月に寄りそう乙女の作法2~二人の小倉朝日~ 作:ヘソカン
そして予告通り上旬は終わりです。
エーテルはりねずみ様、才華様、まっしゅ・デ・リング様、烏瑠様、ライム酒様、秋ウサギ様、一般通過一般人様、えりのる様、kcal様、誤字報告ありがとうございました!
side遊星
本日の授業が終わった後、僕とカリンさんは周囲を警戒して身を隠すようにしながら桜の園に訪れた。
「……正直に言いますと、まさか学院での調査以外でこんなに警戒する時が来るとは思っていませんでした」
「……私もです」
「難儀ですね」
「はい、とても難儀です」
ただ人を訪ねに行くだけなのに、本当に何でこんなに警戒しないといけないんだろうか?
昨日まではこんな事になるなんて夢にも思っていなかった。でも、下手に今のアトレさんに会うのは危険だ。
……改めて考えると落ち込む。血の繋がった相手が同性愛者になってしまい、その相手が女装した僕。
次に桜小路遊星様と会った時は……余り聞きたくないけど、正体がバレる前はどうやってルナ様と付き合っていたのか聞いた方が良いだろうか?
「あっ! 小倉お嬢様!」
「こんにちは八十島さん……あ、あのアトレさんは帰宅していますか?」
「いえまだです……あのまさか、今日も……アトレお嬢様にお会いに来られたのですか?」
「今日は違います。ルミネさんに会いに来ました」
「ルミネお嬢様に?」
「はい。文化祭での衣装の件で」
「そうですか。それを聞いて安心しました」
この様子、もしかして八十島さんは、既にアトレさんと僕の事情を知っているのかな?
「ルミネお嬢様は残念ながらまだご帰宅されていません。昨日のようにお戻りになるまで、私の執務室でお待ち頂けますでしょうか?」
「はい、構いません」
何処まで事情を知っているのか気になるので。
八十島さんに案内されて、僕とカリンさんは昨日と同じように執務室に移動した。
「小倉さん……九千代さんと山吹メイド長から事情は聞かせて頂きました」
「本当に申し訳ありません」
「いえ……流石にこの件に関しては責められません。山吹メイド長も同様の事を仰っていました」
「え~と……八千代さんはなんと?」
「私に昨日あった事を説明した後は、『とにかくアトレお嬢様が小倉さんに近づかないように』と命じられました。流石の私もお聞きした時は固まるしかありませんでした……可能性としては考えていたけど、改めて現実になってしまうと……言葉を失うしかないわね」
頭が痛そうに八十島さんは手で押さえた。
気持ちは凄く分かる。本当に何故こんな事になってしまったんだろう?
「九千代さんの方にも山吹メイド長から連絡が来たそうで、とにかく近づけないでと私と同じ事を言われたそうで……その時の山吹メイド長の様子は、何時になく疲弊した声音だったらしくて」
八千代さん……本当に大丈夫かな?
