その男は笑っていた。穏やかに、友好的な態度をどこまでも崩さずに微笑んでいる。
「これはこれは零姫様、そしてアセルス様も。お久しぶりでございます」
橙色の外套を身に纏い、人形のような笑みを顔に貼り付けたその男──黒騎士ラスタバンは慇懃に口上を述べる。
「……ラスタバンさん」
警戒心も露わに眉根を寄せるアセルス。しかしラスタバンは気にする素振りさえ見せず、アセルスの傍らに控えるイルドゥンに目を向けて顔を綻ばせた。
「やあ、我が親友殿。アセルス様のエスコート役、無事に果たしてくれたようで嬉しいよ」
その言葉を聞いてアセルスは訝し気に視線を投げるが、当のイルドゥンは面倒くさそうに溜息をつくだけだった。
「お前も懲りないな。……アセルスは俺が連れてきたのではない。この女は俺やお前の話など聞かん」
「なに、それでも構わないさ。言葉などなくともやりようはいくらでもある」
「……それはジーナを襲ったことを言っているの?」
こともなげに言ってのけたラスタバンにアセルスは怒気を強めて問いただす。
「何のことでしょうか?」
表情一つ変えずに答えるラスタバン。
「惚けても無駄だよ。メイド仮面さんとゾズマから話は聞いている。貴方の目的はこの私をファシナトゥールの新たな王として祭り上げること──そうなんでしょう?」
「いえいえ、あれはちょっとした誤解でございまして……。実はセアトの配下がジーナ嬢を狙っているとの情報が入りましてね。彼女を守るために仕立て屋へ赴いたところ、ゾズマ様のメイド嬢に少し勘違いされてしまった、というわけなのですよ」
落ち着いたその釈明にイルドゥンは僅かにふむ、と思案してぼそりと呟く。
「まあ嘘だろうな」
「イルドゥン……」
ラスタバンは呆れたように肩を竦める。
「困ったやつだな、君は。なんだってそう僕の邪魔をするのだね」
咎めるというよりはむしろじゃれつくような馴れ馴れしさで話しかけるラスタバンの様子を、アセルスは冷たく睨みつけた。
「前にも言ったはず。私には、貴方のような野望はない、と」
「しかし、貴女はこうして針の城へと帰ってきた」
「……」
「世界を旅し、辺境へと辿り着き……そして零姫様とイルドゥンを味方につけ、黒騎士セアトさえも虜にして……。今や針の城はまさに空洞の針というわけだ。たとえ、貴女にその気がなくともその行動には責任が伴うもの。……お気づきですか? 多くの妖魔がアセルス様の登城を期待と共に待ち望んでいたのを。時代が変わる瞬間がいままさに訪れているのだと……皆が待ち望んでいるのですよ」
「そんなことは」アセルスは唇を噛みしめる。「私の知ったことじゃない」
「そうですか。とても残念です」
悲しそうに目を伏せていたラスタバンだったが、やがて気を取り直したように顔を上げた。
「しかし──他の方々はどうでしょうか? 零姫様。オルロワージュ様を倒すのならば今をおいて他にないのでは?」
「ふむ……そうじゃな。悪い話ではない」
これまで黙っていた零姫は重い口を開いた。
「オルロワージュを倒すというのならそれも構わぬ」
「では……」
「じゃがな……今の妾はアセルスに協力する身。悪いがそなたの言うことは聞けぬな。……大体、頼むのであれば最も先に妾に言うべきであろう。それが一番気に食わぬ」
「左様でございますか。……となれば」
「最後は俺か?」
「そうさ、イルドゥン。元々、君が王にさえなってくれれば僕には何の文句もなかったのだ。ぜひ支配者になりたまえ。君がこの世の王で、僕はその右腕だ。これほど楽しいことは無いと僕などは思うがね」
朗らかにラスタバンは語り続ける。友人と遊ぶ場所を相談しているときのような気やすさで。
「──そうして、王となったこの俺をいつかお前は蹴落とす気でいるのだろう?」
ぼそりと、面倒そうにイルドゥンが答えると、ラスタバンは女性のように軽やかな声で笑い声をあげる。
