……やがて言葉が語り尽くされ、後には静寂だけが残った。誰もが真剣な面持ちで佇み、密やかな息遣いがやけに大きく響き渡る。
物語を聞いていたオルロワージュはどこか遠い目をして零姫を見、そしてアセルスを見つめた。それは優しい目ではあったが、しかし共感の念は欠けていた。
「──それが、そなたの答えなのか。アセルス。サガ・フロンティア……。それが永遠だとそなたは言うのだな」
「うん……」
オルロワージュは厳かに歩み寄り、そっとアセルスの頭に手をのせる。くしゃり、髪をなぜる感触が伝わってアセルスは眼を閉じ、その身を竦ませる。
「オルロワージュ。私は……」
「アセルス」
次に目を見開いたその時、オルロワージュの顔に浮かんだ感情に気が付いてアセルスははっとする。
「残念だ、アセルス。余にその手を握ることはできない。余はそなたに立ち向かわねばならぬ」
妖魔の王からもたらされたその言葉の意外性にアセルスはつかのま違和感を覚える。それはオルロワージュのような絶対的強者が口にする言葉ではなかった。だがオルロワージュはそれをひどく慣れ親しんだ言葉のように扱った。立ち向かう。その言葉は。
困惑に躊躇した次の瞬間、オルロワージュの外套から伸びた影があたり全てを薙ぎ払う。
変化は劇的だった。視界に写るあらゆるものは断ち割られ、瞬く間に崩壊していく。針の城の最上階は一瞬にして砕け落ち、もうもうと巻き起こる粉塵の向こうでオルロワージュがその瞳に暗い光を宿している。
「いかん、アセルス!」
咄嗟に叫んだ零姫が懸命に手を伸ばすも届かない。落下するバルコニーから逃れようと跳躍しかけ、そこでアセルスは自らに下半身が存在していないことに気が付いた。いつの間にか下腹部は見事な断面を見せて斬られている。それだけではない。痛みに呻こうと息を吸い込んだその瞬間にやはりオルロワージュから伸びた影が鋭利な槍となってアセルスの心臓と右肺を貫き、乱暴に掻きまわしていく。
「お……」
「アセルス!」
慌てた零姫がアセルスの上半身を抱き留め、オルロワージュから距離をとるべく瓦礫を蹴って跳ぶ。しかし、
「逃げてどうする零姫。少なくともそなたは余を滅ぼすためにここへ来た筈だ」
当然のように待ち構えていたオルロワージュは既に剣を抜いている。着地し、体制を崩しながらも零姫は懸命にアセルスの体を庇うが全てを断ち切る妖魔の剣の前ではあまりにも無意味。零姫の左腕が切り落とされ、そしてその奥に庇われたアセルスの脳天へと剣が突きこまれていく。
火花が散った。
ぎりぎりと音を立ててオルロワージュの剣が震え、皮一枚を残して止められている。妖魔の剣を防いだものもまた同じく妖魔の剣。
「まったく。なんという体たらくだ」
アセルスへと迫るオルロワージュの剣を間一髪で受け止め、イルドゥンはいつものように憎まれ口を叩く。
「お前の言う理想など、所詮はこんなものだ。わかったら身の程を弁えて下がっていろ」
吐き捨てられた台詞にアセルスは返答しようとするが、こみ上げるのは血液ばかりで言葉にならない。その無様な様子にちらりと目を向け、ふん、と不満げにイルドゥンは唸る。
「イルドゥン、か……。久しいな。ようやく余の前に立つ気になったか。アセルスを守る騎士になったと話には聞いていたが……残念だったな。そなたが担ぎ上げた乙女の願いはもはや叶わぬ」
「構うものか。順当な結果だろう。お前がこいつにあっさり説得されていたらどうしようかと思っていたところだ」
「ふむ……? そなたはアセルスを信じて行動を共にしたわけではないのか」
「馬鹿を言え。俺が望むのはいまこの状況の方だ。言語による解決などあってたまるか。俺がこいつやお前とわかりあうためにここに来たとでも本気で考えたのか?」
「ならばなぜここへ来た。余に敗北してから幾度も戦いを挑む機会はあったというのにそなたは何もしては来なかった。なぜ、いまになって余の前に立とうとする。そなたはやはりアセルスを守るため助太刀に来たように見えるが」
「どいつもこいつも下らんことばかり聞きたがるのはどうしてだ? ……お前に負けてしばらくした頃、ラスタバンに言われてな。オルロワージュは確かに迷いを抱えている。あと何百年も経てば弱体化して殺せると」
「ほう……」
興味深そうに相槌を打ち、オルロワージュはあらぬ方向へと視線を向けた。
「そんなことを言ったのか、ラスタバン?」
衣擦れの音が聞こえた。柱の陰に隠れ隙を伺っていたラスタバンは気まずそうに現れ、口早に弁明を始める。
「いや、それは何と言いますか、オルロワージュ様。言葉の綾というものでして……ハハハ、困りましたな」
「別に謝る必要はないが、しかしそれならばなおのこと奇妙だな。余が弱くなったというのなら、なぜ戦いを挑まない」
問われ、イルドゥンは愚問だと言わんばかりに不遜に鼻を鳴らしてみせる。
「ラスタバンの言葉を聞いて俺は実際途方に暮れた。それはそうだろう。お前が言葉通りに弱くなっているのなら、そんなお前に勝ったところで面白くはない。お前の悩みが何だろうと塵ほどの興味もないが、しかしそれはそれとしてお前には救われてもらわねばならない。そう思った。そう思ったが……なんでわざわざこの俺がそんなことをしなければならんのかもわからんし、お前を救う方法などなおさら検討がつかん。半ば諦めかけていたそんな時にこの小娘が現れた。お前を救う、とこいつは言った。これほど都合の良い道具は他にあるまい」
「そなたの真意がどうにも見えんな……。そなたはアセルスの言葉を信じているのか? それとも先ほど答えたように、やはり言葉などは無力だと考えているのか?」
「無論、言葉など無力だ。仮にも妖魔の王であるお前とわかりあうなど笑い種だ。だがな、オルロワージュ。この娘のしつこさにだけは俺も一目置いている。初太刀でおまえを殺すことは失敗したようだが、この小娘はここからしつこいぞ。お前はこの馬鹿に白痴のように救われろ。そのうえでこの俺が滅ぼす」
オルロワージュはその言葉に珍しく感情を見せた。
「は、は……。変わらぬなイルドゥン。この世界においてこれほど余を苛立たせ、かつ楽しませる妖魔はなかなかおらぬ。まったく、惜しいものだ。あの時にそなたを友と出来なかったことをこれほど後悔した時はない……」
