サガフロンティア アセルス編   作:おめかけ

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幕間 朴念仁友誼

 血の匂いがした。

 噎せ返るほど近く濃密な血臭が立ち込めている。吐き気を催しそうなほど血生臭い風が荒野に吹きつけ、喉の痛みに咳をするととめどなく血反吐が零れた。血に濡れた右手をぼんやりと見つめまた一つ咳をする。なんだこれは、と思い反対側を見れば左腕は千切れて無くなっている。左足も同様で視界の端で剣に縫い付けられているのが見える。脇腹は大きく抉れ、はみ出した臓物を子鼠に齧られていた。

「そうか」そこでようやく気付いたイルドゥンはぼそりと小さく呻いた。「俺は負けたのか」

 鋭い瞳も今は血と泥にまみれ、身に纏った黒燕草の服は襤褸同然に破れている。

 自嘲する代わりにとほりと血を吐き天を睨んでいると知り合いが軽やかに歩み寄ってくる。両手には回収してきたイルドゥンの身体をぶら下げ、ラスタバンはにこにこと微笑んでいた。

「やあ。随分とひどい有様じゃないか。我が友」

「見ての通りだ。満足に動くこともできん」

「やはり……魅惑の君オルロワージュと闘うのはいささか早かったようだね?」

「オルロワージュに挑めといったのは……おまえだぞ、ラスタバン……」

「僕は挑んでみるのもいいかもしれない、と言っただけさ。それに、僕よりは君の方が強いだろう?」

「……どうだかな」

「まぁそう言わないでくれたまえ。僕は何も君を謀殺しようと企んだわけじゃあない。その証拠にほら、こうしてきちんと助けにきただろう?」

「助けに来たのは認めよう。だが……」イルドゥンはラスタバンの背後に鋭い視線を送る。色濃い影を連れ、全てを断ち切る妖魔の剣を無造作に右手に提げ、オルロワージュがこちらへと近づいてくる。「まだ、助かったわけではないがな」

「どうした。戦いはもう終わりか?」

 息一つ乱さずオルロワージュは平然と問いかける。

「体が千切れたのなら早く繋げるが良い。待っていてやろう」

 抑揚の欠けた言葉にラスタバンは慌てて声を張り上げた。

「オルロワージュ様!」

「……む。そういえば、そなたは誰だ。そこに倒れているのがイルドゥンで良いのか? それとも決闘を挑んできたのはそなたの方だったか?」

「私はラスタバンと申します。妖煌帝オルロワージュ様、お初にお目にかかりまして大変恐悦至極にございます。お噂通り、何と言う美しさ、なんという強さ、一目で感服いたしました」

「ラスタバン!」卑屈な態度にイルドゥンが怒りの声を上げるがラスタバンは構わずに追従を続ける。しかしオルロワージュは左手を軽く振って言葉を遮った。

「よい、よい」オルロワージュは淡々と言う。「そのような言葉は聞き飽きた」

「左様でございますか。これは失礼を致しました」

「それでラスタバンとやら。そなたは何故ここにいる」

「はっ。それといいますのも、愚かにもオルロワージュ様に敗れ去ったこのイルドゥンは私の友であるのです」

「友。妖魔も友誼を結ぶのか」

「は?」

「そうか……友か。それはとてもいいものだな、ラスタバンよ。友は大切にするものだ。そなたは友を助けるために現れたのだな?」

「はい……僭越ながら、我が友の助命を嘆願しに参った次第でございます」

「ならばそなたとイルドゥン、同時に余に挑んでくるがよい。許そう」

「い、いいえ! 私はオルロワージュ様と闘うつもりは毛頭ございません。この決闘は紛れもなくイルドゥンの負け、そこに異論はございません!」

「おい……」

 イルドゥンが小さく呻くがラスタバンは慌てて「君は黙っていたまえ」と口を塞いた。オルロワージュはといえばもがくイルドゥンに視線すら向けずにじっと俯いている。

「イルドゥンの負け……? とすると、余は勝ったのか。そうか、勝ちか……」

 オルロワージュはむなしそうに囁き続けた。

 

