月に寄りそう乙女の作法2~二人の小倉朝日~   作:ヘソカン

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prologue3

side才華

 

 はぁ、まさかこんな事になるなんて。

 深夜に近い時間帯にも関わらず、僕は寝る事も出来なくてお母様の部屋で項垂れていた。

 僕の輝かしい未来の最初の一歩。『フィリア学院』への入学が難しい状況になっていた。

 と言うのも、伯父様が言うには、『フィリア学院』の服飾部門男子部が存続出来ないほどに募集が集まらなかったようなのだ。

 昨年は募集人数の三分の一にも満たなかったらしい。廃止が決定されたのは、それが決め手になってしまった。

 伯父様は僕らを『フィリア学院』と同等のレベルの学校に進学させれば良いと考え、廃止に賛成の一票を入れてしまった。

 

「あの時に入っていたら」

 

 その一票を入れた時が、まさに僕がアトリエの扉の前に立った時だった。

 悔やんでも悔やみきれない。何か他に方法はないかと思っても、寄りにも寄ってその決定をしたのが、僕が唯一苦手とする人物、大蔵家総裁殿だった。

 大蔵家には『総裁殿』と呼ばれる女性の当主がいる。世界で一番裕福な人物であり、伯父様も決定には逆らう事が出来ない。

 お飾りの当主などではなく、若年でありながらも本人の能力は高い。

 僕の叔母に当たる人物でもあるのだが、僕はあの人が苦手だった。

 会う度に『相変わらず甘えた顔をしていますね』と言われ続けるのは、結構辛い。

 僕が男子部の存続を頼みに行ったりしたら、逆に状況が悪くなるとしか思えなかった。

 

「伯父様も頑張ってくれているだろうし、僕もあの人を味方につけないと」

 

 伯父様は何とか男子部を存続させようと、今も動いている筈だ。

 だから、僕も僕なりに頑張らないと行けない。夕食が終わった後、すぐに日本にいる親戚の彼女に連絡した。

 明日には来て貰えるらしい。大きな難題が目の前にあるけど、彼女と再会出来るのは素直に嬉しい。

 大好きな僕の幼馴染と。

 

「なのに、眠れないなんて」

 

 明日の事もあるから寝ようと思ったのに、僕は眠れなかった。

 

「……水でも飲んでこよう」

 

 気分を変える意味をあって、僕は部屋から出て食堂に向かう。

 この時間では壱与も九千代も寝ているだろう。もう一人の人は、今日が初対面だったから頼み難いし。

 ……伯父様から彼女には関わるなと言われている。桜屋敷を出る前にも、伯父様は時間が無いのにアトレに会って、彼女に関わるなと告げたらしい。

 甥コンの伯父様が、僕の頼みよりも彼女を優先している事に僅かに嫉妬を覚えた。

 でも、すぐに振り払って食堂へと入る。

 そのままキッチンに進む前に、食堂の中にある椅子に誰かが座っている事に気がついた。

 

「だ、誰だ!?」

 

「……ご子息様? こんな夜更けにいかがいたしました?」

 

 その相手は、椅子から立ち上がり僕に顔を向けた。

 

「……小倉さん?」

 

「はい、私です」

 

 夕食の時に姿を見せなかった小倉さんがメイド服姿で、其処にいた。

 急に体調が悪くなったらしく、今日は休ませたと壱与が言っていたが、今僕の目の前にいる彼女を見て納得出来た。

 最初に会った時よりも、顔色が真っ青で、幽霊と見間違えそうなほどに彼女は弱っていた。

 

「こんな夜更けにどうしたんだい? 調子が悪いんだったら、部屋に戻って寝てた方が良いよ。明日もあるんだし」

 

「申し訳ありません。ですけど、明日の朝までには此処を出て行きますのでご安心下さい」

 

「出て行くって!?」

 

 言われて僕は気がついた。

 小倉さんの座っていた椅子の足元には、荷物を入れる鞄のような物が置かれていた。

 ……あの鞄? 思い出せないけど、何処かで僕は見たような気がする。

 気にはなるけど、今は何よりも小倉さんの方が大事だ。紳士として、こんな状態の女性を放って置く訳には行かない!

