──君はもう見たか?


「え、感動したー!」

「これが純愛なんだなって思いました」

「だるまが〜かわいかった〜!」

「二人の支え合う姿に泣きそうでした」

「幸せになってほしい」


──今、世界が一つになる!



「「「せーのっ、だるまサイコーーーーー!!!!」」」



※カクヨム、エブリスタにも投稿しました。




1 / 1
あなたは側にいてくれますか?

 

 

 “捨ててしまえば、楽になれるのに”

 

 絶えず、僕が耳にする言葉だ。

 周りのたくさんの人から口々に言われて、耳にできたタコがそろそろ潰れそうだ。

 大きなお世話だ、と返したことはない……聞き入れたこともないけれど。とはいえ、その話が出るときは大抵、相手側が僕の機嫌が急降下していくのを察して終了するから、言外に伝わってはいるはずだ。だから、いい加減に折れてくれればいいのにと思わずにいられない。

 分かっている。自分が厄介事を背負い込んでる自覚はあるし、向こうも心配して言ってくれていることも理解している。けれど、癇に障らないか否かは別問題だ。はいそうですかと捨ててしまえるならば、とっくの昔に諦めて捨てている。

 ああ、ああ……たまらなくもどかしい。

 それが出来ないから、僕はこうして足繁く通っているのだ。

 相も変わらず、今日もまた、何時ものように──。

 

「熱っ!!」

 

 突然のことに反射的に飛び退いた。

 ハッと我に返る。いけない、調理中だというのに少しボーッとしていたようだ。ジワジワと痛みを訴える指を水道で冷やし、手元のあったコンロの鍋を確認する。

 どうやら、味噌汁を吹きこぼしてしまったらしい。コンロの火も消え、鍋の下には茶褐色の水たまりができている。

 やってしまった。失敗した上に余計な仕事を一つ増やしてしまった。

 

「……やれやれ」

 

 まぁ、他は上手にできたのだし、味噌汁くらいは許されるだろう。

 気を取り直して、軽く掃除したのち調理を再開。といっても、他にやることなど用意しておいた取っ手付きのお盆に、ご飯、味噌汁、焼いておいたハンバーグとほうれん草のお浸しをそれぞれ食器によそって乗せるくらいのものだ。

 そして空いているスペースにお茶と箸を置けば、それで配膳も完了である。

 

「よしっ」

 

 完成した料理たちを持った僕はキッチンからリビングを抜け、明かりの点いていない暗い階段から2階へ向かった。

 階段の電灯は先日から切れてしまっていて、まだ交換していないと先程知らされた。2階の電灯は点いているので、上階から漏れる光で見るに不自由はないが、温かさのない足元はいつもよりも冷たく感じられる。他所様のお宅とはいえ、早急に対処してほしいところだ。

 段差に足を掛けるたびに、僕の耳に木の軋むような音が聞こえてくる気がした。実際はそんな音など鳴っていないのだが、きっと、いつもはない物寂しさが僕にそう錯覚させるのだろう。

 

(すっかり遅くなっちゃったな)

 

 今日はここに来るのが遅く、玄関を通る頃には夕日も沈み切る寸前であった。何時もよりだいぶ遅い夕飯の時間に、腹を空かせているに違いない。

 2階へ上がった階段口からすぐのT字を右へ曲がる。

 真っ直ぐ進んだ突き当たりにある部屋が目的地だ。

 電灯を遮る影もなく、視界は一気に明確になった──その分、見たくないものも見えてしまうが。

 僅かに首を回し、後ろの廊下を見やる。掃除の行き届いたきれいな廊下だ。逸らすように視線を前に戻して、ドアをコンコンとノックする。

 

 ──入っていいよ。

 

 返事がきてから、ゆっくりとドアノブを回して部屋の中に入った。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「ゴメンね、遅くなって」

「ううん、いいの。いつもありがとね」

 

 女の子の部屋としては殺風景な内装。

 テレビとベッドとイス、サイドテーブルにいくつかの雑貨とスピーカーのような筒状の機材、ベッド脇に置かれた車椅子。それが、この部屋の全てだった。

 僕はサイドテーブルにお盆を置き、ベッドに腰掛ける。

 ベッドの中央ではモゾモゾと大きめのTシャツを着た毛玉が動いていて、鬱陶しそうに毛を振るう様子は中々にシュールだった。そろそろ髪を切ってあげないとと少し笑いそうになる。

 

「手伝おうか?」

「大丈夫。これくらい平気」

 

