サガフロンティア アセルス編   作:おめかけ

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第六幕 ジーナ嬢かく語りき

 あなたのお姉さんはとても偉い人の所へ行ったのよ。小さいころ母はよくそんな風に言っていました。

 七つ上の姉さんの顔を実のところ私はあまり覚えていません。そう言うと、もしかしたらあなたは血を分けた姉妹だというのになんと薄情だと思われるかもしれません。けれど、七歳も年上の姉といえば子供と大人ほどにも差があり、だいいち姉は私が物心つく前の幼い頃に家を出て行ってしまったのです。姉が十三、私が六歳の時でした。「元気でね」そう言って私の頭を撫でる姉の顔を、やはり私は思い出すことができません。仕事を終えた薄暗い屋根裏部屋でときおり何か意地になったように思い返そうとしてはみるのですが、記憶の中の姉の顔は靄がかかったようにぼやけていてはっきりとしません。

 私は姉のことをよく覚えていません。彼女の姿や性格、彼女が遺した言葉といったもの、個人の名残とでも言うべき面影を持ってはいません。私の姉についていえば、どちらかといえばそういった具体的な要素ではなく、姉が旅立つ日に母の作ってくれた檸檬ケーキの味ばかりが思い出されます。ケーキと言っても実際には蒸しパンに近いものだったのですが、滅多に食卓に並ばないデザートに目を輝かせてはしゃぎまわったのを覚えています。貧しい我が家では芋や麦粉の屑を練り固めて焼いた生地などが主食でしたから、甘いものを食べられるのは感謝祭や謝肉祭などの祝日を置いてはありませんでした。ましてただでさえ手に入りにくい砂糖のみならず、あの鮮烈な香りのする檸檬の果汁がぎゅっと染み込んだ檸檬ケーキの爽やかな味を私は忘れることができません。檸檬は母が露天商に頭を下げて格安で譲ってもらったのだそうです。旅人に踏み潰されて汚れていた檸檬を母がなんとか探し回り、どこかこれを分けてほしい、と頼み込んだのだそうです。まともに檸檬を買うお金などうちにはありませんでしたから。

 晴れの門出の日、私たち家族は食卓を囲んで檸檬ケーキを食べました。私一人が微笑んでいて、両親や兄弟たちは泣いていました。姉は泣いてはおりませんでしたが、格別笑いたてるようなこともなくしみじみとケーキを噛みしめ、「ありがとう」と別れを告げるように言ったように思います。

 喜ぶべき日ではありました。貧しい我が家の中で姉の美貌が認められ、奉公先が見つかったのですから。母の言う「とても偉い人の所」へ姉は奉公に生き、そこで得た給金で私や私の幼い弟たちは生き永らえることができる。同じ村の中には、炭鉱で働いて体を壊し肺病になる者や、娼婦や奴隷として売り買いされる者も数多くいましたから、それに比べれば姉は随分とした幸運を掴んだはずなのです。

 お姉ちゃん、ばいばい。たぶん、私は最後にそんなことを言ったのだと思います。

 姉が使っていたベッドが片づけられ、床に残ったまばらな日焼跡を不思議そうになぞりました。幼い私にはそれが何を意味することなのかまるでわかってはおりませんでした。

 家に残った兄弟の中では私が一番のお姉さんでした。幼い洟垂れたちの面倒を見ながら近所の縫製工場に通って僅かな給金をもらいました。幼い私には端切れや糸くずを拾い集める仕事しかできませんでしたが、蒸気を吹かしながらごうごうと轟く巨大なミシンが生地を次々に飲み込んでいくのを横目で眺めるのは楽しいものでした。

 そこで私は二年ほど働きました。今にして思えばあまりにもあっという間のことのように思えます。二年間という時間が記憶の中でこれほどまでに圧縮されるものだと思うと、日々を生きている私の生活というものは一体何なのだろうと時々無性に不思議になることもあります。

 私は着実に大きくなっていき、その内に母の言葉の意味が少しずつ分かってきました。

 あなたのお姉さんはとても偉い人の所へ行ったのよ。偉い人というのはこのファシナトゥールを支配する妖魔の君、オルロワージュ様のことです。姉はオルロワージュ様のおられる針の城へ奉公に行ったのです。城下の世界に暮らす村娘たちの中でも特別に美しい女を選び、見初められた女達は針の城に召し抱えられる。そこではみな一様に「ミルファークさん」と呼ばれ、お仕着せの侍女服を着て高貴な妖魔の方々に仕えるのだそうです。

