冬樹イヴへの遺言   作:屍野郎

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真実

 作法室が設置されてある文化棟を出ると、雲間から陽光が地上に降り注いでいた。

 美しく、幻想的な光景ではあるけれど、今の私にはそれにうっとりしているほどの余裕は無かった。

 

 ──彼の秘密を東雲アイラが知っている。

 それだけのことならいつものように図書館で魔導書を開いていただろう。

 けれど、それを教えてくれた白藤の口振りからして、どうやらそれが恥ずかしい黒歴史とか、以前好きだった人の名前だとか、そんなちょっとやそっとのものでない事は明白だった。

 その上に、どこを探しても彼の身柄が見つからないという奇妙さと併せると、それらに何らかの関係があると考えるのは自明の理だろう。

 

 学園内を速足で進み、私の足は学生寮へと向かっている。

 何が目的なのかは言うまでもない──無論、東雲アイラに事の顛末を確かめるためだ。

 これは、この学園へ転入してきてから今に至るまでの数年間で培った経験則なのだけれど……重大な事に限って、東雲アイラが絡んでくると間違いなく裏にとんでもない『悪魔』が潜んでいる。

 その『悪魔』が大規模侵攻に関する内容だったなら、それは生徒会や執行部に任せて私は指示を仰いだだろうけれど、彼の事となるとそういう訳にもいかない。

 

「東雲さん、いますか」

 

 私はノックと同時に部屋の中へ声を掛けた。

 どうやら自分で認識している以上に、私は無意識的に焦燥しているようだった。

 その証拠に、生徒寮内の廊下を行き交う生徒達の足音がまるでスロー再生をしているようにゆっくりと聞こえる。

 生徒が持ち歩いていた本の上に乗っていた可愛らしい葉っぱの栞がするりと抜け落ちた。

 それはくるくると空中で何度も回転しながら、やがて静かに床に舞い落ちる。

 

 ──それと目の前の扉が開かれたのは同時だった。

 

「昼時に態々人が訪ねてくるのも珍しいの。……うん? 今日は特に珍しい来訪者じゃな」

 

 中から出てきた白髪の幼児体型をした少女、東雲アイラはまだ寝間着姿のままだ。

 この時間帯に人が来るのがそんなに不思議な事なのかと疑問に思うけれど、彼女のまるで真意を探るような敏い眼光に晒されては、よっぽどの事なんだなと思う。

 

「今日は東雲さんに聞きたいことがあって来ました」

「聞きたいこと、とな」

「はい。貴方が知っている彼に関する情報、いや……秘密を」

「……ほう」

 

 私の言葉を聞いた東雲は一瞬大きく目を見開いて驚いたような表情をしたけれど、それでもすぐにいつものような無邪気そうな笑顔を顔に浮かばせた。

 しかしその表情はどこまでも深く、深く、深く──紅に輝く底なし沼のような瞳は、まるで彼女の意思表示の様にも思えた。

 

 でも、今更ここで引き下がれない。

 というか、自分で言うのも難だけれど私は彼の特別なのだから、当然私にも秘密を知る権利はあるだろう。

 ……もし、あくまで東雲は彼の秘密を守り通すというのなら、私にも対抗し得る手段が──

 

「別に構わん」

 

 ……まさかここまであっさり承諾されるとは。

 まあ、これなら余計な手間が省けて好都合。

 私とて、人を貶めるのになんの感慨も抱かない程無慈悲な人間ではない。

 

「ではどこか誰もいない、静かな場所で話しましょう。行く当てなら、私が事前に調べておきました」

「いや、その必要はない。丁度妾も、お主を交えて生徒会役員全員にあやつの事について話すつもりじゃったからの。場所は生徒会室で十分じゃ」

「……あの人たちにも話す必要はあるんですか」

「勿論じゃ。──今やあやつの失踪事件はこの学園内だけの問題ではない。一助の生徒だけの力じゃどうにもならんわい」

 

 学園内だけの問題ではない──。

 それはつまり、いつものように生活して、クエストを請けて完遂して……そんな日常を送っている私達では手に余る問題ということ。

 

「どうする? 一応妾はあやつと一番親密じゃったお主の意見を尊重しようと思うのじゃが……」

 

 まるで気遣っていますと言わんばかりの発言だが、今の私にとってそれはただの死体蹴りと形容すべき煽りでしかなかった。

 私は彼の秘密を知りたい──多分これは普通の感情だと思う。

 そして、出来るだけ彼の秘密を多くの人に秘密のままにしておきたいと思う感情も、またそう。

 だからこの提案は願っても無いこと──だけど、もし彼の失踪になにかの介入があったとしたら?

