二世紀半待ったつもりの日本号と一年半待った御手杵と今も待ち続ける日本號の槍ともう帰ってはこない手杵の槍。
日本号がその本丸にやってきたのは、年が明けてまだ三日と過ぎない、雪の日だった。連隊戦(特殊なエネルギーの回収作業であるはずだが、実際には回収自体は自動化されていて、刀剣男士のすることはいつも通りだ)の目標値達成に伴う褒賞だと言って、管狐が木炭やら鍛刀依頼札やらと一緒くたにして持ってきたうちに入っていた。
美しい槍だった。畑違いの打刀でさえ気後れしてしまうような、素晴らしく綺麗な二尺六寸だった。国の名前を冠することに考えるまでもなく納得してしまったほどに。
その彼が、幽霊でも見たような目で男を見る。
このところ何かを忘れるように修練に打ち込む御手杵と行きあったのは、手隙だったらしい日本号には馴染みない打刀に本丸中を回って案内されているときのことだった。加州清光がもう何度も見た色そっくりの目で、日本号は稽古場で立ち回る御手杵を見た。あれは、いるはずのないものを見た時の目だ。もうすっかりこの世から失せたはずのものを、人の身を得てから初めて見るときの目だ。
「手杵、お前」
声というより、それはむしろ呼気に近かった。御手杵が間髪を入れずに振り向いたように見えたのも、実際には視界の端に映った見慣れぬ影を確認するためだったのだろう。だが傍目には日本号の無意識の呼びかけに御手杵が応えたようにしか見えなかった。
紫紺の瞳が、彼を見つける前よりもずっと明るい色をしていることには、誰も気がつかなかった。僅かに開いた口を閉じることも忘れた日本号も、ぱちくりと瞬きをしたきり動かなくなった御手杵も何も言わないものだから、その場には痛いほどの沈黙だけが落ちた。
静けさを破って、知り合いだったのか、と牡丹色の襟巻をした打刀が訊く。
「……いいや。直接の面識はほとんどない」
それは加州清光よりもむしろ日本号自身に言い聞かせるような声音だった。彼の体格からすれば意外なほどに静謐な、必要以上にいつも通りの、声だった。
ほとんどない、という言葉が、少しはあるという意味であることに、気が付かない清光ではない。きっと、清光と和泉守ほどではないのだろう。けれど、御手杵が冥府へ渡った時に衝撃を受ける程度には、彼らの間になにがしかの繋がりがあったに違いない。三名槍の括りのことだろうか、とぼんやり思う。
ようやく来たんだな、とか、遅い、とか、まるで先の静寂がなかったかのように言い立てる御手杵に何があったのかを知るつもりも、それに莞爾と笑って返答を重ねる日本号がどのような歴史と伝承を持つ槍なのか聞くつもりも、清光にはない。
「待ったか」
御手杵がひとの体を得てから、季節は一巡り半していた。ひとの体は時間を目一杯まで引き延ばす術に長けているらしかった。もう、何十年も経っているような気がしてならない。蜻蛉切よりも少し遅れて参陣して以来、御手杵は日本号を待っていた。三槍の揃う日を、この鋼は確かに敵を刺し貫いて戦うことが叶うのだと彼の前で証明できる日を、御手杵は待っていた。
「待った」
黒田の五つの蔵が焼けてから、二百と六十年が過ぎていた。西の槍はその間ずっと、ふとした日に手杵の槍が何もなかったような顔をして還ってくるのでないかと待っていた。
「……それはそれは」
お前は待ってなどいないだろう、とどれだけ言いかけたか知れない。一段と低くなった声の凄味も、東の御手杵が相手では意味がなかった。
清光は、ただ長物二振りに喧嘩でもされると止めるのも一苦労だからうまくやってほしい、程度にしか思っていなかった。けれど一つ屋根の下で暮らしていれば、嫌でも耳に入ってくることはある。
殆どの知己が知る“彼”は、もっと傲岸なものだった。自身よりも低い位の人間へと下賜された直後の、万物皆自分より格下であると言わんばかりの様を、三日月宗近は憶えていた。銘なく号なく、戦場で振るわれたこともないにも関わらず、全ての刀槍をして敵うはずもないと、土俵が違うと、そんな意識を当然のものとして隠そうともしていなかったことを、宗三左文字は知っている。
それがいざ人の身で相対してみれば、気位の高いのは当然にしても随分落ち着いていたものだから、不動行光などははじめ、日本号というのが彼の知る三位の槍と同じものだとは気がつかなかったし、薬研藤四郎は正面からお前の眼は赤ではなかったかと訊いた。無論のこと、いかに正三位の位持ちであったとしても本性が鋼であった以上判別がつくような人の姿を持ってはいなかったのだが、それでも織田信長の下に在った三位の槍には、赤目の付喪が憑いていた。
人の身を得た彼は、なるほど日本一の槍であった。西の黒田の日本号。国の名を背負って立つものとしての矜持と、世を渡ってきた刀特有の余裕を持った、戦場に生きるもの。
槍は皆、戦うものだった。守ることよりも、ただひたすらに敵を刺し貫いてその首を得ることに意識が向いていた。世が世であれば、そして彼が真実ひとであったならば、傅かれるのが当然であろう位を持つ彼もまたその例に漏れず、返り血に塗れてこそよく笑った。薬研通しのよく知る輝く赤を宿して江戸城下から戻ってきた日は、一度落ち着きさえすればむしろ常よりも機嫌がいいくらいだった。
