打ち寄せる波を妖魔の具足が遮り、僅かな波紋が生まれるか生まれないかという具合で次の波にくしゃと砕かれる。
夜の海は月光に照らされて冴え冴えと白み、砂浜に歩み寄る飛沫は記憶を浚うように遠く音を立てる。
あてもなくふらふらと海辺を散歩していたオルロワージュはふと振り返る。地平線の果てまでも続いているような己の足跡が暗く静かな波に少しずつ少しずつ削り取られては消えていく。
海を見る。繰り返される波音が単調な律動を刻む。「余は」とオルロワージュは言う。なぜそんなことを言おうとしたのか、そして何を言おうとしたのかさえも自分ではわからず、それきり口を塞いでオルロワージュは波の滲んだ水平線に視線を飛ばす。
話すべきことはもう無いように思えた。距離を取って歩いている零姫も同じことを感じているのか、オルロワージュに遅れたまま急ごうとはしていない。ただ時折こちらの様子を窺うように顔を上げ、その度に熱のない溜息を吐き出している。力のないその表情を見ていると不意に肩の関節が強張っていくような感覚を覚え、オルロワージュはふと足を止める。もう歩くのを止めようか、そんな感情が湧いてくる。
「零姫、そろそろ城に戻るか」
振り返って零姫に尋ねると、彼女は仄かな逡巡を見せた。
「……いや、妾はもうしばらく歩いてみることにする」
「そうか。では余も付きあおう」
「……良いのか?」
「ああ。構わぬ」
そう言ったきり再び沈黙の幕が二人の間に下り、オルロワージュと零姫は何かの試練でも受けているかのように黙々と前を向いて歩き続ける。
それが最後の夜だった。
◇
女の声が熱く男をせがむ。欲情に濡れ、官能に震える声で罰を求める。剣に臓腑を掻きまわされ痛みに涙を流しながら、くぐもった呻きと共にもっと、と甘い息を吐く。いっそう深く差し込まれた剣に高く声を跳ね上げて女は、奴隷のように慈悲を求めてしまう。
ほしい、と女は言う。罌粟の花に溺れる中毒者じみて痙攣する腕を男の胸へと弱々しく這わせながら、餌を待つ雛鳥の如く舌を差し出して懇願する。
「ほしい。ああ……ほしい」
童女の甘えるようでいて妓女の婀娜めいた媚びさえ含んだその艶言は灯の揺り返しを受けて寝室中に反響する。薔薇の花弁を惜しげもなく燃やし続ける無数の洋燈が閨に篭る男女の吐息を橙に透かし映す。
何が欲しい、零。
縛めがほしい。辱めがほしい。けして消えぬ傷が、滅びを呼ぶ夜の傷がほしい。日ごと疼き腐り果て、妾の全てを暴き立てる傷がほしい。ああ……ほしい。ほしいほしいほしい。あの甘く切ない口づけがほしい。
そなたが望むのならくれてやろう。
ああ……。
今日はいやに乱れるではないか、零姫よ。
そんなことはどうでも良い……。ただ、この快楽さえあればそれで良いのじゃ……。
そう言って零姫は再びうわ言のようにほしい、ほしい、と言葉を繰り返す。その様子を眺めている内にふと、オルロワージュの表情にすっと陰がさす。
“──そんなことどうだっていいじゃありませんか。気持ち良ければそれが全てでしょう?”
昔、どこかで誰かがそう言った。記憶の中で囁く淫魔にオルロワージュは愛撫の手を止め、拭いきれぬ既視感から静かに問いを投げかける。
「……零姫。時は流れたか?」
「うん?」
幼い仕草で首を傾げる零姫を見て、彼方から恐ろしい速度で迫り来る焦燥があった。零姫は果たしてこれほどまでに快楽に溺れる女だっただろうか? ほしいほしいと犬のように褒美を欲しがる女だっただろうか?
