サガフロンティア アセルス編   作:おめかけ

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第七幕 自由意思に関するゾズマ先生のありがたいご高説またはいかにして螺子巻き式侍女が芝居の幕を上げることになったか

 私が私を語るときそこには自然と物語が生まれる。

 私は無貌の演じ手。

 私は螺子巻キ式侍女。

 ある時は反逆者である時は下級妖魔。ある時は田舎娘ある時は失恋者。

 私は……。

 私は……。

 ……。

 

 

 

 

 朝起きて、二段ベッドから降りると私はまず壁に据え付けられた洗面台で顔を洗います。それから顔を上げ、鏡を見て笑顔を作り、「おはよう」と微笑む練習をします。

 鏡には私の顔が映っています。癖のない栗色の髪、小さな目に控えめな唇。これが私の顔です。

「おはよう、ミルファークさん」

 声を掛けられて振り向くと、二段ベッドの下で寝ていた子が眠そうに片目を擦っているところでした。彼女もまた癖のない栗色の髪をして、小さな目と控えめな唇を持っています。

「おはよう、ミルファークさん。今日も一日頑張りましょうね」

「はい、ミルファークさん。今日も頑張りましょう」

 彼女はにっこりと微笑みます。その顔もまた私の顔です。私はミルファークと言います。彼女の名前もまたミルファークです。

 私たちは朝の身支度をします。蔓薔薇を編んだ髪留めに黒ワジュのドレス、生成りの前掛けがミルファークの衣装です。

 部屋から廊下に出るとそこには起き出した侍女たちが所狭しとひしめいています。おはようございます。おはようございます。次々に言葉を繰り返し、同じ顔で同じ微笑みを浮かべます。

 朝、私たちミルファークは一斉に地下広間へと集合します。針の城に居住する全346人もの侍女達が一堂に会し、朝の挨拶と今日のスケジュールを確認します。その日の当番が檀上に上がり、ぺこりとお辞儀をした後に大きな声で「おはようございます、ミルファークさん」と言い、私たちもそれに続きます。

 朝しなければいけないことは、たとえば朝食に使う銀器やリネンの準備などがあります。しかし妖魔の方々はあまりお食事を摂られないのでそれほど大変ではありません。糖燐花のお茶や修辞的焼き菓子をお持ちするくらいで、あとはオルロワージュ様が気まぐれに望まれたものをお出しするくらいです。血を差し出すことはほとんどありません。妖魔の方が血を所望されるのは恋と愛との果てに捧げられる血液であり、義務として摂る日々の食事ではないからです。

 ミルファークの主な仕事は二つあります。

 一つはお着替えの手伝いです。針の城に住まう妖魔の方々は一日に五~七度着替えを行います。朝起きて食事する際の服、午前の室内着、昼の外出着、また狩猟を行う時の服、午後の服、陽が暮れればもう一度着替え、夜会や観劇に出かける際の服も必要になります。

 もう一つは棺に眠る寵姫様たちのマッサージです。何しろ基本的にはずっと寝たきりですから、放っておけば埃まみれになってしまいます。流石に妖魔の方が床ずれを起こしたという話は聞いたことがありませんが、定期的にお体をひっくり返して差し上げたり、清拭やマッサージを行う必要はあるわけです。吸血薔薇に縛られた寵姫様をひっくり返すのはなかなか難しいので慣れるまでが大変です。

 これは基本的に二人一組で行います。一人は吸血薔薇が私たちを襲わないように薔薇除けの鈴を鳴らす係です。非常に楽な係ですがあまり人気はありません。吸血薔薇に襲われるリスクを抱えてさえ、お美しい寵姫様のお体に触れられる方が魅力的だからです。

 ふくらはぎや二の腕を中心に丹念にもみあげ、仕上げに額からそっと香油を垂らします。眼を閉じていても寵姫の方々はみなお美しく、肌に触れているだけでともするとマッサージ中に魅了されてしまいそうになります。以前、一人の寵姫様に恋をしてしまった侍女が毎日寵姫様の唇に自らの血液を零すことを密かな悦びとしていたことがありました。事件が発覚した彼女は薔薇の海に沈められ処刑されてしまいましたが、私にもその侍女の気持ちがわからなくはありません。

 今日の私は白薔薇姫様の担当になりました。言葉を交わしたことは数えるほどしかありませんが、白薔薇姫様は大変お優しい方でいらっしゃいます。以前、オルロワージュ様が百年ぶりに棺の封印を解かれた時も私たちミルファークに「いつも助かります」と労いの言葉をかけてくださいました。常から礼儀正しくお淑やかな方ですが、針の城に来る前は稀代の賭博士であったとか植物学者であったとか、あるいは図書館の司書や悪の組織の幹部であったなどなど、その素性ははっきりとせず噂だけが一人歩きしております。

 回廊を抜け、寵姫様たちの棺が置かれた薄明の間へと向かいます。いつものように入り口で一回、棺の前で一回お辞儀をしてから「失礼いたします」と声をかけて棺を開きます。

「──あら?」

 ところがその日はいつもとは違うことがあったのです。私はもう一人の侍女と顔を見合わせて驚きました。オルロワージュ様の吸血薔薇によって妖力を奪われ、棺から身動きできない筈の白薔薇姫様が──なんということでしょう、忽然と姿を消していらしたのです。

