冬樹イヴへの遺言   作:屍野郎

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あけましておめでとうございます。
そして遅くなりましたがお気に入り登録者数400人突破、恐悦至極。
もう暫しの間この小説にお付き合い頂ければ幸いです。


生世の尽

 いつもと変わらない、窓から覗く暗闇に影のみが映る大きな山の姿。

 月明りが山の木々を照らし、風がどこまでも月光を運んでいく空気の澄んだ夜。

 異様なまでに静かな部屋は、時計の鼓動と風が枯葉を巻き上げる音だけが聞こえている。

 昨日、生徒会から正式に近いうちに第七次侵攻の起こる可能性が非常に高い旨の報せがあった。それはすぐさま学園中に知れ渡り、血気盛んな者は即座に戦闘の支度を始め、理知的な者は犠牲を最小限に減らす戦略に思考を巡らせ、臆病な者はその唐突の報せにただ怯えた。

 臆病者に対して怒りを露わにする者もいたけれど、その反応は少しも間違ってはいない。なにせ今回の侵攻は今までにない更に大規模なものになると発表されたからだ。

 もしかすると今回の侵攻で命を落とす人が多く出るかもしれない。それが顔も知らない全くの他人なのか、それとも昨日まで時間を共有していた竹馬の友であるかは分からない。

 つい最近に彼が戦死した(一般学生にはそう認識されている)という前例がある以上、必至の戦争に恐怖を抱くのは、人間として尤もな反応に違いない。

 

 ──違う。彼は死んでいない。

 

 時計は深夜の1時50分を指している。私は自室の中心で、戦闘服に着替えて正座をしてその時を待っていた。

 間違いなく今日に起こる。確かな根拠は無いけれど、これまでに無くざわつく胸の奥がそう告げているような気がしてならない。

 

 ──もし、本当に彼と合う事が出来たら……。

 

 そこまで考えて、私はその加速しかけた愚かな思考を頭を左右に振り回して引き留めた。

 もし彼が生きていたら? 馬鹿を言わないで。彼は生きている。世界中の誰もが否定しようとも、絶対に。

 私は瞼を閉じて荒れ狂う不安の波を抑え、キリキリと痛む胸に手を当てる。

 暫くして落ち着いてくると、私は視界の端にシェルフに飾られたあるモノを捉えた。

 近くに寄って手に取る。ソレは彼の最も長い間共に戦い続けた戦友ともいえる、燕子花の紋が彫られた刀だった。燕子花の花に巻き付く様にして天へと昇って行く龍の彫刻は、見る者を悉く魅了するだろう。

 

 私は刀を鞘に納め、腰に携えて再び時計を見た。午前2時丁度。一度ココアを飲んで気を落ち着かせようと立ち上がったその時。

 静かな夜にはあまりに似つかない、鼓膜を破壊するような警報音がけたましく鳴り響いた。

 これは火事とか地震とか、そういった類の警報ではない……まさか──。

 

『全学園生へ告ぐ、緊急事態だ。始まったぞ……──第七次侵攻が』

 

 警報に続いて武田会長の声が、その報せを告げた。ある人には待ち侘びた、またある人には耳にすら入れたくなかった最悪の不協和音。

 

『戦闘準備を整えろ。今から5分以内に全員運動場へ集合しろ。生徒会からは以上だ』

 

 私は、静かに鞘から刀を抜き取る。金属の擦れる涼し気な音が耳を擽り、私の顔を映す鋼の刃は底知れぬ美しさを惜しげもなく見せびらかしている。

 ぎらりと一閃、刃が月光を艶めかしく反射した。窓の外を覗き込むと、真っ黒なキャンバスにくっきりと輪郭を浮かび上がらせた満月が一層輝きを増している気がした。

 

 

 

 

 

「リリィクラス、全員の集合を確認しました」

「よし、これで全員揃ったな。君は自分のクラスの列へ戻れ」

 

 生徒達の騒めきは止まない。夜間用のライトに照らされる彼女等の表情には期待、焦燥、恐怖──数えきれない程の感情が浮かんでいた。私は身体が火照っていくのを感じ取る。

 一般生徒がクラス順に並んでいるのに対して、私達風紀委員は生徒会枠として壇上に立つ武田会長の傍らで横一列に整列していた。

 右には氷川さんが、左には水無月委員長が並んでいる。氷川さんはこれから始まる死闘に身体を震わせている。委員長は相変わらず無表情のままだった。

 

 暫くして騒めきは消滅し、グラウンドには酷く穏やかな風が吹いた。

 それはまるで、最強と称される一人の天才に恐れをなしている様だ。

 