元凶の僕が言えた事じゃないんだけど、本当に心配だ。
「一応確認しておきますが、小倉さんはアトレお嬢様のお気持ちに応えるつもりは」
「ありません。近親婚断固反対です。不純な関係は一切求めません」
「それを聞いて心から安堵しました……ところで、ルミネお嬢様にはどんなご用で?」
「八十島さんは知っているか分かりませんが、才華様が文化祭でルミネさんの衣装を製作しようとしている事は知っていますか?」
「お話はお伺いしています。若から聞いたお話では、夏休みの宿題を利用して製作なされるという話でしたが」
「その夏休みの宿題が変更になってしまったので。代わりに、私が直接ルミネさんから依頼を受けてという話になったんです」
「そうでしたか。小倉さんには何度も若を助けて貰って、本当に感謝しています」
「これぐらいは何でもありませんから、気にしないで下さい」
流石に不正を見逃せと言われたら困るが、依頼の肩代わりぐらいは調査員としても問題が無い範囲だ。
何よりも才華様がルミネさんのために衣装を製作しようとしているんだから、これぐらいは苦でも何でもない。寧ろ製作を頑張って欲しい。きっとルミネさんは喜ぶだろうから。
「そういう訳で、今日はルミネさんに直接依頼に関して訪ねに来ました。才華様が話を通してくれていると思いますので、早いうちに依頼を聞いておこうと思いまして」
依頼を受けた場合、担任の先生に話を通しておかないと衣装を製作しても使用して貰えなくなってしまう。
ルミネさんも貰って来ているかも知れないが、樅山さんから依頼書の紙は貰ってきた。後は必要事項の記入さえすれば文化祭でのルミネさんの衣装を製作することが出来る。
そう思っていると、コンコンコンと扉をノックする音が聞こえて来た。
「大蔵ルミネです。受付の人から小倉さんが私を訪ねて来たと伝言を聞いたんですけど」
「はい。此方に居ります」
椅子に座っていた八十島さんは立ち上がり、執務室のドアを開けた。
その先にいたルミネさんを招き入れ、再びドアを閉めた。
「こんばんは八十島さん」
「お帰りなさいませ、ルミネお嬢様。小倉お嬢様もお待ちしていました」
「こんばんはルミネさん」
「お帰りなさいませ、ルミネお嬢様」
僕とカリンさんはソファーから立ち上がると、ルミネさんに頭を下げた。
「こんばんは、小倉さんにクロンメリンさん。私を訪ねに来たそうですけど、才華さんの依頼の件ですか?」
「はい。急ですが、なるべく早く話を進めておいた方が良いと思いまして」
「私も同感です……それじゃあ話は私の部屋でしませんか?」
「ルミネさんの部屋でですか?」
「少し才華さんの依頼の件以外で話したいこともあるんで」
「分かりました。それではお邪魔させて貰います」
僕とルミネさん、そしてカリンさんは八十島さんの執務室を出て桜の園の64階に向かった。
執務室を出る直前に八十島さんが耳打ちで、アトレさんが帰宅したらメールを送ると言われたので無言で了承の頷きをした。
……本当に何でこんなことに?
「小倉さん? どうかしたの?」
「あっ! いえ、何でもありません」
「そう? 何だかちょっと落ち込んでいるような気がしたんだけど?」
「大丈夫です。ご心配させてすみません、ルミネさん」
「そう? なら良いけど」
言えない。
幾らルミネさんでも、アトレさんとの事は言えないよ。というよりも、何て説明したら良いのか。いや、説明すること自体が嫌だ。聞かされたルミネさんも困るに決まってるよ。
内心で葛藤していると、エレベーターが64階に到着し、そのまま僕とカリンさんはルミネさんに案内されて部屋に入る。
「どうぞ」
「お邪魔します」
「失礼いたします」
僕とカリンさんは挨拶しながらルミネさんの部屋に入った。
リビングに来てみると、ピアノがやはり置かれていた。それと……上の棚に飾られているのはトロフィーや表彰状だ。数が多い。
それだけルミネさんはピアノのコンクールで入賞して来たという事だ。ただ一つ気になるのは、飾られているトロフィーや表彰状は全て最優秀賞者に贈られるものばかり。
「どうかしました?」
