「ルイズ、ルイズ、どこに行ったの? ルイズ! まだお説教は終わっていませんよ!」
母の声が遠ざかるのを、幼いルイズは植え込みの影に隠れてやり過ごしていた。
そんな彼女の視界に誰かの靴が映る。母に言われてルイズを探す屋敷の召使い達だ。
「ルイズお嬢様は難儀だねえ」
「まったくだ。上の二人のお嬢様はあんなに魔法がおできになるっていうのに……」
まさか当人が聞いているとは思っていないその言葉に、ルイズは悲しくて悔しくて歯がみした。歯がみして、その場から逃げ出した。
まだ六歳にしかなっていないルイズであったが、自分の不出来は理解していた。ただの一度も魔法を成功させたことがないことの意味を理解していた。
オチコボレ。
名家ラ・ヴァリエール公爵家に生まれながらもドットスペルの一つ、コモンマジックの一つも使えない、メイジとして欠陥品な自分。だからこそ召使い達も軽々しくルイズの風評を口に出来る。事実であるから、劣っているから、上に立つ者に相応しくないから、ルイズはそう、理解していた。思い込みであろうとなんであろうと、ルイズはそのようにこの召使い達の言葉を受け取っていた。
ルイズは涙を流しながら、母や召使いから逃げ続ける。
行き着く先は中庭の池に浮かぶ小舟だ。ルイズ以外の誰も来ないこの場所は、彼女が決まって最後にやってくる逃避場所であった。幼い彼女はそこで毛布と霧にくるまりながら一人涙に暮れ、涙が涸れるのを待つのが常であった。
「泣いているのかい? ルイズ」
そうしてやっとその涙が涸れてきたころ、霧の向こうからやってくる影があった。マントを羽織り、つばの広い羽根つき帽子をかぶった立派な貴族だ。その顔は帽子の影になっていて窺えないが、ルイズはそれが誰であるのかすぐにわかった。
「子爵さま、いらしてたの?」
最近よく晩餐会を一緒にする、近所の領地を相続したばかりの十も年上の子爵であった。ルイズは彼を見て、ほんのりと胸を熱くさせていた。彼はルイズの両親と仲が良く、少し前に彼女の父ととある約束をしていたからだ。
「今日はきみのお父上に呼ばれていたのさ。あの話のことでね」
「まあ!」
ルイスは頬が熱くなるのを感じて俯く。
「いけない人ですわ。子爵さまは……」
「ルイズ。ぼくの小さなルイズ。きみはぼくのことが嫌いかい?」
「いえ、そんなことはありませんわ。でも……わたし、まだ小さいし、よくわかりませんわ」
ルイズははにかんでいった。帽子の下の顔がにっこりと笑った。そして、手をそっと差し伸べてくる。
「子爵さま……」
「ミ・レィディ。手を貸してあげよう。ほら、つかまって。もうじき晩餐会が始まるよ」
「でも……」
「また怒られたんだね? 安心しなさい。ぼくからお父上にとりなしてあげよう」
岸辺から小舟に向けて差し伸べられた大きな手。
ルイズは頷いて立ち上がり、その手をとろうとした。
そのとき、風が吹いて貴族の帽子が飛んだ。
「あ」
現れた顔にルイズは当惑の声を上げる。
気付けばルイズの姿は六歳から十六歳の姿になっていた。服装も白のパーティードレスに代わっている。さすがにルイズもここが夢の中なのだと理解して、伸ばしかけていた手を止めた。
「サイト……」
帽子の下から現れたのは幼き日に現れた子爵ではなく、使い魔のサイトであった。
「さあルイズ。おいで」
その言葉に、ルイズは胸を焦がすような熱を覚えた。
熱に促されるままサイトの手をとろうとして、また止まった。
迷いに、ルイズの手が震える。
夢の中のサイトがさらに手を伸ばしてくる。
だがルイズは俯き、彼の手を押しのけて、その反動で小舟を沖へと進めた。
小舟がゆっくりと、だが止まることなく二人を離していく。
俯いても見えていたサイトの足が、すぐに見えなくなった。
今のルイズの視界に映るのは、小舟の端と霧と水面だけだ。
それもすぐに涸れたはずの涙でぼやけて、歪んでしまった。
十六歳のルイズは、毛布と霧に包まれながら、泣いていた。
朝靄の中、いつもの朝練を終えた才人のもとに少女が駆け寄ってくる。彼女の姿を確認した才人は頬をほころばせた。
「お疲れ様です。サイトさん」
そういって少女が手渡してくれるのはタオルだ。
「ありがとな、シエスタ。いつも悪いな」
