サガフロンティア アセルス編   作:おめかけ

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第三十三幕 TitleCall

 肉まんを食べていた。丸々と肥えた中華饅頭に男はかぶりつき、美味しそうに嚥下する。

 右の頬から左の頬へ、下品ながらも実に愉快なしぐさで肉まんを口腔に巡らせ、その稠密な触感を思うぞんぶん味わっては咀嚼を続けている。

 その表情は半目である。少し眠たいようでもあるし、肉に噛り付く至福に満ち足りている様子でもある。はふはふと白い息を吐き出しながら肉まんの載っていたグラシン紙を実に楽しそうに剥がしていく。

「ああ……」とその妖魔は突然小さく呻き、「お茶が飲みたいな……」としみじみ呟いた。すると傍らに控えていたメイドが慣れた様子で「こちらに」とティーカップを差し出す。妖魔は優雅な仕草でその中身に口をつけ、ああ、と、やはりしみじみ呟くのだった。

「うん。このミルクティーが肉まんによく……合わない! 他に何かないのかい?」

「ございません。烏龍茶は守備範囲外にございます」

 淡々とメイドが答え、そんなぁ、と妖魔が肩を落とす。それから大広間の扉を開いて呆れているアセルスと零姫にようやく気が付き、「やあ、ようやくここまでたどり着いたね」と片手をあげた。野放図に逆立てた赤毛、胸元をはだけた破廉恥な服装、そして胸元のニプレス。針の城の頂上を目指して大回廊を超えてきたアセルスたちを出迎えたのはゾズマだった。

「お久しぶりです。メイド仮面さん」

「お久しぶりでございます。アセルス様。お元気のようで安心いたしました」

「ああ、いえいえ。こちらこそ以前はご心配をおかけしまして……」

「僕のこと無視して会話を進めるのやめてくれる? だいたいアセルス、どうして君は僕よりも彼女と親しくなっているのさ。主役はあくまでも僕なんだよ?」

 アセルスはゾズマにちらりと目を向けて、メイドとの談笑を笑顔で続ける。

「ははは。面白いこと言ってますね」

「ええ、なんだか手のかかる弟みたいで……」

「……聞いてよ。今から僕がすごく重要なことを言うところなんだからさあ」

「今からオルロワージュに会おうっていう時に肉まん食べてる奴に言われてもね」

「決戦の前に体を休めておくのも重要だろう。ほら、マンハッタンの有名店で買ってきた饅頭をお食べよ。たくさんあるんだ。好きなものを選んでいいよ。君は肉まん派? それともあんまん派?」

「両方とも食べるよ」

 さらりと答えたアセルスに、ゾズマはあてが外れたように「あそう」と呟いた。

「そういえば、イルドゥンはどうしたんだい?」

 きょろきょろとあたりを見回して尋ねると、零姫が

「途中でラスタバンが待ち構えていてな。あやつは格好つけて残りおった」

「ははあ、なるほどね……」

 したり顔でゾズマは頷く。

「向こうにはまだ金獅子姫がいるからね。彼がいてくれたら心強かったんだが……ま、仕方がないか。問題なければ後から来るだろうし、ぐずぐずしていたら僕がせっかく引き離してきた黒騎士ウェズンの隊が戻ってきてしまう。ここにいるメンバーでオルロワージュに挑むしかないみたいだね。言っておくけど、僕は手出ししないんでよろしく」

「安心せよ。誰もお主には期待などしておらぬ。いざとなれば妾だけでもケリをつけてくれるわ」

「そうして頂けるととても助かりますよ。零姫様。あなたがこちら側の要ですから」

 さらっと言ってのけるゾズマに、零姫は重々しく頷く。

「うむ……。わかっておるではないか。ではそろそろ行くとするかのう」

 立ち上がり、颯爽と歩きだす零姫。続くアセルスにゾズマはそっと声をかけた。

「アセルス。君はこの針の城をどう思う?」

 その質問に答えず、アセルスは静かに笑った。

 

 

 

 

 ファシナトゥール。魅惑の君オルロワージュの統べる星。妖魔の集う惑星のひときわ高く聳え立つ伽藍の塔、針の城。その城の最上階へと続く長い長い螺旋階段を超え、やがて辿り着いたバルコニーにオルロワージュは立っていた。