「あっ、いえ……ルミネさんは凄いですね。こんなに沢山のコンクールで優勝しているんですから」
「ありがとう」
「此処に在る物が全部なんですか?」
「ええ。本家の方に置いておくよりも、やっぱり見える場所にあった方が良いと思って」
全部が最優秀賞を示しているんだから、本当にルミネさんは凄いと思う。
でも……裏の事情を知っている者から見れば、この賞の幾つにお爺様の手が伸びているのだろうと考えてしまう。そんな事を考えたらいけないと分かっているのに、どうしても脳裏に考えが過ぎってしまう。
ごめんなさい、ルミネさん。
内心で謝りながら、僕とカリンさんは用意された席に座った。
「はい。これが依頼書です」
「確かに受け取りました。ルミネさんの方で用意してくれたんですね?」
「担任の先生に話したら、依頼書の説明を教えて貰って」
横に座っているカリンさんの目が一瞬だけ細くなったが、すぐに表情を戻した。
「では、後は私の名前を書くだけですね」
僕は手早く自分の名前を依頼書に書いた。
「それではこの依頼書は、私のクラスの担任の樅山さんに渡しておきます」
「お願いします。正直言って、文化祭では才華さんが製作してくれた衣装を着るつもりだったのに、それが着られなくなってしまうのは残念なので」
「必ず渡しますから、安心して下さい」
「確りしている小倉さんなら安心出来ます。うーん。これでスッキリな気持ちで文化祭に向けての練習が出来る」
「毎日の練習はどれぐらいしているんですか?」
「毎日最低8時間義務付けています」
8時間。それに加えてルミネさんは確か社長業もやっている筈だ。
ルナ様も暇さえあればデザインを描いていたけど、社長業の方は学院に通っている間は休んでいた。でも……ルミネさんは休んでいない。これは……もしかしたらだけど……ルミネさんは『感性』を養う余裕がないんじゃ。
「私はピアノの練習は素人なのでよく分かりませんけど、ルミネさんはどんな練習をしているんですか?」
「どんなって、普通の練習を。譜面を見てピアノを弾いたり。時々演奏する曲を聴いたりしてかな」
「その聴く曲を弾く人は決まっているんですか?」
「録音されているものだから、人とかいません。あっ、でも家庭教師の先生が弾くのを聴いたりはするかも」
……なるほど。ルミネさんの練習の仕方が良く分かった。
「……そうだ。小倉さん、クワルツ賞の最優秀賞受賞おめでとう」
「ありがとうございます。もしかしてルミネさんも、『クワルツ・ド・ロッシュ』を?」
「アトレさんがモデルとして出ると聞いて気になっていたから。実際、凄く良い衣装でした。思わず魅入ってしまったぐらい」
「そう言って貰えて嬉しいです」
「ただ……小倉さんの名前が雑誌に載っていなかったのが少し残念かなと思って」
「クワルツ賞の規定で決まっていましたし、それを了承してお受けした事ですから、私には何の不満もありません。寧ろ自信がつく良い機会を与えて貰えたと感謝しています」
「……小倉さんが納得しているんじゃ何も言えないか。何よりも規則で決まっている事だし。そう規則で決まっている事だから」
? 何だか自分を納得させるように、ルミネさんは頷いている。
クワルツ賞の受賞に関しては本当に不満はない。僕の実力を試せる良い機会だったし、アトレさんにも輝いて貰いたかったから。それに、あの賞で受け取ったトロフィーはアトレさんの部屋に飾られている。
……その飾られているアトレさんの部屋に、暫く行けないのは目を逸らそう。
そのまま僕とルミネさんは軽い雑談をして、部屋から失礼した。この後も練習があるそうだから、邪魔をしたらいけない。
調査員の立場もあるから、ルミネさんの問題にも深く踏み込む事は出来ない。その事を少し悔しく思う。だからこそ、解決しようとする才華様の手助けはしよう。
心の中で誓いながら、僕とカリンさんは桜の園を出て帰宅の途へとついた。
side才華
エストのデザインを描くにあたって、聞いておきたいことがある。
それは特定の質問という訳ではなく、言ってみればエストの全て。これまでの人生から思想、好み、将来の夢など、彼女を輝かせるために最も必要なものを知りたい。