 羨ましくないと言えば嘘になります。私の勤める店にも妖魔の方々がいらっしゃることがありますが、どの方もみな身震いするほど美しく、また典雅で艶やかな装いをされています。あんな風に美しい方々にお仕えすることができればこれ以上の幸福がほかにあるでしょうか。

 姉は奉公先から帰っては来ませんでした。仕送りだけは毎年きちんと届いていましたが、それっきり手紙も電信も寄越さずじまいでした。便りがないのが良い便りとでも申せばよいのでしょうか、両親はそれほど心配したりはしていないようでした。

 その内に私も自分の仕事というものを見つけなければいけない時期がやってきました。

 縫製店で銭勘定をしている人に仕事を教えてくださいと頼み込んでみました。「生意気を言うんじゃない」と初めは殴られましたが、何度か殴られている内に相手も根負けしたのか下働きの縫い女の更にその下に就かせてもらうことができました。今にして思うと、ごみ拾いの少女に対する仕打ちとしては非常に寛大な態度だったと思います。

 そこで私は針仕事を習いました。ごうごうと鳴るミシンの音に耳は悪くなりましたが、手に職がつくという感覚は心強いものでした。残念ながら私にはデザインに関するセンスといったものはありませんでしたが、堅実さや丁寧な仕事ぶりなどを評価して下さる方が何人かいて、いくつかの紹介状を頂く事が出来ました。

 私は十三歳になりました。いつの間にかにあのころの姉と同じ年になり、私も家を出る時がやってきました。自分の少ない給金を貯めたお金で檸檬ケーキを作ります。記憶にあったほど美味しくはなくがっかりしましたが、弟たちがひどく喜んでくれたので助かりました。両親は泣いてはいませんでした。辛いこともあるかもしれないがくじけずに頑張るんだぞ。父はそんなことを言って私の背中を叩いてくれました。

 私は私の生活を始めます。たった一人の生活です。身の回りの物を風呂敷包みに背負い、野菜を卸に向かう農家の幌馬車に乗せてもらいました。あてもなく続く麦穂の黄金を背景に、次第に小さくなっていく我が家を見ていると自然に涙がこみ上げてきました。

 

 奉公先は根っこの町にある小さな仕立て屋です。飴鐘さんという下級妖魔が店主をしています。店の名前はキャンディーベルといいます。

 朝、四時に起きるとまず昨日かめに汲んでおいた水で顔を洗います。身の震えるほど冷たい水ですがこれで大体は頭が覚めます。一回に下りて張り出し暖炉に薪をくべ、自在鍋をかけておきます。沸騰する間に服を着替え、前掛けをつけます。湯が沸いたら芋を二つ入れ、生姜を刻みます。煮えたら芋を取り出して塩と生姜を入れます。今日の朝食は茹で芋と生姜湯です。食べ終わると残っていると刺繍仕事をやっつけてしまいます。六時になるともう一度沸かしたお湯で紅茶を入れ、二階で寝ている飴鐘さんを起こしに行きます。

 飴鐘さんは寒さに強いのか一年中スリップ一枚で寝ています。扉を叩くのとのどかな欠伸と共に「おはよう」という優雅な声が聞こえます。半身を起こした状態でベッドにもたれている彼女はどこか淫らがましく、初めて目にした時はなんとなく「ごめんなさい」と謝ってしまいました。長い黒髪をベッドに散らし、切れ長の瞳と肉感的な唇を持った飴鐘さんは下級とはいえ人外の魅力を備えています。近くでため息をつかれるだけで体の芯からぞくぞくするような甘い感覚が湧いてくるので困ります。

 飴鐘さんに今日の予定を伝えるといよいよ私の仕事も始まります。溜まっている注文は山ほどあるのです。積みあがった型紙をかたはしから頭に入れ生地を裁断していきます。その間にも次々に来店されるお客様の要望を聞き、また採寸を行ったり試着をお手伝いしたりせねばなりません。

 洋服に使われる生地は揚羽更紗やケテン、ワズカ蛾の吐く蓮毛などがあります。特にファシナトゥールで流行しているのは黒宇の森に住む半人半馬のメロウステルムが分泌する糸から織られた黒洞繊という非常になめらかな手触りの生地です。どの生地もいい加減に裁断するとたちまちに糸目が縒れてしまうので素材にあった裁ち方をしなければいけません。

