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──時が見せる夢の海
そこには肌を撫でる風も、眼を潤す光も、心を融かす音もない。
暗闇で覆い尽くされ、数歩先には地を踏めぬやもしれぬこの道を、
ただひらすらに、歩く。
歩く。
───歩く。
嘗ての過去は光で薄れてゆく。
己が存在でさえ、もはやこの
血に塗れた足は、虚空の砂漠に標べをつけることすら許されない。
全てを否定する大地。
総てを無に帰す闇。
まるで己が肉体すらも摂り込まれてしまうような途方も無い虚無感に、その人間は無心で抗う。
抗って、抗って。
大切だったモノを取り戻す為に。
そんな目的すら、とうの昔に闇に屠られたというのに。
──まるで発条人形だな、と。
ケラケラと、闇が嗤う。
────。
聴くのは己が
───分かっている。
────分かっている。
─────分かっている。
────。
何十年歩き続けても、一向に
それでも───
1
「──最近の夜はヤケに冷えるな」
ボソリ、と呟く。
陽気が心地良かった春は早くも過ぎ去り、気付けばもう初夏の扉口を叩く季節だ。
先週訪れた梅雨の悪戯のせいか、心なしか気分が落ち込み気味な気がする。
────午後九時二十分。
灯の落ちた
不審者さながらここに突っ立っている理由は、未だ校内にいる
「─────」
ふと、闇夜を見上げる。
今日は、あまり星が見えない。
「おーーい、おまたせしました~」
ニコニコ、と。
申し訳なさそうには見えない呑気な面構えで、こちらに走ってくる痩身の男が約一名。
「遅いよ。早くメシ食って帰ろう」
「ゴメンゴメン。お詫びとしてはなんですが、今日はいつもの定食、ワタクシめが奢らせて頂きまっす」
「はぁ?定食だけじゃ誠意が足りないんじゃないか?」
「て、定食だけって…じゃあ他に何を──」
相手が言い終わる前に、内ポケットから
「これ。また買ってきて」
「───はぁ、この前辞めるって宣言したばっかじゃんか」
「覚えてないね。そんなもの」
「……ったく。分かったよ」
渋々と言ったような面持ちで、要求を飲み込む
ともあれ、早速手頃な飯屋の散策を開始する。
「……ところでさぁ、お前の学部の講義ってどんな感じなんだよ?」
唐突に、そんな事を訊いてくる。
彼は一つ歳上なうえに、学部学科もまるで違う。当然利用する校舎も別で、食堂や事務系部でない限り普段出会うことはない。
「どんな感じって…、別に他の学部と対して変わんないと思うよ」
「ふぅん、講義中にいきなり裁判始めたりしないんだな?」
「アホか」
どこぞのゲームで覚えたのだ、そんな知識。
法学部だからと言って、所構わず裁判って訳じゃ無い──と言ってやりたいところだったが、このマヌケには罵倒で十分なので喉の奥に押し戻す。
「法学部ってからには、やっぱ弁護士とかになりたいわけ?」
「───うーん、まぁね」
───そんな訳はない。別に法律に関する知識を身に付けたいと思っている訳でも、弱き者の為弁護士になりたいと正義感旺盛なわけでもない。
目的も、目標もない。
ただ、なんとなく、だった。
文系脳の自分が入り得る、最も優れた
───ただの妥協… 怠惰の果てである。
将来の夢も理想もない自分にはお似合いだ───なんていう独白は、死んでもこの男には聞かせられまい。
「まぁ。昔っから頭だけはいいもんな、お前」
「だけってなんだよ、だけって」
ウラァ!と拳を振りかざす素ぶりをすると、ヒェッと情けない声をあげ、ソイツは縮こまった。
「ヒトをコケにするのが得意なら、そっちの将来はお笑い芸人かな?」
「あ、はは!それもありかもな」
まんざらでもない顔しやがって、と心の中でツッコむ。まるで自分がツッコミ役みたいではないかと、無性に恥ずかしくなった。
2
───午後九時四十分。
眞奈十中央商店街──。
日中までの賑わいの熱はとうに冷めきり、在るのは瞼を閉じたガレージの群れのみ。
夜風が腹を空かせ、眠りに着いた商店街に立ち寄り足音を立てている。
そこで、
「──ふむ。商店街…というものは、いささか早く戸締りをしてしまうのですね」
独り、女は呟く。
妖しく
この地にそぐわない純白のショルダーレスを身に纏い、悠々と夜の商店街を遊歩する。
その光景は余りに浮世離れし、同時にどこか普遍的なものでもあった。
────。
「まぁ、待ちなさい。もう一つ先へ行けば、幾らでもあるでしょう」
女は相変わらず独り言を口にする。
コツコツと地を
「────フフ」
地に紅い標べを垂らしながら、風を連れ女は嗤う。
─────ズゾゾゾゾォ!!
