サガフロンティア アセルス編   作:おめかけ

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第三十六幕 そして星に乗る/獣が魔王になり、乙女になり、途方もなき時の流れの果て

 その日、浜辺には多くの漂流物が流れ着いた。

 動物の骨や単なる木片、使い古した銃に割れた仮面。陸の代わりに海を渡って旅を続け、そして滅びた無数の残骸。ここではないどこかからやってきたものたち。潮の流れに砕かれた漂流物はみな醜く薄汚れ、目にした者に眉を顰めさせる。けれどもそれは仕方のないことなのだろう。なぜといって、うら寂しく打ち寄せられたその有様は、誰からも愛されなかった、捨てられた、という証明に他ならないのだから。漂流物は愛を知らずにそこにいて、それからもなお無知のまま孤独に朽ちていくのだろう。

 そんな光景を何となしに眺めることがあったとしても、近寄ろうとは思う者はいないし、触ろうと考える者もいない。それは自分とは何の由縁もないただのごみに過ぎないのだから。

 しかし、たとえ自分にとってそうであろうとも、他人にとってもそうであるとは限らない。見る者が変わりさえすれば──たとえばそう、小さな子供がもしもそれらを見つけたら、たちまちのうちに漂流物は宝の山となり、夢幻の神秘をさえ孕みだすのかもしれない。獣の骨は月の笛になり、木片が伝説の武器になる。旅をしたというそれだけがあらゆる塵を物語へと変えていく。だって、そうだろう──どうしてわかる? それが本当に伝説の武器ではないと。

 その日、浜辺には多くの漂流物が流れ着いた。そんな浜辺を一人の男が静かに歩いている。夜の海は月光を吸って白々と澄み、あまりにも深い場所から響く潮騒が記憶を浚うように殷々とこだまする。

 ちゃぷり、と音がする。打ち寄せる波が素足を遮り、僅かな波紋が生まれるか生まれないかという具合で次の波にくしゃと砕かれる。

 あてもなくふらふらと海辺を散歩していた男はふと振り返る。いったいどれだけ歩き続けてきたのだろう、地平線の果てまでも続いているような己の足跡が暗く静かな波に少しずつ少しずつ削り取られては消えていく。

 海を見る。繰り返される波音が単調な律動を刻む。「余は」と男は言う。なぜそんなことを言おうとしたのか、そして何を言おうとしたのかさえも自分ではわからず、それきり口を塞いで波の滲んだ水平線に視線を飛ばす。

 言うべき言葉を見失い途方に暮れた男が海を見つめて黙りこくっていると、その背中にどん、と誰かがぶつかる。振り向き見下ろせば、そこには小さな女の子が赤くなった鼻をさすって「あ痛た」と涙目である。

「ちょっと、こんな所で立ち止まっちゃ、後がつかえてしまうでしょ」

 少女は腰に手を当て、おしゃまな口調で言った。こんなところ? 男はきょろきょろと周囲を見回す。何せ浜である。道などない。不思議そうにしていると、少女は得意げな顔をして「あのね」と教えてくれた。

「砂浜に足跡があるでしょう。これ、あたしが見つけたの。あたしはね、その上を歩いてるとこなの」

「……なぜ、足跡をなぞらねばならないのだ?」

 尋ねると、今度は少女が不思議そうに首をかしげる。そんなことは今まで考えもしなかったし、その必要もなかったのだろう。うんうんと頭を捻り、やがて天啓が降りたのか少女は先ほどよりも更に得意げな顔をして「あのね」と言う。

「足跡から落ちるとね、死ぬの」

「それはまた怖ろしい遊びだな」

 しみじみと答える男だが、少女は早くもじれったくなってきたらしい。「とにかく早く行ってちょうだい」と男の尻をぐいぐいと押してくる。だが残念なことに、男にはそのお願いに答えてやることができない。

「すまないが」と男は言った。自分はどこかに向かおうとしているのではない。この道はここまでだ。夜も遅いことであるし、足跡を歩くのはもう止めにして自分の家に帰りなさい。