「友などもういらん。特に最近ではな」
倒れ伏したアセルスをじろりと睨みつけ、イルドゥンは剣を構えた。
「零姫、アセルスの様子はどうだ?」
「良くはない」苦い顔で零姫が答える。「まともに食らったのがまずかった。しばらくは回復せん」
「ならばその役立たずはあのメイドにでも預けておくんだな。ゾズマともどもどこか近くでこちらを窺っているはずだ。……お前はさっさとこちらへ来て加勢しろ」
「なに、いま何と言った?」
信じがたい言葉を聞いた零姫は目を丸くする。
「ま、まさか……おぬし、イルドゥン! よもや妾に助けを乞うているのではあるまいな?」
ち、とうんざりした顔でイルドゥンが舌打ちする。
「こんな時にふざけている場合か? さっさと戦え。零姫、ラスタバン。そしてお前もだ──セアト。アセルスに吸血されたならどうせお前もここに来てこそこそ見ているのだろう。いいか、一度しか言わんからよく聞くがいい。この俺に手を貸せ」
ぽかんとした顔でラスタバンが呆気に取られていると、背後の瓦礫が音を立てて崩れ、苦々しい顔のセアトが現れた。
「……まさか貴様にそんなことを言われる日が来ようとはな」
「そうじゃぞ。イルドゥン。気をしっかり持たぬか! キャラが──キャラがブレておるぞ! おぬしは助けてとか言う妖魔ではなかろうが!」
「だからふざけている場合ではないと言っているだろうが……。もちろん奴に勝つだけなら俺単独で構わん。俺は奴に勝つ気でいる。しかしだからといって奴を甘く見るつもりは毛頭ない。勝つだけというのなら俺は勝つ。だが事はそう簡単ではない。今回やるべきことは、アセルスが目覚めるまで時間を稼ぐことだ。倒してもいかん。倒されてもいかん。妖魔の王相手にこれは至難の業だぞ……」
険しい顔のイルドゥンとは対照的に、イルドゥンらに四方を囲まれた形のオルロワージュは己の不利を露ほども気にせず泰然としている。
「随分と楽しそうで何よりだ。イルドゥン。ラスタバン。そしてセアトか。黒騎士が勢揃いではないか」
「オルロワージュ様……どうか御身に弓を引くご無礼をお許しください」
躊躇いを見せながらゆっくりと剣を構えるセアトはじりじりと間合いを縮めていく。
「良い。セアトよ。とうとう自らが次代の王となるべく戦いを挑むか。それで良いのだ。己が内に弱さを抱えたそなたがこうして余に挑む決意を固めたことを、余は祝福しよう」
「違います。私は御身を害さんが為に剣を取ったわけではありません。ただ……アセルスというこの半妖が為そうとしていることは、必ずしも御身の不利益にはなるわけではないと、そう私は思うのです……! 吸血を許し、魅了されたからそう思うだけなのかもしれませんが、しかし………! オルロワージュ様! どうか今一度、この娘に機会をお与えください!」
「できぬ相談だ」
オルロワージュは全くの無表情のまま言下に拒絶した。
「余は、余から何かを奪おうとする者すべてを滅ぼさねばならぬ。戦い、これを打ち倒し、そして征服しなければならぬ。それが妖魔のサガというものだからだ。アセルスが余から永遠を奪い去ろうとするのなら、余はアセルスを滅ぼそう」
それは理屈ではなく、感情ですらなかった。機械が自らのプログラムに従うかのようにオルロワージュはただそう決めていた。永遠と戦うことを誓ったあの日から変わらぬオルロワージュの法──“永遠”に抗う戦いを邪魔する者はこれを悉く滅する、と。
「オルロワージュ、様……」
忸怩たる思いで肩を震わせるセアト。
「迷っている余裕はないぞ、セアト」
厳しい声でイルドゥンは言う。
「わかっている! 貴様に言われるまでもない!」
声を荒げたセアトはレールガンを構え、オルロワージュへ狙いをつけ乱雑に連射する。が、オルロワージュは避けるそぶりすら見せなかった。それもその筈だろう。オルロワージュにはまだもう一体、信頼する臣下が残っている。この舞台へと上がるべき最後の役者──その妖魔は黄金色に輝く盾を高々と掲げ、主へと襲い来る凶弾を軽々と打ち払った。
「セアト殿。まさかあなたまでオルロワージュ様に背くとは……」
糾弾の光をその瞳を湛えて、盾を構えた金獅子姫が悠然と立ちはだかる。
「金獅子姫か」
どこか楽しそうにイルドゥンは呟き、
「金獅子姫か……」
眉を顰め、嫌そうに顔を歪めて零姫は呻く。
「金獅子姫よ。そなたも先ほどの話を聞いていたのならわかるであろ。我らはオルロワージュを滅ぼすために集まったのではない。アセルスの話はオルロワージュにとっても救いとなるやもしれぬ。真の忠義者であるそなたにはそれが理解できるのではないか?」
「ええ、零姫様」金獅子姫は微笑む。「しかし興味がありません。もはや善悪を語る齢ではありませぬゆえ。私にあるのはこの剣の輝きのみ。私はオルロワージュ様の剣、オルロワージュ様の盾。この身を鋼として私はただ仕えるのみにございます」
「……この脳筋妖魔が」零姫はぼそりと毒づく。「まあ良い。もともと気に食わなかったのじゃ。貴様はどさくさに紛れて滅ぼしてくれる」
「それが戦いの結果なら、私はそれを受け入れましょう。……イルドゥン殿。宵闇の覇者として誉れ高き貴方とこうして剣を交えることができることを心から嬉しく思います」
「ああ。まったく同感だ」
慈愛に満ちた微笑みを浮かべる金獅子姫にイルドゥンもまた僅かながらの笑みを見せる。
「こんな状況でなければもっと喜んでいるところだが……。いや、どのみち大して変わりはしないか」
「ええ。所詮は剣と剣。どのような思惑があろうとも我らは畢竟、奪い合うのみです。この剣に命を賭して己が意を通さんがため、今ひとたびの死闘をここに!」
剣を掲げ、高らかに雄叫びを上げる金獅子姫。
「正念場じゃな」と零姫が自らの掌を切り裂いて妖魔の剣を濡らし、
「やれやれ。私は帰りたいのだが」ラスタバンは嘯きながら奸計を巡らせ、
「やはり戦うしかないのか……このお方と。俺にできるのか?」とセアトが自問し、
「勝負だ、オルロワージュ。貴様を倒すそのために、まずは貴様を救ってやろう」イルドゥンが静かに吠え、
そして、一同を見渡してオルロワージュは悠然と歩を進める。
「さぁ……かかってくるが良い」
