月に寄りそう乙女の作法2~二人の小倉朝日~ 作:ヘソカン
漸く八月に入りました。
秋ウサギ様、烏瑠様、獅子満月様、えりのる様、誤字報告ありがとうございました!
八月上旬1
side遊星
「それじゃあ、りそな。行って来るね」
「気を付けて行って来てください。特に今のアトレには気をつけて下さいよ」
「……うん」
出来ればその件は指摘して欲しくなかった。でも、指摘されてしまうのは仕方がないよね。
今、僕らの班が製作を行なっている場所は……桜の園のエストさんの部屋だからだ。
エストさんは約束通り、夏休みに入ってから『五日後』に型紙を完成させてくれた。僕もその前日にルミネさんの衣装の型紙を完成させて、才華さんに渡した。後は才華さんの頑張り次第だ。応援しています、才華さん。
そして完成したエストさんの型紙も、とても良かった。本人は自信なさそうだったけれど、充分な完成度だ。
現に仮縫い用の生地で製作した衣装を着たエストさんの姿は、僕を含めた班員全員が感嘆の息を漏らしたほどに綺麗だった。
やっぱり才華さんのデザインの型紙をエストさんに任せたのは、間違っていなかった。型紙そのものの出来栄えは、エストさんの実力を超えるものではなかったが、最大限のパフォーマンスは発揮されている。
何よりもエストさんのやる気と、才華さんのデザインを形にしたいという気持ちが、型紙から感じられた。
他にも広いエストさんのアトリエが、足の踏み場もないぐらいに安価な生地が散らばっていたし。この衣装を完成させたいという気持ちも感じた。
僕が型紙を引くよりも、エストさんが型紙を引くのが正解だったと心から思えた。
ただ……本格的な製作に入れば学院での作業が多くなると思っていたんだけど、予想に反してエストさんの部屋で作業をする事が多い。学院で作業するのは、本当に必要な機材を使う時ぐらいだ。
その理由としては、エストさん達が暮らしている桜の園で作業をすれば、急に飲み物や食べ物が必要になった時にコンシェルジュの八十島さんに頼めるし。或いは才華さんが作ったりする。
初日に料理の腕を見せてしまったようで、梅宮さんやジャスティーヌさんにも好評だ。因みに才華さんがエストさんの手伝いで忙しい時は、僕が作らせて貰っている。料理は趣味だと教室内で知られているので、問題なく梅宮さんとエストさんは受け入れてくれた。
ジャスティーヌさんには6月の時に、御馳走していたので此方も問題は無い。
だけど、そのせいで大半の作業をやる場所がエストさんのアトリエになってしまった。せっかくラフォーレさんの好意で、学院での作業が出来るのに。
いや、皆で和気藹々としながらアトリエで作業するのは本当に楽しい。問題があるとすれば……今、りそなが言った通りアトレさんと会ってしまう事だ。
隙あらば部屋に誘われてしまいそうで、本当に油断が出来ない。……本当に、何でこんなことに……。
「下の兄? 大丈夫ですか?」
「う、うん。だ、大丈夫だよ……そ、そういえば、例の八日堂さんの件の方はどうなのかなあ?」
話を逸らす意味も込めて気になっていた事を質問した。
僕の質問にりそなは顔色を暗くした。この反応……やっぱり駄目だったんだ。
「貴方とカリンさんの報告を聞いて何とかしようとしましたが……やっぱり今年での解決は無理そうです」
「……八日堂さんに申し訳ないね」
「はい……彼女の事は少なからず妹も気に入っているので、何とかしてあげたかったんですが、やはり入学式2日目で辞めさせてしまった件が響いています」
先月、八日堂さんから聞いた演劇の件に関しては、りそなに報告した。個人的にもあの台本の内容には思うところがあったし。八日堂さんはかげながら才華さんを助けてくれている人だ。
九千代さんから聞いた話では、何度か個人的な相談にも才華さんは八日堂さんに乗って貰っているそうだ。
そんな良い人だから、何とかしてあげたかったんだけど、やっぱり入学式2日目で教師を辞めさせてしまった事が問題となっている。