地道に情報を集め続けたルミねえと違って、エストのデザインを描く時間は残り少ない。今日の質問で大体の事を理解しないと。それに……この質問でエストの悩みを知る事も出来るかも知れない。
幸いにも訪れた夜の屋上庭園には、誰の姿もなかった。何時もならこの時間帯にはいる八日堂朔莉やルミねえの姿も無い。質問するには絶好の機会だ。だから尋ねてしまおう。
「というわけで、お嬢様の全てを赤裸々に暴いてしまおうと思います」
「と、言われてもなあ」
僕がこれだけ分かりやすく説明しても、エストはまだ困り顔だった。
「モデルとするからには、お嬢様の全てを知りたいのです。そうすれば自ずと貴女を輝かせるためのデザインが脳裏に浮かんでくるでしょう」
「目的は分かったのだけどね、何から話せばいいものか分からなくて」
「ごもっともですね」
ごめんなさいと、僕は頭を下げた。
確かに少々質問の意味が抽象的だった。気が逸っていたのかも知れない。
「では私から質問をします。答えにくい質問はパスと言って頂いて構いません」
「うん、何でも正直に答えるよ、きなさい」
本当だろうか? だったら……。
「お中元にいただいた大量のゼリーが全て無くなっていました。頂いたのは2日前なのにです、食べたのは、お嬢様ですね?」
「パスで」
エストはふるふると首を横に振った。もうこの時点で犯人は分かった。
暫くエストの部屋にお菓子は置かないで、壱与に預かってもらうように頼もう。文化祭のコンペでエスト・ぽっちゃっと・アーノッツにならない為にも。
「暫くは部屋には一切のお菓子は置きません」
「オーマイガーー!?」
「これを機会にダイエットして下さい。では、次の質問です。お嬢様がデザインを始めたきっかけは?」
「普通だと思う。洋服が好きで、パパに『どうすれば服を作れるようになるの?』って聞いた時に、いろいろ教えて貰ったの」
この手のデザインを始めるきっかけの話は、エストと出会ってから何度もして来ている。淀みなく答えている事から考えて嘘はないと思う。
だから、今日はもう一歩進んだ質問をしてみよう。
「では、どのようなデザイナーになりたいですか?」
本音を言えば、エストが新しい描き方に拘っているわけを知りたい。だけど、これまでに何度聞いても『改革を試みたいの』と返されて来た。
それならもう少し範囲を広げて、その終着点の具体的なイメージが出来ているか。それを知りたかった。
それが分かればもしかしたら見えて来るかも知れない。エストが自分の本来のデザインを見せない理由が分かるかも知れない。
「私は、うーん……」
しかし、敵も流石と言うべきか。エストの答えは、誰もが口にするようなデザイナーの名前を幾人か挙げるというものだった。
なるほど、エストが名前を挙げた彼らには立派な業績があるし、その人生にもドラマがある。エストが感銘を受けてデザイナーを目指すに足る人物ばかりだ。
だけど、僕が見る限り、エストの本来のデザインが、其処へ結びつくと、僕には思えない。でもそれは僕とエストの芸術性の違いになるから、言及して許される範囲ではなかった。
上手く躱されてしまったと言わざるを得ない。僕の質問に対する回答としては充分だからだ。
「次は服や音楽の好みです。絵画や小説、趣味に関することなども聞かせて下さい」
「うん、何でも聞いて。でも、朝陽が知っている範囲のことしか答えられないかもしれないね」
エストの言う通りになった。普段から共に生活をしている僕は、その好みをほぼ熟知していた。
半年で全てを知った、というのは図々しいのだけど、たとえばデザインを描く時にかける曲は彼女の創造に関わる。
時にはモチーフについて言葉で語り、その好みを教えてもらった。同じデザイナーの道を目指す僕には、それだけで10の質問をするよりも彼女を知ることが出来る。
改めて考えてみると、エストと過ごした時間は濃密だったと気づく。だけど、それだけの濃密な時間を過ごしていながら、僕はエストが本来のデザインを隠す理由を知らない。間違いなくエストは意図的に僕に知られないようにしている。
一体何なのだろうか? 小倉朝陽には話したくなくて、桜小路才華に話せる理由とは?