「……困りましたね」

「……困りましたね」

「こんな時、私たちはどうしたら良いのでしょう」

「とりあえずセアト様にこのことをご報告しましょう。私は少しこの辺りを探してみます」

「……わかりました。頑張りましょう。ミルファークさん」

「ええ。頑張りましょう」

 相談を終えて、私は辺りを探し出します。金雀枝の蠢く回廊を抜け、帆ン途(ほんと)鳥の剥製が無数に吊られた悠宣堂を歩きまわり、針の城、オルロワージュ様のおわす紫微台(しびのうてな)を除くあらゆる場所に白薔薇姫様の面影を探しました。

 ところが探しても探しても姫様は見つからず、結局私は白薔薇姫様の棺へと戻ってきてしまいました。

 ふう、とため息をつき、その場に腰を下ろします。困ったわ。白薔薇姫様はどこに行かれたのかしら。首を捻って考えていると、なにやら外の方で誰かが騒いでいるのが聞こえました。

「おい、今、ゾズマがここにいたな」

「この城に入り込むとは許せん奴だ」

「まだそのあたりにいるかもしれんぞ」

 声の主はどうやら黒騎士見習いの方たちのようでした。ただでさえ問題ごとを抱えている私としてはあまり関わり合いになりたくない部類です。声を潜めてじっとしているとお三方の間でどうも「ゾズマはあちらにいるようだ」ということで意見がまとまり、足早に去っていきました。

 ほっと一息ついて、さあ私は何としても白薔薇姫様を見つけなくてはと腕まくりをしたのも束の間、今度は別の方が室内に入ってこられました。

「やれやれ。なんてつまらない台詞を吐く奴らだ」

 野性的な赤毛を逆立て、露出の激しい服を着て胸にニプレスというとても破廉恥な恰好をしたその方は、この針の城でもオルロワージュ様に次ぐ力を持つと噂されるゾズマ様でした。ゾズマ様は私に気が付くとしめしめとでも言いたげに無邪気な笑顔を浮かべて言いました。

「お、いいところに来たね。一つお願いがある。僕はここに隠れるから、あっちの方へ行ったと言ってくれたまえ。頼んだよ!」

 そう言うとゾズマ様はかくれんぼを楽しむ子供のように実に楽しげにいそいそと棺の中へと入っていきます。

「かしこまりました」

 私は答え、少し考えました。まず棺の錠をおろし、解いた腰紐でぐるぐる巻きに縛ります。それから顎に手を当ててもう一度考えてみましたがどうも十分ではないように思われたので辺りに置かれた燭台という燭台を棺の上に載せておきます。

「これでいいわ」

 しばらく待っているとさきほどの黒騎士見習いたちが戻ってきました。怪しい奴を見かけなかったか、と尋ねられたので背後の棺を指し示し、「賊はあの中です」と教えて差し上げました。

 私は足早にその場を離れました。もう私には関係のないことです。ゾズマ様とももう会うこともないでしょう。そう思っていました。

 しかし、とうとう白薔薇姫様が見つからず、くたくたになって自室に戻った私を待ち受けていたのは棺の中に閉じ込めた筈のゾズマ様でした。

 

 

「ちょっと、君。あんまりじゃないか」

 私のベッドに我が物顔で腰掛けたままゾズマ様は咎めるという風でもなく自然な調子で話します。

「私のご主人様はオルロワージュ様でございます。ゾズマ様の命令に従う義務はございません」

「……まぁ、もっともな意見だね。君ならそう言うだろう」

「どういう意味でしょうか」

「どうもこうもない。その通りの意味さ。お人形さんに頼みごとをした僕が馬鹿だったな」

 ゾズマ様は顎を所在なげに掻き、独り言を言うように自嘲してみせるのでした。

「私には、ゾズマ様の仰っていることがわかりかねます」

「うんうんそうだろうね。きみは」

 あまりにもゾズマ様がどうでも良さそうに相槌を打つので私は少しだけ苛立ちを覚えました。

「先ほどから何を、はぐらかすようなことばかり仰っているのですか。きちんと私にもわかるように説明してください」

「じゃあ聞くけど、なんで君は生きてるの」

 食って掛かる私に対して、ゾズマ様は何気ない調子で突拍子もないことを聞くのでした。

「なんですか、突然」

「君は自分が何のために生きているのか考えたことがあるのかい?」

 なおもゾズマ様は尋ねます。いきなり何てことを聞くのでしょう。生きる理由だなんて、日常会話の中で質問するようなことではないし、まして問われたからと言って簡単に答えられることでもありません。

本当に変わったお人なのだなと困惑している私をゾズマ様は静かに見つめていました。それはどこか冷たい瞳でした。

「……答えられないだろう?」

「いきなりそんなことを言われて驚いているだけです。それに、即答できるのは限られた者だけだと思います」

「じゃあ時間をあげるよ。次までじっくり考えておくといい。またあった時にその答えを聞こう」

 そう言ってゾズマ様は去って行かれました。

 