 悪戦苦闘しつつも、身体を起こすことができた毛玉。

 お疲れ様、と言うと、頑張ったと誇らしげに胸を張った。そして毛玉、もといこの部屋の主である少女カナエは、ニッコリと笑って──。

 

「いらっしゃいタカフミ」

 

 ──()()()()()()()()()()手足を広げて、僕を歓迎してくれた。

 

「うん」

 

 僕は言葉短く、カナエを優しく抱きしめた。

 ふわりと広がる仄かな人肌の温もり、心地よい心音、そして女の子特有の柔らかさを堪能する。膝のつま先まである長い髪の毛も、欠かさず手入れをしているからゴワゴワとかさばらず滑らかだ。

 こうして文字にして意識すると僕が変態のようだが、カナエも頬を緩ませて僕の胸に顔を埋めたり、匂いを嗅いだり、首筋を噛んだりしてくるのだからおあいこだろう。

 

「じゃあ、冷める前にご飯食べようか」

「そうね。ハンバーグは久しぶりだから嬉しいわ」

 

 頷くカナエをそのまま抱え上げ、僕はベッド横にあるイスに座り直した。カナエはそっと膝の上に降ろす。

 食事の際は僕の膝の上が定位置となっている。すっぽりと僕の腕の中に収まる体躯の小さいカナエは、こうした方が食べさせてあげやすい。

 始めは足が痺れたりしていたが、もうこの体勢も慣れたものだ。

 

「いただきます」

「どれからにする?」

「全部タカフミに任せる」

 

 良きに計らえ、その仰せのままに代行して箸を進める。

 やはりというか、今日はとても食いつきがいい。次から次に箸が進んでいく。美味しそうに食べてくれるから、こちらも手間暇かけて作った甲斐があったと嬉しくなってくる。

 

「今日はペースが早いね。やっぱりお腹空かしてた?」

「そうなの。今日はお昼ご飯も少なかったし」

「そっか」

「うどんはお腹にたまらないのよね」

「カナエは食いしん坊だからね」

「違います〜」

 

 団欒の時間、というのだろう。

 カナエは食事中、黙々と食べるのに集中するからあまり会話が弾むことはないが、食器の鳴る音と外から漏れる遠くの喧騒だけが背景というのも存外悪くない。

 豊かとは言い難いが、それでも二人で共有する穏やかな時間は結構気に入っている。

 

「ご馳走様。今日もご飯、美味しかったわ」

 

 そして、最後のご飯一口を終え、お茶を飲んで一服したカナエが満足そうに僕にもたれ掛かった。

 

「お粗末様。おかわりはいいの?」

「うん。夜はしっかり出してくれるから、これでいっぱい」

「なら良かった」

 

 空になった茶碗をお盆に戻し、汚れてしまっているカナエの口元を優しくハンカチで拭う。

 カナエは満腹になった充足感で眠たげなようだ。しかし食べてすぐに横になるのは身体に悪いので、枕を立て、背もたれのようにしてベッドに座らせてやる。

 ゆらゆらと頭を揺らし、控えめな欠伸を一つ。

 

「じゃあ僕はお風呂を沸かしてくるよ」

「んん〜、分かった」

 

 カナエにお腹が隠れるよう深く布団を掛けてから、お盆を持ってドアの前に移動する。

 少し待っててねと声を掛け、僕はドアノブに手をかけた。

 

「──ねぇ」

 

 そこで、動きが止まる。

 眠魔の気怠さを感じさせない芯の通った声色。

 僕はドアに向かったまま、カナエと向き合わない。

 

「今日も、誰もいないの?」

「……親父さんは残業。お袋さんはその付き添いするって、入れ違いで出て行ったよ」

「そっか……そういうこと出来るの、自営業の強みよね。いつまでもラブラブで羨ましいわ」

 

 おちゃらけたように笑って誤魔化すけれど、未だ慣れない寂しさが胸に留まり切らず滲み出てしまっている。

 僕はもう何度も彼女のやるせなさに触れているのに、気の利いた言葉一つ返すことができないでいる。だから、いつも自分の頭の悪さを悔やんで、同じように曖昧に笑いながら、おちゃらけて誤魔化してばかりだ。

 

「……そうだね」

「まぁ、夫婦仲が良いのはいいことよね。うんうん」

「もしかしたら、弟か妹ができるかもしれないね」

「そうね~、そういうのもあるかも」

 

 なんてやり取りをして、静かに退室した。

 

