双月の使い魔   作:日卯

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第18話・試し合い

 

 

「いい加減出て来たらどうですか。騎士殿」

 

 来賓室へ向かおうと、ルイズとアンリエッタを連れて寮塔を出たサイトが突然そう言い出したので、二人は彼が視線を向けている寮塔の影の方へと追うように視線を移動させた。

 そこから羽帽子の貴族が出て来ると、二人はあっと声を上げる。

 

「ギーシュ、お前もだ」

 

 言うが早いか、今度は横手の茂みから金髪のくせっ毛が葉っぱを付けて飛び出し、膝をついた。

 

「お、お初にお目にかかります。アンリエッタ姫殿下! わわ、わたくしはギーシュ・ド・グラモンと――」

「自己紹介はいい。なんでこんなところにいた? さっきまで部屋の前で盗み聞きもしていただろう」

 

 その言葉にアンリエッタとルイズは肩を震わせた。あそこで起きた出来事は確実に秘匿しなければいけないことだと、二人は嫌というほど意識に叩き込まれていた。それをすでに当事者達以外に知られてしまっているという事実に恐怖した。

 だがその共通認識をもった二人が身を寄せあうことはない。そうできない無意識の壁が、あのときのサイトの言葉で出来上がってしまっていた。そしてそれを払拭するための時間も、内心を納得させるための言い訳を得る時間もなかったのだ。二人の視線は交わることもなかった。

 

「薔薇のように見目麗しい姫さまのあとをつけてきてみればこんな所へ……。さ、サイト、ぼくは決してやましいことを考えたわけではなくてだね……」

「いや、いい。ギーシュ、お前はそういうヤツだもんな。女の子に悪さできるようなヤツじゃないってことぐらい、俺も知っている。だからとりあえずはいい。だが――」

 

 サイトの視線が貴族騎士へと向かう。彼は出て来た場所から動かず、ギーシュのように膝もついてはいなかった。

 

「――あんたは?」

「僕はグリフォン隊隊長、ジャン・ジャック・フランシス・ド・ワルド。正式な殿下の護衛だ。ここからは僕がマザリーニ枢機卿のもとまでお送りしよう」

 

 それを聞いて、明らかにほっとするアンリエッタと、なぜか動揺しているルイズ。

 アンリエッタを捜していたのだろう。外に出て来た当初からちらちらと見えていた松明の明かりが、サイト達のいる方へと集いはじめている。

 

「隠れてか? それに、あんたを信用するに足る証拠が無い」

「君に信用される必要はないよ。事実として僕は正式なグリフォン隊の隊長であり、子爵位を持つ貴族であり、此度の訪問で殿下の護衛の任を受けた騎士だ。それは殿下もご存知のこと。それに――」

 

 ワルドの目が、ルイズのそれと交わる。ルイズの瞳は激しく揺れていた。

 

「僕はそこにいるルイズ・フランソワーズの許嫁だ。殿下からもルイズからも信用を得ていると思うが」

 

 サイトの目が見開き、ルイズに無言で是非を問うた。

 それに対して彼女はなにかを言おうとして、だが一度口を噤み、頷くように下を向くと小さな声で答えた。

 

「本当よ。だから彼の身元は保証するわ」

 

 サイトがなにかを言いだしかけるが、

 

『兄さん、今は何も言わずに受け入れて。ここで敵愾心を持たれると、他の護衛隊と接触したときに牢屋に入れられかねない』

 

 とトオルの声が風に乗ってやってきたので、口に出しかけた言葉をのみ込み別な言葉を吐き出した。

 

「……わかった。だが先ほどあったことを説明する必要があるから、俺もこのままルイズの護衛につく。ギーシュも聞いたのなら同行してもらう必要があるが、いいか?」

「ああ、構わないよ。では殿下、参りましょうか」

 

 サイトとルイズの側にいることに耐えかねていたのか、アンリエッタは足早にワルドのもとへと向かい、ルイズは少し迷った様子の後、サイトの側に居続けた。その際になにかをまた言いかけたようであったが、結局なにも口に出さずに二人黙ってワルド達の後を追っていった。

 

