アセルス達はもう駄目だね。歴史の変わるところが見られると思ったんだが……期待外れだったな。残念だよ。もう行こう、ディアディム。
……。
(主に促され、しかし仮面をつけたメイドは動かない)
どうしたんだい? いくらアセルスを庇ったって何も変わりはしないよ。たとえ彼女が起きたところで、オルロワージュには勝てない。
……逃げ出すのですか? ゾズマ様。
無論、逃げるさ。忘れたのかい? 僕はこの世で最も無責任な妖魔だ。誰かを守るだとか、そんなヒロイックな考えは生憎と持ち合わせていないんだ。
……私はここに残ります。
どうして? 君の行動にはいつも驚かされるな。いつの間にそこまでアセルスに肩入れする気になったのかな。
(メイドは膝に抱く血まみれのアセルスに視線を落とす)
やっぱり、君も“正義”が見たいのかな? 誰もが救われ、誰もが笑みを漏らす……そんなことが本当に起こりうると信じているのかい? 君はまたそんなつまらないものに縛られるつもりなのか?
いいえ、違います。ゾズマ様。私はアセルス様を信じているのでもなければ、彼女が正義だと信じているわけでもありません。
だとしたら、なぜ?
(メイドは、宙に視線を漂わせる。自らの魂を探し求めるかのように)
……やがて、ここに妖魔の王オルロワージュ様がやってきます。一度はあの方に魅了されたこの身。記憶も、魂すらも奪われミルファークと化した私には、あの方を罵倒する権利があるのではないでしょうか。
……はぁ? 君はいったい何を言っているんだ? そんなことをして一体何の意味がある? オルロワージュは君のことを針の城の備品くらいにしか思っていない。君は一瞥もされずに滅ぶのがオチだよ。考え直した方がいい。
そうでしょうか? 私には、これが絶好の機会のように思えてなりません。……いいえ、きっとこんな機会は一生に一度しかないのです。
(メイドは自らの主を見つめる。仮面の奥のその瞳には、女の意志が確固ときらめいている)
ゾズマ様。私は一度、殴られたのです。……殴られたなら、殴り返さねばなりません。
……それで命を落とすことになったとしても、かい? たったそれだけのために君は命を賭けると?
はい。
それは“自由”なんかじゃないよ、ディアディム。それはただの“愚か”だ。
貴方は自分が愚かではないと信じていらっしゃるのですか? 自らが賢いと自惚れるような生き方は滑稽では?
……言ってくれるね。……しかし、まぁ、それが君というものなのかな。君がそうしたいというのなら、僕は君の意志を尊重するよ。残念ながら、僕はここでお別れさせてもらうけれど。
そうですか……。ゾズマ様。
(メイドの声が僅かに湿る)
なんだい。
今まで、本当にありがとうございました。
……。
貴方に会えたことが、この私の不確かな記憶の中で最も幸福な出来事です。貴方に仕えることができて、私は本当に幸せでした。どれだけの言葉を重ねても、この恩を語り尽くすことはできません。ゾズマ様。たとえそれが嘘であったとしても、やはりもう一度だけ言わせてください。……貴方を、愛しています。さよなら……。
……君は、なかなか面白い妖魔だった。君ほど愉快な玩具はそうそう無いよ、ディアディム。その点に関しては保証する。君と僕との旅がこれで終わりだと思うといささか寂しいけれど……、でも、ま、仕方がないのかな。それじゃあね、ディアディム。楽しかったよ。
◇
そうして……、
回廊を進むオルロワージュの前に、一人の妖魔が現れる。腕組みをしたまま壁にもたれかかり、不機嫌そうに顔を顰めている。野放図に逆立てた赤毛、正気を疑うような胸元のニプレス。ぶつぶつと不満を口にしながら、妖魔ゾズマはオルロワージュを待っていた。
「やあ」
苛立ちを隠そうともせずにゾズマは言った。常とは異なる投げやりでぞんざいな仕草で後ろを指し示し、「アセルスはこの奥にいるよ」と告げた。
「そなたは……ゾズマか。珍しい顔だな。そなたもまた余に挑むつもりか?」
問われ、しかしゾズマはその言葉が聞こえていないかのように視線を背けたまま独り言を続ける。
「まったくさぁ、馬鹿は本当に救いようがないと思わないかい? せっかくこの僕が逃げろと言っているのに。ああ、不愉快。実に不愉快だよ」
「何の話だ? 余はこれでも急いでいる。用がないのなら後にせよ」
「特にこれといった用はないよ。主役のアセルス達もこんな有様だし、今回の話はバッドエンドというわけで、僕は今から逃げ出すところなんだ。その前に一言、妖魔の王に挨拶だけでもしておこうかと思ってね」
そう言いながらもとうてい礼を尽くすとは言い難いゾズマの態度にオルロワージュは不思議そうに首をかしげる。