 ──そうなったら、もうアタシって完全にいらない子になるな。

 

 間際の、ポツリと小さくか細い声は、僕は聞こえなかったことにした。

 

 

 

 ◇◆◇◆◇◆◇

 

 

 

 カナエは美人ではないが愛嬌のある可愛らしさがあって、活発な性格からみんなに好かれるような普通の女の子だった。

 そんな彼女が手足を失ったのは何てことない、 “ただ運が悪かった”。世の中で奇病と呼ばれる、治療法が確立されていない病気を患ってしまって、誰であってもどうしようもない理不尽が、たまたまカナエに降りかかってしまった。

 それだけだった

 生きるために手足を捨てなければならなかったけれど。誰かの助けがなければ生活できないようになってしまったけれど。

 本当にそれだけなのだ。

 それだけなのに、彼女のこれまであった̩日常(ふつう)が根こそぎ消え去っていった。

 

 ──友人だと言った同級生たちは、テディベアのような姿を気味悪がって近寄ろうとしない。

 ──密かに憧れていると持て囃していた男たちも、口先だけで距離を置くようになった。

 ──両親たちでさえ、一人で何もできないカナエを邪魔者のように疎ましく思っている。

 

 世界がカナエに手のひら返して拒絶を示した。例え手足が無くても、一人では動けなくても、彼女は彼女だというのに。

 だから、こうして彼女の部屋に入ってくるのは、僕とカナエの母親くらいのもの。その母親も、世話をせずに死んでしまったら困るから止むを得ずという有り様。

 彼女のことを思って訪ねてきてくれる人は──。

 

「おかえり〜」

 

 風呂の準備を終えて部屋に戻ると、カナエは僕が部屋を出ていく前と同じ姿勢で待っていた。

 気の無い返事に視線は前方に釘付け。掃除中に上からガヤガヤと音がすると思えば、なるほどテレビを見ているからだったか。

 

「何見てるの?」

「クレ○んの映画」

「うわ懐かしい……どの映画?」

「焼肉」

 

 ベッド脇まで移動し、カナエの隣に並ぶ。

 それにしても科学の進歩とは偉大なもので、便利な世の中になったものだ。首だけを動かして、サイドテーブルにある機材を一瞥する。

 

「これ、調子よさそうだね」

「そうそれ、アレ○サ超便利。これはもう手放せない」

「そっか。なら買ってよかったよ」

「ホントにありがとね。めちゃくちゃ助かってる」

 

 カナエ大絶賛。声で命令すれば代わりにやってくれるのだから、それはもう重宝するのだろう。

 正にアレク○様々である。これには感心せざるをえない。

 

「そのうち漫画とか読めるようになってほしい」

「次のページに進む度に “次” って言わないといけなさそう」

「そこはほら、それはそれよ」

「ほ〜ん、まぁ読めないままよりはマシなのかな……」

 

 と、ふとデッキに目線を落とすと、表示されている再生時間が目に入った。まだそれほど時間が経っているようではなさそうだ。

 

「ん、映画はまだ序盤か」

「ちょい進むと、そろそろ中盤かな」

「じゃあ飲み物とかおやつ探してくるよ」

 

 映画鑑賞していると知っていれば、戻ってくるときに漁ってきたのだが今更言っても詮無きこと。今日は何もおやつの類は買ってこなかったが、以前買ってきたものが残っていたはずだ。

 確か軽くつまめるスナック菓子だったから、映画にも丁度いいだろう。

 

「いらないわ」

 

 けれど、カナエは僕の申し出を断った。

 いつもなら、カナエの方から “何か持ってこい” と要求が飛んでくるだけに少し驚く。

 

「珍しいね、いいの?」

「いい。今日はアタシと一緒に映画見てて」

 

 やけに真剣味を帯びた表情で見据えられ、得も言われぬ迫力さえ感じる。一体どうしたというのだろうか?