 

「壱与に何か言われたのかい?」

 

「いえ……自分の意思です。私はやっぱり此処から離れるべきだと思ったんです。八十島メイド長とは、元々そう言う契約でしたから」

 

「契約?」

 

「はい。桜小路家の方々がお戻りになられるその日まで、此処で働かせて貰う契約でした。そしてご子息様とご息女様がお帰りになられた今、私の中で此処に居られる理由が終わったんです」

 

 ……意味が分からなかった。

 何故僕やアトレが桜屋敷に帰って来たら、小倉さんがいる理由が終わってしまうのか分からない。

 ただ、この人をこのまま放っておくのだけは不味い事だけは分かった。

 

「……少し話をしてくれないかな?」

 

 伯父様には関わるなと言われたが、こんな状態の女性を放っておく事は出来ない。

 何よりも今の小倉さんの顔が僕は嫌だった。あの日見たお父様に似た女性が悲しんでいる事を、見逃す事は出来ない。

 僕が近づくと小倉さんは椅子から立ち上がる。

 もしかして駄目なのかと不安になった。

 

「ご子息様。何かキッチンに用があるみたいでしたけど」

 

「ああ、眠れなかったから水でも飲もうかと思ったんだ」

 

「でしたら、紅茶でもご用意いたしましょうか?」

 

「話をしてくれるの?」

 

「はい……私も少しだけご子息様に聞きたい事がありましたので」

 

 小倉さんは、キッチンの方へと向かって行った。

 僕は小倉さんが座っていた椅子の隣の椅子に座る。

 ……改めて、椅子の傍に置かれている鞄を見てみると、やっぱり何処かで見たような鞄だった。

 これに似た鞄を確か僕は……。

 

「その鞄は母の形見です」

 

 紅茶の準備が終わったのか小倉さんが戻って来た。

 形見と言われて、余り興味本意で見てはいけない物だと思い、僕は鞄から視線を逸らした。

 小倉さんは気を悪くした様子もなく、手慣れた様子で僕の前に紅茶を置き、僕はその紅茶を飲んでみた。

 

「あ! ……美味しい」

 

「ご満足頂けたでしょうか?」

 

「うん。美味しかったよ」

 

 本当にこの紅茶は美味しかった。

 僕もお父様から教えて貰ったけど、小倉さんが淹れてくれた紅茶はお父様に負けないぐらいに美味しかった。

 小倉さんは僕の言葉に僅かに嬉しそうに微笑んだ。だけど、その顔は悲しみに満ち溢れている。

 あの日見たお父様と同じ顔の人が、そんな顔をしているのは、何だか嫌だった。

 

「それでご子息様? 話とは何でしょうか?」

 

「……才華」

 

「えっ?」

 

「僕の事は才華って呼んでくれて良いって、最初に会った時に言った筈だけど?」

 

「あっ……申し訳ありません。八十島メイド長も、長年ご子息様にお仕えしている山吹さんも、ご子息様の事を名前では呼んでおりません。今日初めて会った私が、ご子息様をお名前で呼ぶのは失礼にあたります」

 

「今、この屋敷の主である僕が良いって言っているんだから別に構わないよ」

 

 この人に他人行儀でいられるのは、嫌だった。

 今日初めて会った筈なのに、そんな気が僕にはしなかった。

 もしかしたらあの日のお父様と同じ顔をしているこの人に、他人でいられるのが嫌だったからかも知れない。

 小倉さんは何かを迷うように視線を彷徨わせていたが、心が決まったのか僕を見返して来た。

 

「分かりました……では、才華様とこの場ではお呼びさせて貰います」

 