「そんなの、いやよ」

 少女は断固として首を振った。少女があまりにも頑固なので男は困りはて、仕方なく少女の頭を撫でた。

「どちらにしても、もうここに道はないのだ」男はしゃがみ、少女に視線を合わせる。「そなたはそなたの道を探すしかあるまい。だが、それはそれで楽しいはずだ。まっさらな砂浜に自分だけの足跡を残していく。自分で行く場所を自分が決める。それは旅の始まりだ」

 少女は腕を組んで考える。なんだか騙されているような気がする、なんだか悔しい、そんな顔をして男を睨み、うんうんと唸り続けてしかる後に色々と面倒くさくなったのか、呑気な顔で「そうかも」と笑った。

「では、行け」

 そう言って背中を押すと、何が楽しいのか少女は両手を広げて「わーい」と駆け出していく。少し進むと砂に足を取られて転んだが、根は強い子なのだろう、特に泣き出したりはせずにまた走り出した。

 男はしばらく少女の後ろ姿をじっと見ていた。やがてその姿までもが地平線の向こう側へと滲んでいくと、理由のわからない安心がこみ上げてきてほっとした。

「ああ、これでいい……」

 そう言って男は少女とはまた別の方へと歩き出した。波が足元を濡らしていく。足跡はもう残らない。

 あてもなく、夜を視ていた。その夜の光景が美しいかどうかは男にはわからなかったが、しかし海は静寂に静まりかえっており、頬を撫でる風はとても心地のよいものだった。

 一人の女がこちらへと近づいてくるのに男は気づいたが、しかし強いて振り向こうとは思わない。黙って海を眺めていると、女は男の傍に寄り添って「ああ」とため息をついた。

「なるほど。これは美しい夜空じゃな」

「そうなのか」

「そうなのか、ではなかろう。おぬしはいったい何を見ていたのじゃ。夜の海に浮かぶ空を愛でていたのではないのか」

「……ただ、見ていただけだ。美しいも何もない。なんとなく見ていただけだ。特に意味はない」

 そうか、と言いかけた声が震えて、女は不意に意味もなく泣きだしそうになって慌てる。

「しかしなぁ」声を湿らせて女は小さく囁いた。「それでも、この夜空を見ようと思ったのはそなた自身の心。要するにそれは美しいと思ったのと同義ではないか」

「……そうか? あるいはそうかもしれぬな。よくはわからないが」

「きっとそうじゃ。そうに決まっておる」

「そうか」

「そうじゃ」

 そう言うと、男と女は黙って同じものを見つめた。肩を並べ、同じ風を頬に受け、波音に取り巻かれるままに海を見つめる。

 なぁ、とやがて女は言った。

「色々とあったが……、そなたは本当に駄目な男じゃな。浮気はする、妾が言ったことはすぐに忘れる、部下には裏切られ、いちいち余計な土産物を買い込む。そなたのせいで妾の寿命は凄まじい勢いで伸びたり縮んだりしたぞ」

 そう言うと女は何かを期待してじっと男の顔を見ていたが、男が「ああ、そうだな」としか答えないのでしまいには口を尖らせて不貞腐れながらぼそりと呟いた。

「しかし──そなたは良き夫であった」

「……」

「なんやかんやで。瀬戸際の崖っぷちで。妾のあまりにも寛大な心によって。……まぁとにかくそういった諸々を踏まえた上で、そなたは良き夫であった」

「……」

「ありがとう、と言え」

「……」

「……おい。忍耐にも限界というものがある。そなたに口があるのなら今すぐにでも」「零姫」

 不意に、男は女の名前を呼んだ。

 男は遠い目をして、夜ばかり見つめている。夜の、銀河にたゆたう星の明かりを一心に見上げ、もはや地上を見てはいない。

「そなたには迷惑ばかりかけたな」

「……ああ」

 しみじみと答えた。胸をこみ上げる熱い思いにとうとう涙を零し、女は肩を震わせる。

 男の言わんとしていることが、語り出した台詞の意味が女にもわかった。

 いま、この場で語られようとしているのは死なのだと。

「そなたが第一の妻で本当に良かった。そなたでなければ、この場所に立てはしなかった」

「オルロワージュ……」

「零姫」男は言った。「余は、いま笑うことができているか?」

 女は涙で掠れた視界の向こうに男の顔を見る。男の顔は、なるほど確かに微笑んでいるように見えた。慣れていないのだろう、どこかぎこちなく強張ってはいたが、しかし確かに笑っている。