 妖魔、あるいはその傍仕えの方がデザイン書と共に生地を持ち込み、まずその生地の材質を検品します。次にお客様の採寸を行い(お客様が来られずできない場合もありますが)、生地を測ります。生地をお預かりした後は生地の布目を正しく直すためにキ入れをし、デザイン書に沿った型紙をおこし、型紙に合わせて生地を裁断し、仮縫い本縫いと工程を経て最後にプレスにかけます。最後にお客様に一度試着して頂き細かい所を直せば完成です。

 午後の大半は針仕事です。昼食代わりに茹でた屑野菜を咥えながら行います。椅子に座って黙々と手を動かしひたすらに生地を縫い合わせていきます。夕方になると石炭を入れてプレス機を稼働させます。吹き上げる蒸気で部屋の中がふわっと暖かくなるこの瞬間が私は好きです。

 夜になれば店を閉め、蝋燭を持って屋根裏部屋に行きます。そこでもまた刺繍が待っています。貴族様の襟元や手巾を飾る刺繍はいくらあっても足りません。深夜になるとさすがに眼も霞み、腕も痺れてきますがそんな時には窓を全開にして凍えるほどの夜気を入れてなんとか気合いを入れます。

 この生活を始めてから随分と目が悪くなりました。蝋燭の灯かりばかりを見つめているせいかもしれません。座った状態で長時間いるせいか胃の調子も優れなく消化不良が続いているようです。でもお針子ですからそれは仕方のないことです。

十二時を過ぎるとようやく就寝の時間になります。窓から夜を眺めます。洸蟲晶が仄かに輝いています。刺草の根っこから吸血薔薇が咲き誇り、その薔薇を媒介として産卵する洸蟲の蛹は水晶のように硬く光を放ち、根っこの町では終夜灯として使われているのです。色とりどりの水晶がぼうっと輝く夜の町は幻想的な風情で、一日の疲れがわずかながら癒される気がします。

 

 洋服の注文にいらっしゃるのは大抵はミルファークさん達です。注文書やデザイン画などをミルファークさんがお持ちになり、「次の紫煌祭までに夜会服を仕立ててほしい」といったような希望を仰います。本当は採寸のためにも逐一店まで足を運んで頂ければ助かるのですが、妖魔の方々は城下を好まないのかあまり姿を見せることがありません。

 働きながら私はいつか姉と再会することを期待していました。ある日ばったりと姉さんが店の扉を叩き、「あえて嬉しいわ」「私もです」と抱き合い、城での優雅な暮らしぶりや妖魔貴族様の美しさなどの会話に花を咲かせるのも悪くはない、そんな風に考えていたのです。

 ところが待てど暮らせど姉さんはやっては来ませんでした。それどころか店にやってくるミルファークさんはいつも同じ人なのです。針の城には何百人という侍女が働いているというのに、オルロワージュ様やイルドゥン様、ラスタバン様にセアト様、そして百人の寵姫の皆様の服を注文しにやってくるのはたった一人です。雨の日も風の日も休むことなく、一日に二度も三度もやってくることさえあります。一番多かった日などは同じ日に七度ミルファークさんが訪れました。さっき店から出ていったかと思ったミルファークさんが一歩踏み出してくるりときびすを返してきたかのように「こんにちは」と平然とした顔でドアを開いた時には流石に唖然としてしまいました。城で暮らす方というのは、やはり、少しおっとりしているとでも言うのか、なんというか、一度にまとめて注文してしまえばいいのにわざわざ一つ一つ注文するような真似をして、身分の高い人と暮らしていると変わったことをするものなのだな、と思ったのを覚えています。

 それが勘違いだということに気づいたのはミルファークさんが店に襟飾りの見本を忘れていったのがきっかけでした。珍しくミルファークさんが忘れ物をされたので飴鐘さんが「案外ミルファークさんも抜けたところがあるのね」と面白がっていました。

 次に訪れた時に返そうと私がこの前の忘れ物ですよと言って紙袋に入れた襟飾りを渡すとミルファークさんはにっこりと微笑んで言いました。それは私ではありませんよ。 

そこでようやく私は知りました。ミルファークさんはみな同じ顔をしているのです。同じ服装をし、同じ喋り方をし、ミルファークさんは誰しもが「ミルファークさん」なのです。

 ということは今まで店を訪れた針の城の侍女たちはみな一人一人が違う人だったのです。何十人といたでしょう。その中に私の姉は一人もいなかったのでしょうか。私は少し不安になってきました。ミルファークさんはみな同じ顔をしている。もし姉と再会しても気が付かないかもしれません。姉は私が私であるとわかるでしょうか。六歳の私の面影が私には残っているのでしょうか。私にしても姉の顔でさえおぼろげだと言うのに、今にして思えば何を根拠に「いつか再開したら」などと考えていたのでしょう。