「無論、時の流れの中ではそういうこともあるだろうが──しかし、問題はあるまい? 何しろ君はこの僕に負けるつもりなぞ皆目ないのだろうし、ならば気に病むことは何一つないさ。僕たちの友愛は対等性から来るものではなく、あくまでも君という妖魔の無謬性にこそ拠っているのだということを、僕は重々理解しているよ」
「なぜ“友”などという面倒なものを手に入れてしまったのだろうな、俺は」イルドゥンは呆れたように首を振る。「ときどきわからなくなる」
「素晴らしいことだよ。イルドゥン。面倒というのはね。この閉塞した妖魔社会においては何よりも代えがたい宝物なのだ。妖魔が尊ぶ美しさ、支配力、……あるいは矜持。そのどれとも“面倒”は違う。面倒! 素晴らしいじゃないか。僕は君という面倒によってこの世を愛し、かつまた僕自身を愛するつもりでいる。君もそうしたまえよ。僕とともにこのファシナトゥールを手中に収めようじゃないか」
「成程な。確かに面倒だ。お前は俺が頷かないことも承知の上でその台詞を口にしているのだろう。その点に関して、俺とお前は対等だ」
「……やはり、駄目なのかな。わが友よ」
「わかっている筈だ。ラスタバン」
お前がこの俺の友だというのなら。そう口にする代わりに剣を抜き、イルドゥンは傍らのアセルスの背を無造作に押し出した。
「先に行け、アセルス」
「え? でも……」
「忌々しいがどうやらあれが俺の友人らしい。今までお前の旅はお前のものだと戦いを任せてきたが、今回ばかりはそうもいかん。この俺にも戦う理由とやらがあるようだ」
静かな眼差しでラスタバンを見据えるイルドゥン。
「ええと……」
行動を決めかねたアセルスが戸惑ったように視線をさまよわせていると、零姫は迷うことなくその手を引いて上階へと進んでいく。
「やつ自らがああ言っているのじゃ、好きにさせればよかろ」
「良いんですか?」
「構わん構わん」
どうでも良さそうに零姫は答える。
「なあにが“先に行け”じゃ。良いかアセルス。真顔でそんな台詞をのたまう男を信用するでないぞ。そんな男は馬鹿かナルシストのどちらかか、あるいはその両方に決まっておる」
「……相変わらず腹立たしい妖魔だ。アセルス。その目障りな奴を連れてさっさと行け」
「うん……。わかった。イルドゥン。任せて大丈夫なんだね?」
「誰に向かってものを言っているんだ、お前は?」
不遜な態度のイルドゥンを後にアセルスと零姫は次なる階へと進んでいき、そして後には二体の妖魔が残された。
◇
「……君は変わったね、イルドゥン」
どこかしんみりとした表情でラスタバンは語り掛ける。
「そうか?」
「そうさ。……まさか、君がここまでアセルスに肩入れするとは思ってもみなかった。君は、彼女を守るために親友であるこの僕を倒すというのかい?」
「何か勘違いをしているようだな」
「え?」
「俺がこの場に残ったのは、ラスタバン」イルドゥンはこともなげに答えた。「俺がお前と戦いたいからだ」
「何だって? 君は何を言ってるんだい?」
いぶかし気に眉を顰めるラスタバン。
「なまじ“友”などと呼び合うから忘れていたのかもしれんな。近くにいると存外に気が付かないものだ。お前はアセルスの知り合いである何とかという人間の小娘を襲い、あのゾズマと対峙した。ファシナトウールでもオルロワージュに次ぐ実力者ともうわさされる程の妖魔と交戦し……そして退けた」
「あれは僕の敗戦さ。ほうほうの体で逃げ帰っただけだよ」
「いいや。ゾズマはそう言わなかった」
糾弾するかのようにイルドゥンの瞳が鋭く尖る。
「実力など隠すな。俺と戦え」
「なぜ、そんなことをしなければならんのかね? 僕たちは友達だろう」
「だからだ。お前がこの俺の友だというのならなおさらこの俺と戦うべきだろう」
「君はつくづく……」ラスタバンは困ったように目を見開いてため息をつく。「……まったく、まったく、だよ。呆れてしまうよイルドゥン。変わったといったのは取り消そう。君はやはりイルドゥンなんだな」
「愚問だな。さっさと剣を抜け」
「やれやれ……」
