双月の使い魔   作:日卯

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第2話・考察

 平賀才人(ひらがさいと)。高校二年生、十七歳。

 地球で最も平和とされる国の一つ、日本で生まれ、育った。

 彼女いない歴十七年で、ファーストキスは生まれたばかりのころに祖父に奪われている。初孫の嬉しさを我慢できなかったらしい。

 彼の自慢は年子の弟、透(とおる)である。

 非常に優秀で才能に溢れ、兄才人にはないものを数多く持った弟だったが、生まれつき体が弱く原因不明のとある病を患っていた。そんな弟を守るのだと才人は勉学に励み、心身を鍛え、実際に弟を支え、支えられていた。

 勤勉だが生来のオールレンジな好奇心旺盛さも合わせ持つ行動派の兄と、体が弱く故に慎重だが気に入ったものにはとことんのめり込み一部に傑出した才能と頭脳を発揮する弟。

 二人一緒で出来ないことなどなかった。反目し合うこともあったが二人は常に家族であり、絶対の信頼と絆がそこにはあった。

 そんな非常に仲の良い兄弟の平和はしかし、修理に出していた透のノートパソコンの受け取りと、才人の携帯電話の買い換えに一緒に出かけたおり、突如出現した鏡のようなものに吸い込まれて砕けたのだった。

 

 

 

 才人が目を開けると、薄らぼんやりとした明かりが見えた。電球などのように輝くでもなく、蝋燭のように揺らめくでもないそれは、その場で光っているのに間接照明のように周囲を仄明るく照らしていた。

 

「……ここ、は……?」

 

 起き上がろうとして、両手が何かで固定されていることに気付く。

 青銅製の大きく分厚い手錠がはめられていた。

 

「……なんだ、これ?」

 

 寝転んだまま両手を掲げ持ち首を傾げる才人に声をかける者がいた。

 

「あ、兄さん起きた。どこか痛むところはある?」

 

 見れば弟の透が朗らかに笑って才人を見つめている。

 

「いや、大丈夫だ――」

 

 そしてその隣にいる存在に気付いた。

 

「てめえ……」

 

 ピンクブロンドの少女と禿げ上がった頭部の中年男性だ。

 才人は気を失う直前に彼を取り押さえ組み敷いたのはこの男性だとわかっていた。そして、

 

(この男は、強い。透との距離は奴の方が近いし、この手では隙をつかなければ勝てない。だが、やらなければ――)

 

 その力量も理解していた。ところが、

 

「兄さん、ストップだ。この人達は敵じゃない」

「だがさっきこいつらは――」

「それは多分、半分くらいは誤解だ。彼らに僕らを害しようという悪意はないよ。僕らが害されたのは事実だけどね。だけどこの人達は僕に高価な薬も無償で使ってくれた」

「……お前、体の調子は?」

「いつになく良いよ」

 

 才人はふうと息を吐いた。彼は弟の判断力を信頼している。自分なんかよりも人を見る目や交渉術に優れた彼が言うのならば、わけが分からなくても害はないと確信できた。

 才人は気付いていなかったが、透の側にいたルイズは才人の放つ空気にあてられ全身を強張らせていたのが解けて、彼よりも大きく息を吐いていた。自身の母を思い出してしまったからだ。母には遠く及ばないが、彼女に本気の闘気を向けてくる相手は母親くらいなものだったためどうしても姿がかぶったのだ。別の理由もあったが。

 

「ミスタ・コルベール、鍵をよろしいですか? 兄さんはもう暴れることはありません」

「ええ、そのようですねミスタ・トール」

 

 渡された鍵で透が才人の手錠を外す。

 その間才人は室内を見回していた。

 二十畳ほどであろうか。簡素な部屋だった。コンクリートとも違うが一枚物の石壁と、壁と地続きにしかみえない石床。あるのは才人が寝かされていたベッドと机、透達が囲んでいたテーブルと椅子。そしてクローゼットとタンス。掃除は行き届いているようであるが、日本人の才人には馴染みのないことにこの部屋は靴履きらしい。他の三人は靴を履いたまま室内にいた。才人の靴もベッド脇に置いてあった。

 

 最後に透以外の部屋の住人をよく見ようとしたところで少女が才人の前に立った。

 小柄だがおそろしく綺麗な外人の少女だ。そう考え、才人は彼女とキスしたことを思い出して赤面してしまう。

 