教師を辞めさせた件は、対外的にはルミネさんの報告が理事長にあってではなく、学院内にいる調査員が不正の証拠を掴んで辞めさせた事になっている。一般クラスのルミネさんの報告で身内の理事長のりそなが動いたと外部に知られたら、学院の評判が悪くなるからだ。だから、僕とカリンさんが調査員として判断したことになっている。
だけど、流石に入学式2日目でという点が大きく影響を及ぼしてしまった。
総学院長のラフォーレさんを除いて、知られないようにしていた調査員の存在が教師陣に知られてしまったので、調査がしづらくなったのもあったけど……一番の問題は出来るだけ早く対処したい問題を解決出来なくなってしまった事だ。
八日堂さんが通っているクラスの担任も、りそなとしては早く対応したいところなんだけれど、辞めさせる事は流石に出来ない。
「貴方とカリンさんからの報告を聞いて、妹も彼女のクラスがやる演劇の台本を確認しましたが……本当に言葉も無いぐらい酷かったですね……あの内容で賞が取れたとしたら、彼女一人の功績と判断されても可笑しくない台本でした」
「八日堂さんは有名な人だからね」
ちょっと変わった人みたいだけど。
「一応件の教師には、本当に大丈夫なのかと確認しました。そしたら……自信満々にこの台本なら大丈夫ですと返事を返され、妹は言葉を出せませんでした」
それは確かに困るよね。
「彼女には申し訳ありませんが、妹も既に無理やりやらかした立場にいる以上、深くは追及出来ません。もしかしたら億が一の可能性で、本当に評判が良かったりもしますからね。妹の目から見る限り、奇跡でも起きない限り好評は無いと思いますが」
「……そ、それで学院の評価は大丈夫なのかなあ?」
「他の役員達も諦めていますよ。元々演劇部門も不人気でしたからね。それで大丈夫だと思っていたところで、八日堂朔莉なんてビッグネームが通ってくるなんて思ってもみなかったレベルでしたから。とにかく、明確な失態をその教師はしていませんので辞めさせる事は無理です。文化祭での演劇が終わった後でも、その教師の授業態度の問題が無ければ、来年までは辞めさせられません」
やっぱり無理なんだ。
何とかできたら良いと思っていたけど、演劇部門を調査したカリンさんから聞いた話では、件の八日堂さんのクラスの担任には実力不足という問題点以外では、今のところ問題らしい問題は無かったそうだ。
実力不足の教師を雇っていたのは学院側だから、今更それを理由に辞めさせる事は出来ない。何よりも、八日堂さんのクラスは一般クラスだ。特別編成クラスならある程度は融通がきくんだけど……いや、それは相手が可哀想か。せめてルミネさんの件が無ければ、もう少し強く注意出来たかも知れないのに。
「と、取り敢えず僕は行くね」
「頑張ってきて下さい」
部屋を出た僕は、駐車場で待ち合わせをしていたカリンさんと合流し、車に乗って桜の園に向かった。
……何時の頃から、こうして運転手付きの車に乗って移動するのが自然になってしまったんだろう? 桜屋敷にいた頃に、歩いて買い物に行った頃が懐かしい。
side才華
「あー……」
昨夜は結構遅くまでルミねえの衣装の製作を行なっていて、朝の起床時間に起きられるか心配だったが、何とか起きられた。
そのまま寝起きのメールをチェックすると、お父様とエストからメールが来ていた。
お父様の方は、改めて夏に日本に来れない事への謝罪だった。この事に関しては事前にお母様から連絡が届いていたので問題は無い。……問題は無い筈だ。
よくよく考えてみると、お父様は毎年必ず大蔵家で行なわれる年に二回の『晩餐会』には出席していた。コレクション時期で仕事が忙しくてもだ。お父様は桜小路家の人間だが、同時に血の繋がった大蔵家も大切に想っている。
そして伯父様を始めとした大蔵家の方々もだ。特に総裁殿がどんな反応をするか、考えるだけで怖いよ。
……此方は今は取り敢えず考えないようにしよう。それよりもエストからのメールだ。
『才華さん、こんにちは』
うん? ……才華さん?