「生徒諸君! 生徒会長の武田虎千代だ」

 

 静寂を切り裂く様に、武田会長の声は帳の降りた空気をピリピリと震わせる。

 

「先程のアナウンスの通り、この学園から北西にある小鯛山で大規模な魔物の発生が確認された! 規模は通常の82倍、間違いなく過去最大級の大規模侵攻だ!」

 

 82倍。これがどれほどの規模を表す数値であるかは想像にも及ばない。

 ──大きすぎて、私の思考領域ではシミュレーションするには狭すぎる。

 私の他にもそのことに気付いた生徒がいて、少しずつ、水の中に黒いインクを垂らしたように騒めきがどんどん拡大していく。

 『話が違う』、『まだ死にたくない』……そんな声が聞こえてくる。

 そんなことを言っても、もう仕方ないでしょうに。

 

 今回の大規模侵攻はあまりにも大きすぎる。かつての時代にも、人類の為、家族の為に魔物と戦い命を落とした尊い魔法使いたちがいるのだから、私達も今生きている人達の為に命を惜しむべきではないだろう──

 

「だが、我々もかつての侵攻から9年間多大なる歩みを進めてきた! 今や現在の人類は9年前とは比較にならない力を有している!!」

 

 その声に再び生徒達の声が静まり返る。

 武田会長の激しい息遣いが耳元で聞こえた。

 

「私は宣言する! 今回の大規模侵攻では誰も──誰一人として死なせない!! そして風飛の街には一歩たりとも魔物に侵させない!! ここで魔物を退け、人類反撃の新たな原点として今日を刻むぞ!!」

 

 ──その後も続く、武田会長による士気向上のための大演説。

 今や来る大規模侵攻に対して尻尾を巻いて逃げ出そうと考える生徒は存在しない。武田会長の演説に耳を傾ける彼女等の瞳に燻っていた火種が轟々と音を立てて燃え上がるのを、確かに私は見た。

 

「風飛市の北に防衛線を敷く! 各自割り振りに従い10人規模のパーティーを結成し出発しろ!!

 これほどの規模の作戦は初めてだろうが、怖じることは無い! 指示に従い、持てる力を十分に発揮すれば心配することは一つもない!!」

 

 私は委員長に視線を送り、彼女がそれを受け取ったのを確認すると、生徒達よりも一足先に私達はグラウンドを背に北西の方向へと向かう。

 小鯛山。私は暗闇にぼやけるその影を睨みつける──。

 

「不測の事態が発生した場合は速やかに生徒会へ連絡しろ! それでは生徒諸君、健闘を祈る!!」

 

 直後、背後から後頭部を殴り付けるような生徒達の咆哮が駆け抜けた。

 

ーーー

 

 宵闇に紛れて、誰にも悟られぬよう木々を跳ねて移動する紅い眼があった。

 4つ。それは四つ目の妖怪ではなく、紅い眼を妖しく光らせた人間が二人いる事の証明。

 唐突に、木々の開けた場所で彼と彼女は立ち止まる。見上げると、壮麗な満月。

 

 彼は眺める。彼女は微笑む。

 少女は川の潺のような月光の流れを真銀の髪に流すと、彼の右手を小さな両手で包み込む。

 彼は大海の嵐のように荒れ狂う月の魔力に祈ると、彼女の両手に大きな左手を重ねる。

 その何重にも重ねられた手の内で、僅かに翠の妖光が指の間を抜けた。

 

 彼は欲した。

 永遠(とわ)は願った。月は認めた。

 

ーーー

 

 そもそも山の中では足取りがとても悪く、戦闘面、また撤退する際にも軽やかな足捌きが重要視される対魔物戦では不向きである事この上ない。

 それだけに留まらず、かつてない超大規模侵攻のせいで国軍が壊滅する可能性も否めない現状、夜間の山がどれだけ危険かを考慮しても魔法を会得している学園生の出動は免れなかった。

 私と委員長は事前に様々なシチュエーションにおける交戦にも対応できるよう、定期的な特殊環境下での訓練を彼から受けていた為に今の状況は昼の山中とさして変わらない。

 魔物一体を倒すのにいつもより少々時間がかかる点を除けば、だけれど。

 

 ──腕一本でしぶとく起き上がろうとしていた魔物を魔法で吹き飛ばす。

 

「冬樹! そっちはだいじょーぶですか?」

「ええ、今さっき片付いたところです」

 

 振り返ると、真白な戦闘服が土塗れになった委員長が額に汗を溜めて立っていた。私も自分の服に視線を落とすと、いつの間にか委員長と同じくらい汚れていた。

 