 

 

 次にゾズマ様が現れたのは半月後でした。いつものように自室へ戻ると当然のようにベッドに腰掛けていて、枕をばふばふと叩きながら「安物だなぁ」などと勝手なことを仰ります。

「ゾズマ様」

「うん? ああ」

 ゾズマ様は私に向き直り、静かな口調で尋ねます。

「答えは見つかったかな」

「はい」

「……なら、聞こう」

 私は自分の胸に手を当てて、背筋を僅かに反らせます。

「ええ。私はこの針の城の侍女、オルロワージュ様に仕えるミルファークです。私が生きるのはオルロワージュ様にご奉仕するため、あの方のお役に立つためなのです!」

「わー。えらいえらい」

 誇りで胸を一杯にした私が一息に言い切ると、ゾズマ様は露骨にこちらを小馬鹿にしたように鼻で笑いました。何故でしょう、ゾズマ様にそんな目で見られるととても寂しい気持ちになりました。

「……どうしてお笑いになるのですか。私はとても傷つきました」

 しょんぼりと尋ねるとゾズマ様は苦笑いを浮かべます。

「ごめんごめん。別にそんなつもりはないんだ。気にしないでおくれ」

「誰かのために生きたいと考えるのはそんなにも愚かしいことですか? 他者の幸福のために身を粉にして働きたいと考えるのは下らないことでしょうか?」

 私の問いにゾズマ様はふと真剣な表情をされ、短くはっきりした口調でこう言いました。

「ああ。そうだ」

「え……?」

「誰かのために生きたいと考えるのは愚かしいことだ。他者のために働きたいと考えるのは下らないことだ」

 とても厳しい言葉でした。それは私たちミルファーク全員を否定したに等しい言葉です。

「……なぜですか?」

「どうして君たちはそうやって“なぜ”と問い返すのかな? 本当に自分の生き方に自信があるのなら、たとえ誰に否定されたとしても気にせずに生きていけばいいじゃないか」

「質問に答えてください!」

「なら質問に答えよう」鋭い眼をしてゾズマ様は確固とした口調で語ります。「第一に、自分が何のために生きるのか、そう問われているにも関わらず自分ではなく他者を持ち出して理由に据え付けるのはただの欺瞞だ。結局は自分のためなのに他者を持ち出して安っぽい自己犠牲に浸るのは愚の骨頂としか言いようがない恥ずべき行為だ。他者のために生きたいなんてことをぬかす連中は、つまるところ自分は自分のために生きたいと言い切ることもできない腰抜けか、被害者ぶることで無意識にしかも良心に沿ったまま他者を支配しようとする邪悪のどちらかに決まっている。第二に、僕は自由をとりわけ愛する。自由意思を、この世の何事にも縛られない在り方を愛する。生きとし生ける全ては自由であるべきだ。だから君たちのような自縄自縛の被虐者を認めることはできない。君たちはそうやって自分の決めた勝手なルールで自らを縛り上げて喜んでいるようだが、そんなものはくたばってしまえ、だ。君たちは自分の愛を知らない。自分の好きな色、好きな景色を知らない。好きな言葉を知らず好きな動物を知らずありとあらゆる嗜好を持たない。ただひたすらに滅私の精神で誰かに頭を垂れては誰かのために生きる自分は素晴らしい生き物だとほくそえんでいる。下らない。君たちは実に下らない生き物だ。そして第三に」

 そこまで言うとゾズマ様はふと憐れむように私を見下ろしました。

「君たちには魂が存在していない」

「そんな」

「だから君たちはじつのところ生きてなんかいない。ただ、そこに在るというだけだ。君はミルファークと言う名の道具に過ぎないんだよ。針の城で使用される銀器や掃除用具と何も変わらない。そんな君が他者のためだなんて言葉を口にするのはおこがましいことだと思うよ」

「嘘です。私はこうして息をしています。生きているのです。魂がないだなんて、そんなことあるわけがありません。」

「では聞こう。君の名前は?」

「私? 私の名前は……ミルファーク、です」

「君はどこで生まれた? ここで働く前は何をしていた?」

「それは……」

「いいかい。妖魔に吸血されて虜となった者は強制的にその妖魔に従わされる。そして大抵の場合、心の弱い者は強すぎる虜化能力に耐え切れず人形になってしまう。それが君だ。オルロワージュに吸血され、自我も魂も忘却した侍女人形ミルファーク。自由からは程遠い存在じゃあないか」

 私はそれ以上何も言うことができませんでした。

 

 

 

