女の見つめる先で時を刻み続けていた時計の秒針は、不意にその動きを停めた。
闇の迷宮、その深奥。
光の差さないその場所に白薔薇はいる。時の凍り付いたその場所で訪れるもののない隔絶を受け、しかし素知らぬ顔で姫は階段に腰かけていた。その表情に囚われ人が浮かべるべき焦りや絶望は見られない。静まり返った水面の如き涅槃寂滅の姿は、魂を持たない人形の如く美しい。
迷宮の姫は待ち人が現れるのをずっと待っている。焦がれているのではない。待ち望んでいるわけでもない。ただ結末を──投げかけられた問いの答えを、白薔薇姫は待っている。果たしてこの場所へたどり着くのはどちらなのだろう? そう考えて仄かな笑みをもらし、黙したまま語らない。
それは人間にとってはあまりにも長く、しかし妖魔にとっては瞬きにも等しい時間だった。視線の先で針を進ませていた時計に亀裂がはしり、見る間に崩壊していくその有様に小さな吐息を漏らし、姫は物語を読み上げるように呟く。
「──滅びたのはオルロワージュの方か」
時を刻む時計が止まり、ようやく時は流れ始める。音を立て時計の群れが砕け、四方を覆っていた闇は無残に剥がれ落ち──そして、漆黒の帳の向こう側から太陽が昇る。眩しいほど煌々と照らしだされた闇の迷宮が痛みに身をよじるようにして軋んでいく。差し込む日光は宙を舞う粒子を、その時をなぞり上げた。
迷宮が光輝くとき、姫はそっと目を細めて地平線を眺めていた。遥かな先──この世の果てから小さな人影が近づいてくる。腰に二振りの剣を提げたその女──緑髪の半妖アセルスは朝日を背に、神々しいほどの光を伴って悠然と足を進めた。
白薔薇はそんなアセルスをじっと見下ろす。玉座に深々と身を下ろす女王が如くその態度はどこか尊大で冷たい。値踏みにも似た透徹した瞳で視線を投げかけ、白薔薇は唇の端に幽かな笑みを浮かべた。
姫の眼前へと辿り着いたアセルスは自らが持つ剣の内の一振り──白薔薇の剣を手に取るや無造作に投げ渡してきた。剣を受け取り、白薔薇はその剣が辿ってきた戦いを慈しむように刃に指を滑らせていたが、やがてアセルスの腰に残ったもう一振りの剣に目をとめた。
「その剣は?」
「セアトに借りたんだ」アセルスは答えた。「イルドゥンには嫌だといって断られたよ」
「あの方らしいですね」
くすりと白薔薇は軽やかに笑う。
それきり、二人の間には沈黙が降りた。再開の暁にはこうもあろうああもあろうと予想し、温めていた言葉の一つや二つをその胸の内に秘めてやってきた筈の者たちがしかし、目と目を合わせて何も言わず、口を噤んだままでいる。
アセルスを見下ろす白薔薇姫の眼。
白薔薇姫を見上げるアセルスの眼。
見つめあい、けして逸らすことなく結ばれた視線が唇よりも雄弁にその意思を物語る。
譲れないものがあってここへ来た。けして頷くことのできないもの、ともに天を戴くことのできない性を負ってたった今ここにいる。
「私は」白薔薇がぽつりと言う。「貴女を憎むべきなのでしょうか、アセルス様?」
「あるいは」アセルスは答える。「望んでやったことではないとはいえ、結果的にオルロワージュは滅びた。……あのひとは微笑んで消えていったそうだよ、白薔薇。そこだけを切り取ればそれは美しい物語なのかもしれないけれど、でも貴方や他のひとにとってはそうではないんだろう。こんなことになるだなんて思ってもみなかったよ。私は私が望むもののために正義だとか救いだとかいう御託を振りかざして父親を殺してしまった。きっとそういうことなんだろう」
「“こんなことになるだなんて思ってもみなかった”……? 本当にそうですか? 少し考えれば貴女にだって理解できた筈。オルロワージュはあまりにも弱い男。たった一つのちっぽけな意地に縋りついて一億年の悠久を生きていた男が救われてしまったら、後は滅びる以外にないではありませんか」
「……そうだね。そうかもしれない。困ったな。また嘘をついてしまった。そうか……確かにそうだ。私はこの結果を予想していた。認めるよ。私は進んであの人を滅ぼした。──でもね、白薔薇。私は後悔なんてしないよ。反省もしない。そんなことをするのなら、最初からやらない。もう貴女にだって謝らないよ」