貴様には負けない、という双方的な意地。
互いに姿さえ知らない頃からの、
どこまでがひとの手によるもので、どこまでが彼ら自身の感情なのかもわからないそういった因縁をそう表してもよいのならば、確かに彼らの互いへの執心には数百年の重みがあった。
その重苦しい執着に、なにか単純な名前を付けられたなら、どんなにか楽だったろう。槍とは皆、戦うものだった。
連隊戦の期間はとうに終わって、練度が七十代に差し掛かった日本号は連日江戸城下に駆り出されていた。
「日本号」
敵は血と鋼のかけら、自分は血と螺鈿が毎度派手に散る中で、戦の熱で位という紫色の覆いがすっかり剥がれ落ちて、その奥の輝く鮮血の色をした熱情が露わになるまで、来る日も来る日も戦い続けた。この日も出陣から帰ったばかりで、なんとか形の上だけでも落ち着いたところだった。
「手杵か」
振り返った日本号の瞳は、色は明るいながらも既に紫色に戻っていた。
御手杵が東の手杵の槍に任せて投げ出したそのすべてを、けれど写しも何もすべて纏めて国一番の槍という逸話の一片にしてしまった日本号には手放しようがなかった。抱え込むことの他、彼に道はなかった。彼がただ一振りであるために、現世の展示室の付喪が抱える重石をすべて持ってくる以外の選択肢はとうに焼き捨ててしまった。
彼にできたのは、情のすべてをこれ以上ないところまで煮詰めて嵩を減らして押し込めて、その真紅を上から紫で包むことだけだった。
「日本号、」
刀剣男士は、本当の意味では夢を見ない。彼らはただ、現実を見る。歴史と、そして伝承を。ガラスケースや白鞘の中にある現実を、血に濡れ晒されて讃えられる歴史を、非現実であるという強い感覚を伴ったありえたはずのない伝説を、その脳の中で巡らせる。眠りの中で、その在り様を均すように。そのことを、彼らはただ「夢」と呼んでいた。
「あんたが待ってる奴はここには来ないよ」
作られかけていた紫の覆いが溶け落ちる。自身の柄を握る手に、知らず力が篭った。この男にだけは言われたくなかった言葉を言うために、御手杵の口が開かれる。
「……諦めろよ」
すでに去ったものを追う無意味さを、御手杵はよく知っている。決して訪れない日を待ち続けるというのがどういうことなのかを、根腐れした希望が苦痛に変じていく様を、その樋に赤が流れる日を待ち続けて炎に巻かれた手杵の槍の記憶を通して。
御手杵は夢を見る。東の手杵槍が知るはずのない夢を。とうに
「『
ひとの体の脆弱さやしがらみから離れ、純粋にこの樋に血を流していのちを奪うことにだけ注力していられることを願った。燃やせば溶ける鋼の身よりも、濡らせば腐る木の柄よりも、恒常性を選んだ。一片も残さず砕け散って崩れ落ちてもあるところまでは元に戻る、そういう不安定さを求めた。
「鋼でできてるわけじゃないんだから」
刀剣男士は、物語りでできている。此処で、この敷地で自分たちは生まれたのだ。一等ふるい歌仙兼定でも此岸に生じてまだ二年と経っていない。そこまでは、日本号の方も呑み込めないことはない。基次の手を、彼は憶えていた。
けれどそんな言葉の一つで整理がつくのなら、仮にも正三位の位持ちが二世紀半も待ちはしなかった。
「そう言われて、諦めがつくと思うか?本当に?」
このどうしようもない執着に、天下三槍の欠けという不十分に、お前に言われたからといって決着がつくとでも。このぽっかり空いた穴にため込んだ血よりも濃いものが、言葉一つでどうにかなるとでも、お前は言うつもりなのか。
感情のそのまた大元のようなものが煮詰まったような、ぎらぎらとした赤い輝きをもって、御手杵を睨みつける。殺気など欠片ほどもないのに、その熱量だけで指し穿たれてこのひとがたに穴の一つも空きそうだった。
それを、御手杵がただ静かに見返す。五秒か、十秒か、どちらも瞬きの一つもしなかったのだから、精々がその程度だったはずだ。けれど感情だけの話をするのなら、自分たちは数十分も見つめ合っていたように思えた。
「……御手杵」
あの真紅の中にある凄まじいまでの熱量を滲ませて、日本号が目の前の男を呼ばったその掠れた一言だけで、二振りの間には十分だった。
日本号が東の槍の還ってくることを待ち続けるだろうことも、目の前の男が
どろりとした、その情らしきものを隠す気のない低い声と赤い瞳に、御手杵はあべこべに安心した。日本号は、どうでもいいものに対しては感情を見せない。自分が松平の家宝のあの槍でなかったとしても、彼がこちらを見ることに、まとまってすらいない感情を吐き出しても構わない相手として認識されていることに、重荷を一つ下した気分だった。方々にある大きな手杵形の鞘の一つを、肩から降ろしたような。
ああ。ようやく、はじめましてができる。あのうつくしいもの、螺鈿煌く正三位の槍、俱利伽羅龍の宿る二尺六寸を相手に。