トリステインより南西、ハルケギニア一の大国とされるガリアが首都リュティス。
その郊外に築かれた壮麗なる宮殿ヴェルサルテイルの一角に、薄桃色の壁で覆われた小宮殿があった。
プチ・トロワと呼ばれるその小宮殿の奥にある一室。寝床を仕切るためにかけられたダマスク織物を払って現れたタバサを、部屋の主はベッドに腰かけたまま鼻を鳴らして出迎えた。腰まで伸ばした青髪と鋭さを持った碧眼の少女。現ガリア王ジョゼフ一世の娘、イザベラ・ド・ガリア王女である。
血縁上彼女はタバサの従姉であったが、すでに二人の間のそういった暖かな繋がりなど途絶えて久しく、ここにタバサが呼ばれる理由は一つしかなかった。上司から部下へ仕事を振る。ただそれだけだ。
彼女は王女にしてガリア王国暗部組織の一つである北花壇騎士団の団長であり、その北花壇騎士団団員であるタバサの上司でもあったからだ。
そしてタバサにとって彼女は父を殺し母に毒を盛ったジョゼフの娘であり、イザベラにとってタバサは未だドットスペルもまともに扱いきれないオチコボレの自分とは隔絶した魔法の天才でもあった。
髪の色も瞳の色もそっくりで、小振りで美しく整った面立ちには似ているところもあるというのに、二人の間にはありとあらゆる意味で埋めがたい壁が存在しているのであった。
イザベラはやってきたタバサの姿を不躾な視線で見回し、にやりと笑みを浮かべる。
「人形娘。珍しく着飾ってるじゃないの」
イザベラは表情を変えないタバサを、いつも人形娘と呼ぶ。
舞踏会から着の身着のままプチ・トロワまで来たタバサは黒のパーティードレス姿であった。
いつも通り何の反応を示さないタバサにイザベラは一瞬物憂げな視線を向け、それをテーブル上の羊皮紙の書簡に向け直すと、その書簡を乱暴に取り彼女に放ってよこした。
タバサはその書簡を受け取ると小さく一礼をして、さっさと退室しようとする。だが、
「お待ち」
イザベラに呼び止められた。
イザベラはベッドから降りてタバサの側までよると、彼女のドレスの裾をつまみ上げる。
「ずいぶんといいものを着てるじゃない。こんなものを買えるほど、手当はもらっていないはず。盗んだんじゃないだろうね」
「母様のお下がり」
タバサの返答に、イザベラの顔が一瞬怯んだ。しかしすぐに取り繕って消し去ってしまうと、いつもタバサや侍女達に向ける意地の悪そうな笑みを浮かべた。
「今度の任務の予行練習に、わたしとゲームをしようじゃないか」
タバサはまだ今回の任務が書かれているであろう書簡の内容を確認していない。しかしそんなこととはお構いなしにイザベラはコインを取り出して弾くと、両手の甲と平でキャッチしてみせる。
「裏か表か。うまく当てたら、金貨百枚やろうじゃない。でも負けたら、その服をもらうわ。どう、受ける?」
タバサはあっさりと首を左右に振った。
「あっはっは! 臆病だねえ!」
ほっとしたような顔でイザベラは笑い、タバサの頬を杖で小突き回す。
「あんたみたいな臆病の能無しに、どうして北花壇騎士の任務が務まるのか、わたしには理解出来ないよ! あっはっは! あは……」
笑いの最中、イザベラはタバサの目に気付いた。どこまでも冷たい、氷のような目。吸い込まれてしまいそうなほど透徹とした瞳。イザベラはその瞳の奥に潜む、わけのわからない迫力に気圧され、思わず後じさる。
二人同じ色の瞳なのに、まるで水たまりと海の底ほどの差がそこにはあった。そこにすらも二人の違いが出ていた。
イザベラは胸を反らし、必死に威厳を取り繕うと、タバサに挑むように睨みを効かせた視線を向ける。
「ふん。今度の任務を直々にわたしが説明してやる。ベクトール街に賭博場が出来てね、馬鹿な貴族どもから派手に大金を巻き上げているのさ。軍警を使って店を取り潰したっていいんだが、そうなったら恥をかいちまう貴族が何人もいるんで、おおっぴらに取り締まるわけにもいかない。で、あんたの出番ってわけ。小生意気な賭博場を、潰してくるんだ。儲けるカラクリも、きっちり暴いてくるんだよ」
