普通のフランドール 作:ねこ
姉と別れた私は、廊下を歩いていた。私の部屋へと続く廊下ではない。図書館まで続いている廊下だ。
姉の、部屋で待機していろ、という言いつけを無視するつもりはなかった。だが、先にパチュリーから、本を借りておきたかったのだ。
一応姉にも頼んでおいたけれど、やはり自分で本を選ぶのも楽しい。それぐらいなら、許されるはずだ。
長い廊下は不自然に天井が高く、道幅も広かった。かつては無かった窓も、いつの間にか取り付けられている。私たち吸血鬼には日光は毒であったが、高いところにある窓からは、直接日の光が廊下に降り注がないようになっていた。
しばらくまっすぐ進んでいると、大きな扉が見えてきた。私の小さな身長では届かないような高い位置にドアノブがある。
だが、あのドアノブを使って入るような礼儀正しい存在は、この館には、メイドの咲夜しかいないだろう。
「でも、たまには私も礼儀正しくしないとね」
宙を飛び、ドアノブに手をかける。それにぶら下がってみると、くるりとドアノブが回転した。
足をぶらぶらと揺らし、体重を扉へとかける。ブランコのように勢いをつけ、ドアノブを持ったまま扉を蹴飛ばすと、思ったよりも勢いよく開いた。
ただ、勢いよく開きすぎた。内側に急に開いたせいで、体が独楽のように回転し、振り回される。ドアノブを中心に、半円を描いた体勢を整えようとするも、途中で手がドアノブから離れた。
図書館の中へと、吹き飛ばされていく。巨大な本棚が視界に映り、すぐに消えていった。そして赤色の絨毯が急に目の前に現われる。
「あっぶない!」
平衡感覚が定まらないまま、闇雲に体を動かし、なんとか顔面で床に着地するのを阻止する。きっと、今の私の体勢は、なんともみっともないことになっているだろう。それこそ、体がねじれた蛙のように。
その、無様な蛙の格好のまま、ふよふよと漂い、先へと進む。目はいまだくるくると回っていて、まっすぐ進めなかった。それでも、なんとなく見えるパチュリーの元へと向かう。
「なにやってんのよ」
焦っているのか、いつも落ち着いている彼女にしては珍しく、声が強ばっていた。
「危ないじゃない」
「一応吸血鬼だから、こんくらい大丈夫だよ」
子供ではないのだから、たかが顔面を床に打ち付けただけで、泣いたりはしない。
曖昧だった視界も、だんだんと落ち着いてくる。声がした方を見ると、そこにはこの図書館の司書である、パチュリー。人呼んで、七曜の魔女の姿があった。
「普通の吸血鬼なら、大丈夫とはいえないでしょうね」
「そんなに変な動きしてた?」
「この世の動きとは思えないほどね」
「でも、私は普通の吸血鬼だよ」
はあ、と彼女は不健康そうな土気色の顔を、さらに薄黒くした。紫色の長い髪の毛と、その眠そうに垂れた目が、より病弱さを助長している。
パジャマのようなその姿は、本気でいつでも眠れるように準備しているのだと、私はそう思っている。
「それで? 急にどうしたのよ。さっきレミィが、フランをなんとかして部屋で待機させたい、と喚いていたわよ」
「こもるよ。でも暇だから、本を借りようと思って」
なるほど、と 神妙な顔つきで頷いた彼女だったが、すぐに小さく首を振った。
「でも、今は少し我慢して。忙しいのよ」
「えー、いいじゃん」
「だめよ」
にべもなく断られ、少しへこんだ。それから腹が立ってくる。一冊ぐらいいいじゃないか。
「一冊、一冊でいいからさ!」
「だめよ。もし本を借りたいのだったら」
「だったら?」
「私の帽子を脱がせてみなさい」
得意げに笑う彼女を前に、私は頬を膨らませた。そんなの、できるわけがなかった。あのパチュリー・ノーレッジに指一本触れることなど、私にはできない。彼女からしてみれば、私なんてただの雑魚だ。
「もう少し我慢してちょうだい。これからのことに集中したいの」
「これからって、何が起こるの?」
「あら? レミィから聞いていないのかしら」
そういえば、今日は大事な何かがあると言っていたような気がした。だが、ただそれだけしか知らされていない。
「いつもそうだよ。私には何も言わず、勝手に決めちゃうんだもん」
「でも、分かってるんでしょ?」
「何が? お姉ちゃんの身勝手さ?」
「まあ、そうね」
私の冗談に、ふふっと柔らかい笑みを見せた彼女は、被っていたナイトキャップを被り直した。
私のお姉ちゃんは、確かに最高だ。だが、時々突拍子もないことをしだす。私はそこも含めて彼女のことが好きだ。だって、それで私たちを楽しませようとしていることは分かっているから。だが、面倒に思うときがあるのも事実だった。
「でも、まさか引っ越しする、なんて言い出すとは思わなかったけれどね」
「え?」
突然言われたその言葉に、私は面食らった。引っ越しする? どういうこと?
