自分が死ぬ夢を見た。これまでになく嫌な夢だった。
死んだことが嫌だったのではない。死んだ筈のその後でなおも意識が続き、自らの身体を俯瞰するような形で眺める羽目になったのがただたまらなく気持ち悪かった。二の腕を突き破って飛び出た骨、腹の隙間から漏れ出す黄色い汁。醜く折れ曲がった腕は蒼黒く腫れあがりあらぬ方向を指している。どうしようもなく変わってしまった自分の身体はひたすらに不気味で仕方がなかった。
そうだ。不気味だなと自分はそう思ったのだ。悲しみを覚えるよりも先に自分自身への純粋な嫌悪感だけが色濃く湧き起こり、死んでしまった悲しみ、知り合いともう会うこともできない悲しみ、そういった感情は明らかに欠けていた。
ああ、死んだ、と自分は思う……不気味だな、気持ちが悪いなとぼんやりと考える。そうして最後に頷いてしまうのは結局のところ心の片隅でどうせこんなことになるのだろうと考えていたからかもしれない。
ああ、死んだ。仕方がないな。どうせ、こんなことになるんだろうな。そう考える自分を当然のように認めている。
少女には夢がなかった。目指す場所、望む生き方というものを胸に描いたことがなかった。
少女には両親がいない。生まれて間もない頃に古墳で落石に巻き込まれて死んだのだと叔母は言っていたけれど、それが嘘であることくらいは少女にもわかる。写真の一つも残っていない両親。どんな人だったのかと尋ねるたびに言葉を濁す叔母。「優しい人だったよ」「穏やかな人だったよ」そう取り繕うように叔母は説明してはくれるものの何一つ具体的な思い出に触れることはなく、ただ優しくて穏やかだったとしか語られない両親の想像上の顔は能面のように微笑んでいる。
一度家の周りにおかしなビラがまかれていたことがあった。乱れた文字で何度も何度も“呪われろ”と書き連ねられたビラを目にした時心底からぞっとしたのを覚えている。見知らぬ悪意に怯えて自宅に帰ると叔母を優しく抱きしめて「何でもないよ」と言ってくれたけれど、迷惑をかけたと近所の家を回っては頭を下げる叔母を見るのは辛かった。
春の花が咲くころになると毎年決まったように無言電話が鳴り響く。一体世の中には何が起こっているのだろう? 私は一体どんな人間から生まれたのだろう? どれだけ頭を捻っても答えは出ない。
17歳になった少女は「優しく穏やかな」両親が遺した借金を保証人である叔母が地道に返し続けていることを知っている。自分の娘同然に接し、時には勉強を教えてくれ、いつも朗らかで明るい叔母。
たとえ何があろうとも彼女に迷惑を掛けてはいけない。望んでいるのはそれだけだ。
同級生の女の子たちは勉強に部活にバイトにといつも忙しそうにして、たまの休みに大勢で連れだって繁華街に出かけていれば満足なのだろう。でも自分は違う。彼女たちには繋がりがある。母が子を産みその子供がいつか母となってまた子供を産むように、連綿と受け継がれていく人間の物語、家系図の記憶が自分にはない。どんな風に恋をして、どんな風に結ばれて、契りを交わした二人がどんな風に自分を産んだのか。少女にはわからない。
叔母とは血が繋がっている。でも本当の家族ではない。本当の家族になれたとしても、知らない内に与えていた迷惑を思えばその愛を無制限に受け入れて笑っている気にはなれない。
カフェに座って笑いながらクレープを咥える同級生たちには帰るべき家がある。本当の母親と本当の父親がいて、少しずつ少しずつ大きくなっていく様子をずっと見守られていたに違いなく、そしてそれはなんら間違ったことではない。
親が子を愛するのは当然のことだ。その愛を受け取るのは当たり前のことだ。
けれども……けれども、それが叔母であればどうなのだろう。妹夫婦が遺した借金を文句ひとつ零さずに返済し、その娘を高校に通わせ、衣服を与え旅行に連れて行ってくれ、大学の学費まで出してくれると言う親戚。叔母から注がれる惜しみない愛情。
受け入れてさえしまえば楽になれるのだとわかってはいる。娘だからといって両親の犯した罪まで背負う責任は無い。だいいち叔母は大人で自分は子供なのだ。守られて当然だろう。叔母がどれほど夜遅くまで働いて体を酷使しても、まめだらけの手にあかぎれをつくり、夜勤明けの疲れた体で弁当を拵えようとしても、「いつもありがとう」とそれだけを言って何も知らない振りをしていればそれでいいだろう。
けれども。
