月に寄りそう乙女の作法2~二人の小倉朝日~   作:ヘソカン

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prologue
prologue1


side遊星 

 

 暗転。

 

 大蔵遊星の人生。

 

 【未来来訪編】開幕。

 

 

『拝啓、私のご主人様である桜小路ルナ様。

 私がお屋敷を離れてから、一年ほど経ちました。ルナ様におかれましてはご健康にお過ごしでしょうか?

 最早お会いする事は叶わない身ですが、それでもルナ様のご健康を私は、未来の桜屋敷よりお祈りしています。

 そう、未来です。

 信じ難い事ですが、私とルナ様がお会いした時から、十数年以上経過した桜屋敷にいます。

 あの日、致命的なミスで追い出されてから、私は当てもなく彷徨っていたら、気が付けば桜屋敷のルナ様が与えて下さった部屋のベッドで眠っていました。

 最初はあの出来事が夢だったのではないかと思いました。ですが、すぐに知りました。

 何故ならば、今私がいる桜屋敷は、私が知る桜屋敷と全く違ったからです。厳しくも優しく指導してくれた八千代メイド長も、先輩のメイドの方々。何よりもルナ様の姿が屋敷の何処にもありませんでした。

 ただ一人だけ。私の知らないメイドの方である八十島壱与さんが管理していました。

 聞けば、私は桜屋敷の庭に倒れていたそうです。

 それから更に信じられない出来事を知りました。信じられない事に、今の時代のルナ様はアメリカを中心にデザイナーとして活動して、世界的デザイナーとして活躍されているそうです。流石はルナ様と私は心の底から喜びました。

 ですが、次に教えられた事実に驚きと困惑を抱きました。何故ならば、そのルナ様のパタンナーとして活動している人物、桜小路遊星と言う名を聞いた瞬間、頭が真っ白になりました。

 詳しく八十島さんに聞けば、旧姓は大蔵遊星。ルナ様とは夫婦関係で、二人も子供がいると知らされた時は、恥ずかしながら気絶してしまいました。

 そして私は理解しました。本当に私は全てを失ってしまったのだと。

 大蔵、いえ、桜小路遊星様は今もアメリカでご家族揃って幸せな日々を過ごしているそうです。

 では、私は誰なのでしょう?

 この時代、いえ、この世界には、桜小路遊星様がいる。

 私は大蔵遊星に戻る事さえ、出来なくなりました。この世界には、私は行く当てなど何処にもありません。

 桜屋敷にも居られないと思い、すぐに出て行こうとしました。そんな私を八十島さんが止めてくれました。

 

『自分一人だけで桜屋敷にいるのはやはり寂しいです。一人ぐらいならば私に雇う権利は与えられていますから、どうか一緒に桜屋敷を、何時か桜小路家の方々が戻って来るまで護ってくれないでしょうか?』

 

 そう、私は言われました。最初は断ろうとしました。

 私は桜屋敷から除名された身分。何よりも親愛なる貴女を騙していたのですから。今更桜屋敷には居られないと告げました。

 ですが、八十島さんが言うには、その事はこの世界のルナ様は私が仕出かした事を御赦しになられ、当時の桜屋敷に居た方々全員が納得して赦して下さったそうです。

 ルナ様がフィリア女学院をご卒業される間、桜小路遊星様が屋敷ではずっと小倉朝日として働いていたと教えられた時は複雑な気持ちになりましたが、色々と考え、今は桜屋敷の管理を八十島さんと頑張っています。

 私が八十島さんの提案を受け入れたのは、寂しげな桜屋敷が嫌だったからです。

 あの華やかな桜屋敷が、寂れて行く事など、直前まで過ごしていた私には耐えられませんでした。

 コレを私は自らの罰なのだと思いました。図々しいと思います。身勝手だと理解しています。

 それでも、今の桜小路家の方々がお戻りになるその日まで、私は桜屋敷を護ります。

 もう、夢は追いません。私は、この桜屋敷で小倉朝日として生きています。

 桜小路家の方々がお戻りになるその日まで。

 

 小倉朝日より、愛を込めて、敬具』

 

 

「……その日も近いんだけどね」

 

 出す事は無い手紙を机の引き出しに仕舞いながら、僕はこの桜屋敷から離れる日が近づいて来ている事を実感する。

 その報告が届いたのは一か月前だった。この世界のルナ様と桜小路遊星様のご子息とご息女である、『桜小路才華』様と『桜小路亜十礼(アトレ)』様が、日本に戻って来るのだ。