今や零姫は穢れない白痴じみた瞳を瞬かせ、一心に舌を出して媚びている。愛を求めている。己の血が成した虜化という鎖のために。
「時の流れに心を蝕まれ、衰えた精神は虜化という糸によって人形になってしまう。そなたもまた、余が牙にかけた乙女たちのように……?」
「何を言っておるのじゃ、ぬし様よ? 妾は何一つ変わってなどおらぬ。妾は永遠にぬし様を愛しています。ああ、だから、どうか億万の口づけを」
「零……」
宥めるようにオルロワージュは零姫を抱きしめるが、かつて邪悪の限りを尽くした仙女は腕の中で駄々を捏ねるようにいやいやをする。
「ほしいのじゃ、ぬし様。ああほしいほしい。傷がほしい、口づけがほしい……」
「零姫……」
……頼りない零姫の身体をきつく抱きしめるオルロワージュの表情は、しかし能面のように微動だにしない。今まさにこの腕の中で自分は何かを失おうとしている。だというのに自分は、そんな悲劇を今更のように感じている。手にする前から結末を知っていた物語の終章を捲る自分には、諦念ですらも予定調和に過ぎない。
「……いつかこんなことになると思っていた。どうせこんなことになると、余は考えていた。……いや違う。こんなことが、前にもあった。そんな得体のしれない既視感がどうしても消えぬ。わかってはいた。いつかは失うこの愛だ」
「いつか?」
「零姫よ。何度でも言おう。そなたは何も悪くない。悪いのは、全て……」
「良いも悪いもありませぬ。ただ世界には愛だけがあればよいのです。ああ、オルロワージュ様、オルロワージュ様。どうか妾にあなたのキスを……」
「れい……」
零姫は無邪気に首を傾げ、どうしたのですかオルロワージュ様、と声をかける。
「どうしたのですかオルロワージュ様。寂しいのですか? 悲しいのですか? あなたがそんな風に口を閉ざしてしまうと零はとても辛いのです。キスをください」
「ああ、今……」
口籠るオルロワージュに気づかぬように、零姫は語り続ける。
「そしてもし、それでも口づけが頂けないのなら、妾は妾の全てをあなた様に捧げます。妾は妾を贈ります。ですから、どうか、この命と引き換えに口づけをください」
零姫はオルロワージュにしな垂れかかり、熱く滾る肢体を押し付ける。繊手が淫らにオルロワージュの全身を撫で上げ、乙女の接吻で輪郭をなぞる。
「ああ……ご奉仕いたします。どうか、この贈り物を受け取ってください」
「贈り物……?」
戸惑いに瞳を揺らすオルロワージュに、零姫はそっと顔を綻ばせる。
「ええ、そうです。そう……」
生暖かい息を吐き、唇を胸元に寄せ、尖らせた舌で首元を舐め上げ、零姫は童のように幼い笑みを浮かべ、そして穏やかに言う。
──妾から唯一の贈り物をしよう。ああ、そう──貴様に愛をくれてやる……!
不意に禍々しい形相を浮かべ零姫はオルロワージュの首元へ牙を突き立てた。
唇を三日月に裂き、酷薄な笑みへと変え──夜叉の形相となって零姫は獣の哄笑を上げる。深く鋭く牙を食い込ませ、見る間に溢れ出た妖魔の血を唇の端からほろほろと零して吸血する。
「零、姫……?」
動揺にオルロワージュの反応が遅れる。びくりと全身を痙攣させた時にはもう遅い。大量の血を吸ってごくりと喉が蠕動し、零姫の咢が布を引き裂くような音を立てた。噛み千切ったオルロワージュの肉を乱暴に吐き捨てると手の甲で己の口元を拭い、零姫はほう、と甘い溜息をつく。
「ああ……ようやく取り戻したぞ。これが妾じゃ。何千年も前に奪い取られたものを今、ついにこの手に」
「零……」
「どうしたオルロワージュ? 先ほどから同じことしか言っておらぬようじゃが……何年経ってもおぬしは相変わらずつまらない男じゃのう」
「なぜ、余の血を吸った」
「所詮はおぬしもそこらの男と変わらぬな」零姫は悪意に満ちた嘲りを浮かべる。「女の色香に誑かされ、逆吸血を許すとは。何が妖魔の君じゃ、おぬしはとんだうつけ者よ」
「何故こんな真似をしたと聞いているのだ、零姫」
