椅子に崩れ落ちる様に座った僕は、水を求めて口を開く。
スタッフは素早く水をくれた。
水を飲み込みたい衝動を堪え、口を濯いだら吐き出す。
「お、教えてくれ、僕は何を食らった?スウェーをしたホークはどんなパンチを打ってきたんだ?」
僕の疑問にスタッフは顔を歪める。
「イーグル…すまないが、我々にはそれに応える言葉が無い。」
「…どういうことだい?」
「大きくスウェーをしたホークが『下から殴った』としか形容出来ないんだ。強いて言うならスウェーをした状態で打つスリークウォーターからのアッパーだが…。」
優秀なスタッフが僕と同様に困惑している。
「僕はどう対処したらいい?」
スタッフから答えが返ってこない。
戦略が無い状態でホークと戦えというのか?
無理だ。
僕にはそれが出来る程…ボクシングの経験は無い。
今の僕ではホークに勝つことは出来ない。
そう思ってしまった瞬間、僕の身体と心から急激に熱が失われていった。
ラウンド間のインターバルの終わりを告げるゴングが鳴っても、僕は立ち上がる事が出来ない。
ホークが僕を待っているというのに…。
「イーグル、酷な言い方だが、アメリカの期待を背負う君に諦める事は許されない。」
スタッフの言葉に頷くが、それでも僕には立ち上がる気力が無い。
あのホークを相手に目標も戦略も無い状態で立ち上がれる程、僕は強くない。
「イーグル、よく聞いてくれ。一発でいい。ホークにパンチをクリーンヒットさせるんだ。」
クリーンヒット?
今までスパーリングで一発もクリーンヒットをされた事が無いホークに?
僕はスタッフの顔を見る。
「ホークを相手に無策で向かうには、大変な勇気が必要だ。だが、君なら立ち向かえる筈だ。」
勇気…。
そうだ、僕はアメリカ国民の期待に応え、勇気を与えなければならない。
その僕が、勇気を示さずにどうするんだ!
心に火が灯る。
身体に熱が戻る。
気が付けば、僕は立ち上がっていた。
「ありがとう。出来るかわからないが、全力を尽くす事を約束する。」
そう言った僕は、マウスピースを口にして微笑んだのだった。
◆
ホークとのスパーリングの2ラウンド目、僕は勇気を振り絞って立ち向かった。
ジャブを、ワンツーを、そして奇襲気味にいきなり右ストレートを打ったりしたが、いずれもホークには届かない。
それどころか僕はホークのパンチで、立っているのかわからない程に意識が朦朧としていた。
(一発でいい…僕のパンチを…ホークに…。)
ショートフックやショートアッパーも、ホークは危なげなく避ける。
一発、二発とホークのパンチを受けてダウンすると、僕は目を開けているのが億劫になる程の眠気に襲われる。
(このまま目を閉じれば楽に…!?まだ…僕は全力を尽くしていない!)
マウスピースを噛み締めて上体を起こす。
そしてロープに縋る様にして立ち上がるが、余力はほとんど残っていない。
ファイティングポーズを取った僕に向かってくるホークの姿が目に入る。
身体に力が入らない。
どうして立っていられるのか、自分でも不思議に思う程だ。
迫るホークに、僕は無意識にワンツーを打っていた。
力強さの欠片もなく、見てからでも避けられる様な遅いワンツーだ。
だけど…。
ポスッ。
「…あっ?」
今日のスパーリングで、右拳に初めての感触が生まれる。
パンチと呼ぶにはあまりにも弱々しく、ただ触れただけのもの。
しかし僕のパンチは、確かにホークに届いていた。
それを認識した次の瞬間、僕はこれまで感じた事の無い程の大きな満足感に包まれながら、ゆっくりと目を閉じたのだった。
◆
「ホーク、お疲れ様。」
イーグルがリングに倒れてスパーリングが終わると、ミゲルが労いの言葉を掛けてきた。
「最後に一発くらってしまったね。油断したのかな?」
ミゲルの言葉に俺は舌打ちをする。
「してねぇよ。最後の一発だけ、わかんなかったんだ。」
「ほう?」
そう、わかんなかったとしか言いようがない。
あの最後のワンツーは身体に力感が無く、あまりに動きが自然過ぎて全くわからなかった。
それでもジャブは避けられたんだが、その後のストレートまでは避けられなかった。
俺は無意識にまた舌打ちをしていた。
そんな俺を見て、ミゲルは笑いを噛み殺している。
いい性格してんな、ジジイ。
リングに目を向けると、イーグルが担架に乗せられて運ばれていくのが見えた。
「イーグルは強くなるか?」
「オリンピックの金メダルは確実に取れるぐらいにね。賭けても構わんよ。」
「そうか…。」
俺はイーグルのグローブが当たった所に触れる。
あの感触が甦ると、俺の中で何かが熱く燃え上がるのを感じる。
初めての感覚に少し戸惑う。
でも、悪くない。
こんな風に熱くなるのも、悪くない。
「おい、ミゲル。」
「何だね、ホーク?」
俺は自分の拳を見る。
始めはスラムから成り上がる為の手段でしかなかった。
だが今ではこいつが…俺の生き様だ!
「俺を鍛えろ、俺はこいつで…誰にも負けたくねぇ!」
そう言いながら拳を突き出すと、ミゲルは嬉しそうに微笑んだのだった。
…初めからこれを狙ってやがったな、クソジジイ!
本日は5話投稿します。
次の投稿は9:00の予定です。
何故かライバルキャラが主人公化している事にデジャヴ。