 

「名前の話を聞いた時は驚いちゃったな」

 

 ユルシュール様のペットの犬や猫に、『モトカレ』、『ネトラレ』、『ボテバラ』とルナ様が名付けたと聞いた時は、遠回しの嫌がらせだと思っていた。

 他にも生まれたばかりの子猫に、『イシュカン』と名付けようとルナ様はしていた。訴えられたら負けるレベルでの嫌がらせだと、僕は思っていた。

 だけど、嫌がらせなどではなく、ルナ様自身のネーミングセンスが致命的なレベルだったらしい。

 八十島さんが言うには息子に『毘沙門天』。娘に『亜十礼威無(アテーナ)』と名付けようとしたらしいのだ。必死に周りが止めたと聞いた時は、僕も同意した。流石にそんな名前を付けられたら、子供が不憫過ぎるし、呼ぶ方も嫌だ。他には、『朝日』と言う名前も候補にあったらしいけど、ソレはこの世界の僕が猛反対したようだ。

 心の底から同意した。正直、その名前だけは我が子に付けたいとは、僕には思えない。

 

「……もうすぐ屋敷から離れないと」

 

 八十島さんは離れなくて良いと言ってくれているが、最初から決めていた事だ。

 桜小路家の方々が戻って来たら、僕は桜小路家を出て行く。突然でなくて良かった。

 事前に連絡が来ていたので、準備をする時間は在った。

 いらないと思っていたが、八十島さんが給料を出してくれていたので、幸いにも無一文ではない。

 

「先ずはマンチェスターのお母様の墓に行こう」

 

 場所は八十島さんが教えてくれた。彼女には感謝しかない。

 こんな行く当てもない僕を受け入れてくれたのだから。

 その後の事は考えていない。何処か求人を出している屋敷で働くのも良いかも知れないが、自分には戸籍も無いから無理だろう。

 でも、今度こそ桜屋敷には、戻るつもりは無い。

 ご子息とご息女がお戻りになる最後の日までは居るように八十島さんから頼まれている。食事の準備やお二人の寝所の準備などをして欲しいと頼まれた。

 最後の奉公だと思いながら、ベッドで横になって眠りに着く。

 脳裏に親愛なる主人であるルナ様と桜屋敷の人々の顔、そして妹である大蔵りそなの顔が浮かびながら、僕は眠りに就いた。

 

 

 

 

 アメリカから桜小路才華様と桜小路アトレ様がお帰りになられる当日。

 僕は朝早くから、桜小路家のメイド服を着て屋敷内を八十島さんと清潔にして行った。

 

「小倉さんが居てくれて助かったわ。私一人じゃ、間に合わなかったかもしれないから」

 

「いえ、私なんてまだまだです。八十島さんの方がベテランですから」

 

「……出来る事なら、このまま残ってくれると嬉しいんだけど」

 

「桜小路家の方々がお戻りになる日まで。それが契約でしたから」

 

「……やっぱり私じゃ止められないのね。……連絡しておいて良かったわ」

 

「ん?」

 

 急に小声になった八十島さんに、違和感を覚えた。

 八十島さんは男性のボディビルダーのような容姿でメイド服を着ている女性。一目見るだけでは男性と勘違いをしてしまいそうな容姿をしている。

 女性的な外見をしている僕とは、正反対の人物だ。

 ……今も男なのにメイド服を自然と着てしまっている自分を顧みて、改めて戻れない所まで堕ちてしまったのだと自覚する。

 桜屋敷で働くならメイド服を着ないといけないと思い、初日から着て仕事をしている。その思考が当然となっていた自分を認識した時は、愕然としてしまった。

 この時代の僕は、フィリア女学院をルナ様がご卒業後、八十島さんが言うのにはメイド服を着たところを見た事が無いと言っていたので、自分よりも男性らしいのだろう。

 

「ど、どうしたの、小倉さん!? 急に顔を手で覆いながら暗くなって!」

 

「い、いえ……ただ改めて自分を……か、顧みただけです」

 

 敬愛するルナ様の夫であり、そのパタンナーとして活躍している桜小路遊星。

 きっとルナ様の夫に相応しく成長したに違いない。メイド服を着て女性の下着に、パッド付きのブラ。序でにウイッグを付けるのが面倒だと思って、僕は髪も伸ばしてしまった。

 完全な女装男の姿が自然な姿になってしまった僕は、後戻り出来ないだろう。

 せめてお母様の墓に行く前には、髪の毛も切って、男性らしい姿にならなければいけないと思う。

 