タバサは黙ってイザベラの話を聞いている。
「今回は、怪物や亜人を相手にするのとは勝手が違うよ。ちょっとやそっと戦いが得意だからって、どうにもならないよ」
イザベラはにやっと笑みを浮かべた。それからタバサの足元に、金貨の詰まった財布袋を投げた。
「ほら、軍資金だ」
タバサはそれを無表情のまま拾い上げる。
「賭博場で、お前はド・サリヴァン伯爵の次女、マルグリットと名乗りな。いいね?」
イザベラのセリフを背中に受けながら、タバサはプチ・トロワを後にした。
簡潔にいって、任務は一晩の内に終わった。
任務そのものは簡単にとはいかなかったものの、同行した透によって仕掛けられていた精霊魔法をあっさりと看破してイカサマを暴き、タバサ自身の戦闘能力の高さもあったお陰で比較的すんなりと事は進んでしまったのだ。
リュティスへ戻り、任務を終了を知らせたタバサを憎々しげに睨みつけ、運が良いね、と言い残して寝室へ入っていったイザベラの姿を、透は帰りのシルフィードの上で思い返す。さらにタバサに任務を言い渡したときの様子も思い出して、王女の人となりを彼なりに考えていた。
そう。透は最初から最後まで、イザベラの様子を間近で窺っていた。誰にもその存在を問われることなくその場でタバサとイザベラのやりとりを見聞きしていたのだ。
「しっかし、あいつら許せないのね! シルフィの遠い遠い、いやもう遠すぎるけど親戚みたいな仲間を使ってひどいことするのね! あのギルモアって男、昔森で偶然あのエコーの子供を拾ったそうなのね。枯れ葉に化けたエコーの子供を見て、その能力に気づいたと。でもって、返してやるから言うことを聞け、なんつって、あのインチキをやらせてたらしいのね」
タバサも透もシルフィードの愚痴を聞き流している。
今回の任務はエコーという精霊魔法を操ることが出来る古代幻獣を捕まえた人間の男が犯人であった。エコーがもつシルフィードが人型に化けるとのと同じ原理の変化の魔法を利用し、手札を任意のカードに変えることで掛け金を巻き上げていたらしい。
それも透の目をもってすれば一目瞭然であり、途中対抗策と解決策を言い渡された人型シルフィードによって企みは潰えてしまったが。
だがどの段階においても透はタバサとシルフィード以外の誰にもその存在を認知されていなかった。
終始タバサのすぐ側にいたのにも関わらずだ。
それは数日前、タバサと二人任務で訪れたガリア貴族、ド・ロナル伯爵家に伝わる家宝『不可視のマント』と同じ効果の魔法を透とタバサで使っていたからであった。
以前見たマントとまったく同じように透が自身の内に秘める精霊を放出し、タバサによる微細な精霊操作と送られる精神力を糧に、マントと同じ効果の魔法を周囲に展開していたのだ。風で物理的な認識阻害を、水で精神的な認識阻害を起こすこの魔法はタバサと透であったからこそ再現できた芸当と言えた。
透本人にしかこの魔法を使用できなことや、使用している間タバサと手を離せない点、それ以外の魔法をタバサが使えなくなるという欠点こそあるものの、透を隠す方法としてはこれ以上ない魔法である。
自身の周囲にある精霊に干渉する。
透はこれを利用して固定化で石壁に滞っていた土の精霊を流して本来の強度へと戻したり、逆に精霊の動きを阻害して滞らせることで巨大ゴーレムの動きを停止させたのだ。
そしてタバサがいれば、不可視化のように過去に見た特殊な魔法効果すらも再現してみせる。
先日までは体内の精霊を利用するという考えを持っていなかったため、不出来な不可視化しか出来なかったが、タバサによる先日の治癒の報告によって体内の精霊を利用する方法を見出し、彼女の助力を得て完成にこぎ着けたのだ。