「挨拶だけという割には、何か随分と言いたげに見えるが」
「これはね、八つ当たりだよ」ゾズマは言った。「とっても腹立たしいことがあったのでね。僕としたことが感情を上手く制御できないんだ。困ったことにね」
「ふむ……」
「まぁ、何にしても八つ当たりは八つ当たりだ。貴方には関係のないことだものな。お先にどうぞ、オルロワージュ様。僕は貴方に勝つ気もないけど、かといって殺される気も無いよ。僕は逃げる。アセルスは好きなようにしなよ」
「手負いとはいえ、余はそなたと戦うことになっても構わないが」
「僕は構う。そんなのは僕の主義じゃない。いくら貴方といえども、本気で逃げる僕を捕まえるにはそれなりに時間がかかるんじゃないかな? そんなことをしている場合じゃないだろう?」
「確かにな」
答え、それきり興味を失くしたようにオルロワージュは再び足を進める。壁に寄り掛かったままのゾズマを通り過ぎ、──そして、ゾズマの唇が密かに囁く言葉を耳にした。
「──っていう、つもりだったんだけどね」
面倒くさそうに剣を抜き、ゾズマはオルロワージュへと斬りかかるが、その打ち込みは呆気なく躱されてしまう。不意打ちにも危なげなく対応したオルロワージュはしかし、困惑したように眉を顰めた。
「わからぬ男だな。戦うつもりであるなら最初からそうすれば良いものを」
「僕はアセルスを守る、この世の平和を取り戻して見せる……ってかい? そんなことはできないよ。言ったろう。八つ当たりだよ。こうしているのは不本意な結果なんだ。僕は本当に無関心を決め込んで逃げるつもりでいたのさ」
「ではなぜだ、ゾズマ。闇の迷宮を踏破して見せたそなたが、いまさら何のために戦う?」
「それが僕にもわからない。まったくもってこの世はままならないものだね、オルロワージュ。誰も彼もが嘘ばかりさ。彼女はいつものように嘘をつき、僕もまたこうして嘘をついている。頭がおかしくなりそうだ。それはそれで楽しいような気もするけれど」
「嘘、か。思えば、そなたほど本心を見せぬ妖魔も珍しいな。ラスタバンもそうであったが……奴とはまた異なるか」
「そうかい? 僕はこれでも正直者で通っているんだぜ。僕ほど思ったことを口に出す妖魔は他にいないんじゃないかな」
「言葉と心は所詮、不可分ではない。自らが操るつもりの言葉は、しかし容易く本心を裏切るものだ」
「さすが、妖魔の王の言うことは壮大だな。でも僕がこうしているのは、もっと単純で馬鹿馬鹿しい理由だよ」
ゾズマはそこでため息をつき、僕は何を言っているんだか、とうんざりしたように笑った。
「理由とは何だ。なんのためにここにいる」
「愛していると言われた」ゾズマは答えた。「どうもそういうことみたいだ」
「言っている意味がさっぱりわからないが……。ともかくそなたは余と戦うというのだな。このオルロワージュに勝つと」
「勝たないよ。流石に僕だけで勝てるわけがない」
「ではなぜだ。なぜ逃げぬ」
「だからわからないよ。僕だってこんな結末には不満だらけだ。……でも、まぁ、強いて理由をあげるとすれば、そうだなぁ……僕は嘘が好きだって、そういうことなんだろうね」
寂しそうにゾズマは告げる。何物にも縛られぬという己が矜持を捨てて戦いを挑む自分自身を憐れむようにして細やかな微笑みを浮かべ、そして──
二体の妖魔の影と影とが一瞬のうちに交差し、そして一方が倒れる。
残ったもう一方──妖魔の王オルロワージュはゾズマを見下ろして呟く。
「嘘……。あらゆる記憶は時の流れの中に虚構へと変じてしまう。余は、そんな嘘を憎んでいた。嘘を愛する……そんな考えはなかったな……」
◇
彼女は、アセルスを抱きしめて震えていた。寒さに凍えるように肩を揺らし、体温を少しでも分け合おうとでも言うかのようにアセルスを強く抱きしめ、迫りくる脅威から守ろうとしている。その表情は暗く、いまにも泣き叫びそうに歪められている。血の気の引いた青白い顔は憔悴し、震える奥歯がかたかたと惨めな音を立てた。
それは当然といえば当然の結果だった。妖魔の王オルロワージュを前にして、何の力もない一介の侍女が張り得る虚勢などない。その妖気に晒されただけで息は止まり、捻じれた臓腑が吐き気を呼ぶ。それでも──。
割れた仮面を身に着けたメイド服の妖魔、ディアディムはそれでもなおオルロワージュの瞳を見つめ返していた。その手に庇うアセルスをけして離すことはなく、仮面の奥で怯えながらも懸命に王と対峙する。
「──そなたは、何者だ……? なぜ、城の侍女がここにいる……?」
舞台に上がるはずのない役者を眺めるように、オルロワージュの唇から隠し切れない疑問が零れる。