 サイトが部屋ではいないもののように扱った外にいる護衛者――ワルド子爵に声をかけたのは、トオルの準備が出来たからである。

 

 そしてそのトオルは現在、寮塔の屋上でサイト達とそこに集まりゆく護衛隊とを視界に収めながら、延々と周囲の精霊の流れを制御し続けていた。

 以前タバサと共に二人で試した技術、周囲の精霊の状態を事前に操作、準備することによって連続して魔法を使用できる『待機魔法』と名付けたものの照準を、彼はワルドやその周囲に展開していく衛士達に向けていた。

 この待機魔法、準備に時間がかかることはあまり改善できていなかったが、持続性と隠密性は飛躍的に上昇していた。それというのも、トオルの体内にあった精霊に限り、その流れを体外に出してもタバサが制御できることが判明したからである。これは精霊の『契約』と言い、エルフが在住地に漂う精霊の加護を得たり、風韻竜であるシルフィードが風の精霊を纏って引き連れているのは、この契約という行為の賜物であった。そしてタバサがトオルの体内の精霊を知覚できたのはこの契約が原因だ。タバサは知らぬ間にトオルの体内に流れる精霊達と契約して、精霊魔法の前提条件を済ませていたのだ。そのことを利用して放出した精霊の流れを魔法用に成形し、タバサの意志でその状態で待機させることに成功。あまり距離は離せないものの、さらにその待機させた精霊を維持したまま特定の位置まで移動させることで、誰もいない場所から魔法を放つことが出来るようになっていた。

 そしてトオルがサイトに騎士のことを外に出るまで言わないようにさせていたのは、これの準備のためであった。

 

 あの場で存在に気付いていることを口にし、彼が襲ってきた場合、サイトとギーシュだけで対応しなければならなかったからだ。

 ガリア人であるタバサが出て行くわけにもいかず、トオル自身は戦力にならない。この待機魔法も準備に時間がかかるうえ、見通しがいい場所でなければ遮蔽物や照準の関係から操作性が悪くなり、運用が難しくなる。まともにタバサとトオルによるサポートが行えないのだ。ゆえにタバサが危険と言うほどの相手となると、撃退は出来ても負傷者か最悪死者が出ていた可能性が高かった。

 もしあの場で逃げずに襲ってくるとしたら、暗殺の対象は王女かルイズしかいないだろう。アンリエッタが死亡すれば、如何に国賊を退けようとも証言者はルイズ一人だ。その場にいたのに守れなかったとしてサイトの立場は理不尽に悪くなり、最悪の場合首を跳ばされかねない。そしてサイトはそうとわかっていたとしても確実にルイズを守っていたはずだ。トオルは兄がそういう男であると知っていた。

 

 とりあえず最初から襲ってくるということはなかったが、それでも不意を突いてくる可能性が消えないどころか高まり、彼が隊長だというのだから護衛衛士達も敵である可能性すらある。故にトオルはその矛先を駆けつけてくる全員に向けていた。

 

 そしてトオルはサイト達を守るためであればと、当然のようにアンリエッタにすらその照準を合わせていた。

 

 誰もが見ている場所でその場にいる誰もが犯人ではない状態となれば、嫌疑をかけられても魔法を使えないサイトを他を差し置いて罰することは出来ず、最悪の結果は避けられるからだ。元々対ジョゼフ一世を想定していたため、幸いなことにあの銃弾型のウィンディ・アイシクルや螺旋ランスのジャベリンは他の誰にも見せたことがない。暗殺にはもってこいであろう。

 何が起こるかなんてわからない。だからそうしなければいけない場面が生まれれば、トオルは即座にあの王女を手にかけるつもりであった。

 そんなふうに思い詰めているトオルの側で、タバサはただ彼と共に在った。

 

 トオルの手が、タバサの手をいつもより強く握っていた。

 

 

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 

 王女の衛士隊と接触した当初こそ帯剣していたため矛先を向けられそうになったサイトであったが、ルイズが真っ先にサイトを庇い、ワルドやアンリエッタが追うようにその安全性を述べたので、すぐさま彼への警戒は解かれてマザリーニのもとへと向かう運びとなった。