◇
開戦直後──イルドゥン達の行動は示し合わせたように一致した。全員ともに最大の攻撃をオルロワージュ目掛けて放ったのである。けして金獅子姫を軽視しているわけではない。しかし誰もが言葉にするまでもなく理解していた。妖魔の王相手に一瞬でも目を離せば全滅は必至だと。
艶やかな繊手を絡ませ、胸元で印を組んだ零姫は幻の死神を呼び寄せる。あらゆる因果律を超越し、対象に死という結末のみを押し付ける筈の死神。しかしオルロワージュはいかなる術をもってしてか、形而上の存在である死神はこともなげに両断する。続くセアトとイルドゥンが頭上から斬りかかり、床に爪を突き立てたラスタバンが土蜘蛛を飛ばしオルロワージュの足元を崩落させた。死神を切り裂いた僅かなその隙を穿つ三者の挟撃。踏みしめる大地もなく体勢を崩したばかりのオルロワージュに逃げる場所は無い──鋭い刃がオルロワージュの端麗な顔へと突きこまれ、血飛沫が上がる。
「ちっ……」
顔をしかめたのはイルドゥンだった。素早く飛び退るその胸元には浅いながらも一文字の裂傷が奔っている。傷を負い、動きを止めたイルドゥンを更に金獅子姫の追撃が襲う。イルドゥンの構えた剣を巻き落とすようにいなし、そのまま腹腔を強かに蹴り上げた。毬のように飛んでいくイルドゥンをしかし金獅子姫は追わず、術の精神集中を終えたばかりの零姫へと左手の盾を投擲する。だが凄まじい風音を立てて飛来する黄金の盾を零姫はこともなく素手で捕まえ、握り潰し、牙を剥きだして狂相を浮かべた。
「残念だったな」
淡々とオルロワージュは言う。イルドゥンの剣を防ぎはしたものの、セアトの剣は確かにオルロワージュを貫いていた──だが、王の様子にダメージを受けた様子は微塵もない。オルロワージュの身体は肉にして影。いかな妖力を秘めた妖魔の剣といえど形を持たぬ影を断つことなどできはしない。
「相変わらず厄介な力だ」
かつての敗北を思い出したのかイルドゥンが不愉快そうに呟いた。
「だが、やりようはある……」
セアトはオルロワージュから目を離さずに右手の剣をイルドゥンへと伸ばす。ちらりとセアトに目を向け、ふ、と一息吐き出してイルドゥンが妖魔の剣をセアトのものへと静かに重ねる。共振──妖魔能力の励起。ヒートスマッシュ、そしてアイススマッシュ。二振りの刃はそれぞれ極低温と超高熱とを纏い、爆発的な反応とともに閃光と蒸気を生み出した。ほんの一瞬目を閉じたオルロワージュの背後からラスタバンが振動波を放つ。瞬時に影化してオルロワージュはこれを無効化する。しかし──、
「ほう」感心したようにオルロワージュが小さく唸った。再び迫るイルドゥンとセアト、その気配が消えている。
たとえ攻撃を無効化しようとも振動波はその周囲を取り巻いている。音や視線、風の流れ、僅かな気配ですらも遮断され、五感は乱される。それでもなお、オルロワージュの表情に焦りはない。それどころか微笑みさえ浮かべたままオルロワージュはなんと自ら目を閉じてしまう。
「なかなか良い趣向だ」
賛辞の言葉を悠揚と口にし、オルロワージュは妖魔の剣をあらぬ方向へと指し示す。剣術を知らぬ妖魔の王が、しかしいかなる達人の技倆をも越えて体現する無念無想──見えぬはずの剣を視、捉えられぬはずの剣を受ける神の御業。はたして、現れたイルドゥンの剣はぴたりと止められ微動だにしない。初めからそうなるべくしてそうなったとでも言うかのように、死角から襲った攻撃は予定調和に凍り付いていた。
「今の攻撃。中々面白かったぞ、イルドゥン」オルロワージュは微笑み、その反応にイルドゥンが不敵に答える。
「違うな。まだ“今”は続いている」
「何……?」
「我が主よ!」
不思議そうに呟いたオルロワージュの足元から漆黒の闇を抜けてセアトが跳びあがる。それは剣術においては本来あり得ぬ方角、妖魔の戦においてすら経験しがたい位置からの一撃だった。いくらあがこうとも躱す術はない──通常ならば。妖魔の王オルロワージュに油断がありはしてもその反応に弛緩はない。「効かぬと言ったはず」凄まじい対応速度で影へと溶けるオルロワージュ。幾重もの策を弄し繰り出したはずの必殺撃を容易く無と化し──しかし、そこでオルロワージュは動きを止める。
「む……」
初めてオルロワージュは眉を寄せる。その動きはこれまでと比べてどこかぎこちない。
「そうか、セアト……」
得心したようにオルロワージュはセアトへと目を向ける。緊張を滲ませながらこちらを見据えるセアト。その体はどろりと蠢いて闇に溶け、オルロワージュの外套と繋がっていた。先の攻撃、それは傷を与えるためではなくこのためにあった。
「この力は御身から受け継いだもの。影騎士たる我が剣、御身の影を縫いとめさせて頂く!」
影には影。あらゆる剣を無効化するオルロワージュの力に同じ影の力で干渉し、中和する。それはセアトにしかできないことだった。
「これは……」
「やれ、イルドゥン!」
セアトは叫び、答える暇すら惜しいとでも言わんばかりにイルドゥンが、ラスタバンが斬りこんでいく。
「オルロワージュ様!」
零姫と打ち合っていた金獅子姫が血相を変えた。思わず振り向いたその背中を大上段から振り下ろされた零姫の剣が奔る。だが金獅子姫は深い裂傷に呻き声すら漏らすことなく駆け出していく。血が風に舞い大地へと落ちるよりも速く、金獅子姫は膨れ上がった筋肉を撓ませて地を蹴って跳んだ。自らの生き死になど問題ではないというその献身は、しかし同時に金獅子という妖魔の弱点でもあった。好機を逃すまいと背後から零姫が追い、口元を釣り上げ、今ならば殺せるとけたたましく笑う。
「ふむ。これは困った」
危機感に欠けた囁き声を漏らしてオルロワージュはつかのま真剣な表情を浮かべた。体は相変わらず思うようにならず、イルドゥンの剣は眼前に迫っている。だがオルロワージュの懸念はそこではなかった。
「金獅子姫を守らなくてはな」