 ボスボスと布団が揺れ、カナエが足で座れと指していることが分かった。脳裏には怪訝がチラつくものの、指示通りに腰を下ろす。

 

「腕、握って」

「はいはい」

 

 言われるままに、差し出された左腕の先端を握り込む。

 四肢が欠損すると、その先端は衝撃などから身を守るために脂肪が貯めこまれるという。本当かどうかは知らないが、確かに柔らかい。けれどすぐ上には筋肉と骨の感触もあって、人体の不思議に触れているかのようだ。

 しかし脂肪……ふむ、脂肪の塊か──。

 

「楽しい?」

「…………ごめんなさい」

 

 いけない、つい手に収めると指が勝手に動いてしまう。

 毎度毎度ちゃんと反省するのだが活かされなくて困りものだ。僕の考えていることを薄々察しているカナエから漂う冷たい気配に圧され、背筋に一筋の汗が伝う。

 カナエは僕を諌めてそれっきり、映画に集中して喋らなくなった。だから僕も大人しく映画に集中しよう。

 ストーリーは訳のわからない事件に巻き込まれた主人公一家が、怒涛の展開の中で解決に乗り出し、途中バラバラになりながらも敵の本拠地に到達し、見事家族の力を合わせて解決するというものだった。

 中盤から場面は流れ、友の助け、家族との約束を糧に修羅場を越え終盤、ラスボスとの対面から決着、全てを終えてスタッフロールへ──そして再生が止まる。

 

「アレ○サ、テレビ消して」

 

 はい、と電子的な声が聞こえ、テレビは色を失った。

 テレビが消え、室内からはそれと同じように音も消えた。並ぶ僕たちの無言の時間が続き、先程までとは打って変わって実に静かだ。

 映画が終わったというのに、カナエは口を開かない。

 その横顔は遠く、どこかここではない遠くを眺めるようで、けれどきっと、頭の中では土砂のように様々な感情思考が乱れていて、何をどう表に出せばいいのか分からなくなっているのだと、何となく察せられた。

 だから僕は黙って、カナエが言葉を発するのを待った。

 

「──羨ましいなって、見る度に思うんだ」

 

 やがて、消え入るような声で、カナエは話しだした。

 

「アタシの友達さ、みんな今のアタシを見て、笑うか気持ち悪がるんだ。ずっと友達だよって、口約束ってすっごく脆いの」

 

 淡々と、起伏のない言葉が紡がれる。

 

「お父さんもお母さんも、前に言ってたんだ。何があってもアタシの味方だって……でもさ、全然そんなことなかったんだよね」

 

 それは辛くて、悲しい独白。

 

「3ヶ月。たった3ヶ月前まで、アタシが一番大切だって言ってくれてたのに、お母さんは途端に素っ気なくなって、お父さんに至っては退院してから顔を出してもくれない」

 

 ずっとカナエが内に秘めてきた理不尽への怒り。

 

「言葉って本当に薄っぺらいんだなって、こうなって嫌になるほど実感したよ」

 

 そして、圧倒的なまでの諦観。

 

「体裁が悪いから施設には入れない。介護はする。でも、それ以上のことをしようとはしてくれない」

 

 カナエは手足を失ってからこれまで、人の持つ醜い負の側面に弄ばれて、晒し者にされて、見捨てられてきたのだから無理からぬことだ。

 

「病気で手足無くすと、みんな寄り付かなくなるんだ。そうだよね、移ったら怖いもん。誰だってこんな気持ち悪い姿、絶対イヤだもんね。感染もしないし、なんなら遺伝だってしないらしいのにね」

 

 年端もいかない少女が受け止めるには、現実は余りにも残酷だった。

 

「だーれも居なくなってさ、残ったのはタカフミ一人だけ……」

 

 自由を奪われ、信じていた人たちからも裏切られた哀れな少女は、茫漠と広がる孤独から逃げる術を持たない。逃げられないのに、孤独に打ち勝つ強さも持ち合わせていない。

 虚空を見ていたカナエは、突然どこか楽しそうに笑い出した。

 

「ふふ、ねぇ──」

 

 そして、弾むような喜色を浮かべて、カナエは僕に問いかける。

 

「タカフミは、どこにも行かないよね?」

 

 そこに不安はなかった。

 そこに恐怖はなかった。

 あるのは狂気的とさえ思える確信と──信頼だった。

 だから僕は、薄っぺらい仮面に微笑みを張り付けて答えた。

 

「……うん、何処にもいかないよ」

 

 笑みの裏で、馬鹿なことを抜かす自分を容赦なく嘲る。

 何処にもいかない?