「うん。それで良いよ。それじゃ単刀直入に聞くけど……小倉さんの名前って、偽名なんじゃないの?」

 

「ッ!?」

 

 息を呑む小倉さんの姿に、僕はやっぱりと思った。

 動揺して体を震わせる小倉さんの姿に、ちょっと行けない気持ちが沸き上がって来た。

 僕はお母様と同じで、Sな部分がある。だけど、流石にこんなに弱っている女性を虐める訳には行かない。

 小倉さんが落ち着くのを待っていると、心が落ち着いたのか口を開いた。

 

「な、何故……そう……思われたのでしょうか?」

 

「僕は『小倉朝日』と言う名に覚えがあるんだ。まだ、お母様が学生だった頃、この屋敷で一番信頼していたメイドの女性の名前が『小倉朝日』。何でも伝説のメイドと呼ばれた人らしい」

 

「で、伝説のメイド……何でそんな事に……」

 

 ん?

 僕の言葉に小倉さんは顔を恥ずかしそうに、顔を俯けて体を震わせている。

 この様子だと、やっぱり僕の考えは当たっているのかも知れない。

 

「僕も詳しい事は知らないけれど、学生時代にお母様の衣装を手掛けた人はその人じゃないかって噂もある。尋ねてもお母様は教えてくれなかったけど。だけど、その人の事をお母様が大好きだったのは間違いない」

 

 尋ねた時のお母様の顔は、本当に楽しそうに微笑んでおられていた。

 その代わり、お父様の顔は何故か蒼褪めていたのが印象的だったけど。

 

「僕や妹の名前に、そのメイドの名前を名付けようともしたらしいよ。お父様が強く反対して、実現はしなかったらしいけど」

 

「……本当に心の底から感謝します、桜小路遊星様。この名前を使われていたら……もう立ち直れませんでした」

 

 小さな声で小倉さんが何か言っているが、良く聞こえなかった。

 だけど、顔色は真っ赤に染まって恥ずかしそうに体を震わせている。

 ……正直、可愛いなと僕は思ってしまった。

 

「だけど、その人は十数年前の人だ。若いままなんてありえない」

 

「……だから、私の名前が偽名だと思われたのですね?」

 

「うん、そう」

 

「……おっしゃる通り、この名前。『小倉朝日』の名前は……わ、私の……は、母の名前……です」

 

「やっぱりそうなんだ!」

 

 何処か辛そうにしながらも、僕の考えを小倉さんは肯定してくれた。

 

「お母様……親不孝な私を御赦し下さい」

 

 小倉さんは僕に背を向けて、小声で何かを呟いている。

 だけど、僕はずっと気になっていた人の血縁に会えて嬉しかった。

 

「それで君のお母さんは元気なの? お母様が知ったら、お喜びになられるかも知れないな」

 

「……その……母は……死にました」

 

「……えっ?」

 

 一瞬、言われた言葉が分からなかった。

 だけど、悲しみに染まった顔から事実だと悟る。

 

「詳しい事は家庭の事情があって話せませんが……私の母……『小倉朝日』は亡くなっています」

 

「……そんな」

 

 気になっていた人が既に故人になっている事は、ショックだった。

 何よりもこの事実を知ったら、お母様が悲しむ。詳しい事は話してくれなくても、お母様が『小倉朝日』をとても好きだったのは間違いない。

 何故それほど好きだった人を手放したのかは分からないけど、この事実を知ったらお母様は悲しまれるだろう。

 

「私も母から奥様の事はお聞きしています。ですから、奥様にはどうかこの事を内密にお願いします。奥様が悲しまれるのは、母も望んではおりませんから」

 

「……分かった。お母様には内緒にしておくよ」

 

 お母様が悲しまれるのは、僕としても嫌だった。

 それに小倉さんの様子から見ても、何か余程の事情があるのだろう。

 伯父様が小倉さんに関わるのを止めろと言ったのも、もしかしたらソレが原因なのかも知れない。

 小倉さんは僕の言葉に安堵の息を吐いた。

 