 漆黒の外套を身に纏い、その瞳に虚無を宿して下界を睥睨している。

 幽かな風が吹き込んでオルロワージュは目を細めた。

「来たか、アセルス……」

 風の擦れるような声で囁き、オルロワージュは記憶を反芻するかのように目を閉じる。

「我が血を享けた半妖の娘よ。もっと欲望のままに生きてはどうだ。己の苦悩を周りの世界にまき散らせ。そなたに関わるもの全てを不幸にせよ」

 静かに告げられたその言葉に零姫はそっと視線を逸らし、アセルスは優しく微笑む。

「──私のためにそんな台詞を用意しておいてくれたの? ありがとう。でも、貴方にそんな言葉は似合わないよ、オルロワージュ」

「……そうか? 余は妖魔の王、人種族を支配する不死者の頂点に立つ者だ。そなたの知らぬところでは、悪鬼羅刹の如き所業を繰り広げているやもしれぬであろう」

「たとえそうだとしても、いま、この私の目の前にいる貴方はそうじゃない。私にとってはそれが全てだ」

「ふ……」

 オルロワージュはその言葉の持つ既視感に短く息を漏らし、アセルスの後ろに立つ零姫に目を向けた。

「久しいな。零姫。我が最愛にして第一の姫よ。まさかそなたから姿を現す日が来ようとはな。再び余に平伏すために舞い戻ったか」

「たわけが」牙を剥きだして零姫が吠える。「相も変わらず救いがたい阿呆よのう」

「違うのか?」

「当たり前であろうが!」

「そうか……。残念だ。ではいったい何をしに来たのだ」

 何を取り繕うでもなく率直に尋ねるオルロワージュに、零姫は声を荒げる。

「決まっておろう。果てしなく追われ続けるのもいささか飽きが来た。ならばいっそ妾自らが引導を渡してやろうと思うてな」

「ほう。余を滅ぼすか零姫。そなたにそれが出来ると?」

「貴様の血を吸ったのが誰かもう忘れたか? 貴様が針の城でのうのうと暮らしておる間に、幾度もの転生を繰り返し妾は更なる力を手に入れた」

「それは楽しみだ、零姫」表情一つ変えずにオルロワージュは頷く。「そなたの力が余の倦怠を癒してくれることを祈っておこう」

「祈る、じゃと? 神を信じぬ貴様が今さら何に祈ると言うのじゃ」

「……さぁ、果たして何にであろうな。忘れてしまった。昔は余にも祈りを捧げるべき対象が残されていたような気がするが、今となっては忘却の彼方だ。かつて何かを信じていた、という朧な記憶だけが漠然とある。だが、祈るにはそれだけでも十分だ」

「相も変わらず、女々しいことを言う……」

「それは詮無いことであろう。余はとりたてて変わろうとはしておらぬ」

「変えてみせる。いや、変えねばならぬ。この停滞したファシナトゥールの大気ごと、貴様を祓ってくれる」

「勇ましいことだ。その変わることなきそなたの強い意志を、余は歓迎しよう」

 両手を広げるオルロワージュに対して、零姫はじりと後退り警戒を強めた。

「さて」とオルロワージュは言う。「零姫が帰還した理由はこれでわかった。次はアセルス、そなたの目的を聞こう。先も言ったあの言葉は確かに芝居の台詞であったが、何もかもが嘘というわけでもない。そなたが妖魔として邪悪に生きるというのであれば、余はそれを止めはしない。しかし、そうではないのなら──」

 オルロワージュはそこで優しい瞳で見守るようにアセルスを見つめる。

「──もしもそなたが余の予想を超える言葉を持っているというのなら……これほど喜ばしいことはない。アセルス。我が娘よ。このファシナトゥールを離れ、そなたは何を見た? 何を知り、何を考え、……そして、いかなる心をもってこの針の城へと帰還したのだ?」

 問いかけ。何気なく投げかけられたその言葉は、しかし妖魔の王の唇から放たれた途端に背筋を突き刺す重圧を放つ。

 アセルスはぎり、と奥歯を噛みしめ、息を吸い、そして真っすぐにオルロワージュを見つめ返した。自分を娘と呼んだ妖魔のことを。

「辺境を求めて、旅をしたよ……」

 アセルスは言う。知らないうちに、声が震えた。目の前の妖魔に畏れを抱いているわけではなかった。自分でも不思議なほど敵対心は湧かなかった。胸をこみ上げるその感情はといえば、僅かな後悔、そして懐旧。幸か不幸かはわからない。自分がそれを愛しているのかといえば、それも違う。しかし、どうやら──天涯孤独のこの身にとって、もしも帰る場所があるとするならば、どうやらそれはこの場所を置いては他にないようだった。