 ミルファークさんの見分けがつかない以上、私はそれまでよりも積極的に姉を探すことにしました。やってくるミルファークさんたちを捕まえては私の姉を知りませんかと尋ねることを習慣にしました。何か月経ってもはかばかしい返答は得られず、ミルファークさんは相変わらず優しく微笑んでは「ごめんなさい、知らないわ」と言うばかりでした。そんな筈は無いでしょう、誰一人として姉を知らないなんて、そんなことあるわけがありません。

 けれども、私の姉の存在は依然として知れません。一年が過ぎ、二年が経ち、私はある日とうとう語気を強めて言いました。

「……お願いですから、他の侍女の方たちにもそんな名前の人がいないかどうか聞いてみては頂けませんか。彼女は私の姉なのです」

「聞いてみるのは構いませんが……」

 ミルファークさんは眉を寄せて困っていました。そういう名前の人はきっといませんよ、そんなことさえ言いました。何故かと問い返すとミルファークさんは当たり前だとでも言わんばかりの口調で平然とこう言うのです。

「だって、私たちの名前はミルファークというのです」

「それは侍女としての名前でしょう? 私が聞いているのは個人としての名前です。あなたにだって名前はあるでしょう?」

「……いいえ。私はミルファークです。それ以上でも以下でもありません」

 私は大いに憤慨しました。話し方は丁寧でも、城に住むような人たちは根っこの住人を見下しているんだ、だから閉鎖的になって身内の人間にさえ家族のことを教えてくれないんだ。そう思いました。

 それは大きな勘違いでした。

 ある時黒騎士のイルドゥン様がご来店され、城のさる若君のために洋服を一式仕立てるように命じられました。ミルファークさんではらちが明かないと判断した私は意を決してイルドゥン様に頭を下げます。

「もしイルドゥン様が姉のことをご存知でしたら、お願いです。どうか私に教えてはくださいませんか……?」

 これは賭けでもありました。イルドゥン様といえば無口で無愛想、邪妖を狩るとても怖い黒騎士として有名です。噂話を信じるのならば下手をすればこの場で殺されてしまうかもしれません。ではなぜそんな賭けに出たのかと言えば、店主の飴鐘さんが「あの方はとても優しい方なのよ」と穏やかな調子で言ったことがあったからです。

 イルドゥン様は私の顔をじろじろと無遠慮に眺めていたかと思うとぶっきらぼうにぼそりと言いました。

「……なぜ、俺がそんなことをしなければならない? ろくに知りもしない他人のために」

お願いです、と私は言いました。もしかしたらこれが最後のチャンスかもしれない、その時はそう思ったのです。必死になって頭を下げました。床に頭を擦りつけて何度も何度も頼み込みました。そうしている内にイルドゥン様の顔はいよいよ不機嫌そうに歪められ、ただでさえ鋭い瞳が矢のように尖りだします。

「人間は醜い。恥も誇りもなく、そうやって簡単に頭を下げる」

「お願いでございます! お願いでございます!」

「……」

 イルドゥン様はむすっと黙り込み、私の頭越しにカウンターの奥に視線を向けました。一緒になって振り返ると、飴鐘さんが面白そうに笑っていました。イルドゥン様と飴鐘さんはしばらくの間無言で見つめあっていましたが、やがて痺れを切らしたようにイルドゥン様が苛々と踵を床に打ち付けます。

「飴鐘」

 名前を呼ばれ、飴鐘さんはなおもおかしそうにふふふと笑います。

「イルドゥン様のお好きにされたらよろしいのでは?」

「わかっているんだろうが」

「さあ。私には決めかねますわ」

 イルドゥン様はふん、と不快を隠そうともせずに短く唸り、再び私に目を向けました。

「……小娘。名はなんという」

「……あの、ジーナ、と申します。イルドゥン様」

「ジーナよ」イルドゥン様はうんざりしたように言いました。「そんなに姉の行方が知りたいか」

 はい、と私は答えました。

 そうして私は真実を知りました。

 

 

 

 今日はもう休んでいらっしゃいな。飴鐘さんがそう言ってくれたのを覚えています。私はもう頭がくらくらとしてまともに働くこともできず、屋根裏部屋の自室に篭ってとりあえず休もうとしたのですがまるで眠れませんでした。頭の中を駆け巡る思いに目が冴えるばかりです。