「通常のクエストの時よりも魔物がしぶとくなるとは聞いていましたが……」

「まさかここまでとは思わねーでした。……本当に他の生徒はだいじょーぶなんですかね?」

「武田会長のことです。無策というわけではないでしょう」

 

 私達の前方──大勢の叫び声と魔法が発動する音の荒れ狂う山頂付近から振り返り、遥か後方に広がる山の麓へ目を向けた。まるで灯篭流しの様に一つ一つの明かりが絶え間なく流れている。

 学園生達は既に防衛線にまで到達していた。

 峻厳な冷風が唐突に吹き荒び思わず地面に倒れ込みそうになるが、委員長に後ろ手を引かれて阻止される。

 

「冬樹、先を急ぎましょー。ずっと立ち止まっていると寒さでやられてしまいます」

 

 そう言って、委員長は私の返事を待たずに再び暗闇を白色のライトで切り開きながら進んでいく。

 風が足元の枯葉を巻き上げて何処かへと運んでいく。私はその風の一吹きさえも掴み損ねないような繊細な態度で、索敵と同時に彼の影を探す──。

 

 ……どれほどの時間が経過したのだろう。途中に出現する魔物を倒しながら彼の姿を探すうち、ある変化に対する違和感を心の中に抱き始めた。

 

「委員長、風向が……」

「気付きましたか。ええ、北風がいつの間にか南風に変わってやがります。少しけーかいした方がいーかもしれません……と、噂をすれば影が差す、ですか」

 

 委員長が溜め息を吐きながら指差す方向へ視線を向けると、確かに真黒のキャンバスに奇妙な黄眼が幾つも浮かび上がっていた。それらはまるで一つの生命体に見える。そうでなかったとしても、恐らく5体程度──。

 

 

 

 ……5体、?

 あんなに一つ一つの眼が、自由に動き回っているのに?

 

 ──委員長が、恐る恐るソレへライトを向ける。足元から照らされる。

 悍ましい色をした、幾つもの人型の足、様々なモノが露出した腹部、肋骨のようなものが胸部から広がるようにして生えている。ソレらは──単眼。

 

「い、委員ちょ」

「逃げますよ、冬樹!!」

 

 委員長が私の手を取る。落としたライトが岩に引っ掛かって魔物を照らす。

 離れていく魔物達。その先頭の一体が、露出させた牙を舌なめずりした。

 ポタリ。魔物の牙の先から雫が落ちる。紅く、黒い。

 月光に当てられて、どこまでも──鮮やかな。

 

「あ、あの魔物は、人を──」

「魔物にも様々な攻撃手段が存在します! あの魔物の場合、それが牙だっただけですっ!」

 

 風が私達の背中を押す。途中木の根に足を引掛けようとも、転びそうになっても、そんなのはお構いなしに走り続ける。魔物は追っては来なかった。後ろを振り返って姿が見えなくなってから数十分経った頃、漸く私達はゆっくりとその場に立ち止まる。

 荒ぶる呼吸を抑えようと、肩を上下させながら肺一杯に空気を取り込む。

 

 ──委員長の携帯端末の着信音が、森の冷え切った空気を震わせる。

 

 委員長は舌打ちをついて鬱陶しそうに携帯端末を耳にあてがう。

 

「なんですか、こんな時に。こっちは今大変な目に遭ってんですよ」

 

 携帯端末から僅かに聞こえる声の特徴の持ち主は、どう捉えても武田会長以外に存在する筈が無かった。

 

「緊急事態、ですか……ええ、はい………え?」

 

 遥か上空で膨大な風が荒れ狂う轟音が鳴り響く。耳を覆いたくなるような、不快で恐ろしい音。

 刹那、地上を薙ぎ殺す突風が、委員長の背後にある背の高い茂みを揺らす。

 茂みの奥で何かが光る。それは凄まじい勢いで委員長に向かって──っ!?

 

「……分かりました。それじゃー私等は一旦」

「危ないっ──!!」

 

 委員長を腕の中に押さえて一緒に横に倒れ込む。衝撃で思わず手放した携帯端末は宙を舞い、重力に従って地面に落ちる──その前に、金属の擦れるような不協和音と共に四散した。

 目を回して未だに状況が呑めない委員長。

 さっきの茂みを睨みつけると、紅い妖光が闇に揺らぐ。

 

「あ、あれはさっきの」

「まさかここまで追って来やがったんですか!? それに今の攻撃──」

「……腕はどうやら触手の形状になっているようです。腕の先に、あれは……針?」

「お、おーきいです……あんなのを喰らえば、いくら魔法使いと言っても大変なことになります」

 