王女が住まうプチ・トロワにおいても、不法侵入してきた透に気付くものはいなかった。おそらくは精霊魔法を扱う幻想種でもなければ、この魔法を使用中の透に気付く者はいないであろう。
もうこの時点で機会さえあればジョゼフ王の暗殺は可能といえた。
そしてこの魔法を使い、タバサの母親、オルレアン夫人の病状確認も安全な状況で可能となった。先日の治癒と精霊の体外放出操作で治癒の可能性も出て来る。
現に任務を終えた今、タバサは旧オルレアン領にあるかつてのオルレアン家の屋敷へと向かっている。
「きゅいきゅい。でも良かったのね。お姉さまのお母さまを、助けられるかもしれないのね! シルフィード、いっぱい飛んでつかれたけど、がんばっちゃう! きゅいきゅい!」
自分のことのようにはしゃぐシルフィードにタバサも、「パーティーのお肉、残っていたらあげる。無くても買ってあげる」といつになく甘いご褒美を提示している。
透を召喚しておよそ二週間。たったそれだけの時間で彼女の人生を賭けた望みが全て叶おうとしているのだ。それまでの苦労を思えば、厳しく躾けているシルフィードに甘くなるのも仕方がないことと言えた。
だが、普段であればシルフィードに甘く接する透の表情は優れない。
(……あの王女は敵ではないのかもしれない)
タバサを腕の中に抱えながら、透はイザベラ王女のことが気になっていた。
(――軍資金は金貨百枚だった。その直前に嗾けた賭けのベットは金貨百枚。少なくとも最初から渡す気であったということだ。そして任務終了後、軍資金について言及がなかった。それにあのような表面性格なのに、学院でのタバサの動向についても言及がない。学院に間諜がいればすでに僕のことは知っているはず。となると、少なくとも彼女は学院に間諜を放っていないか、知りながらにして僕を放置している。国外におけるタバサの動向を無視している)
それはつまり、タバサが母を見捨て単身で逃げようとすればいつでも逃げられるということであった。
(ガリア上層部から接触があると思ってわざと目立ってみたけど、無駄足だったかもしれないな。裏の一端を取り仕切る実力者でありながら、彼女がタバサの管理をこのような状態にしているということは……)
イザベラが端々で見せていた感情を透は思い出す。
(……イザベラ王女はタバサの直接的な敵ではない)
事前にタバサから王女の人となりはリサーチしていた。
父王同様に魔法を不得手としているが権謀術数に優れる。だが底意地が悪く、常に悪辣とした態度を崩さない。
その情報がそれほど大きな間違いではなかったであろうことは、透も理解している。彼女の周囲を護衛していた衛士や召使いの様子から、イザベラが身近な者にすら恐れられ、嫌われていることは一目瞭然であったからだ。
そしてそれは同時にこういう意味でもある。魔法というファクター無しに恐れられ、嫌われながらにして従えている。人心掌握の実力は本物である。ということだ。だが、
(あの視線は、負い目か。憎しみや嫉妬もあったけど、滲み出る甘さがなによりも濃かった。――こんな深夜まで一人報告を待っていたなんて、あからさまじゃないか)
透の目には、イザベラの行動全てがタバサを心配しているがゆえのものに見えて仕方がなかった。イザベラからタバサへ度々行われるという嫌がらせの数々も、遠慮無く嫌われるためにしているように思えた。本人たちに自覚があるかわからないが。
(少なくとも彼女は血統で立つ今の自身の権威が、薄氷の上の存在であると理解している。ゆえの近辺への厳しさ、かな。タバサをこんな仕事に就かせているのも、まるですぐ国外へ逃げられるように手配させているようじゃないか。……もしくは、いつかタバサに討たれるの待っている。そのための準備期間と討つ理由を与えている、か……)
