甲州街道の5番目の宿場町である日野宿は、農業を中心とした宿場町として繁栄していた。
というのも、日野宿は、北から東にかけて多摩川が流れ、南部に広がる多摩丘陵の北側を西から流れてきた浅川と南東部で合流するので水に恵まれており、「多摩の穀倉」と言われるほど稲作が盛んだったのである。
また、多摩郡は江戸時代、多くの村が幕府直轄領や旗本領とされたほか、多くの藩の飛び地が存在していた。
そのため、複数の領主による相給とされた村も少なくなく、複雑化した支配関係が錯綜し、直轄領に対する幕府役人の配置も少なかったために農民は自己防衛を行うようになり、剣術が栄えるようになったとされる。
この地域は八王子千人同心が徳川家康が存命だった頃に発足された。
八王子千人同心とは、甲斐武田家の滅亡後に庇護された武田遺臣を中心に、近在の地侍・豪農などから組織され、主な仕事は甲斐方面からの侵攻に備え、国境警備及び治安維持のための組織である。
天然理心流剣術二代目宗家である近藤三助は、八王子千人同心の組頭であり、沖田林太郎の生家である井上家は八王子千人同心であった。
このように幕府から手厚い庇護を受けていた多摩郡は、同心だけでなく農民層にまでも徳川恩顧の念が強かったとされ、これが、多摩郡出身者である志士達の多くが佐幕派である所以である。
その宿場町の名主である佐藤彦五郎は、地方三役でありながらも武芸の必要性から天然理心流剣術三代目宗家である近藤周斎の門徒となり、邸宅の一角に道場を設けるほど剣術熱心であった。
指南を受けてわずか数年で免許皆伝を取得したというのだから、この男の剣の腕前は非凡なものだったのだろう。
尚、現在残っている日野宿本陣、その付近にあるとされた長屋門を改装して作られた道場とは別物である。
閑話休題。
「立派な門構えですね〜」
沖田家から歩いて数十分、日野宿本陣に辿り着いた。
立花は目の前にある厳粛な雰囲気が漂う門構えと平屋建に関心と驚きを露わにして眺めていた。
日野宿本陣は、木造り平屋建に屋根の最頂部の棟から地上に向かって二つの傾斜面が本を伏せたような山形の形状をした屋根である切妻造瓦葺屋根で、街道側には式台を持つ玄関もあり、その敷地は優に百坪にも及ぶ。
そもそも、本陣とは参勤交代などの大名やお供の者、幕府の役人の宿として利用されるので、宏大な敷地を有し、尚且つ大勢の人を収容できるようになっているのだ。
「そりゃあ、甲州街道でも有数の規模を誇る日野宿本陣だからな、これだけデカくねぇと人も入らねぇし、体裁が保てねぇ。ほら、ボサッとしてねぇでサッサと行くぞ」
片手には竹刀を、もう片方は総司と手を繋いでいる林太郎は、突っ立っている立花の横を通り過ぎ、門を潜り抜ける。
慌てて立花も彼の後を追った。
「それで、ここの宿主さんが佐藤彦五郎さん、という方で?」
「ああ、ここらの地主で、歳はオイラの一つ下。真面目でいい奴だから仲良くしてやってくれや」
「ええ。是非仲良くさせてもらいます。でも、地主さんが剣術を習うって珍しいんじゃないですか?」
「たしかに珍しいかもな。まあ、奴さんの場合は昔いざこざがあったのよ」
険しい表情で口にする林太郎に立花は閉口した。
佐藤彦五郎が地主と言えども身を守るために剣術に必要性見出したのは、とある事件がきっかけであった。
とある年、日野宿本陣をまきこむ大火が発生したことがあった。
その際に彦五郎は暴漢に襲われたのである。
暴漢が彦五郎を襲撃した動機は、恨みであったそうだが、この事件で身内に死者が出てしまった。
そのため、彦五郎は地主と言えども身を守るためには剣術を習う他ないと、地方三役では珍しく剣術を習うことにしたのであった。
——彦五郎さんっていう人、過去になにかあったんだろうな。林太郎さんもあんましいい顔してないし、あまり追及しないでおこう。
すると、目の前に道場が見えてきた。
新設されて間もないのか、外観は殆ど新築同然の美しさを保っている。