「下らぬことを聞くな、オルロワージュ。妾はずっと支配されておったのじゃ。虜化というおぬしの力にな。虜化を受けたものはみなおぬしに逆らえなくなり、その心を奪われる。だから妾はずっと待っておったのじゃ。おぬしの寝首を掻くその時を。おぬしに抱きついて愛を囁いたのもそのためじゃし、おぬしの下らぬ話に一々付き合ってやったのもそのためじゃ」
「零」
感情の抜け落ちた声でオルロワージュが言う。
「余を騙したのか、零姫」
「騙す? 何人もの乙女をかどわかした男の言うことか」
冷笑しながら零姫はオルロワージュにとびかかり、大きく変形させた爪で薙ぎ払う。顔に刻まれた大きな裂傷にたたらを踏み、オルロワージュの顔を抑える手のひらからぽとりまたぽとりと血の滴が滴り落ちた。
「おお、体が軽いのう。やはり妖魔の君を吸血するともなれば、手に入る力もまた強大」
「……」
「痛いかオルロワージュ。苦しいかオルロワージュ。こうして傷を受けるおぬしを見るのは初めてのことじゃな。……実に無様よ。この程度の男に良いようにされていたのかと思うと虫唾が走るわ!」
「なぜだ、零……。なぜ……」
「認めよオルロワージュ。おぬしは『永遠』に負けた。おぬしの求める永遠などというものは存在せぬ。それは愚かな男の幻想じゃ」
「違う、違うぞ、零姫。余はそれでも諦めぬ。……記憶の中で見知らぬ時計塔の鐘が鳴る。だから、余は……」
「くどい!」
言って零姫は壁に掛けられていた護身用の短剣を右手に取り、左手で包むように剣の刃を撫でた。掌がふっつりと裂け、流れ出た乙女の血が剣を化粧する。
血に濡れた蒼の剣を掲げて零姫は床を蹴り、猫のように低い姿勢で疾走したかと思うと瞬く間にオルロワージュの右膝から下を斬りとばした。どう、と鈍い音を立ててオルロワージュが崩れ落ちる。
「零……」
オルロワージュがぽつりと言う。途方に暮れた、力なく弱々しい言葉だった。疲れ果てた声色に零姫はぎりりと歯を食いしばり、俯せに倒れたオルロワージュの後頭部を割れんばかりに踏みつける。衝撃に爆ぜ、大きく窪んだ寝室の床に滔々と妖魔の血が染み渡っていく。
「何が永遠じゃ。下らん……!」
苦々しげに吐き捨てる零姫はなおも体重をかけてオルロワージュを踏み躙る。
「いつまで悲劇の主人公ぶっているつもりなのじゃ、おぬしは!」癇癪を破裂させ、うんざりだとでも言いたげに零姫は苛立ちを露わにする。「……ああ、そうさな、おぬしは悲しい。たくさんのものを失い、たくさんのものを忘れた。しかしのう! 笑わせるなよ妖魔の君よ! 時の流れに全てを攫われてなお「しかしそれでも」と鼻で笑うだけの気概もない男が、どうして永遠などという大それたものを手にできるというのじゃ! 永遠は果てない。しかし、おぬしがいつそれに立ち向かった? はっきりと前を向いて永遠へと己が衝動を叫んだことがあるのか? いつまでもメソメソメソメソと、やれ誰が死んだ、哀しみが薄れたと情けない! 誰かを失えば代わりの花嫁を求め、その心が薄れてしまうのならば虜化能力で愛を繋ぎとめる。それでも時の中に心は弱まり、すべての愛は人形になってしまう。……ああ認めてやるともオルロワージュ。おぬしは可哀想な男じゃ! しかし同時にこうも言おう。おぬしはつまらん男じゃ! おぬしは……」
零姫は悔しそうに口籠り、目を伏せて肩を震わせた。
「おぬしを愛した女たちも、なんと、無知で愚かだったのじゃろう……。おぬしのような男に懸想するとは、ほんに馬鹿、痴愚の権化としか言いようがない……」
血を吐くような思いで罵倒を口にした瞬間、不意に凄まじい恐怖が零姫の脊髄に奔った。本能のまま飛び退った零姫の鼻先を妖魔の剣先が舐めるように通り過ぎる。ぞっと全身が総毛立ち、汗が一瞬にして冷えていく。
「オルロワージュ……」
戦慄にそう呟けば、地に伏していたオルロワージュが剣を床に突き立て膝立ちにこちらを見つめている。静かな闇を湛え、煮凝る黒色の瞳には深い殺意が宿っていた。淡々と獲物の様子を窺う孤独な狩人の態で静謐な視線を向ける。