ぎりぎりと歯を食いしばり、必死の形相でオルロワージュの影を止めていたセアトはその台詞にぎょっとする。自分の目にしているものが信じられなかった。確かにオルロワージュの“影”は封じていた筈だった。だが影へと逃れることすらなく、オルロワージュは妖魔の剣でラスタバンの剣を打ち払い、その左小手でイルドゥンの攻撃を受け止め、そして──妖魔の具足を踏み下ろした。ただそれだけの行動が一面に激震を引き起こし、影となっていたセアトを吹き飛ばしていく。金獅子姫を追う零姫の指先がじり、と電撃を帯び、具現化した死の黒猫が屈強な女戦士の脾腹を噛み千切ろうと飛び掛かる。あと数秒あれば確かに金獅子姫は死んでいた。その筈だった。黒騎士三体を退けたオルロワージュがおそるべき速さで転移することさえなければ。
オルロワージュは優雅に金獅子姫を抱き留め、軽やかに後ろへと飛んだ。
「危ないところであったな、金獅子姫」
耳元でささやかれたその言葉に顔を赤らめながら、金獅子姫は忸怩たる思いで項垂れる。
「申しわけございません。御身の手を煩わせてしまうとは……」
「気にすることはない。零姫はあれで余に匹敵する実力者。余とそなた、互いに気を引き締める必要があるようだな。喜ばしいことだ。此度の戦はこれまでの退屈なものとは違う。今宵の舞踏を共に楽しもうではないか」
「はい。オルロワージュ様。この身は御身の為に」
高揚に顔を上気させる金獅子姫とは対照的に、吹き飛ばされたセアトの顔は暗く落胆していた。無敵とも言えるオルロワージュの能力を一時的とはいえこの自分が防いだというのに、それを超えて余りある妖魔の王の実力に剣を握る両手がやけに重く感じられる。
「今のはなかなか惜しかったな」
無表情に告げるイルドゥン。焦る様子のないその姿にセアトはきっと顔を上げてくってかかる。
「惜しかった、だと? 我ら三体がかりで傷一つ負わせることができていないのだぞ!」
「そうか?」
「そうか、だと? どうしてお前はそこまで呑気なのだ……!」
苛立ち交じりに吐き捨て、そこでセアトははっとする。見つめる先で、イルドゥンはぼそりと言った。
「オルロワージュ。剣を受けたな」
「ふむ……?」
オルロワージュが訝しげに目を細め、己が持つ妖魔の小手を観察する。イルドゥンの剣を受けたその箇所は確かに亀裂を見せている──だが、それ以上でも以下でもない。
「これがどうかしたのか? まさかこの程度の成果を喜ぶそなたでもなかろう」
「いいや、まずはその程度で十分だ」
イルドゥンは答え、そして唱えた。
「──
乾いた音がした。オルロワージュの見つめる先で妖魔の小手は見る見るうちに結晶へと覆われていく。
「む……」
顔を顰めたオルロワージュが妖魔の小手を外し投げ捨てる。転がった妖魔の小手は完全に結晶と化し、やがてほろほろと崩壊し塵となった。
「俺とて、貴様に敗北してから何も考えずに過ごしていたわけでもないのでな」
「その答えがこの結晶、というわけか?」
「ああ、そうだ。いかにお前が影化しようとこの剣は全てを固め、そして砕く」
「ふむ……」オルロワージュは頷く。「やってくれたな」
瞬間、突如として自らを襲った戦慄にイルドゥン達は一斉に跳び退る。目の前の敵が何をしたという訳でもない。しかしこちらを見つめるオルロワージュが漂わせる気配は、明らかにこれまでのものとは一線を画していた。
並の妖魔であれば息をしただけで絶命するほどの妖気。あまりにも冷たく、凍えるほどの威圧感。
「では第二幕といこう」
オルロワージュは言った。妖魔の王の足元から三本の影が伸び、その背後へと凝り固まっていく。肉もつ影は今まさに生み出されたかのように蠢き、輪郭を取り、恐ろしい変貌を遂げた。
◇
オルロワージュ。妖魔の王が備えるその“格”の顕現。他を魅了する美貌、他を威圧する恐怖、そして何物にも屈しない誇り。妖魔の絶対的な格を決定づける三要素──そのイデアたる姿が俄かに命を持ち、脈動を始める。
巨大な槍を携え、異形の羽を羽ばたかせ枯衰の風を起こす重装の烏面──“疾風”の寵姫。
燃え盛る火焔を身に纏い、生物を狂気に駆り立てる咆哮を繰り返す獣──“野生”の寵姫。
その瞳に神秘を宿しながらもあらぬ寓歌をうわ言のように呟く道化師──“知性”の寵姫。
オルロワージュが生み出した新たなる魔将、三人の寵姫。その力を知っている零姫は咄嗟に叫んだ。
「いかん! みな下がるのじゃ!」
「いいや、もう遅い」
オルロワージュの厳然たる宣告。大崩壊が始まった。“疾風”が背中の羽を蠢かし、竜巻を巻き起こす。局所的でありながら極限まで圧縮された螺旋の風はラスタバン、そしてセアトを食らい、遥か上空へ吹き上げた。続く“野生”の全身が極彩色に発行し、口元から夥しい火焔を無造作に吐き出し始める。周囲は瞬く間に高熱と化した。景色は歪み、どろどろに溶け落ちた金属がどす黒く明滅を繰り返す。全身を焼かれたイルドゥンは膝をつき、荒く息をする。その息すらも燃え盛る火焔の中ではままならない。数的有利は瞬く間に覆された。不利に傾きつつある戦況を打破すべく矢継ぎ早に術式を組み上げた零姫は三人の寵姫へと幻体生物を放つ。だが、それまで動こうとはしなかった最後の寵姫──“知性”がくすりと笑う。零姫が攻撃を放つのとほぼ同時に“知性”もまた術を唱え、幻夢の一撃をぶつけ相殺する。毒もつ牙を尖らせたジャッカルを夢魔によって昏倒させ、コカトリスがその石化の瞳を光らせる前に死神で絶命させ、そして鎌を振り上げ野生を襲わんとする死神を黒猫が混乱させる。
「おのれ……!」
「先ほどの借りを返させて頂きます」
歯ぎしりする零姫に真正面から金獅子姫が斬りかかる。小さな体で剣を受け止める零姫。その体格の差は如何ともしがたく、絶対的なリーチの差に防戦が続く。
「たとえ妖魔の格が劣れど、剣術においてはこの私に一日の長があります。零姫様、お覚悟を!」
「ほざけ!」