 これ以上危害を加える気はないようだと判断したラスタバンがほっと一息ついてイルドゥンを離すと、イルドゥンは傷ついてなお力を失わぬ緑宝石の瞳をぎらりと光らせた。

「俺を殺さないのか、オルロワージュ」

「殺す? 何故だイルドゥン」

「俺は決闘を挑み、負けた」

「そうだな。そなたは確かに負けた。そしてラスタバンが助けに来たのだろう。……それならばそなたは助けられている筈だ。何も間違ってはいまい」

「ふざけるな。だとしたらそのラスタバンごと叩き斬ればいいだけのことだろう」

 発言にラスタバンがぎょっとするがイルドゥンは構わずに言葉を続ける。

「敗者に情けをかけるかオルロワージュ。その油断はいつか貴様を滅ぼすぞ」

「だから」オルロワージュはひたひたと凍みつく瞳でイルドゥンを見下ろす。「それがなんだと言うのだ?」

「何?」

「ここで殺してしまえばそなたはそれでおしまいだ。……それはいささか勿体ないことだとは思わぬか? もう二度と会えなくなってしまうではないか」

「しかし、俺は……」

「また余を殺しに来るが良い。イルドゥンよ。余はいつでも待っておる。命を賭けてそなたと再び剣を交える時を余は楽しみにしている」

「……」

オルロワージュは悠然とした足取りで立ち去っていく。イルドゥンはしばらく黙っていたが、やがてその後ろ姿にぽつりと問いかけた。

「……オルロワージュ。お前は寂しいのか?」

 問いかけに答えず、オルロワージュは背中を見せたまま天を仰ぐ。

「オルロワージュ」

 再度語りかけるとオルロワージュはゆっくりと振り返り、静かに頷いた。その瞳は何の光も宿してはおらず、破砕した鏡のように歪な世界を映すのみだった。眼球の虚無にイルドゥンは一瞬息を呑み、拳を握りしめる。

「どうやらそのようだ」余所事のようにオルロワージュは投げやりに応え、ぞっとするような微笑を浮かべた。

「しかし、そなたもそれは同じなのではないか、イルドゥン。何百年も生きていれば飽きが来る。来る日も来る日も同じようなことを繰り返していれば、その内に寂しいと思う日もやって来よう」

「生憎とこの世界には俺よりも強い相手がごまんといるのでな。退屈するほど暇がない」

「どうかな。今は忙しいと感じてはいても、時が経てばそなたはこの世の全てに慣れていくだろう」

「俺はお前とは違う」

 傲然とイルドゥンは言い放つ。

「確かにお前は強い。だがそれは世界とは相容れぬ強さなのだろう。誰もお前を傷つけられず、誰もお前に並び立たない。本当はオルロワージュ、お前は戦いという戦いを経験したこともないのではないか。お前がちょいと手首を捻ってやれば敵は千切れて死に、訳のわからない全能感とむやみな達成感ばかりが積み重なっていく。鎬を削ることもなく、血を流すこともない。……お前はただ、足元を這いまわる虫けらを踏み潰しているだけだ。それで楽しいわけがない」