「私の名前は……ディアディム、と申します。……でも、きっと貴方は、私のことなど何一つ記憶してはいらっしゃらないのでしょうね」
「ディアディム……? そんな名前の者は針の城にはおらぬ筈だが」
「そうでしょうか。しかし現にこうして私はここにおります。もし仮に私がディアディムでないというのなら、きっと私は別の名前でこの城を生きていたのでしょう。その名が貴方にはわかりますか?」
「ミルファーク……では、ないのだろうな……」
その言葉に、ディアディムは柔らかに微笑んだ。
「オルロワージュ様。貴方にとって私は、無数に偏在するこの城のメイドに過ぎないのでしょう。そのくらいのことをわからない筈がありません。私は──私たちは貴方に魅了され、そして魂を砕かれた下級妖魔の一群に過ぎないのですから」
「……」
「私は貴方を責めに来たのではありません。権利もなければ、力もない。私はきっと貴方を愛したのです。貴方のことを、愛していた……。そして幸運なことに貴方の寵愛を頂いた私はその牙を受け、虜化によってミルファークと化した。私の心の弱さの、その責を貴方に負わせることはできません。しかし……やはり貴方は、私のことを覚えていてはいらっしゃらないのですね。記憶を失うその前、ミルファークとしてではなくただ一人の女として貴方に焦がれていたころの私の名を、もう一度呼んでは下さらないのですね?」
「破面の侍女よ。余は……」「……ごめんなさい」
オルロワージュの言葉を遮って、ディアディムは頬を濡らしながら頭を下げた。
「貴方の孤独を僅かでも癒すことが出来たら良かったのに、私にはそれが出来ませんでした。虜化に負けたのは、私の心が弱かったから。貴方のせいではありません」
「……ディアディム。そなたを救ってやれぬ無力を余は恥じる。だがしかし……なぜそなたはここにいるのだ。なぜそなたがアセルスを守る。そなたは零姫や黒騎士達とは違う。何らの力も感じ取れはせぬ。戦うことのできぬ者が、なにゆえ余の前に立つ?」
「なぜ、でしょう……」自分でも不思議そうにディアディムはアセルスの髪を撫でた。「私にもわかりません」
「道を開けよ、ディアディム。無力な者を強いて滅ぼす趣味はない。そなたが望むのなら、そなたの名を思い出すまで余の傍にいてはくれぬか」
「それはできない相談です。オルロワージュ様」
声が震える。綱渡りでもしているような気分でディアディムは言う。次の一言で自分は死ぬかもしれない。そう思いながら。
「なぜなら私の名はディアディム。貴方が愛した女を殺して、私はいまここにいる。貴方に恋い焦がれていた女はもうこの場にはいないのだから」
「そう、か…。いつか、全ては消えてなくなってしまう。全てはいつか失われてしまう……。だからだ、ディアディム。だからこそ余は、戦い続けなければならぬのだ」
「サガ・フロンティア。それがアセルス様の口にしたたわごとです。失ったものは二度と手に入らない。貴方の過去も、私の名も。……しかし、それとこれとはまるで別の話ではありませんか。アセルス様のお題目に屈することを、貴方は弱さだと捉えている。ちっぽけな慰めをかなぐり捨てて、たった一つの宝物に手を伸ばすことが強さだと貴方は言うのですか。……いいえ、いいえ、そしていいえ。それで“永遠”に勝てると私は思いません」
「そうか。本当にそう信じているのならば大したものだ。……しかし、ディアディムよ。そなたは仮面をつけている。割れてはいても仮面で素顔を隠すその心根は、つまるところ自らへの不審に根差しているのではないか。過去を失い、そなたは仮初のペルソナを求めた……。偽りの名、偽りの人格。それで自らを愛することができるならそれも良かろう。しかしならばなぜ、余に自らの名を問う。そなたには仮面を捨てられぬ。仮面を身に纏う、その象徴が示す意味をそなたは十分に理解している筈だ。ディアディムよ。心の底ではそなたもまた飢えているのだ。自らにひとときの名を付けたところで、しかしそれはつかの間の慰めに過ぎない。それは真実ではないからな。……余からもそなたに問おう、ディアディムよ。そんなものに縋りついて満足か? 自らが失ったものから目を背けておいて、本当に幸せになれるのか?」
問われ、ディアディムは自らの仮面を外し、素顔を晒した。両の瞳を外気に晒し、真っ向から妖魔の王を見据える。
「ならば、いまここにあるものは真実ですか? いいえ、違います。ここにあるのはまた別の物語に過ぎません。たとえ仮面を外したところで、手に入る真実などたかが知れている。女の被る仮面が真実でないと考えるのは殿方の拙い感傷ではありませんか?」
「ふむ……」