零姫が妖魔の剣を手に更に一歩踏み込んでいく。吐息すら届くほどの至近距離で両者は相対し、目にもとまらぬ攻防が始まった。一瞬の膠着状態から一切の予備動作なく繰り出された神速の剣技──金獅子姫の無拍子。反応することのできない筈の剣をしかし零姫は冷めた目で身を捻って躱すと手元を滑らせた剣を落とし、そのまま足で蹴り上げた。顎目掛けて飛ぶ剣を金獅子姫は僅かに首を振るとその牙で咥え止め、無防備な零姫へと稲妻突きを返す。対する零姫は翻身滑腿からの離心虎撲──離れると見せかけての双掌打にて剣を打ち払う。零姫の呼吸が変わる。内息を練り、剄力を全身へと巡らせての震脚。そこからの応答はあまりにも目まぐるしく交わされた。天地二段には蛙形漸肘。神速三段突きには回陣摔邪。鞭のように振り出した手の甲で突きをいなした零姫は聴剄のみで背後から迫る“野生”の電撃を察知し、剣を蹴り上げて掴み取り、視線を送ることなく後ろ手に構えて受ける。電撃の衝撃に零姫の全身が仄かに痙攣し、金獅子姫の瞳がぎらりと光った。全身全霊を込めた突貫──ベアクラッシュ。いかなる妖魔も骨ごと打ち砕く一撃に零姫はにやりと笑う。触れただけで折れてしまいそうなその細腕──その二本の指だけで金獅子姫の剣をぴたりと静止させる。零姫の無足化剄によって全ての衝撃は完全に受け流されていた。
戦いは右手の透骨拳で終わった。全力の攻撃を外された金獅子姫は体軸の立て直しが間に合わない。肋骨の隙間へと吸い込まれるようにして零姫の中指がぶち込まれ、体内で炸裂した剄に金獅子姫が吐血する。
「……笑わせるな、小娘。貴様の武術など妾に言わせれば真似事。所詮、獅子は獅子。けだものに剣は使えぬ」
「ふ……ふふ……、お見事……」
呟いて、金獅子姫は気絶する。霊姫は迷うことなくその首を斬り落とした。妖魔の再生を防ぐため更に心臓を抉り出そうと屈んだその時、吐き気を催すほどの怖気が鳩尾に突き刺さる。本能が告げていた。一刻も早くこの場から立ち去り、逃げねばならない。それは長い時生きる零姫にとって久方ぶりに味わう恐怖。歯の付け根が我知らず震え出す。
「──そなたは何をしているのだ、零姫……?」
音もなく、オルロワージュは零姫の背後へと現れた。
静かに問いただすオルロワージュの瞳に感情はない。澄んだ冬の湖のように静謐で、冷たく清涼な支配者の相貌。しかしその奥底に渦巻く逆鱗を零姫は知っている。
「あ……」
「なぜ、余のものを奪おうとする。なぜ、余から奪おうとする。そんなことを許した覚えはないのだがな、零姫……」
「ならば、妾を……憎むがいい、オルロワージュ……」
掠れた言葉で口にすることができたのはそれだけだった。だが長い時を生きた零姫は知っている。恐怖には抗わねばならない。戦わねばならないのだと。歯を食いしばり、牙を剥きだし、剣を構えて敵へと吠える。
「妾を見よ……! 貴様の前に立つ女の姿を! この姿がその目に写っているか、オルロワージュ!」
「見えているとも。我が妻、我が乙女。余の支配から抜け出し、そしてまた再び支配されんとする第一の姫よ」
「いいや、違う……!」
苦し気に言葉を絞り出しながら、零姫は剣を構える。
「貴様には何も見えてはおらぬ。ただ妾を通して過去を見、妾という名の物語を読み上げているだけじゃ。妾はあまりにも美しすぎるゆえ、そんな男に抱かれてやるわけにはゆかぬ。……妾を憎め、オルロワージュ。そうでなければいつか妾はそなたの全てを奪おうぞ。それが嫌だというのなら、その剣で見事この臓腑を掻きまわしてみせよ!」
「そなたが望むというのならそうしよう」オルロワージュは暗い目をして答えた。「それが願いだというのなら」
瞬間、オルロワージュの姿は消え、零姫の眼にはその影だけが映った。続く攻撃を躱すことができたのはまさに幸運としか言いようがない。我知らず後退ったその眼前を妖魔の剣は恐ろしい音を立てて通り抜け、全身から血の気が引いていく。
速すぎる。
脳裏に浮かんだ単純な言葉に思考が埋め尽くされる。確かに自分は強くなった筈だ。オルロワージュを吸血し、妖魔の君の力を手に入れた。幾度となく転生を繰り返し、無数の武術を習得し、妖魔を超える力を手に入れた筈だった。しかし、それでもなお、妖煌帝オルロワージュはあまりにも強い。長い時を経て精製されたそれは何者にも打ち勝つ力だった。誰に傷つけられることもなく、他者の干渉を何一つ受けることのない力。オルロワージュは血を流さない。痛みを覚えることさえない。それはそうあるべきと彼が信じた力。どれだけの時が経とうとも変わらずに済む絶対にして無敵の力。幼子の夢想にも等しい抽象的で都合の良いそんな力を携え、オルロワージュは生き続けている。
「それが……そんなものが、永遠などであってたまるかっ!」
血反吐を吐く思いで零姫は叫んだ。全身に喝を入れ死に物狂いで剣を交える。一合、そして二合。交わした剣戟の数だけ傷は増え、腕が痺れていく。なぜ世界はこんな怪物を生み出してしまったのだろう。こんなにも哀れな怪物を。見ろ、眼前の男はただ強いというだけでそれ以上でも以下でもなく、強さの果てに何一つ手に入れられず今を生きている。神に慈悲があるのなら何であっても構わない、この男に与えてやれば良い。それが弱さであれ涙であれ構わない。惰性でも死でも知るものか。神は強さだけを与えてそれ以外の全てを奪った。体に心を入れたのに慰めは用意しなかった。
ああ、オルロワージュ。
牙を剥き、その顔を修羅と化して戦いながら、零姫は心の中で涙を流す。
是が非でも勝ちたい。勝たねばならぬ。そう思いながらもしかし形勢は次第に不利へと傾いていく。冷たい汗が頬を伝う。
妖魔の剣をわざと受けとめ、吹き飛ばされるようにして背後へと転がり仲間の様子を窺った。黒騎士たちはそれぞれ三人の寵姫と戦っている。“疾風”とセアト。“野生”とイルドゥン。そして“知性”とラスタバン。この状況を打破せねば万に一つも勝機はない。瞬時に確認した零姫は脱兎のごとく駆け出した。
「ラスタバン!」叫び、そして“知性”へと斬りかかる。「妾の代わりに死ね!」
ラスタバンの顔がぎょっとするが知ったことではなかった。零姫を追って現れたオルロワージュは寵姫を攻撃に巻き込まぬため標的を変えた。ラスタバンの顔が蒼褪める。多少なりとも時間稼ぎの役には立つだろうと判断し零姫は“知性”へと攻撃を続ける──フリをして、そのまま駆け抜けていく。向かう先はセアトだ。自在に宙を舞い目にも止まらぬ槍を繰り出す“疾風”に手を焼いているセアトに零姫は叱咤する。
「セアトよ! 影騎士たるそなたの力を見せる時ぞ!」