随分と親し気な呼び方を。以前までのメールからは、桜小路才華に対する嫌悪感が感じられていた。実際、朝陽としてエストと話している時にも桜小路才華には強い嫌悪感を感じていた。なのに、メールとはいえ、親し気に名前を書くなんて。
……喜ばしい事の筈なんだけど……何れ真実を話す時の事を思うと気が重くなってしまう。いや、今は、それよりもメールを読むのを進めないと。えーと、なになに。
『私は今学院で、朝陽を含めた七名と共同製作をしています。朝陽が私の為に描いてくれたデザインは、それはもう素敵な出来で、彼女と私の素敵な関係を表しているようで、余りにも素敵なデザインなものだから、私が(多分素敵な)型紙を引きました。今や朝陽の心は、完全に貴方の下を離れて、私に傾いたと言って良いでしょう……それと班には貴方も良く知っている小倉朝日さんもいます。悔しいでしょう? だけど朝陽は返しません。ざまあみなさい。おしりぷぅ』
……ごめん、エスト。自慢したいのは、何となく分かるんだけど、実は君の型紙を見る前に小倉さんが持って来てくれた型紙を見て感動していたんだよ。
勿論、エストの型紙も良かった。実力を超える出来ではなかったが、最大限のパフォーマンスを発揮していたのは確信を持っている。だから、全員から型紙の許可を得た後で、人前で仮眠をとってしまっても怒らなかった。『ありがとう』と寝息を出しながら、眠るエストに僕の手で毛布を掛けながら伝えた。
だとしても、僕の心が君に傾いている訳ではない。僕の心は僕のもののままだ。寧ろもうちょっと自信を持って、型紙の完成度を報告して貰いたかった。あのジャスティーヌ嬢だって『良いんじゃない』と言ったんだから。
今のところ文化祭でのコンペの衣装の製作は順調だ。生地の裁断も済み、縫製に入ってる。此方の製作は、僕の予想を超えて順調だ。これなら8月の半ばまでには完成してしまうかも知れない。
対してルミねえの衣装の方は、漸く裁断まで終わったところだ。仮縫いは終わっている。
ただルミねえ本人が着るんじゃなくて、ルミねえのサイズに合わせたボディを用意して貰って確かめる事になってしまったのが残念だ。昼間は僕もエスト達との衣装製作が忙しかったし、ルミねえの方もピアノの練習や会社の方が忙しくて会う機会がなかった。
なら、夜にと思うが、夜は夜でルミねえの帰りが遅くて、待っている間に製作時間が減ってしまう。それなら、ボディを用意してやるしかなかった。
エストの時のように仮縫いとはいえ、直接着ているのを見られないのが残念でならない。
おっと、ルミねえの衣装も大切だが、そろそろエストの部屋に行かないと。
「いせたん。其処縫う場所がズレそうになってるよ」
「えっ! あっ! ほんとだ。教えてくれてありがとう、ジャス子」
ジャスティーヌ嬢の指摘に、梅宮伊瀬也は慌てて修正に入った。
彼女は仮縫いのドレスを見て以来、俄然、製作に積極性を示していた。エストの型紙が完成してからの当初は、梅宮伊瀬也がこの部屋へ来る頻度が上がった事に『困ったな』と思っていた。だけど梅宮伊瀬也はアトリエに篭り、手が空いているエストに教わりながら黙々と縫製に従事している。
おかげで接待する時間が少なくなって、僕も縫製に集中出来るから助かった。他にも、予想外の人物がやる気を見せてくれた。
「気を付けてよね。この衣装は伯母さまも見るんだから。下手な衣装なんて出す気無いからね、私。白い子も黒い子みたいに、縫製頑張って」
予想外の人物。ジャスティーヌ嬢は言い終えると共に、自分の手元にあるミシンを動かして縫製を再開した。
……まさか、此処までジャスティーヌ嬢がやる気を見せるとは思ってもみなかった。てっきり、エストが型紙を引いていた時のように、縫製が本格的に始まってもソファーの上でゴロゴロしているとばかり思っていた。
「ジャス子がこんなにやる気を見せるなんて、思ってもみなかったよ。どうして最初から今みたいにやる気ださなかったの?」
同じ疑問を梅宮伊瀬也も抱いたようだ。
ジャスティーヌ嬢は、作業する手を止めた。
「何でって、型紙が出来ないと何も始まらないからに決まっているでしょう」
「あっ。そうだよね」
納得したように梅宮伊瀬也は頷いた。
「それよりも無駄話してないで、さっさと進めるよ。黒い子とカトリーヌに任せっぱなしに出来ないからね」
「小倉さんとカトリーヌさん、縫製上手だよね。凄く綺麗で、丁寧で、二人とも尊敬しちゃうな」
話題になったその二人は、真剣な面持ちでミシンを走らせている。
あの様子だと、梅宮伊瀬也とジャスティーヌ嬢の会話なんて耳に入っていないかも知れない。
「……してるくせに」
ん? 今なにかジャスティーヌ嬢が呟いたような?
目を向けてみると、ジャスティーヌ嬢は梅宮伊瀬也に冷めた眼差しを向けていた。何故そんな視線を彼女は、梅宮伊瀬也に向けているのだろうか?
