私は妖怪の山を登っている。最近妖怪の山に幻想入りしてきた神社には神様二柱と巫女一人が、頂上にはここを治めている天狗の長である天魔がいるらしいが、ハッキリ言ってこれっぽっちも用はない。偶然出掛けていたところを出会うでもしない限り、きっと顔を合わせることすらしないだろう。そんなもんだ。
「……着いた」
鬱蒼をしている樹々の間を抜けた先、ようやく辿り着いた目的地に一息吐く。ここは迷い家。藍の式神、橙が住んでいる。
満月まではもう一週間もない。だから、私は橙に用が出来てここに来ている。彼女には嫌ってほど嫌われているが、そんなこと分かっている。嫌われている相手に好き好んで顔を合わせたいと思うほど、私は被虐的じゃあない。ならば他に理由があると問われれば違う。紫様に何か命じられたわけでも、藍に代理を頼まれたわけでもない。私の意思でここにいる。別に止められていないし、他の仕事があるわけでもない。ならば、問題ないでしょう?
「さぁ、いこうか」
だからと言って、気分がいいわけじゃあない。あまりよくない。しかし、私は意を決して迷い家に踏み込んだ。別に、橙がいないならそれでもいい。むしろ、そちらの方がいいのではないだろうか? 私の身勝手な用で橙を不快にさせようとしているのだ。ここまで来たくせに、止めた方がいい気がしてきた。……止めねぇけどさ。はぁ。
普段橙が住んでいる家の前に立ち、私は扉の取っ手を思い切り捻った。一瞬、ガチリと引っ掛かる感触がしたが、解錠の妖術で無理矢理抉じ開けた。そして扉を閉めることなく、そのまま奥へとわざとらしく足音を立てて突き進んでいく。
「何ッ!?」
「やぁ、橙。気分はどうだい?」
「……最ッ悪よ!」
「そうかい。それはよかった」
勝手に部屋に入り込んできた私を見た橙の気分は一瞬にして急降下し、その表情は見るからに厳しく鋭く険しくなっていった。私自身のために軽口に軽い調子で話しかければ、嘘偽りない答えを返された。……本当、よかった。相変わらず私は嫌われている。そのことに、ちょっとだけホッとしてしまう。
「……鍵は閉まっていたはずなのに」
「開けた」
解錠の妖術を使ったとはいえ、無理矢理抉じ開けた際に下手に力を込めたからか、多少壊れてしまった気がするが、もう過ぎてしまったことだ。どうでもいいだろう。
橙の敵意が突き刺さる。けれど、不思議だ。もっと気分が悪くなると思っていたのに、そこまで悪くならない。直前に引き返そうとすら思ったはずなのに、むしろここに来るまでのほうが悪かったんじゃあなかろうか。
「私は用なんてないわ! 帰れ。むしろ死ね」
「私はあるんだよ、橙」
「黙れッ! その口で私の名を呼ぶなッ!」
そう叫ぶ橙と目が合う。睨み付けられる。そんな瞳を、私は見詰めた。瞳に映る私の瞳と目が合った。よく見る濁った目をしていた。はぁ。
一つ大きく息を吸い込む。そして、ゆっくりと吐き出した。もう一度橙を見遣れば、さっきと変わらず私を睨みつけていた。そんな彼女に、私は端的に用を口にした。
「橙。貴女は、生きてて楽しいかい?」
しかし、答えが返ってこない。……せめて答えてほしかったんだけどなぁ。答えてくれるまで待とうか、それとも諦めてさっさと帰ろうか。
少し考えて、もう一度だけ訊くことにした。それで駄目なら、諦めて帰るとしよう。
「生きてて、楽しいかい?」
「……今この瞬間から最悪を更新中よ」
「……そうかい」
そういう生き方も、悪くないのかもしれない。