「ここではないどこかを目指すために。私が私らしく生きられる場所、私が私であることを続けていられる場所を求めて。たくさんの人と出会って、たくさんのものを見て、知って……」

 自分はどうやら泣きそうになっているらしいと気づいて、アセルスは少しだけ笑い出しそうになった。不死者の王を前にして、自分はいったい何を語りだそうとしているのだろう。

「取り返しのつかない失敗を何度となく繰り返して、後悔して……死にたくなったり、何もかもが嫌になったりして、それでも、なんとか、ここまでたどり着くことができたんだ……オルロワージュ。貴方のところに、戻ってきたよ……」

「そうか」

 オルロワージュの返答は短かったが、しかしそこに拒絶の意志はなかった。

「……旅は辛いことばかりだったよ。人間の嫌なところを何度も目にしたし、痛い思いや悲しいことを経験して、私はなんて馬鹿で浅はかだったんだろうって、そんな風に思ったりもした……でもね」

 アセルスはそこで言い淀み、どこか困ったように、恥ずかしそうに言葉を選びながら語り続ける。

「全てが全て汚いものばかりではなくて、思わずはっと目の覚めるような光景や言葉に出会って、まるで自分がその瞬間から別の存在に生まれ変わったような、そんな不思議な気持ちになることもあった。私は……誰かを好きになれた。愛することができた。恋をしたんだよ、オルロワージュ。私はさ……。それはきっと私が望んだことで、そのために貴方や多くの人を傷つけてしまったのかもしれない。だから、私は、もう一度ここに戻ってこなけりゃならなかったんだ」

 アセルスの肩に、そっと零姫が手を置く。

「……あの日、あの時、あなたに命を救われ、この世でたった一人の半妖として蘇って……もしも私がこの場所から逃げ出さずに貴方の娘としてファシナトゥールに留まっていたら、きっと私は誰に恋することもなく、何も知らずに永遠の時を過ごしていたんだろう。だから、私は……この旅に出たことを後悔しない。自分が傷ついたことを忘れようとは思わない……だけど……」

 そこで躊躇いを見せ、アセルスは俯く。

「私は……」きっと顔を上げ、アセルスは言った。「私には、貴方に謝らなければならないことがある」

 ふむ、とオルロワージュは相槌を打ち、それ以上を言おうとはしなかった。

「オルロワージュ。旅に出たことを、私は謝らない。後悔もしないし、反省もしない。でも……貴方の元から白薔薇や紅を勝手に連れ出してしまったこと、そして彼女たちを危険に晒し、失ったこと……。そのつもりはなかったけれど結果的にファシナトゥールの秩序を揺るがし、騒ぎを起こしてしまったこと……。それは、紛れもなく私のせいだと思う」

 ごめんなさい。そう言って、アセルスは頭を下げた。偽りのない素直な気持ちだった。紅が死んだときのことを思うと今でも心が痛む。自分は彼女を幸せにしなければいけない筈だったのに。そして、白薔薇は……。

「顔を上げよ。アセルス。余にそなたを責める気はない。忘れたのか? 確かにそなたはこの城から白薔薇と紅を連れ出した。だがそなたたちに追っ手を差し向け、闇の迷宮に白薔薇を再び捕らえたのもまた余だ」

「……」

 アセルスはゆっくりと顔を上げる。その瞳に強い光を宿し、オルロワージュを前に一歩も引かずに堂々と口を開く。

「私はいま、ここに立った。それは私の意思だ。貴方が私から白薔薇を奪っていったように、私もまた貴方から多くのものを奪っていった。だから……」

「だから? そなたはここに何をしに来た。我が力に屈するためか。それとも自らが新たな王として君臨するためか」

「違うよ」そう言って苦笑する。「そんなんじゃない」

「私はそんな非日常的なことをしに来たわけじゃない。当たり前のことなんだよ、オルロワージュ。貴方が悩んでいると知ったから。私のことを娘と呼んでくれた貴方が、時を患うその思いに答えるため──言葉を選び、言葉を交わす、そのために……」

