その夏、北海道は血と硝煙に支配されていた。
大日本帝国海軍大尉、菅野直はすでに二度目の出撃で、空へとあがっていた。
「畜生。露助はまだ沸いてきやがる」
彼は、ジリジリと悪化していくだけの戦況に、どうしようもない悪態をつくしかなかった。
夏の長い一日は、ロシア人の味方をしていた。
旭川の完全占領のために明け方より活動を始めた赤い侵略者たちは、絶望的な抵抗を続ける帝国軍を粉砕しようと稼働する兵力のすべてを叩きつけていた。
日ソ両軍は、お互いに何らかのタイムリミットが迫っていることを肌で感じ取っていた。菅野も例外ではない。
その予兆は、石狩湾海戦がもたらした陸上の膠着状態を打破せんとするかのように、合衆国軍が函館に投下した新型爆弾ー人類史上はじめて実戦で使用された反応弾にあった。
「函館が壊滅したらしい」
源田は配下の隊長を集めて、これを伝えた。
「B公は一発だけで市街地を吹き飛ばしたそうだ。新型だろう」
菅野は朝焼けの中で噴火湾の彼方が閃光に眩む様を基地から目撃していた。
より実感をもって反応弾の威力を知ったのは、戦闘四〇七の本田稔飛曹長が青森で紫電改を受け取って帰ってきた際の話を聞いてからだった。
前日に青森の三沢へと新品の紫電改が届けられていた。
川西航空機が一機でも多くを製産して、遠路北海道まで送り届けようとした努力を実らせた最後の一機であった。
本田は千歳から陸攻に便乗して三沢へ駆けつけ、これを受領した。一刻も早く届けようと日の出とともに離陸し、下北半島を越えて海峡を横目に高度六〇〇〇を千歳へと飛んでいた。
そして時に昭和二〇年八月二五日午前五時一七分。
西から一瞬、烈日のごとき輝きが風防を満たしたかと思うと、瞬く間に強い風を受けて、紫電改は舵が聞かなくなるほどに激しく揺らいだ。
何事かと右手を見たとき、巨大なキノコ雲が朝日を浴びて神々しいまでに大地へと打ち立てられていた。
その根もとにあるのが函館だと即座理解した。
それからエンジンを全開で回して、必死で千歳に滑り降りたのは二〇分後のことであった。
菅野は歴戦の荒武者である本田が、コクピット開けて「函館がやられた!」と叫んで、源田の下へ駆け出す様を見て、これはただ事ではないと一驚を喫した。
それまで合衆国軍は、北海道は我関せずで日ソが争う様を傍観しているところがあった。そのため三四三空の千歳移駐が可能になり、この二週間の戦闘を続けられるだけの補給も行えたのだ。
菅野をはじめ歴戦のパイロットはこの合衆国の意図を計りかねていた。
マリアナからではB公も北海道まで飛んでこれんのだろうとは皆考えていた。彼らが掴んでいたB29のスペックからしてこの論には根拠があり、実際はそのとおりであった。
しかし合衆国は爆撃機だけでなく戦艦と空母機動部隊ー帝国海軍がほぼ失ってしまったそれらを未だ十分に有しているはずだった。
前者については沖縄沖で第二艦隊がずいぶんと沈めてしまったらしいとの風聞が北の地まで届いていたため、戦艦が動かないのに納得できるところはあったが、松山や鹿屋で戦った艦載機をなぜ北海道には差し向けないのかは何度議論を重ねても結論を得なかった。
ただなんとはなしに、合衆国とソ連の間で手引きがあるのではないかと考えてはいた。そのため誰もが後背を心配することなくソ連機と戦っていた。
そしてついに合衆国は自ら手を下し始めた。
それがこの戦争の終結ー崩れゆく大日本帝国に引導を渡す大きな一撃であると、確信に近いものを菅野は持っていた。
「誉よ。機嫌を損ねるんじゃねぇぞ」
彼は眼前で唸る二〇〇〇馬力の精密機械に声をかけた。
紫電改ー彼らがJ改と呼ぶ帝国海軍航空隊にとって最後の戦闘機となるだろう機体は、日本が開発し得る最良の空冷レシプロエンジンを搭載していた。中島の「誉」は、列強各国の同種のエンジンに比類する馬力を持ちながら軽量小型であった。あらゆるものを小型化するメイド・イン・ジャパンの源流はここのあるのかもしれない。しかし高度成長を成し遂げたようなバックボーンの無い大日本帝国にはあまりにも精密すぎた。兵器として本来持つべき武人の蛮用―使い方の問題と言うよりは脆弱な補給整備体制に耐えられるものではなかったのだ。
熟練の工員と整備兵、そして良質の燃料があれば十全の能力を発揮できただろうが、帝国はそのすべてを失っていた。
今、菅野の乗る紫電改を含め、この後のない北の大地で誉を稼働させているのは、質の悪い燃料よりも三四三空整備兵の執念に近かった。
機体は夕張山地を眼下に見ながら、南方より旭川上空に進入しようとしていた。
「こちらカンノ一番、キンさん、聞こえるか?」
「聞こえますよ、隊長!」
僚機は武藤金義少尉だった。「空の宮本武蔵」と名高いヴェテランエースは、千歳移駐の少し前に坂井三郎と入れ替わり三四三空に加わり、菅野の護衛として戦ってきた。
着任のその日に
「私が参りました以上、菅野大尉を殺させるようなことは致しません」
と源田にした宣言を武藤は忠実に守っていた。
「いいか。獲物はまず直協機だ」
ソ連が持ち込んだIl2ーいわゆるシュトゥルモヴィークのことだった。ドイツ軍相手に猛威をふるった対地攻撃機は、陸軍としてドイツとは比べようのない帝国陸軍にとってT34と並ぶ最悪の相手であった。
「だがB公が来たら、何があってもB公を落とす。新型は二度と落とさせん」
「カンノ2番、了解」
源田は全てのパイロットに道内に進入するB29があれば、体当たりしてでも落とせと厳命していた。ただしもし2発目があるのなら札幌か千歳だろうと予想していたため、ある程度の数をそちらに振り向けていた。
2人をエースは、スロットルをいっぱい開き、灰燼に化そうしている旭川上空へと乗り込んでいった。