「……話を戻させて貰いますが、私の本名は『小倉朝日』ではありません。ですが、故あって『小倉朝日』を名乗らねばならない事情があります」

 

「その事情って何かな?」

 

「申し訳ありませんがお答え出来ません。例えこの桜屋敷の主人となられた才華様でも、この事情だけはお答え出来ないのです。何よりも、衣遠様に口止めをされていますので」

 

「伯父様から!?」

 

「はい」

 

 どうやら小倉さんの事情は、僕の予想以上に大きな事らしい。

 伯父様がわざわざ一介のメイドでしかない筈の小倉さんに、口止めをするぐらいなのだから。

 迂闊に割って入ったりしたら、伯父様の怒りを買いかねない。

 でも、気になるのは、小倉さんの容姿だ。

 

「?」

 

 長い黒髪に、外国人の血が入っているのか、瞳の色が紫色に見える。

 体格も華奢、撫肩、膨らんだ尻。そして身に纏っているメイド服が似合っていて、あの日のお父様をどうしても思い出してしまう。

 

「小倉さん。一応尋ねるけど」

 

「な、何でしょうか?」

 

「……まさかと思うけど、お父様の隠し子とかじゃないよね?」

 

「そ、そんな訳あるはずないじゃないですかーーーーーー!!!!!」

 

「うわ!!」

 

 いきなり大声を上げられて、僕は驚いてしまった。

 だけど、小倉さんは止まらずに僕に詰め寄って来た!

 

「桜小路遊星様には、桜小路ルナ様と言う人生のパートナーが付き添っておられると聞いています! 母から桜小路ルナ様がどれほど素晴らしい人なのかは聞きました! そんな素晴らしいお方がつ、つつつつ、妻として一緒におられるのに! 浮気なんて絶対にありえません!!」

 

「ご、ごめんなさい!」

 

 小倉さんの剣幕に、僕は思わず謝ってしまった。

 本気で怒っているのか、小倉さんの顔は真っ赤に染まっていた。

 息を何度も吐いて気を落ちつかせ、小倉さんは僕に注意して来る。

 

「……才華様。私の父は桜小路遊星様とは別の方です。今も存命しています」

 

「そ、そうなんだ」

 

「ただ、先ほども述べましたが家庭の事情のせいで、お父様とは殆ど会った事はありません。私は母の愛情だけを受けて育ちました」

 

 ……どうやら小倉さんの事情は、僕が考えていたよりもずっと重いもののようだ。

 軽はずみに立ち入ったりしてはしていけなかった。ごめんなさい、伯父様。

 貴方の言う通りでした。

 

「……そ、それじゃどうしてこの屋敷を出ようとするの?」

 

「……分かってしまったんです。私は……母から聞いたこの屋敷での思い出に、無意識に縋っていただけに過ぎなかった事に」

 

「えっ?」

 

 

 

 

 

side遊星

 

 驚いている才華様の顔を見ながら、僕は自身が桜屋敷に縋っていた事実に心が痛かった。

 八十島さんに言われて、地下のアトリエに向かい、才華様と衣遠兄様の話を隠れて僕は聞いてしまった。

 ……声を掛けようとしたら、いきなり才華様が衣遠兄様に『大好き』と抱き着く場面を目撃し、慌てて隠れてしまったのだ。

 後から考えれば、伯父への親愛の情だと理解出来たが、血の繋がっている相手が、実の兄に抱き着くのは衝撃的だった。おかげで出るタイミングを逃してしまい、しかも才華様が衣遠兄様との話を楽しんでいたので、尚更に出るタイミングが無かった。

 ……それにしても、軟弱って血の繋がっている相手から思われているのはショックだった。自分でも思っている部分だっただけに、才華様の言葉を聞く度にショックを受けた。

 思わず涙を流してしまった。

 だけど、それ以上に衣遠兄様の言葉が僕の胸に突き刺さった。

 