 朝起きて、二段ベッドから降りると私はまず壁に据え付けられた洗面台で顔を洗います。それから顔を上げ、鏡を見て笑顔を作り、「おはよう」と微笑む練習をします。

 鏡には私の顔が映っています。癖のない栗色の髪、小さな目に控えめな唇。これが私の顔です。

「これが私の顔……これが、私……」

 目に映る鏡の中の世界には、確かに一人の女が映っています。さかしまの世界、虚像の世界。私が右手を上げると鏡の中の彼女は左手を上げます。

「それでいい筈よ……あなたは私、私はあなたなのだもの……」

 呟く声は随分と頼りなく感じられ、私はほんの少しだけ肩を震わせます。

 私は鏡を見つめて考えます。私は私が私であることを証明できるでしょうか。逆に言えば、私以外の誰かが私ではないことを証明てぎるのでしょうか。

 ……たとえばここに一人の女性がいます。私と同じ顔、同じ声をして、私と同じように振る舞う侍女。彼女が私ではなく彼女個人なのだと明らかにするにはどうしたらいいのでしょう。

 鏡を見つめてぼんやりしているともう一人の私がベッドから起き出してきます。

「おはようございます、ミルファークさん」

「おはようございます、ミルファークさん」

 もう何度繰り返したかもわからない言葉を交わし、私と私は互いに顔を合わせて微笑みます。

 僅かな寝癖の違いだけが私と彼女とを分かつ印。けれどもその違いでさえ、ミルファークの衣装である黒ワジュのドレスに前掛けと髪留めをつければなくなってしまいます。

 いつものように部屋から廊下に出ればそこには私という私がそこかしこに犇めいていて、同じ声で同じ言葉を螺子巻くように繰り返すのです。

 おはようございます。おはようございます。それはたとえば蓄音機がいつまでもいつまでも完全な同音階ばかりを奏でるように、抑揚や強勢すらも全く同じ声色で響きます。

 私は私の奔流に流されるようにして地下広間へと向かいます。

 君には魂がないというあの言葉を聞いてから、地下広間の光景を目にすると頭がくらくらしました。足元がぐらぐらと崩れていくような気がします。

「あ……」

 ぞくりと背筋をかけよる悪寒に声を上げると、聞きつけた侍女たちが一斉に私の方を振り向きました。

「ひ……」

 そこにあるのは見慣れたはずの私の顔でした。なんてことのない、無数の、私の、顔面。

 けれども魂の欠損を指摘されて眺めるいまこの時、それら全てが蠢く蛆虫の集合にすら思えたのです。

 それは同じものが蝟集する景色が呼び覚ます生理的な嫌悪感。葉陰の下に群れ集う白く膨れた油虫の集合。蓮の実の断面に見る黒の円環。皮膚病患者の殺伐とした腐れ穴。川辺の石をべりべりと引き剥がして見る暗がりにはありとあらゆる蟲どもが所狭しと悶えていて、なんらの意思も感じられぬままにじたばたと手足を痙攣させるその有様にはどんな聖人君子であろうとも眉を顰めざるを得ない。

 忌むべき恐怖。おぞましい有機質の集合体恐怖症(トライポフォビア)

 どうしたのミルファークさん、と近くにいた誰かが私に聞きました。すると波が伝わるように誰もが私を心配し始めます。

「どうしたのミルファークさん」「どうしたのミルファークさん」「どうしたのミルファークさん」「どうしたのミルファークさん」「どうしたのミルファークさん」「どうしたのミルファークさん」「どうしたのミルファークさん」「どうしたのミルファークさん」「どうしたのミルファークさん」「どうしたのミルファークさん」「どうしたのミルファークさん」「どうしたのミルファークさん」「どうしたのミルファークさん」「どうしたのミルファークさん」「どうしたのミルファークさん」「どうしたのミルファークさん」

 たくさんの優しい心に囲まれた私の頬を孤独な涙が伝います。

 ああ、真に恐ろしいのは、怖気たつその集団にあって、私もまたその一部であることなのでした。

 私の名前はミルファークといいます。明日もし私が殺されても、ミルファークが少し欠けるだけで根本的には何も変わらないのかもしれません。

 私は一体何なのでしょうか。私という存在は何なのでしょうか。

 私は無数の私に囲まれてなおどこまでも続く寂寥に凍え、とうとうぽつりと呟きました。

 

 魂が欲しい。

 

 

 

 

 

 魂はどこにあるのでしょう。魂は手を伸ばせば届くものですか。そこらに転がっていたり、どこかで売っていたりするものですか。

 魂があれば幸せになれますか。自分は自分であると確信でき、自分自身を好きになって、何の後ろめたさもなく胸を張って生きていくことができるのですか。

 朝起きて、ベッドから降り、顔を洗うこともなく鏡を見つめて一人私は考えます。

「私は」と私は言います。「私でなければいけない」

 背後でミルファークさんが目を覚まし、「おはようございます、ミルファークさん」と挨拶をするのが聞こえます。

 無視します。

「あ、あの……? ミルファークさん……? おはようございます……?」

 ふううと獣が吐くようなため息をついて私は一端ベッドに戻り、なるたけ心を落ち着けるよう努力しました。

「落ち着きなさい。落ち着いて考えるのよ、私……」

「ミ、ミルファークさん……?」

「まずは……」

「ふえぇ……」

 私は扉を開け廊下に出ます。大勢のミルファークさん達が地下広間へと向かおうとしています。同じことをしていても駄目だと思った私は逆の方向へと足を向け一歩踏み出します。