「教えてください。オルロワージュ様。貴方が何かを失ったその時その瞬間に、貴方の傍には真実があったのですか。自らの肉体に何の疑いもなく、自らが発する言葉一つ一つが純粋な真実に満ちていたと。過去でも未来でもない、たった一瞬の現在には、透き通った真実だけが偽りなく厳然と存在していると、貴方はそう仰るのですか? たとえ私が記憶を取り戻しても、そこにはまた別の嘘が潜んでいるだけです」
「多くのことを忘れた余に、過去を語る資格はない……。だが、確かにそなたの言う通りかもしれぬ。記憶を失う前の余が真実を手にしていたとは言い難い。自らの為すべきことは知っていた……が、零姫と出会う前、口説き言葉の一つさえ知らなかった余には確かなものなど一つとしてなかった。己の心を伝えるための言葉すら持ちえなかったのだ。あの頃の余には、真実などありはしなかった……」
その言葉を聞いて、ディアディムは悲しそうに顔を歪める。
「……何かを取り戻して、そして貴方はどうするのですか。失った記憶を取り戻し、“永遠”を打ち倒すことができれば、貴方は幸せになれるのですか……?」
「願いが叶ったその後に……か。考えたことはなかったな。余は、そうしなければならないと考えたからそうしているまでのこと。余自らが幸福を手に入れるためではない」
ディアディムは涙を振り払うかのようにきっと顔をあげた。
「そんな答えしか返すことができないのなら、なおさらここをどくわけには参りません。オルロワージュ様。幸福を手にする気のないものが、明日を願う若者を滅ぼしてどうするのです」
「……すまない、ディアディム」
オルロワージュは苦し気に言った。零姫に裏切られた時でさえこれほどの辛い顔を見せはしなかった。イルドゥンにその胸を貫かれてなお平然としていた妖魔の王が、何の変哲もない侍女を前にしてひどく苦しんでいる。
「それでも、余は退くわけにはいかぬ」
「……どうして?」
「約束した。誓いを立てた」
「誰と? 貴方はいかなる契りを結んだのですか?」
「余には、何もわからぬ……。だが、確かにいた。嘘ではなかった。遥か太古、時の彼方の向こう側で余は誓ったのだ。たとえどれだけの時が流れようとも失われぬものがこの世にはあると。立ちはだかる全てをなぎ倒して頂点に立ち、永遠はここにあるのだと高らかに宣言しなければならないのだ」
頑ななその言葉を吐き出して、しかしオルロワージュの表情は今にも泣きだしそうに弱々しく見えた。だから、ディアディムはとうとう説得を諦め、腕の中のアセルスをぎゅっと抱きしめる。
「──貴方の孤独に、どうかささやかな祝福がありますように」
小さな声で囁き、ディアディムは目を閉じる。
オルロワージュが歩みを進めると、強大な妖気にあてられたディアディムは緊張の糸が途切れたようにふっと気を失ってしまう。
後には、血の気の失せたアセルスだけが残された。力なく横たわり、無防備な命をさらけ出した乙女。
妖魔の王はゆっくりとその剣を振り上げる。
「──さらばだ、アセルス」
鈍い音が響き渡った。
振り下ろされた妖魔の剣。アセルスの脳天目掛けて振り下ろされたその刃はしかし、柔肌に届くことなく止められていた。
「……本当に、しつこい男だな、イルドゥン……!」
さすがにうんざりしたように罵り声をあげるオルロワージュに、割り込んだイルドゥンはしかし答える気力もないというように荒く息を吐き出した。顔を上げる力も残ってはいないのだろう、俯いたままアセルスを背後から抱き留め、身に纏う黒い外套の中に庇っている。蝙蝠の翼の如く広がった外套は主の不遜を体現するように硬質化し、激しく火花を散らしながらもオルロワージュの剣を防いでいた。
「何度アセルスを守れば気が済むのだ。もはや勝ち目など残されていないことなどそなたとてわかっていよう。なぜそうまでして生き急ぐ」
既に死に体のイルドゥンへ何の容赦も見せず、途方もない力を込めてオルロワージュは剣を進める。イルドゥンの全身が悲鳴を上げ、外套は無残に罅割れていく。血だらけの姿、蒼褪めた顔。瀕死のイルドゥンは項垂れたまま、腕の中のアセルスを守るためにぎりと奥歯を噛みしめた。今にも死んでしまいそうな弱々しいそんな姿の中で──しかし乱れた髪のその奥、イルドゥンの眼光だけが強く輝いている。
「どうせ放っておけば永遠に続く命だ」イルドゥンは言った。「時にはちっぽけな小娘のために命を賭けてみるのも、悪くはあるまい……!」
「……どこまでも余を楽しませてくれる男だ。そなたを友にできなかったことをこれほど悔やんだことはない。……だがこれでおしまいだ、イルドゥン。そなたの強情にもいささか飽きた。ここで引導を渡してくれよう」
妖魔の王の宣告に、イルドゥンは答えない。震え出した拳は緩み、全身から力が抜けていく……。