「しかも、館ごとだなんて、前代未聞よ」
「館ごと?」
彼女の口にした言葉の意味が分からなかった。館ごと引っ越す? それは、一体どういう意味なのだ。まさか、この館をどこか別の場所に転移するということなのだろうか。
いや、流石にそんなことはないだろう。あまりにも奇想天外すぎる。
その時、私の頭にはっと浮かぶものがあった。昨日読んだ小説だ。タイトルは忘れたが、なかなかに面白いものだった。
主人公はなんだかんだで魔法使いの家に行って、色々な出来事に遭遇する、というものだ。その魔法使いの家は、四本の足のようなものが生えており、それが動き出すと書いてあった気がする。
もしかすると、ここも、同じように歩き出すのだろうか。あり得ない話はない。なんていったて、目の前にいる彼女は、生まれもっての魔女だ。私なんかではとても太刀打ちできないほど、強く、何でもできる天才の魔女なのだ。
「楽しみだなあ」
紅魔館がとてとてと歩いている姿を想像すると、自然と声がこぼれ出た。
「楽しみなの?」
少し引きつった声で、パチュリーが聞いてくる。
「私は全然楽しみじゃないのだけれど」
「えー」
ロマンだよロマン、と私は指を振る。
「想像してみてよ。世界が動くんだよ。みんなちっぽけに見えてさ。私は何もしてないのに景色が変わるんだよ? 楽しいに決まってるよ」
「そ、そう。なら、よかったわ」
そう言った割には、彼女の顔は歪んでいた。絶対によかったと思っていない。
「パチュリーはインドア派だからね。たまには外に出たらどう?」
「いつも部屋にこもっているあなたに言われたくないわね」
「こもってないよ。大人しくしろって言われてるから、しぶしぶね」
「引きコウモリってやつね」
その面白くない駄洒落に、自分でも恥ずかしくなったのか、彼女は顔を真っ赤にした。見ていて微笑ましい。これだけでもここに来たかいがあった。
「パチュリーが恥ずかしがる姿なんて、久しぶりに見たよ」
「見ないで。忘れて」
「忘れてほしかったら」
ぐっと体を伸ばして、パチュリーを見る。眉をハの字にし、帽子で顔をあおいでいる彼女は、私をぼんやりと見つめていた。
「本を貸してよね」
あっと、呟く彼女の顔には、どういうわけか満足そうな笑みがうかんでいる。
「ついに、決行の日ね」
知らず知らずのうちに、独り言が出ていた。
私の図書館は、一見、いつものように静かで、いつものように優雅で、そしていつものように完璧だった。
だが、ある一点がいつもとは違った。この図書館には、ありとあらゆる場所に罠が仕掛けてあるのだ。
「ここまでする必要があるとは思えないのだけれど」
この声が、どうかあのやんちゃな吸血鬼に届きますように、と願う。当然姉の方だ。
「幻想郷って場所があるんだ。そこに行く」
ある日、突然そう言い出したレミィを前に、私たちは固まった。いきなり、こいつは何を言い出すのか、と呆然としたのではない。彼女が変なことを言い出すのは、別に珍しくなかった。
彼女が土下座してそう訴えてきたから、驚いたのだ。
「この館ごと、そこに転移させてくれ、頼む」
当然、私たちは断ることができなかった。理由も聞いていない。ただ、親友の頼みを聞くことは吝かではなかった。あの高飛車な彼女が、そこまでして頼んできたのだ。気合いが入った。
「でも、別にここまで警戒しなくてもいいのに」
彼女曰く、幻想郷に行けば、まず争いが起こるとのことだった。いや、この言い方は語弊がある。こちらから、争いを仕掛けるらしいのだ。だから、もし図書館に敵が入ってきたときのことを考えて、罠を準備しておけ、とそう彼女は頼んできた。
彼女の土下座のおかげで、私は気合いが入っていた。紅魔館を幻想郷へ移動させる準備は案外簡単にできたため、余った時間で、私はその罠を仕掛けた。仕掛けまくった。