まだお昼前だというのに、道場からは数十人ほどの男達の裂帛の気合い声、力強く床を蹴る音や、竹刀で肉体を打つ凄絶な音が聞こえてくる。
稽古をしている男達の声や音を耳にした総司は、その音に当てられて高揚感が抑えきれないのか道場の方へといち早く駆け出し、後方を振り返った。
「ほら、兄上早く早く!」
「そう急かしても道場は逃げやしねぇぞ」
道場の扉を開けると、凄まじい匂いが鼻腔を刺激した。
戸を開けて換気しているといえ、空気の循環が悪いのか熱と汗が室内に籠っていたようである。
中には泣く子も黙るような厳つい顔をした屈強な男達が凄まじい汗の量を流して、二人一組になって竹刀で打ち合っている。
その苛烈な打ち合いのさまに立花は驚いた。
勝敗が決まれば休憩を取る暇もなく次の相手と取り組みをしているため、どの人物に目を向けても苦悶の表情を浮かべながらも必死に竹刀を振るい続けており、負けてはならんと意地と執念で動いているようだ。
すると、林太郎は道場の奥にいる一人の青年の元へ歩いて行った。
まるで見ずとも周囲の人間の動きが分かっているかのように林太郎は取り組みをしている男達と接触することなく、公園を散歩しているような足取りで青年の元へ辿り着いた。
「よお、邪魔するぜ。彦五郎」
「林太郎さん!帰られていたのですか!」
「おお、今日帰ってきたばっかりだ。ちと、道場を借りさせてもらうぜ」
「ええ、是非遠慮なくお使い下さい……止めッ!」
彦五郎の言葉に取り組みをしていた男達は一斉に動きを止めた。
一瞬にして道場は静寂に包まれた。
余程疲れているのか肩で息をしているものもいるが、それでも決して道場の床で大の字になった倒れるものや膝をつくものはいない。
あの激しい運動の後であるのにもかかわらず、相当な体力を持っているのだろう。
よく見れば彼らの筋肉は筋骨隆々としており、腕など丸太のように太いものもいる。
他の流派と異なり天然理心流は、丸太のような形状をしていた木刀を稽古時に使用し、その太さは成人男性であっても中指と人差し指が届かず、重さは1キロ以上にも及び、真剣と対して変わらないという。
天然理心流は実践を重視している剣術であるため、実践において遅れをとることのないように普段から真剣と同じものを稽古の時から使い、これを毎日千回も素振りをするというのだから、肉体が鍛えられるのは必然であろう。
「こんにちは!彦五郎さん!」
「やあ、総司くん。いらっしゃい。林太郎さんと手合わせするのかい?」
「はい!このまえはこてんぱんにやられてしまいましたが、今日は兄上からいっぽん取るのです!」
「そうかそうか。頑張るんだよ…っと?貴方は?」
上達した姿を林太郎に見せようと意気揚々として元気溌剌な総司に彦五郎は、優しそうな顔を綻ばせていたが、見慣れぬ顔である立花に目を留めた。
「ああ、こいつは空腹でオイラの家の前で倒れていた藤丸だ。食後の運動にどうだって誘ったのさ」
「林太郎さん…相変わらずですね。ここの家主である佐藤彦五郎です。宜しくお願いしますね、藤丸さん」
「はい、宜しくお願いします。彦五郎さん」
——この人が佐藤彦五郎さん、か…土方さんの義兄さんなんだよね?とても優しそうな人だな。歳もぼくとあんまり離れてないだろうし
「藤丸、おめぇさんはどこの流派だ?」
「えっと、これといって決まっているわけではないですが、柳生新陰流、二天一流、北辰一刀流を少々…」
立花の言葉にその場にいた者達は驚愕した。
見たところ二十歳前の男が三つもの流派を扱えるというのだから驚くのも無理はない。
——まあ、天然理心流も習ったけどね…でも、土方さんのスパルタには流石に堪えたなぁ…それに沖田さんも稽古の時は普段の様子からは想像もできないほど苛烈になるし
土方と沖田による稽古指南の記憶を思い起こした立花は、身震いした。