 ところがそれきり硬直したように体が動かないのです。何故と言って、この私にはそれからの考えやこれからどうすればいいのかという知識がまるで欠けていたからです。

 城で働くミルファークとして必要なこと、食器の場所や掃除の仕方は頭の中にあります。地下広間に行きさえすれば誰かが私に指示を与えてくれます。けれども、生きると言うことを継続するためには私自身がどうあるかを自分で決定しなければいけないのでした。

 何も知らない赤子のような気分です。何をどうすればいいのかさっぱり見当がつきません。ミルファークとして刷り込まれた様式以外の行動をとろうとした時、ぱっと頭の中が白紙になりました。

「考えなさい。私。考えるのよ……そう、まず……まずは、歩かなくては……」

 息を吸い、ゆっくりと吐き出します。私は呼吸します。それから右足を振り上げ、前方に投げ出し、振り下ろします。一歩進むことが出来ました。今度は左足を振り上げて振り下ろします。上半身が全く動いていないせいかバランスがすこぶる悪くぐらぐらします。勢いをつけるために右手を振ってみました。右手を振り、右足を踏み出します。……ああ、いいえ、右手を振りながら左足を踏み出した方が良いようです。右手を振り、左足を踏み出します。手と足を同時に動かさなければいけません。

「なんと……歩行がこれほど難しいとは……」

 驚愕に呻きつつ私はなおも足を進めます。傍から見ればぎくしゃくとしたそれこそ人形のように滑稽な動きかもしれません。でも私は必死でした。

 私は歩きます。これは私の意思です。おそらく、たぶん、きっと。私は私の意思で前に進んでいる。誰に命令されたのでもなく、私がそう望むために歩いている。

 私は歩きました。歩いて歩いて歩きまくりました。流石に疲れて足がぱんぱんに膨れ上がってもなおくじけずに意味もなく無駄に歩き続けていると、ゾズマ様が例の如くどこからともなくひょっこりと現れて言いました、

「……さっきから見ていたけど、君、何をしているの。馬鹿の練習中?」

「そうかもしれません。そうする以外に方法が思いつかないのですから」

「え?」

「……あれから少し考えてみたのですが、もしかしたら私には魂がないのかもしれません」

「ふうん?」

「でも、だとしたら私は思うのです。魂を手に入れるにはどうしたらいいだろうかと」

「面白くなってきたな」

「この前あなたは仰いました。私には過去の記憶がない。好きな色や好きな言葉、嗜好というものがないと。たとえば記憶なら、これからも在り続けていけば自然に蓄積されます。好きな色や言葉はある程度無作為に選び、それを好きだと自分に言い聞かせていけば次第に身に馴染んでいくかもしれません。そうしたら魂を持っていることになりますか?」

「もちろん、ならない」

「そうでしょうね。……では、ゾズマ様にとって魂の定義とは一体なんですか?」

「僕にだって魂の正確な定義なんてものはできやしない。でも条件の一つとしては意思を持っていることが挙げられる。それにしたって、誰かに洗脳されていたり強制されているような意思じゃあ駄目だよ。それはメカ種族のプログラムとは違うものなんだ。……だから、より踏み込んで名前を付けるのなら、それはきっと自由意思とでも呼ぶべきものだと僕は思う」

「じゆう」

「そうだよ。前にも言ったろう? 僕はその言葉が大好きなんだ」

「あなたにとって自由とは一体何なのですか?」

「それはね」

ゾズマ様は子供のように無邪気な笑みを浮かべて言いました。

「この世の全てに対して無責任でいることさ」

 ……どうしようもない阿呆であると判断します。

「あれ。なんだい、その冷たい視線は。ひどいなぁ。大いに傷つくよ」

「ありていに申し上げてがっかりでございます」

「それはまたどうしてかな」

「さんざんご高説をぶって、人のために生きるのは下らないだなんだと言っておいてなんですか。無責任とは」

「僕は自分の生き方について言葉を飾る気はないんだ。自由であるということは高貴なことでも崇高なことでもない。自由とは自分勝手なことだ。我儘でいい加減なことだ。僕は自分の生きたいように生きて誰かに迷惑を掛ける。そのことを否定するつもりは一切ないよ」 

「……自由を求めると言って、実はそのあなたが自由であることに対して縛られているのではないですか?」

 私が指摘するとゾズマ様は「うん。良い意見だ」と言って笑いました。

「そのことを指摘されるのは君で692回目だな」

「……私の言葉は凡庸であると?」

「ああ、いや今回は別にからかっているわけじゃあない。僕もそれなりに長いこと生きているからね。同じ生き方を続けていれば同じようなことを言われることもある。今の君の言葉はとても面白いと思うよ。これまでこの僕にそんなことを言った妖魔や人間を僕は例外なく好きになってきた」

「ゾズマ様も誰かを愛することがあるのですか?」

「好きになることはあるよ。でも愛したりはしない。好きかもしれないと思ったらそれとなく観察して、飽きたら放っておく。そのくらいかな」

「またおかしなことを」

「愛という感情は根本的には支配的なものなんだ。自分の欲望を満たすために愛を告げられるのも僕にとっては不快だし、妖魔に群がる娘たちのように進んで支配されたがるのも馬鹿馬鹿しい。僕は僕に愛を語る女性を例外なく軽蔑するつもりだ」