「まったく……どこまでも、面倒ばかりかける女だ……」
掠れた声でイルドゥンは毒づく。
「お前はいつだって、そうだ……。本当に、気に食わない……」
「呼びかけたところでその娘には何もできぬ。潔く運命を受け入れよ」
冷たく告げるオルロワージュに、やはりイルドゥンは答えない。もはやうわ言を呟くように息も絶え絶えに語り掛ける。
アセルス。
お前はやはり無力だ。
たとえお前が目を覚ましたところで何も変わりはしない。そんなことはわかっている。
所詮、言葉では何も変えられない。わかりあうことはできない。
アセルス。
お前は、馬鹿だ。
あまりにも愚かで、世界を知らず、この俺の感情をどこまでも逆撫でする。
だが……目を覚ましたお前はきっとこう言うのだろう。
変えて見せる。
運命を覆してみせると。
俺はそんな夢物語に頷くほど愚かではない。
しかしそれでもお前は諦めることを知らず、なおも戦い続けるのだろう。
そうに決まっている。
そうだ……。きっと、そういうことなのだろう。
俺にはわからない力がお前にはあり、この度し難い状況を一変させてしまえる。
そうだな、アセルス。
そうだと言って見せろ。
胸に抱くアセルスの体。何も知らずに気絶している半妖の乙女。痛みに呻きながらもイルドゥンは腹の底を蠢く衝動に身を任せ、感情を剥きだして口を開く。
こみ上げる激情にイルドゥンはとうとう叫んだ。張り裂けるような大音声で腕の中の女へと呼びかける。
「少しはしゃきっとしろ! 見ていて歯がゆいぞ! アセルス!」
◇
耳元で誰かが何かを叫んでいる。誰かが自分の名を呼んでいる。
うるさいな、と思った。そんな風に怒鳴らなくたって聞こえているさ。何をそんなに焦っているのだろう。せっかくいい気持ちで眠っていたのに。
どうしようもなく体が重かった。気怠い手足は鉛のように言うことを聞かず、ともすればまた寝てしまいそうになる。どこまでも意識が遠い。
アセルス、と誰かが言った。それは自分の名前だった。……誰かが、自分の体を抱いている。
温かいな、とアセルスは思った。なぜだか不思議に安心できる気がした。自分は誰かに守られているのだと理由もなく納得していた。ああ、温かい……。
旅をしている間も、こんな風に安心したことはなかった。誰かに庇われることはあっても、こうして確かな感触と共に守られているという実感を得たことはない。
アセルス、と誰かが叫ぶ。
うん。
わかってる。
すぐに起きるよ。
ただ、ほんの少し弱音を吐きたくなっただけ。
貴方の優しさがあまりにも温かかったから、つかの間の夢を見た。
でも、そんな気はないから大丈夫。
私は誰かに守られるためにいるわけじゃない。
イルドゥン。
ありがとう。
血が爆ぜるように乙女の全身を巡る血管が脈を打つ。鍵盤を跳ね上げるかの如く五指は暴れ、高く宙へと伸ばされた腕が空を掴む。
はっと意識を取り戻してアセルスは起き上がる。目の前にはオルロワージュの剣がけたたましい音を立てて外套に食い込んでいる。爆発的に襲う緊張にどっと冷や汗が流れ落ちた。振り向けば、傷だらけのイルドゥンがこちらを見下ろしている。
「やっと起きたか……この馬鹿が……」
辛そうに口を開いたイルドゥンにアセルスは言葉を失う。気絶していた間に何があったのか、そんなことを問う暇はどう見ても残されてはいない。
「アセルス」イルドゥンは言った。「何とかしてみせろ」
「……」
「何とかできるのだと、言って見せろ!」
逡巡したのは一瞬だけだった。
「ああ」アセルスは高らかに答えた。「見せてあげる。私が望む結末を!」
望み通りの返答にイルドゥンは笑みを零した。
「ならば、俺の血を吸え」
「血? 貴方の血なら、あの時、」
「あんなものを吸血とは言わない。俺が、俺の意志で血を与えるのだ。だから……勝て! アセルス!」
それは心からの言葉だった。偽りのないイルドゥンの台詞にアセルスは目を見開き、しっかと頷いて、そして──、
顔を上げ、イルドゥンの首を抱く。黒騎士イルドゥンの石化蜥蜴にも似た滑らかな肌。動脈の震えるその首筋へと甘き唾に覆われた牙が落ちていく。牙はがちりと肌をつかまえ、絹を裂くかのように容易く切り裂いた。噴き出す鮮血が口元を汚す。滴り落ちる血は宵闇に似て淡く、美しい蒼を宿している。