内実はどうか知らない。本当にタバサを嫌った結果として現状があるのかもしれない。だがその結果論でいえば、たしかにタバサは真実の名と母を見捨てることで生き延びることが可能になっている。そしてこのような状況が出来上がった原因の一端はあのイザベラであることは明白だ。さらにいえば、タバサのことをイザベラに任せたであろう、その父王ジョゼフ一世の意志ともみることが出来た。
(『無能王』ジョゼフ……ですか)
透は今回の件も含めてガリア国内を二度見ている。数日前に言い渡されたタバサへの任務のときと、今晩の任務でだ。
国政の内容はトリステインに近い。貴族至上主義であり、メイジ優遇・魔法優遇社会だ。だが基礎となる国土も国力もトリステインのそれとは比べものにならないほど大きい。
(――ガリアにもトリステイン同様、封建国家ゆえの腐敗がそこかしこに存在しているけど、トリステインよりも潤っているせいか安定している。内患の気もあるけれども、風評から全体としてみると平民の安心度も高い。つい四年前に王権の交代とそれに伴う弟王子、シャルル派の大粛正があったのにも関わらず、治世は出来ている……。なにが『無能王』か)
ガリアの『無能王』は有名で、トリステインに居ながらにしてその風評が聞こえてくるほどであった。曰く、政は人任せ。曰く、人形遊びがお好き。曰く、部屋で一人チェスばかりしている。曰く、庭いじりが趣味。曰く、魔法がまったく使えない。
そして父王の死と共に優秀で人望も厚かった弟のオルレアン公爵を暗殺し、王位を得た、簒奪者。
どれもがちょっと耳をすませば聞こえてくる噂であった。
この『無能王』の存在がガリアが孕む内患――腫瘍の正体であった。
無能で残忍な王に、一部の貴族が叛意を持っている。ということだ。
そしてタバサの話ではそれらは全て事実であるという。
(他国にまで聞こえる悪評があるというのに、大粛正以降罰を与えた話はない。つまり放置あるいは恣意的に広めているということだ。政をしている側近が扱いやすいように広めた可能性が高いが、それは逆に優秀な部下を抱えることが出来ているからこそ、自国も他国も扱いやすくするために自らが囮になった可能性があるということでもある。……もしくは、それら全てを一手に掌握しているか――。例え無能で残忍であろうと、非常に有用な王であることには変わりない。……それに、魔法が使えないというのも……)
透は、自分と兄を召喚したルイズを思い出していた。当人には教えていなかったが、彼はすでにルイズが魔法をまともに扱えない理由に気付いていた。確認はしていないが、同じ視点を持っているタバサも気付いているだろう。
系統魔法と全王族の祖、ブリミルのみが使えたという火水土風の四系統とは別の、最後にして最高の失われた系統。ペンタゴンの頂点。虚無系統。
その伝説の系統に、ルイズは魔法適正が向いているのだ。向きすぎていて、他の系統魔法の適正がないほどに。透はそう考えていた。
もしこの仮定が『無能王』にも当てはまるようであれば、それを国政に有効活用しない理由はない。これほど見事な政治を行える側近がいるのであれば、誰か一人ぐらいは本当の理由に気付く者がいてもおかしくはないように透には思えた。
ガリアほどの国力があるのならば気付くと同時に利用、及び公表して然るべきなのだ。
それはつまり、今のハルケギニアで最も畏敬を集めるブリミルの再来を示す、たった一枚でも最強といえるカードなのだから。
だがあるのは悪評のみ。
真実に扱いやすく、その利用価値以外は有用性を持たないただの暗愚な王であったならば、もっと栄誉があり一代限りではない、何世代も先を見越した国のための傀儡にしてしまうのが最善策であろう。少なくともその場合、無能の云われのまま放置はしない。