 そして来賓室に入った一行を出迎えた第一声が、

 

「殿下!」

 

 というマザリーニの怒声である。

 骨と筋と皮だけのような彼の喉からどうしてそれほどの声が出せるのか、その一声は調度品で飾られた部屋をびりびりと震わせ、サイトですらもびくりとしたほどであった。

 

「一体、なにをお考えですか! あれほど言ったではありませぬか、付けこまれる隙は無いかと! あなたは、殿下は、本当に――」

 

 彼はそこではたと言葉を止め、手を振った。

 それを合図に一人を残して侍従が下がり、衛士も扉の向こうへと消える。その際サイトにも下がるように声をかけられたが、マザリーニは一言「よい」とだけ発して当事者達を残らせた。

 そしてそれを確認すると杖を小さく振った。

 

「そう警戒しなくもよい、ミス・ヴァリエールの護衛殿。今のはサイレント。この部屋から音を漏らさなくするための魔法ゆえ、害はない」

 

 そういってマザリーニは、痩身をソファにゆっくりと沈める。沈めながら息を吐いていくものだから、いからせていた肩も大きく萎み、彼の威風は途端に小さなものになってしまったように見た者達は感じた。

 実際、小さな肩であった。筋肉などとうにそげ落ち、骨張っている様子はそのローブ越しにでもありありと伝わってくる。

 先ほどの怒声とその細さから、サイトは彼の苦労が嫌というほど理解出来た気がした。主にこの姫さまが彼にかける負担とか、不満とか、不安とか。

 サイトもつられるように息を吐いてしまった。

 そうこうしている間に残っていた侍従がアンリエッタ達を席に促し、それぞれの前に茶の用意すると、彼女も部屋を出て行った。

 

『兄さん、聞こえていたら瞬きを三回して』

 

 と、サイレントがかかっている状態で一体どうやっているのか、トオルからの声が届き、サイトは言われた通り瞬きを繰り返した。

 

『OK、ありがとう』

 

 どうやら確認だけだったらしいが、防音の魔法を突き破ってくる弟の不条理さにサイトは頼もしさを覚える。

 そしてふと考える。こんなことが出来るとは今まで一度も聞いたことはなかった。トオルがサイトに言わないでおいたということは、あえて黙っていたのだろう。なにかあったら援護するとだけ言われていたが、寮塔を出てからなら外にいる貴族騎士のことを問いただしてよいと言われたのも理由がわからない。大体にしてハルケギニアに来てからのトオルは秘密が多すぎるのだ。他言無用だと厳命された精霊が見えることはすでに知っていたが、どんなことが出来るのかは聞かされていなかった。いいところルイズ達の魔法の訓練で役立てている程度の認識だったのだ。だがそういえば、姫さまのインパクトや怒りのせいで気付かなかったが、部屋にいたときの会話も全部聞こえていたようである。ということは今日までのルイズとの会話も全部聞かれていたのではないか、監視されていたのではないかと、今更ながらに彼は思い至った。

 今回はいつもにないメイジの反応があったので慎重を期して盗み聞きしただけのことであり、普段はトオルはそんな真似などしたことがなかったのだが、サイトは知らないのでただ決心していた。

 

(……あとでお仕置きだな)

 

 わずかに怒気が滲んだサイトをどう思ったのか、マザリーニが申し訳なさそうに言う。

 

「侍従も下がらせたので私がいれるものとなるが、護衛殿とワルド君も一杯どうかな」

 

 他の者達とは違って立ちっぱなしでいる彼らを慮ってのものだったのだろうが、枢機卿にお茶をいれさせるなど空恐ろしい二人は揃ってそれを辞した。

 

「猊下のお手を煩わせるわけにはいきません」

「俺も大丈夫です。お心遣い感謝します」

 

 それを聞いたギーシュは、自分が魔法衛士隊の隊長を差し置いて席に着いていることに気付き、一人で慌てていたが、誰もそんな彼を気にしていなかった。

 

 アンリエッタがカップに手を付けないまま顔を上げる。

 

「枢機卿、わたくし……」

「言い訳は結構ですぞ。殿下」

 

