道を引き返し、再び大学方面へ足を運ぶ。
今頃彼は帰宅途中だろうと予想し、その帰路でもある眞奈十南公園へ向かっていた矢先。
向かう先から、なにやら早歩きで忙しない様子の二人組が目に入る。
そのすれ違いさま、
「───さっきの公園の、大学で注意書きされてた奴にやられたんじゃないか?」
「──あぁ、通り魔だってんだろ?まだ近くにいたらヤバイって……」
「一応警察呼んどいた方が良かったんじゃ──」
「バッカ、そんなことしたら俺達が疑われるかもしれねぇだろ」
と。
交錯する二人の口から確かにそう聴こえたのだ。
────。
自然と、足が止まる。
───通り魔?
なんだってそんな急に。
よりによって、このタイミングで?
この先にある公園と言えば、今向かおうとしている眞奈十南公園しか知り得ない。
あの二人は、そこでナニかがあったというのだ。
「──あの、ちょっと」
堪らなくなり、過ぎた二人を呼び止めようとする。しかし、彼らはもう声の届かぬ距離にいた。
────。
嫌な予感がする。
眼球は乾き、口の中が妙に粘っこい。体の震えも心なしか大きくなっている。
ひどく息も切れるし、目の焦点も全く合わない。
───決まってこういう時は悪いことが起こる。
父親が家を去ったあの日だって。
何か、大切なモノが遠くへ行ってしまいそうな────
「………チッ」
馬鹿が、と。奥歯を押し潰すように食い縛る。
あらぬ想像をするなと心で叱責する。
ありえない。
そんな心境とは裏腹に、当人の体は腕を大振りにし、走り始めていた。
ありえない──。
どうせその辺で、くたびれた猫背を晒しながらほっつき歩いているだろう、と。
街灯がいくつも過ぎ去っていく。
自分が走っている感覚なんて微塵もない。
まるで、その景色自体が意思を持ち、こちらに逆流してくるような、そんな錯覚。
夢中───、
虹の上から落っこちるような絶望的な無重力感──、
そんな現実味のない世界が、ただ漠然と眼中を浮遊する──。
目を醒ました頃には、とっくに公園の中にいた。
置き去りにされた意識を余所目に、肩で息をしながら辺りの闇中を凝視する。
聳え立つ何本もの死にかけた電灯の声が、未練たらしく躰に纏わりつく。
それら全てを薙ぎ、死に晒し乾いた砂利道を騒々しく踏み歩く。
「ユウ───」
と。勝手に喉が鳴いていた。
「………ユウ!居るのか!おい!」
静寂の森の中、ひどくガラついた声がこだまする。
───。
その声の主を出迎える者はいない──。
「────」
ザッ、と。砂利を蹴る音がする。
それは自分のものではない。
咄嗟に身構え、音の鳴る後方へ振り返る。
闇を掻き分け現れたのは紛れも無い第三者───
見慣れた幼馴染のものだった。
「────よう。俺も、お前んとこ行こうと思ってたんだ」
ニコリ、と。彼は、はにかんだ。
「ユ、ユウ」
な、なんだよ…!
ほっとした。心底安堵した。
心の底から、と書いて『心底』だ!
途中すれ違ったあの二人組が言っていたのは、全くの別件だったのである。
それが分かった途端、先程までの不安な夢は、全てただの杞憂だったのだと────
────ドシャリ、と。
「─────は?」
安堵し緩んだ頬が、2秒前の状態のまま凍りつく。
痩身の青年は唐突に倒れていた。
彼の身の周りには、何やら黒いモノがじわじわと広がっていく。
────。
─────思考が停止する。
「──────あ、あ。───」
半笑いのまま引き攣った表情で、無意識に彼に手を伸ばす。
にちゃり、にちゃり、と。
流れ出るものを堰き止めんと、濡れきった彼の背に手を当てる。
肩口から腰まで。
Tシャツごと大袈裟に裂さき解ほどかれた彼の背からは、仄かに白みがかった肉の割れ目が露わになっていた。
ドクドクと。
深く、長いその割れ目は、今も尚紅い池の源泉として活動を続ける。
「───────止めなきゃ…」
彼に掘られた血の溝を夢中で押さえる。
が、止まらない。
片手では足らないらしいので、両手を重ねて押さえてみた。
それでもダメ。
指の間から赤黒い粘液が溢れる。
瞬く間に自分の手が血に染まる。
「あぁ…。……──」
気づかぬうちに、涙を流していた。
もう間に合わない──────。
また大切な家族が、いなくなってしまう─────。
─────。
決壊する。
己の無力さが、自我を壊し始めようとしている。
────死んでしまう。
もうどうしようもない程、彼の傷は余りにも深すぎた。
すると、
「───……コウ」
「………え?」
虫の羽音のように小さく、消え入りそうな声を振り絞り、彼は名を呼ぶ。
それは紛れも無い自分の名だった。
「コウ……もういい──から、話きけって……」
「───ユウ、」
ガクガクと震える手で、縋るように彼の温ぬるい手を握る。
にっぱりと。
確かに死に行く筈の青年は、こちらに呑気に笑ってみせた。
「これ、土産だ…」
「──?」
「………」
とっくに感覚を忘却しているであろう肉体を強引に動かし、彼は側にあるものを差し出す。
それは、血糊でベッタリと塗りたくられたビニール袋だった。
滑ぬめる手で袋を開けると、中には唐揚げ弁当とポテチ──
そして、頼んだ筈のタバコが一箱入っている。
「ユウ…これ……」
「───これ、で最後…だぞ。コウ───約束しろ……」
「─────っ」
ふざけるな。
それじゃあまるで─────。
グシャリ、と。
無言で袋を叩きつける。
脳内が沸騰する。
煮え滾るモノの発生源が怒りによるものなのか、それとも別のモノなのか、知るべくもない。
「……ふざけるな。
「─────っぷ、く…ハ、ハハ……」
どこにそんな余力があるのか。
彼は喚く自分を余所に、やっぱりな、と。
何故か、小さく笑っていた。
「なっ、お前───」
「────コウ」
そう遮るように───食い気味に、彼は握られた手を強く握り返してくる。
虚ろながらも、しっかりと光を宿した目をこちらに向けて、
「俺…気づいてたんだ……最初から───だから……」
握り返す力が、次第に弱まってくる。
「───コウ、もうお前は、無理する必要は────ないんだ……」
「え……」
唐突な言葉に、思わず驚いてしまう。
「─────言っときたいことは、山ほどある、けど……これだけ───これだけ───」
彼は泣いていた。
私を守ると言ってくれたあの日のように。
「───────────」
彼の声は、もう遥か彼方に行ってしまった。
────どうか、幸せになってほしい。
────そんな似合わぬ台詞を私に遺して。
私は彼の頬を撫でる。
馬鹿が、と。
夢の続きを見ている彼の頬に、口づけをする。
決して起こさぬように─────、
バレないように──────。
そっと───────。