冬樹イヴへの遺言 作:屍野郎
魔物は、特に動くことも無く俺を見据えている。
しかし、果たしてそれは本当に俺を見ているのだろうか? 端から見るとそれは一目瞭然だろうが、自分からしてみればそれはやや違和感の拭えない見当だった。
当然ながら魔物に目はない。しかし視ている、何かを。
すり足でじりじりと魔物との距離を推し量る。少し近付いては離れ、離れすぎては立ち止まり、そうしてもう一度慎重に距離を詰めていく。
ぎこちない動きであることは誰が見ても明らかだった。
その理由は自明だ。ずばり俺は対人戦の経験が一つもなかった。
研ぎ澄まされてきたのは魔物を殺す為だけに特化した剣技。つまるところ人──この場においては人型の魔物──を殺す為の技術、間合の詰め方を俺は持ち合わせていない。
対してこの魔物の大太刀は元の色を推測することが困難な程に血に塗れている。
どちらに風が吹いているかは、背中に流れる一筋の冷や汗が物語っている。
霧との同化がここまでの力を及ぼすとは。
親和力というのもなかなか馬鹿には出来な──
「っ──!」
意識するよりも早くその場を飛び退くと、次の瞬間には巨大な金槌が叩きつけられていた。
いや、金槌ではない。これは拳だ。
彼は地面を抉り取るような衝撃をそのままに後方へ避けた俺へ接近する。
身体にはそこまで筋肉がついている様には見えないが、それでも単純な戦闘力でも軍配はあちらに上がる。確かに彼は人型で力も強く、人斬りの経験のない俺からすれば厄介な難敵であることに違いはない。
だがやつはどれだけ取り繕おうと、霧に身を委ねてしまった
魔法使いの俺には彼の命を葬り去る義務がある。
──彼の大きな掌が俺に掴み掛かろうとしたところで身体を捻って左に避ける。
反射で動いたために傷は一つも負っていないが、体勢を立て直した時に視界に入ったのは、木を穿った大太刀を引き抜く彼の姿だった。
してやられた。どうやら本当の目的はこれだったらしい。
「──せいっ!!」
無防備な背中に向けて斬撃を10回放つ。空気を裂きながら縦横無尽に駆け廻り、しかしそれらは一点集中に突き進んでいく。
数多の銀閃が背中を切り裂く──彼の頸が180度回ってこちらを向いた。
──豪。
月に揺らめく赫の刀身が、刀にしてはあまりに乱暴で野性的な轟音を唸らせながら迫り来る銀閃を一つずつ弾く。それは瞬間的な絶技だったが、敢無く真二つに割られた銀閃は行き所を失い、虚しく月明りの元へと昇華していく。
最後の斬撃を斬り捨てると同時、今度は彼は満月を背後に空高く跳躍する。
刀身に這うは緑黄の雷撃。
バキバキという骨の音を幻聴するくらい大袈裟に振り抜かれた雷斬から漂うは濃厚な死の気配。
全身を捻り、攻撃範囲を離脱する。
雷斬が地面を抉る。肌がビリビリと帯電する気配と、朦々と立ち上る土煙が辺り一帯を覆う。
彼の姿は見えない。
しかし無慈悲にも四方八方から土煙を裂きながら月光は俺の頸を狙って接近する。
俺は刹那に迫り来る幾つものそれらを斬り捨てながら、合間を縫って気配のする方向へ真空波を放つ。数十秒に及ぶ斬撃の応酬の末、受け流し損ねたたった一つの銀閃が頬を掠める。
「そこだ!」
尋常でない痛みに柄を握る力を強めながら、背後から這い寄る濃厚な死の気配に振り向きざまに刀を斜めに振り下ろす。
──ッギィン!!