 その時は私だけでどうにかなる問題なのか──否、出来ないに決まっている。

 

「……生徒会の人達も同席させてください」

「……うむ、分かった。理解してくれてありがたい」

 

 そう言って彼女はふっと小さな笑みを作った。

 普段はまったく気にしない子供らしい笑顔だなと思っていたけれど、今日に限ってはまるで親の仇ともいえるような憎らしい気もした。

 この女は一体なにを企んでいるのだろうか。まったく、この学園にはおかしな人が多すぎる。

 尤も、他の生徒にそのことを聞けば、『いやお前もだよ』と言われる事間違いなしだが。

 

「さて、じゃあ行くかの。生徒会室へ」

「い、今からですか? 生徒会の方達に勿論話は──」

「しておらん。なあに心配するでない。妾が声を掛けんでも、重要な人はあっちが勝手に集めてくれるわい」

「いやそういう問題では……」

 

 友達と会う訳じゃないんだから、事前にアポイントメントは必要だろう。

 それも重要な会議に成り得ることなら尚更。

 だけど東雲はそんなことを一切気にする様子も無く、私に行くぞ、と一声かけて寮から出ていった。

 

ーーー

 

「アイラの言う通り生徒会のメンバーは全員集めたが……」

 

 執行部との間で設けられた緊急会議が終了し、生徒会長の武田(たけだ)虎千代(とらちよ)は疲れからかこめかみを押さえながら腰を下ろした。

 大変な事件が起きた時は大概顔を出してくる東雲が今回は珍しく引っ込んでいると不思議に思った矢先、彼女がなんの断りもなく生徒会室にいるのだからその分疲れも倍増する。

 

 しかしそれよりも本当に驚いたのは、こういったことにはきちっとするイメージであった冬樹イヴも一緒になってこの場にいることだ。

 

「急な要望、本当に申し訳ありません。私からは先に連絡を入れるよう言ったのですが……」

「なんじゃなんじゃ、責任逃れするつもりかえ?」

「そーゆーの別にいらねーですから」

 

 先に注意したのは、東雲のふざけた態度に苛立ちを隠せずにいた生徒会副会長の水瀬(みなせ)薫子(かおるこ)ではなく、水無月であった。

 今この場には、いつもの生徒会メンバー以外に風紀委員長の水無月風子、東雲アイラと冬樹イヴ、──そしてどう考えても場違いな双美(ふたみ)(こころ)だけだった。

 そのことに冬樹は酷く疑心感を抱いていた。本当に何を企んでいるのか、と。

 

「私達生徒会へ緊急で招集をかけた。それが一体どういうことか分かっているのですか?」

「勿論。お主が一体どんな情報を欲しておるかは知った事ではないが、少なくとも今日話しに来たのは到底一般生徒では太刀打ちできぬ代物よ」

 

 水瀬は東雲をまるで獲物を見定める鷹のような鋭い目つきで睨めつけたが、彼女はそれにとことん純粋な笑顔を返し、水瀬は呆れた様に目を瞑って溜め息を吐いた。

 

 緊張で張り詰めていた部屋内の雰囲気は、ひとまずの緩和を迎えた。

 しかし肝心の本題にはまだ一歩も踏み入れていない。

 

「それで、本題は」

 

 水瀬は急かすように、また探りを入れるような声色で訊ねた。

 

 ──水瀬薫子はとても聡明な女である。

 そもそも彼女は生徒会長である虎千代に絶大な信頼を寄せ、それはもはや信者と呼ぶに等しいほどであり、故に彼女は会議で疲れていた虎千代へ事もあろうか出会ってすぐに会議を取り付けた東雲を憎んですらいた。

 話によっては、四の五の言わさずに彼女達を生徒会室から追い出そう──水瀬はそう考えていた。

 だが。

 

「現在失踪中のあやつについて……生徒会すらも欺き隠し通していたある秘密。それと──どうしてあやつの痕跡がここまでほとんど見つからないのか」

「っ! それは……!」

 

 東雲のその言葉に虎千代は弾かれたように椅子を蹴って立ち上がった。

 今まで誰にも知られることの無かった彼の秘密──それが、今回の事件を解く重要な鍵となる。

 大した根拠は無かったが、この生徒会室にいた誰もがそう思った。

 生徒会室は、先程とはまた違った緊張感で支配された。

 