その事を知るためにも質問を続けよう。
「分かりました。それでは今のお嬢様ではなく、私の知らないお嬢様についてのことをお聞きします。お嬢様の内面に関わることです。貴女のことをもっと教えてください」
「それは、なんだかドキドキするね」
これについても、過去に会話を交わしたことはある。
たとえばロンドンでよく行くお店や、故郷の好きな料理。どんな友人がいて、どんな遊びをしてきたか。
でも内面について踏み込む質問をしたことは、あまりない。対等な関係を望まれたとはいえ、従者の立場だし、心の中に罪悪感で僕は踏み込む勇気がなかった。だけど、今日は踏み込もう。
「……お嬢様は」
「はい」
「この半年の間見続けた限り、私の目から見て正しき人です」
「ほえ?」
「正しくて、強い人です。正義に敏感で、行動力があり、他人に意見する勇気があります」
それに僕は何度も助けて貰った。
「それは朝陽も同じだと思うの。貴女には正しさと、優しさと、他人を諭せる親切があると思うの」
「私が行うのはアドバイスです。求められた時にだけ、一つの言葉に千の注意を払いつつ、用心深く草を掻き分けながら進んでいます」
因みにこの用心深さに関しても、ここ最近強まったようなもので、その前は自分では用心深いと思っていただけに過ぎないと思い知らされた。
「お嬢様は正しいと思えば、その剣で草を一薙にする勇気があります。相談の出来る口を持たない友人の中には、貴女の勇気に助けられた人もいるでしょう」
その筆頭が僕だ。
「それもお嬢様の勇気は、無謀ではなく、無知な訳でもなく、その知恵のもとに振るわれます。お嬢様は頭がよく、空気を読むことができるお方です。私はそんなお嬢様を誇りに思います」
エストは微笑を浮かべて赤らめつつ、斜めに傾けた体をびよんびよんと左右に振った、僕に誉められたのが、そんなに嬉しかったのか。調子に乗らないように釘を刺しておこう。
「ですが、残念ながらお嬢様の剣は決して大きくはありません」
「……ん?」
「いえ、寧ろ剣は大きいのかもしれません。ですが、その手に盾がありません。正しき言葉を強く主張すれば、時には斬り返されることもあるでしょう。その時に身を守る術を持ちません。日本の教室では、外国籍であることが盾になっています」
ジャスティーヌ嬢もだ。彼女にはそれに加えて、旧伯爵家の出だったり、叔父がフランスの駐在官という剣と盾の両方の側面を持っている。教室で孤立しそうな気もするが、幸いと言うべきか。
同じように剣と盾を持った小倉さんがいるので、ジャスティーヌ嬢は教室で孤立しないでいる。対してエストは持ち前の明るさで教室の皆とは仲良く過ごせている。
「持ち前の明るさのおかげで、お嬢様は教室の皆様とはよく馴染めています。ですがロンドンでのお嬢様はどうしていたのでしょう? 畏れながら、アーノッツ家のロンドンでの地位は決して高いものではないと、お嬢様自身が仰られました。では、正義の剣を振るう為に、どのような勇気と盾を身につけていたのでしょう? 失礼なことを聞いているのかもしれません。もちろんパスしていただいても構いません。ですが、それを知ればお嬢様をより好きになり、良いデザインを描けそうな気がします。私がお嬢様を誇りに思う部分に関わることですから」
思っていた通り、エストは少し弱気な顔を見せた。
才華へのメールであれば話せるかもしれない。でもデザインに関わると僕が思う以上、朝陽として聞かなければいけない。だから逆に、才華として聞くわけにはいかない。
パスされても仕方ない、そのときは別の機会に聞けばいい。そう……エストとの別れの時にでも。
だけどエストも、デザインに関わることならと思ったみたいだ。僕と目を合わせないまま、こくんと何かを飲み込んだあとに小さな声を発した。
「私はね」
「はい」
「朝陽の言うような強い人間ではないよ。私の実家、それとロンドンでの生活は、何度か、少しずつ話したことがあると思うけど、とても今の教室のように、周りと親しく接することのできる環境ではなかったの」
それは予想していたので驚きはない。
4月のプールでの時に、エストが自分の家の事がバレて、落ち込んでいたのを覚えているから。
