日光。
暖かさと眩しさに開きかけた瞼を細め、未だ覚醒しきらない体で寝返り光から逃げる。
自身の体温で温まった布団は心地が良くてついつい二度寝へと移行してしまいそうだ。
しかし、そんな至福の微睡みを邪魔する騒々しい声が自室に木霊する。
「はいかぁ~!またれーむが私のこと胡散臭いってぇー!嫌いってぇー!」
「分かったから静かにしてよ。まだ眠たいんだ。それと僕はこれから二度寝にはいるから朝ごはんは要らないと藍に伝えておくれよ」
「貴女私と違って寝る必要なんてないじゃない!そんなことより私の話を聞きなさいよ!一応は貴女だって私の式でしょう!?なんで主のピンチを放っておいて自分は惰眠を貪ってるのよぉ!おかしいじゃないの!」
「うるさいなぁ。その理屈ならなら藍に慰めてもらえばいいじゃないか。それが僕である必要ないでしょ。はいこの話おしまい。おやすみ」
「起きて、起きてってばぁ!」
「ぐえっ、ゆ、揺らすな、揺らすなってちょっと」
情けない声の主が寝相で乱れた布団の上から掴み掛かって来る。そのまま目一杯前後に揺さぶるものだから、視界がやたらめったらぐわんぐわんと歪んでしまう。
というか痛い。
断ってもしつこく僕の睡眠を邪魔する女。彼女は八雲紫。一応は僕の主ということになっている。なんだって昔の僕はこんな奴を主にしたのかさっぱりだ。
一発ぶん殴ってやらなくちゃ気がすまない。
ふと、昔の記憶が頭の中を過った。
そしてその記憶を思い出して『否、あの時は僕が悪かったわけじゃないぞ』と数秒前までの自身の考えを蹴飛ばす。
ああ、確かあれは朗らかな今朝とは真逆の夜のこと――――
■■■
空虚。
なにもない廃れた廃屋で、僕は空を見ていた。
くらいくらい闇の中に星々が所狭しとひしめき合っている。あっちもこっちもチカチカと忙しない。たまには休んだりしないのだろうか。
僕なんて毎日ただぼうっとするだけの生を惰性で過ごしている。あれだけ毎日ぴかぴかと大変だろうに。別に年に数度程度休もうと誰も文句は言うまいて。
そこまで考えて、待てそれだと自分の暇つぶしがなくなってしまうと自分で思いついた星への休暇案を自己完結で却下する。
こんなくだらないことを思案する他ない自分は寂しい奴だ、と思われるかもしれないが、それは概ね事実である。
今座り込んで居る廃屋の他にも人の痕跡らしきものは幾つかあるが、それらは皆一様に朽ち果てていつ完全に倒壊するかわかったものではない。
かつて強力な土地神に収められたこの土地もあの方が去ってからは衰退するまであっという間だった。
何処か遠くへいなくなってしまわれたのはただの気まぐれか或いは何か重要な理由があったのか。
何にせよ、この面倒な能力を解除してから行ってほしかったものだ。そのせいで自分は未だに分不相応なまでの力を保持したままでいる。
ああ、本当に面倒な――。
今夜幾度目かに襲ってきた睡魔へ身を委ね、眠りに落ちようとしたその時。
眼の前に何やら紫色の裂け目が現れた。
飛び降りかけた夢の中から這い上がり、何やら胡散臭いオーラを裂け目の中から撒き散らす妖へと視線を向ける。
こちらを見てニヤリと口元を歪ませ、先程よりも大きく裂け目を開いて全身を顕にした妖。
目を引くのは流れるような金の髪に整った容姿。
そして何より強大な妖気。
これでもかと見せつけるようにダラダラと気配を垂れ流すそのさまは宛ら栓を無くした水桶のよう。
あまり褒められたものではないな、これは。
「もし、そこの貴女」
鈴を転がすような声で語りかける妖。
ご丁寧に口元を扇子で隠しながらお上品さを演出するオプションまで付いている。
結構なことだ。
でもやるならその垂れ流しの下品な妖気を引っ込めてからじゃないとどこぞの都会に憧れた田舎者がイキっているようにしか見えない。
わざとらしく左右を見回して一体誰に話しかけているんだろうコイツ、と煽ってやると、威圧的な目でこちらを見下ろしてきた。
「ちょっと。分かってやっているでしょう?」
「さぁ。なんのことだかさっぱり」