舌を伸ばし、肉を捕らえ、そして血を啜る。喉を擦り上げていく血の感触はあらゆる愛撫よりも淫らで甘く、満たされた獣の飢餓が歓喜の歌を奏でだす。ああ。零れ落ちた吐息は快楽に染まり、ごくり、血液を飲み干した喉がわなわなと震える。これがイルドゥンの血の味。憎たらしいほどに濃厚で、背筋の震えるほど鮮烈。そして──ああ、やはり自分は知っている。聞こえだす時計塔の鐘の音。ぼおん、と遠く幽かな鐘が鳴り響き、魂へと溶けていく。それは全能を掲げた化け物の記憶。それは一億年を生きる不死者の力。アセルスの髪はさっと解け瞬く間に蒼へと変わる。全身に刻まれた傷跡は煌々と明滅を繰り返し、かつて旅した足跡を明かそうとする。その色は深海に眠る
妖魔、アセルス。身に纏うドレスは人の鮮血よりもなお昏く、深紅の小手からは神秘の如く薔薇を散らせる魔性の乙女。右手には白薔薇姫の剣──萼十字。左手には倒れたイルドゥンを受け止め、優しく床に横たえる。悪戯な微笑みで口づけを落とし、その代わりに黒騎士のもつ外套──宵闇の
「──それが、妖魔としてのそなたの姿か、アセルス」
オルロワージュは感嘆に剣を停め、ふむ、と頷く。
「なるほど。これは確かに美しい」
「ありがとう、オルロワージュ。私もそう思う」
なんの羞じらいも見せずにアセルスは答えた。漲る衒気に躊躇いもせず自らを愛して、支配者の娘はくすりと笑う。
「待たせてしまって、ごめんなさい。これからは私が相手をするよ」
「そうか。それは助かる。さきほどはいささか無作法な決着を迎えてしまったからな。そなたとはやはりきちんと剣を交えておかなくては」
「違うよ、オルロワージュ」アセルスは言う。「交えるのは剣じゃない。言葉でしょう?」
「……まだ、そんな戯言を口にするつもりなのか、アセルス? 我々の交渉は既にして決裂したはずだ。……サガフロンティアだと? そんな言葉で納得する余だと本気で思っていたのか?」
「何がいけないのかな? 私はそれでもいいと思っているよ。貴方がそれを受け入れるというのなら、悪いことではない」
「あるいはそうかもしれぬ。だがな、アセルス。そんな言葉に頷くことができるなら、余も一億年を生きたりはしない」
「……私は勘違いしていたのかもしれない。貴方は……記憶を取り戻して救われたいんじゃない。慰めや気休めでもない。求めているのはもっと具体的な何かなんだね。かつて傍にいた何か。その心を注いでいた誰か。時計塔の鐘の音が舞い降りるその場所に佇む“運命”を」
「だとしたら、どうする。時を操り、余を過去へでも連れていくか。それとも剣を抜き新たな王となるか?」
「貴方はそればっかりだね、オルロワージュ。長年の倦怠を癒すため自らの挑む者を求めているだなんて、本当にそうなのかな。退屈を紛らわせると言って……本当は剣を抜いて斬りかかってもらわなければ相手を倒すことが後ろめたいんじゃない? それとも、ただ死に場所を求めているだけなのかな?」
「さて、どうであろうな」
アセルスの糾弾に、オルロワージュはどこか面白そうに答える。
「そう言われると余はまるで善人のようにでも思えてくる。だが無論、余は人ではないし善でもない。そのような説得が通じると思うな」
「そうだね。やっぱり、説得は難しいな。自分でも信じていないことを人に信じてもらうなんて、どだい無理な話だったのかもしれない」
「それでは、そなたは一体なにを信じてここに来た。そなたの言葉で余を変えられると──そう思ったのであろう?」
「最初に告げたあの言葉は、でも嘘じゃあないよ。サガ・フロンティア……。平和的に分かり合えるなら、それに越したことはないからね。だけどやっぱり、私にとってそれは全てではなかった。私にはまだ、貴方に言うべきことが残っていた」
アセルスは真正面から向き合い、そして言った。
「──私は貴方から白薔薇を奪うためにここへ来た。彼女のことを愛しているから」
しばらくの間オルロワージュは黙ってアセルスの持つ剣を眺めていたが、やがて肩を震わせて笑い出した。
「まさか余にそんなことを言う者が現れようとはな。これは傑作だ、アセルス。余の寵姫を奪う、だと。いかな妖魔とてそのような大言壮語を許したことはないのだが」
「……」
「その剣は白薔薇のものだな」オルロワージュの眼が鋭く光る。「妖魔の剣は主に従うもの……とすれば、白薔薇が力を貸すことを許したのか」
「さぁ、どうだろう……。そんな感じは全くしないけど」
「あれは劇薬だぞ、アセルス」
「知ってるよ。嫌というほど」
「そうか……。そなたがここへ帰ってきた理由がようやく見えたな。言葉による解決などよりもよほど肩入れしたくなる動機だ。目的が余のものでさえなければ」
「悪いとは思っているよ」
「そなたもまた面倒な心を手に入れたものだな。針の城から白薔薇と紅を連れ出したことを謝っておいて、舌の根も乾かぬうちにそれか? 妖魔の性もこれほどとはな。よくよく業の深い種族だ」
「どうして、こんなことになってしまったんだろうね。私にもわからない」