薄ら笑いを浮かべたままラスタバンは首を振り、ゆっくりと後退った。
「困ったね、イルドゥン。こんな筈では無かったんだが……。どうにも最近、やることなすこと裏目にでてばかりのような気がするよ。どうしてだろう」
「御託はいい。剣を抜け」
「はは」と、そこでラスタバンはにっこりと微笑んだ。「剣なら既に抜いているさ」
「何──?」
その言葉を聞いた途端、イルドゥンは背後からの気配に気づいて飛びのく。ばさりとはためいた外套の端を何かが──不可視の物体が貫いた。
「これでも孤軍奮闘の身でね。三対一で何の用意も無く君たちを待ち受けるほど僕は平和主義者ではない。この部屋はすでに我が領域だ」
「……」
「最後にもう一度だけ通告しよう。──イルドゥン。わが友、わが相棒よ。僕とともに覇道を歩む気は?」
「ない」
「……そうか。ならば仕方がない」
瞬間、ラスタバンはそれまでの柔和な態度を豹変させた。腰にさげたその鞘に剣はない──無手のまま、ラスタバンはゆらりとその身を震わせた。イルドゥンの眼前でその姿が不意に消え失せる。
「……」
何かを悟ったイルドゥンは顔を顰め、咄嗟に振り向いて剣を薙いだ。甲高い音を立てて剣と剣とが激しくぶつかり合い、火花が散る。背後から恐るべき速度で襲い掛かったラスタバンの攻撃を防いだイルドゥンだったが、追撃に一歩踏み出した途端ラスタバンは能面じみた顔のまますっと飛びのき、再び背後の闇の中へと消えていく。
「おい。またか」イルドゥンはぼそりと言った。「面倒くさいぞ」
すると部屋のどこからか奇妙に反響するようにしてラスタバンの声が響く。
「……無茶を言わないでくれたまえ。僕はこの世界の誰よりも君の強さを理解しているのだから」
「理解した結果がこれか? こんな小細工を続けていれば俺を倒せると?」
「そう焦ることもないだろう? 僕との戦いを望んだのは他ならぬ君だ」
「そうは言うがな」イルドゥンはため息をつく。「俺が期待していたのはこんなものではない」
「嫌だなぁ、イルドゥン。君らしくもない」快活にラスタバンは笑う。「敵が君の望むものを与えてくれるだなんて、そんな甘ったれたことを願うなど」
「何だと……」
「君が望むのは正々堂々とした戦いというやつかい。それとも、真っ向からの剣戟とでも? そんなものは──」
空気が震えた。苛立ちに舌打ちしながら再びイルドゥンは振り返り、背後から現れたラスタバンの攻撃を受けようと構え、そして剣を受けた。これまでと同じように容易く逸らすことのできる剣。もはや見飽きたとさえ言えるラスタバンの攻撃。しかし──、
「──そんなものは夢想だよ、イルドゥン」
「何……?」
手元で何かが爆ぜた。そう感じた瞬間にはすでにイルドゥンは吹き飛ばされている。受けたはずの剣がただ力任せに押し負けたのだとようやく気づいた時にはもう遅い。イルドゥンの動揺を嘲笑うかのように肉薄したラスタバンの顔は息遣いさえ聞こえるほど近く、その眼光を幽遠と湛えて静かに刺突を繰り出す。溢れるほどの殺意に無意識に反応した右手が震えながら剣の柄を握るもそれすらも見通していたと言わんばかりにラスタバンは優しく微笑み、惑うイルドゥンの剣を躱して静かにその心臓を刺し通した。
無言のままラスタバンを睨みつけ、イルドゥンはこみあげる血をごほりと吐き出す。鋭いその視線を受け止めながらラスタバンは慈しむように微笑を浮かべた。
ラスタバンに胸を貫かれたまま、しかし黒騎士イルドゥンは怯むことなく敵を見据え、
イルドゥンの胸を貫いたまま、黒騎士ラスタバンは穏やかに嗤い続ける。