「私はこの屋敷に来る前に別の屋敷に務めていました」

 

「別の屋敷?」

 

「はい。私も母と同じで使用人として、とある屋敷に奉公に出ていました。其処での日々は本当に最高の日々でした。敬愛する主人にも出会え、厳しくても優しいメイド長。優しい先輩方。屋敷で過ごされる他家のお嬢様達との交流。その屋敷でずっと過ごしたいと願ってしまうほどに、私にとっては夢のような日々でした」

 

 本当に夢のような日々だった。

 あの日々を忘れる事は出来ない。

 僕の様子から、本当に幸せな日々を過ごしていたのだと悟ったのか、才華様が質問して来た。

 

「それじゃどうして桜屋敷に?」

 

「……私は忘れていたんです。私は最初からあのお屋敷に務める資格が無かった事を」

 

「えっ?」

 

 意味が分からないと言うように才華様は首を傾げた。

 

「あの屋敷で私は決して許されない事を最初からしていたんです。私は……敬愛し生き甲斐までも与えてくれた主人を騙し、危うくあの方の輝かしい未来に傷を遺してしまい兼ねないほどの罪を犯していたんです」

 

「ッ!?」

 

 才華様が息を呑んで僕を見つめた。

 だが、事実だ。あの方に、ルナ様に対して僕は許されない事をしていた。

 今でも僕を追い出した時の八千代さんの顔を思い出す。厳しくても優しかった八千代さんはいなかった。

 あの時、八千代さんは確かに僕をルナ様を傷つける外敵だと認識していた。事実そうだ。

 あの頃の桜屋敷にはルナ様だけじゃない。

 ヨーロッパでも屈指の旧貴族・ジャンメール家のご息女であるユルシュール様。

 日本の旧華族の出である花之宮家の娘である瑞穂様。

 僕の正体を知っているが、それでもお嬢様である湊。

 特に瑞穂様は男性が大嫌いで、男性が近づいただけで脅えて喋ることが出来なくなってしまうほどの方だった。

 桜屋敷には女性しかいなかった。いや、サーシャさんだけは別だったが、あの人は例外だろう。

 だけど、僕は違う。男性でありながらも女性として偽っていた僕の存在は、桜小路家に、ルナ様に必ず被害を及ぼす。

 だから、八千代さんは僕を追放したんだ。

 

「……ほ、本当なのかい?」

 

「全て事実です。これから屋敷を出る身ですので、嘘偽りは申しません」

 

 才華様に僕の正体以外を隠すつもりはない。

 寧ろ真実を聞いて、僕をこの屋敷を追い出す気になってくれるのなら助かる。

 今でも本当はあの日の出来事が夢で、実は今も本当の僕は桜屋敷で過ごしているなんて事を心の底で考えていた。

 そう、考えていた事に気がついてしまった。

 衣遠兄様の言葉に寄って。

 

『この世で最も嫌悪すべきなのは軟弱ではなく、『惰弱』だ。そう惰弱こそ、この世で最も嫌悪すべきものだ。ただ眩しき日々を懐かしみ、其処から出ようともせずに留まるなど惰弱以外の何ものでもない』

 

 僕はその言葉を聞いた瞬間、元々罅割れる寸前だった足元が崩壊する音を確かに聞いた。

 その後の事は殆ど覚えていない。気がついたら地下への入り口の近くにいて、頭を抱えて声を押し殺して泣いていた。

 才華様を呼びに行った筈の僕が戻って来ない事に気がついた八十島さんがやって来て、今日はもう休むように言われて部屋に戻された。

 部屋に戻ってからも僕は泣き続けた。自分の醜さと浅ましさが嫌になりそうだった。

 何が桜小路家の方々がお戻りになられるまで、この桜屋敷を護ろうだ。そんな考えじゃなかったのだ僕の本心は。

 心の底では、此処に居ればもしかしたら今僕に起きている出来事のような事がまた起きて、あの日をやり直せるかもしれないと思っていたのだ。

 だけど、現実はどうやっても変わらない。今確かに僕は此処にいる。

 