少なくともその瞳に迷いは無かった。澄んだ冬の湖のように冷たく清涼な覚悟を秘め、妖魔の君オルロワージュは依然として美しくあった。
ぞくり、と零姫の心が震える。「ああ……」思わず漏れたため息に零姫はうっとりと身を捩り、嬉しそうに語りかける。
「立て、オルロージュ!」踊りに誘うように手を差し出し、零姫は牙を剥き出しにして笑う。「悪意を持て! 己の苦悩を周囲にまき散らし、おぬしに関わるもの全てを不幸にせよ! のう、オルロワージュよ! 弱くてもいいではないか! もっと我儘に生き、弱音を吐き、誰かに頼るような下らん生き方をしても良いではないか! おぬしは言うたな、この世の全ては物語になってしまうと。物語というものはいつだって陳腐なものじゃろう。……ならばそのありふれた悲劇の中で助けてと言い涙を流し、跪いて愛を乞うたとて誰もそれを否定することはできん!」
「余に涙はない」黒々と渦巻く漆黒の瞳を蠢かせ、オルロワージュは淡々と告げる。「弱音を吐く気など毛頭ない。たとえ何があろうとも、余は余の永遠を手に入れる……!」
その言葉を聞いて零姫は歓喜に沸き立つ自らを必死の思いで抑え込み、神妙に問いを投げる。
「……ならば、おぬしはどうする? 妖魔の君、魅了の君、妖煌帝オルロワージュよ!」
「知れたこと。再びそなたを手に入れ、支配し、屈服させるまで」
そう言って、オルロワージはふと自分の両手を眺め、不思議そうに囁いた。
「そうか……。余は、そなたをたった今失った。だというのにそなたは未だこの世界から失われてはいない……。そうか……そうなのか、零姫……?」
「もうおぬしのような阿呆と交わす言葉は無い」満ち足りた表情で穏やかに零姫は言う。「妾は針の城から逃れ、まだ見ぬ辺境に居場所を求めるとしよう」
剣の柄で窓硝子を叩き割り、零姫は窓辺に飛び乗った。今にも飛び出そうとする零姫にオルロワージュは言う。
「どこまでも追ってゆくぞ、零姫。たとえどこの星、いかなる時間に逃げ込もうとも、余は必ずそなたを捉えに向かう」
感情を亡くした筈の言葉に熱が灯った。煮え滾る欲望を美貌の裏に押し隠して滔々と告げるオルロワージュを見て──なぜだろう、零姫はそれを懐かしいと思う。
ああ、と零姫は言う。我知らず言葉が震えた。感傷に唇をわななかせ、寂しげに眼を伏せ、それでも零姫は涙に湿った声でしっかりと答えた。
「ああ──それでいい」
「零……?」
訝しげに尋ねるオルロワージュに対して零姫は懸命に表情を取り繕い、「は、は、は」と爽やかに笑う。
「気づいておるか、オルロワージュ。……そなたは今、笑っておるぞ」
「なに……?」
指摘されふと口元に手をあて、オルロワージュは「ふむ」と頷いて見せる。
「余は笑っている……そうか……余は楽しいのか……」
「ではさらばじゃオルロワージュ。おぬしのような馬鹿者からようやく離れることができてせいせいするぞ」
「待て、零姫!」
飛び出した零姫を追い、オルロワージュは窓辺から身を乗り出して叫んだ。
「必ず捕まえるぞ零姫。何度そなたを失おうと、何度でも余はそなたを手に入れる。……ああ、愛している。余は、そなたを愛している! 零姫!」
オルロワージュはいつしか感情を露わにして吠えている。長らく感じたことのなかった悦楽に牙を剥き出し、嗜虐心に残酷な笑みを浮かべて思いの丈を獅子吼する。
欲しい、とオルロワージュは言う。既にして多くのものがこの手の内からは零れていった。しかしまた自分は再び欲しい、と思う。ああ──自分は欲しいのだ。自らが求めてやまないものが、この世にはまだ存在している!
欲しい。オルロワージュは笑う。腹を抱え身を捩り、体面を取り繕うこともなく笑い出す。
魔王となり、乙女となり、星に乗った影絵の犬──悠久の時を生きる不死の怪物オルロワージュが声を上げて笑うのはこれが初めての事だった。