ある日、2人の少年少女がラウンジの席について休息を取っていた。けれどその表情はとても良いものとは言えず、特に少女の方は思い悩んだような表情をしている。向かいに座っていた少年ーー緑川駿はどうすればいいのかわからないといった表情でオロオロとしていた。
「ね、ねえ双葉。たまたまタイミングが悪かっただけだって。そろそろ元気出してよ」
とりあえず機嫌を直して欲しいと目の前の少女ーー黒江双葉に緑川は意を決して話しかけた。しかし彼の説得も虚しく未だ黒江は顔をうつむかせており、その表情は好転していない。
黒江は周りと比べてもあまり感情が表に出るタイプではない。ましてこのように思い詰めたような顔をされるのは緑川の記憶上ほぼ初の事象である。故に幼馴染の緑川を持ってしても彼女を元気付けることが出来ないでいた。
そうして何度か声をかけたものの一向に回復する兆しが見えず、ただ時間が過ぎるのに任せるしかないのかと諦め始めた時、彼にとって頼もしい先輩たちが現れた。
「よう緑川。これから昼飯か?」
「お、緑川じゃん」
偶然通りかかったのは出水と米屋だった。
「いずみん先輩とよねやん先輩。ちょっと良い?」
普段から緑川が仲良くしている2人ならば、手を貸してくれるかもしれない。そう思い彼は2人に助けを求めた。
「つまり、柊に嫌われてるんじゃないかと不安になったってことか?」
「……はい」
黒江が思い悩んでしまっていたのは、聞くところによると柊が関係していたらしい。
柊と黒江はまだ厳密には師弟の関係ではない。柊がじっくり考えるようにと期間を設けたからだ。彼女は柊に師事を求めながら提案された通り、これまで何人かのログを見たりして師匠候補を探した。けれど彼女にとって柊以上の師匠は見つからず、これまでと変わらず柊の元へと足を運んでいた。そして柊も、彼女の希望に応えて訓練に付き合っていた。
しかしここ数日、黒江は柊と会うことが極端に少なくなっていた。黒江がいくら探しても柊を見つけることができず、ようやく見つけても冷たくあしらわれてしまったのだ。それをたまたま目撃した緑川が彼女のヘルプに入り、今に至るのである。
「柊のやつになんて言われたんだ?」
黒江から事の顛末を聞いて、米屋はある部分に引っかかりを覚えた。柊の黒江への対応のことだ。
明るくなり始めた最近の柊は言わずもがな、人付き合いの悪かった以前でさえ人に当たったことは聞いたことがない。今も相変わらず流れている柊に関する悪い噂は、あくまで彼がコミニュケーションを取ろうとしなかったことから派生したに過ぎない。だから彼が攻撃的な態度をとった、というのことに米屋は疑問感じたのだ。
「……あの時先輩は『そんなことをしている暇はない』って。こちらに目も向けずに言いました」
その答えを聞いて、ようやく米屋が感じていた疑問が拭われた。そして米屋の次に付き合いの長い出水も、彼と同じ結論へと至る。
「黒江だっけ。多分あいつはお前のこと嫌ってなんかいないよ」
「本当……ですか?」
それを聞いた黒江の瞳に、少しの明るさが戻る。もしここでそれがぬか喜びになって仕舞えば、彼女の傷はより大きなものとなるだろう。誤解を与えぬよう、出水は慎重に言葉を選びながら訳を語り始めた。
「ああ。黒江と緑川はよく知らないと思うけど、1ヶ月前まであいつはそんな明るいやつじゃなかったんだ。俺らとも全然喋らなかったしな」
出水は語る。以前までの柊は今までとは違ったのだと。あの少し明るい彼は、ここ最近になって変わり始めたからだと。
「んで、その時もあいつは一切攻撃的な態度はとったことがない。話しかけてスルーってのはまああったけどな。
だから様子を聞いた限り、あいつはお前のことを嫌っている訳じゃないと思うぜ」
「どっちかって言ったら戻ったの方が正しいだろうな」
「戻った?」
出水のを踏まえた米屋の推察を聞いて、緑川が疑問を浮かべる。以前までの柊、というのを彼は知らないからだ。黒江も同じくその話に耳を傾けている。
「大体3ヶ月くらい前がピークかなぁ。あいつ一時期すごい焦ってたんだよ。それもほぼ毎日。問答無用でずっとランク戦してたくらいだ」
師匠の柊にそんな時期があったなどとは、黒江は想像だにしなかった。斬り合いの最中でも的確な対策を打ってきた柊は、いつだって冷静で落ち着いていた。そんな彼が以前はそうだったなどと言われても全くイメージできない。しかし自分たちより付き合いの長い先輩たちがそういうのだから間違いないだろう。そう思い黒江は再び2人の話に耳を傾けた。
「確かに言われてみれば、あの時のこんのん先輩機嫌が悪い、ってよりも焦ってたの方が近いかも」
