流転のエース~菅野直の征途~   作:あわじまさき

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レッドゾーン~落日の帝国その2~

 旭川上空は乱戦だった。

 

 かつてのように大編隊による迎撃をとれなくなった三四三空は、ソ連がスターリングラードで採用したようなフリー・ハンター戦術ー敵を確認した後に迎撃するのではなく戦場上空に出撃して、発見した敵に突撃するほかなかった。規模はスターリングラードの比ではないが、旭川ではパウルス元帥と同様の決断をしたところで事実上意味を成さないことだけは悲惨であった。

 

 菅野は、一機のシュトゥルモヴィークを逆落としで撃墜した後、ラボーチキンとおぼしき敵に一撃をかけるもかわされていた。

 

「野郎、手練れだな」

 

 第一次大戦のエース、フォン・リヒトホーフェンの代名詞である塗装を施された敵機は、それを模倣するにふさわしい腕前を持っていた。

 

「俺も伊達でラインを引いているわけじゃねぇんだぞ」

 

 そう言うとスロットルを開き、操縦桿を引いた。速度計の針が震え、その下の高度計はじわじわと回る。

 紫電改の対戦闘機マニューバは、高度を取り上空からしかける一撃離脱がセオリーだった。

 僚機に目をやった。武藤はピッタリと菅野の動きに追随している。

 海軍の至宝と言われる操縦士を引き連れて、逃げられましたでは済まされんな。

 彼は砲煙と砂塵を背景にくっきりと浮かび上がる赤い点に向けて、操縦桿を押し倒した。

 エンジンが唸りを上げ、体が座席に押しつけられる。

 その瞬間、無線機が彼の耳にささやいた。

 

「―敵機北上中、高度九〇〇〇メートル」

 

B公だ。

 

菅野は即座に攻撃を中止し、上空を見上げた。高度九〇〇〇。紫電の上昇限度に近い高空だ。騙し騙しで動いている誉ではたどり着けるかもわからない。そうであるからおそらく千歳でも取り逃がしたのだろう。しかし行かねばならなかった。

 

「カンノ一番、カンノ一番、B公を迎撃する」

 

 操縦桿を引き、スロットルを全開にする。誉二一型には運転制限があったが、そんなことを気にしている場合ではなかった。

 高度六〇〇〇、高度六一〇〇・・・・・・。高空へあがるにつれてエンジンパワーは落ちる。ターボ・チャージャーを満足に実用化できなかった帝国にとって、高空を飛ぶB29は超空の要塞の名を体現した存在だった。

 

「こちらカンノ二番、エンジン不調」

 

 苦渋を忍ぶ声が武藤機から入った。誉がついに根をあげたのだ。

 菅野は直ちに決心した。

 

「カンノ一番より二番、帰投せよ。俺だけでB公を追う」

 

「隊長」武藤は絶句した。

 

「キンさん」

 

 年齢も経験も階級以外の全てが上のエースに対して、彼は上官として命令するのを躊躇った。これが今生の別れになるだろうと考えたからだ。自分の死を武藤に後悔させるようなことをさせたくなかったのだ。彼はそう遠く無い過去、自分がいなかった代わりに海兵の同期生が特攻に出されたことを悔いていた。もうまもなく終わる戦争の最後の局面で後にそのような思いを残すような死に方をしたくはなかった。

 

 そしてただ諭すように言った。

 

「キンさん。俺には構わず行ってくれ。カアチャンも子供もいるんだろう。俺は長男でも無いし、カアチャンはいねぇから気にすることはねぇ。頼む」

 

 上昇する菅野は武藤を引き離しつつあった。

 

「隊長」武藤は答えた。

 

「私は源田司令に大尉を殺させないと誓いました」

 

 淡々とした口振りだった。しかし主君とともに討ち死にせんという思いを痛いほど感じていた。

 

「それを違えるわけにはいきません」

 

 大阪の陣より後の太平の世にあった宮本武蔵は主君に恵まれなかったというが、それは武蔵に身合う主君がいなかったのだと菅野は思った。俺のためにこの海軍の至宝を殺すわけにはいかん。

 

「全て編隊長である俺の責任だ」

 

 雑音が増しつつある無線に、あっけらかんとした口調で答えた。

 

「済まんが代わりに親父に謝っといてくれ」

 

 武藤は押し黙ったまま、絞り出すような声を返した。

 

「カンノ二番、帰投します」

 

 そうだ。それでいい。

 

「隊長。必ず生きて帰ってください。ご武運を」

 

「ありがとう。キンさん。ありがとう」

 