結果的に、私の図書館は、えげつない量の罠であふれていた。鼠一匹どころか、羽虫一匹逃さないだろう。現に、入ってきた使い魔は、あっという間に吹き飛ばされた。幸い、命に別状はない。
「やり過ぎてしまったかしら」
これでは、自分も禄に動くことができない、と自嘲気味に笑っていると、ぎぃと聞き慣れた音がした。ドアノブが開いた音だ。慌てて扉の方を見る。
図書館が要塞化していることは、全員に連絡が行っているはずだ。それなのに入ってこようとする奴なんて、心当たりがなかった。
動揺しているうちに、勢いよく扉が開いた。そして、その陰から、それは勢いよく図書館に飛び込んでくる。
危ない! そう叫ぼうとしたが、それは叶わなかった。叫ぶこともできず、ただ口をあんぐりと開けることしかできない。もっとも、叫ぶ必要は無かったようだが。
飛び込んできたのは、フランだった。くるくると回転しながら猛烈な早さで突っ込んできた彼女は、ふらふらと、まるで自身の体がコントロールできないかのように、不規則に飛んでいた。
当然、罠は張られている。その一つ一つは強烈で、いくら吸血鬼でも、無事では済まないようなものばかりだ。敵が来れば反応する。そのはずだった。
だが、それはうんともすんともいわなかった。その理由を悟ったとき、私は思わずその場で拍手をしてしまった。それほどまでに、あり得ないことだった。
彼女は、罠が発動しないように、そのセンサーをよけるように体を動かしていた。
その、ほんの僅かな隙間を縫うようにして、腕を曲げ、体を伸ばし、ふらふらとこちらに近づいてくる。岩と岩との間を流れる水のように、その動きは美しかった。
羽虫ですら通さないはずだったその罠をくぐり抜けた彼女は、突然、「あっぶない!」と叫んだ。それもそうだろう。図書館に来てみれば、罠が張ってあったら、誰でもそう思う。
ということは、彼女はこの罠のことを知らなかったのだろうか。その事実に、私はまたもや驚かされる。目に見えない罠を、一瞬で見極め、そのごく僅かな弱点を正確に突いてきたというのか。恐ろしさで、背筋が凍る。
「なにやってんのよ」
その恐怖を悟られないように、慎重に言葉を発した。
「危ないじゃない」
そう言うと彼女は、手をひらひらと振り、胸を張った。まるで、大げさだな、と言わんばかりだ。
「一応吸血鬼だから、こんくらい大丈夫だよ」
たかだか普通の吸血鬼程度が、私の罠をすべてかわせるはずがなかった。あのレミィですら不可能だろう。
そんな芸当を見せておいてなお、彼女は誇るでもなく、自慢するでもなく、微笑んでいる。こんくらいで褒められるなんて、むしろ恥ずかしいとばかりに。
「普通の吸血鬼なら、大丈夫とはいえないでしょうね」
「そんなに変な動きしてた?」
「この世の動きとは思えないほどね」
「でも、私は普通の吸血鬼だよ」
フランが普通だったら、他はどうなってしまのだ、と叫びたかったが、止めた。代わりにため息をつく。
いったい彼女は、どれほどの実力を持っているのだろうか。長い付き合いだが、彼女が本気を出したところを見たことがない。隠しているのだ、とレミィは言っていた。だから、幻想郷で思う存分発揮してもらいたい、姉の老婆心には頭が下がるばかりだ。
だから、フランが本を借りに来た、と言ったとき、私は好機だと思った。好奇心を満たす好機だ。彼女の実力を試すことができるかもしれない。
私の周りにも当然罠が張ってある。が、それに加えて、加護の魔法をかけた。私のそばによると、絶対に壊れない壁が出現するというものだ。
きっと彼女であれば、こんな壁を壊すのはたやすいだろう。その力を使い、どのように壁を壊すのか、観察したかった。
「もし本を借りたいのだったら」
「だったら?」
「私の帽子を脱がせてみなさい」