(それは……違う)
早く高校を出て働きたかった。自分の力で食べていけるようになりたかった。しかし同時に自分の力で生きていきたいとは思えなかった。生まれて生きてどうしようというのだ。
少女にはいつか自分が子供を産むのだと言うイメージがまるで湧かない。愛する誰かと結婚をして、子供を産み、またいつか孫が生まれ──そんな繋がりを他人と持つことが自分にできるとは思えない。自分はきっと、誰からも愛されることなく、自分という情報を後世に残すこともなく、静かに忘れ去られていくだけなのだ。
親がいないということだけを全ての原因にできるわけではない。しかし何にせよ少女はごくごく平凡かつまっとうにひねくれる。
ひねくれた少女は自然と子供社会の嫌われ者たちとばかりつるむようになる。どこにでもいる、少しだけ頭のおかしい子供たち。虫を殺すのが好きで好きでたまらない子供、飼い犬を他人にけしかけて楽しむ子供。少女が属する集団は学校からつまはじきにされるような子供ばかりだ。
少女が特に仲良くしていたナシーラもそんな子供の一人で、彼女はひどい盗癖を持っていた。盗癖といって、別に何か財や金品を盗んでいくというわけでもないのだが、幼い頃からナシーラには他人の人家に無断で踏み込んでは庭に生えている花を手折って持ち帰ってしまうという救いがたい悪癖があるのだった。事件が発覚してもなお悪びれもしないその態度にあっという間に村八分の憂き目にあったナシーラはしかし依然として何処吹く風で花盗人をやめようとはしなかった。
◇
──ナシーラ。早く行こう。そんなとこでしゃがみこんでいたらまたみんなに苛められるよ。
──だってアセルス。この花はこんなにも美しいの。私、ずっと見ていたいわ。
──そんなんじゃ駄目だよ。ちゃんとしていなけりゃ誰かに笑われるんだ。
──アセルスがいればいいわ。それ以外には誰に笑われたっていい。
──友達ができないよ。学校でのけ者にされるよ。
──ねぇ、アセルス。私は私が欲しいものだけが欲しいの。それ以外は何一つだっていらない。向こうからただでくれるっていったってお断りよ。私は私が望むもの以外の全てには、一歩だって私の世界に踏み入れてほしくないの。
──それで本当にいいの?
──ええ、いいわ。あんな人たちとなんか友達になりたくないわ。当たり前のことばかり口にして、馬鹿みたいにげらげら笑っていることしかできない人たちは嫌い。
──私だって似たようなものだと思うけど。
──アセルスは別よ。
──どうして?
──いいえ。
──いいえ? いいえってどういうこと?
──私はアセルスに関しては疑問を持たないの。もしかしたらとか、ひょっとしてとか、そんな風に疑ったりはしない。あの人たちとアセルスは別。理由なんて知らないわ。
──それはまた随分と評価されたものだなぁ。
──あなたは特別なひとよ。私にはそれがわかるの。
──自分ではどうもそんな風には思えないんだけど。
──そういうものでしょ。自分のことなんて、自分が一番わからないのかもしれないのだし。
──ま、それはそうだ。
──……。
──……。
──ねーえ、アセルス?
──なあに、ナシーラ。
──高校を卒業したら、やはりあなたは就職するの?
──うん。さっさと独り立ちしたいんでね。
──…………そう。寂しくなるわ……。
──仕方がないよ。
──そうね。仕方がないのよね……。
──うん……。
──アセルス。
──うん。
──私たちは知っているわ。いつか自分たちが大人になるってことを。何年後か何十年後かはわからないけれど、いつか当たり前のような顔をして大人になって、子供の頃のこだわりや意地というものを捨てて、そんなもの初めから無かったものとして忘れてしまうか、それとも「あのころは馬鹿だった」なんて笑い話にしてしまう。今こうして花を見て、隣にアセルスがいてくれることを私がどう感じていても、時が経てばどうでもよくなってしまうのかもしれないわね。たった一瞬の気の迷いや幼い錯覚に過ぎないのだと思い込んで、この感情の何もかもが殺されてしまうのかもしれないわね。
──うん。
──……。
──……。
──……手を、握っても良い?
──ああ、うん……。
──……冷たいのね、あなたの手。
──ごめんよ。
(ごめんよ、と少女は言う。うん、と頷いたナシーラの右眼から不意に涙が零れる)
──あ……。
──どうして、泣くの?