「言葉……か。たとえどれだけの時が流れようとも、やはり女というものは不可思議な生き物だ。面白いことを言う」

「貴方は“永遠”を求めている。探している。挑んでいる。……そうなんでしょう?」

「ああ、そうだ。零姫にでも聞いたか?」

「うん……。それに、イルドゥン、白薔薇、セアトにも話を聞いた。たくさんのものを失い、たくさんのものを忘れた。そんな貴方の物語のことを……」

「物語、か……」 

 うん、と再度アセルスは答え、いつしか潤みだしていたその瞳をぐいと一度乱暴に拭った。

 そして言う。

 

 ──物語の話をしよう、オルロワージュ。

 

 

 

 そしてアセルスは語りだす。

 

 物語というのは一体なんだろう。物語を作る人がいて、物語を語る人がいて……。その物語を誰かが受け取って、受け取った誰かがまた別の誰かにその話を伝えていく。連綿と、そして脈々と物語は受け継がれていく。人から人へ、口から口へと伝えられていくその物語は、でも何もかも嘘かもしれないでたらめかもしれない。人の記憶や思いが積み重なって幾重にも解釈が加えられていくそのうちに、何もかもがわからなくなって本当のことなんて忘れられてしまう。

 もう、私には、人間であった頃の感覚の全てを思い出すことはできない。無力である代わりに善良であったあの頃の気持ちや、モンスターと戦いその命を奪うことへの忌避感も何も、今となっては何もかも遠い。

 思い出せない。寒さに凍えることも。食事を摂る喜びも。もう、思い出すことはできない……!

 

 わなわなと震える手を握り締めるアセルスを、オルロワージュはじっと見つめている。

 

 その代わりに私が手に入れたものは、妖魔の力。人をはるかに超える強靭な体。見つめるだけで虜を生む魅了の瞳。私は人であった頃にはけして知ることのなかった経験をした。腹を掻き毟る飢餓の苦しみ。立ちはだかるものを打ち倒し支配するあの甘美な感覚。そして……愛するひとの血を啜る悦び。

貴方がくれたこの力で、私は旅を終えることができた。だから今度は私が貴方に返す番だ。

 ここにはないものを求めて旅をした。それが私の物語。辺境を──自分が自分らしく居られる場所を求めて。

 ここに居続けることはできなかった。与えられるものだけを受け取って生きていくことはできない。何一つ勝ち取ることができないというのなら、それは生きているとは言えないから。

 でも、それはもしかしたら……都合のよい世界や聞こえのよい言葉を夢見る、現実逃避に過ぎないのかもしれない。自由になりたい。世界でただ一人の自分でありたい。そんな言葉を後生大事に抱えた私は、妖魔の生き方を否定することで人間性に縋りつこうとしていたのかもしれない。私は旅をした……どんな場所でも、気楽な自由なんてものありはしなかった。針の城からの追手が、またある時には私を狙う人間たちが、私の生活を次から次へとぶち壊していった。

 辺境(フロンティア)。本当に、そんなものがあるんだろうか? 黄金が眠る場所。誰も知らない手つかずの未開拓地。そこには何の法も制約もなく、誰もがのびのびと暮らすことができる。そんな場所が。

 旅を続けているうちに私にも少しずつわかってきた。ここではないどこかを求めて生きることは、永遠を探し求めることとそう変わりはない。セアトにも言われたよ。旅人はいまいる場所を愛せないから旅に出るのだと。……私は自分自身が嫌いだったんだ。何もできないことが許せなかったし、何のために生まれてきたのかがわからなかった。どこに行っても、どこまで遠くに逃げても、安住の地なんてものはその片鱗も見えしなかった。当たり前だよ、私が私を愛せないのに、いまいる場所を好きになるはずがない。御大層な嫌悪感を抱えて旅に出て、むやみな喪失感ばかりが降り積もっていく。そしてとうとう辿り着いたボロの星で、私は旅を終えることを決意した。何かを手に入れたからじゃない。そこでとても大事なものを失ってしまったから。だから私は旅をやめた。辿り着いたその場所が“辺境”なのだと受け入れて、この針の城へと帰ってきた。そういう意味で言うのなら、私はもしかしたら敗北者なのかもしれない。私は永遠を諦めたんだから。

 

「アセルス。それがそなたの答えか」

 凍えるほど底冷えのする声でオルロワージュが囁き、

「“永遠”の話をしよう、オルロワージュ」

 挑むようにアセルスは高らかに告げる。

「永遠とはなんだ。それは一体なんの謂いだ。永遠に変わらないもの。永遠に失われることのないもの。そんなものがどこにある。仮にあったとして、それは時の停まった人形と何が違うの」