「ロンドンはとても階級意識が強いの。それに、アイルランド貴族はそれだけで立場が弱くて。同じ子爵位でも、イングランドの子爵とは比べられるものでもないくらい。私のいた学校は、特にそういった序列をはっきりさせる子が多くて」
エストは、彼女には珍しく、口をまごつかせた。この様子でもう分かった。
どうやらロンドンでの暮らしは、彼女にとって、決して良い思い出ではないのかも知れない。
「意見するなんて、考えたこともなかった。何を見ても、何を聞いても、何を言われても笑っていたの。笑っていれば、なんでも誤魔化せるから。ううん、笑っているだけならいいけど、笑って貰えた方が暮らしやすいから」
そうか。僕はようやく合点のいくものがあった。
「では、お嬢様がいつも明るいのは」
「そう見えていたとすれば、困ったときは笑っていたからだと思う」
……僕は馬鹿だ。何度も助けて貰ったのに、今更気付くなんて……。
「別に、辛いほど無理して笑っている訳じゃないよ。でも、とりあえずどうして良いか分からない時は、自分が笑うか、相手に笑って貰った方が楽だよね」
僕が知る限り、エストはどこかのんびりしていて、柔軟に、柔和に対応して暮らしていた。
その日常的な姿と、『言う時は言う』姿の、ギャップの理由は何処にあるのだろうと思っていた。だけど、その答えが今は分かった。
エストは普段から不満や愚痴が無いのではなく、それを口にするくらいなら笑って誤魔化してしまう人なんだ。
負の感情が無い人はいない。それは感覚が欠如しているだけだ、その時に舌打ちをするか、足を踏み鳴らすかの選択で、エストはかっこ悪く笑う事を選んだ。
……今のエストに似た人を僕は良く知っている。お父様だ。
あの人も何を言われても笑顔でいる人だ。以前は軟弱だと思っていたが、今は違う。笑顔でいられる強さを理解出来たから。ほんの僅かだけど、エストの中にお父様と同じ強さが宿っているように僕は感じた。
「それでも許せない時は、剣を振るっていたのですね」
「それだって、この国にいるから出来る事だよ。朝陽が『守って貰った』と言ってくれた入学式の出来事も、ロンドンで同じことがあれば、私は笑って誤魔化そうとしていたかも知れない。ロンドンにいた頃は、卑怯なものを見ても笑っていたし、自分以外の誰かが理不尽な攻撃を受けても黙っていて、その後で笑いかけた」
流石にそれはと思わなくもなかったが、エストが言う通りロンドンでは階級意識が強いのなら仕方がないかも知れない。
特にアーノッツ家は叩けば埃が出て来る家だ。他の貴族家が手を組んだり、或いは上位の家柄が動けばアーノッツ家は終わる。家族を思っているエストには、それしか選択が出来なかったのだろう。
「笑うなと手を払われても笑っていたし、その姿を周りに笑われても、それで誰も怒られずに済むのなら、より笑われるのが好きだった。面白がって、頭を叩かれた事も、蛇を握らされたこともあった。それでも自分から笑いを誘う為に、転んでみせたり、池に飛び込んだことだってあった。でも、それで笑われたら、すごく安心した」
八日堂朔莉といい、日本に帰って来てから会う女性は過去に色々経験しているようだ。
「私はそんな弱い人間なの、朝陽の方がよほど強い人間だと思ってる。もしあなたが私を強い人間だと思っていてくれたら、期待を裏切ってごめんなさい」
「それならこの国に居れば良いではありませんか」
僕が手を握ると、エストは、はっとしたように顔を上げた。
「この国に居れば強くいられるのなら、ずっとこの国に居れば良いではありませんか。自分が苦手だと思う土地へわざわざ戻る理由はありません。それが故郷であってでもです。故郷には必ず帰るものと言う人がいますが、お嬢様にとってそうでなければ、必ずしも帰る必要はありません。お嬢様が強いと言って頂けた私も、太陽の下には出られません。中には、人は太陽の下で生きる者だと言う人がいます。ですが私は太陽の無い場所でなければ生きてはいけません」
それに……。
「お嬢様は私を強い人だと言いますが、私はそれほど強くはありません。不安で圧し潰されそうになったことが何度もありました。それを救ってくれたのは、周りの人達であり、何よりもお嬢様が傍にいてくれたからです。ですから、私の知るお嬢様のままで構いません。貴女は私の誇りです。誇り高きエスト」