何が起こっているのか考える必要はなかった。そんな気もありはしなかった。何の予備動作もなく気配すら感じさせず、イルドゥンはそのまま反撃に移った。だからどうした──そう言わんばかりに胸を貫かれていることすら構わずに右手の剣を突き出した。だが己を穿っていたラスタバンの剣は恐るべき速さで主人の手に戻り、甲高い音を立てて刃を受け止めている。いや──受けられたと思ったのはほんのつかの間で気が付くと受け手は自分になっている。ぎりぎりと拮抗する力と力のはざまで妖魔の剣が震えた。一合、そして二合と撃ち合うたびに飛び散る火花が妖魔の青白い肌を照らし出していく。剣が重い。焦れったいほどの速度でしか剣は進まず、ようやく到達したとそう思ったときにはラスタバンの剣に打ち払われている。不思議に喉が渇いた。息を吸うだけで喉に痛みが奔る。気が付けば今や剣戟の時は粘つくほどの濃度を帯びて刻み続けている。
黒騎士イルドゥンは巨人の一撃ですら素手で受け止める妖魔である。そのイルドゥンが──どうしたことか、事ここに至ってはどうにも認めざるを得ない──真っ向から打ち負けている。ラスタバンの無造作な袈裟斬りを僅か一度受けただけで右手は痺れ、体中の骨が軋む。常ならば無表情の顔を顰め、叫ぶようにして呼気を吐き出した。剣を掲げる。ラスタバンの攻撃が読めない。妖魔の不死性を恃むイルドゥンの驕慢を暴くかのように繊細な剣形がいつも一呼吸先を行く。剣を振り下ろそうとしたその矢先に水月を打たれた。たたらを踏んだその瞬間にぞっとするような音を立てて妖魔の剣が首筋を薙いでいく。血飛沫が飛んだ。呼吸がままならない。自分が人形にでもなったかのように動作が強張っていく。穏やかなラスタバンの瞳に見透かされるかのように行動をリードされ続けている。ラスタバンの刺突が右目へと突きこまれた。視界を失うわけにはいかない。思うように動かない体に内心で悪態をつきながら咄嗟に左手で庇えば指が数本斬り飛ばされてぼとりと落ちる。全身に刻まれた裂傷は数重を超え、そのどれもが夥しい血に塗れて濡れている。
「君はオルロワージュには勝てない。イルドゥン」
ラスタバンは言った。淡々と、事実を告げるように。
「敵が自らの望むとおりに振舞い、そして自らよりもほんの少しだけ弱くあってほしい──君の言っていることは、結局のところその程度のことなんじゃないのか」
「……」
イルドゥンは答えない。
「僕がここまでやるとは思ってもいなかったろう? 僕の強さに期待していながらしかし君は、まるで歯が立たないとは露とも思わなかったのではないか。真っ向から斬りあって負けるとは考えもしなかった。それが、君という妖魔の限界点だ」
「……」
イルドゥンは答えず、血を吐いて膝をつく。
「自分の敗北を受け入れられないただの子供と同じだ。オルロワージュに固執しても、そんな理由では勝てない。そんなものは妖魔の力ではないからだ。……僕はずっと考えていたのだよ。弱体化を続けるオルロワージュを前にしてイルドゥン、君はあの敗北の日から妖魔の王にただの一度も戦いを挑まなかった。どうしてだい? 傲岸不遜を気取り世界最強と嘯きさえする君が」
それまでは友を見守る優しい顔をしていたラスタバンの表情はどこか標本を眺めるがごとき冷酷なものへと変貌していた。
「ねぇ、イルドゥン。君は本当のところ絶望しているんじゃないのかね?」
ラスタバンは言う。
「君の不遜というものは、つまるところはその諦念の裏返しだとは言えないだろうか。だってそうだろう。本当の強者ならば──あの妖煌帝オルロワージュがそうであるように──自らの強さを徒に口にしたりはしない。そんな必要はないからだ。俺は強いのだと、そんな台詞を口にせずとも彼は強い。だから彼は妖魔の君なのだと。そう考えたことはないかい?」
ラスタバンは言う。審判者の声色でイルドゥンを語り続ける。
「答えたまえよ、イルドゥン。君はなぜイルドゥンなんだい? 一度はオルロワージュに敗れ、そしてまたいまこの僕に二度目の敗北を喫しようとしている君は──弱者になり果てた君という妖魔の、その誇りの在り処はどこにある?」
投げかけられたその問いにイルドゥンは答えない。滔々と血を流し、力なく膝をついたまま起き上がろうせず、ただ静かに前を見つめている。