咄嗟の判断は正しかったと、衝撃で麻痺する腕に力を入れ直しながら思う。
耳を劈く不快な金属音。パリッと最悪な音が聞こえたような気がした。
強敵に対する万感の敬意と殺意を力へ変換して、彼の顔を睨みつけながら刀身を押し付ける。
鍔迫り合いには出来るだけ転じたくなかった。
しかしこうなってしまった以上、下手に離脱するのも危うい。
「おらっ────!」
まるで全速力のトラックを正面から受け止めようとしているかのような圧力に、地面を割れんばかりに踏みしめて対抗する。
ずり、ずり……靴と土の擦れる音が金属音に紛れて聞こえてくる。そして徐々に近づいてくる大太刀の刃。
ぎし、ぎし……どこか分からない骨が悲鳴を上げる。
絶体絶命の状況。
だというのに俺は、何故か心の底から湧き上がってくる気分の高揚を無視することは出来ない。
滴る汗、激しく脈打つ心臓、そして極度の緊張感。それは全て人間である証だ。
そう思うたびに、所在不明な力が身体の底から湧き上がってくる。
「っ──」
力の合間を縫って僅かな無力の隙間に全力を注ぐ。
その時、酷く圧されていた状況が僅かに均衡化した。
震える刀身を一睨して歯を食いしばる。全身の血が沸騰しているように熱い。
地面に足を埋めるかの如く全体重を込めて踏みしめ、ゆっくりと、しかし着実に前へと進む。
形勢が逆転し、今度は彼が徐々に後ろへと下がって行く。
俺の太刀が上から大太刀ごと斬り伏せんとする。勝てるかもしれない──。
そんな一握りの希望を見出した。瞬間
彼の身体が瞬時に横にブレた。
「ああっ!?」
全力に針が刺さったような幻覚を覚え、思わず地面を蹴って後方へ飛び退く。
呼吸を整える暇もなく彼は低い姿勢のまま雷の様にジグザグに接近してくる。
「うっ……らあっ──!」
まるで嵐の様な袈裟斬りに居合切りの要領で大太刀を弾き返し、しかしその勢いを活かしたまま斬り付ける。
身体を捻って回避するが、鮮烈な激痛が左肩を襲った。視界に噴き出る血潮が映り込む。
失いそうになる意識を叱咤しながら彼の間合から抜ける。
しつこく追い回してくる姿に舌打ちしながら、乱暴に何度も太刀を縦横無尽に振るう。
彼もそれに合わせて同じ技を放った。
彼と俺の間に幾つもの斬撃が飛び交う──。
「うがああああ──っ!!」
打ち消し合う互いの銀閃から逃れて向かってくるのを受け流していく。それだというのに、一つ一つの衝撃が身体の深くまで重く蓄積されていく。
骨だけでなく、今度は内臓までもが痛んできた。
受け止めきれない斬撃が身体中を掠めながらも、飛び交う死と死の合間を銀閃の軌道を読み取ることでトリッキーに避けながら未だに俺の放った技に対応し続ける彼へ──全力で突きを放つ。
魔力を纏った剣先はいとも容易く真空を作り出し、それは弾丸が如き豪速で暗闇を駆け抜ける。
それが計20余り。あまりの早さに真空弾は摩擦で焔を纏う。彼は当然それらを羽虫の如く悉く打ち消すが、俺はその鋭い衝撃に刀身に僅かな罅が入ったのを見逃さなかった。
体勢を立て直す暇も与えない。
俺は幾つか銀閃を放ってから全力で跳躍し、空中で刀を振りかぶる。
下では直前に放った銀閃を律儀に切り捨てている彼がいる。
俺の方に意識を向ける方が得策だが、それでは再び俺と鍔迫り合いになる前に銀閃が確実に彼の命を刈り取るだろう。
勝機は見えた。高鳴る鼓動を抑えて、背骨をバキバキと軋ませながら刀を振り下ろす──
「……はっ?」
腕に込めた力は申し分無い筈だった。斬り込む角度も考慮した。
そうして最後まで油断せずに、隙を狙った筈だった。
……ああ、いや訂正しよう。俺は油断した。考え得る可能性の中の一つを見逃していた。
──全力で振り下ろした太刀を無骨に握る姿を、想像することが出来なかっただけだ。
刀身から彼の腕を振り解こうと暴れたが、彼は俺ごと刀を振り回してふっと手放した。
「あがっ──」
木に背中から打ち付けられ、ずるずると身体が沈んでいく。