そこで緑川は見かけた時の柊の様子を思い出して補足を入れる。
「俺も槍バカと同じ考えな」
「誰が槍バカだ」
「だから
まだ本人から話を聞いていないため、この話は決して憶測の域を出ない。しかしそれでも黒江を安心させるには十分だった。次第に黒江の表情から緊張が取れていく。
「じゃあ私は、先輩に嫌われた訳じゃないんですね」
黒江は、最後の確認として2人に問いかける。そして、それは違う、というのがこの場で出た結論だ。米屋と出水は改めてそう答えた。
「なら、良かったです」
嫌われていない。そう思えただけで黒江の旨を覆っていた黒いもやはすっかり無くなった。
「じゃあこんのん先輩はどうしてあーなったんだろう」
緑川は疑問に思う。柊の態度が急激に変化してしまった、その理由を。
「流石にわかんねーな。そもそも前の原因も知らねーし」
「よねやん先輩たちも知らないの?」
「ああ。そもそも話すようになったのも最近だしな。前は見かけたらちょっかいかけてたってだけだし」
「まぁ暫くはそっとしといてやれば良いんじゃないか?落ち着く時間も必要だろうし。で、長引いてたら話を聞く」
「そんなとこだろーな」
「わかった」
「わかりました」
柊を取り巻く環境は、以前と違いより暖かいものへと大きく変わっている。しかし柊はまだそれを知らない。
***
トリオン兵による侵攻は、時間を選ばない。街の人たちが活動する昼間を狙う時もあるし、逆に人気のない夜を狙うことだってある。
界境防衛機関であるボーダーには、街や市民の安全の為に一切の討ち漏らしも許されない。故にボーダーはどんな事態にも対応できるよう24時間体制で街の防衛に当たっている。チームを組ませて時間を割り振ることで、個々人の負担をできる限り抑え、効率を高めた。この制度によってボーダーは確かな防衛力を手に入れたのだ。
そして柊も、ボーダーという巨大な組織を動かす歯車の1つである。他の隊員と同じように、今日も防衛に当たっていた。
ボーダーでの防衛任務はシフト制だが、それはチームの話。ではごく少数だが存在するソロ隊員はどうか。
結論はソロ隊員はそこに含まれていない、だ。しかしそれらの隊員は皆B級以上でボーダーの主力にあたる。そんな戦力を遊ばせておくわけにもいかなかった。
そこで上層部はソロ隊員をどこかひとつのチームに混ぜて防衛任務を行うようルールを定めた。ソロにはない連携を学ぶ機会として、願わくばそのままチームを組んでくれるよう、何回か連続して合同で任務に当たるように計らったのだ。
そのルールには、もちろん柊も当てはまる。日が沈み夜となっても、以前から引き続き那須隊と防衛任務についていた。
***
柊は那須隊のメンバーとは離れ、ひとり民家の屋根の上で待機していた。ここしばらくの間、チームの輪に入ろうと拙いながらも努力し、メンバーと交流を図っていたのにだ。那須の家に行って以来、彼は心を開く前の彼に戻ってしまっていた。
そんな彼の現状を良しとしない者たちがいた。合同チームを組んでいる那須隊のメンバーだ。以前彼は勇気を出してこちらに歩み寄って来てくれた。なら今度は自分たちの番だ。
持ち場を熊谷と日浦に任せ、那須は1人離れた柊の元へと足を運んだ。
「近野くん」
同じ屋根へと登り、柊に話しかける。しかしすぐに返事は来なかった。諦めずにもう一度話しかけようとして、ようやく柊からの返答が返ってきた。
「…どうしたんですか先輩。こちらは異常ありませんよ」
柊から事務的な連絡が伝えられる。しかし那須が話したいのはそんなことではない。意を決して彼女は本題を切り出した。
「ありがとう近野くん。けどそのことについて話しにきたんじゃないの」
そこで那須は言葉を区切り、大きく深呼吸する。これから話そうとしている内容は、下手をすれば彼の傷を大きく抉ってしまいかねないからだ。言葉を慎重に選ばなければならない。
「この間、葵ちゃんからあなたのことについて聞いたわ」
その瞬間、柊の肩が跳ねた。しかしここで中途半端に止めてしまっては、ただ柊を傷つけただけになってしまう。それは彼女の、彼女たちの本心ではない。
柊の様子に十分留意しつつ、那須はまた彼に話しかける。
「あなたの気持ちはわかる、なんて言わないわ。近野くんの受けた被害は私たちの比じゃないもの。けど、1つだけ言わせて。葵ちゃんの気持ちも汲み取ってあげて欲しいの」
あの日、那須隊のメンバー全員は葵から柊にまつわるほぼ全ての過去を聞かされた。両親を一瞬のうちに失ったこと、助けを求める人を助けられなかったこと、それを柊が酷く後悔していること。