「それが貴女という妖魔の在り方というわけですか」
「妖魔、か……」
呟いて、アセルスはのんびりと空を見上げた。闇が終わり、朝を迎えた迷宮の眩いほどの暁。燦燦と輝く朝日は何かが始まる予兆に満ちている。
「これから……何が起こるのかなぁ」
誰に尋ねるでもなく独り言のように言う。
「あのひとがいなくなって少しは妖魔の力が薄れてきたような気もする。……でも、依然として私は私のまま。周囲の人間全てが老いていくなかで私一人が生き続けてたら、それはやっぱり辛いことなんだろうなって思うし、かといってこの力を完全に捨てる気にはどうしてもならない。私の望みを叶えるために、これは必要な力だ。……不思議だね。妖魔が妖魔の性に殉ずるものだとしたら、この私もまたいつの間にかに妖魔の血の虜となっているのかな」
「……貴女にはまだ、わからないでしょう。千年を、一億年を生きることの悲しみがどれ程のものか」
「貴女が言っているのはオルロワージュの悲しみのこと? あの人にはあの人の、私には私の感情がある。ただそれだけだ。私は誰かの悲しみが完全に理解できると言うほど自惚れちゃいないよ。……貴女はどうなの? 白薔薇。私にはわからないといった貴女なら、オルロワージュの悲しみを理解しているの?」
「いいえ、アセルス様。私はあの人の悲しみを横から眺めていただけです。物語を読み上げるように……そこに“解釈”というものがあったとしてもやはりそれは理解ではありません。私はただ、貴女がたが足掻く舞台を形作るだけの語り部。物語を読むものは、それが虚構であると知っている。貴女だってそうなのですよ、アセルス様。貴女も所詮は私が読み上げる物語の登場人物ではありませんか。貴女が苦しむのを眺めているのはとても楽しかった……。貴女がそれを許して下さるというのなら、私は貴女の傍にい続けましょう。貴女という妖魔が新たな一億年を生き、数多の忘却と喪失を繰り返したその挙句をお隣で心の書物に記させて頂きます。それでもよろしければ、私は私が愛する物語のキャラクターとして貴女を受け入れることができるとは思います」
挑発するような白薔薇の言葉に、しかしアセルスは動じない。
「物語……ね。この物語はどこへ行くのかな。私という半妖の物語。もう、私は誰にも遠慮しない。私は私の望む世界のために戦う。戦う理由が私にはある。それは誰もが笑っていられる世界。物語が必ずハッピーエンドを迎える世界だ。悲しい結末なんか認めない。でもたぶん、それはきっと……」
「貴女は“魔王”になるつもりなのですね」
短く、そして鋭い声で白薔薇は告げた。アセルスは寂しそうに笑い、そして頷く。
「そういうことになるんだろうね」
「それでもあなたは構わないと?」
「もしも本当に誰もが笑っていられる世界を求め続けたら、いつか私はこう考えるのかもしれない。『迷っている間に誰かが死んでいくのなら、この牙を全人類・全妖魔に打ち込んででも笑顔に』って。それはきっと、魔王でしょう。あるいはオルロワージュよりも最低最悪の支配者に私はなるのかもしれない。でもそれは、やっぱり仮定の話なんだよ。起こるかどうかもわからないもののために絶望するほど私は暇じゃない。仮にもしそうなってしまったとしたらその時はただ私が滅んでいくだけのことだし、そうでなければイルドゥンがきっと私を殺してくれるだろう。……私はしばらくこの道を進んでみるよ、白薔薇。いつか迷うこともあるだろうけれど、また旅を始めようと思う。……そうだね、貴女がどうしてもその旅の記録を書き留めたいというのなら、私の傍においてあげてもいいよ」
不敵に言い放つアセルスに、白薔薇はまばたきと共に驚きの声を上げる。
「……貴女にそんなことを言われる日が来ようとは。いささか新鮮な感動さえ覚えます」
「だって、貴女を愛してる。貴女が欲しい。でも、物語の登場人物としてというのはどうにも癪だな」
「ですがアセルス様。語り部が登場人物と結ばれることがあると思いますか?」
