偶然で貴様はこの世の支配者となることを許されたのだ! これが理不尽でなくてなんだ! 貴様のような奴がいるから、俺は……!」
「そうか、あなたは……」
血走った目で叫ぶセアトに、アセルスはようやく得心がいったというようにはっとして、それから僅かな戸惑いを見せる。セアトの絞り出した言葉全てを逆恨みと切って捨てることは簡単だった。セアトの言葉こそ理不尽ではないか、という苛立ちを覚えもした。──それでも、どうしてもアセルスにはそれができなかった。なぜならそれは──、
「私が何もかもを手に入れてここにいると思っているなら、それは違うよ、セアト。私だって、多くのものを失ってここにいる。快楽だけを享受して旅を終えた訳じゃない。……だから私を許せと言うのは筋違いというものかもしれないけれど、少なくとも、私はあなたが思っているほど全てを思いのままにしてきたんじゃない。……そんなことを言うと、またあなたはそれを持てる者の傲慢だと怒るのかもしれない。でもそれはきっと……」
そこまで口にして、アセルスは悲しそうに俯いた。
「あなたが言っていることは、つまりこういうことなのか。平等であることが、全ての者が報われることが……『正義』が、あなたの望みだと」
「違う。俺はただ、貴様が許せないだけだ。正義などではない……!」
「そうかい。……わかったよ、セアト」アセルスは頷き、剣をそっと構えた。「私には、あなたと戦う理由がある。認めるよ……」
そう言って、胸元に剣を翳したアセルスの髪は蒼く染まり、右手の小手は赤い燐光を放った。妖魔化を遂げて剣を振り払うアセルスの小手からはらりと薔薇の花弁が零れ落ちる。
対峙するセアトは祈るように妖魔の剣を掲げ、眼前へと翳す。
「ハウゲータ。ウロネブリ。……アルキオネ。俺に、力を貸してくれ……!」
◇
それは美しく燃える海だった。赤々とうねるように爆ぜ、かつまた波立つように火の粉を放つ海だった。影騎士セアトが振るう妖魔の剣──その刃先から零れ出す魔力の奔流が怒涛となってアセルスを襲う。炎の海は瞬く間に針の城の一室を呑み込み、アセルスの退路を断った。
「アセルス!」
吠え猛るセアトが剣を突き出す。かろうじて上半身を反らして避けるアセルスの背を高熱の焔が舐め、たたらを踏んだその隙に第二撃が撃ち込まれる。咄嗟に剣で受けたアセルスははっと顔色を変えた。自らの持つ妖魔の剣──咢十字が軋んでいる。妖魔の剣の鍔に咲く白薔薇が見る間に色褪せ萎れていくのだ。あらゆるものに死を運ぶ腐敗の力──その持ち主の名をアセルスは知っていた。森の従騎士ウロネブリ。
その炎は従騎士アルキオネのもの。その水は従騎士ハウゲータのもの。セアトに仕える三体の妖魔が持つ力がいま、三位一体となってアセルスを襲う。
「これが」ぎり、と歯を噛みしめ、アセルスが叫ぶ。「こんなものが、お前の望んだ力か! セアト! あなたを愛する者をその手にかけてまで!」
怒りのままに剣を叩きつけるアセルスに、セアトもまた苦し気に答えた。
「俺は……今だって後悔している。こんなことをしなければ良かった。いつまでもあいつらと一緒にいれば、と……。それが俺の弱さだ。ならば俺は俺の弱さを越えなければならぬ。強く! 何よりも強く! そうあらねば、俺は息をすることすらままならない! この苦しみが貴様にわかるか! アセルス!」
顔を歪めたセアトは左手で外套を払い、腰に繋いでいたヘビーレールガンの撃鉄を引いた。その途方もない反動によって左腕は砕け散るが、しかし次の瞬間、血は闇に滲むようにして消え、腕は瞬く間に再生していく。
「……わかるさ」
弾丸に腹腔を撃ち抜かれたアセルスは顔を青ざめ、焼き切れた傷跡を押さえた。
「嘘をつくな。俺はイルドゥンとは違う。虚言を弄して取り入ろうなどと思うな」
憎々しげに吐き捨てるセアトに、アセルスはどこか悔しそうに唇を噛みしめた。それが嘘であったならこの男のためにもどれだけ良かっただろう。
「嘘じゃない」
「まだ言うか!」
激昂したセアトは矢継ぎ早にレールガンを放ち、その度にアセルスの体は撃ち抜かれ、蒼い血が滔々と流れだす。
「いいや、セアト。本当だよ……。分かり合うことができない方が、まだ幸福だったかもしれないのにね……。でも、私にはわかるんだ」
「黙れ!」
再び叫んだセアトに、アセルスもまた応えるようにして叫んだ。
「わかるさ! だって貴方の願いは、人間のものじゃないか!」
「な……」
その言葉を耳にした途端、セアトは殴られたかのようによろめき、茫然と顔を戦慄かせた。
「ちがう……」
老人のようにしゃがれた声で呻くセアトに、アセルスは痛ましげに視線を背ける。
「だって妖魔は後悔なんてしない。誰かに嫉妬することも、己の不運を嘆くこともしない」
「違う……。俺は強くなった筈だ! 俺は人を超え、妖魔さえも越えた! 影騎士となったのだ!」
「強く、なりたかったんでしょう? 自分が何のために生きているのかがわからないから……。生きていてもいいのか、生きる価値があるのかを信じることができなかったから……! だから、強くならなければならなかった。自分よりも優れた者が妬ましいから、蹴落として勝ち誇らなければならなかった。自分で自分を愛するために、誰か別のものを見下さなければ生きていけなかった。それは……人間なら誰しもが思うことだ」