この話を聞いた時、那須は雷にでも打たれたのかと錯覚するほどの衝撃を受けた。自分より年下の彼はこんなにも重いものを背負っていたのか、と。自分が抱えていた悩みが、とても小さなものに感じてしまうほどに。
ボーダーにはネイバーに恨みを持って入隊してきた人たちもいる。その人達を否定するつもりはない。しかし彼の過去はその人たちと同じか、それ以上の辛さがあっただろうことは容易に想像できてしまった。
そしてそんな彼を、妹の葵は非常に気にかけていた。何か手伝えることはないか。どうにか彼の辛さを和らげることはできないか。そうして考えているうちに、彼女はオペレーターという役職を知った。彼女の友達の武富桜子から聞いたのだ。そうして話を聞いていくうちに、彼女はオペレーターとして兄を支えたいと強く思った。
しかし彼女も、この話を切り出した時点で兄に反対されるのは目に見えていたという。だから彼女は知りうるボーダー隊員に声をかけ続け、反対されないように手を尽くしたという。
そんな彼女の胸中を聞いて、那須は葵の力になってあげたい、柊も悩まされているものから解放されて欲しいと強く思った。彼女は彼女なりに彼を説得しようとしているのだ。もちろん熊谷も日浦も支岐も同じである。
「葵ちゃんは、近野くんの力になりたいって本気で思ってる。お願い。一度でも良いから、葵ちゃんと真剣に話をしてあげて欲しいの」
「……ごめんなさい」
那須のお願いは柊の言葉によって拒否されてしまった。どうして……、と那須が尋ねる前に柊が更に言葉を続ける。
「本当はわかってたんです。葵に心配させてたこと。何か手伝うって言ってくることも。あいつは優しいですから」
「じゃあどうして……」
そこで初めて柊が振り向いた。彼の顔は苦痛に耐えるかのように、歪んでしまっていた。
「怖いんです」
柊が打ち明ける。それはボーダーに入って初めて彼が零す感情だった。
「もう聞いてるかもしれませんが、俺は大規模侵攻の被害に遭いました。必死で逃げてた時に助けを求められたんです。初めて見た人でしたけど、その時にそれは関係ありませんでした。
問題はその人の下半身が潰れた民家に押しつぶされてたんです」
当時を思い出しながら、柊は語る。一瞬のうちに地獄へと変わったあの日を。そしてそれは、柊にとっても地獄の日となった。
一瞬のうちに両親を失い、ただ本能に従って逃げていた彼は助けを求める声によって漸く正気を取り戻した。
その人の下半身は民家の倒壊に巻き込まれており、恐らくもう足は潰されてしまっているだろう。覚醒したばかりの柊でも、一瞬のうちにそこまで判断することができた。できてしまった。
「じっとしてたらトリオン兵にあっという間に追いつかれてしまう。そんなことを考えて、あの人の命と自分の命を天秤にかけた。そしてーー」
ーー自分だけ逃げてしまった。
柊は最後の言葉を言わなかった。けれどわかってしまった。言葉にしなくても、彼がどれだけ後悔していたのかが伝わってくる。
「そんな俺だから、誰かを救えるように強くなろうとしました。けどどれだけ鍛錬に時間をつぎ込んでも、恐怖は全くなくならなかった。むしろ大きくなりました。もしまた同じようなことになって、また自分の命を選びそうで」
胸が苦しい。締め付けられるようだ。
那須は苦しさを覚える。けれどそれは普段感じるような息苦しさではない。悲しさ、そして悔しさのせいだ。想像するだけでも息が詰まりそうな状況を彼は1人でずっと背負ってきたのだ。そして同時に、気づいてあげられなかったという事実がとても悔しい。
「だから葵がどれだけ本気でいるのかはなんとなくわかっているつもりです。けどこんな俺じゃあ誰も護れないし、誰も救えない。もし葵まで……って考えてしまって、どうしても怖くなるんです」
柊の表情は、やはり暗い。那須は彼を問い詰めたことを酷く後悔した。思いを吐き出して楽にさせるどころか、事の重要性をより強く認識させてしまったからだ。
那須も考えなしだったわけじゃない。周りをもっと頼っていいんだよと言いたかった。けれど、彼の悲しい決意はどうしようもなく固かった。簡単に周りを頼ってだなんて、彼女はとても言えなかった。
1ヶ月もお待たせして申し訳ありませんでした。書き上げるのに大変苦労しましたが、一応なんとかものになったので投稿させていただきました。
1ヶ月も待たせておいて全然進まなかったことはすみません。自分も想定外です。
何か疑問等ありましたら、遠慮なくお尋ねください。
最後に誤字報告、お気に入り登録をしてくださった方たちにお礼を申し上げます。