「それは思い上がりだよ、白薔薇」アセルスはきっぱりと答えた。「自分だけが物語の外側にいて安全な所から余裕綽々で眺めているだけなんてさ。ひとはみな自分という物語を歩む旅人なのだ……って、それは陳腐な物言いかもしれないけど、でもやっぱり、私たちはそこから逃げることはできないんじゃないかな。
白薔薇はその言葉を聞くとふっと目を細め、穏やかな微笑みを浮かべた。
「……強く、なられましたね。アセルス様。以前はこの迷宮で泣き喚くことしかできなかった貴女が。つまるところはそれが貴女の性分というわけですか? 貫き通したエゴの向こうで、果たして望みの物を手にすることができますかしら」
「さあね。どのみち、やってみなけりゃわからないんだ。今はとにかく前に進むだけさ」
「勇ましいお言葉。その言葉で何もかもを支配することができたならさぞかし世界は美しく、かつまた愉しい舞台となることでしょう。……しかし、アセルス様。現実はそうではありません」
残酷な笑みと共に白薔薇の表情に僅かな嘲弄が浮かぶ。
「私は貴女を否定します。アセルス様」白薔薇は言った。「言葉だけで何もかもが救えるだなんて虫唾が奔る。貴女がどれほどの真実を口にしても私にとってそれは詭弁。貴女が幾重もの口説を弄したところで私にとってそれは薄っぺらな台詞に過ぎないのです。なぜといって、それは当たり前のことでしょう? 魔王オルロワージュを倒して世界は平和になりました、そんな物語を繰り広げておいて貴女は臆面もなく私の前に現れた。目に浮かぶようです。あまたの寵姫たちが、金獅子姫が、そして零姫までもが口を揃えてこう言うのでしょう。『オルロワージュが滅んだことは悲しいことだ。だがあの王は満足して死んでいった。自らの永遠を継ぐべきものが訪れたことを知り、希望を胸に死ぬべくして死んでいったのだ』と。……そうして、みんな、いつかあの男のことを忘れてしまう。一億年もの悲しみをハッピーエンドで塗り固め、何もかもを無かったことにしてしまう。 ……そんなのは、嫌です。アセルス様。だって、オルロワージュの悲しみは何一つ報われていないではありませんか。まだ何も思い出していない。忘れてしまった大切な何かを再び目にすることもなく、都合の良い嘘で自分を騙して死んでしまえばそれで大団円なのですか? 下らない予定調和に手を貸す気にはなれません」
「……白薔薇」
いたわるようなアセルスの言葉に、白薔薇姫は珍しく感情的に口を開いた。
「イルドゥン。零姫。そしてセアト。……どれだけの者が貴女に魅了されようとも、私にそれは当てはまらない。貴女の言葉に心を動かされるほど私は優しい女ではありません。……貴女がもしこの世全てを笑顔にしたいと願うのなら、私はその天敵となりましょう。言葉などけして通じず、明らかな悪意と憎悪とをもって立ちはだかる敵として」
白薔薇は剣を抜き、呪文を唱えるように呟く。
「すべての者は分かり合えない。生きとし生けるあらゆるものはこの世の誰とも似ていない。それこそがこの世の定め、この世の法。さぁ、どうしますかアセルス様。私という邪悪を打ち崩す言葉が貴女の胸の内にありますか?」
「そう言われてみると」アセルスは答える。「無いような気もするね。戦う理由が、私には無い……。私はただ貴女が好きなんだと言いに来ただけだから、そこには大義も理想もない。オルロワージュと戦った時のように、誰かを救うだなんていうお題目もありはしない。……だからさ」
アセルスは左手を腰の剣へと這わせる。
「今回ばかりは剣に頼ってみようか──なんて、考えていたりはするよ」
「ふ……」
アセルスの剣呑な言葉に、白薔薇は明確な嘲りに口元を歪める。
「貴女の覚悟はその程度というわけですか。綺麗事を口にしておいて、都合が悪くなれば簡単に引っ込めてしまえるものを理想と呼ぶのは欺瞞では? 誰とでもわかりあいたいだなんて嘯いておいて、貴方は結局都合のいい操り人形が欲しいだけなのです。それならば最初から剣を抜いて闘うことです。言ったでしょう? 聞こえの良い台詞を口にして誤魔化すくらいなら、たった一振りの剣をかざして戦いぬくことの方がずっと純粋で美しいと。貴女はいつまでたっても中途半端ですね、アセルス様」