「なるほど。──そしてその虫けらがそなたというわけか、イルドゥン?」

「悔しいがその通りだな」イルドゥンは無表情でぼそりと呟く。「自分で言っておきながらまるで我慢ならない表現だが」

「虫けらで良かったではないかイルドゥン。今、そなたがそうして生き永らえているのも余の退屈のおかげであろう。余の倦怠もたまには誰かの役に立つ」

「下らんな。他者の情けに縋って生きているような奴はそれこそ塵芥に等しい。そんな奴は速やかに死んでいるべきなのだ」

「そなたもなかなかどうして強情だ。それほどまでに敗北の罰が欲しいか?」

「俺は俺の望むようにしか生きられない。それはお前も同じだろう」

「ふむ。……そうだな、確か金獅子姫もこんなことを言っていた。勝者が敗者を支配する。では勝者として余はそなたに命令しよう」

「何だ」

「イルドゥンよ。余の友になるがよい。余の友として余の孤独を癒し、また時には余を憎む敵として余を楽しませよ」

「断る」イルドゥンは無愛想に返答する。「友などという鬱陶しいものは十分だ」

「ふむ……」

 珍しくオルロワージュは眉を上げ、苛立ったように唇を曲げる。

「そなたのように我儘な男はみたことがないな。腹立たしいと思うのも久方ぶりだ」

「おまえがおかしいだけだろう」

 無造作に言い放つイルドゥン。ラスタバンはそれまで言葉を挟まずイルドゥンの無作法な言葉にはらはらしながら見守っていたが、この言葉にはさすがに肝を冷やした。

「では、そなたはどうするのだ、イルドゥン」

「そうだな……」

 イルドゥンは自分を支えるラスタバンにちらと視線を向ける。

「俺はお前の友になどなりたくはない。だが部下にならなってやろう。気が向けばまたお前を殺しにも行ってやる。……それでいいだろう?」

「ふっ」オルロワージュは感心したように笑うと剣でイルドゥンの胸を突き刺し、そのま大地に縫い付けた。鈍く呻きながらイルドゥンはなおもオルロワージュを睨みつける。

「そなたは強いなイルドゥン。完膚なきまでに叩きのめされておきながら命乞いの一つも見せぬ。あくまでも矜持を失わず自らのままで在りつづけようとはまさに妖魔らしい生き方よ。良かろう。ならばイルドゥンよ、そなたはたった今から余の部下として黒騎士に任命しよう」

 感謝せよ。そう言ってオルロワージュは剣をゆっくりと捻る。薄氷を踏みしめるような音を立てて妖魔の骨が砕けていく。イルドゥンは苦痛に目を細く歪めるが、血反吐を吐きながらも不敵に笑う。

「そうか」イルドゥンは止めどなく血を流す自身の体を眺めながら穏やかに頷く。「ついでにこのラスタバンも黒騎士とやらにしておいてくれ」

 そう言うとオルロワージュは楽しそうに笑った。

 

 

 

 

 

 

 夜を視ていた。

 日の暮れてまだ間もない頃、空の蒼を夜の帳が遮って薄暗い群青の闇が生まれる。

 星を見ていたのではない。そんなものは輝いてなどいない。ただ果てのない空の宵闇を眺めている。春風が颯々と彼の長い髪を吹き散らかしていく。

 ふ、と息を吸い込むと温かな空気が肺を満たす。夜の、蒼の、闇に微睡む酸素が舌の上で融けていくような気がする。心地よい感触に目を閉じる。

 ファシナトウールの果てに位置する黒宇森で最も古い胎蝋樹の頂上、鳥でさえ寄りつかぬ遙か高みの幹に背中を預け、イルドゥンは夜を見ている。大木の上からはあらゆるものを見渡すことができた。地平の果てにうねる海は空よりも蒼が濃く、見つめているだけで潮騒に飲み込まれそうになる。あらゆる物体はその身に仄暗い影を埋め、静寂を保っている。尻を発光させた灯籠虫の薄ぼんやりした赤錆色が黒々とした木々に僅かに滲む。

 森は閑かだった。虫のさざめきも松籟も聞こえはしない。上級妖魔であるイルドゥンがあらかじめ「鎮まれ」と一言囁いておけば、虫は懸命に息を止め羽を折り、植物は風に揺れる枝葉を凍り付かせる。

 無音の夜に立ってイルドゥンは笑っている。自然を愛でているのだとは到底思えない凄惨な笑みである。見ているだけで手足が千切れ飛んでしまうような暴力性を秘めながら、しかし一方で目にした瞬間に心を奪われ、力なく膝を落として両手を組んで信仰を捧げてしまいたくなるような宗教的美を孕んでもいる。

 妖魔イルドゥン。鴉の眼、石化蜥蜴に似た白罌粟の肌。高く通った鼻梁にかたく閉ざされた唇。花緑青の長髪は腰まで伸び、風に流れては軽やかに翻る。

 柔らかな夜に身を任せ、とりとめのない考え事に没頭するのが彼は好きだった。だから今日も夜を見つめ群青の闇に手を浸し、地平に煙る太陽の残光を嗅いでイルドゥンは茫洋と思考に耽る。

 今考えているのは「時間」のことだった。オルロワージュは確かにそんなことを口にした。時間。

 彼は夜を愛している。朝、太陽が昇り、闇は薄れ、世界が照らされる。じりじりと大地を光が焼き、やがてくたびれた太陽が力を失って地平性の向こう側へと墜落し、世界は見る間に冷えていく。光は失われ、再び闇が帰り来たる。それら全ては時間の流れによるものだ。

 彼が夜を視る時、世界はたいてい静寂で、昼間のように騒がしく駆け回る者もない。生命という生命は運動を停止ししているようでもあり、或いは時が停まっているかのように感じられる日もある。

 時間。

 時間とは一体何だろうか? 

