3月2日。僕らが死ぬまで、残り29日。
「おはよ、早いね」
眠そうな目を擦りながら、日菜が目覚めた。
時刻はまだ朝の六時半だ。こんな世界に生きていると、どうにも規則正しい生活が必ず身についてしまう。全く、良いのやら悪いのやら。
「おはよう、日菜。朝御飯出来てるよ」
「お! ちゃんとしたご飯ほんとに久しぶりなんだよね、ありがと」
聞くところによると、日菜はここ数ヶ月この学校で暮らして、食べるものと言えば生えている草などだったらしい。……正直そんな生活で数ヶ月間も生きていられて、今もこうして元気に体を動かしているのだから心底恐れ入る。
衛生面など気になる要素も多くあったが、流石は天に選ばれた寵児といったところだろうか。
僕は僕で、家族が死んでから完全に行く宛を無くした後は、家の中に残っていた保存食や既に死んだ近くの家族から何かしらの加工食品を頂戴して生きてきた。
それのおかげで随分と偏った栄養を摂っていた気がするが、こんな状態ならばそのような悠長なことは言っていられないだろう。
──そういえば、両親が死んだのは一年ほど前の話だったか。
安楽死は地域ぐるみで行われ、希望制で行えるというシステムだった。単純に孤独死を防ぐためだろう。そして安楽死を選ばなかった者達は、僕のように半サバイバル生活を送るか、『
たしか、それで皆からは『異常者』と揶揄されたっけ。
もうどうせ死ぬのだから、他人の選択にああだこうだと干渉する人間はいない。ましてや、両親が死の道を選んでしまったのだ。僕の道を矯正しようとする聖人などいるはずも無かった。
"世界の終末まで、ラクをしませんか?"
──こんな、いかにも怪しいキャッチフレーズで。だから当然、そのフレーズに何らかの違和感と嫌悪感を覚えた人は僕以外にも大勢おり、当初このプロジェクトに参加しようとする人は皆無と言っても良いほどだった。
しかし、ここで国が一時体験というシステムを導入する。
内容は単純なものだ。
その公表がなされた後、一時体験を求める人々は殺到し、施設はすっかり皆の輪の中に入ってしまった。まあ、つまり実際のところ、人々は恐れながらも嫌いながらも、この"ラク"という言葉に心を惹かれていたのだろう。
何かしらの実験をされるのではと僕は不信感を抱いていたが、『国の』という言葉が付随するだけで、人々はあっさりと手のひらを返してしまった。
──そしてその後、施設の人気は急騰した。彼らに何があったのかはわからない。けれど、あんなにも大勢の人間が集まっていたにも関わらず、今日もあちらの方からは声が一切聞こえてこない。
おそらく国は、死の恐怖に耐えられず暴動を起こす人々が出てくることを懸念したのだろう。
そしてそんな人々は、このような
──あの中で何が起こっているのかは、知らないが。
「……ねえ、ねえったら。ご飯中だよ? なに考え事してんの?」
「ああ、ごめん。施設のこと考えてたんだ」
「あー……。そういえばあたしの母親も施設に行ったんだ。あれから音沙汰一切無いけど、楽しくやってんのかな」
冷めた目をして、日菜が言葉を返した。
どうやら彼女にとって、『バカな選択をする人間』は全て同一のものらしい。たとえ自分の肉親であろうと、赤の他人であろうと。
思えば彼女と付き合ってから三年間、彼女が自分の話をするのを聞いたことが無い気がする。あくまで彼女の興味の対象は僕や勉強、運動、楽器であって、彼女自身が興味を
──しかし、そんな重たい愛情でも日菜は僕の彼女だし、この世界ではもう僕は彼女無しでは生きていられない。
……だから、変なことは考えるな。
「あ、今はあたしのこと考えてるでしょ? 当たり?」
先程の冷たい顔とは打って変わって、いつもの明るい表情をした日菜が喋りかけてきた。
「うん、当たり。日菜にありがとうって言いたくて」
「……へっ?」
「君のおかげで生きていられてるからさ」
「ちょっ、ちょっと??」
「だからこんな僕だけど、日菜にはずっと側にいて欲しいんだ」
自分でも気恥ずかしいことを言ったものだと思いながら、僕らの間に少しの沈黙が流れた。
──そして、その沈黙は彼女の言葉によって破られた。
「……ダ、ダメだってばぁ……えへへ……」
口では否定しながらも、日菜は身体を僕の方に擦り寄せてくる。彼女の柔らかい身体は僕を刺激させるには十分で、昨日の情事を僕に無理やりに思い出させた。
けれど、僕ももちろん嫌じゃない。こんなことを言ってしまったんだ、彼女が楽に出来る体勢を作って、手のひらで日菜の肩を寄せた。