耳鳴りが酷く、鉄の味が口腔内を支配し続けている。視界が歪み彼の姿が何重にも重なったところで、俺の意識はぷつりと途切れてしまった──。
ーーー
美麗な月が二つ浮かんでいる。
一つは宇宙を映す夜空で、もう一つは眼前に広がる無限の海。波に揺らめく月光は、しかし海面に遥か彼方へと続く厳静なる道を作り出している。
あまりにも綺麗なその光景にある種の神秘を見出し、考えるまでも無く両足は自然と波打ち際へと向かって砂浜を踏んでいく。
さざ波の音が耳を撫で、心地のよい涼しい海風が髪を揺らす。
どれだけ歩いただろうか。覚束無い思考ではそれを推測する事さえ叶わない。
すると突然、俺は視界に一人の少女が裸足で砂浜に佇んでいるのを認めた。
風に流れる錦糸のような金髪と、エメラルドをそのまま嵌め込んだような揺らめく瞳、そして見紛う事無き可愛らしい相貌。
「水無月」
俺は思わずその名前を呼んだ。水無月はわざとらしく微笑む。
服装こそ純白のワンピースを着てはいるが、間違いない。そして右の肩口から手首に掛けて稲妻が駆けるように貫かれた痛々しい傷跡が俺の心を揺さぶる。
「座りましょ」
「え?」
「そんなとこに突っ立ってねーで、ここに来て一緒に月でも見ましょ」
俺の困惑など意にも介さず座り込み隣を指差す水無月に、渋々彼女の隣に腰を下ろす。
風が吹く。柑橘のような匂いがした。
「なあ」
「なんです?」
「あの道はどこに続いていると思う?」
それは唐突にふっと沸いて出た疑問だった。
特別な意味など含まない、他愛のない会話にも満たない素朴すぎる質問。
声に出してみて、改めてどうしてこんなことを思ったのだろうと思考を振り返るが、なんだか底の無い湖を覗き込んでいるような気がしてやめた。
「それは、アンタが一番分かってんじゃねーですか?」
「どういうことだ」
「どうしても分からないってんなら、近くまで見に行ったらどーですか?」
水無月の優しい声に促されるままに俺は月光の道へ歩みを進める。
数分歩いた所で波打ち際にやって来た。道への入り口が足先にある。
俺はその光の海を見下ろし覗き込むと──思わず後ずさりした。
波面に揺られながら、最愛の人──冬樹イヴは俺を見ながら微笑んでいた。
「裏と表は相容れませんが、ここはその境界が曖昧なんです」
いつの間にかか背後に移動していた水無月の声に俺は振り返る。
水無月は波面の冬樹イヴを眺めながら言う。
「ここまで来て、アンタはこれをどう思いました?」
「なあ、さっきからお前は何を言ってんだ?」
「いーから答えてくだせー」
「……まあ、やっぱり綺麗だよ。いつまでも見ていたいね」
正直な心の内を言った。
その時、心なしか冬樹の表情に一瞬だけ陰りが差したような気がした。
「……渡りたいですか?」
「……」
「もし渡りたいと思ったのなら、私は止めることをお薦めしますよ」
「なにが言いたい」
「私からは言えませんね。ただまあ、最大の分岐点とでも言っておきましょーか」
「分岐点」
いまいち要領の得ない喩えではあるが、それだけで俺は水無月の言わんとしている事が理解できた気がした。
脳裏に浮かぶのは、暗い森の中で魔物のようではなく恣意的な殺意を以て現れた可能性の一つ。
そうだ、俺は確かその可能性に磨り潰されてしまいそうになった所で失神したんだったか。
今頃俺の身体はどうなっているのだろうか。ここが精神世界だというのなら、まだ生きているということの証明に他ならないのだが。
ここが一体どこで、どうして俺が此処に居るのかも大体理解できた。
だからこの質問は単なる俺自身の個人的疑問に過ぎない。
「これを渡ったらどうなるんだ?」
「一度でも水の中に爪先一本でも入れてしまえば、後戻りはできねーです」
「え、怖……」
思わず波打ち際から逃げるように早歩きで離れる。
ある程度離れた所でもう一度振り返ってみると、なるほど道理で神秘的な光景の訳だ。
俺は今まででこんなにも喉から手が出る程に欲しい光景を見たことは無い。
無論、あっち側にはこんなのは存在しないのだが。