「難儀なお方ですね」

「僕もそう思うよ。僕は僕らしく自由であろうとするあまり、ある意味では君の言うとおり雁字搦めになっているのかもしれない。困ったもんだよ」

 ふふふ、とゾズマ様は楽しそうに微笑みました。

 

 

 ゾズマ様はその後もときおり私の部屋を訪ね、私たちは短い会話を交わすようになりました。いつも我儘で気分屋で好き勝手なことばかり言うゾズマ様でしたが、この城の中で私の話を聞いてくれるのはゾズマ様だけなのでした。

 このままゾズマ様に様々なことを教えて頂き、いつか魂と呼べるものを手に入れられたらいい──そんな風に考えていた私の考えはあっさりと裏切られることになります。

 別れの日は唐突にやってきました。

 

 

「ちょっとこの城を離れることになってね。今日はお別れを言いに来たんだ」

 ゾズマ様はいつも大事なことをいきなり口にします。

「……え?」

「知り合いがマンハッタンで貿易会社を始めると言うんで、ついでに僕も外の世界に足を向けてみることにしたんだ。もう少ししたら僕は城を出る」

「あ……」

「君とは色々話せて楽しかったよ。じゃあね」

「待ってください!」

「うん?」

「あ、の……。私も……私を、一緒に連れて行ってはくださいませんか?」

 決死の思いで告げた私に対して、ゾズマ様は──ああ何という方でしょう、にっこりと笑って「嫌だよ」と言うのでした。

「君はオルロワージュ様のものだろう? 彼の所有物に手を出す気はないよ」

「でも、私は!」

 言いかけて私は口をつぐみました。──僕は僕に愛を語る女性を例外なく軽蔑するつもりだ。そう言ったのはまさにゾズマ様です。

「私、は……」

「君の言いたいことはわかるよ。でも僕には必要ない」

「私が人形だからですか? 魂のないミルファークだからですか?」

「君は一体何を求めているのかな? それこそ、僕についてきたら魂が手に入るとでも? 君はただ、城での生活に少し飽きてしまっただけさ。たまたま僕と言う異分子に違う考えを吹きこまれて啓示されたような気持ちになっているだけで、本当は何一つ進歩なんかしていない無知で考えなしの御嬢さんなんだ。……ああ、そうだね。確かに僕は自由を語ったかもしれない。自由意思を持つことが重要であるように言ったかもしれない。でもそれにしたって結局は個々の自由というものだろう。言ってみれば、君は僕の言うことをはなから馬鹿にして耳も貸さないくらいでも良かったんだ。僕は別に自由というものが唯一無二の真理であるとは思わないよ」

「だって、あなたが仰ったのではないですか! 私には魂がないと。そんな生き方は下らないと!」

「魂が無くたっていいじゃないか。君がそれで満足できるのなら魂があろうとなかろうと関係ないだろう」

「だって、あなたは! あなたが……!」

 体から力がぬけ、私はくずおれました。

「いったい私は、あなたの言葉の何を信じればよろしいのですか……。次から次へと言うことを変えて、そんな、無責任に過ぎます……!」

「言ったろう。だから僕は無責任な妖魔なんだよ」

「ひどい……」

「誰かに従いたいだけならこの針の城にいた方がずっと安全だ。仮に僕についてきたとして、それは君を支配する相手がオルロワージュ様から僕に変わるのと何が違うのかな? 僕に何かを言われて、はいはいと何もかもを受け入れて、僕の望むがままになるのなら君はいつまでたっても人形のままだ」

「私はいったい何なのですか……? 私はいったい誰なのですか?」

「それを語ることができるのは君だけだ。ほかの誰にもさせてはいけない」

「……私は何の変哲もないただの侍女です。そんなことはできません……」

「だから、これでお別れだ。さようなら」

 あっさりとそう言ってゾズマ様は去っていき、別れ際にこう言い残しました。

「ああ、そうだ。一つだけ方法がなくはない。もし君が自分の名前を思い出すことができたなら、君はもうオルロワージュ様の所有物なんかじゃない。その時は、喜んで僕は君と一緒に旅をしよう」

 

 

 

 ……。

 名前……。

 私はミルファーク。

 でも、ミルファークになる前の私は一体どんな人間だったのでしょう。ミルファークになる前は、人間としての名前があったはずなのです。

 名前。私自身を指し示す言葉。それさえ思い出すことができれば私は針の城から抜け出すことができる。私自身を取り戻すことができる。

 けれどもつまるところそれは、オルロワージュ様の虜化能力を打ち破ることを意味しています。一介の侍女に過ぎない私にそんなことができるでしょうか。

 自室に戻った私は頭を抱えて苦悩しました。気が狂いそうでした。名前、名前、名前。名前を思い出さなければいけない。私には名前があった筈。お母さんがつけてくれた名前、知り合いが私を呼ぶその言葉。名前、名前、名前……。私には、ああ、名前があったというのに……。