「アセルス……」

 オルロワージュから零れたその悲し気な声に胸を痛ませ、しかしアセルスはなおも言葉を重ねる。

 

「かつて、貴方は言った。永遠とは、時の中で生きながらけして失われないこと。時を止めて生きるのでもなければ、命を捨てて死に続けるのでもない。流動と変節の中で、しかし不変である存在のことだと。永遠は流動と変節の中にある。変わらないことだけが永遠じゃあない。あるいは、変わり続けることそのものが永遠なのかもしれない」

「違う……。それは余が望んだ永遠ではない」

 オルロワージュの言葉に剣呑な気配を感じ取った零姫がアセルスを庇って前に出るが、アセルスはやんわりと首を振る。

「だとしたらあなたが望んでいるものは何? いったいあなたは何を忘れてしまったの? 愛の記憶? 交わした口づけの熱さ? ヨノメヨチコという少女の言葉?」

「わからぬ……。余には、何もわからぬ。だが、確かにそれはあった筈なのだ。それは、それだけは嘘ではなかった。余は確かに何かを失ったのだ」

「……通り過ぎて行った人たちの感触だけがいまこの時の現実よりもいっそう懐かしく温かく思われるのは、胸を貫く喪失感が罪悪感へと変質してしまうからなのかもしれない。でも、忘れないでオルロワージュ。貴方の傍にいるひとたちは、今もなお貴方のことを想い続けている。過去だけが貴方を作り上げているわけじゃない。……紅はいつも言っていたよ。悪いのは自分で、貴方ではない、と。」

「わかっている。だが……」

 オルロワージュの視線がアセルスを貫き、つかのま稲妻にでも打たれたかのように全身が痙攣する。

「頷け、とそなたは言うのか。余に全てを受け入れて納得しろと、そう言うのか?」

 痺れる腕を懸命に振り上げ、アセルスは胸に手を当てる。

「違う。違うよ、オルロワージュ。だって私にはわからない。たかだか二十年を生きたくらいで、永遠なんてものがわかるわけもない。貴方の苦しみも悲しみも、想像することはできても理解することはできない。でも私には聞こえるんだ。あの時計塔の鐘の音が」

 オルロワージュの表情はそこで変わった。記憶の底を浚うかの如く、時計塔、そう舌が動いて失われた過去の輪郭をなぞる。

「時計塔の鐘の音が私には聞こえる。それが何を意味するのか、私は知らない。でもその音を聞いているだけで何かがもどかしくてたまらなくなる。叫びたくて、喚きたくて、意味もなく泣き出してしまいそうになる。どうしてだろう? その音を聞くたびに私は思うんだ。こんなのは嫌だ。納得できない。こんなものに従うわけにはいかない。自分の全存在を賭けて抗わなくてはならないと。旅をしていて挫けそうになるたび、私には鐘の音が聞こえた。戦う理由がある、そう思った。あの鐘の音が私を駆り立てる。あの鐘の音が、私をここまで連れてきてくれた……あれは、きっと貴方の血の記憶なんだ。何かを失くしたその瞬間の、貴方の言葉……残響音」

「ああ、そうだ……。それが何だったのか、もはや余にはわからぬ。だが確かに余はそこに立っていた。時計塔の鐘の音を聞き、そして何かを失った。こんなことが前にもあったと、そんな既視感を抱えたまま幾星霜を超えて今日に至る。余は……余はかつて何か別のものであったのだ。高いところから何かを見下ろしていた。茫洋とした記憶だけが胃の淵に残り、訳の分からぬ喪失感が降り積もっていく。自分が何を失くしたのかもわからぬまま、どこにも因果の繋がることのない罪に苛まれている。だから余は戦わねばならぬ。この世の摂理を打ち砕き、あらゆる永遠をこの手にせねばならぬのだ。あの時計塔の鐘の音が聞こえるというのなら、アセルス、そなたにもこの思いがわかる筈だ」

「わかるよ、オルロワージュ。貴方の思いのその欠片がわたしにはわかる。でも……それはやっぱり、私の記憶じゃない。私にとってそれは、誰かに手渡された物語に過ぎない」

「だとしたら何だ、アセルス。何が言いたい?」

 問われて、アセルスはごくりと唾を呑み込み、意を決して答えた。

 

「私たちはたぶん、きっとわかりあえない」

 