触れた胸から彼女の拍動が伝わってくる。ドクドクと、毒々と。
そんな僕らの目の前に広がるのは、簡単な調理をされた野菜類と缶詰めのみ。
いつ賞味期限を迎えたかわからないその物体でも、絶対に食べなければならない現状。簡単だ──生きなければ、死んでしまうのだから。そんな当たり前が必然性を帯びている世界だ。
朝だというのに恒星の光が僕らに差し込むことは無く、暗く沈んだ雲模様が僕らを襲っていた。けれど、雨が世界を打ちつけることは無い。ただただそこに、灰色の闇を存在させているだけ。
いっそのこと、打たれて撃たれて討たれて
その方が何も考えずに死を迎えられそうだからだ。
けれど。
「……ねえ。また、する?」
「……セックス?」
「うん。昨日、凄かったよね。今まであんなにダメダメ言ってたのに、結局最後までやっちゃってさ……あは、思い出してきちゃったよ。綺麗な下着残ってたっけ……ふふふふ。子供出来ちゃったかもね。名前とか決める? あたし案があるんだよ、ほんとにるんってくる名前! 君の名前から一字貰って、あと…………」
──彼女の存在が、それを許していない。
喜ぶべきか、悲しむべきか。
喜ぶべきなんだろう。
「……遠慮しとくよ。今日は少し街へ出ようと思ってるんだ」
「街?」
「そう、多分これからこの学校で生活するんだろ。だったらいろいろ調達しないとな」
「……ひとりで?」
「そのつもりだけど」
「ダーメ。あたしもついてく。良いよね?」
「……まあ、日菜が行きたいなら全然構わないよ」
調達しようと思っているものは、主に食料品だ。家庭科室を使えば簡単な調理はここでも可能だが、一ヶ月保存の効く──つまりは、生産がストップされてからもまだ食べられる物はそう多くは無い。
それに缶詰などの保存食にもさすがに限界がある。あまり消費したくはない。
「……あれ、そういえば君って、ここ数ヶ月どこに住んでたの?」
「ああ、自分の家だよ。もう食べ物は尽きてしまったけど」
「そういえばあたし、付き合ってる時も君の家行ったことないよね? ついでに行っていい?」
「……ほんとに何も無いけど、いいのか?」
「何も無いのを見てみたいの!」
「それなら良いけど」
「じゃ、決まりね」
その後手早く僕らは朝食を片付け、学校の外へと出かけた。
ーーーー
街へ行くとは言ったものの、既に街は『街』と呼べるようなものでは無い。
食料品や生活用品などの生産は当然ストップされ、完全に劣化した商品が店に無造作に置かれているだけだ。救いは、生産がストップしたのは生産者が自殺したからでも仕事を放棄したからでも無く、施設が出来てからだ、という事実があることだろうか。
つまり入荷されてから、商品を求めるための競争があまり行われていないということ。みんな死ぬか施設へ行くかの二択を迫られていたのだから。選り取り見取りというわけだ。
「何を貰いに行くんだっけ?」
「とりあえず保存食が最優先かな。あとは、服とかタオルとかがあればって思ってる」
「あたし下着欲しいんだけど」
「じゃあ二手に分かれる?」
「……いや、違うってば。選んで欲しいの」
「日菜が良いならいいけどさ……」
──たしかに、彼女はこういう子だ。例えこの世界がこんな状態でなくとも、僕を
別に反応を楽しみたいだとか、そんな小悪魔的な気持ちで誘っているわけじゃない。ただ、本心から来て欲しいと願って。
……全く、慣れない。
本当に僕らは正反対な二人なんだなと痛感する。それなのにこんなに気が合って、身体の相性も良くて、こうして長い間付き合っていると言うのだから奇跡と言っても差し支えないだろう。
その後僕らはまだ使えそうな衣服を見て周り、適当な食料品を漁って、何かと使えそうな雑貨を仕入れた。
驚いたのは、それらの品揃えの豊富さだ。全く荒らされていた形跡は無く、本当に選り取り見取りだった。本当に皆死んでしまったり、施設へ行ってしまったりでここに残っている人間は自分たちだけなんだな、と僕が思ってしまったのも無理はない程だった。
──皆が僕を『異常者』と揶揄したのはあながち間違っていなかったのかもしれないな。疎外感すら覚えてしまうよ。
「あ!」
そろそろ帰路に着こうとしていたその時、日菜が頓狂な声を上げた。
「どうしたんだ?」
「鏡だよ、鏡! 手鏡欲しかったんだよね〜。貰って良いかな?」
「良いんじゃないのか? 誰も咎める人はいないだろ」
「だよね!!」
嬉しそうに手鏡を眺める日菜。別に珍しいものでも無いだろうに。
……いや、この世界では珍しいのか?