 まるで予期していたかのようにぴしゃりとお姫さまの言葉を塞ぐマザリーニ。

 紅茶を一口含み、喉をいたわってから再度口を開く。

 

「ミス・ヴァリエールの部屋に護衛もなく向かい要らぬ混乱をもたらした。このことの意味、殿下はご理解されてますかな?」

 

 それは、どうせこの娘はなにもわかっていないのだという彼の意志が、在り在りと見て取れる言葉と所作であった。

 

「……自身の身をわきまえぬ行動と、ヴァリエールへの不信ですわ」

 

 だが意外にまともな答えが返ってきて、マザリーニの白い眉が動く。その視線はルイズ、それからワルドへと動いた。

 

「ワルド君に教えられましたか」

 

 マザリーニはアンリエッタが帰ってきたことしか聞いていなかった。あの部屋で何があったのかなど知る由もなく、共に入室したワルドが行方を掴んで連れ帰ってきたのだと考えたのだ。ゆえにアンリエッタと同じくどこか気落ちしている様子のルイズではなく、ワルドが意見したのだと考えた。

 ただそれはマザリーニにとっても少々意外なことであった。ワルドはその若さで魔法衛士隊グリフォン隊隊長となった、根っからの軍人である。身分を越えてアンリエッタに意見するタイプだとは思っていなかったのだ。だがそれ以外に選択肢がなかったので、ワルドの名を出した、というような状況であった。

 だが正解はさらに意外であった。

 

「いいえ、枢機卿。教えてくれたのはこちら使い魔さんです」

 

 そういってちらりと視線がサイトに動くアンリエッタ。

 マザリーニはそれによって反射的にサイトに意識が向き、はて、と首を傾げそうになってからかろうじてその動きを止めると、じろじろとサイトを見回した。

 

「使い魔……ですと?」

「猊下、紹介させていただきます。わたしの使い魔で護衛の、サイトです」

「紹介に与りました、ルイズ・フランソワーズの使い魔兼護衛の、サイト・ヒラガと申します」

 

 マザリーニの視線がサイトとルイズとの間を行き来する。

 

「サイト君。君が殿下を諭されたと?」

 

 入室の際に預けたため武器こそ持っていなかったものの、サイトの格好は平民の戦士のそれである。まちがっても貴族やメイジのするようなものではなかった。マザリーニには、とても教養があるようには見えなかったらしい。

 

「僭越ながら、ルイズの護衛として姫殿下にお帰り願い、その理由を述べさせていただきました」

 

 きっぱりとサイトが言い放つ。

 その様子に、マザリーニは目を瞬かせた。

 それからまた一口紅茶を含んで何事かを考えている様子のマザリーニに、ルイズが言った。

 

「サイトはロバ・アル・カリイエの戦士です。腕もたち、知識もあります。以前学院に土くれのフーケが侵入してきた際、撃退したのは彼でした」

 

 どこか誇らしげに語ったルイズの言葉に、王女と枢機卿は目を剥いた。

 ここハルケギニアよりも進んだ文化を持つといわれている東方の出身にして、政治に関する教養も持ち合わせているうえに、王宮でも話題に上がった初のフーケ撃退者が彼だというではないか。驚かないわけがなかった。

 場の空気がサイトに集まったのにあわせて、彼がまた口を開く。

 

「猊下、先ほどルイズの部屋で何があったのか、説明させていただいてもよろしいでしょうか?」

「……う、うむ」

 

 サイトの言葉にアンリエッタの肩が震えていたが、ルイズは声をかけることが出来なかった。

 ルイズは彼女が他意あってあのような行動をとったわけではないと理解している。それはサイトも知っているだろう。だがその内容のほぼ全てがルイズをいたずらに危機へ貶めるものであり、サイトはだからこそ怒っていた。

 

 ルイズはその怒りが嬉しかった。

 