「そ、それでご子息様とご息女様は何時お帰りになられるのですか?」

 

 話を変える意味もあるが、コレは聞いておかなければならない。

 今日までは八十島さんに言われたので残るつもりだが、明日には桜屋敷を出て行くつもりだ。

 敬愛するルナ様と、自分の子供に興味が無い訳では無いが、会えば会ったで複雑な気持ちになる。

 明日、日が昇る前には此処を出て行く。

 

「坊ちゃまとお嬢様は、時差の関係もあって22時頃に空港に着くそうなの。お会いしたら、食事が必要かどうか確認して必要だったら連絡するわね」

 

「分かりました。その時は腕に縒りをかけて作ります」

 

 この一年間、桜屋敷の管理を行ないながら、八十島さんとの料理の勉強のおかげで腕が上がった。

 その料理が桜屋敷での最後の仕事になりそうだ。もしかしたらご子息様とご息女様に料理の味で不信に思われるかも知れないが、別に構わない。

 その時には僕はもう桜屋敷にいないんだから。

 丁寧に掃除をしながら、そんな事を考えていると、来客を告げるインターホンが聞こえて来た。

 

「あら、来客みたいね。小倉さん。お願いして良いかしら? どうせまた何かの勧誘でしょうし」

 

「はい。それじゃ行って来ます」

 

 八十島さんに言われて、僕は屋敷の入り口に向かった。

 屋敷に来た最初の頃は、知り合いに会うのは不味いと思って、来客の対応は八十島さんにお願いしていた。

 だけど、来るのは何らかの勧誘ばかり。その事に寂しさを感じていたが、それなら僕が対応しても、問題は無いと判断して今は対応に出ている。

 今日も勧誘の類だろうと思いながら、屋敷の入り口の扉を開ける。

 

「当家へようこそおいで下さいました。ですが、あいにくとご当主様はご不在で……えっ?」

 

 入口の扉を開けて対応していたが、その相手の顔を見た瞬間、僕の頭は真っ白になった。

 

「クククッ、話には聞いていたが、八十島が言っていた事は事実だったようだな。最初に聞いた時は何を馬鹿なと思ったが、部下からの確認の報告の事実。何より、こうして直接会う事で確信出来た」

 

 その相手は、何が楽しいのか分からないが僕の顔を見て笑っていた。

 対して僕は、体が震え始めていた。その震えの原因は、畏怖と恐怖。

 僕が知っているあの人よりも、年老いているが、僕がこの人を忘れる訳が無い。

 震えながら、目の前の相手の名を呟いてしまう。

 

「……い、衣遠……兄様」

 

「久しぶりとお前には言うべきなのだろうな。小倉朝日。いや、我が弟、遊星」

 

 畏怖と恐怖の対象である大蔵衣遠兄様は、楽し気に僕を見つめていた。

 

 

 

 

 

 気が付けば僕は、桜屋敷の地下にあるルナ様のアトリエに衣遠兄様と一緒に居た。

 このアトリエとルナ様のお部屋だけは、僕はずっと近づかなかった。掃除などは八十島さんにお願いしていた。

 ルナ様のアトリエやお部屋に入る資格は、もう僕には無いと思っていたのもあるが、何よりも入ってしまったら捨てた夢を思い出してしまうからだ。

 その場所に衣遠兄様と一緒にいるのは、夢ではないのかとさえ思えてしまう。

 

「何をぼおっとしている」

 

「……申し訳ありません、衣遠兄様」

 

「フン……そのセリフをお前から聞くのは随分と久しぶりだ」

 

「……僕の事は何時からご存知だったのですか?」

 

 かって知っていると言わんばかりに、衣遠兄様はアトリエに置かれている椅子に座っている。

 衣遠兄様は、僕の事を知っていた。

 多分教えたのは八十島さんだろう。だが、彼女に裏切られたと言う気持ちは無い。

 思えば、八十島さんが急に僕に買い出しを頼んだ時が何度もあった。今思えばアレは、僕と衣遠兄様が会わないようにしていてくれていたのだろう。

 だけど、僕が出て行くのを引き留めるために、衣遠兄様に伝えたのかも知れない。

 信じられない話だが、この世界の衣遠兄様と僕の関係は良好らしい。最初は信じられなかった。

 だが、思い出してみれば衣遠兄様は『才能至上主義』。

 型紙の才能に目覚めたこの世界の僕となら、関係が良好になっても可笑しくはない。

 

