「人間の里に行ってみたいわ」
ある晴れた冬の日、唐突に姫様は言った。既に外に出る気でいるらしく、幾重にも重ねた衣が普段よりも多い。しかし、今は雪が降っていないとはいえ外は非常に寒く、あまり出掛けたいとは思えない。
姫様はお師匠様に詰め寄って強請っているけれど、きっとお断りしてくれるだろう。いくら月の使者の脅威は去ったとはいえ、気軽に外へ出していいような御方ではないのだ。
「そうね。暗くなる前に帰って来るならいいんじゃないかしら。一応、鈴仙を付けさせるけれど、たまには羽を伸ばすのも悪くないでしょうし」
「流石永琳。話が分かるわね」
「えっ……?」
そう思っていたのに、まさかの快諾。そんなお師匠様の言葉に思わず顔を向けると、お師匠様とバッチリ目が合った。そして、その瞳は言っている。行け、と。……はい、分かりました。
「鈴仙、よろしくね」
「はい、姫様……」
思わずうなだれていると、姫様に肩をポンポン叩かれ、そしてそのまま姫様は廊下に出て外へと向かわれた。瞬間、お師匠様の鋭い視線を感じ、私も慌てて姫様の後を追う。
玄関に立て掛けてある笠と変装用の衣装に手早く着替えてから外に出る。既に先のほうまで歩んでいた姫様の元まで走ると、立ち止まって振り向いて私を待ってくださった。
「もう、遅いわよ」
「も、申し訳ございません……」
僅かに乱れた息を整えながら謝罪し、急いで着替えたことと走った所為で少しばかり乱れた衣装を軽く手直しする。……これでよし、と。
「さ、行くわよ」
「はい、姫様」
再び歩き出した姫様の隣に付いていく。周囲を警戒しながら歩くが、近くに怪しい者はいないようだ。
さくさくと雪を踏む音だけが響く。そのまま静かにしているのは少しばかり気になり、私は口を開いた。
「そういえば、どうして突然外に出掛けようと考えたのですか?」
「窓から見た銀世界が綺麗だったからかしら」
「そうなんですか。人間の里では何をするおつもりでしょう?」
「んー……、着いてから考えるわ」
そう言ってふふ、と姫様は笑う。確かに、急な思い付きで決めたようだし、そこまで中身は決まっていなくて当然かも。
そんなことを考えていたら、何者から急速に接近してくる気配を感じ取った。
「ッ、姫様!」
「輝夜ァアアアーッ!」
すぐに危険を知らせようと叫ぶとほぼ同時に、私達の目の前に火の鳥が降臨した。雪を瞬時に溶かし、空気をも焦がす熱気が肌を刺す。藤原妹紅だ。
「ここで会ったが百年目! 今日こそお前を殺す!」
「あら、妹紅じゃない。熱くなっているところ悪いけれど、今日は生憎忙しいのよ。あまり長くは付き合えないわよ?」
「知るか!」
そして、二人の盛大な喧嘩が始まった。こうなってしまうと、私が手出し出来るようなことはない。むしろ、邪魔にしかならないから。
◆
「ふふ、いい感じに温まったわねぇ」
「……そうですね」
道中に妹紅の襲撃はあったものの撃退し、私達はようやく人間の里に到着した。温まったと言っているけれど、見る限り汗一つかいていない。汗で冷えるなんてことはなさそうでよかった。しかし、あれだけ激しく動き回って体が温まったで済ませてしまうあたり、やっぱり姫様は恐ろしい御方だ。
そんなことを思いながら、私は人間の里へ進んでいく姫様に付いていく。姫様は何かあるごとに目移りし、瞳を輝かせて興味を惹かれているようだ。
「この笠、中々いいと思わない?」
「姫様にお似合いですよ」
笠屋で試しにいくつか被って見せたり。
「ふむ、意外と美味しいのねぇ。鈴仙、今度貴女も作ってみせなさい」
「……はい、姫様」
軽食としてうどんを食べ、ついでに無茶な要求をされたり。
「あら、犬じゃない」
「持ち帰るのは駄目ですよ」
誰かの家に繋がれた犬に目を向けたり。
そんな風に人間の里では特別何事もなく済むと思っていた。思いたかった。けれど、残念ながらそうはいかないらしい。
「あっ」
「おや」
「げっ」
姫様がそれを目にした瞬間、より一層その瞳を輝かせた。それは一見すれば帽子を目深に被った少女とも少年とも言えないような人間のようであったが、もう一度見てみればその認識は即座に改められる。あの時、永遠亭に襲撃して来た際にやって来た四人のうちの一人の化け猫に他ならなかったからだ。
思い出すと苦いものを感じざるを得ない。波長を思い切り狂わせてやろうとしたのに、碌に通用しなかったのだ。後でお師匠様に聞いてみれば、九つの波長が混ざっているからと言われたことを思い出し、そうだと思ってみてみれば、確かにいくつかの波長が混ざっていると感じることが出来る。しかし、それを九つだと断じることは出来なかった。
そんなことを思いながら見ていると、あちらは特に気にするでもなく普通に自然に歩み寄ってきた。
「満月の夜以来ですか。お久し振りですね、輝夜」
「そうねぇ、久し振り。元気だったかしら?」
「恙なく健康に過ごしていましたよ」
恐れるでも、敬うでもなく、普通に会話していた。それが強烈な違和感でしかなかった。
そう感じて思わず緊張していると、目が合ってしまった。その視線が一瞬だが私の全身を隈なく観察するように動くのを見逃さなかった。そして、ふっと微笑まれる。
「貴女は鈴仙でよろしいでしょうか?」
「え、えぇ。そうよ」
「お久し振りですね。知っているとは思いますが、私は八雲彩と申します」
そう言って、彩は静かに手を伸ばしてきた。一瞬、攻撃かと疑ったが、私との間で止まり、そこでようやく握手であると気付く。私は嫌な感じを振り払うようにその手を握り、精一杯の笑顔を浮かべる。まさか引きつってはいないだろうか……。
そんな私達の手を姫様がガシッと握り締め、私は姫様に目を向ける。
「こうしてせっかく会えたのだし、一緒に行きましょう?」
「そうですね。お付き合いしますよ」
「……そうですね、姫様」
その発言に、私の頬が強張るのを感じながらどうにか同意する。今度こそ引きつってはいないだろうか。いや、絶対引きつってる。
目の前の彩がとにかく得体が知れない。敵であったことと、直接ではないとはいえ敗北を喫してしまった苦い経験から、私は彩を警戒し続ける。しかし、彩は何ともないように微笑むだけだ。きっと分かっているはずなのに、何事もないように流されている。まるで警戒するだけ無駄であるかのように。
それからの姫様は実に楽し気であったが、私としてはとても疲れる時間であった、と言い残しておこう。……はーぁ。