 そして無知であり愚かであったのは、なにもアンリエッタだけではない。あの場ですぐに彼女を帰さず、逆に話を聞き出したルイズにもそれは当て嵌まるのだ。

 そんなルイズに、アンリエッタを非難することも、擁護することも出来るわけがなかった。

 サイトの説明が進む中、ルイズは自身のいたらなさに歯がみしながら、さらなる成長を求めた。

 サイトやトールから多くのことを学んでいる。実際、一月前とは比べものにならないほど自分が成長した実感を、今日のギトーの授業で得た。だが現実はどうだ。まるで届いていないではないか。サイトに迷惑をかけているではないか。一体何を学んだというのだ。ギトーとの一戦だって、皆のお膳立てがあってこそであった。未だ一人では何も出来ないでいる。

 

(――……サイトに頼ってしまっている)

 

 ルイズにはそれが我慢ならない。

 一度も手を付けることなく自席の前に置かれたままの紅茶を、ルイズは硬い表情で見続ける。

 その綺麗な琥珀色の水面に映っているのは、彼女の少し後ろに立つサイトの姿であった。

 

 そしてそんなルイズと、枢機卿であるマザリーニにまるで臆することなく説明を進行させていくサイトとを、ワルドが昼間と同じ目で捉えていたことに気付いた者はいなかった。

 

 サイトの説明が終わる。

 マザリーニの瞳がぎょろりとアンリエッタを捉えた。

 ずっと俯きドレスを掴んでいた王女は、それだけで見てもいないのになにかを察しびくりと肩を跳ねさせた。

 だがマザリーニの口から怒声が飛ぶことはなかった。

 彼はまばたきの度にここに居る人員を一人一人見ていき、紅茶を飲みほした後、

 

「ワルド君。ミスタ・グラモン。すぐに済むので、席を外してもらってもいいだろうか」

 

 と提案してきた。

 ワルドがすぐにその返答として敬礼し、退室するために動き出すと、ギーシュも慌ててその敬礼を真似て部屋を出て行く。

 扉が閉まったところで再度マザリーニはサイレントをかけ直し、頭を下げた。

 

「ミス・ヴァリエール。サイト君。殿下がご迷惑をおかけした。私から謝罪させていただいてもよろしいだろうか?」

 

 実質トリステインのトップとも言える人物からの謝りたいという申し出に、その場に残っていた全員が硬直する。

 慌ててルイズがなにかを言おうとするが、すぐに立ち直ったサイトが手を差し出し彼女を止めた。さらにルイズに謝罪受け入れをさせないように、首を横に振ってみせる。

 困惑するルイズであったが、実はサイトも困惑していた。これはトオルの指示だったからだ。

 しばしの間沈黙が室内を支配し、マザリーニが口を開く。

 

「やはり、私の謝罪は受け入れられませぬか」

 

 わかっていた、というような言葉と表情であった。

 そこにサイトがトオルに言われた通り、

 

「聞かなかったことにさせていただきます」

 

 と伝えると、マザリーニは深い皺をその相好に刻んだ。

 

「そうしていただけると助かります。私も耄碌したようですな」

 

 それはアンリエッタも見たことがない表情であった。

 マザリーニは枢機卿だ。事実上の宰相として仕事をしていようと、国政で権力を持っていようと、その本分はブリミル教の司教であり、正確な意味でこのトリステイン王国の人間ではない。

 保身を考えた個人的な権力差で見れば本当は謝罪を受け入れた方がいい。ブリミルが全王族の祖であるためその影響力は絶大であり、枢機卿ともなればそこいらの貴族を大きく上回る発言力を有しているからだ。

 

 だがトオルは試したのだった。

 ラ・ヴァリエール公爵が多大な発言力を有していることはトオルも知っている。内政、外交、そして軍事においてすらもトリステインにおけるヴァリエールの力は絶大であり、その最たる理由は公爵自身の手腕と血筋にあった。

 アンリエッタにお帰り願ったときの理由である、ヴァリエールが準王家の一つであるということだ。

 今回の話はすでにトリステイン王家のお家騒動でもあるのだ。

 有能な準王家と、無能な現王家。両者の間に生まれかけた大きな軋轢。そこに他国人のマザリーニが口を出し、現王家の謝罪を肩代わりしたとあっては、トリステイン王家の沽券に関わる問題となる。