──さあ、どうしてかしら……。私にもわからないわ。今、不意に、きゅっとなんだか悲しくなったの……。涙が出た……。
──うん。
──アセルス……。
──泣かないで。
──いつか……。
──いつか?
──この花が永遠であればいい、この花が世界で一番美しい花であればいいのに。そうすれば私はきっとこの日のことを忘れないし、永遠の花を見たこの日のことを永遠として胸に抱いていられるのに。
──うん。そうだね。でも……。
──ええ。そうね……。
◇
その日、ファシナトゥールの空を49匹の妖鳥が舞った。
赤子を奪う姑獲鳥の粘つくような啼き声があった。仏の声を形容する逸音鳥の啼き声があった。嘴で火を呑む迦楼羅の啼き声があった。
黒雲の空を劈いて轟くけたたましい怪鳥の囀り。女の半身を持つ鳥達が鉤爪を擦りあう不吉な風切り。くるりと円を描いては風に乗り、空を切り、やがては互いに殺し合いを始める妖鳥達の舞踏。
槍のように尖るその嘴で肉という肉を少しずつ毟り取り、くちゃくちゃと音を立てて咀嚼しては嚥下する。
円舞の果てに残った最後の一匹は傷ついた羽を羽ばたかせ、断末魔とは思えぬほど安らかな喘ぎ声をあげたかと思えばよろよろと空を堕ち、針の城の窓辺に身を横たえると室内に眠る姫君にその身を捧げるべく目を閉じる。
海辺に埋まったフューズクリスタルが狂ったように明滅を繰り返し通り過ぎる旅人の眼を焼く。
膨れ上がったガイアトードの腹が裂け、ぼろぼろと零れ落ちた稚児たちが喉を握り潰されたような絶唱を始める。
幹に多数の自殺者をぶら下げたトレントは吹き荒れる妖風に高く枝を揺らし、呪われた髑髏達が一斉に嘆きの怨嗟を歌う。
ありとあらゆる怪物の群れ、過去現在未来全ての
それは針の城の一室に眠るたった一人の乙女のために捧げられた百億の異形の祝福。
万魔の歌。
あなたが天を見上げるときそこに太陽の光は無く、無数の死骸が降り注ぐ暗黒の空がうねりを巻いて待っている。ふと視線を横に向ければ、ぼとぼとと無造作な音を立てて身も蓋もなく墜落したモンスターの死体が積み重なっている。
決まっているだろう。全ては誕生を言祝ぐためだ。生れてきてくれてありがとうと、おめでとうと、囁く代わりに血を流し、肉を磨り潰し、命という掛け替えのない贈り物を献上するためだ。
長い長い年月が過ぎ、深い眠りから目覚める万魔の姫。たった一人のために百億の怪物が死んでようやく彼女は目を覚ます。
──彼女の名はアセルス。妖煌帝オルロワージュの血を享けて蘇った半妖。自らに起きたことを、彼女はまだ何も知らない。
◇
……そして少女は夢を見る。少女の夢で少女は死んで、馬の蹄に蹴られた骨が炭酸水の泡にも似た音を立て砕け散る。風に散らばる少女の骨がからりくろりと音を立て、馬車の扉がするりと開けられ、踏み出した優美なる妖魔の足が少女の骨を静かに踏み砕く。
ああ、と少女は言う。妖魔はふむと頷いて飛び散った少女を拾い上げるとしみじみと呟く。なんと醜い娘だろう。
少女の死骸が風に震える。骨がからりと鳴り響く。風に震える少女の骨の顎関節がからりと鳴いて喋り出す。
醜かろうがなんだろうがあなたの知ったことじゃない。仮に醜いと言うのなら、あなたが美しくすればいい。私の骨をあなたが拾った。
それを聞き、再びふむと頷いた妖魔は少女に自らの血を与え、そして少女は……。
脊髄が痺れあがるような恐怖を覚えて起き上がった。がばりと音を立てて毛布を跳ね除け、体全体で荒い息をつく。茹だるような体の熱が汗によってさっと冷えていく。混乱したまま思わずじっと手のひらを見つめる。体がある。死んではいない。では夢だったのか、自らの砕ける音、体の奥の致命的な何かがぶちぶちと千切れていくあの切ない感覚は泡沫の幻に過ぎなかったとでも言うのか。
「夢……。そう、夢を見た……」
嫌な夢だった、とアセルスは思う。一体なにが嫌だったのか? 死んだ自分を見下ろす自分が嫌だったのだ。死んでなお悲しいとさえ思えない自分が嫌だったのだ。生きることに執着の一つさえ持てないうすっぺらな自分。
「まったく」とアセルスは静かに囁く。「とんだ馬鹿野郎だよ……」