「三か月ほど前だ。大蔵家総裁殿に急にニューヨークから呼び戻された時に、街中でお前の姿を見かけた。最初は何の冗談かとこの俺も思ったぞ。数日前にニューヨークで会った筈のお前が、日本に、しかも桜屋敷に戻って行く姿を見たのだからな。しかも、学生の頃の容姿で」

 

「……そうですか」

 

「八十島に連絡し、お前を外に買い出しにやらせて事情を聞いて見れば、信じられない事にお前は過去の遊星だと言う。しかも、俺が知る遊星と違い、桜屋敷から追い出されたそうだが?」

 

「……全て事実です。私……いえ、僕は正体がバレて桜屋敷を追い出されました。そして当てもなく彷徨っていて、急に意識がなくなり、気が付けば」

 

「此処桜屋敷に倒れていたと言う訳か……信じ難い話だが。だが、現にこうして若かりし頃のお前が目の前にいる。八十島に頼んでお前の髪の毛を回収し、鑑定した結果も、我が弟、桜小路遊星と同一人物と出ている」

 

 流石は衣遠兄様としか思えなかった。

 僕の事も事前に調べていた。だが、それならば何故今やって来たのだろう?

 正体が判明したのならば、すぐに来ても可笑しくはないのに。

 だけど、僕の疑問の答えを衣遠兄様は告げる事は無く、懐かしそうに僕を見つめて来た。

 

「しかし、随分と久しぶりに見るな、お前のその姿は」

 

「ご不快でしたら、すぐに着替えてまいりますが」

 

「……いや、その必要は無い。昔の俺ならば確かに貴様の今の姿を不快に思っただろうが、今は逆にあの頃を思い出させてくれる」

 

「……」

 

 衣遠兄様の言葉に、僕は言葉を失うしか無かった。

 僕にとって衣遠兄様は、絶対的な畏怖と恐怖の対象だった。そして衣遠兄様も僕の事は出来損ないの弟としか思っていないと思っていた。

 もしも女装姿など目にしたら、殺されるかも知れないとさえ思っていた。

 だが、目の前の衣遠兄様はこの時代の僕の事を、本当の家族と扱っていてくれる。

 正直嫉妬心が沸き上がって来た。全てを失った僕と違い、幸せな日々を過ごしているであろう桜小路遊星に。

 しかし、すぐに意味の無い事だと理解する。全てを失ったのは、僕自身が原因なのだから。

 

「さて、余り俺には時間が無い。事前に八十島から聞かせて貰ったが、率直に聞くぞ、遊星。お前はこの桜屋敷を出て行くそうだな」

 

「……はい。そう言う契約でした。僕が此処に居るのは桜小路家の方々がお戻りになられるまで。そしてご子息様とご息女様がお戻りになられるのでしたら、僕は此処を去ります。その後は、マンチェスターにあるお母様の墓参りに行くつもりです」

 

「その後は?」

 

「……」

 

「何も決まっていないのだな」

 

「……」

 

「ならば、話は早い。遊星。お前は今後、この俺の養子となれ」

 

「……はい?」

 

 一瞬、衣遠兄様が何を言っているのか分からなかった。

 養子になれ? 誰が? 僕が? 誰の? 衣遠兄様の子供?

 

「えっ? えっ? えええええええっーーーー!?」

 

「お前には戸籍が無い。ならば、この俺の養子となれば問題は無くなる。安心しろ。事前に根回しはしてある。お前は、以前事情があって自主退学をした『小倉朝日』の子供だが、両親と死別して行き場を失い、嘗て母親が働いていた桜屋敷のメイド長八十島に雇われて働いていた。そして母親から受け継いだ型紙の技術をこの俺が見初め、その才能を我が物とせん為に養子する事にしたと言う筋書きだ」

 

「な、なななななななななっ!? 何をおっしゃっているのか意味が分かりません!?」

 

 本当の意味が分からない!

 僕が衣遠兄様の子供になる!?