 武藤機は翼を軽く降って、南へ飛去った。

 

 高度は八〇〇〇を越えていた。

 そろそろ見えても良い頃だが。

 

 風防を包む蒼空の端で夏の陽光が煌めくのを菅野の目はとらえた。

 

「来たな」

 

 彼は獲物を前にした獣がするように唇をなめた。そして気づいて顔をしかめた。

 

「畜生、高度が高い」

 

 B29は報告にあった高度九〇〇〇どころかそのさらに上を単騎で悠々と飛んでいた。

 三四三空に限らず帝国海軍航空隊の対爆撃機戦術は、相手より高空から逆落としで仕掛けるのが定石であった。

 カーチス・ルメイが、マッカーサーがレイテで鋼鉄の嵐に遭遇し、父なる神の元に還ったことで対日戦の全てを手中に収めたニミッツに、彼のエアパワーを見せつけようと抵高度での焼夷弾攻撃を行っていた間はそれで良かった。しかし戦略爆撃機たるB29の真の力をこうして利用されると手も足も出ないのだ。

 

 俺たちはなんでこんな相手と戦争を始めちまったんだろうな。菅野はどうしようもない悔しさを噛みしめた。

 まぁいいさ。相手は単騎。下からでも当てられねぇことはないはずだ。

 

 菅野は方向舵を倒して、B29ににじりよって行った。

 そこで彼は風と誉の奏でる音とは異なる音が鼓膜をうっていることに気づいた。

 振り返ると一〇〇〇メートルほど下に、赤い機体を目にした。

 

「あの野郎!ここまで付いて来やがったのか!」

 

 菅野は激情に身を包まれるのを感じた。空冷のラヴォーチキンは紫電改と上昇限度は似たようなもののはずだ。わざわざ高空まであがってきたのは……。

 俺たちにB公が落とせないのをあざ笑いにきたのか。

 

 

 ただ事実は全く違った。

 ラヴォーチキンLa7に乗っていたソ連のエースにしてソ連邦英雄、アレクサンドル・ポクルイーシキンは、敵に対してそこまで悪辣な真似をする男ではなく、そもそも日本軍を侮っているわけではなかった。

 スターリンの希望で対日航空戦の指導を任された彼は、短期間で日本軍の力量を判断し、全般的に日本軍航空隊は末期のルフトヴァッヘより何もかも数段劣るが、中にはドイツ人や自分と同種のエースがいることを理解していた。そして対米戦を戦い、生き延びてきた敵はドイツ人より手強いだろうと。

 そのためポクルイーシキンは自分を追尾してきた日本軍機が突如として反転したのを不信に思い、高空に敵機が集結しているのではと懸念して高度を取っただけであった。

 思い違いに起因する偶然であったが、彼もまたアメリカンスキーの爆撃機がアサヒカワと呼ばれるに都市に近づいてきているのを知った。

 

 「どうしたものかな」

 

 彼は対応を迷っていた。あの自らと同種の人間が操っているだろうイエローストライプを巻いた日本軍機と戦いたいという思いはあったが、名寄の前線司令部で聞いた新型爆弾を懸念していた。 マンハッタン計画に参加する科学者が自らの信念に基づいてソヴィエトに送っていた情報は、断片的に極東のソ連軍にも伝わっていた。それが人類の知性で悪を煮詰めたような全く新しいタイプの爆弾であり、被害半径は想像もできぬようなものであるらしいことも。

 アサヒカワに使用されれば我が軍も只は済むまい。資本主義者め。ドレスデンでやったことをここでもするつもりか。

 ポクルイーシキンは意識を日本軍機に戻すと奇妙な挙動をしていることに気づいた。

 あれは……。

 

 奴と一勝負になるかもしれない。

 

 

 

「畜生!もう少しなんだぞ!」

 

 菅野は計器類からエンジン異常を知らされた。

 誉は高空の薄い大気と質の悪い燃料を混ぜ合わせたものを燃やして動くようには出来ていなかった。

 空を駆け上がるパワーを失いつつある機体は、重力の井戸の底へと帰ろうとしていた。

 

 とどかなかったか。

 

 菅野は荒い息で機体を操りながら、歯をくしばった。

 高度は恐るべき勢いで下がっていく。後方の赤い敵機もピタリと追随していた。

 ペダルを踏みつけて思い切り操縦桿を引き機体を水平に戻した。ほんの少しだけラヴォーチキンより高度をとった。

 残燃料を確認する。まだいけるな。

 

 二機のレシプロ空冷戦闘機は滅び行く都市の上で巴戦に入っていった。


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