「いつか心が滅びたら、子供のように涙を零して死んでしまえばいい。かつて白薔薇に言われた言葉だ。しかし余に涙はない。だとするならば、やはりここは子供のように笑みを浮かべているべきなのだろう」

「我々はもはや何も知らぬ童ではない。無垢になど笑えはせぬ。だが──確かにオルロワージュよ。おぬしは微笑んでおる」

「そうか……。ならば、良い。一億年の果てにこうして滅びを受け入れられるなら、それは重畳というもの。この死に顔を白薔薇に見せてやれないのが残念だ」

「せっかく……せっかく、こうして再び並び立つことができたというのに……。どうして、おぬしは!」

「それが時の流れだ、零姫。時は経った。ただそれだけのこと。以前の余ならばけして口にはせぬ言葉だが、これはこれでなかなか悪くはない感情だ。……何かを失ったからではない。敗北でも、絶望でもない。アセルスがいる。だからきっと、これで良いのだ。余はいま、微笑んでいるのだから」

「ああ、ああ……」

 次から次へと溢れ出る涙を両手で拭い、子供のように泣きじゃくる。涙に視界は歪み、こみ上げる嗚咽にしゃくり上げたその時、愛している、ふと聞こえた男のそんな声に、女ははっとして顔を上げた。

 

 もう、男は見えなくなっていた。

 

 男がその場にいた、という証拠はいつのまにかになくなっている。足跡はない。匂いも影もありはしない。その代わりに、無数の蝶が空へと昇っていくのが見える。翅に月光を享けて風に乗り、小さな蝶がふらふらと頼りなく天昇する。天に輝くその月へと蝶は舞い、やがて星に乗る。

 後にはもう、何も残されてはいなかった。

 空を見上げて女はひときわ長い嗚咽を漏らし、そして悔し気に言う。

「馬鹿が……本当に、本当に、馬鹿な、男……」

 一億年を生きた不死の怪物──妖魔の王オルロワージュはこうして滅びを迎えた。

 

 

 

 

 夢の話をしよう。

 魔王が目を覚ますと目の前には乙女が同じように寝ていて、「んが」と言いながら涎を垂らしている。相変わらず寝相も悪い。じっと見守っていると乙女もやがて目を覚まし、こちらに気づいて「へへ」と笑った。

 

 ねぇ、あたし、すんごい夢を見ちまったわ。

 ほう。

 あのね、あなたとあたし一つになって、オルロワージュっていう妖魔になってね、世界中を旅して回るの。色んな人や色んなものと出会って、……そりゃ、時には嫌なこと苦しいこともあるけど、でもやっぱり最後には大団円。ハッピーエンドを迎えたわ。本当にステキな、夢みたいな夢。

 そうか。それは良かったな。

 わんちゃんはどんな夢を見たの?

 余は夢を見ない。

 そう……。なんだか、さびしいね。

 ……。

 ……あのね。

 なんだ。

 あたし、明日死ぬの。

 ……そうか。

 いままで、黙っていてごめんなさい。あなたとあたし、もうこれでお別れなのよ。……さよなら。

 ……。

 

 何故だろう、突然そんなことを告げられて、しかし魔王はあまり驚きはしなかった。むしろそれは、ずっとずっと前から知っていたことのような気がした。だから、そのとき魔王が感じるのは死という運命に対する驚愕や悲しみではなく、どこか茫洋とした既視感なのだった。

 何だろう、と魔王は思う。同じようなことを前にも考えた気がする。……そうだ。自分はなにか彼女に言おうとしていたのではないか。確かにそんな気がする。

 でも、それは何だったろう。

 不意に、とてつもない恐怖が沸き上がってきた。

 思い出せない。何か言わなければならないことがあったのではないか。自分にはきっと言いたいことがあった筈なのだ。……それなのに、言うべき言葉がどうしても見いだせない。自分の心がわからない。どうすればいい。