ラスタバンもまた、じっと口を噤んだ。罪人の弁明を待つかのように冷然とイルドゥンを見据える。しかしいくら待とうともその返答が発せられることはなかった。やがてため息をつき、ラスタバンは寂しそうに笑う。さらば友よ。そんな台詞を口にさえしてゆっくりと歩み寄り、剣を掲げた。その首を落とそうというのだろう。項垂れるように首を垂れたままのイルドゥンへと近づき、自身が親友と呼んだ妖魔の顔を最後にもう一度よく見ておこうとでも思ったのかほんの僅かに首を傾けてのぞき込み──そしてようやく、気づいたのだった。
イルドゥンは笑っている。
◇
イルドゥンは笑っていた。音もなく。それは満たされた笑みであり、静かな笑みだった。それはけして戦闘のさなかに浮かべるような表情ではなかったし、ある意味では戦意を削ぎさえするほどに穏やかなものだった。だがその笑みを見て、どうしたことだろう、ラスタバンは背筋のぞっとする思いと共にその場を飛びのいてしまう。
その笑みを、ラスタバンは知っていた。それは彼の親友が孤独に夜を見つめる時、群青の夜を目にして浮かべる笑みだった。
日の暮れてまだ間もないころ、空の蒼を夜の帳が遮って生まれるその群青。
宵闇。
光あるものが影に追われ、蒼穹と漆黒とが交じり合う混沌情景に身を浸して妖魔イルドゥンは微笑む。
それはあまりにも凄惨で、数多の失語症患者を生み出すほど美しい微笑。
イルドゥンはただ、どこまでも静かに笑っている。
この世には生きるだけの価値があると、そう確信して。
「……どうした、ラスタバン。さっさとかかってこい」
囁くようにイルドゥンは言った。自らの不利など意に介することなく、どこまでも傲岸にイルドゥンは告げる。
「そうでなければそろそろ俺の傷も回復してしまうぞ。決着をつけるならば今だろう。……さぁ、来い……」
「イルドゥン。君はまだ、僕の問いに答えてはいない……」
知らずに後退り、ラスタバンは初めて声を戸惑わせた。
「知ったことか」イルドゥンは短く言い放つ。「長々と何か言っていたようだが、どうでもいい」
「……」
「俺にとって重要なのはお前が強いということだけだ。俺の予想よりもなお強く──ならば良し。何も問題などありはしない。嬉しいぞ、ラスタバン。お前とこうして戦えることが──お前という強者に挑むことのできるいまこの時が」
「挑む、だって……? それは妖魔が口にする台詞ではない。妖魔は常に見下ろしているもの。自らの弱さを受け入れることなど、あってはならない」
「は……」
幽かな笑い声をあげてイルドゥンは顔を上げる。
「それもそうかもしれん。……だが、いま、この場では、そんな理屈は塵にも等しい」
「……」
「“革命”を謳いながら、ラスタバン、お前は妖魔の掟を口にする。結局のところ、身についた通念というものからはなかなか逃れられんものだな。俺もお前も」
「……」
「お前の企みがもし成就したその暁には……今度はお前がオルロワージュになるのかもしれん。……まったく、アセルスの奴に言われたことが今更ながらわかりかけてきて鬱陶しいことこの上ないぞ」
「君は何を言っているんだ?」
「忘れろ。全ては小娘の呟く下らん詭弁だ。俺とお前がこうして戦うことにはやはり何の関係もないこと。そう……どうでもいいことだ。俺が弱いとお前は言った。それが真実かどうかは俺が滅んだその後で考えれば良い」
「イルドゥン……」
「俺が弱い? 俺では勝てない? ……どうだろうな。いまや世界は牙を剥き、この俺を圧し潰そうと迫り来る。だがそれでいい。それでこそこの世に価値があるというものだ。ラスタバン、俺はいま、中々どうして愉しんでいるらしい。お前はどうだ?」
全身に殺意を滾らせながら──しかしその表情は穏やかにイルドゥンは問う。そんな相手を見て──ラスタバンは僅かに息を吐き出し、どこか困ったように力なく笑う。
「僕は、君に謝らないといけないのかもしれないな」
「何をだ?」
不思議そうに尋ねるイルドゥンに、ラスタバンは自らが友と呼んだ妖魔を真っすぐに見つめた。