だがもし、このカードを伏せておけるだけの度量と理由の持ち主がいるのだとすれば――
(――人の上に立つ才能……――)
それは、才人がルイズに送った言葉だ。酔ったルイズが以前透に自慢していた。
抱きかかえたままのタバサの後頭部を一度見て、視線を宵闇の先に向ける。
真実は未だこの闇に覆われている。だが透の中で、初めてタバサから身の上話を聞いたときと同じ疑問が膨れ上がっていた。
タバサは生かされている。
好意的な意味でか、悪意的な意味でかはまだ透にはわからない。現在の状況からだけで好意的と解釈できるほど、彼はこの手の物事に対して楽観的ではなかった。
だが確実に生かされている。
自分の中に灯った復讐と快方への光だけを見詰めているタバサは、その事実に未だ気付く様子はない。
二人向ける視線は、同じ旧オルレアン家の屋敷。
だが見詰めるものは光と闇とで、まるで違うものであった。
「下がりなさい薄汚い宮廷雀たち! このように闇に紛れてまで無礼を働きに来ても、可愛いシャルロットは絶対に渡しはしないわ!」
怒りをたぎらせる瞳でわずかな月明かりを爛々と照り返しながら、ベッドの上に痩身を半ば横たえた女性が叫んだ。タバサの母親、オルレアン夫人であった。
彼女の腕の中には、ところどころ糸がほつれて布地もすり切れつつある、小さな人形が抱かれている。
特殊な魔法薬によって心を壊され錯乱した彼女は、その人形を四年前から自らの愛娘と思い込み続けている。
自ら手ずから選び娘に買って与えた、タバサと名付けられていたはずの人形を。
「シャルロットもわたしも、王位になど興味はありません! わたしたちは静かに暮らしたいだけなのです。だから、だからもう来ないで。来ないで! 立ち去れ!」
ベッドサイドチェストに置かれていた何かを、すぐ側に傅いたタバサへ投げつける。
タバサはそれを鼻先で受けながらも瞬き一つしなかった。
ただじっと、隣で姿を隠すトオルと共に自身の母を見詰める。
「……どう?」
一瞬降りた静寂の間隙を縫ったタバサの消えそうな問いに、トオルは小さく頷いた。
共有された視界からその頷きを理解したタバサも、早まる鼓動を感じながら、無意識にさらに小さく頷いていた。繋いだ手にはわずかに震えが伝わっていた。
深夜急にやってきたタバサを出迎えたのは、屋敷唯一の老執事ペルスランであった。
屋敷は綺麗に整えられてはいたが、門前には不名誉印と呼ばれる没落貴族の証が掲げられており、彼以外にはまるで人の気配がない。屋敷の中にあったのは耳が痛くなるほどの静寂と、凝っているのでは思わせるほどの暗闇だ。
だがそれも、廊下を行く微かな足音と、先導するペルスランの手元にある明かりで押し退けられていった。
タバサはそれを不安と期待が入り交じった奇妙な心境で追い、夫人の寝室へ入った途端に先ほどの罵声である。だが彼女はいつも通り、微塵も怯まなかった。
忠実な老僕とは部屋の少し前で別れた。
ここにいるのは夫人と、タバサと、姿を消しているトオルだけだ。
室内や近辺に遠見などの魔法の反応がないのはトオルが確認済みだ。ペルスランもメイジではない。近くに控えているようであったが、夫人のように叫ばない限りは声が届くことはないだろう。
トオルを通して送られてくる夫人の容態に、入室してすぐタバサは自身の予想が正しかったことを理解していたが、それでもトオルに問わずにはいられなかった。自分以外の視点からの言質が欲しかった。
水精霊を主として濁った色に見えるほど入り交じった精霊が、夫人の周囲を渦を描いて漂っている。おそらく多くのマジックアイテム同様に、恒久的に効果が損なわれないようにするためであろう。円を描く精霊の流れは、強力なマジックアイテムによく見られる仕組みであった。この状態で夫人自身の精神力を糧に精霊を拘束し、精神錯乱を起こさせているのだ。よくよく見てみれば、渦の中の精霊もまた一つ一つ極小の渦を描いている。これは例え一時精霊をはね除ける薬などを使用しても、再度この渦を構成させるための仕掛けであった。