セアトは飛び回る“疾風”へレールガンを乱射するのを止め、かっと目を見開いた。空を飛ぶ“疾風”の更にその上空から死人ゴケが溢れ、そして墜落する。疾風の寵姫は甲高い叫び声を上げて顔を覆った。美しい寵姫の皮膚は見る見るうちに爛れ、腐り落ちていく。痛ましい声で呻く“疾風”へとすかさずセアトは剣に火焔を纏わせて叩きつける。痙攣しながらもその剣を槍で受け止める“疾風”だが、しかし剣を交えるセアトの姿が不意に揺らめき、影と化し──その身を透過して現れた零姫の一撃までもを受け止めることはできない。翼持つ寵姫はこうして絶命し、再びオルロワージュの持つ影へと戻った。
◇
「……どうした、ラスタバン? それで終わりか?」
オルロワージュに見下ろされ、ラスタバンは荒い息とともに膝をつく。すでに全身を切り刻まれ、身に纏う服はどす黒い青に染まっている。ただでさえ不利なこの状況、妖魔の王とその寵姫、“知性”に囲まれての戦いは僅かな間に黒騎士を瀕死に追い込んでいた。
「やれやれ……」痛みに顔を歪ませながら、しかしラスタバンはなおも惚けてみせる。「こういった役回りは我が友人殿に任せておきたかったのですが」
「良い機会であろう。そなたも妖魔ならば自らの威を示して見せよ」
「生憎とそのような事柄には興味が湧かないのですよ。オルロワージュ様。私の愉悦はそんなところには無い」
「ほう? 確かにそなたの野心は余にも量りとれぬほど壮大なようだが。しかしそうであればなおのこと、こうして表舞台に立ってしまったのは失策だったのではないか? 脚本家は脚本家らしく、舞台の袖で役者の活躍でも眺めていれば良いものを」
「仰る通りです。我ながら何をしているのかと思いますよ」
苦笑して、ラスタバンは震える手足に力を入れて立ち上がる。眼前に立つ二体の妖魔に己の死を予感しながら。
「……そなたもまた、己が妖魔の性に殉じて滅びを迎えるか、ラスタバン?」
「私はそのようなものによって滅びる気はありません。この世界は私を中心にできているのです。支配者たるこの私を前にして運命が崩れ去ることなどけしてない」
「なかなか大きな口を叩くな、ラスタバン。この状況から勝つ算段がそなたにはあると?」
「さてそれはどうでしょう。しかし少なくともオルロワージュ様、勝つというのなら私は既に御身が持ちえないものを手に入れております。たとえどれだけの時を超えようとも御身が獲得することの叶わなかったもの──“友”を。私は既にして勝利者なのですよ。我が君」
不敵に言い放つラスタバンにオルロワージュもまた幽かに笑みを見せる。
「だがそなたは今から敗北者へと堕ちていくのだ。そなたが手に入れたというのなら、今度は余が奪ってくれよう」
「ハ……」ラスタバンは笑う。「まだお分かりにならないのですね。あらゆるものに勝利し、あらゆるものを手に入れてきた妖魔の王。それだけに貴方は知らないのだ。勝利ではけして手に入れられぬものもこの世にはあるのだということを。……我らが王、オルロワージュよ! 我が最期の剣、受けて頂こう!」
凛と言い放ったラスタバンは外套を翼のようにはためかせ、地を蹴って駆け出していく。風を切り、音を超え、その身に孕む策略の何もかもをかなぐり捨てて死地の最中へ飛び込んだ。一歩。体勢を低く。一歩。水面を跳ぶように軽く。一歩。踏み下ろしたその足で己が心に覚悟を穿つ。避けることなどもはや考えはしない。捨て身の特攻を止めるべく主の前に出た“知性”が仮面の奥に不気味な瞳を光らせて立ちはだかる。白痴じみた独り言を呟きながら剣を突き出す“知性”。だがラスタバンは何もしなかった。受けることも躱すことさえも考えず、“知性”の剣に右肺を穿たれ、──しかし止まることなく突き進む。爛々と光るその瞳に“知性”の動きが一瞬止まった。狙うは“知性”の背後、妖魔の王ただ一人。はっ、と息が漏れた。ラスタバンの口元から隠しきれない爽やかな笑みが零れる。“知性”の腹部にそっと剣を差し込んだ。それは、けたたましい叫び声をあげる“知性”ごとオルロワージュを貫く必死の一手。しかし、
「知っているとも。ラスタバン」オルロワージュはやはり顔色一つ変えない。「だからこそ余はこうして戦っているのだ」
「く……!」
「そなたこそ、忘れたのか、ラスタバン? そなたの攻撃など、余には効かぬ」
“知性”に隠れ見えなかった筈だというのにオルロワージュは当然のごとく影と化している。ラスタバンの剣は届いてはいない。蒼褪めたラスタバンは膝をつき荒い息をついた。その足元には夥しい血が広がっていく。
「確かに最期だな、ラスタバン」
冷たく言い放つオルロワージュ。憔悴しきったラスタバンは力なく微笑む。
「これが、ファシナトゥールを統べる妖魔の王の力か……。このラスタバン、感服いたしましたよ」
「……」
「やはり妖魔の王に相応しいのは御身以外にはありません。……どうか、お慈悲を、オルロワージュ様。この愚かな私を再び御身の配下にお加えいただくわけには参りませんか……?」
見苦しい命乞いにしてはそれはどこか童にも似た無垢な表情だった。オルロワージュはじっとラスタバンを見下ろしていたが、やがて寂しそうにつぶやいた。
「つまらぬ」オルロワージュは言う。「そなたたち黒騎士には期待していたというのに、この程度か……。失せろ、ラスタバン。戦わないというのなら追わぬ。どこへなりと消えていくがいい」
興味を失くしたようにその身を翻すオルロワージュ──その後ろ姿にラスタバンはニヤリと笑い、妖魔の剣を無防備な背中へと投げつける。
「つまらぬ、といった筈だ」
再び振り向いたオルロワージュの瞳は倦怠感にうんざりしたように曇っていた。ラスタバンの剣は影の中に吸い込まれて素通りし、無造作に抜き放った王の剣が黒騎士の頭を断ち割る。頽れるラスタバン。しかしその顔は──どこか誇らしげに微笑んでいる。舌を震わせながらラスタバンは言った。
「勝った、ぞ……イルドゥン……」
「──なに?」
オルロワージュが訝し気に問いを発したその時、離れた場所でおぞましい呻き声が上がった。失敗に終わった筈のラスタバン最後の攻撃──投げつけられた妖魔の剣は火焔を吐き続ける“野生”の喉元を見事に刺し貫いている。
「時間は稼いだ……。寵姫も倒した……」息も絶え絶えに項垂れて、しかし力強くラスタバンは吠える。「我が親友よ……後は任せるぞ……!」