「いえ。ミス・ヴァリエールに頼まれましたし。――好きでやっていることですから」
一瞬はにかみ、俯いて顔を黒髪の下に隠しながら、ごにょごにょと何事かを呟くシエスタ。そんな彼女に気付かぬまま、才人はそのタオルで汗を拭い、終えると、交換で水差しを受け取ってレモンの絞り汁を混ぜた水を喉に流し込む。それはハルケギニアでは貴重な、平民がそのまま飲料可能な水だったのだが、才人は知らないままいつも飲んでいた。透がこの場を見ているればシエスタにもっとよく感謝するように、彼女に感謝を込めてなにかしらの贈り物をなどと言い含められていたであろうが、生憎と彼の弟は朝は主人であるタバサが起きるまで部屋を出て来ることはないため、今まで一度もこの場面を見たことがなかった。
それから少しの間二人は談笑して、それぞれの仕事場へと別れる。とはいえシエスタはキッチンメイドとして厨房へ、才人は主人のルイズを起こしに部屋へ一度戻るだけであり、ここ最近才人はそのルーン効果を生かした薪割りに勤しむようになっていたため、朝食後厨房裏ですぐに会うことになるのだが。
あの貴族邸地下金庫強奪から十日ほど経っていた。
盗品の内、質に流して問題が無いものは先日ロングビルに顔役を頼み、国内外でバラバラに換金処理してもらっていた。問題があるものはいくつかに分散させて念入りに隠してある。
そのときにもロングビルは自分が裏切る可能性について言及していたが、その際以前話していた新たな仕事と、新しく思いついた別の儲け話の概要をトオルが彼女にふっかけ、手間賃ぐらいは見逃しますよと付け加えて仕事に向かわせたのを、サイトは苦笑いと共に眺めているしかなかった。
ロングビルはまだ学院長付秘書の仕事をしている。フーケの正体がバレていないとはいえ、今辞めると土メイジである彼女は後々疑われ可能性があったからだ。本人はセクハラに耐えかねていたらしくとても辞めたがっていたが、トオルに説得されて渋々仕事を続けることとなった。だがそのセクハラも、事件直後にトオルが学院長に一席設けてもらったときからはなりを潜めている。ロングビルがオスマンと共にいる時間が極端に少なくなったからだ。先の席でトオルはロングビルを自身の助手として雇う権利を学院長から獲得、学院長へはその代価としてトオルが独自に進めている魔法研究の途中経過を、ロングビルを通して教えることとした。それにより、研究と称してトオルが学院の仕事にほとんど手が回らないほど彼女を使い始めたからである。トオルの金策の始まりだ。
ただサイトは疑問に思った。この手の知識や研究結果は貴重だとトオルは常々口にしており、ギーシュたちにもトオルが許すまで他者に教えるなと言ってあったのだ。それをあっさり教えることにした理由をサイトが尋ねてみると、ギーシュ達との修行は常に遠見の魔法で見張られており、実は隠すだけ無駄だったとのことである。皆に言っていたのは建前でしかなかったのだ。ならばそれが交渉材料になりえた理由は何かとなれば、発案者による正確な考察はもちろんとして、重要なのは魔法研究者としてのトオルとの繋がり、そして学院の準客員として研究結果を提供しているという事実だろう。とのことだった。サイトにはよくわからなかったが、それで一応の納得はした。
トオルの頭脳はハルケギニアでは強力な武器となる。そのことはギーシュがすでに実証済みだ。しかもそれはサイトのような個人戦力ではなく、比較的短期で多人数を強化する集団戦力。そのうえトオルはサイトとは違い、タバサが主であるがゆえにトリステインを離れる可能性があることを学院長は知っている。だからオスマンは個人的な繋がりを作り、なるべく正確な研究結果を、公式に今の内に得ておくことにしたのだ。
ただオスマンは当初ここまでロングビルがトオルに付きっきりになるとは思っておらず、給金カットをちらつかせてもロングビルがトオルの助手業を優先させ始めたため、許可を出してきっかけを作ってしまったことを激しく後悔することとなったが。
他にも色々とあった。隠すしかなかった盗品の危険なお宝に関する処置やら、フーケ撃退報酬としてギーシュが提示したどばどばミミズ事件、サイトが提示した自身のルーン調査及び判明した『ガンダールヴ』という正体など、慌ただしいことには事欠かなかった。