暗澹たる面持ちで胸元を握りしめていると驚くほど近い場所で不意に誰かがぼそりと囁いた。独り言の多い小娘だな。はっとして横を向けば今の今まで何の気配さえ感じ取れなかった間近に鏃のように鋭い眼をした女が立っている。僅かな怯えを含ませ誰何の声を上げるアセルスを緑髪の奥から見つめ、女はゆっくりと口を開く。
「目が覚めたか」
「あなたは誰?」
「質問に答えよとは仰せつかっておらん。俺の役目はお前の目覚めを確認することだけだ」
「俺? あなた……もしかして男のひと?」
まじまじと観察してみると緑髪は驚くほど均整のとれた顔立ちをしており、男も女とも定かでない。
「何が起きたかまったく理解していないようだな。まあいい」
そう言うと緑髪は陽炎のようにすっと滲み消えてしまう。
「消えた……」
見たままを間抜けに口にして茫然とする。よくよく辺りを見まわしてみれば自分がいる場所はまるで見知らぬ洋室で、アセルスは思わずぞっとする。
「ここはどこだ……私はいったい……」
部屋に置かれたあらゆる調度品は古めかしい年代物で、絵本に書かれた挿絵のようにどこか現実感が薄かった。
室内は全体的に暗く、広々とした部屋の片隅はほとんど闇に覆われて判然としない。
起き上がりベッドから降りるとかつんと硬い音を立てて靴が床を叩いた。下を覗き込めば床は一面モザイクガラスが敷き詰められ、仄かな光を放っている。光源はどこにあるのだろう? 床にガラスで描かれた細密画がうっすらと息づくように明滅する。穏やかな黄褐色の光を放つ床下を眺めていると訳もなく何か目覚めることのない胎児や卵を見ているような気分になった。床の明滅が呼吸に見える。蟻が閉じ込められた琥珀化石を握りしめれば掌の中に一億年を感じるように、足元で得体のしれない何かが胎動する感覚に悠久を覚える。
窓に嵌め込まれたステンドガラスは紫色に妖しく光り、そこかしこをつたう蔓によって縛り上げられている。薔薇に冒された室内では植物の甘ったるい香りが充満し噎せ返りそうだ。息苦しい。
外の空気を入れようと窓へ近づくと、トン、と軽い音が鳴った。近寄ると、一匹の[[rb:小妖精 >スプライト]]が重たそうに小さな花を抱えながら懸命に窓を叩いていた。シュライクでは滅多に見かけることのない妖魔にはじめぎょっとしたアセルスだったが、スプライトの様子があまりにも愛らしく危険があるようには到底思えなかったため無防備にふらふらと駆け寄った。アセルスに気づいたスプライトが窓の外で「ふわ」と嬉しそうに頬を染め、眼を輝かせる。中に入りたいのかと窓を開けようとして、しかし嵌め込み式のステンドガラスはびくともしない。スプライトは恭しく花束を捧げ、それから膝をついて深々と頭を下げる仕草をしてみせるがアセルスにはなんのことがまるでわからず途方に暮れた。窓は開けることもできず、スプライトの声も届かない。仮に聞こえたとしても言語が通じるのかどうかアセルスにはわからない。
スプライトはしばらくあたふたしていたが、やがて動きを止めるとその瞳にこんもりと涙を浮かべた。悲しそうに顔を歪め、ぷるぷると震えている。憐みを誘う様子にアセルスは思わず「あっ、ごめん」と口走ってしまったがだからと言ってどうすることもできない。
泣きながらスプライトは一端花束を置き、小さな拳をぎゅっと握りしめて、力いっぱい窓ガラスをたたき始めた。打ち付けるたびにスプライトの身体がびりびりと震えるほど力が込められてはいたが、しかし妖精の力ではやはりトンという軽やかな音しか出ない。
何度も何度も拳を打ち付ける内にスプライトの拳は次第に壊れていく。まち針の頭ほどにしかないちっぽけな拳の指が折れ、皮膚が裂け、血が流れ出していく。
「もういい、やめて!」
アセルスは叫ぶ。だがスプライトはなおも止めようとしない。狂ったように窓を叩き、哀しみの涙を滂沱と流す。言いたいことがあったのかもしれない。仲間うちを一人抜け出して囁く恋の一つもあったかもしれない。しかし言葉は届かない。贈り物を捧げることもできない。愛しい人を前にしてなんと自らの無力なことか──力尽きたスプライトは絶望に昏い眼を浮かべ窓の外を落ちていった。