 その言葉を聞いて、オルロワージュは僅かに微笑んだ。

「そなたは和解を求めてやってきたのだと思っていた。妖魔の王オルロワージュともあろう者が、これはまたずいぶんと甘い考えを抱いてしまったものだ」

「……ごめんなさい、オルロワージュ。でも私は都合の良いお追従を口にするためにここに帰ってきたわけじゃない。私には貴方を完全に理解することはできない。本当のところを言えば棺に閉じ込めた寵姫たちのことは受け入れがたいし、今もなお白薔薇が闇の迷宮に囚われていることに諸手を挙げて賛成することもできない。でも……」

「でも?」

「でも、だからといって何もできないわけでもない。私には物語を語ることができる、そう思うんだ……。たとえ貴方の苦しみを理解することができないとしても、その記憶のひとかけを背負うことはできる。貴方が忘れてしまったその物語を、私が受け継ぐ。また別の誰かに語り継いでいく。それは元の物語とはまた別のものかもしれないけれど、欠けてしまったあなたの記憶の分だけまた別の人の記憶や解釈が折り重なって、後の時代に受け継がれていく。そうして繋がっていく想いのことを、永遠と呼ぶことはできないかな……? たとえいつか失われてしまうとしても、また別の形できっと誰かに伝わるんだと信じることが、少しでも貴方の癒しになりはしないかな……?」

 緊張しながらアセルスは息を大きく吸い、そして最後の言葉を口にした。

 それは物語の名だった。彼女が旅した道筋を指し示す言葉であり、幾億の時を超えて生きる怪物の墓標に刻まれるべき詩の一篇でもあった。

 半妖アセルス。妖煌帝オルロワージュの血を享けた、世界でただ一人の異形の乙女。万魔を虜とする支配者の娘にして人と妖魔の境を生きる中庸の旅人。

 その唇は緋桃の弧を描き、その声色は小夜曲の調べ。あらゆるものを魅了する淫魔の姫はいま、切なる思いを胸に物語を謳い上げる。

 

 

 さぁ、物語の話をしよう。 

 その言葉その物語の名を、あなたはきっと知っている。

 アセルスという一人のちっぽけな娘によって編まれたその物語の名は──、

 

 

 ──ねえ、オルロワージュ。

 物語が始まった時、貴方はどこにいたの? 

 私はいま、ここにいる。

 それはけして黄金郷(フロンティア)を目指す開拓者の夢物語(サーガ)なんかじゃあない。

 貴方が生きた一億年を彼や彼女が語り継ぐ。一人一人の百年を織り重ねれば貴方の物語にさえ届く言葉が見つけ出せる。たった一人では支えることができなくても、一億年生きた貴方には、私が、零姫様が、白薔薇がいる。

 永遠を求めて、旅をしたよ……。頷くことのできないものに首を振って、意地を張って生きてみたよ……。

 いま、ここにいる貴方は、とこしえを生きて疲れ果てた。私にはその悲しみを癒すことはできないのかもしれない。仮にできたとして、たった二十年かそこら生きただけの女がぽつり、二言三言囁いて物語が救われていいんだろうか?

 それでも貴方は私を娘だと言ってくれた。私はただそれが嬉しかった。

 オルロワージュ。

 お父さん。

 貴方は。

 一億年を生きてこの場所に立った。多くのものを失い、多くのものを忘れた。

 それでもまだ、貴方は滅びてはいない。涙を流して何もかもをなかったことにすることだってできた筈なのに、子供みたいにむきになって生きている。

 貴方は諦めてはいないんだ。まだ戦い続けてる。

 記憶はいつか失われてしまう。物語はいつか嘘になってしまう。どれだけのことを苦しいと思い悲しいと思っても忘れてしまう。

 ……でも、違う。

 たとえ何かを忘れても、何かを忘れたその痛みが激情を呼ぶ限りなかったことにはならない。

 貴方のその抗う心は今もなお失われてはいない。頷けないものに否やを告げるその心は不滅のものだ。

 けして失われることのない場所が、いま、ここにはある。時の流れを憎むこと。いつかすべては失われるというこの世の理に挑むその心。

 生きとし生けるすべてのものに、けして譲れぬ意地がある。意地と呼ぶのが気に食わなけりゃ、それは(サガ)だと誰かが言った。

 貫いた意地の果てに辿り着くべき終焉の場所。語り継がれるすべての物語が結実する辺境地。この世のSagaの行き着く処──サガ・フロンティア。

 

 物語が続く限り、永遠はそこにある。

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