土方がスパルタなのは言わずもがなであるが、予想に反して沖田の指導も土方に負けて劣らずスパルタであり、彼女が立花を大切に思っているからこそ、厳しく指導したのだろう。
そのため本来、立花は天然理心流を土方と沖田から習っているのだが、それを正直にいうと誰に指導されたのかと、根掘り葉掘りと突っ込まれるかもしれないので、敢えて口にすることはなかった。
そもそも、立花が幾つもの剣術を習い出したの訳があった。
特異点や異聞帯で何が起こるか分からず、万が一、護衛のサーヴァントとはぐれてしまい危機に陥ってしまった際に自身の身を守れるようにと、立花は常日頃から契約を交わしたサーヴァント達から直接願い出て様々な指導を受けていた。
護身術はもちろんのこと凡ゆる武器を一通り扱え、剣術は免許皆伝には至っていないもののその腕は大したものであった。
また、未熟な魔術師と呼ばれぬようにキャスターのサーヴァント達から教えを請い、スポンジのように技術と知識を吸収する立花にサーヴァント達は楽しくなったのか、指導は護身術だけでなく凡ゆる領域の学問まで幅広くなり、こうしていつしか付け入る隙のない完璧超人なマスターになっていたのである。
日本の剣術は、柳生宗矩から柳生新陰流を、宮本武蔵から二天一流を、佐々木小次郎から鐘巻流を、坂本龍馬から北辰一刀流を、岡田以蔵から小野一刀流派を、土方と沖田から天然理心流を其々指導された。
剣客として彼ほど恵まれた環境に置かれた人物はこの世には存在しないだろう。
後世にその名を残した剣豪自らの指導を受けることができ、すでに二人の開祖と五人の達人から剣術を指導してもらっているのだ。
無論、全ての技を使えることはできないが、各流派の特徴や長所や短所など全て頭と体に叩き込んでいるため、有事の際にはそれ相応の対処はできる。
「藤丸さんすごーい!柳生新陰流に北辰一刀流に二天一流!聞いたことある流派ばっかりー!」
「その歳で随分と沢山の流派を使うのですね」
「どれもかじった程度です。いろんな流派を手につけましたが、免許皆伝には至っていないので未熟者ですよ」
「へぇ、面白いですね…一つ、手合せ願えませんか?」
佐藤彦五郎の言葉に立花は、快諾した。
——やっぱりこうなるか。でもまあ、林太郎さんから誘われたときから、こんな展開になるのは予想出来てたから驚きはないけど
主審は林太郎が行うようで、普通の竹刀を受け取った立花と彦五郎は、慣れた様子で試合開始前の動作である礼、蹲踞、構えをして、林太郎の号令を待つ。
静けさが道場を包み込む。
先ほどまで稽古をしていた門徒達や総司は、道場の端で正座をして食い入るように二人を見ていた。
彦五郎がとった構えは、切っ先を僅かに傾けて相手の左目につける構え、平晴眼である。
この構えの特徴は突いて外されても相手の頸動脈を斬りにいける有利さがあった。
また、剣先が相手の中心線から外れているため、相手からすれば間合いが入りやすく打ち込みやすく、敢えて先手を相手に取らせておいて後手において斬り伏せるのである。
そのため、彦五郎は、実力が不透明な立花を誘い出して、打ち勝つために平晴眼の構えをとったのだ。
そのことを重々承知している立花は、脳裏に柳生宗矩の言葉を脳裏に浮かべながら、相手の切っ先、こぶし、彦五郎の視線を注視する。
——相手の調子に乗る必要はない。勝負は如何に相手の調子を崩し、こちらの調子に引き込めるかである。よし、そちらが誘い出す気ならこっちはこっちで自分のペースを作るまでだ!
「始めっ!」
林太郎の号令に合わせて立花が仕掛けた。
あと1話で終わる予定です。
藤丸立花(男)
人類最後のマスターなんだから、自分の身を守るために沢山鍛錬するだろうと勝手に想像。幸いにも指導者は各分野の超一流の人たちが身近にいるため、彼らに指導を請うた結果、スーパー超人に進化しました。本人は自覚してないけど代行者と戦っても死なないレベル(防戦一方で隙を作って逃亡する)に到達したという設定。