「何しろ半妖でね。仕方がないところなのさ。人としての善と、妖魔としての悪とを秤にかけて、そのどちらもを選んだから私はいまここにいる。私は綺麗な言葉が好きだよ、白薔薇。だから理想だって叫ぶし夢みたいなことも言う。……でも、だからといって私はそれが全てであるとも思わないよ。なぜと言って、それはあくまでも“言葉”だからだ。語りうるものの全てが物語なら、信じることの全ては物語のように美しくそして虚構に満ちている。だからいま──私は剣を抜く」
陶酔に瞳をうっとりと蕩かせてアセルスは剣をゆっくりと引き抜いた。妖魔さえも切り裂く幻魔の剣。借り物の刃にいまひとたびの悪を浸して、彼女はとうとう愛する者と対峙する。
「なぜ──貴女は笑うのですか?」
アセルスの口元に浮かぶ小さな微笑みに、白薔薇姫は小さな苛立ちを覚えて声を上擦らせる。
「決まっているでしょう」アセルスは言う。「むきになっている貴女を見るのが楽しいからだよ」
「な……」
言葉を失う白薔薇に、アセルスはくすりと声を漏らした。
「貴女の弁を借りるなら、私が気に食わないというのなら何も言わずに斬りかかってくればいい。わからずやのイルドゥンみたいにね。……でも、貴女はそうしなかった。くどくどしく言葉を重ねて挑発しようとするのは、私に魅了されているのを認めるのが怖いからじゃないのかな。好きだって言ってごらんよ白薔薇。私のことを愛していると」
「……どこまで自惚れれば気が済むのですか。妖魔の王でさえそこまでは言いませんでしたよ」
「最近の私はすこぶる馬鹿なんだから仕方がないじゃないか。自分のことを好きになってしまったら自惚れもするしこうして臆面もなく愛の言葉を吐きもする。恥ずかしいけど、これはこれでなかなか悪いものじゃない。私は私を愛している。だから、私は剣を抜く。この牙を貴女の首筋に打ち立て、その心を頂戴することにするよ」
「そんなことをして何になるのです。貴女にはわかっている筈。それで手に入る心などありはしないと。この私を虜としていったい何が変わるというのです」
「物語が始まる」
きっぱりと、アセルスは言った。
「私と貴女は最後までわかりあえないのかもしれない。いつか私たちは憎みあうのかもしれない。全てを忘れてしまうかもしれない。でも、それはまだ誰にもわからないことなんだ。物語の結末を誰もが知らない。誰も知らない世界の果て……手つかずの
物語が始まったとき、貴女はどこにいたの? 私はいま、ここにいる。そう言って、アセルスはまっすぐに白薔薇姫を見つめた。
◇
この女はいったい何を言っているのだろう。困惑に白薔薇は口を噤む。なぜこれほど痛烈に否定と罵倒とを浴びせられておきながら『愛している』などと平然と口にできるのだろうか。
本当はどちらでも良かった。生き残るのがオルロワージュであれアセルスであれ、滅ぼした者にその責を負わせて苦しめればそれでいいと思っていた。オルロワージュを愛していた。だから、その怒りと悲しみとともにアセルスを傷つけ、苦悩する彼女を眺めることができるならそれでも構うまいと思っていた。だが思惑は外れ、アセルスはぬけぬけと愛の言葉を口にする。この女が始めるという物語とは、あまりにも訳が分からないものに思える。
もういい。
うんざりだ。
そう考え、白薔薇は口を開いた。『貴女など愛してはいない』そう言えば少なくとも何がしかの決着がつくのだろう。たとえその後で吸血を許し虜化を受けるのだとしても、魂では逆らっていたのだと証明することができる。そうだ。それでいい。愛する者の心を力ずくで歪めてしまったアセルスがやがてオルロワージュのように絶望するのを待てば良いだけだ。さほど長い時間ではない。これまでと同じように語り部として支配者の傍らに侍っていればいい。何も変わりはしない。ああ。そうだ。
「私は」白薔薇は言う。「貴女のことなど、」
──単純で純情なアセルスを弄ぶのは、枯れた私の心にも久しぶりに楽しいという感情を思い出させてくれた。若く愚かなアセルスの、瑞々しく甘ったれた言葉に対して時には頷き時にはからかい、まごつくアセルスを笑うのは楽しかった。