 脈動する触手の先に付いた鉄パイプの様に太くて長い金属の針を、魔物は得意気に舌なめずりをする。

 牙が紅い、辺りを見回しても他に魔物が見当たらない。幸運なことに追ってきたのは先頭にいた魔物だけで、ここにはアレ以外魔物は存在しないようだ。

 委員長は戦闘服に付いた土を払いながらゆっくりと立ち上がる。

 

「先程生徒会から連絡がありました。どうやら国軍の形成していた防衛線が一部突破されたよーです」

「そんな……それではまさか、あの魔物は」

「ええ、虎から渡された魔物の特徴を考えても、アレは間違いなく国軍の取り逃がした魔物です。それに、運が悪いことに……タイコンデロガ級です」

「……そんな」

 

 タイコンデロガ級は、彼を窮地に追い詰めた魔物もそう呼称された程に力強く、そして他の魔物とは隔絶された圧倒的生命力を以て熟練の魔法使いでさえも蹂躙し尽くす。

 話を聞くと、その中でもコレは近距離のも遠距離にも攻撃を対応させられる厄介者らしい。

 私は背中に冷や汗が伝うのを感じた。

 

 ──冬樹。戦闘において最も重要なのは引き際を見極める事だ。

 

 いつか彼に言われたことを思い出す。

 魔物を視界に入れたまま警戒を怠らずに、私は背後へと振り返って逃げ道を確認する。

 目の前に広がるのは崖下に広がる木々の海。その隙間から明かりが所々に漏れている。

 ……無理だ、逃げられない。

 

「くっ……一体どーすれば……」

 

 ──人間誰しも限界がある。

 

 私は、右手を開いて凝視する。土に汚れた小さな手。

 記憶の中の彼の手を重ね合わせて、更に私のその手の小ささを痛感する。

 小さい手に細い腕。凡そ運動をする為ではなく、勉強の為だけに産まれてきたかのような儚い身体。

 

 ──もし、お前よりも格上の相手と撤退不可能の場所で戦う事になった時。

 ──その時は、命を賭して戦え。

 

 私は。

 私は拳を握って、改めて目の前の不細工な魔物へと目を向ける。

 できるのだろうか、私に。

 私はもう逃げられない。私が敗れればこの魔物はきっと崖を降りて他の生徒を襲いに行く。

 ……それは、そんな事は絶対にあってはいけない。

 何としても、ここで魔物を食い止めるか、誰かが来るまで時間稼ぎをするしかない。

 

「委員長」

「なんでしょーか」

「一旦戦線から離脱して、委員長は強い人を呼んできてください」

「……なに、言ってんですか?」

「私がここで時間を稼ぐので、その間に委員長は生徒会に増援を送るよう要請してきてください。委員長の携帯端末は壊れてしまいましたから」

「そ、それなら冬樹ので──」

「私の携帯端末も、先程魔物から逃げる際にどこかに落としてしまったようです」

「……そんな」

 

 私は委員長を庇う様にして魔物へと対面する。

 瞬き一つせず、一瞬たりとも私から視線を外さない気味の悪い魔物。

 宙を自由に蠢いていた二対の触手が、魔物の頭上でやがて規則的な動きを示すようになった。

 

「ダメです。いくらなんでも冬樹一人じゃ……」

「でも、委員長一人が加勢したところで状況は変わりません。精々生存時間が少し伸びるだけです。それでしたら、委員長一人でも戦線から離脱して増援を呼ぶ方が、生存率が高いのは火を見るより明らかでしょう」

「で、ですが──」

「委員長!」

 

 魔物が頭上で触手を構える。針の先は私を向いていた。どんな攻撃が来ても避けられるように、姿勢を低くして視線を外さない。

 

 瞬間、魔物が私の視界から消える。とても魔物が出せるような速度では無かった。

 直後に長らく感じてこなかった程の最大級の警鐘が私の本能によって鳴らされる。

 私は身体を芯から怯えさせるその音に従って、委員長と一緒に後ろへ避ける。

 

 空気の裂ける音。目の前には、血濡れの針先。あと少し遅ければ──

 

「委員長」

「……分かりました。ですが、これだけは約束してくだせー」

「……」

「絶対に、死なねーでくだせー。冬樹がいなくなれば、彼もひどく悲しみます」

「……分かってます」

 

 私がそう返すと、委員長は少しだけ微笑んでから木の陰へと姿を消した。

 凩が吹く。もう一度体勢を立て直す為に地面を力強く踏み直す。そこで、気付く。

 足が震えている。足どころか、手も、身体さえも震えている。

 