 どうしても眠れないので私はこっそり店を抜け出して町はずれの焼却場に向かいました。美を賛美するファシナトゥールにあってゴミを燃やす焼却場に寄りつく者はおらず、ここでなら誰にも邪魔されずに考え事ができるかもしれないと考えたからです。……いいえ、それは、もしかしたらそれは嘘かもしれません。考えるだけなら自分の部屋でもできたのだし、何も焼却場にまで来る必要はないのです。私がこんな所に来てしまったのはきっと、心の中の衝動が焼け付く炎に焦がれてしまったからか、あるいは火という象徴が私の中に茹で立つ鍋を連想させたからかもしれません。鍋。私は姉の話を聞いてからずっとお鍋のことを考えていたように思います。

 以前、飴鐘さんが何かの折に不思議なお話を聞かせてくれたことがあります。少年の悩める自我の放浪を描いたお話でした。その物語の中で主人公を導く登場人物の魔少年的な魅力にどきどきしたのを覚えています。

 その物語の中でこんな一節がありました。“君がもし、非の打ち所のない普通のものになったとしたら、アプラクサスは君を捨てるだろう。彼は君を捨てて、彼自身の思想を煮るべき新しい鍋を探すのだ”。飴鐘さんの語る物語はむつかしくて私にはよく理解できませんでしたが、そのフレーズだけは奇妙に頭の片隅にこびり付きました。思想を煮る鍋、という表現が面白かったのです。

 私はお鍋のことを考えます。

 イルドゥン様は全てを話してくれました。オルロワージュ様の吸血を受けたものは虜になってしまう。そして心の弱いものは強すぎる虜化能力に耐え切れず人形のようになってしまうのだと。身も心も相手に捧げた純粋な人形。主にとって都合のよい姿、都合の良い存在であり続けようとすること。ただ一心に愛し、相手の望むままに動き、命をかけて主に仕えること。

 その命の在り様をファシナトゥールではこう呼んでいるのです。──すなわち、ミルファークと。

 あなたのお姉さんはとても偉い人のところへ行ったのよ。今更ながら母の言葉が思い出されます。あれは、あの言葉は一体どのような意味だったのでしょうか。偉い人というのは、ひょっとして空の上におわしますあの人のことなのでしょうか。姉の魂は一体どこに行ってしまったのでしょうか。

 ミルファークとなったものは身も心も失い、ただ「ミルファーク」という一つの型に押し込められて姿を変えます。顔も、名前も、心ですらも忘れてしまって、妖魔の方々に仕えるという役目のためだけの人格が残るのです。

 ぐつぐつと煮え滾る鍋を想像してください。たくさんの乙女たちの魂がそこで茹で上げられ、ごった煮に形成された集合的自我が何百人ものミルファークさん達に転写される。その中の一人が私の姉です。

 ……焼却炉の万華鏡のように輝く炎を眺めているとすぐに目が痛くなって涙が出てきました。しかし、それは悲しみによる涙ではありませんでした。

 私はどうすればよかったのでしょうか。声を上げて泣けばよかったのでしょうか。涙を流し、あんまりだと叫び、妖魔やオルロワージュ様を憎んでしまえばよかったのでしょうか。

 そうすることはできませんでした。告白します。私は薄情な女です。もしかしたら私は姉を失ったのかもしれません。けれども、もう十年以上も前に別れた姉がミルファークというよくわからないものになってしまったことがうまく飲み込めず、明確に死んだとも生きているとも言い切れない真実に涙することができませんでした。

 姉の顔が思い出せません。姉の方もそうだろうと思います。

「うう……」

 不思議な唸り声が聞こえました。どうやらそれは私の声のようでした。焼けつく目の痛みにぽろぽろと涙を零し、ごしごしと目を擦りながら私は唸ります。

「う……」

 ……どうしてこうなってしまったんだろう? そう思うと顎が強張り、意識せずにぎりぎりと歯を噛みしめて私は弱々しい呻き声をあげます。

 すると、どこか空の高いところから遠い遠い声が響いてきました。戸の隙間から風の吹きこむようなか細い声でした。

──ここは人間のお嬢さんの来るところではありませんよ。早くお帰りなさい。

「どなたですか?」

 私は驚いて尋ねました。

 ──私はこの焼却炉を預かる紅と言います。お嬢さん、こんな汚い所で涙を流すものではありません。

「……私は泣いてなんかいません」

──悲しい乙女たちはみなそういうのです。

「でも、本当に私は泣いていなかったのです!」

──では、なぜこんなところへやってきたのですか。

「それは……」

──私の炎では、涙を乾かすことはできません。

「私は……」

 私はもごもごと口ごもりながら、なんとか紅さんに言いました。

「私には大切な人がいました。その人は私にとって大切な人だった筈なのです。……でも、大切な人はいつの間にかにいなくなって、私のことを忘れてしまったかもしれないのです」