「……」
不意に強張った舌が己の意に反して動きを止め、背筋がぞくりと震えた。首筋の傷が疼く。それはまだ出会ったばかりの頃、拾ったばかりの犬を太らせるために無償の愛を投げ与えていた記憶。
何故だろう。愛していないと、その一言を口にすれば終止符の打たれる物語だのに。どうしてたったその一言が言えないのか。
こみ上げてきた感情は純然たる恐怖だった。悦びでもなければ快楽でもなく、まして安堵でなどあるわけもない。ただ、白薔薇姫は怖れていた。
「……アセルス様」白薔薇は顔を上げ、困ったように囁いた。「私は怖いのかもしれません」
「怖い?」
「貴方に愛されることが。貴方を愛してしまうことが」
「……どうして?」
尋ねられ、白薔薇は途方に暮れたように力なく微笑み、小さく囁いた。
「──幸せになってしまいそうで」
「白薔薇……」
「──そうしたら私、きっと忘れてしまいます。オルロワージュの悲しみを。かつて愛したあの
白薔薇はまっすぐにアセルスを見つめた。その瞳にはもう、嘲弄や侮蔑の感情は込められてはいない。ただ純然たる決意を秘めて、白薔薇姫はアセルスを見据える。
「思えばオルロワージュは──あの『父親』はどこまでも優しいひとだった」アセルスはゆっくりと言う。「考えの違いから戦うことになりはしても、オルロワージュは私を憎んではいなかった。でも、貴女は違う。貴女ほど明確な意思と論理をもって私を否定した者はいない。『戦う理由がある』──か。そうだね、白薔薇。その通りだよ。貴女の言っていることは正しい。貴女こそが、私の敵……。まごうことなき私という妖魔の天敵だ」
「……どうやらそのようです。アセルス様。最後に立ちはだかるはこの私。貴女という魔王の、その野望を打ち砕くために……私は今一度この剣をとりましょう」
そう言って、白薔薇姫は自らの剣──咢十字を抜き放つ。
ああ。
認めよう。確かに自分には、愛していない、その一言を口にすることはできない。であるとするならば後はもう、運を天に任せる以外にないではないか。
戦う以外に道はない。
戦って勝利し、アセルスを滅ぼすしかない。
勝てばいいのだ。彼女に打ち勝つことができるなら、あらゆる悲劇を永遠のものにできる。
そしてもし、敗北してしまったそのときは仕方がない──自分はきっと、この女を愛してしまう。
戦わねばならない。己の全存在、全感情を賭けて
窮地を切り抜けるため剣を抜くなど何年ぶりのことだろう。そんな野蛮な方法は遥か昔に忘れてしまった筈なのに、なぜだろう、牙は震え、体が燃える。忍び寄る恐怖に抗うことが、これほど自らを奮え立たせるものだとは知らなかった。
「戦う理由が、私にはある、か……」
戸惑うように呟いて、白薔薇は心安らかな笑みを浮かべる。悪くはない気分だ。自分にもやはり妖魔の血は流れている。敵対する者と戦い、これを打ち倒すあの悦び。けして否定することのできない妖魔の性。
「行きますよ、アセルス様」
そう静かに告げて、白薔薇は剣を構えた。
この戦いの結末を白薔薇は知らない。支配するのか、されるのか。運命の秤がどちらへ傾くのか、それは神のみぞ知る筋書きだ。
「おいで、白薔薇」
優しくアセルスが答える。たかだか半世紀にも満たない齢の女が随分と思いあがった口を利いたものだ。笑ってしまう。だが目の前に立つアセルスの傲慢を憎いとは思わなかった。どこか清々しい気持ちで白薔薇は微笑み、そして己自身の未来を切り開くべく戦いを開始した。
それは白薔薇姫の戦い。針の城で最も優しいと謳われた姫君が、その死神にも似た優しさを捨てて挑む最初にして最後の戦。
そう──これから始めるのは、『私』自身の物語に他ならない。
物語が始まった時、貴女はどこにいたのかとアセルスは聞いた。
私はいま、ここにいる。
語り部が語ることをやめたとき、物語が迎えるのは滅びではなく新生だ。
結末は誰かに手に委ねられ、私はただ私自身の命を生きる。ただそれだけ。
さぁ、物語の話をしよう。
その物語の結末を、あなたはきっと知っている。