ぐるぐると渦の中に渦を内包するその薄気味悪さにタバサは怒りを覚えた。
だがこれであれば、あくまで精霊による効果であれば――
(――治せる)
精霊を知覚し触れることが出来るトオルであれば解除は事もないだろう。見えてさえいればタバサにも解除は可能かもしれない。もっと単純に、トオルがこの円環を全て取り込んでしまえば事は済んでしまう。
タバサの怒りがふっと軽くなる。
彼女を拒絶するための怒りだけではない、怯えを含んだ母の瞳に、タバサは長いこと見せることがなかった笑みを映してみせた。だがそれでも夫人は人形を守りながらベッドの上で後じさるが、タバサは立ち上がり、渦に杖で触れようとして――
――ぐいと手を引かれた。
「ダメです。タバサ」
トオルだ。
姿がないまま突如聞こえた囁くような声に、夫人は驚き周囲を見回した。
「なぜ」
霧散したはずの怒気を再び孕んで、タバサがトオルに問う。
「母君を助けるとは、その願いを叶えるということでもあります。先ほどこの方は王位に興味など無く、わたしたちは静かに暮らしたいだけと仰いました。その意味を、考えて下さい」
「――っ」
小さく、だがすぐ側のタバサにだけは確実に聞こえる声量で、トオルは理を囁いた。
それを聞いたタバサはハッとして、今までにないほど顔を苦悶に歪めると、自身を落ち着けるために静かに深呼吸した。しばし黙って考え込んでしまったタバサに、トオルはなにも言ってこなかった。
落ち着いてきたころ、タバサはトオルが見えない笑みを浮かべたような気がした。それと同時に見計らったようにトオルがまた口を開く。
「肝に銘じて下さい。戦いだけじゃない、こういった面に関しても考え続けることです。貴女の目的は母君を助けることなのですからね」
タバサは以前からトオルに屋敷が見張られている可能性を聞かされていた。治療をすればそれはすぐに王宮に伝わることになる可能性が高い、と。そして政治的な動向も考えなさいと言われていた。
だからトオルが言いたいことはすぐにわかった。この毒は夫人をこの場に押し籠める牢獄で、その夫人という鎖でタバサを繋ぐ首輪なのだ。それが解き放たれでもしたら、黙っていない輩は必ずいる。少なくとも毒を盛った張本人、ジョゼフ王が何もしないとは思えない。今はまだそのときではないのだ。
そしてなにより、気付かされしまった。
過去ここに来る度にタバサは母の罵声を聞いていた。常にそれは腕の中のシャルロットを必死に庇い、守るための叫びであった。壊された心が言わせる妄言や嘘である可能性もあったが、タバサはその叫びを否定したくなかった。
対象が自分ではなくなっているといえど、その慟哭にも似た叫びにタバサ自身、救われてきた部分があるからだ。母が狂っても自分を想ってくれているかもしれないという、暗く薄汚い救いではあったが、これも彼女がここまでやって来られた理由の一つであった。
だがそれを救いとしながら、タバサは今の今まで母の言葉にちゃんと耳を傾けていなかったことに気付かされた。
タバサは自分の軽率さを恥じ、同時に母の願いに思うところが生まれ、今一度夫人に視線を向けた。
夫人はベッドの上で姿の見えないトオルの声にガチガチと歯を鳴らせている。元々錯乱状態に陥っているところに、さらに得体の知れない声だ。恐ろしくてたまらないのだろう。
腕の中にいる彼女のシャルロットを隠すように庇い、抱き、毛布を被せて、虚空を睨みつけている。
敵意に塗れ狂気を孕んだ姿だ。穏やかに微笑んでくれた過去の母の姿とは似ても似付かない。