「……浅ましいですね、私は」

 

「えっ?」

 

「……母から聞いていたんです。桜屋敷での日々を。まるで夢のような日々だったと母は語っていました。私はきっと……此処に居れば、その日々を味わえるかもしれないなんて考えていたんです」

 

 八十島さんの提案を受け入れた本当の理由が、今才華様に言った事だ。

 だが、現在では無い。僕はずっと過去に戻りたいと願っていた。ただの過去じゃなくて、僕が追い出される直前に戻りたいと願っていたのだ。

 才華様の父親である桜小路遊星のような人生を、僕は歩みたいなんて考えていた。

 衣遠兄様の言っていた通りだ。僕の惰弱さは、嫌悪されて然るべきものだ。

 

「八十島メイド長の好意や、母が語った日々に私は甘えていました。それに気がついた今、これ以上此処にいるのは、八十島メイド長だけではなく、新たに屋敷の主になられる才華様や、アトレお嬢様に対して不誠実です」

 

「……それって、僕を主人だとは思えないって事なの?」

 

「はい……残念ながら」

 

 この桜屋敷の主は、僕にとってルナ様だけだ。

 この世界のルナ様は才華様が桜屋敷の主だと御認めになられるかも知れないが、僕には耐えられない。

 現状の寂れた桜屋敷でも耐えられなかったのだ。これから才華様の手によって変わって行く桜屋敷を見るのは、過去に縋っている僕には無理だ。

 きっと耐えられずに、何処かで壊れてしまう。

 僕には桜小路遊星のような精神的な強さが無い。現に衣遠兄様の指示に僕は従うつもりだった。

 でも、桜小路遊星はきっと乗り越えられたのだ。あの衣遠兄様の畏怖と恐怖を。

 だけど、僕には無理だ。小倉朝日、いや、大蔵遊星としての僕はもう、折れてしまっているのだから。

 きっとこの桜屋敷から出れば、衣遠兄様の部下の人が僕を捕まえるだろう。

 あの人ならそれぐらいの事をしているに違いない。

 捕まったら、衣遠兄様に連絡を取って貰って、僕としての最後の願い。

 母のお墓参りに行かせて貰おう。

 ……その後は……もう……何も考えずに……人形として。

 

「辞めさせないよ」

 

「……えっ?」

 

 才華様の言葉に、僕は驚いた。

 一瞬何を言っているのか分からなかった。

 正体以外の僕がした事を全て語ったのに、才華様は真っ直ぐにその瞳を僕に向けている。

 その瞳の輝きを僕は知っている。敬愛するルナ様と同じ力強い赤い瞳を僕に才華様は向けて来ていた。

 

「僕は小倉さんを辞めさせない。此処でこれからも働いて欲しいと思っている」

 

「……何故でしょうか? 先ほども言いましたが、私は以前の主人に酷い裏切りを行ないました。才華様には私の正体を知らせる事が出来ません。偽りでしか接せられない私を信用されるのですか?」

 

「うん。ただ僕が信用しているのは、小倉さんじゃなくて、壱与の方だよ」

 

「八十島……メイド長?」

 

「夕食の時にいなかったから小倉さんは知らないと思うけど、夕食が終わった後、壱与が僕らに頭を下げて頼んで来たんだ。『小倉さんを桜屋敷に置いて上げて下さい。あの人はもう限界寸前なんです。此処から出て行ったら、あの人は本当に終わってしまう。だからどうかお願いします』って、土下座しかねない勢いで頼んで来たんだ」

 

「……八十島さんが……私の事を」

 