 違うだろ、行かないんじゃない()()()()()()

 まるで蜘蛛の巣に囚われたように、僕はもうとっくにカナエの甘い毒に侵され、逃げられないよう糸で雁字搦めにされている。

 それが分かっているから、カナエは僕を疑わない。

 

「そっか。うん、それじゃあさ……」

 

 カナエは器用に身を乗り出したかと思うと、僕の懐に潜って顔を覗き込んだ。

 首を傾げ、見上げた時に長い髪の毛が垂れ下がって広がり、カナエの顔を暗幕のように隠してしまう。けれど僅かな隙間、暗幕の切れ目から見える瞳と口元は、生きるために覚えた妖艷に歪んでいた。

 

()()()()()()()()()?」

 

 瞳も、口も、匂いも、声も──。

 誘蛾燈に誘われるように、僕は本能のままカナエに吸い寄せられていく。

 理性の壊れている僕には、抗うことなど不可能だった。

 

「そう。そうよね、タカフミは拒めないよね──んんっ」

 

 ガラス細工を思わせる身体に腕を回して唇を重ねた。

 最初は優しく、そして徐々にタガが外れて乱暴に。

 貪るように、嗜むように、踊るように……舌を這わせ絡めて、呼吸も忘れてなおまだ貪欲に求める。きっと鏡でも見れば、よほど必死な僕の顔が見れることだろう。対するカナエは恍惚として、一心不乱になっている僕を楽しんでいるようだ。

 行為に至るのはこれが初めてじゃない。

 だが足りない。

 こんなものでは足りない。

 僕は興奮冷めやまず、邪魔な布団をめくり退けてカナエを押し倒した。ベッドが軋むほど、強く強く唇を押し付ける。

 どれくらい押し付けていたのかは曖昧で記憶にはないが、気付いたらカナエの腕が顔に沿えられて、ようやく僕はカナエから離れた。

 

「ハァーッ、ハァーッ……!」

「……ふふふっ、元気元気」

 

 息も絶え絶えに、僕は何度も認識させられる。

 もう逃げ出したり、投げ捨てたりはできないように洗脳されたのだと。

 

「──いいよ、おいで」

 

 甘美な誘惑に負け、カナエに覆いかぶさりながら、初めてのときもこんな感じだったことを思い出す。

 初めて誘われたあの時から、僕はカナエに理性が働かなくなった。

 まんまと罠に嵌められた。唯一側に残った僕は、カナエにとって最後の心の支えといっても過言ではない。客観的に見ても、僕がいなければ、人として真っ当に生きることは難しいと思う。

 だからカナエはそれを()()()()()()、僕を縛り付ける状況を作り出した。

 僕の中に眠っていたのか、あるいはカナエ自身が刷り込んで生み出したのかは分からない。だがカナエは、今まで自分を苦しめた人の負の側面を、自分の武器として使用したことは間違いなかった。

 揺さぶられたのは僕の劣情──。

 

 僕がいなければ生きていけないという優越感(ゆえつ)

 僕だけが好きにできる独占欲(ゆえつ)

 何をしても僕に逆らえない支配欲(ゆえつ)

 

 なんて背徳的なのだろう。

 でもだからこそ、麻薬のような中毒性に魅了され囚われてしまった。

 それは味わえば味わうほどに耽美で、倫理の和から堕ちて沈むことに躊躇いがなくなっていく。理性は溶け、ブレーキが効かなくなっていく。

 これはもう、手放し難い悦楽の極地だ。

 

「終わったら一緒にお風呂に入ろうね。きれいにして、温まって、楽しんで……それで出てからまた楽しもうね──」

 

 今日もまた、僕を縛る鎖が増えるのだろう。

 藻掻くことすら許されず、そしてただ深い暗闇の底に沈んで溺れるのだ。光すら届かない、真っ黒の最果てへ。

 けれど、それも悪くないと思う自分がいる。

 カナエが僕を求めるように、僕にはもうカナエが必要なところまで堕ちてしまったのだから。

 

「いっぱい?」

「いっぱいだよ」

 

 僕が訊ねると、カナエは蠱惑の色を浮かべて微笑む。

 耳元で甘言を囁き、思考の隅々までを己で染め上げていく。

 夢心地に沈む最中、僕はこのまま進めば確実に訪れるであろう未来を一つ予感した。

 

 ──いつかきっと、自分の行いがイビツであることにすら気付かなくなるんだろうな。

 

 それも、再び重ねられたカナエの唇によってかき消されていく。

 何も考えるな。目の前のアタシだけに集中しろ。

 まるでそう言わんばかりに攻め立てられ、僕はそっと目を閉じた。

 これより訪れる、めくるめく快楽に身を委ねるために──。

 

 

「たくさんたくさん、いっぱいいっぱい──ね?」

 

 

 

 




タグはどれ追加したらいいか分かんないから追々で。


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