 衣遠兄様に抱いていた畏怖と恐怖なんて消し飛んでしまった。何よりも目の前にいる衣遠兄様は、僕が知っている衣遠兄様と性格が違い過ぎている。

 混乱する僕に対して、当然の事だと言わんばかりに衣遠兄様が話しかけて来る。

 

「言っておくが、コレはお前の為だ。戸籍も無いお前が、大手を振って表を歩けるようになる。今の状態でお前が表を歩けば、現大蔵家の総裁殿がお前を捕まえようとするだろう」

 

「大蔵家の総裁殿が僕を?」

 

「そうだ。そもそも俺が半年前に急に日本に呼び戻された理由は、総裁殿がアメリカにいる筈の兄が日本で女装姿で街中を歩いているのを見たと言われたからだ」

 

「……あの、何故総裁殿が僕を捕まえようとするのでしょうか? それに兄って? 僕の事ですか?」

 

「……まさか、知らないのか? 現大蔵家の総裁殿は、お前と俺の妹。大蔵里想奈(りそな)だ」

 

「えっ? ……里想奈が大蔵家の総裁?」

 

 あの、里想奈が大蔵家の総裁!?

 余りこの世界の僕が知っている人達の事を調べないようにしていたので、知らなかった。

 ルナ様とこの時代の僕の事は、八十島さんが教えてくれたが、まさか、あの里想奈が大蔵家の総裁になっているなんて、夢にも思ってなかった。

 

「総裁殿。いや、我が妹はお前に愛情を抱いている。桜小路にお前は奪われてしまい、今も行き場のない感情を抱いてな。だが、今此処に、まだ、誰の者にもなっていない大蔵遊星がいると知ったら、力尽くでも手に入れようとするだろう。秘書であるこの俺が情報を隠しているので、我が妹は今は知らないがな」

 

 ……確かに衣遠兄様の言う通りかもしれない。

 里想奈は僕と結婚したいと常々言っていた。まさか、この時代までそれが続いているとは考えても見なかった。

 

「万が一、お前が見つかり、総裁殿の傍にお前がいれば、桜小路も気がつく。今や、桜小路も大蔵家の人間。大蔵家には家族揃って集まる『晩餐会』と言う催しがある。その席でお前を傍に侍らせる総裁殿を見た桜小路が、どれほどの衝撃を受けるか。クククッ、その光景を考えるだけで笑いが込み上げて来る」

 

 何だか、僕と言う存在は、この時代では大蔵家を揺るがすほどになっているらしい。

 この世界の僕は、過去に一体何をやったのだろう?

 

「個人的には楽しみではあるが、大蔵家が荒れるのは困る。ただ荒れるでは済まず、間違いなく桜小路と我が妹は、お前を手元に置くまで熾烈なる争いを繰り広げるに違いあるまい。故に俺が先手を打って、お前を得ると言う訳だ。最も手元におくにしても、表向きは女性という事にしておく。お前の正体を隠す為だ。過去にお前と里想奈がこの俺に対して行なったように」

 

「……選択肢はありませんよね」

 

「ない。お前が想像している以上に、大蔵遊星と言う存在は大蔵家にとって重要な存在なのだ。そうなってしまった。そうなる前に、この時代に来てしまったお前には分からないだろうが」

 

 衣遠兄様の言葉に嘘はないと思った。

 だけど、僕には分からない。何故ならば、僕は全てを失っているのだから。

 この時代の僕が持っている型紙の才能だって、きっと僕は敵わない。服飾の世界から離れて、一年になるのもあるが、きっとこの時代の僕は得られたのだ。才能が開花するような出来事に。

 でも、僕には無い。ルナ様に褒められた型紙の才能にも、もう自信を持つ事が出来ない。

 一度だけ見てしまったのだ。この時代の僕がルナ様の為に造った衣装を。

 あの楽しみにしていたフィリア・クリスマス・コレクションの舞台で燦然と輝いていたルナ様とその衣装。

 勝てないと心の底から思った。僕にはアレほどの衣装を造る事は出来ない。

 だけど、このままでは居られない事も理解するしかなかった。

 

「……分かりました。衣遠兄様の養子になります」

 

「……そうか。ならば、今暫くは桜屋敷に留まれ。書類の準備が出来次第、書いてもらう必要があるからな。才華達の事は任せろ。最近マンションを一つ建てたのでな。俺が日本に留まる間は、そのマンションにいると知れば、才華達もマンションに住もうとする筈だ。そして養子の手続きを終え次第、お前には俺と共に来て貰うぞ」