ラスタバン。押し殺した声でオルロワージュは剣を振り、ラスタバンの首が胴から離れる。
「下らぬ……といいたいところだが、ラスタバン。やってくれたな……」
苦々しい声の中に賞賛を滲ませながらオルロワージュは見た。口腔内で膨れ上がった火焔は膨れ上がり、“野生”の眼孔から火を噴きだす。混乱しながらも寵姫は両手を突き出して電撃を滅多矢鱈と鞭のように振り回すが、右手をセアトのレールガンに撃たれよろめいた。続く零姫が放つ穢れた犬が足首に噛みつき、流れ込んだ毒は瞬く間に全身を巡る。苦し気に全身を掻き毟る寵姫へとイルドゥンが迫りその剣を振りかざす。最後に“野生”の寵姫が選んだのは自らの体ごと敵を消滅させる禁忌の炎術だった。焼殺──イルドゥンの剣を受けながらしかしけして怯むことなく、自らの肉体を敵へと預け発火能力を全開にする。
だが自らを省みないというのならばそれはイルドゥンもまた同じ。ぶすぶすと皮膚が焼け、全身が焦げていこうとも構うことなく、「だからどうした」と言わんばかりに無慈悲な剣で寵姫の上半身を斜めに切り裂いた。倒れ伏した“野生”の口からラスタバンの剣を抜き、鋭いイルドゥンの眼光がオルロワージュを貫いた。
……室内はいつの間にか様相を一変させている。あたり一面に火焔が燃え盛り、熱せられた空気がどろりとうねり出す。赤々と照らされた薔薇はしかしどす黒く変色し、醜く縮れては花弁を散らせていく。針の城の最上階、無数の薔薇は全て燃え、濃厚な命の匂いを焦げ付かせていった。
硬質な音を立てて妖魔の具足が床を叩く。咲き誇る薔薇たちに何らの感慨も見せることなく黒騎士イルドゥンは足を進める。今だ治りきらぬ熱傷の浮かぶ顔に不遜を刻んで数多の薔薇を踏みにじり、イルドゥンはオルロワージュの前へと立った。妖魔の王を前にして怖れもなく惑いもなく、堂々と立ちはだかる。その後ろからは零姫とセアトが静かに現れ、険しい顔で剣を構えた。
イルドゥンは倒れたラスタバンへちらりと視線を向ける。再びオルロワージュへと眼差しが戻った時、その眼光は赤々と燃えていた。その瞳に一片でも怒りや憎しみがあったならオルロワージュは口を開き簡単な揶揄でも投げかけたかもしれない。だがイルドゥンの眼にはただ静謐な決意が宿るばかりで、妖魔の王はそっと口を閉じ、初めて剣を構えた。
対峙する妖魔と妖魔。人外の力を誇る不死の怪物たち──最後の死闘は静かに始まった。飛び散る火の粉を断ち切って妖魔の剣が唸りを上げる。三対一の状況でしかしオルロワージュは焦りを見せない。零姫の幻術を打ち払い、セアトのレールガンを無効化し、イルドゥンの剣を捌く、その行程を息一つ乱さずに一瞬でやってのける。妖魔の王が無造作に剣を振る──それだけが、たったそれだけの斬撃がおそるべき鎌鼬となって壁という壁を両断する。風圧に外套を切り裂かれながらもセアトは次々に壁を天井を飛び回り、無数の銃弾を乱れ打ち妖魔の王の妨害に努めるが、オルロワージュは意に会することなく淡々と敵対者たちを観察している。元来が無敵にして無敗の王である。自らに致命傷を与えうるのはごく僅かなものに過ぎないとオルロワージュは知っているのだろう。
背後から再び迫る零姫の刺突にオルロワージュは影化を選択──その動きががくりと止まる。セアトが大地にその剣を突き立て、オルロワージュの影を縫い留めたのだ。背後の零姫、そして眼前にはイルドゥンの剣。オルロワージュの眼が見開かれ、その口元には猛々しい笑みが生まれる。右手を稲妻の速度で跳ね上げ、小手で受けた。ぎりぎりと音を立てて二本の剣が妖魔の小手を滑る。オルロワージュの体が軋む。だが凄まじい膂力で零姫とイルドゥンを吹き飛ばすと同時に結晶化した小手をセアトへ放つ。吹き飛ばされたセアトが剣を手放したことにより縛めは解かれた。地を滑るようにしてオルロワージュの剣が奔る。重力を感じさせぬあまりにも軽やかな剣閃。突きこまれた切っ先が零姫の頬を掠め鮮やかな血飛沫が飛び散った。
零姫の頬が吊り上がり、その瞳孔が縦に裂ける。悪鬼もかくやという形相を浮かべた第一の姫は合掌とともに大喝を放った。途端、零姫の頬から零れ落ちた血液はびたりと宙に停まり、紅の矢となってオルロワージュを襲う。漆黒の外套を翻したオルロワージュを追う弾丸は既存のいかなる物理法則をも越えて敵を追う。不気味な蠕動を繰り返し、不定に姿を変えながら獲物を狩る鮮血の一矢。だがオルロワージュの瞳がひときわ昏く輝いたその時、矢はつかのまの心と恋とを持ちえたかのように停止し力なく地へと堕ちていった。妖魔の王が持つ深奥の力──
零姫、セアト、そしてイルドゥン。三者三様ながら死力を尽くしてここにいる。しかしながら一秒を超え十秒を超えていまだなお埋まらぬ実力の差に麗しき妖魔たちは歯を食いしばって耐えていた。ほんの一瞬気を抜けば戦線は崩壊し、一度の瞬きで首が飛ぶこの決死戦。条理を超えて聳え立つ妖魔の王という果てしなき頂きを踏破するには、この世の定めを打ち砕かねばならない。妖魔のサガ──他を魅了する美貌、他を威圧する恐怖、そして何物にも屈しない誇りという三要素が決定づける妖魔の格によって支配される生き物の宿命を超克しなければ勝機は万に一つもない。なぜそんな生き物が生まれたのか──妖魔たちはみな知らない。なぜ“格”というものが存在し、なぜ自分がかくあらねばならないのか、その所以を妖魔は知らない。ただ在るべくして妖魔は在り、数多の命を食らう支配者たちはしかし同時に妖魔の掟によって支配を受けている。何も知らずに生まれ落ち、神に象られたその意を知らず、……しかし零姫は、セアトは、イルドゥンは知っている。
今こそこの世の理を破るときなのだと。
オルロワージュが“永遠”へと挑んだように、自らもまた破理を成し遂げるのだ。
麗しい妖魔の面を脱ぎ捨てて三者は吠える。獣のように息をして燃え立つような声を吐き全身全霊の獅子吼を上げる。優雅・妖美・高慢・倨傲。妖魔を構成するその一切をかなぐりすてて無心の剣がいま、手のひらから踊り出す。セアトの背後には朧げな陽炎。朱、蒼、そして碧。三色の幻像が守護するようにセアトを抱き、その剣へと宿る。限界を遥かに超えた超過駆動。全身の筋繊維がぶちぶちと千切れていくが構いはしない。まだ足りない。もっと寄越せ。腹の底には飢餓。胸に宿るは原始の衝動。殺意が牙を剥きだし、視界が紅に染まっていく。