 妖魔であるイルドゥンには明確な記憶と言うものが実は存在していない。人間種族であれば「物心がついた時」とでも表現するような時代が妖魔にはない。妖魔は既にして完成された生き物であり、成長などしない。妖魔は生まれ落ちたその瞬間からあるべき姿あるべき状態のままでいる。より正確に言えば、妖魔は「生まれ落ち」たりはしない。妖魔は生殖行為によって繁殖するのではない、世界の解れ目からある日ころりと吐き出されるようにして陽炎のように存在し始めるのだ。

 たとえば人間ならば赤ん坊のころは何もかもが新鮮で日々は目まぐるしく移り変わる。記憶の原初とはそうしたものである。赤子が少女になり、少女が娘になり、やがて大人になる。時の流れと共に人は成長し、それにつれ記憶もまた継続していく。

 しかし妖魔には成長というものがない。気が付いたその瞬間に己は己だったのであり、かつ昨日も一昨日も己であったのだ。

 だから──というわけでもないのだが、イルドゥンは自分にとっての「始まり」が何だったのかを覚えてはいないし、自分がどれだけの時間を生きているのかも本当の意味ではわからない。自分の命は連続していない。

「それを寂しいと……オルロワージュはそう言ったのか……?」

 思わず口をついて出た疑念は寄る辺なく風に攫われて薄れていった。誰にも聞かれなかったようだ。儚げな自らの言葉にイルドゥンはむ、と眉を寄せて黙り込んだ。

 

 

 

 

「おーい、イルドゥン。またこんな所で独りでいるのかい。今日はとっておきの琥珀酒(アマタール)を持ってきたんだ。一緒に飲もうじゃないか」

 それからしばらくしていつものようにラスタバンが尋ねてきた。大木の根元から妖術で呼び掛ける友の声に「ああ」と答えたままイルドゥンがなおも視線を遠くに飛ばしていると、ラスタバンは困ったように首を傾げる。

「イ、イルドゥン……? 聞こえただろう、下りてきてくれないか……?」

 上擦ったラスタバンの声に、イルドゥンは無愛想に答える。

「お前が昇って来い」

「木の上で飲むのかい? それはそれで乙なものかもしれないが……しかし、随分飲みにくくはないだろうか」

「どこで飲もうと酒の成分は変わらん」

「君と言う奴は相変わらずだな……。まあ仕方ない。君がそういうのなら僕はそれに従うさ」

「早くしろ」

「落ち着きたまえ。今日は折角の日なんだ。僕と君の黒騎士就任祝いさ」

 ラスタバンは軽やかに大地を蹴り、大木を駆けあがるとイルドゥンの隣に腰を落ち着けた。

イルドゥンとラスタバンは互いの盃に酒を注ぎ、ささやかに打ち合わせた。ぐいと一息に飲み干して「ああ美味いな」とどうでも良さそうにイルドゥンが一人ごちる。

「一時はあわや両方とも殺されるかと思ったけれど、中々どうして上手くいったじゃないか。ファシナトゥールを支配するオルロワージュ様の旗下に加わることができたんだ、これで僕らも安泰と言うものだよ」

「下らんな。妖魔が安泰を求めてどうする。妖魔という生き物は他者を支配していればそれでいい。自ら支配される側に回るのは人間のやることだ」

「そうかい? 僕は僕のやり方でこの世の全てを支配しようとしているだけさ。君の生き方とは、単に時間のかけ方が違うのさ」

「だからといってラスタバン。オルロワージュに阿るような真似を俺は認められん。何がお噂通り美しいだ、笑わせるな」

「僕の迎合主義もまた君の無愛想と同じように哲学的だと僕は信じているよ。生き物はみな自分の精神からは逃れられないからね。君と同じように、僕だって僕の望むようにしかできない」

「そうか」

「ああ」

「ならいい」

 短く言ってイルドゥンは再びラスタバンに酒を注ぐ。ありがとう、とラスタバンが笑う。

「しかし……お噂に聞いていたよりもオルロワージュ様はずっと寛大な方だったね。もっと怖いお方だと思っていたのだけれど」

「寛大? あれは変わり者と言うのだろう」

「それは否定しないよ。さすが妖魔の君ともなれば、自らの世界というものを完全に構築しているのかな。会話をしているようで会話していないとでも言うような。何か、ずっと別のことを考えているようだったよ」

「同感だ。オルロワージュには迷いが見える」

「強者ゆえの苦悩……とでも言うのかな? さしものオルロワージュ様も生きている限り心の悩みというものはあるものだ。付け入る隙は十分ありそうじゃないか。あと何百年かすれば殺せるんじゃないかい?」

 イルドゥンはちらと横目にラスタバンを捉え、小さな声で「知るか」と酒を呷った。

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