「必然であろう。白薔薇がそなたを見初め針の城からの脱出に同行したその時から、あるいはそうなるべくして運命づけられていたのやもしれぬ……。だが、おそらくはそれで良いのだ」
「……?」
「そなたや、そこに転がるメイドの言葉は余にとって毒となる。それくらいならば余の物を奪うと宣言し戦いを挑まれた方が、まだしも心安らかというもの。……剣を抜け、アセルス」
厳然と、オルロワージュは告げた。一切の甘えや韜晦を許さぬその命令に──アセルスは躊躇うことなく剣を抜いた。
空気が弾ける。爆発音と共に石畳が蹴り砕かれ、全てを切り裂く妖魔の剣が、その刃と刃とがぶつかり合う。
拮抗する剣の彼方と此方で視線を交わす妖魔の王と娘。オルロワージュは愉し気に吠え猛る。
「楽しいな、アセルス。やはり戦いは良い。もはやいかなる理屈もいらぬ。互いの全存在を賭けて生き残るために戦う、これほど純粋で美しい儀式が他にあろうか。勝ったものが自らの意を通す。勝ったものだけが自らの望みを手に入れる。ただそれだけのこと」
「いいや、違うね!」アセルスが叫ぶ。「何も手に入りはしない! 貴方にだってそんなことはわかっている筈だ!」
「そうかな? いや、わかるまい。結局、そなたは剣を抜いた。自らが求める姫のために戦うことを選んだ。……知っているか、アセルス! そなたはいま、微笑んでいる!」
牙を剥きだし、その悦楽を隠そうともせずにアセルスは笑っていた。戦いを──支配を求める妖魔の性に酔い痴れながら、しかしアセルスはまたどこか悲し気に顔を歪める。
「そうかい。あるいは、そうかもしれないね。私はいま、楽しいのかもしれない。それが妖魔の宿命なのかもしれない。でも、だとしたら……」
痛切な声を絞り出し、アセルスの剣が震える。
「どうして、貴方はそんな風に寂しそうな顔をしているの、オルロワージュ」
◇
「なに……?」
問われ、オルロワージュははっとする。何を言っているのだろう。自分は確かに笑っている。そうだ。今日ほど楽しい夜は無かった。自らを滅ぼしうる者──零姫、セアト、そしてイルドゥン。数多の強敵を薙ぎ倒し、こうして支配者を継ぐ娘と剣を競っている。長らく続いた退屈を紛らわすまたとない贅沢な演目だ。楽しい。それ以外の言葉は見つからない。口は開かれ、牙を剥きだし、肺から出た空気が声帯を震わせる。それが笑うという感情表出。確かに自分は笑っている。
「何を言っている。アセルス。余はこの戦いを思う存分愉しんでいる。余計な言葉で興を削ぐな」
「貴方たちはいつもそうだ。人の話を聞かない。綺麗な顔で支配だなんだと嘯きながら、眉間に皺を寄せて仮面の奥で泣いている……! ああ、そうだ。紅と貴方はまったくお似合いだよ。邪悪な妖魔なら幸せになりたいと言ってみせろ! 他者のことなんかどうでもいい、自分の欲望を満たすためだけに生き、ただ快楽の限りを尽くしたいのだと吠えてみせろ!」
「先ほどからそう言っている。余は余の為に生きる。余は悪徳をむさぼる妖魔の王だ。白薔薇を奪いたいというのなら、余を滅ぼす以外に道はない」
「馬鹿……」悔しそうにアセルスは言う。「そんなのは、殺してくれって言ってるのと同じことだろうに」
「戦いの果てに滅びるのならそれも良かろう。負けるつもりはないが。……いい加減に迷いを捨てよ、アセルス。そなたは白薔薇を奪うために来たのか? それとも余を説得するなどという夢物語にまだ縋りつく気なのか?」
「決まっている。そのどちらもだ」
「強欲だな」
「そうさ。私も妖魔だ。自らが望むもののために戦う、ただそれだけのことなんだ。……滅ぼしてなんかやらない。貴方にはみんなと笑ってもらう」
「他者に勝手な価値観を押し付けるな。余はそのようなことを望んではおらぬ」
「そんなことは知らない。貴方の気持ちだとか感情なんてどうだって良いんだ。私がそうしたいからそうする。それだけだよ」
「……そなたは恐ろしい女だな」
「ねぇ、オルロワージュ。このままいくと、どうも私は幸せになれないみたいなんだ。私たちが全員死んで、貴方が一人残されるか。それとも貴方が滅びて私が残るか。それがこの世の定めだというのなら、なおさらそんなものには頷けない。永遠……。途方もない時の流れの中であらゆるものは色褪せ失われていく。その中で妖魔の王オルロワージュの心は摩耗し、忘却と喪失とを繰り返したその果てに妄執に取り込まれ、自らの幸福すらも忘れてしまいましたとさ。……そんな物語、私は嫌だね。予定調和には加担できない。だから、そう……」
アセルスの声は低く、しかし遥か彼方まで響き渡る。
「──戦う理由が、私にはあるな……!」
アセルスは言う。