握っていたエストの手が、強く握り返された。
「良いデザインが描けそうな気がします。これからは、不満や悔しい事を口にしたければ、遠慮なく私に愚痴を溢して下さい」
「大丈夫。今はね、殆ど自然に笑えるようになってきたの。過剰におどける事もなくなったし……やっぱり笑って貰った方が楽だけどね。今ではすっかり自分の性格として受け入れられてる。だから本当に大丈夫なの」
「はい」
嘘は無いと思う。握っている手から伝わる温度は、温かいを超えて熱い。きっと喜んでくれているのだろうと思った。
「寧ろ、不満ではないのだけど、朝陽がこんなに優しくしてくれてる現実に困ってる。苦手な他人行儀な優しい朝陽じゃなくて、今の朝陽からは心からの優しさを感じるの。出来ればこのままの朝陽でずっと甘やかして貰えたらって」
「小手返し!」
「いたいいたいいたい! なにこれ逆らえない上に痛い!」
「はっ。申し訳ありません。甘えた顔があまりにもだらしなかったので、つい日本の武道の技を。体罰は私の意に反するものです。深くお詫びいたします」
「お詫びするなら私の言う事を一つ聞いて」
痛い思いをさせてしまったから、それは仕方が無いので頷いた。ただその前に……。
「お詫びする前に、質問をあと一つだけお許しください。お嬢様が日本を訪れた理由は、以前にプールで教えていただきました。ですが、『どうして日本を選んだのか』は尋ねませんでした。例えばフィリアに限定しても、アメリカ以外にパリ本校、ローマ校があります。それはやはり、階級意識的な要素が絡んでいるのですか?」
「うん。ロンドン以外でも、パリは外国人に厳しいって聞いたし、ローマにも伝統は残っているから。アジア圏なら、その国内での上下の意識はあっても、ヨーロッパの貴族制度には関心が薄いと思って……その中で日本は、ファッションに関する関心が強い国際的都市だから。そんな理由だよ」
「良く分かりました。お嬢様がこの街を選んでくれて良かった」
ただでさえ僕は故郷を誉められるのが好きだ。身近な人に愛して貰えればより嬉しい。
「では、お嬢様のことをよく知ることが出来たので、私はデザインに入ろうと思います。創造の力がみるみる湧いてきました。小倉朝陽、やる気マンハッタンです! では」
「こてがえしのお詫びに、私の言う事を一つ聞いて。聞きなさい」
残念、忘れていなかった。僕は観念して、エストの正面に座った。
……ただエストは、あの事を覚えているかな?
「煮るなり焼くなり無条件で許すなり、どうぞお好きに」
「えい!」
「わきは駄目です」
エストがわきをつつこうとするので、慌てて二の腕を身体につけた。その位置はパッドがずれるからいけない。
「朝陽はわきをくすぐられるの弱いの?」
「健康上の理由で駄目なんです」
真っ赤な嘘だけれど、胸がずれてしまうのはこの生活の致命傷になりかねないから、悪戯でもされることがないようにした。
「そ、そうなの。それはごめんなさい。大変なことをするところだったね。じゃあ足の裏は? そっちも駄目?」
「あ、いえ……足の裏、なら」
本当は嫌だけど、わきの話を信じてくれた上に、気を使わせてしまった負い目があるから認めてしまった。
「じゃあ、はい。出して」
「そんな、主人に足の裏を向けるだなんて、いけません」
「許します。だから出して」
かなり恥ずかしく屈辱を感じる。でも痛い思いをさせてしまったのは事実なので……ゆっくりとスカートの中が見えないように気を配りつつ、片足だけタイツを脱いでエストに預けた。
「わあ、朝陽がタイツを脱ぐところって、とってもセクシー。なんだか変な気持ちになるところだった」
「気色悪いので止めてください」
「そういう事言う子にはお仕置き、えいえい!」
んくっ!
な、なんてむず痒さ……! じつのところ、僕の肌はとても敏感で、くすぐられるのは大の苦手だった。
「朝陽が顔を真っ赤にして耐えている」
赤面が顔に出やすい表情だってことも忘れていた。八日堂朔莉への報酬で、改めて教えられたのに!