「あ、えっと」

 

「ごめんなさい!」

 

 そしてどう声をかければいいのか分からないうちに突然少女が頭を下げてきた。才人は面食らってしまった。混乱した思考の最上段に上ったのは、後ろの男もこの少女も日本語上手いな、というものだった。

 

「ミス・ヴァリエール、兄さんはまだ状況の把握が出来ていないはずだから、謝罪は後にしてもらってもよろしいでしょうか?」

「……はい。ミスタ・トール」

 

 泣きそうな顔のまま引き下がった少女の変わりに透が才人を促し、窓際に二人で立つ。

 

「どうなっているんだ? それにここはどこだ?」

「見てごらん、兄さん」

 

 透が窓の外、天を指さす。

 その先を見て才人は固まった。

 どれくらい寝ていたのか、すでに外は暗く瞬く星々とやけに明るい大きな月が出ていた。

 

 青と赤の月が二つ、出ていた。

 

「……おい……これって……」

「ここはハルケギニアがトリステイン王国のトリステイン魔法学院。どうやら、僕らの知る世界ではなさそうです」

 

 

 

 

(……まとめるとだ。ここはハルケギニアという名の魔法がある異世界(ファンタジー)で、そこのトリステイン王国にある魔法学院であると。俺達はそこで行われていた進級試験、春の使い魔召喚の儀式で喚ばれたと。だけど人間が召喚されるなんて前代未聞。ましてや異世界という考え方すらない世界だから帰る手段はない、と)

 

 元の世界へは一生帰ることが出来ないかもしれないと透から聞き、才人は天を仰いでいた。

 椅子に座り行儀悪く背骨を反らし目覚めて最初に見た魔法のランプの灯りを視界の端に感じ取る。

 

 魔法だ。

 

 先ほどここの教師であるというコルベールにも杖先に灯る小さな火を見せてもらった。

 ここは魔法がある世界なのだ。

 それを聞いたとき彼は自分達も使えるのかと喜び勇んで尋ねたが、残念なことにこれは血統でのみ使えるようになるため使えないと知り落胆した。

 念の為にコルベールによって才能があるかどうか魔法で調べてもらったが、やはりそんな都合良くはないらしい。

 用事があるとのことで、そのコルベールは先に帰ってしまっている。

 

 左手の甲に刻まれた奇妙な文字をかざして眺める。

 

(使い魔の役目は主人の目となり耳となり手となり足となること)

 

 だがどうやらその目と耳の役割は果たせそうにないことがもうわかっていた。才人にとってぞっとしないことに、本来であれば使い魔が見たり感じたりしたものを主人も知覚することが出来るらしいのだ。だが、このルーンを刻んだ主人は何も見えないと言っていた。

 そのことに気付いたピンクブロンドの少女、先ほどまで才人が寝かされていたベッド本来の主であるルイズはまた失敗だったのね、と落ちこんでいた。

 その彼女も今はお風呂に出ているため、この部屋には現在平賀兄弟二人だけとなっていた。

 

「これって、一応、誘拐なんかな」

 

 才人が呟く。今日の晩ご飯はハンバーグだと平賀家のボスは言っていた。もうあの味は食べられないのかもしれない。

 

「強制的召喚という拉致。その上見知らぬ世界に閉じ込められたということは監禁でもあり、しかも召喚時におけるメリットは完全にあちらにしかなかったため営利誘拐。故意にしろ事故にしろ、誘拐だろうね」

 

 だよなあと才人。

 暴れようとした才人はまだしも、一時的なショックによる症状だったのか、透は召喚時に発作を起こして気絶してしまっている。これは完全に彼らの非だ。

 だが彼はそれを怒る気にはなれなかった。

 

「透、体調は」

 

 ハルケギニア組二人がいなくなってから何度目かになる同じ質問だ。

 

「かなりいいよ」

「治ったわけではないんだよな」

「らしいね。でも魔法で調べてもらったところ体内に複数の謎の反応があり、それが原因かもしれないってさ。あちらじゃ完全に原因不明だったのにね」

 

 透は生まれついたときから奇病にかかっていた。ある程度の周期で強烈な眠気を伴う発作に襲われ、意識を保った状態のままでありながら体だけが数日死んだように眠ってしまう謎の病だ。消化器系と免疫力にも異常があり、風邪などの簡単な病気にも罹りやすく悪化しやすかった。発作が起きると寝込んでしまうため、時期になると透はいつも病院か自宅での点滴生活を送っていた。

