東方九心猫   作:藍薔薇

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血に濡れた左手

 時刻は丑三つ時。月明りどころか、星明りすら遮った深い森の中。しかし、視界は猫ゆえの暗視と視力強化の妖術が相まって昼間と大差ない。俺は両手両足を地に付けた猫本来の四足歩行を模した姿勢で、周囲を警戒しながら物音一つ立てずに駆ける。無論、何の理由もなくこんな場所を駆け回っているわけではない。俺は紫に命じられてここにいる。

 

「……クハ」

 

 俺は人間の里近辺から物音や気配、匂い、そして独特の雰囲気を探り続け、そしてようやく見つけ出した。両脚で立ち上がり、樹の裏から対象の様子を窺えば、禍々しい雰囲気を漂わせながら肩を震わせている。寒さや恐れからでは断じてない。

 

「クゥーッ、ハハハハハアァッ!」

 

 対象は背を大きく逸らせながら高々と嗤う。甲高い笑い声は森の中を木霊し、たちまち近くの樹に止まっていた鴉がバサバサと飛び立ち、ガサガサと栗鼠や川獺などの小動物がこの場から去っていく。

 

「遂にッ! 遂に成し遂げたぞォッ! 儂は、儂はァッ! クハハハハハッ!」

 

 その姿は人間に程近い。しかし、その手足が明らかに人間のそれではないと主張してしまっている。乾き切った樹皮のように荒れていて、しかし何処か生命力を感じさせる皮膚。その指先は細く、そこから伸びる爪はまるで鉤爪のように鋭利な代物と化している。天を見上げるその横顔からは、ドロリと粘ついた唾液が垂れ落ち、その歯は牙と呼ぶに相応しい形状であった。

 

「人間をッ! 人類をッ! ぶっちぎりに超越したのだァーハハハハァッ!」

 

 そう。あの対象は元人間で、既に人外だ。

 これ以上の観察は不要か。僅かに出していた頭を樹の陰に隠し、俺は静かに両手の爪を伸ばす。

 

「……ハァ。随分、永かった。こうして妖怪と成ってみれば、人間とはこんなにもちっぽけな存在であったのか……」

 

 何故、人間を止めようと思い至ったのか。そんなものに興味はない。そもそも、俺には一切合切関係のない話だ。

 ……ふん。さて、仕事を開始しよう。

 

「だがッ! そんなこぼ……っ?」

 

 何かを語ろうとした言葉は、不自然な形で止まった。すぐに何か液体を吐き出し、ビチャリと地面で跳ねる。

 無音で背後から肉薄し、左手で突き刺した。場所は心臓。皮も肉も骨も貫き、いとも容易く貫通した。そして、左手首を無造作に捻り、心臓をズタズタに引き裂く。引き抜けば、傷口から派手に血が噴き出した。

 

「な、何が起き」

 

 しかし、その言葉は突然途切れた。無論、悲鳴も断末魔も上がることはない。

 右腕を真一文字に振るい、首を落とした。頭がクルリと回転しながら宙を舞い、そしてボトリと音を立てて地面に落ちた。身体が切断面から血が溢れ出しがならグラリと傾き、そして自らの血の海の中に倒れる。

 

「……ッ!? ッ! ……、ァ……ッ!」

 

 必死に口を動かしているが、そこから声は一切出てこない。何故なら、この頭は既に肺に繋がっていないから。転がった頭が俺を呪殺せんとばかりに睨みつけてくる。きっと、この視線に威力があるのならば、俺の身体に風穴が空いているのだろう。だが、現実は非情である。

 右脚を静かに上げ、両目の上に乗せてやる。そして、そのまま全体重を掛けて頭蓋骨ごと踏み砕いた。ぐちゃり、とくぐもったような湿った音を立てながら中身が飛び散る。

 心臓、首、頭。この三ヶ所を潰せば、人間は当然のように、妖怪だろうと大半は一つの死骸に成り下がる。元人間の妖怪は特に、だ。

 ふと、血に濡れた左手を見下ろした。……俺は殺す。敵を、そして命じられた対象を。どれだけこの手を赤く染め、この身体に死臭を纏わせようと構わない。

 静寂がこの場を支配する。俺の仕事はこれにて終了した。

 

「……紫」

『終わったかしら?』

「あぁ、終えた。場所は人間の里から北北東に一里ほど離れた森の中」

『そう。すぐに処理するわ』

 

 数秒静かに佇んでいると、地面に音もなく大きなスキマが開いた。スキマは死骸をズブズブと飲み込んでいき、飲み干し、そして閉じた。そこには血の一滴すら残されておらず、まるで何事もなかったかのように綺麗さっぱり消えてなくなった地面が広がっていた。ただ、この俺の身体に付着している血から漂う香りが、ここであったこととして遺っていた。

 幻想郷は全てを受け入れる。人間が妖怪になろうと思うのは勝手だ。実際に妖怪になっても全く構わない。ただし、妖怪になってしまえばこうして処分するのも、何一つ問題はない。これが、人間が妖怪になった者の末路。遺体すら残らない、残酷な処分。

 

『それじゃあ、もう帰還しなさい』

「ふん」

 

 目の前に開いたスキマが大口を開けるように迫り、そして俺を丸ごと飲み込んだ。その際に、両手や右足なんかに付着していた返り血が根こそぎ取り除かれていく。漂っていた匂いすらも消え去っていく。取り除かれたものが一体何処に行くのかは知らない。あの死骸と同じ場所に流れているなら僅かに救われるかもしれないが、俺にとってはもう済んだことで興味はさらさらない。

 こうして、一人の妖怪となった元人間はその痕跡ごと存在を抹消された。


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