「さて、どーします? 一旦離れましたが、別に渡ったらいけねーわけじゃねーんです。
海原へ旅に出てーならそれでもいーし、元の場所に戻るのだって。
さあ、アンタはどうしますか?」
「そんなの……決まってるだろ」
俺は水無月から視線を外して、空に悠々と浮かぶ大きな月を仰ぐ。
あまりにも綺麗で、気を抜くと吸い込まれてしまいそうだった。
肺一杯に息を取り込み、そして腹から空気を吐き出す。
「俺にはまだ守るべき存在があるんだ。あそこを渡るのは、それを守り切ってからにする」
「……ふっ、そーですか」
水無月は嬉しそうににやけながら背中を向けた。
直後、視界を青白い鱗粉が空へ向かって通り過ぎていく。
はっとして視線を自分の身体に落とすと、その鱗粉はどうやら俺の身体から生じていたらしい。
次から次へと、まるで剥がれ落ちるように鱗粉が夜空へ巻き上げられていく。
「暫くお別れですね……」
「いや、そうでもないかもしれん。俺はすぐ近いうちに再開する気がするがな」
「そんな縁起でもねー……ああ、アンタ、霧を操れるんでしたね。だったら……」
視線を上げると、水無月と目が合った。
今まで暗闇鹿映していなかったような瞳に、僅かに光が射した気がした。
「私をここから、連れ出してくだせー」
「ああ、約束する。絶対に……──」
そこからの事はあまり覚えていない。
もしも俺の意識が覚醒した時に咄嗟にこの記憶を掘り返して保管していたならば或いは違ったかもしれないが、直後全身を襲い始めたすさまじい激痛の前では些細な事だった。
ーーー
瞼を開けた時に目に入ったのは、視界一杯に広がる月明りだった。
どこかで見た覚えのあるその柔い月光は、しかし恐るべき死への誘いだ。
「っ!」
熱湯を掛けられたような暑さが伴う痛みに目もくれず、俺は身体を回転させて眼前に迫っていた血濡れの刃を寸前で避ける。そのまま地面に手をついて立ち上がる。
「……ふぅ」
身体に溜まった悪い空気を吐き出すように、いつでも斬り合いに転じれるよう構えを崩さずに身体の筋肉を僅かに弛緩させる。痛みは引かない。むしろ悪化しているまである。
そうだというのに、心の中の焦りの炎は既に鎮火しているようだった。
──瞼を閉じる。
瞳に映るのは、真暗闇の中に佇む一体の死の具象のみ。
風は周囲の臭いを悉く掻っ攫っていくが、それでも喩え海の底に居ようとも漂ってきそうな濃厚な血の臭いは逃すはずも無い。
刀を構える。息を整える。──間合は十分。
次だ。次で終わらせる。
「──……行くぞ」
一言呟く──瞬間、空気が爆ぜる。
天空を貫く雷の様な速さで縦横無尽に駆け抜ける。一瞬でも動きを止めれば、それは死を意味する。
斬撃を悉く避けながらして、すぐに彼の元へたどり着く。
「はあっ!」
勢いを殺さずに、そのまま兜割りにしてやるつもりで振り下ろす。
彼はそれを後ろへ避けずに刀で受け止め、そのまま鍔迫り合いへ持ち込もうとする。
俺はそれを許さず、一瞬の隙をついて刀をスライドさせて横に薙いだ。
一筋の霧が吹き出る。
彼はすぐさまステップで後ろへ撤退するが、そんなものはとっくに予測がついていた。
ステップから足が地面に付く前に全速力で距離を詰めて、結果的にこれまでにない程に肉薄する。
彼はステップを踏んだせいで未だに姿勢を崩している。
そのまま上から刀を振り下ろし、肩口から袈裟斬りにする。
スプレーの様に傷口に合わせて霧が溢れ出る。決して少なくない量だ。
……だがまだ、絶対に油断してはいけない。
彼は今の立ち位置のまま大太刀を身体を軸にして回転させて俺へ刃を振るう。
俺はそれの下をくぐるようにステップで回避し、無防備な足を全力で蹴り付けてバランスを崩させる。
バキッ、と嫌な音が身体を駆け抜け、同時に彼は地面に手をついて倒れ込む。
眼前には青白い色をした項。
急いでその場から飛び退こうとする彼と俺の視線が交差すると、彼は静かに閉目した。
「──さらば」
少しくすんだ色の雪が、月光に照らされながら夜空へと昇華した。