「それともう一つ。この桜屋敷を小倉さんが本当に大切に思っていると僕は思っている。掃除はちゃんとされていたし、僕らを迎える為の準備もちゃんとされていた。あの夕食だって小倉さんが用意してくれたんだろう。本当に美味しかったよ。小倉さんが僕らの為に頑張ってくれていたのを感じられた」

 

「……才華様」

 

「確かに小倉さんは僕らに隠し事をしている。伯父様も小倉さんには関わるなって言うぐらいだから、よっぽどの事情があるのは分かる。それでも僕は壱与を信じる。十数年間ずっとこの桜屋敷を護っていてくれた壱与の判断を」

 

「……才華様の今のお顔……私が心から敬愛するあの方に似ています。厳しさの中にも優しかったあの御方に」

 

 ああ、この方は間違いなくあのルナ様の子供だ。

 僕が敬愛するあの御方に、才華様は良く似ている。この御方ならばきっと輝かしい未来へと進んでくれるだろう。

 

「才華様。今日はもう夜遅いので、お部屋にお戻りなられて下さい」

 

「小倉さんも僕に聞きたい事があるんじゃなかったの?」

 

「いえ……私が聞きたかった事はもう分かりました」

 

「?」

 

 才華様は首を傾げるが、もう僕には充分過ぎるほどに聞きたかった事が分かった。

 この世界のルナ様と桜小路遊星が、本当に才華様達に愛情を与えて育ててくれた事が。

 僕に促されて、才華様は椅子から立ち上がりキッチンから出て行こうとする。

 

「明日には居なくなっているなんて事はないよね?」

 

「ご安心下さい。才華様に説得されましたから。才華様……慰めて頂きありがとうございました」

 

 僕は笑みを浮かべながら、才華様に頭を下げた。

 ……どうしたんだろう? 才華様のお顔が急に真っ赤になった。

 動揺したように視線を彷徨わせて、僕に背を向ける。

 

「お、お休み!」

 

「お休みなさいませ」

 

 才華様の背が見えなくなるまで、僕は頭を下げ続けた。

 ……さて、才華様に説得されてしまったから、部屋に戻らないと。

 ああ、でも衣遠兄様が僕を屋敷から連れ出すって言っていたし、そっちも何とかしないと行けないかな。

 少しだけ、僕も桜小路遊星のように頑張ってみよう。

 アメリカにいる彼の代わりに、少しでも才華様達の助けに成ろう。

 

 

 

 この時の僕は知らなかった。

 この後に待っている悪夢に等しい出来事を。




IFルート
『もしも朝日が衣遠と才華の話を最後まで聞いていたら』

「ルナちょむ。悪いですけど、あの甘ったれを入学なんてさせませんよ。すぐに男子部廃止の通知を準備してやります……ん? 桜屋敷から電話? 可笑しい。この携帯電話の番号をあの甘ったれが知る筈がないんですけど……はい、こんな時間に誰ですか?」

『……良かった。携帯の電話番号を変えてなかったんだね。久しぶりって言えば良いのかな?』

「そ、その声は!? 何で貴方が桜屋敷に!?」

『……事情は説明するよ。だから、迎えに来て欲しいんだ。僕は逃げない。探してたんでしょう、僕の事を』

「ッ!? ……分かりました、すぐに迎えをおくります。逃げないで下さいね、下の兄」

 携帯を切ると、すぐさま部下に連絡をして迎えを送る。

「……上の兄。私に隠していましたね。まぁ、良いでしょう。ルナちょむに気がつかれないようにしなければ行けませんね。フフッ、誰にも渡しません。貴方は私のものです、もう一人の下の兄」

 この時、彼女の頭の中には直前までの桜小路ルナとのやり取りの記憶はもうなかった。
 この後に訪れた衣遠の提案も上機嫌で受け入れ、桜小路才華は無事に男子部のデザイナー科に入学する事になる。
 その影で、桜屋敷から一人のメイドの姿が消えた事を知る者は少ない。

大蔵家監禁使用人ルートが確定しました。
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