 悩めども悩めども枯れ果てた記憶の荒野に魂など見つかるはずもなく、私はついにわっと泣き出してしまいました。同室のミルファークさんはいつまでも心配そうに私を眺めていましたが、口をきけばまた私も「ミルファークさん」に戻ってしまいそうでお礼を言うことも謝ることもできません。

 私は一体何なのでしょうか。気が付いたら誰かに従う人形になっていて、昔のことをいつの間にかに忘れていて、自分自身のことも周りのことも分からず、助けを求めれば突き放され、魂がないと言われ……。

 いつしか私はふらつく足で部屋を離れ、あてもなく彷徨っていました。

 魂が欲しいと思いました。

 自由になりたいと思いました。

 この胸を渦巻く悩みの何もかもを解決して、自分が自分だと誇れるようになりたい、笑って生きていたいと思いました。

 力が欲しいです。魂が無いなどと言われて、そうかもしれないなどと自己嫌悪に陥ってしまうような今の自分を好きにはなれません。力があれば、私に強さがあれば、誰に傷つけられることもなく私は私のままでいられるはずなのです。誰かに殴られたら殴り返すことができるようになりたいのです。仕返しや報復を恐れて相手の顔色を窺ってばかりいるような生き方をしているのは嫌です。

 私は……。

 私は邪悪でありたいのかもしれません。

 吹き付ける風に涙で腫れた頬が痛みます。

 たとえばゾズマ様があれほどまでに飄々としていられるのは、結局ゾズマ様に実力があるからではありませんか。もし仮に下級妖魔クラスの力でしかなかったのなら、傍若無人に振る舞うことなどはできないはずです。

 力があれば。

 私にも武器があれば。

 ……そう考えた時、私はいつの間にかにゴサルスの店の前へと立っていたのでした。

 

 

 

 ぶくぶくと醜く肥えた緑色の肉の塊。ファシナトゥールで攻防を営む下級妖魔ゴサルスの容姿は一言で言えばそうなります。油に汚れた革の作業着を身につけ、不機嫌そうにカウンターに座るゴサルスは私が扉を開くなり「何のようだ。何が欲しい」とぶしつけに視線を向けてきました。

「おっと金ならいらんぞ。代わりにお前の命をもらおう。幻魔は生命三つ。トウテツパターンは生命二つ。木陰のローブは生命一つ。砂の器は生命一つだ」

 ゴサルスの店には妖力を秘めた様々な道具が置かれています。真っ先に私の目を引いたのは幻魔という一振りの剣でした。煌々と光を放つ不思議な剣に惹かれて何気なく手に取りその柄を撫でると、肌にひたりと吸い付くような感触がします。

「良いものに目を付けたな。店の中でもそれは一番価値のあるものだ。幻魔はなんでも斬れる」

「なんでも……?」

そう言われて私は幻魔を見つめます。剣を握るだけで湧き起こる全能感がありました。

「ほんとうになんでも斬れるのかしら」

「ああ」

「なら、今この場であなたを斬り殺して店にあるものを全部頂いてしまうこともできるの?」

「おい」ゴザルスは低く唸り私を睨みつけました、「滅多なことを言うもんじゃないぞ、小娘」

「私は商品の説明を聞いているだけでしょう。なんでも、というのは、どこからどこまでのことを指すの」

「……竜は斬れるさ」

「妖魔は?」

「なんだと?」

「妖魔は斬れるの?」

「斬れなくはない」

「はっきりしなさい。斬れるの? 斬れないの? たとえば上級妖魔の身体を断つことはできるの? 妖魔の君は?」

「お前は一体何を考えているんだ? ここはファシナトゥールだぞ!」

「どちらなの」

「……お前風情が幻魔を持ったところで上級妖魔に敵うわけがなかろう」

「……そう」

 失望して私は幻魔を棚に戻しました。その他に周囲を見回しましたが武器になりそうなものは見つかりません。

「……いらないわ。どれもこれもがらくたばかりじゃない。私には必要ないわ」

「そう思うのはお前の勝手だな。……大体針の城の侍女がなぜこんなところに来たんだ? 誰か偉い方の使いなのか?」

 問われて、私は我に返りました。……いったい私は何をしているのだろう。不意に何もかもが馬鹿馬鹿しくなり、「さあね」と言って踵を返したその時、ふと店の片隅にぞんざいに投げられていた一つの仮面が目に留まったのです。黒青銅を刳りぬいた幾何学的な仮面でした。武骨な骨格標本じみた仮面を手にした時、私は不思議にその仮面を手に入れる気になっていました。

「これは?」

「それか? それはジャスペロダスの仮面だな」

「効果は?」

「効果? そんなものはない。ジャスペロダスの仮面はジャスペロダスの仮面だ。それ以上でもそれ以下でもない」

 人を食ったような返答にしかし私は反発を覚えるよりもむしろ自然と「ああそうだろう」と納得してしまいます。

「そう。ならこれを頂戴」

「生命一つだ。あとで泣いても返してやらんぞ。本当にいいな?」

「ええ」

 

 

 