決意をしたあのときから、タバサの内には母をこのようにしたジョゼフへの殺意が溢れ、凍える吹雪となって常に荒れ狂っている。それは今も変わらない。
だが少し前からその吹雪の中、手を握る者が現れた。
吹雪の中に立つタバサには、その手の温度が酷く暖かく心地好いものに感じられた。
タバサは一部頑迷なところがあるが暗愚ではない。むしろ元は非常に聡明で柔軟な思考の持ち主である。
だからその暖かなトオルの手が自身をどこへ誘導しようとしているのか、すでに理解している。
いくら母の心を癒したところでこの殺意のまま復讐を完遂させれば、静かに暮らしたいという母の願いは叶えられなくなるだろう。そしてタバサはこの願いを無下に出来ない。したくない。
少し前までジョゼフやその側近を殺し、母の心を取り戻せればいいだけだと思っていた。それで全て終わるのだと考えていた。
だが実際はそうではない。ジョゼフやその側近を殺せば、王位継承権上位者でクーデターを成功させた者として、タバサは王権を得なければいけなくなる可能性が高い。病が治っていたとすれば母も引っ張り出されることになる。弟を暗殺し王位を簒奪したジョゼフといえど、すでに主流となっている現王派の貴族がタバサを快く思うはずがなく、となればジョゼフがやったように現王派の貴族を粛正しなければいけない場面も出て来るはずだ。そして加速度的に敵は増えていく。自分のことはどうなってもいい。だが母の安寧が守られる保証はどこにもないのだ。それにタバサに味方してくれる可能性がある旧オルレアン派のほとんどは粛正されてしまっている。権力者の味方が少ない分だけ、母の危険は大きくなる。国も荒れる。
考えれば考えるほどろくでもない。
復讐はしたい。だが実行すれば母が危ない。助けるべき存在の危険を招く。悪循環だ。
煩わしい葛藤だとタバサは思った。ジョゼフを倒し、その側近たちも倒し、母を救いたいのに、その手段と力を得たと思ったら、簡単には出来ないことを知った。いや、知らされてしまった。
思考の誘導。
この葛藤こそがトオルの狙いなのだとタバサは理解している。
彼はタバサに復讐を思いとどまらせようとしているのだ。
そして誘導しているトオルも、タバサが誘導に気付いていることを前提にしているのだろう。たまにタバサへトオル自身のことを疑わせるようなことを言ってくるのがいい証拠である。自身はあくまでどうしようもない利害関係からくる味方であると、度々言ってくる。それがタバサには憎らしいく、煩わしいく、鬱陶しかった。だが、繋ぐ手はやはり暖かいのだ。
彼の手をぎゅうと握り、タバサは傅いていた体勢から立ち上がった。
姿を消したままのトオルを引き連れて、彼女は無言で部屋を後にする。
扉を閉める際、こちらを睨みつけながらも、毛布にくるまった我が子の背を優しく撫で落ち着かせようとする仕草を繰り返す母に、タバサは悲しい笑みを浮かべた。
廊下に出てもペルスランはいなかった。気を使ってくれたのか、それとも仕事があったのかもしれない。
灯りのない暗い廊下を行きながら、タバサは幼少のころよく母が寝物語に聞かせてくれた、勇者の話を思い出して考えた。
勇者は女の子を助け出すために龍に立ち向かい、打ち倒した。そうしなければ勇者は彼女を救えなかった。あの物語の中ではそうであった。なら龍と戦わずして女の子を助ける術があったのなら、あの勇者はどうしていたのだろう。それに物語の中、女の子を救い出した勇者は、助け出したあとどうしたのだったろうか。
考えても答えは出ない。
ちらりとその姿を確認できない隣の存在の方を見る。彼であればあの物語を知らなくても、その答えを知っている気がした。
だがその答えを、タバサは隣に訊くことはなかった。
これで原作一巻分は〆となります。つぎにおまけを一話、すぐに投稿します。