「違う! 俺は人間じゃない!」
「別に貴方を否定しているわけじゃない。もとは人間の私にだってそういう部分がある。……いいや、そういう部分だらけかもしれない」
「黙れ! アセルス! 俺はお前とは違う! 俺は、俺は……!」
「私は誰かを守らなければならないと思っていた。自分の価値を手に入れるために、誰かを守るだけの強さが必要だと。だから逃げ出したんだ。この針の城から」
「俺はただ薄汚い人間が気に食わないだけだ……。お前のような半妖がのさばるのが許せないだけだ……!」
「助けて欲しいと、そう思ったときにだれも私を助けてはくれなかった。だから私は、目に映るすべての人を助けてやらなけりゃならないと思ったんだ!」
「俺は……お前とは違う……!」
苦し気に呻いて、セアトは俯く。
「……助けてほしいと、そう思った時に誰も助けてはくれなかった……。だから、俺は見下してやりたかった。強くなって、勝ち誇って……自分には生きる価値があるんだと思いたかった。だから……」
口にして、はっとセアトは顔色を変えた。狼狽えたように後ずさりし、恥じるように両手で顔を覆う。
「やめろ……俺の心の中に入ってくるな……!」
裏返った声で拒絶するセアトを見て、アセルスの顔が悲し気に曇る。
「お前なんかと出会わなければ良かった。お前さえいなければ俺は俺のままでいられたのに……! お前といると俺はどんどん惨めになっていく。見たくもないものを見せつけられて、俺は……!」
「……セアト」
「黙れ……。俺を憐れむな……! ……ああ、俺は弱い。だから……俺は、お前を倒さずにはこれ以上前に進めない……!」
「……ああ」
「俺はどうすればいい……? どこに行けばいい……? もう……あいつらはどこにもいない……どうすることもできない……」
掠れた声でセアトは囁く。
「だから、私がここにいる」
頷いて、穏やかな声でアセルスは答えた。
「悪徳に満ちたこの力で、どうすることもできないこの状況を『支配』するため……貴方の心を捻じ曲げてでもその先へ進めるために」
アセルスはまっすぐにセアトを見つめた。
「お前を……魅了してやる」
ゆら、と剣は揺れた。青い燐光の軌跡を伴い、室内に不可思議な魔方陣を描くようにして。アセルスの持つ妖魔の剣が微細に震え、唸りを上げる。
「セアト……」
ゆっくりと、覚悟を込めてアセルスが呟く。誰かの心を殺すとき、今がまさにその瞬間なのだと。
ぎちり、と剣が哭く。セアトの持つ妖魔の剣が夥しい錆と灰とを剥落させながら漆黒の力場を放つ。
「アセルス……」
絶望に身を焦がしながらセアトは呟く。全てを賭け、全てを捨てて、全てを終わりにするために。
この世に正義があったなら出会わなかったはずの両者がいま、己の存在を貫くために悪を振りかざして対峙する。
そして両者は叫んだ。意味のある言葉は既に失われていた。ただ祈りに似た何かが、願いに似た何かが腹の底から噴き出すだけで、しかしけして分かり合うことはなかった。セアトの剣がアセルスの左腕を切り飛ばし、アセルスの剣がセアトの左胸を刺し貫く。どうせこうなると思っていた、そんな哀しい顔をしてセアトは膝をつき、ささやかな涙を零して項垂れ、そして──、
生暖かい吐息が首筋に迫り、欲情に濡れた瞳がぎらぎらと血飛沫の中に光る。牙と牙との間で肉が裂け、滔々とこみ上げる血を、アセルスは吸い上げた。いっそ浅ましいとさえ言えるほど音を立て、舌を尖らせ、ああ、と歓喜に声を震わせて吸血する。
「く……」精魂尽き果てたようにセアトは声を掠れさせる。「お前は俺に、何をした……?」
「吸血……」
アセルスは言う。
「ご存知の通りさ。貴方の心はもう、私のものだ。……さぁ、立て、セアト」
「ふざ、けるな……。何が、吸血だ……。半妖のお前に何ができる……」
「さぁ、それはどうかな。少なくとも、以前ほど私を憎いと思ってはいないはずだ」
尋ねられ、セアトは自らの魂の在りかを確かめるように己の心臓に触れ、静かに息を止めた。
「ちくしょう……何が、魅了だ……。俺の心は、俺だけのもののはずだ……。俺は、けして、お前を愛したりはしない……!」
「それでもいいさ。そんなに大層なものを欲しがっているわけじゃない。……別に私は、貴方に平伏せと言っているわけじゃない。貴方の命も、償いも求めたりはしない。それでも──私と貴方の戦いは、今日、ここでおしまいだ」
「アセルス……」
「イルドゥンと零姫様を返して、セアト。私はこの先にいかなきゃならない」
「……これが、吸血か……。腹立たしいが逆らう気になれない。馬鹿馬鹿しい……」
「セアト。頼むよ」
「……どうせ、俺に拒否権などないのだろう。零姫も、イルドゥンも……忌々しいが、すぐに戻ってくるだろうさ」
「ありがとう。セアト」
「……」
投げかけられた礼の言葉にセアトはつかのまきょとんと表情をやわらげ、そして静かにため息をついた。
「……お前には話しておかねばならないことがある」
「……?」
「不思議なものだな。以前ならもこんなことをお前に告げることなど考えもしなかったというのに。……だが、オルロワージュ様の元へ行くというのなら、伝えておかねばならないことがある。いま、ふとそんな気分になった。かつてあのお方が俺に言った言葉、そして……」
セアトは言った。
「よち子、という人間の娘についてだ」