 

「でももう発作は起きないんじゃないかって気がするんだ」

「根拠は」

「ない。でも今までと体の感じが全然違うのだけはわかる。症状はもう現れないんじゃないかな」

 

 その通りならもう治ったのと同じだ。

 透がそういうのだからそうなのかもしれない。

 科学からなる医療で原因不明だった病気が、魔法で治せるかどうかなんて才人にはわからない。だが透の言うことは信用できるし、逆説的に魔法だからこそ治せる病気だったのかもしれないと素直に彼は思った。

 まだ予断を許さない状態には変わりないが、もしかしたら本当にもう大丈夫なのかもしれない。それは、時間が教えてくれるだろう。

 

 それにここには水の秘薬なる魔法の薬が存在し、物によっては睡眠症状が起きても体が起きるまで持ちこたえることは可能そうだった。ただ秘薬はかなり高価らしいが。

 彼女達のおかげで透の病気が治ったかもしれない。ずっと治してやりたいと考えていたそれが治ったかもしれないのだ。

 

 それなら才人に彼女達を怒る理由はなかった。

 

 帰れないという事実は絶望的だったが、側に元気な透がいるのなら、と考えると随分と気が晴れた。自分達にとって優先順位が高いお互いがいるのが大きかったのだが、透も才人も思考の順序はまったく違うものの「なってしまったものは仕方がない」という考えに最終的には至る楽天家であった。

 

「……じゃあ、とりあえず俺は使い魔がんばっとくか」

 

 話し合いの結果、才人はルイズの使い魔となることを了承していた。

 強制使役ではなく、給金もあるという。主な仕事は身のまわりの世話と、護衛だ。どうやらルイズは護衛としては期待していないようだったが。

 

「兄さん、本当にいいの? ルイズさんの様子ならまだ覆せるじゃない? 危険かもしれないし。僕のことは気にしないで、もっと状況を整理してから決めた方が良いと思うのだけど」

「いや、もう契約のルーンとやらは刻まれちまってるし、状況を整理するためにも金が入る立場は手に入れた方がいいだろ? 情けないが俺にはお前ほどの頭はないし、二人も相談役なんていらないしな。そんな状況で仕事がすぐに見つかったのはありだ。客扱いは自由になれるが、仕事しなきゃ金は入らない。ルイズさんは使い魔いないと留年するかもらしいし、お前はルーン刻まれなかったから使い魔にはなれないしな」

 

 透には結局体のどこにもルーンが現れていなかった。呼び出されはしたが、やはり契約は一人としか出来ないのだとコルベールは興味深げに才人のルーンをスケッチしていた。そして彼はその知識の一端をルイズ達に公開し、コルベールのお墨付きで賢者と呼ばれルイズへ幾ばくかの知識を与える相談役としての仕事を得ていた。才人が寝ている間に決めてしまったらしい。

 

「そんなこといってちょっと楽しそうだとか思っただけでしょ。兄さんがどれだけ立ち位置を考えているのか疑問なんだけど」

 

 笑いながら透が言うので、才人は苦笑いで返すしかなかった。その通りだったからだ。彼の好奇心はすでにこの世界に向けられていた。

 それとルイズという少女がしょげている姿を見て、なんだか悪いことをしているような気分になってしまったからだった。

 会った当初は上から目線だった彼女は、才人が起きてみると何があったのか随分としおらしくなっていた。

 それを才人は寝ている間に透にいじめられたからだと考えていた。

 このとき才人はまだ透からの説明でしかわかっていなかったが、ハルケギニアでは魔法を使えるものが強者であり、封建制度を布くトリステインでは平民を支配する貴族は須く魔法使い(メイジ)であるため、物理的にも社会的にも貴族と平民の差は隔絶されていた。そんな中で社会的背景すら持たない才人達はある意味平民よりも弱者であった。