それは、たった一瞬のことだった。
邪悪な笑みを浮かべた零姫が金獅子姫を投げつけ、ほんの僅かな隙が生まれたその時、オルロワージュの剣はいなされ、セアトの剣が影を停め──そして、とうとうその胸をイルドゥンの剣が貫いた。ほんの一瞬、イルドゥン達の力はオルロワージュを勝り、その牙城を打ち崩した。
◇
……辺りは、いつしか怖ろしいほどの静寂を取り戻していた。自分の体だけがまるで別の生き物にでもなったように忙しなく息をしている。体が無闇に熱い。それまでは気にならなかった傷が途端に疼き出していく。
セアトは信じられないものを見ているように口を噤んでいる。妖魔の王、オルロワージュは膝をついている──ああ、こんな光景を目にする時がまさか訪れるとは。そして思う、この妖魔の王にもまた等しく血は流れているのだと。
しとしとと流れ落ちる血の色は蒼かった。海よりも深く、空よりも遠い煢然の蒼。貫かれれば血を流す、そんな当たり前のことが、しかし目の前の妖魔には不釣り合いに思えてならない。
「──これが、痛みか……」
小さな声でオルロワージュは言った。途方に暮れた声だった。泣いているのかもしれなかった。……いいや、やはり、それは違う。妖魔の王オルロワージュに至っては、そんな感情は遥か遠くに失ったのだ。かつて死神のように優しい乙女は言った。いつか心が亡びたら子供のように涙を流して死んでしまえばそれでよい、と。おかしな話だ。それが容易くできるのならば一億年の長きを生きたりはしない。心が亡びるその前に、きっと涙を忘れてしまう。それが命の性なのだから。
「……久方ぶりに味わうこの感覚……。悪くはない……」
だから、きっと、オルロワージュは笑っているのだろう。
笑っている。
たとえそれが絶望でも悲しみでもオルロワージュという怪物の中にそんな言葉はなく、たとえ泣いているのだとしてもオルロワージュは静かに微笑み始めるのだ。
たった一人で。
オルロワージュに従う妖魔はもういない。金獅子姫は倒れ、生み出した三人の寵姫もまた消え去った。それでもオルロワージュは虚ろな笑みを浮かべて今さらのように笑い出す。そんなことは最初からわかっていたのだから。
ゆっくりと、胸元に深く突き刺さった剣を引き抜く。思わずよろめいた足に力が入らず膝が折れ、片手をついた。
「やはり、生きてはみるものだ……」オルロワージュは言う。「これほど余を楽しませる出来事が待ち受けていようとは……」
オルロワージュ。零姫は茫然と呟いた。
オルロワージュ様。セアトが困惑と共に告げる。
オルロワージュ……。忸怩たる面持ちでイルドゥンが言葉を濁す。
誰に対しても応えない代わりに、オルロワージュはただ静かに微笑んだ。その表情に──はっと我に返ったイルドゥンが唱える。結晶剣。オルロワージュの肉体を結晶化し、封印する筈の技だった。しかし、
「なぜ、効かない……?」
呻くようなイルドゥンの声がやけに反響して聞こえたその時、血を流しながらもオルロワージュは動き出した。戸惑いを隠せぬままイルドゥンは近寄り、追撃を与えるべく剣を拾う。対するオルロワージュの動きは負傷を受けてかやはり重く見えた。遅いとさえ言えるその速度に慢心したというわけでもないが、イルドゥンはどこか腑に落ちぬままに剣を振り上げ、そしてそれが仇となった。
膝をついたまま、顔を上げもせずに剣を振る。
オルロワージュは傷を装っていたわけではない。その速度は相も変わらずゆっくりと──しかし、その行動はどこか滑らかで、研ぎ澄まされたように決定的だった。その攻撃に立っていられた者は離れた場所で影に剣を突き立てていたセアトだけだった。糸の切れた人形のようにあっけなく零姫とイルドゥンが倒れていくのを、セアトは戦慄と共に眺めていた。一体なにが起きたのだ、そう思いながら声に出す暇すらもなく、気が付けばオルロワージュはセアトの目の前に立っている。
「残るはそなただけだ。セアト」
澄み切った声でオルロワージュが告げる。わなわなと震え出す歯の音を懸命に呑み込み、セアトは静かに首を垂れた。
「……どうした、セアト? かかってくるが良い」
「オルロワージュ、様……」
「そなたが最後に残ったのは必然というものだ、セアトよ。そなたは弱い。そして……だからこそそなたは強く在ろうとし、事実ここにこうして立っている。我らは強く在らねばならぬ。戦い続けねばならぬ。──立て、セアトよ。
「私は……」
投げかけられたオルロワージュの言葉に、血を吐くようにしてセアトは答えた。
「かつて御身に──貴方に弱さを指摘されたその時、私には貴方の気持ちが何一つ理解できなかった。貴方もまた、私の気持ちなぞはまるで分かってはくださらないのだと、そう思っておりました。……しかし、今では違う。十分の一、百分の一に過ぎずとも……貴方の心のその欠片が私には理解できる気がする。そしてまた、この惨めで矮小な私の魂というものを、ほんの一部であれおそらく貴方は知っている。オルロワージュ様。間違っていたのは私の方です。私の弱さは貴方のそれとよく似ていると言われたその時に気づくべきだったというのに。オルロワージュ様……。貴方に最大限の敬意を。そして……ささやかな憐れみを捧げます」
セアトは立ち上がり、再び剣を構えた。自らに待つ結末を悟りながら、しかし毅然と胸を張った。それが針の城第一の黒騎士、セアトの姿だった。
「強くなったな」
優しい言葉に背中を押されるようにして、セアトは駆け寄りざまに剣を抜き放ち、──そして、やはり届かずに倒れ伏す。敗れたというのにその表情はどこか穏やかで、これから滅ぶのだという恐怖は一片も残されてはいなかった。
こうして、オルロワージュは勝者となった。周囲を見回して声をかける者はいない。王であるにも関わらず伴う侍従はなく、剣を交えるべき敵さえも消えた。空を茫洋と見上げれば崩壊した針の城に仄かな日の光が差し込んで、自らの立つ場所を幽かに照らし出している。永遠という名の舞台に立つ化け物の影がうっすらと孤独に浮かび上がる。
最後に残る者──自らの娘を求めて、オルロワージュはそっと歩み出した。