 押し寄せる焦りに頭が混乱する。

 彼女は明日、死ぬのだという。魔王にだってその意味くらいはわかる。明日になれば死んでしまう乙女には、今日でなければ告げられない。たった今言葉を口にしなければ、永遠に届かぬまま終わりになってしまう。

 自分には言わなければならないことがあった筈なのだ。とても大切なことだった筈なのだ。……それなのに、自分はどうして忘れてしまったのだろう。そんなのはあんまりではないか。あまりにも悲しすぎるではないか。

 魔王は必死になって考えた。しかし魔王は言葉を知らない。だってそうだろう、魔王は魔王なのだ。影絵の犬として敵を殺していればそれですべては済んだし、淫魔たちと絡み合うのだって言葉など要りはしなかった。命令すれば誰もが願いを聞いてくれた。自分を脅かすものなど何一つなく、自分は無敵で全能の王だった。言葉を選ぶということなど魔王の生き方には存在していない。仮に知っていたとしても、いまこの場でその言葉を口にできたかは疑わしい。なぜと言って、その感情は愛と呼ぶほど美しくはなく、恋と言うには儚すぎた。淡く切ない思いではあったが、具体的な形にはなっていなかった。魔王はまだ、何も知らない。獣である魔王には知る由もないことだ。

 待て。……待ってくれ。言葉に詰まりながら懸命に懇願する。乙女は困ったように微笑んでいる。待ってくれ。まだだ。何かあるはずだ。だってそうだろう。何も言えないなんて嘘だ。死に物狂いで頭を捻り、考えに考えて堂々巡りを繰り返したその挙句に、どこでどういう筋道を踏んだのかはわからないが、ふっと言葉が心の中に降りてきた。そうだ。

 

 友達に、なってくれ。

 ……友達?

 

 乙女は不思議そうに首をかしげる。

 

 そうだ。友だ。

 ……あたし、明日には死んじまうのよ。友達になんてなって、どうするの。

 わからない。だが、いま、ふとそう思ったのだ。……そうだ。余は……余は、寂しい。どうしようもなく、寂しくてたまらない。だから、友達になってくれ。傍にいてくれ。

 

 魔王は、やっぱり何も知らないのだった。友達というのはもちろん、「友達になりましょうね」と言って手を繋ぐようなものではないし、たった今からは友達でそれ以前は友達ではなかったということでもない。

 でも、もちろんそれは、だから幸福になれないということでもないのだった。

 魔王の願いを聞いて乙女はそっと微笑み、しゃがみこんで両手を広げるとこう言った。

 

 

 ──おいで。

 

 

 魔王は乙女の腕の中へおずおずと進んでいく。小さな両手に抱かれそっと体重を預けると、全身が暖かな気持ちに包まれた。二人の体温が溶けていく。

 ああ、ずっと──気の遠くなるほど長い間、焦がれていたものがいまここにある。

 もう、けして離しはすまい。

 

 旅に出よう、と魔王は言う。時間がどれだけ残されているかなど関係ない。夢をこの手に掴めばよい。乙女のスカートを咥えて強引に引っ張っていく。星間船発着場へ行き、おとなの切符を買って船へと乗り込む。星間船の窓にぴったりとおでこをくっつけて、乙女は初めて見る星々の海に興奮する。

 

 すごい、すごい。なんて綺麗なのかしら。

 まだこんなものではない。この世には、この星よりも綺麗なものがたくさんある。

 あたしたちはどこへ行くの?

 まずはファシナトゥールへ。そこには美しい妖魔がたくさんいる。アセルスという変わった娘、イルドゥンという偏屈者、そして零姫という世界一の美女がいる。

 それから?

 気高い赤かぶがいる星がある。仮面をつけたメイドの星がある。占い師ばかりの星、四畳半の星、時の止まった星、未開拓の星、熱い星、寒い星……。全部、そなたに見せてやる。

 楽しみだわ。

 ああ、楽しみだ。……本当に楽しみだ。

 

 魔王と乙女は頬を寄せて窓の外を見つめる。

 そこには途方もなく広がる星々の海が無限に輝いている。もう、不安なことなど何一つない。二人は顔を見合わせ、そして同時に笑う。

 

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