ただし『ガンダールヴ』のことを知っているのはオスマンとコルベール、当事者のサイトと、サイトと共に聞いたトオルだけである。ルイズへ伝えるのはトオルに止められていた。
サイトもコルベールも知らないことであったが、その後にあったオスマンとトオルの話し合いの席でもガンダールヴに関しての話題があがっており、伝説の始祖の使い魔ということや、この情報に関してどこまでの人間が知っているのかなどを確認して、トオルはほっと胸を撫で下ろしていた。実はあの武器屋で購入した物の中に籠手を付ける前にはめる指ぬき革手袋があり、無手のスタイルが基本のサイトはその手袋も武器として意識、任意にルーンの効果を得られることがわかってその手袋をずっとはめていたからだ。気休め程度だが、ルーンに気付く者が少ないに越したことはない。
そしてサイトの身近に起こったもう一つの変化、出来事として、デルフリンガーを得てから始めた剣の修行がある。
トオル主導によって行われたサイトのルーン『ガンダールヴ』の効果確認の結果、このルーンが持つ効果は武具全般に対する使用最適化及び使用知識の獲得とされた。ただしあくまで扱う事への最適化であり、一時的な瞬発力や筋力にも多大な影響を与えるが、体術の技量そのものは素体のそれと変わりないことが判明していた。
出会った当初、サイトのルーンを知っているかのような発言をしていたデルフリンガーをトオルは最初に追及したのだが、とうのデルフリンガーは「なんだっけ。忘れちまった。なあんか、思い出せそうなんだがなあ」と宣うだけだった。
そこでトオルは一計を案じた。忘れたとはいえ、秘密図書に類する情報を知っていたインテリジェンスソードである。剣としての物も悪くなさそうだ。とりあえず思い出すまではこの剣の扱いに慣れたらいい。使っている内に何かあるかもしれない。それに剣を本命と思わせておいて、実戦で邪魔になるなら喋って目立つし最悪囮にも出来る。と。計というよりも、期待していた分からくる八つ当たりであった。それを聞いたデルフリンガーはそりゃねえぜとぼやいていたが、サイトは現在、めきめきと剣の腕を上げている。訓練で学院の衛士と仲がよくなっていたことが幸いして、剣が得意な者に基礎の手ほどきを受けることが出来たのが大きかったらしい。それを反復練習しながら、サイトが修めていた古武術の動きと擦り合わせているところだ。
あまり知られていないが、柔術の類の中には暗器類を始め剣や槍などの武器を使ったものが多く存在している。特に実践派古武術の動きには武器術を前提としたものが多々あり、サイトが修めた術も元を辿ればそれに近いものであったため、彼は知らぬ間に先祖返り的な修業を行っていた。
そしてその修行の最中、サイトの身のまわりの世話を学院メイドのシエスタがやってくれるようになったのも、変化の一つと言えるかもしれない。
当初こそサイトはルイズの護衛としてなるべくその側に立っていたのだが、学院にいる限り基本的に危険なことはない。使い魔なので側にいることに問題はないのだが、あまりべったりのなのもとルイズから言われたこともあり、世話になっている学院の方々に恩返ししようと薪割りをはじめ水汲みや荷物の運搬、各種学院の雑務をサイトが手伝うようになった。
それはいいのだが、如何せん広い学院の構造はサイトにとってまだ不明な箇所が多い。そんな彼への説明などをルイズがシエスタに頼んだのがきっかけとなり、二人はよく一緒に行動するようになっていた。サイトの鍛錬の補佐も、面倒見てやってとルイズがシエスタに頼んだものだ。
これが最近のサイトの日常だった。
そして気付いている者は誰一人としていなかったが、そんな二人を朝早くに起きてふらりと一瞬だけ見る影がいつもあった。ルイズである。彼女はその様子を視界に納めると、また部屋へ戻ってサイトが起こしに来るまで二度寝をする。端から見ると何が目的なのかまるでわからないこの行動がルイズの日常となっていた。
ルイズは自身の想いを理解していた。
サイト・ヒラガへの想いだ。