 この貴族と平民の間にある格差はすでに数千年続くものであり、中には生物としてまったくの別物のように考えている貴族も、そして平民もいるのだ。

 さらにルイズはトリステインでも特に上位の貴族であるヴァリエール公爵家の三女であり、色々な事情から学院生徒内でこそ落ちぶれと評価されなめられているが、背景に家柄という圧倒的な暴力を持っていることに変わりはない存在だ。召喚時に彼女が取った態度は日本の常識と照らせば尊大で我が侭で非常識なものであったが、ここハルケギニアのトリステインで平民に対して行ったものとしてはとても優しい部類の反応であった。だから、そう、本来であればもっと高圧的な態度であってもおかしくないのだ。

 そんな彼女がさらに歩み寄って、才人達を同等な人間と見る理由と動機。

 貴族と平民の間に差があることを聞きかじっただけで理解まではしていなかった才人が回答として思いついたのは、透による口撃で凹まされた、というものだった。

 身体的な面でどうしても劣る透は、補うように色々な物事を口先一寸で誤魔化すのが得意だったからだ。才人もそれでよくからかわれていた。

 

 だが実際は少々違っていた。

 あれからすぐに治療を施され目覚めた透は簡単な状況説明をルイズとコルベールから受け、蒼穹に座する双月を見上げると、あっさり別世界であることを受け入れた。そしてすぐさま持ち込んできていたノートパソコンや携帯電話などの電源確認、赤外線通信などの動作確認をするとこの世界でも基礎の物理法則は同じであることを確信。重力の加減や息苦しさがないことから惑星環境は地球とそう変わらないことも理解した。言葉が通じる不思議も口の動きや使い魔召喚の説明から「魔法効果か」の一言でこれもあっさり納得してしまった。

 そして彼は召喚されたときすぐ側でなされていたコルベールとルイズの会話や周辺生徒の言葉を思い出し、彼らの性格や状況も含めた現状を大まかに整理した。あんな状況でも透は話を聞き、憶えていた。寝る直前までの記憶を保つという、意識を保ったまま寝てしまう奇病で得たあまり意味のない特技だった。

 それからあまり喋ろうとしないルイズにこれからどうするか、どうして欲しいのかを訊いてみた。

 このとき透は自分達が異なる世界から来たであろうとことと、病気がもう大丈夫な気がすることなどの体に起こった異変、物理法則などの交渉材料になりそうな情報はまだ黙っていた。彼には年齢以上の雑学の知識があったし、ノートパソコンにはwikiのキャッシュが生きていて、外で仕事をする為の外付けバッテリーもソーラーチャージャーも、大切な資料が入っているフラッシュメモリも無事だった。若さ故の柔軟性も、それ以上の創造性も元の世界で天才と呼ばれるほどにはあった。だからただハルケギニアの名前も聞いたことがないほど遠方の出身だとしていた。

 

 すでに透は自分には使い魔契約のルーンが現れていないことが確認していたため、使い魔にすらなれない自分の立場を如何にするつもりなのかを聞きたかったのだ。そしてなにより、ルーンが発現し関わる事が半ば決定しているであろう兄、才人のことが気になっていた。知ろうともせず平民と叫ぶ浅慮なところがあるらしいこの少女がどうでるのか、もっと彼らの性格や世界背景を知って、交渉ごとがあまり得意ではない兄が起きる前にある程度決めてしまいたかったのだ。

 しかしその返答は意外なものだった。

 

「二人を帰せる方法を探し、見つかるまでの間、わたしの客人としてもてなしたい」

 

 おそらくは彼女に出来る最大級に上等な扱いに、否定的な言葉が出て来るものだと身構えていた透は拍子抜けしてしまった。

 

 ルイズには透のような不治の病を患うカトレアという姉がいる。才人が透の病気を叫んだとき、ルイズはそのちぃ姉様と呼び慕う姉と透を一瞬重ねてしまったのだ。そして弟のことを叫ぶ才人の悲痛な表情に、毎度医者にさじを投げられ悲哀にくれる自分達家族の顔を見てしまった。しかも透の診断結果を水メイジ教師から一緒に聞いていたルイズは、以前聞いた姉の診断結果とよく似た正体不明の反応というものに驚き、透からも姉のそれとは症状こそ違うが原因不明の不治の病だと尋ね聞いて、自分がしてしまったことの意味を理解したのだ。

 もしちぃ姉様がさらわれてしまったらと考えてしまったのだ。

 突然、一生会えないし近況も知れない状況になるのは死んでしまったのと変わりない。むしろ死体すら残らないから悼むことも出来ない。残された者にあるのは混乱と悲しみだけで、知らない土地に放られた弱者には絶望しかない。