 怖い。

 普通に考えて、私一人が国軍でも梃子摺るタイコンデロガ級を相手に圧倒することはおろか、生き残る事さえ出来ないのは明白だった。死体が見つかるだけでも幸運と言って過言ではない。

 けれどこのまま逃げ出せば、いつのまにか崖の下にまで来ていた他の学園生達に危害が及ぶかもしれない。

 深く息を吸う。張り裂けそうな空気が私の肺を酷く痛める。

 

 魔物は空振りに終わった自らの触手を引っ込めて、無感情な瞳で私を見つめる。

 相変わらず気味の悪い色と形をしている。何を考えているのか分からない。いや、魔物にはそもそも思考するという概念が存在しないか。

 どちらにせよ、このまま空白の時間が続けば、私の精神が恐怖に呑まれるのは時間の問題だろう。

 

「来るならさっさと来なさい、化け物」

 

 右手を正面へ向けて魔法を放とうとした直後、それまでじっとしたまま動かなかった魔物が地面を足で割らんばかりに蹴り飛ばし、急加速で私に突進してくる。

 

(っ!)

 

 反射的に魔物の進行方向へ分厚い氷の壁を二重にして作り出し、加えて拳ほどの氷塊を弾丸の様な速度で、空気の爆ぜる音と共に発射させる。けれど、魔物はそれらを意にも介さず氷の壁を粉砕する。

 タイコンデロガ級ともなる魔物の攻撃を私の作った氷如きで防げるとは微塵も思っていなかった。けれど、氷粒が一切効かないというのは流石に想定外だ。

 少しぐらいは怯むと思っていた。少しぐらいは、隙を作れると思っていた。

 

 魔物が大口を開けて食らいつこうとしていたのを間一髪で避け、すぐに体勢を整える。

 無防備になった背中を、空気中の水蒸気をかき集めて氷槍を作り振り返る隙も与えずに貫く──

 

「……ゥ、グァ」

 

 それに返ってきたのは、なんとも気の抜けて眠そうな、まるで危機感の感じられない魔物の声だった。

 マズい──っ! 咄嗟の判断。しかしそう思った時にはもう遅く、右足首に激痛が走る。針が私の右足首を裂いていた。

 思わず後ろに倒れ込む。再び立ち上がろうとしても、うまく足に力が入らない。

 

「あ……うっ…」

 

 傷口から鮮血がとめどなく溢れ出す。このまま放っておけばどうなるかぐらい火を見るよりも明らかだ。

 不覚──。視線を横に向けると、悠々と佇む魔物が現れる。

 

「ゥギィ……ィギアャァアァ!!」

「うっ……あああああッッ!!」

 

 視界が明滅する。

 痛覚だけを頼りに、今度は左足を針が貫いたのだと自覚する。地面から離れる浮遊感、左足を中心に伝播する想像を絶する激痛、灼熱。

 辛うじて世界を映す視界に入るのは、大口を開けて鋭利な牙を覗かせる魔物。

 

 眼前に迫る、死──死────死。

 

「あ、あっ……死に……たく……な……」

 

 私を突き動かしていた心の底からの勇気も、力も完全に泥沼の底へと失われた。収縮した喉で絞り出した声は誰の耳に届くことも叶わず。脱力した両手が生暖かい感覚に包まれる。

 

 

 

 

 

 ──私は、彼を信じていた。彼も、私を信じていた。

 私は彼の絶対。彼も私の絶対。

 私は愛した。彼も愛した。

 だけれど、自然の理を外れた邪悪で強大な力の前ではそれを守り切る事なんて出来なかった。

 世界は許さなかった。私達の愛を。なんて残酷で理不尽で、自分勝手。

 

 それでも私は、私と一緒に貴方が泣いてくれるのなら構わない。

 私と一緒に笑ってくれるのなら、世界に否定されようと構わない。

 

 だって、そうでしょう? 貴方は私の世界なのだから。

 貴方のいない世界なんて、私のいるべき世界じゃない。

 

 でも──貴方の周りには沢山の友達がいる。戦友がいる。そこにはきっと、私一人の愛で満たすことは叶わないぐらいに大きな愛が満ちているに違いない。

 貴方は私の世界だけれど、貴方の世界は貴方。

 

 私がいなくなっても、貴方の世界は終わらせないで。

 

 

 

 

 

 ──結局、私は時間稼ぎにもなれなかった。

 頭を振り絞った。力を振り絞った。勇気を振り絞った。

 それでも敵わない。私の限界はここだった。

 約束は守れそうにない。──私は、帰れない。

 

「ごめん、なさ──」

 

 彼へ許しを請い、両手首に鋭い痛みが走った直後。

 ──眼を焼き尽くす雷斬が地を駆けた。

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