 

 やはり、選択肢の余地など僕には最初からなかった。

 この人が僕の前に現れた時点で、僕には逃げ場など何処にもない。

 例え無断で屋敷を離れても、すぐに僕は捕まるだろう。

 

「さて、俺は総裁殿と話があるので、電話をする。お前はコレからやって来る才華達の為に食事の用意をしてやるんだな」

 

「……はい、衣遠兄様」

 

 僕は頭を下げて、アトリエから出て行く。

 また、自分の道が衣遠兄様に決められてしまったと、複雑な気持ちを抱きながら。

 結局、僕はあの頃から何も変わっていないのだと思い知らされる。憂鬱な気分になりながらも、この屋敷に帰って来る方々の為に、厨房へと向かって行く。

 だから、僕は気が付けなかった。

 

「予想以上に重症か。チッ……あの頃の俺がした事とは言え、こうして思い知らされる日が来るとはな」

 

 アトリエの中で、衣遠兄様が苦々しい気持ちを抱いている事を。

 

 

 

 

 

side才華

 

 懐かしい日本!

 僕は帰って来たのだ! この故郷である日本に!

 全てが嬉しかった。夢の為に必ず帰ると心に決めていた日本に、僕は帰って来た!

 そして何よりも!

 

「わあ!」

 

 従者が車のドアを開けてくれるも待っていられないと、僕は飛び出した。

 記憶の姿のままに佇んでいる桜屋敷。僕が生まれ、幼い頃を過ごした屋敷が当時の姿のままである。

 懐かしき我が家が、此処にあった。

 

「すごい! 昔のままだ! 此処に着くまでの景色は一致しなかったのに!」

 

「本当ですね。私も懐かしい気持ちになりました、お兄様」

 

 僕に遅れて車から降りて来た妹のアトレも、懐かしそうに桜屋敷を見ている。

 此処は僕の生まれた屋敷。見ているだけで胸に熱いものがじんと湧いて来る。

 

「屋敷を見ていると思い出して来るよ。あの眩しき幼い頃の日々を。それに僕らを迎えてくれたのは、あの頃と外見が変わっていない壱与だから、まるで時があの頃で止まったままのようだよ」

 

「私の外見が若い頃のままですって! あら嬉しい! 心だけが若い頃に戻っていただけじゃなくて、外見も若いままなら女性としてまだまだ頑張れそう! お坊ちゃまったら、お優しい紳士ね!」

 

「僕も壱与が見た目も心も美しい女性のままで居てくれて、嬉しいよ。どうしてこんな素敵な壱与が独身なのか分からないね。きっと周りに居た男性には見る目がなかったんだね」

 

「惚れちゃいそう! そして掘れちゃいそうよ、お坊ちゃま!」

 

 壱与は僕の言葉に感動で体を震わせている。

 一頻り感動したのか、壱与は冷静に戻ると、改めて僕を見て来た。

 

「でもせっかく紳士的な性格なのに、お坊ちゃまの外見はまるで乙女ね。いえ、それが悪いと言う訳ではないのですよ……でも、こうして成長したお坊ちゃまを見ると……本当に似ているわ」

 

「?」

 

 僕は壱与の言葉に首を傾げた。

 まるで、僕ではない誰かを、僕を通して見ているような視線を壱与は向けている。

 どう言う事なのかと質問しようとすると、僕らと一緒にアメリカから付き人としてやって来た九千代が苦言を告げる。

 

「八十島さん。桜小路家の長男である若に対して、乙女と言う発言は失礼です」

 

「あらごめんなさい。私ったら思った事を口にしちゃうおしゃべり乙女なもので」

 

「いいんだ、気にしてないよ。ただ僕は『お坊ちゃま』って呼ばれるのが苦手なんだ」

 

「やだ、そうだったの? それじゃ……私も九千代さんにならって若とお呼びするわね」

 

 若。僕は僕の誇る両親の長男。

 由緒ある桜小路家の御曹司。だから、そろそろ童心に返るのは終わりにしよう。

 僕は完璧。誇り高い人間。

 

「先ほども車の中で確認しましたが、夕食はお取りになられるのですね?」

 

「うん。機内食を食べてないからお腹が空いているんだ。壱与の料理が楽しみだよ」

 

「ウフフ、嬉しい事を言ってくれますけど、残念ですが、夕食の準備をするのは私ではありません」

 