……もういい、好きにして。
「えいえい。えいえいこちょこちょ」
「んッ! ふぅっ、んっ、くぅっ……はっ、おゆるし、くだ……さい……」
「わざと色気を出してるのだろうけど、殺人的な表情だ。今日は此処までにするね」
うぅ……八日堂朔莉に続いてエストにまで犯された。この借りを必ず返したいところだけど……エストにも借りが山ほどあるので返せそうにない。でも、機会があったら……。
「手を握った時、少しドキッとしたのに、酷い事した朝陽がいけないんだよ」
「どう考えても、同じ性別の私を相手にドキッとしたお嬢様がいけないと思います」
その話題は本当に嫌だ。ただでさえアトレが最近本気で百合に走りそうになっているんだから。
「あれ、ほんとだ」
隙を見せたね、エスト。思っていたよりも、早く機会がやって来たよ。
「認めて頂けましたね。では逆襲します。お嬢様は健康的に問題がないはずなので、わきを」
「あはははははは! やめて、くすぐっ……あははははは、おゆるし、くだ、さい……」
「わきを指でくすぐるのはやめて、わきを包丁で刺します。ええと、キッチン」
「朝陽と同じ方法で許して貰おうと思ったのに!」
色気を出して哀願する事で許しを乞おうと考えたのか。
「色気が全くないどころか、寧ろ殺意が湧いたので、つい過ちを犯すところでした。ありがとうございます」
「自信なくすなあ」
「いえあの、同性ですし」
建前上は。
「でもこれでおあいこだね。じゃあデザイン楽しみにしてるね」
「あ、いえ。さっき帰ろうとしたのは冗談です。これからお嬢様の部屋を家探ししないといけませんので」
「家探し? 何で?」
「お忘れですか、お嬢様? 先ほどお中元のゼリーに関して質問した後に、暫くお菓子は禁止だと。部屋にあるお菓子は全てコンシェルジュに預かって貰います」
「そ、そんな!?」
「先ほどのお詫びの時に、この件を言って下されば中止にしようと思っていましたが、お嬢様は私を弄るのに夢中になっておられましたので」
エストの顔色がみるみる内に青くなっていく。漸く自分のミスに気がついたようだ。
「さっ、すぐに部屋に戻りましょう」
「朝陽お願い! どうか私からお菓子を取らないで!」
「駄目です。お中元のゼリーは2日では食べきれないほどにあったのに、お嬢様は食べ尽くしてしまいました。その勢いで食べ続けたら、せっかくの衣装が本番で着られなくなってしまうかも知れません」
サイズが合わなくて、コンペに参加出来なくなりましたなんて、醜聞も良いところだ。
そんな事は従者としても個人としても許せないので、僕は心を鬼にして泣いているエストを無視して部屋に向かった。
まあ、最終的に、これからは食べる量を減らすことと、勝手に食べない事を約束としてお菓子を残す事になった。ただ……文化祭後に暴飲暴食しないように気を付けよう。
この主人は良い人で誇りに思える人だが、食べ物に関しては全く信用も信頼も出来ないから。
エスト・ぽちゃっと・アーノッツ化だけは必ず阻止しようと心に誓いながら、僕は自分の部屋に戻る。
早くエストの衣装のデザインを描きたい。どんな素晴らしい世界を今の僕は描けるだろうか。ルミねえの衣装のデザインも大切だが、エストの衣装のデザインも頑張ろう。
そう意気込んで部屋に戻ってみると……。
「……あ、朝陽……さん」
「ど、どうされました……九千代さん」
明らかに憔悴し切って、今にも泣き出しそうな九千代が部屋の前に立っていた。
尋常ではない様子に、僕は慌てて九千代を部屋に入れた。
「九千代。一体どうしたんだい? もしかして、またアトレが何か?」
「……わ、若……その……」
「話してくれて良いよ。年内は距離を取るようにしているけど、緊急事態なら仕方がない。アトレが何かしたんだったら、相談に乗るから」
「……実は…実は……ア、アトレお嬢様が! 奥様に同性恋愛に関して尋ねられました!?」
「……はっ?」
一瞬、九千代が何を言ってるのか分からなかった。
お母様に同性恋愛に関して尋ねた? 誰が? アトレが? 僕の妹が?
「…………えええええええええっ!?」
ヒロインがりそなに決まったことで、朝日は余り他のヒロインの問題には深く踏み込まないようになっています。ルミネルートだった場合は、あそこから更に踏み込んだ質問をしていましたが、それは別の機会という事で。
そして遂にアトレの新たなやらかしを才華は知りました。九千代は相談するかどうか、かなり悩みましたが、最終的に自分一人では解決策が見出せなかったので相談に向かいました。果たして才華たちの新たなアトレ対策は?
それは次回で。