「本当にそう思っていると言うならもう少し声と表情に感情と抑揚を込めて言いなさい」
はぁ、と溜息を一つ吐きながら扇子を閉じる妖。
どうやら初めにやっていたお上品なお嬢様キャラはもうやめのようだ。飽きるの早くないか。
僕だってもう少し頑張る。
伊達にここ数年、いや数十年?青空と星空だけを見て過ごす生活を送ってはいない。
「貴女、ここ百年くらいずっとこの場所にいるでしょう?」
「そうだね」
「貴女は幾らか前までこの土地を治めていた土地神に仕えていた。違って?」
「そうだね」
「しばらく貴女の行動を観察させてもらったけれど、ここに居て特に何かをしている訳でもなし、何の為にこうしているの?」
「そうだね」
「……ちょっと」
「そうだね」
「多少痛い目を見ないと分からないかしら」
妖の背後にリボン付きの二つの亀裂が走り、紫色の閃光がこちらへと走る。
その進行ルートを遮るように自分の体前方の朽ちた床板へ向けて人差し指を向けて横に移動させる。例えるならそう、まるで空中に線を引くように。
紫色の閃光は指先で描かれた線の延長線上にある地点で何かに阻まれるように弾けた。
それを見た妖は面白いものを見たというようにニヤリと笑う。
「やはり。面白い力を持っているのね」
「別に。そう特別なものじゃないだろう」
「いいえ、そんなことはないわ。少なくとも私にとっては」
先程までの下品な妖力を引っ込めた妖はこちらに向き直って神妙な顔つきに変わる。
いきなり攻撃してきたと思えば今度は急に真面目な雰囲気になって、忙しないというか、何だかよく分からない奴だ。
そんなことを思っていると、妖が口を開く。
「これから行く宛はあるの?」
「別に。これまで通りこの場所に居るだけだよ。他にすることもしたいこともないからね」
「そう、なら丁度いいわね」
何がだ、とこちらが言う前に妖が一歩こちらに向けて踏み込んでくる。
今度は一体何だと呆れまじりに黙って見ていれば、一歩、また一歩とこちらへ近づいて来た。
そのままではぶつかってしまうので『線』を消してやるが、妖そのことに気が付いているのか気が付いていないのか変わらない速度でこっちへ向かってきている。
そしてすぐそばまで来て停止した。
そこらの童と同程度の背丈しかない自分とは違い、スタイルの良い妖が足を振るえばぶつかるような位置だ。
少しの間視線をぶつけ合い、唐突に妖がこちらへ手を差し伸べる。
「私の所に来なさい。私には貴女の力が必要なの」
必要、という言葉に少しばかり目を見開く。
伸ばされた手から妖の顔へと視線を戻すと視線が交わった。
あの日、自分に一緒に人々を守って欲しいと言ってくれたあの方の瞳と妖の瞳が一瞬だけ心の中で重なる。
ああ、まだ自分を必要だと言ってくれる者がいたのか。
ならば迷う余地はない。
例えこの妖がどんな悪であろうと、本当に心の底から自分を必要としているのなら手を貸そう。
それが僕が僕である理由なのだから。
そして伸ばされた手に向かって僕は――――
■■■
「初めて出会った頃はあんなに刺々しかったのに。今じゃこれか」
「これとは何よこれとは。いいじゃない親しみやすくて」
結局朝食の時間になっても起きてこなかった僕、そしてその背中にしがみつき続けていた紫を藍が引きずって食卓まで連行した。
ちなみに今朝は焼き魚と味噌汁、ほかほかの白米に少しのお漬物という日本人キラーなコンボを叩き込まれて大変幸せな朝食だった。
そして今は食後、茶を啜りながら縁側で紫と二人のんびりしている。
正面に見える庭では藍とその式である橙が稽古の最中だ。どうも何かの術がうまく行かなくて橙が藍に叱られているらしい。
術者というのもなかなか大変だ。年長者として助けてやりたいが、生憎と僕はそんな小難しい術なんてからっきしだから助け舟どころか泥舟すら出せない。
なので橙にはそのまま厳しい藍先生のもとで頑張ってもらおう。
橙を見守る作業を終えて再び茶を啜っていると縁側に垂れた僕の灰色にくすんだ無駄に長い髪を弄る紫が話しかけてきた。
「相変わらず長い髪よね」