 そして枢機卿が自身の非からではない理由で一貴族に頭を下げたことも、宗教的に問題であった。

 どちらにせよ碌なものではない。

 サイトもこれが王家問題であることは認識していたが、ハルケギニアに比べて宗教色が薄い日本の政治しか知らなかった彼は、枢機卿という役職が持つ影響力がどれほどのものであるのか把握していなかったのである。

 

 そして試したのはなにもトオルだけではない。

 マザリーニもまた、ルイズやサイトを試していたのだ。

 いや、先に彼が試してきたから、トオルが答えたような形であった。

 ここで彼の謝罪を受け入れていた場合、現王家とヴァリエール家どちらが政権を握るに相応しいかを、暗に枢機卿とヴァリエールが意見し合ったことになりかねない。

 さらなる王権問題になる可能性もあったということだ。

 本当にサイトが説明したとおりルイズを守ることを大前提にするならば、彼には到底受け入れられないはずの事態だったのだ。

 それがマザリーニが試した内容であった。

 

 そして、トオルは昼に考えたマザリーニの思惑を計るために試した。

 マザリーニの思惑とは即ち、誘き出しだ。

 国内に巣くうゲルマニアとの同盟を拒む反同盟派、つまりはアルビオン貴族派に同調するものを突きとめること。それも早急にだ。

 その為には自分自身をエサに、トカゲのしっぽ切りをするつもりですらあった。それほどまでにアルビオンの戦況とトリステインの内情は逼迫していた。

 そしてこの状況を打開するために彼がした覚悟こそが貴族子弟達に見せつけた昼間の示威行為であり、ヴァリエールの新参者であるサイトを試した今の綱渡りであり、聞かなかったことにしてくれたサイトへの感謝であった。

 有無を言わせず謝罪するのでもなく、無言の回答で怒りもせず、権力を誇示もせず、ただその結果を受け入れたことに、トオルは彼の思惑を大凡にだが理解した。信用できると決まったわけではないが、損得勘定の基準が他の貴族とは違うことは確かであり、頭がいいことはわかったからであった。

 

 そしてマザリーニは自身がしっぽとして切れた際、その後を埋めるのはヴァリエール公爵である可能性が高いことを理解しており、同時にそれを望んでもいた。そんなラ・ヴァリエール家に得体の知れぬ男が接近していたため、試さないわけにはいかなかった。それが彼の真意であった。

 

 互いに互いの損をしない行動を前提にしていれば、マザリーニとサイト(トオル)は敵対しないことを今のやりとりだけで理解した。

 

 マザリーニがサイレントを解き、手を叩く。

 そして扉が開き、ワルドとギーシュが再び入室してくると、マザリーニは再度サイレントをかけ直した。

 

「衛士達も知るところですので、ミス・ヴァリエールのお部屋へ殿下が入ったという事実は消せないでしょう。ですが、飛び立った雁の使いを誰も見ていなかった。羽音も聞いていなかった。故になにも飛んでいなかった」

 

 サイトが頷く。雁の使いとは手紙の古い言い回しだ。サイトが知る限り中国の故事のはずであったが、どうやらハルケギニアにも似たような言い回しが存在するらしい。

 

「ワルド君」

「ハッ」

「殿下のご機嫌がうるわしゅうない。なにか気晴らしになるものを雲上(アルビオン)まで取りにいってきてくれないかね? 何人か連れて行ってもらっても構わない」

「かしこまりました」

 

 マザリーニは満足げに頷き、アンリエッタに体を向ける。

 

「殿下」

 

 先ほどからずっと呆けっぱなしであったアンリエッタは、突然呼ばれても反応しきれずマザリーニを見つめるばかりである。

 業を煮やしたマザリーニが叫んだ。

 

「殿下!」

「は、はい!」

 

「忠誠に報いようとする者に報賞を」

 

 慌ててアンリエッタが左手を差し出す。ワルドが傅きその甲に口づけた。

 

「ワルド子爵。よろしくお願いします。あなただけが頼りなのです」

「もったいなきお言葉。必ずやその御心に平穏をお持ちいたします」

 

 お姫さまの左手を持ったまま、恭しくワルドが頭を下げる。それは一枚の絵画のような、立派な貴族騎士の姿であった。

 

 それに見とれていたギーシュは終始空気だった。

 

 

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