と、全く以って下品な断末魔を上げながら、細長の得物が魔物に喰らい尽くされていく。
ゾゾ!ゾゾゾズゾォ!!
「─────」
「────ハフォ、ウマっ、うめぇ~」
ズルズルズォ!!
唸っては、喰い。
唸っては、喰う。
隣で餌を食い散らかすその魔獣を見兼ね、堪らず声を掛ける。
「……あのさぁ、もうちょっと丁寧に食事できないのか?」
「ズルんぁ?んなこと言ったってズビ熱いウチに喰わないとズズォ不味くなっちまうだろ」
「──────」
全く。生まれ育った家庭環境にそこまで差はないと思うんだが、と。
社会的醜態を惜しみ無く見せびらかす幼馴染に、心底呆れかえっていた。
今夜は大学近くにあるラーメンチェーン店に来ていた。
彼とは毎日夕食を共にしているが、何も日常的にこの有様なワケではない。
決まって麺類──特にラーメンの時に限り、まるで人間を棄てた化物のようにハデに喰い散らかすのだ。
「ズズズズゥ────ぷはぁ!んあー美味かった。ご馳走さま」
パン!と。
大層に掌まで合わせ、コイツは高らか完食を宣言する。
彼の側のテーブルは、見るに耐えない汚染度である。
というか、最早こちらに置いてあるメニュー表にまで汁が飛び散ってきていた。
「…まったく、お粗末なもんだな」
「ん?それを言うなら『お粗末様でした』だろ」
「─────」
溜息すら通り越して過呼吸になりそうな程の過剰なストレスを、手元の冷水で胃に流し込む。
まぁ、自分が食べたラーメン定食(豚骨・ライス大盛り+餃子+唐揚げ)は彼の奢りなので、何も言わずにしておいてやるか。
よっ、と。座敷タイプの席から胡座を解き、重くなった腰を上げる。
「──さて、そろそろ帰る。あとの会計は任せたよ。ご馳走さん」
「なんだよ、もう帰んのか」
もっと話し相手になれよ──と言わんばかりの表情をしている。
────。
少し躊躇った後、咄嗟に自分の腕時計を指差す。
「今日はいつもより遅い。課題もあるんだ」
「……む、しょうがないか」
彼は素直に認めるしかない。
というのも、いつもより遅めの食事となってしまったのは、彼の熱心な居残り自主勉強に付き合わされたからだ。
彼が愛用する図書室に共に残る事になったのだが、
──図書室特有の静寂に気が参っていた所、『すぐ終わるから外で待ってていいよ』と言われ待つこと二時間……。
先程に至る。
───というより、二時間もクソ真面目に外で待ち惚けする自分は何なのだ───?
「─────それじゃあ、お先」
「おう。また明日な」
フラフラと、男はお冷やを片手に手を振っている。
それを横目に、逃げるようにそそくさと店を後にした。
ツレを残し、帰路につき約二十分。
自分の住む学生向けアパートまでは、あと数分といった距離だ。
交通費が嵩むのが気にくわないので、通学は徒歩と決めている。
元は田舎者の身であるので、長距離通学はそれ程苦ではない。
それよりも───
「────」
店を出た直後から出処不明の苛立ちに襲われていた。
徐に、上着の内ポケットに手を伸ばす。
手慣れた手付きで小箱を取り出し、それを軽く揺する。今まで何度もやってきた
「……あ、」
──そうだった。
あいつを待っている間に切らしてしまっていたのを忘れていた。
「飯の前にコッチが先だったか」
来た道を振り返り、途方にいる彼の方を一瞥する。
「今から戻るのもシャクだな…」
この辺りにコレを買えるトコはあっただろうか。大学付近にはコンビニが数件建ち並んでいるのだが、家路までの道のりには一件もない。
とにかく、一刻も早くこの苛立ちを抑えなくてはならない──
今は唯それを摂ることだけに全身が葛藤し、体が小刻みに震え出す程の重症っぷりである。
加えて、久々に食ったラーメン定食で胃がもたれ気味で、知らぬ路をウロウロできる程の余力は残されていまい。
家に帰るか。
来た路を戻るか。
さて、どうしたものか。
「────はぁ」
深いため息を間抜けに漏らしながら、踵を返した。