「思い通りのならないこの世の全てと、私は戦う。時の流れが全てを奪うというのならこれと戦い、言葉では分かり合えないというのならその理屈とも私は戦う。納得できないものの全て、ありとあらゆる運命と格闘し、支配してみせる」
「そなたはやはり何も知らないのだ。時が、永遠がどれほど強大で途方もない存在であるかを。無理もない。僅か百年にも満たないその短い人生で理解できよう筈もないのだ」
「笑わせてくれるよ。生きた時間なんて関係ない。一億年前の貴方なら、そんな言葉にはいそうですかと従うの? いいや、違うね。時計塔の鐘の音が私には聞こえる……だから、私は戦う。貴方の娘として、ここで引くことはできない!」
「娘、か……。そうか、娘とはそういうものか……」
ここに至ってようやくオルロワージュは理解する。目の前に立つアセルスがどうして自らに立ち向かおうとしているのかを。自らの娘が継ごうとしているものの名を。
ねぇ、オルロワージュ。
時間というのは、本当に、気が付くといつの間にかに過ぎてしまう不思議なものだね。
今日経験したばかりのことが、たとえば懐かしい人に出会ったり、嬉しいことがあったりしても、明日や明後日になればその心が薄れてしまって、いつかは忘れてしまう。大切だったことも何でもないことになって、飽きてしまう。
そんなのは、嫌だ。
私は自分の目に写る人くらいには笑っていてほしい。
そうでなけりゃ駄目なんだ。
だから私は戦う。
貴方を幸福にさせるため──、
たとえどれだけの時が流れ、どれだけのことを忘れようとも、心が亡びることはけしてないのだと証明するために。
その言葉に、オルロワージュは黙ったまま目を細めた。
「そうか」
優しい目で答える。
「今、わかった。不思議なものだな。父というものは……」
「オルロワージュ。私は……」「アセルスよ」
オルロワージュは静かに言った。
「辛く苦しい戦いになるぞ」
「……うん。わかってる。貴方を見ていればわかるよ」
「そうか……。ならばもう何も言うまい」
「うん……」
「これが、最後の戦いだ。アセルス。永遠に挑むというのなら……余を超えてみせよ」
その言葉と共に剣を構え、そして──、
妖魔がいる。
もとはといえば一幅の影絵。幼い子供が母を待つ寂しさに掌を遊ばせて生まれた一匹の犬畜生。獣に過ぎなかった筈の妖魔はやがて魔王となり、乙女となり、そして星に乗った。一億年の旅を得て妖魔の王となった獣がいま、自らが血を分けた娘と対峙する。漆黒の髪、漆黒の瞳。あまりにも昏い闇を内包したその姿は優雅にして閑麗。あらゆるものを切り裂く妖魔の剣を手に、待ち受ける死闘のために身を撓める。
妖魔がいる。
支配者の血を享けた娘。万魔に祝福されし半人半妖の姫君。赤薔薇の小手、白薔薇の剣、そして宵闇の外套。守護者たちの加護を身に纏い、永遠を継ぐべく王に戦いを挑む乙女。その瞳は今だ若く、しかしそれ故に瑞々しい魅力を備えている。それは精神の虚を撃つ淫魔の眼。辺境を目指して旅をし、数多の出会いを経た妖魔は、物語が一つではないことを知った。それは人魚姫に恋をした領主の話。それは自らを食らいつくすウロボロスの少女。英雄を志し正義を語る少年がいた。自らを忘れたスライムの姫がいた。その物語の中で、彼女はけして主人公ではなかった。人はみな、自らが主人公の物語を生きている。有り触れた物言いでもやはりそれは真実で、だからこそこうも言える。この世の誰もが主人公なら、物語に貴賤などない。もしも自分が一億年の物語に登場する端役に過ぎないのだとしても、物語を動かすには十二分に過ぎるのだから。人の数だけ物語があり、人の数だけサガがある。彼女はとうとう物語を語り出す。
さぁ、物語の話をしよう。誰もが逃れられぬこの世界の、時の流れの話をしよう。
妖魔の王。魅惑の君。妖煌帝オルロワージュ。
半妖。放浪の姫。辺境嬢アセルス。
妖魔たちの戦いはとうとう最終幕を迎える。
時は常に進み続け、巻き戻ることはけしてない。いつかこの世のすべては過去になり、物語になってしまう。あらゆる熱量は失われ、握りしめたはずの体温はむなしく掠れ散っていく。この世に真実は残らない。残るのは人々によって語られ、解釈の加えられた言葉、物語だけだ。
時間とはそういうものだ。物語とはそういうものだ。たとえば彼らが自らの物語の結末をどう望んでいたにせよ、時が進めばやがて物語は結末を迎える。
世界の全てはありふれて、妖魔と妖魔は剣を交える。外套をはためかせ、影と影とが交差し、やがて一方が倒れ、一方だけが立ち尽くす。
決着はついた。
時の流れの物語はいつでも、陳腐で、ありきたりで、くだらない終わり方を迎えるようにできている。
最期に残った者。勝利者となったものは──、