「まず先に言っておくが、今から話す事はもう風子には言ってあるぞ。絶望の淵で抗う姿は見るに堪えんかったんでな」

「水無月さん、捜索で入手した情報は全て生徒会へ報告するようになっていたはずですが」

「まあそう責めるでない薫子。風子には妾から口止めをしておったのじゃ。なにせこの話、知識が半端な者が語るにはあまりに黒すぎるからの」

「黒、すぎる……?」

 

 東雲の『黒すぎる話』というやけに含みをもたせすぎているような言い方には、この場にいる生徒達全員が疑問符を浮かべた。そして彼女達は思った。

 その言い方ではまるで、彼が何かいけない事に関わっているみたいではないか。

 彼の失踪には魔物だけが原因では無くて、他にも何かが原因に──それも、当時の環境状態とか、突発的な異変による事故ではなく、もっと必然的ななにか。

 そんな様々な思いを他所に、東雲は不意にポケットから一個の小さい結晶を取り出した。

 

「なんだそれは」

「これは妾があやつとの友好の証に作った位置センサーじゃ。予め決めておいた対象から魔力が微量でも流れ込んでくると、この結晶は赤く脈動する」

 

 この魔法仕掛けのセンサーは、東雲が古来より好んで用いていたものの一つだ。

 機械を使っている訳でも無い為電池の問題を心配する必要も無く、相手の位置を探るのに必要な魔力も極微量で済むのでコスパが非常に良い。

 今は近くに彼がいないので、勿論結晶は透明のままだ。

 

「なるほど、それは便利だな。しかし東雲……まさか無許可では」

「あやつが眠りこけているうちに細工させてもろうたわい」

「は?」

「落ち着いてくだせー冬樹」

 

 一瞬にして目からハイライトが消え失せ東雲に殴りかかろうとした冬樹を、水無月がどうどうと引き留める。

 

「どれだけ頼んでも許可してくれんでの。よく任務で仲間から頼られておったから、心配しておっただけなのじゃが」

「あいつは変な所で意固地になるからな。まあ、あれだけ共生派のことで他の魔法学園との提携を押し付けていたのではそうなるのも仕方ない」

「お主が少しでも仕事を肩代わりしてやったらよかったじゃろうに」

 

 その言葉に対して、虎千代は申し訳なさそうに目を伏せる。

 

「できるものならやっていたのだがな……」

「……まっ、今更どうこう言うても仕方が無い事よ。して、妾が皆を呼んだのはこんな事の為ではない」

 

 東雲は手に持っていた結晶をポケットへ仕舞って小さく腕を組んだ。

 

 しかし冷静に考えてみれば、ストーカー紛いとはいえ彼女がそこまでやるのもなかなか珍しいと言えるだろう。

 学園でトップクラス級に強力な魔法使いで人望も厚いが、大した魔術特性や家柄も持たず、ただ腕っぷしがあるだけのなろうと本気で思えば誰でもなれるような彼は、良くも悪くもあくまで普通の学園生である──これが学院内での彼に対する共通見解であった。

 彼が消えて数日経った今──魔力を他人に譲渡する力という世界初の特性を持った転入生に比べれば、大した人物ではない。

 

 しかし。

 東雲が注目していたのは、決して彼の強さではなかった。

 

「あやつは初陣の頃から魔物討伐に長けておってな。妾が数体を相手取っている内にばっさばっさと魔物の群れに単独で斬り込んで行きよったわい」

「その話は私も把握しております。当時は報道部の新聞に毎回出ていましたね。魔物殺しの神が舞い降りた、と随分持て囃されていました」

 

 そう呟いた水瀬に、東雲は難しそうな表情をする。

 

「うむ……まあ、よくよく考えてみればその喩えには些か間違いがあるのじゃがな」

「間違い、ですか?」

 

 確かに東雲が言った通り、彼は入学当初から学園トップクラスの魔法使いとしての片鱗を覗かせていた。

 それは彼の戦いぶりを見れば学園内外問わず誰にでも強いと思わせる程で、事実例の喩えに関して不自然に思っている者は少なくともこの場に一人もいない。

 

「あやつのおかしさに気付いたのは、共にクエストへ行くようになって数ヶ月経った頃じゃ。その頃はもう白兵戦のイロハは完全に会得しおって戦いやすいのなんの。じゃが…」

「……私も不自然さは薄々と感じていた。確かに彼は強い、それは理解している。だが……たった一人で、それも入学したての人間があれほどの魔物を撃破するのは流石に有り得ない」

 

 そう話した虎千代に、東雲は首を縦に振る。

 