 こうして手に入れたジャスペロダスの仮面を身につけ、私は根っこの町を歩いてみました。行き交う人や妖魔たちが奇異なものでも見るかのようにじろじろと不躾な視線を向けてきます。しかし仮面をつけていると不思議に恥ずかしいとは思いません。表情を隠して相対する世界はまるで物語やおとぎ話のように現実感が薄く感じられるものです。

ミルファークとして顔を心を奪われた私にはこの仮面がふさわしいような気がしました。剥ぎ取られた人格の代わりに仮面を被って街を闊歩していると、これでいいのかもしれない、そんな気分になるのです。

 町を歩いているとさまざまな声が聞こえてきます。妖魔に恋する乙女の嬌声、日々の生活に追われる人間の嘆き。彼らには自らの魂というものがあり、私にはない。それならば──。

「やあ、ジーナ」

「アセルス様!」

 見知らぬ妖魔に仕立て屋の娘が駆け寄っていくのが見えました。確かジーナという名前だったはずです。ジーナは頬をうっすらと染め、はにかみながら妖魔の隣にぴったりと身を寄せます。私は二人の横をそのまま通り過ぎます。仲の良さそうな二人が穏やかに会話を続けるのが聞こえます。

 孤独をまったく感じさせない二人の様子に私は思わず仮面を抑えて俯きました。

「……そうなんだ。ああ、そうだ。ジーナのご家族は今何をされているの?」

「私の両親や弟たちは家で農家をしてます。姉は──」

「お姉さんがいるんだ。少し意外かな。ジーナはしっかりしているから、長女かと思ってた」

「……ええ。姉は……」

 その時、雲間から太陽の光が差し込むようにぱっと一筋の光明が私の心を照らしました。心に花が咲くように気分は晴れ、あらゆる論理を超越する確信が沸いたのです。

 私は私であると判断できました。証明することなどはもちろんできません。なぜそんな気持ちになったのかも自分ではわかりません。もしかしたらこの仮面のおかげでしょうか。今ならば自分がどうすべきなのかを決められる気がしました。

 私の名前は──。

 

 

 ◇

 

 

 ゾズマ様、と私は言います。針の城に戻り、大声で叫びました。少し待っているとゾズマ様は「おっとっと」と言いながら衣裳棚の中から現れました。

「君。僕の名前をそんなに大きな声で呼んではいけない。僕はここでは反逆者だからね」

「同室の子は今いませんから、大丈夫です」

「そういう問題でもないような……。まあ、いいか。それで、僕を呼び出したのは何の用? もしかして、もしかしたのかな?」

「私の名前はディアディムです。ゾズマ様」

 私は言いました。それこそが私の名前、私自身を呼ぶ言葉です。

「へー。これはたまげたな。まさか本当に虜化能力を打ち破るとは思ってもみなかったよ」

 しきりに感心しているゾズマ様のご様子が実に愉快で、私はにっこりと笑って答えました。

 

「──いいえ」

 

「ん? でも君は自分の名前を思い出したんだろう?」

「いいえ、違います。私は結局、自分が誰だったのかを思い出すことはできませんでした。だから代わりにこう考えたのです。魂が無いのなら魂を演じる以外に他はないと」私はジャスペロダスの仮面を顔につけます。「私は自分が誰なのかわからない。……だから私は、代わりに自分で自分に名前をつけることにしました。私の名前はディアディムです。私がそう決めたのです。私は生きています。もし仮に生きていないと言うのなら、少なくとも私は生きている演技をし続けようと思います、魂があるように、自我があるように、あなたを愛する女であるように」私は語ります。「私はお芝居を繰り広げます。……だから、どうか、あなたに心を委ねたからと言って軽蔑したりはしないで下さい。何故と言って、それは所詮演技に過ぎないからです。あなたに捧げる全ての言葉は嘘であります。私と言う女がゾズマ様を愛するのは虚構なのです。ゆえに私は、私を構成する一切がフィクションであることをここに宣言いたします。そしてその上で、この運命の舞台の上で、それでもなお自分自身と言うものを演じ、見出したいと願うのです。あなたの傍に居させてください。ゾズマ様」

 しばらくゾズマ様はきょとんとしておられました。しかし次第にそのお顔に理解の色が広がるにつれてその唇からは優雅な笑い声が漏れだします。

「……いやぁ、まさか、これはこれは……」

「お笑いになるのですか。……いささか残念ですが、仕方のないことですね」

「違うよ……ディアディム」

 ゾズマ様はくつくつと肩を震わせながら優しい口調で仰いました。

「君は完璧な答えを出した。僕の予想を超える答えを。今この時、君は君自身を完全に支配して見せた。僕は君に敬意を表するよ。ディアディム」 

そう言うとゾズマ様はふと真剣な顔をされ、ゆっくりと膝を折りました。恭しく頭を垂れ、貴婦人を踊りに誘うかのようにこの私に手を差し伸べます。

「……どうかお嬢さん。この僕と共に旅をしてくださいますか?」

「……はい」

 ゾズマ様の手に手を落として握りしめました。魂も記憶もない私ではございましたが、ただこの瞬間だけは確かに幸福を覚えました。

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