 カトレアは魔法の成績こそ優秀だったが、魔法を使うと激しく体力を消耗して咳き込み、動けなくなる。ちょうどそれは召喚されたばかりの透の症状と似通っていた。

 重なった彼らの表情に貴族も平民も関係なかった。もちろん貴族と平民は違うとルイズは考える。彼女の十六年間が同じだと到底言い出せない価値観になっている。だけど表情は、感情は一緒だ、と。

 

 訝しみ理由を尋ねた透にルイズは、「わたしにも、病気で苦しむ姉がいるの」と端的に説明して謝り、透は彼女の心情を察した。そして自分達の悪運の強さと少女の心根の優しさに感謝すると、自身の出身と知識の一端を公開した。

 ちょうど小腹も空いていたので鞄の中に入っていたカロリーメイトを開けて、厚さが均一な紙で出来た小箱という形状、中のビニール包装、両方へ施された印刷、そして本体の保存食としての説明と試食から初めて、他にすぐに理解出来る構造力学を教えた。部屋の窓が思いの外綺麗なガラス窓であったことから科学技術のレベルが判断つかず、化学はとりあえず置いておいたのだ。

 

 食いついたのはコルベールであった。彼はまだ生徒と変わらない歳の少年が持つ異界の世界観と計算し尽くされた知識に仰天し、はしゃいだ。透は気付いていなかったがここでも悪運の強さが発揮されていた。もし側にいたのがコルベールでなければここまで早く理解を得ることも、正しい評価を得ることも出来なかっただろう。だから最初はコルベールが透を雇いたいと申し出てきたのだが、それを止めてルイズが自分の責任だからと相談役として雇ったのだ。

 

 そこで才人が起きて現状に繋がる。

 

「そういや、俺達どこで寝たらいいんだ? ここはルイズさんの部屋なんだろ」

 

 女の子のベッドまで借りてぐっすり眠ったせいで才人は眠くなかったが、透は少々疲れているようだった。

 

「さあ。そういえば聞いていなかったね。ご飯も食べていないし、僕もお風呂入りたいんだけど、どうしたらいいんだろう」

「ルイズさんが戻ってくるまで待つしかないか」

「そうなるねー」

 

 と透が頷き、

 

「そうだ兄さん、」

 

 と人差し指で宙を指す。

 

「ここの辺りになにがあるかとか、わかる?」

 

 透は親しい者と話しているとき突然話題を変えたりする癖があった。

 普段は順を追って話すくせにそうするのは、これでわかってくれるでしょ? という彼なりの甘え方であると才人は知っていた。

 

「……指か? とんちかなにかか?」

 

 透は普段と変わらない特に力みのない表情をしていたが、才人には真剣な質問なのだとわかった。

 だがどうやら才人の答えでは不満足だったらしい。透の表情に含まれていた真剣さがなくなったのを、才人は正確に感じ取っていた。

 

「……なにか問題がありそうなのか?」

「現状ではなんともいえないね。もう少しわかったら教えるよ」

「ああ」

「まあ、それにしても今日は激動の一日だった。ふあ――」

 

 この話はおしまい。と透が欠伸をして立ち上がったときだった。

 

「あ」

「――え?」

 

 色々と彼も緊張が続いていたし、椅子に座りっぱなしであったため、いくら調子がいいと本人が言っても才人が思ったとおり疲れが出たのだろう。

 

 立った拍子に透の体がふらついた。

 だが、ただちょっと前へよろけただけだ。

 でもその一歩で、突如出現した鏡のようなものに入り込み、透の姿が消え去る。

 同時に鏡も消え失せ、後には何も残らない。

 

 何もない虚無だけが残ったともいえた。

 

 才人はしばらくの間なにが起きたのかわからず、呆然とした後、「とおるぅ」と小さく情けない悲鳴をあげた。

 

 

 

 

 女子寮がある火の塔と授業塔でもある風の塔の間、ヴェストリの広場と呼ばれるその場所に、双月に照らされる二つの影があった。

 

「……誰?」

 

 赤縁眼鏡の奥にある眠そうなブルーの瞳と、青みがかった髪の小さな女の子の問いに、平賀透は困ったような苦笑いをまず最初に返したのだった。

 

 

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