「その通りじゃ虎千代よ。そこで妾は、あやつの戦いぶりを暫く観察することに決めたんじゃ。あやつの無尽蔵の強さの正体を暴こうとな」

「それで……」

「すぐに分かった、一目で分かったわい。あやつは自身の力だけで、そこまでの戦果を挙げていた訳では無かった」

「……よく意味が分からないんですが。なら彼はどうやって──」

 

 

 

 

 

「霧に親和しておったんじゃ、あやつは」

 

 

「……え?」

「どういうことだ、東雲」

「普通、妾やお主のような人類にとって霧は毒でしかない。つまり霧とは対なる存在じゃ。しかしあやつは、その立ち位置からかなり霧の方へ寄っておる」

「……」

「霧と親和しておる──言い換えれば、あやつはそこらの魔法使いよりも霧の本質について本能的に理解しているということじゃ。じゃからあやつは霧の効率的な払い方を知っておるし、その技術を意識せず扱う事が出来る……」

 

 開いた口が塞がらなかった。耳を疑った。さらに正気さえ疑った。

 この無表情で立っている東雲アイラは、今なんといった?

 

「じゃが、あやつが霧の魔物なのかと問われればそうではない。人より霧を耐えることは出来るがそれも完全ではないはずじゃ。一定量を超えれば毒として身体を蝕むじゃろう」

「そ、そんな……本気で言ってるんですか東雲さん……!?」

「まあ、その反応も無理ないわい。じゃが妾は少なくともこれまでに同じやつを何人か見たぞ」

「人でありながら、霧と親和性を持つ人間を……?」

「そうじゃ。……信じられんじゃろうがな」

 

 何でも無さそうに話を続ける東雲だが、一方虎千代は気が気ではなかった。

 霧と部分的ながらも共生が可能な生物などこれまで前例が無かったからだ。

 

 大前提として、魔物の根源たる霧は人類にとっては生命に影響を及ぼす病原体となんら変わりはない。

 例えば霧の濃度が高い場所へ行けば、体内に霧が侵入することがある。

 霧は霧を呼ぶ性質を持つ。そしてその結果、身体を完全に霧に侵されてしまった生物は霧の魔物と化す。

 

 言ってしまえばこれは一般常識の様な物である。

 蛇口を捻れば水が出るのと同じように、ごくごく当たり前な現象として世に決定づけられている。

 だからこそ、今しがた発覚した彼の異常性は興味よりも先に恐怖を感じさせた。

 

「じゃが、昔から霧と見事に共生できる生物が存在する可能性は少なくとも考えられておった。周りからは異端者を見るような目で蔑まれながらその研究をする者がな。妾も昔はその一人じゃった」

 

 東雲は懐かしそうに、しかし時折悲痛そうな雰囲気を漂わせながら、今は遠き過去に思いを馳せる。

 

「霧と親和性を持つ。それは妾にとってとても興味深いものじゃった。もしかしたらその力は、明確な対抗策の無い人類へ魔物の一時的な撃退ではなく、永遠の絶滅という救いを齎すと考えておった」

「……」

「そんな節、妾の目の前に現れたのがあやつじゃ。そしてあやつの特質を知った時に考えた。もしかしたらあやつは、妾が随分前に発見した命令式──魔法に耐えられる人材かもしれん、とな」

「……東雲さん、貴女まさか──!」

 

 命令式、という言葉に冬樹が突然声をあげる。

 嫌な予感が、した。

 

「……意図的に霧を呼び寄せ、身体に取り込み、一時的な身体強化を得る魔法じゃ」

「な──」

「霧との相性が良いという事はある程度までの霧の恩恵を受ける事が出来る。妾はそう確信して、あやつにその魔法を教えたんじゃ」

 

 ──気味が悪いくらいに物音一つしない生徒会室。

 沈黙が辺りを支配する。アイラが深く息を吐いて、吸って──。

 

「……その確信は、正しかったわい。筋力の増加、五感の急激な発達、それに伴う生命活動の増大。どれをとってもその魔法はあやつと相性がピッタリじゃった」

「ふざけないでください! そんな実験紛いの事に彼を利用して……人の命を一体何だと思っているんですか!?」

「ふ、冬樹! 落ち着け!」

 

 不安と怒りと、そして日に日に容赦なく増していく絶望。

 ここ数日で積もりに積もったそんな負の感情が、東雲の過去の告白により爆発した。

 冬樹は大人しい生徒だ。しかし彼女でも心の底から爆発的に湧き上がって来た激情を抑えることは出来ず、とうとう東雲に掴み掛かろうとしたところを、水無月が彼女の手を掴んで引き留めた。