平民だが自身と対等でもある彼への恋心に気付かないほどルイズは愚かではなかった。いや、気付かなければいけないほどその想いに追い詰められていた。といったほうが正確だったかもしれない。
なんにせよ、彼女は出会ってまだ半月も経っていないころには彼に惹かれている自分に気が付いた。最大の原因はあの舞踏会が終わった後だ。ルイズの知らない場所で何人ものメイドが彼をダンスに誘い、片付けの終わったホールで使用人達が踊ったのだという。それは毎年恒例の慰安祭のようなもので学院長公認なのだが、そんなことと知らずぐっすり眠ったルイズはその夜、夢を見た。十年近くも前の実家であった晩餐会の夢だ。そのころの晩餐会にはよく近所の領地の新しい子爵が招待されており、彼はルイズの父である公爵と仲が良かった。そしてその繋がりで口約束ではあったが、ルイズとの婚約話も持ち上がっていたのだ。夢の中でルイズはほんのりとその子爵への想いを灯らせていたのだが、次の日の朝いつもよりも早くに起きて、すぐ側のベッドに寝るサイトを見た瞬間、ルイズは身を焦がすような火と、どうしようもない胸の痛みに襲われた。夢の中で灯った想いとは桁違いのそれに、ルイズはサイトへの想いを自覚せざるおえなかった。
そしてシエスタから聞かされるメイド達とのダンス。シエスタもサイトと踊った一人であった。
ルイズはその胸を抉るような痛みに耐えた。いっそのこと暴れ回ってやりたかったが、夢であんな場面をみたからこそだったのだろう、この時すでにルイズはある決意をしていた。
ルイズの夢は立派な貴族になることだ。貴族の女子の存在定義とはそれ即ち結婚であり、家を血を絶やさぬことである。家徳や家格を失わないよう、夫を支えることである。
サイトは平民だ。どれだけ有能であろうとどれだけ強かろうと平民でしかなく、魔法を使うことも出来ない。それにルイズはサイトに『立派になる』と約束をした。それは貴族として、上に立つ者として『立派になる』ということ。その為に彼女はそれ相応の相手と結婚しなければいけなかった。
ラ・ヴァリエールは上位貴族である。そして現在のラ・ヴァリエールのお家状況では、ルイズの結婚相手がラ・ヴァリエールを継ぐ可能性があった。
家に男児が生まれず、長女のエレオノールは色々な都合から相手が決まらない。次女のカトレアは体が弱く、出産などに耐えられる可能性が低い。残ったのは三女のルイズである。領主の貴族家を継ぐ者がいなくなれば領地の民が路頭に迷うようなことになりかねない。故に魔法が使えずとも彼女が貴族としての勤めの一つを全うしなければならない、否、全うできる状況となるのだ。
可能性として、それならそれで相手が入り婿ならば強権を用いてサイトを側に置き、隠して愛人にすることも出来たかもしれない。だがルイズは潔癖であり、不貞を嫌った。彼女は感情的であり、その信念ともいえる高潔さは愚かしいといって差し支えないほどであった。ゆえに最初から愛人にするなどという考えが微塵も浮かばなかった。
それにサイトはいつか彼の故郷に帰らなければいけないかもしれない。ハルケギニアに残って欲しいが、彼がここの残る決意をしたとしてもそれはルイズが理由であってはならないのだ。彼女は自分がそこまで彼の自由を奪ってしまうことを恐れた。
ゆえにルイズはその想いに蓋をする決意をして、サイトに想いを寄せているシエスタを嗾けた。
同じ人を好いた彼女の想いに気付かないルイズではない。彼女がいつもサイトを目で追っていたことなど百も承知である。そしてサイトも彼女のことが満更でもないことを知っていた。
彼はなるべく紳士たろうとでもしているのか、女性の前で他の女性の話を振らない。場合によっては視線も向けない。それでもずっと一緒に居れば気付くものがある。それをルイズはちゃんと読みとっていた。
彼がハルケギニアに残るのであれば、それならそれでルイズはその幸せのために心力を惜しむつもりはなかった。自分が彼を諦めることにも、努力を惜しむつもりはなかった。もし諦めきれなくても、自分の胸が痛いだけで済む。彼との約束は果たせる。
それがエゴであろうがなんであろうが、今のルイズの嘘偽らざる気持ちであり、決意であった。
ゆえに少女は毎夜夢を見る。
彼の手を突き放す夢の先で、飽くことなく涙を流し続ける。