「仕方ないじゃないか。切ろうとしても切れないし、あの時のままで固定されてるんだから。おかげで背も胸もちんちくりんのままだ」
「コンパクトで楽そうね」
「嫌味か肉まん」
「誰が肉まんよ」
その無駄に膨らんだ肉塊らをこっちに移植してくれたっていいんだぞ、と恨みがましい視線を向けるが、圧倒的ガン無視で茶を啜る妖怪ババア。
おい、こっちを向け。
飄々とした表情で式達の稽古を見ている紫だったが、送った念が届いたのか、ふと何かを思い出したような声を上げながら振り向く紫。
「そういえば、貴女なんだかんだまだあの娘に会ったこと無かったわよね」
「あの娘というとあれかな?あの紫がうざいほど溺愛してて本人にもうざいと言われている博麗霊夢かな」
「あ、あれはああいう愛情表現だし。だから別に嫌われていないし」
「少なくとも早朝から押しかけて喚く奴を好くような変態ではないと思うんだけど」
「うぐェッ」
少なくとも女が出してはいけない類の悲鳴を上げてのたうち回る紫。見ていて滑稽だが勢い余って湯呑を叩き落としそうで心配だ。
無論心配しているのは湯呑の方だが。
「今日は天気も良いし、たまには外に出なさいよ。だからついでに霊夢に顔見せでもして今後何か会った時に向こうが貴女のことを知らなくて協力できませんって事にならないようにしておきなさいな」
「えー……」
何時も通りの無表情のまま猛烈な抗議の声を上げる。
しかし、我らが主は部下の心の叫びに答えるような優しさは無いようで、白けた目でこちらを見ていた。
「えー、じゃないわよ。どうせ今日も一日だらだらするだけのつもりだったんでしょ」
「否定はしない」
「私としては少しは否定してほしかったところなんだけど」
こめかみに手を添えて頭の痛そうな素振りをする紫。しかし、今朝のような醜態を何度も見せておきながらいまさら主として敬えというのも無理な話だ。
それこそ僕の生活態度云々言う前にお前の今までの行動について主だと胸を晴れるのかその無駄にぶくぶく風船の如く膨らんだ肉塊に手を当てて考えてみろと言いたい。
「下手に準備してこいとか言ったらまた部屋で寝だすでしょうし、今この場で出発しなさい。大丈夫、最低限の荷物は一緒に送ってあげるわ」
「は?」
紫が軽く手を振るうと共に唐突な浮遊感に襲われる。
次いでやってきたのはおしりへの痛み。
「あいたっ」
下を見ると石段。後ろを振り返ると長い階段の先に赤い鳥居が見えた。
どうやら件の博麗霊夢の元へ送られたらしい。
ここまで問答無用な紫は久しぶりだ。何かしら思惑があると思ったほうが懸命か。
「といっても紫が考えていることを当てようなんて僕にはできないわけだけど」
自分はもっぱら実戦派である。彼女のように深く思考の海へと乗り出して、何処にあるとも知れぬ小さな小さな宝島を見つけることなどできないのだ。
そんな暇があったら港で海に向けて糸を垂らして居るほうがよっぽど有意義である。
「はいどうぞ」
「……分かったよ。はぁ」
紫が今度は真横にスキマを開いて一本の飾り気のない刀を渡してくる。
オーソドックスな黒い鞘に黒い柄。長さは短刀と言うには長く、打刀と言うには短い。
これといった装飾のない見た目故に鍔から紐でぶら下げられたデフォルメされたスキマのストラップが異様に目を引く。
これが僕の
「それからこれお昼ご飯。霊夢と一緒に仲良くお食べなさい」
渡されたのは二つの可愛らしい小さなお弁当。
片方はピンク、もう片方は水色だ。
お昼、ということは少なくとも迎えは昼過ぎまで来ないということか。一体初対面の二人に何をそこまで長時間話せというのだろう。
これから始まる気まずい時間を想像すると、早くも帰りたくなってきた。
「それじゃあ行ってらっしゃい」
そう告げて今度こそスキマが完全に閉じた。左手に刀、右手には二人分の弁当と随分なんとも言えない装いになってしまったが、どうあがこうとこの先に居る楽園の素敵な巫女に会いに行く他ないらしい。
「行く、か」
座り込んだ石段から重い重い腰を持ち上げ、青い空に映える鳥居を目指して歩き出した。