──そう、ですか。それは……。

 声だけではありますが紅さんは少し戸惑っているようでした。

──誰かに忘れられるということは、とても寂しいものですね……。

「紅さん」

 儚げな紅さんの口調に思わず名前を呼びました。

──けれど、……けれどお嬢さん。それでもあなたはこんな所に居てはいけません。ここはごみを燃やすところなのです。誰かを失う悲しみを、こんなところに捨てていってはいけません……。

「紅さん」

──さようなら。

 そう言ったきりぱたりと声は消えて、それから紅さんが返事をすることはありませんでした。

 

 

 淡々と時は過ぎました。結局イルドゥン様は注文された若君の衣装を取りに来られず、来年になるとまた新しい衣装を注文されました。

 私は時々イルドゥン様と会話を交わすようになりました。

 多くのことを聞きました。オルロワージュ様は自らが望まないものは吸血しないこと、たとえそれが妖魔の魅了の力によるものであったとしても、ミルファークさん達はみなオルロワージュ様に進んで首を差し出したのだということ。

 姉は幸せであったでしょうか。どこか村の祭りか何かにお忍びで来られていたオルロワージュ様と出会い、一夜の恋をして、その魅力に焦がれた挙句にどうか血を吸ってほしいと懇願したのでしょうか。愛する人に抱かれることができ、また家族にも少なくないお金を与えることができる。たとえ虜化に自分が耐え切れず人形になるとしても、そう望んだのは姉自身なのです。……そんな風に、自分の都合の良いように考えた気を紛らわすこともありました。

 三年間が経ちました。色々なことがありました。店主の飴鐘さんがオルロワージュ様に恋をし、拒絶されて傷ついた彼女はファシナトゥールを出ていきました。イルドゥン様は少しだけ悲しそうにしておられました。新しく来た親方は普通の人間で、根っこの町になかなか馴染めずにいるようでしたが腕は確かでした。

 姉と飴鐘さんのことがあって、私は根っこの町が少し嫌いになりました。

 私がこの仕立て屋で働き始めてから三年になります。嫌だと思っていたことにも次第に慣れ、私たちの頭を押さえつけるように聳え立っている「針の城」のことも気にならなくなります。何の楽しみもないこの町で屋根裏部屋だけが私の気を紛らわしてくれる場所です。ここには大切な衣装がしまわれている場所でもあります。お城からの依頼でさるお方のために毎年衣装を仕立てているのです。もう十数着にもなるそうです。

 先輩達は”お城の若君の衣装だ”と噂していました。その若君はもう何年も眠り続けているのだと言います。私の胸の中にまだ見ぬ方への想いが膨らんでいきます。明日にでも御目覚めになればよいのに。そう思いながら一方では、永遠に目覚めなければ良いとも思うのです。

 いったいどんな方なのでしょう。妖魔ですから、きっと素晴らしくお美しい方に違いありません。毎年心を込めて衣装を仕立てます。想像の中の若君に私の縫った服を着せ、うっとりとそれを眺めます

 いつか目覚めた若君があの針の城から降りてきてこの衣装を着るのです。その時私はどう思うのでしょう。人形となった姉のように身も心も容易く奪われてこの魂を捧げてしまうのでしょうか。それは恐ろしいことだと思います。けれども心のどこかで私は被虐の快感を心待ちにしているのかもしれません。私には姉と同じ血が流れているのです。私の衣装を身に纏った勇壮たる若君に跪き、すべての責任や恥じらいを捨てて身を任せてしまえたら──私は頭をぶんぶん振っていけない妄想を追い払います。鏡で確認してみると顔が真っ赤になっていてとても恥ずかしいです。

 毎夜、若君のための衣装を眺めて私は想像します。どんな顔をしているだろう、どんな声、どんな喋り方をするのだろう……。ああ、若君様。あなたの名前はなんと仰るのですか……?

 いつかその時が来てほしいと願いながら私は罪深いその時間を恐れました。

 

 

 私は知らなかったのです。その方がどんな運命を背負っているのかを……。

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