「鏡ってさ」
少し歓喜の心を残したまま、彼女が呟いた。
「日菜?」
「……まあ、待ってよ」
──しばらくの間、沈黙が流れる。
耳には閑散とした街に広がる、生暖かい風の音だけが響いていた。
……結局今日、空が晴れることは無かったな。かといって雨が降るわけでもない、微妙な天気だった。いや──終末の世界をよく表しているのかもしれない。『死』なんて楽しいものじゃないんだと、神様が教えてくれているのだろう。
「うん」
ようやく考えがまとまったのか、日菜が頷く。
「もしあたし達が死んだら、鏡の向こうのあたし達も死んじゃうのかな?」
「うーん……。いや、鏡の世界は逆さまを映すからなあ。僕たちが死んでしまったら、鏡の僕たちは逆に生きられるんじゃないか?」
「ははっ、何それ! 君って普段は真面目なのにたまに変なこと言うよね!」
「別に冗談で言ったわけじゃないって。例えば、日菜の傍にいるのがこの世界では僕でも、鏡の向こうでは違う人かもしれない──みたいなことがあるかもしれないだろ」
「へえ、違う人? あたしは君以外考えられないけどなあ」
「んー……。例えば、僕とは真反対の女性とか?」
「……てことは、お姉ちゃんとか?」
何かを思い詰めたように、彼女は僕に問いかけた。
半分は冗談、半分は本気──別の言い方をすれば願望。そんな気持ちを込めて僕は彼女に話していたつもりだった。けれど、どうやら彼女にとっては百パーセントの本気だったらしい。
「……かもしれないってだけだからね」
「うん、わかってるよ。ありがとう」
再び、沈黙が流れた。既に刻は夜を迎えていて、特有の寒気と廃れた建物の寂しさが心に刺さる。
「もう外は危ないから、僕の家に行くのは明日にしようか」
「……うん、確かにそうだね。動物とかが出てくると死ぬかもしれないし」
「じゃあ、学校に戻ろう」
──日菜の手を取り、道を進もうとしたその時。彼女がふと僕に話しかけた。
「今日さ。もしあたしが何も言わなかったら、一人で街に行ってたの?」
あまり余裕の無さそうな声色だった。
服の裾が強く引っ張られた。
……いや、皮膚ごと抓られているのか。爪が皮膚に食いこむ。脳に痛みが響く。
「……そのつもりだったけ──」
──言葉を言い終える前に、乾いた音が周囲に響いた。頬が刺されて。電気が走った。思わず身じろぎをしてしまい、彼女の方に目を向け。
焦点の定まらない日菜の姿が見えた。
「日菜……?」
「だめ」
「……だめ。だめ、だめ、絶対だめ!! この数ヶ月、すごく辛かった! 孤独って何よりも嫌なんだなって思った! 卒業したら死のうかなとかも思った!!」
「っ…………!!」
────言葉が出ない。
「君がいなきゃあたしも生きてられないんだよ……!! ……そのくらい、わかってよ……。独りにしないで……」
その瞳には涙が溜まり、その握る手は恐怖で震えていた。
──日菜は強いと思っていた。いつも笑顔で僕と過ごしてくれる彼女に、僕はずっと助けられてきたから。だからこれからも助けてくれると、そう思い込んでしまっていた。
……とんだ大馬鹿者だ。クソ。
「……ごめん、悪かったよ」
「ごめんじゃ済まないよ……もう……。帰ったらわかってるよね?」
軽く頷き、軽く首を振り。
涙ながらに明るい表情を浮かべようとする彼女を、痛いほどに愛おしいと感じた。今すぐに抱き締めたいと思った。
──だから、今度こそ日菜の手を強く握る。彼女も今度は、暖かく握り返してくれた。
日菜が死ぬまで、残り28日。
一話であんなに評価を頂けるとは正直予想外でした。ありがとうございます。
ご期待に添えるよう頑張ります。