 

「離してください! あいつは……あいつだけは、絶対に許せません!」

「気持ちは分かりますがね、これは暴力に訴えてどーにかなる問題じゃねーんですよ」

「ですが……!」

「まずは東雲の話を聞いてやりましょ。話はそれからです」

 

 水無月に諭されて落ち着いたか、冬樹は真っ赤な顔で悔しそうに唇を噛みながら、怒りでかたかたと身体を震わせながらキッと東雲を睨みつけた。

 

「……続きを話せ、東雲」

「……確かに相性はピッタリじゃったが、まだその魔法には未知の部分が多かった分伴う危険度も未知数じゃった。じゃから妾は、それを非常時以外使うなと託してその魔法を伝授することとしたんじゃ」

「それで、その話と今回の失踪事件ではなんの関係があるのかしら?」

 

 薫子は苛立った口調でそう訊ねる。

 虎千代以外には全く素っ気ない態度をとる彼女だが、先程の東雲自ら語った話には流石に癪に障ったらしい。

 それに、本筋の見えない話をたらたらと続けているのも、彼女の怒りの燃料には十分だった。

 

「虎千代よ、あやつの血痕はほとんど見つかっておらんのじゃろう?」

「あ、ああ。あいつの刀が落ちていた地底湖はおろか、洞窟内のどこを探し回ってもほとんど見つからなかった。それがどうかしたのか」

「あやつは治療をしたんじゃ」

「……は?」

 

 唐突で、予想だにしなかった一言に素っ頓狂な声が漏れる。

 そんな虎千代の反応を見て、アイラは先程の結晶をまた取り出す。

 

「先も言った通り、あやつは霧と親和する特質を持っておる。それは、霧と同化することが出来るとも言えるのではないかえ?」

「っ!……そうか、当時あの場には莫大な量の霧が立ち込めていた。あいつはそれを利用して、体外に出てしまった血を霧と同化させ、それを無理矢理魔法で吸収した……そういうことか?」

「なかなか頭がキレるの。その通りじゃ」

 

 理屈では考えられない、想像する事さえ難しい技術だ。

 しかしもし。東雲や虎千代の言う予想が的中し、彼は出血した大量の血を体内に戻すことが出来ているとしたら──。

 

「い、生きてるのか!? ならあいつは今どこにいるんだ!」

「まあ待て。この結晶はな、相手の魔力を確実に入手する為に改造したタイプなんじゃ。どこにいるとしても僅かに脈動するほどにな」

 

 東雲は結晶を吊るしてある赤い紐を人差し指で摘まむと、目の前に持って来てぷらぷらと揺らす。

 結晶は相変わらず透明なままで、生徒会室の電灯を照り返している表面がまるで太陽の下で波打つ海の様に輝いている。

 

「それを踏まえて、結晶の脈動が無いとなると考えられる可能性は2つじゃ。体内の魔力が枯渇しておるか、もしくはこの結晶が想定するより遠くに逃げておるか。あやつの魔力量の豊富さを考えるに、間違いなく後者じゃろうな」

「この数日間でそんな遠くへ逃げる事が出来るのか……? いや、だが再び捜索を──」

「無駄じゃ」

 

 きっぱりと否定する東雲。

 

 結晶の想定外の場所に逃げている。それはつまり彼が生きている可能性が高いということだ。

 彼が死んでしまったならそれこそ捜索隊を結成したところで死体を見つけるだけに終わってしまう。

 しかしそうでないのなら、今すぐ捜索隊に参加したい生徒を募集し、有り得ないと踏んで一度も踏み入れなかった洞窟の更に奥へ、また洞窟外の広範囲に捜索の目を向けるべきだろう。

 

「……なぜだ」

「説明が悪かったの。普通この結晶は、あやつが例え地球の裏側におったとしても魔力を吸い出すじゃろう。どんなに離れていても、じゃ。つまり妾が言っておるのは、距離という物理的な遠さじゃのうて、時間、もしくは空間的な意味での遠さじゃ」

 

 ここで薫子は、ようやく東雲が言おうとしている事に気が付いた。

 彼には霧と親和する能力があり、それを利用した全く新しい魔法を東雲から受け取った。

 その魔法は周囲に散らばる霧を集める事が出来る。

 そして霧という不確定なものが秘める強大な力──高濃度になると、空間さえも歪ませる。

 

「自分で霧を一か所に集めて濃度を高め、空間を歪ませたのじゃろう」

「それってつまり──」

 

 

 

「ああ。あやつは裏世界におる可能性が高い」


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