「この部屋は既に僕の領域だ、と先ほど僕は告げた。妖魔の剣──振動波。妖魔の小手──デッドリーパウダー。そして妖魔の具足──土蜘蛛。振動波は君の身体感覚を乱し、デッドリーパウダーによってあらゆる器官を麻痺させ、土蜘蛛の見えない糸がその体を縛る。……まぁ、だいたいそんな所が僕の手の内だ。なんだか、自分の実力を変に偽るのも恥ずかしくなってきたので素直に白状しておくよ。だが勿論、わかった所でどうなるものでもない。それでもやるのかい?」
「当たり前だろう」
「だったら僕も答えるよ、イルドゥン。僕は愉しい。僕の策謀もまた、あるいは君の率直さと同じように愚かしいのかもしれない。君と戦うことができて、僕は嬉しい。それが僕の結論だ」
ラスタバンはそこでようやく、心から満ち足りたというように無邪気な微笑みを浮かべる。
「そうか」
イルドゥンはぽつりと囁く。
「ああ」
ラスタバンは短く答える。
そして両者は同時に剣を構えた。ゆらりと弧を描いたラスタバンの切先が刺突の構えにぴたりと止まる。ただその命を奪うことのみを目的とした必殺の態勢。対するイルドゥンはどこまでも無造作に自然体でいる。決着の時を迎えようとしているその表情はおよそ妖魔には似つかわしくない、どこか不敵であるいは野卑とさえ言える笑みが浮かべられている。
言葉を交わす時はもはやとうに過ぎた。黒騎士達は自らの剣戟をもって己が意の表明とする。同時に床を踏み砕いて跳び、あらゆる音を置き去りにして剣を奔らせる。両者の影が交錯し、そして──怒号が上がった。
「何故だ、ラスタバン」
その端正な顔を歪めてイルドゥンは囁いた。失望と驚愕にその両手を僅かに震わせる。イルドゥンの剣、その刃は見事にラスタバンを肩口から腰に掛けて真っ二つに切り裂いていた。だがそれはイルドゥンにとって納得のいく結末ではなかった。
「どうしてそんな顔をしているんだい。イルドゥン」
苦し気に血を吐き出しながらラスタバンは力なく微笑んで言う。やっぱり、君は強いや。
「違う……。貴様の方が速かった筈だ。なぜ、剣を引いた。俺とお前との決闘がこんな形で終わっていいはずがあるか」
ラスタバンは先ほどと同じように、やはり困ったようにして弱々しく笑っている。
「気のせいだよ。もしくは、そういう思い込みさ。自分が圧倒的に弱体化させられているのだから、と……。でも、理屈はどうあれ勝ったのは君だ。この土壇場で君は僕の策略を物ともせずに打破して見せた。ただ君が強かった。それだけさ」
「認めんぞ、俺は」
「この世に、心から納得のいく答えなんてものがあるのだろうか」独り言のようにラスタバンは呟く。「そんなものがないからこそ、僕と君とは戦いを続けているんだろう」
「そうだとしても」
「……僕は、君には勝てない。いまそれがよくわかったよ。僕はこの世のすべてを何もかもを手に入れ、そして支配するつもりでいる。そのために君を失うというのなら、僕はそんな僕の弱さを超克しなければなるまいよ」
「……アセルスにも似たようなことを言われたな」
苦虫を噛み潰したような顔をしてイルドゥンは吐き捨てる。
「どうして、俺の周りにはこんな奴ばかりが増えるんだ……」
「うんざりかい?」
「ああ、うんざりだ」
面倒そうに溜息をついてイルドゥンはラスタバンへと手を差し伸べ、痛たた、と冗談めかして呻きながらラスタバンがその手を握る。
「ならば僕らは、やはりその倦怠を打破するためにこの世と格闘しなければならないんだろう。僕と君とは依然として同志というわけだ」
「訳が分からん……。俺は無論、オルロワージュの奴に勝つ気でいるが」懐いた犬のように微笑んでいるラスタバンにちらりと目を向けてイルドゥンは再び大仰にため息をついた。「やはりお前には勝てないのかもしれんな……」
「何を言っているんだい、イルドゥン。さ、一休みしたら我らが姫を助けに向かうとしようじゃないか! 革命の時は近いぞ!」
「ああ……まったく……」
イルドゥンは疲れたように両目を覆った。