「えっ? それじゃ一体誰が?」

 

 せっかく久しぶりに壱与の料理を食べられると思っていたのに。

 少し残念だった。

 

「それは会ってからご紹介します。さぁ、皆さまいよいよお屋敷の中へ」

 

 壱与に促されて、僕らは桜屋敷の中へ入って行く。

 その先で僕は。

 

「お帰りなさいませ、桜小路才華様。桜小路アトレ様」

 

 入り口の扉の先にいた女性の姿に、僕は言葉を失った。

 背中の半ばまで届いている長い黒髪。何処となく寂しさと悲しさ、そして憂いを感じさせながらも整った顔立ち。身長は僕と同じくらいだろう。仕草や言葉遣いから気品を感じさせる人物だった。

 華奢な体を桜小路家が務めるメイド服で纏い、その女性はやはり寂しさを感じさせる笑みを浮かべながら挨拶をして来た。

 

「私は八十島メイド長と共に当桜屋敷に務めております」

 

 僕の傍に居るアトレと九千代も、女性の余りの美しさに呆然としている。

 だけど、僕は二人とは違った意味で呆然としていた。

 この女性を僕は見た事がある。ずっと昔に、忘れる事が出来ないあの日。僕が女性に対して性的興奮を覚える事が出来なくなったあの日に。

 

「小倉朝日と申します。どうかお二方とも。宜しくお願いします」

 

 懐かしき故郷日本。生まれた屋敷である桜屋敷。

 帰って来たその日、僕は色々な意味で運命の人と出会った。




人物紹介

名称:大蔵遊星/小倉朝日
詳細:『月に寄りそう乙女の作法』の主人公。重い生い立ちの生まれなのに関わらず、本来は前向きな性格をしているのだが、本作ではバッドエンド後から未来へとやって来たので全体的に暗くなりがちになっている。
桜屋敷にやって来てから一年間、ずっと家事を行なっていたのでその方面の方のレベルは格段に上がっているのだが、服飾関連は全く関わらないようにしていたので衰えてしまっている。
女装に関しては最早その道を進んでいる人物でも、初見では絶対に分からない領域に至ってしまった。その原因は、ずっと一緒に働いていた八十島壱与の見た目が男性と見間違える容姿の為に、その動きが男性的な動きだと本人が無意識に考えて実行していたせいである。また、他者との接触を出来るだけ控えていた事も原因の一つである。
アメリカに居る桜小路遊星には複雑な気持ちを抱いている。
本人は知らないが、朝日の存在がアメリカにいる桜小路家の面々に知られた場合、アメリカに強制連行される。また、大蔵家本家も同じであり、総裁である妹に見つかれば、即座に大蔵本家での監禁生活が待っている。


名称:八十島壱与
詳細:見た目はまるでメイド服を着たボディビルダーのような男性だが、れっきとした女性。主人達が渡米し、次から次へと先輩メイドが止める中、唯一桜屋敷に残り続け、十数年間管理と維持を行なって来た。
『小倉朝日』の正体を知っている人物である為に、当初は桜屋敷の庭で倒れていた遊星を発見した時は混乱したが、話を聞いて遊星に桜屋敷で働くように勧めた。
精神的にかなり弱っている遊星を案じているが、自分では支えきれないと判断して連絡をして来た衣遠に事情を説明し協力を仰いだ。


名称:大蔵衣遠
詳細:表向きには大蔵遊星の兄となっているが、実は大蔵遊星は知らないが血の繋がりが無い。それ故に、昔は野心に満ち溢れて大蔵家の当主の座を目指していたが、桜小路遊星の頑張りに寄り、現在は家族を大切に思うようになった。
現在から三か月ほど前の夏頃に大蔵家現総裁が、街中で偶然、小倉朝日を見かけ、捜索を命じられていた。
最初は何を馬鹿なと思ったが、桜屋敷に入って行く小倉朝日本人を目撃し事実だと認識。その後は壱与からの説明と、部下に頼んで行なったDNA鑑定の結果から大蔵遊星本人だと認定。ただ本人の精神状態と壱与から聞いた経緯から、接触する事を避けていた。だが、桜小路才華の帰国に寄って桜屋敷を遊星が去ろうとしている事を知り、接触。その接触の結果、予想以上に遊星の精神が弱っている事を知る。
その原因が過去の己の所業が原因だと悟っているので、内心では苦い思いを抱いている。

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