そのために、私の周りの壁を壊して見せなさい。内心でそう続ける。が、どうやらフランは私の思惑に気がついたのだろう。口を膨らませ、悲しそうな顔をした。
どうやら彼女は本を借りるのは諦めるようだった。残念だが、仕方が無い。力を見せることに比べれば、本を借りれないことぐらい我慢する、と決めたのだろう。正しい判断だ。
いくら身内であっても、本当の力は隠す。圧倒的な強者というのはそういうものだ。
その後、今回のレミィの計画した引っ越し計画について、彼女は私に尋ねてきた。どうやら、知らされていないらしい。
だが、流石と言ったところか、薄々感づいていたようで、少し話をするだけで、すぐにことの本質を見抜いたようだった。
分からないの? と質問すると、「お姉ちゃんの身勝手さ?」と返してくるあたり、なかなか皮肉が効いている。
「楽しみだなあ」
一通り話し終わった後で、彼女は突然そういった。目をキラキラと輝かせ、夢見る少女のように手を組んでいた。
「楽しみなの?」
私は思わず聞き返してしまう。見知らぬ土地にいきなり移動するのだ。困惑するのが当然に思えた。
「私は全然楽しみじゃないのだけれど」
えー、と口を尖らせた彼女は、ロマンだよロマン、と愉快そうに笑った。
「想像してみてよ。世界が動くんだよ。みんなちっぽけに見えてさ。私は何もしてないのに景色が変わるんだよ? 楽しいに決まってるよ」
ぞっとした。これが世界を統べるものなのか、と感動すらした。
幻想郷という平和ボケした世界を、私たちが動かす。所詮、そこにいるちっぽけな妖怪たちなんぞ、何もせずともひれ伏す、とそう言いたいのだろう。
なるほど、確かにロマンだ。だが、それはあまりにも獰猛で、狂っている。
衝撃を受けた私は、そうなのね、とかろうじて返事をすることしかできなかった。
「パチュリーはインドア派だからね。たまには外に出たらどう?」
そんな私に向かい、休む間もなく彼女は言葉を投げかけてくる。無視してもよかったが、さすがに失礼だろう。だが、何も考えることができない。
「いつも部屋にこもっているあなたに言われたくないわね」
「こもってないよ。大人しくしろって言われてるから、しぶしぶね」
「引きコウモリってやつね」
だからだろうか。いつもの自分では考えられないほど陳腐な駄洒落を口にしてしまった
羞恥で顔が熱くなっていく。ニヤニヤと笑い、こちらを見る彼女の姿が目に入った。
「パチュリーが恥ずかしがる姿なんて、久しぶりに見たよ」
「見ないで。忘れて」
「忘れてほしかったら」
胸がバクバクと音を立てる。恥ずかしさのあまり、頭がどうにかなりそうだった。そんな私に向かい、フランはとても楽しそうに体を伸ばした。
それが、どこか神々しく見え、私は思わず彼女を凝視してしまう。
「本を貸してよね」
彼女の言った言葉の意味が分からず、一瞬固まってしまう。だが、自分の手元に目を落としたとき、ようやく合点がいった。
いつの間にか、私の手には帽子が握られていた。きっと、恥ずかしさのあまり、それで顔を覆っていたのだろう。無意識のうちに、とっていたのだ。全く気がつかなかった。
もしかして彼女は、最初からそれを狙ったのだろうか。思考誘導というものがある。相手を焦らせ、感情を揺することで、正常な判断をできなくし、きっかけを与えて思い通りに操るといったものだ。
私に対し、恐ろしいロマンを口にし、羞恥心をかき立て、それで帽子を自らの手で脱がせるように、仕向けたのだろうか。普通に考えればあり得ない。だが、彼女は普通じゃなかった。
帽子を脱がせてみせたら、本を貸すと約束した時点から、そう考えていたに違いない。
そうだ。それでこそフランドール・スカーレットだ。さすがだな、と彼女を見つめる。屈託で、邪気のなさそうに見える彼女の口から、キラリと光る牙が見えた。