小倉さんだけじゃなくて、カトリーヌさんの事も誉めてくれたのに。
縫製という作業は、型紙以上に感覚の入る余地が少ない。勿論、どの職種でも同じように『極めるには』デザイナーやパタンナーと同じく、一級のセンスがいる。
ただ、上達するのには練習あるのみという点では、型紙以上だ。そして、名前が世間に出ないという点でも同じだ。
例えるならデザイナーが戦略家、パタンナーが軍師、進行管理が司令官なら、縫製班は実際に戦う人々だ。大将軍から兵卒までいるものの、現場で剣を振るう人々だ。
カトリーヌさんが休み時間にデザイン画を描いていることを考えても、彼女は縫製という前線で戦いたくて服飾の世界にいるんじゃない。その技術を尊敬されても、カトリーヌさんは素直に喜べないだろう。
対して小倉さんの方は、既に自分の中で答えを出しているのかも知れない。
学院で授業を受けている時の小倉さんは、鬼気迫るという言葉が相応しいほどに貪欲に服飾を学んでいる。デザインの授業の時はちゃんとデザインを描いているが、それ以外の授業の時は積極的に紅葉に質問していたりしている。
カトリーヌさんと違う意味で、小倉さんも必死に服飾の世界にいる……いや、この場合、戻ろうとしているという方が正しいか。
それを純粋な目で『凄い!』と言える梅宮伊瀬也は、何も知らないが故に、人をやる気にさせる才能がある。全てが前向きのままに、叶わない夢を諦めさせ、現実を見させる事が出来る人だ。
「私も、大津賀さんも、エストさんだって、小倉さんやカトリーヌさんに教わりながら縫ってるよ。二人とも刺繍も編み物も出来るんだって言ってた。本当に何でも出来るよね」
「黒い子はともかく、何でも出来るなら、デザイン描かなくちゃ意味ないでしょ」
「そうだけど……そういう言い方ないんじゃない? 今は、縫製の話をして……あれ? 小倉さんはともかくってどういうこと?」
「言葉通りの意味。黒い子はもうデザイナーになるの諦めてるから」
「そうなの?」
「そうだよ。それにずっと見ていてちょっと可笑しいなって思ったところもあったし」
「可笑しいというのは、どういう部分でしょうか?」
従者の身分としては、失礼だが思わず質問してしまった。何か、ジャスティーヌ嬢は小倉さんに関して気がついた事があるようだ。
僕の質問にジャスティーヌ嬢は気分を害した様子も無く、自分でも違和感を感じているのか、ちょっと眉を寄せながら答えた。
「黒い子って、なんかやり方が古く感じるんだよね」
「やり方が古いですか?」
「そっ。最初は気のせいかなって思ったんだけど、今のやり方よりも古いやり方の方が慣れているって感じで」
「それって、小倉さんがずっと前から服飾をやっているって事じゃないの?」
……いや、違う。梅宮伊瀬也は小倉さんの事情を知らないから、今みたいな事を言えるが、事情を知っている僕からすればジャスティーヌ嬢の疑問は正しいと感じた。
現に……こう言ったら失礼だが、4月の頃に小倉さんが描いたデザインは、かなり流行遅れの印象を感じていた。
「それ多分違うよ。黒い子のはカトリーヌのように年齢を重ねてやって来た感じじゃない。年齢重ねてやって来たら、それに合わせて技術が上がっていくもの。だけど、黒い子は違うの……何って言ったらいいのかな……まるで古いやり方しか学んでなかったのに、急に今のやり方を学び直してる? そんな変な印象を感じたの」
ふむ……思っていた以上に興味深い話をジャスティーヌ嬢はしてくれた。
恐らくこの印象をジャスティーヌ嬢が感じる事が出来たのは、クワルツ賞の時に小倉さんの作業をずっと見ていたからだ。パッと見たり、自分の作業に集中しないといけない状況じゃ気付けなかっただろう。
しかし、やり方が古いか。以前、ルミねえから教えて貰ったが、小倉さんは大蔵家で過ごしていた頃は、母親である『小倉朝日』さんから服飾を教えて貰っていたらしい。そのやり方を今も大切にしているという事なら、疑問の答えも見えてくるか。
……何となくだが、違和感を覚えてしまうけれど。
「でも、二人とも本当に真面目だよね。どんな面倒な部分を任されても、嫌な顔なんて一度もした事無いよ」
「当たり前だよ、好きでやってるんだから。カトリーヌだって好きでやってなかったら、こんな東の果ての国まで来たりしないでしょ」
「だから、そういう言い方ないじゃない。小倉さんのようにカトリーヌさんだって認めてあげてもいいのに」
「認めてるよ。でなきゃ追い返して、パリから別のメイドよこしてるよ」
「えっ?」
「やりたいことをやる為に、自分の出来る事をしなくちゃいけないのは当たり前だよね。それすらしなかったら、機会さえ与えて貰えないんだから。何もしないでやりたいことやれるのは、私みたいな才能ある天才だけだよ。仕方ないよ。みんな私が良いって言うんだから。それでも使われたければ、しがみついて、やり続けるしか可能性ないでしょ。あの子、自分に出来る事はなんだってするよ。便利だよね。喜んでなんでもしてくれるんだから。あの子は嬉しいんだよ、私に使われて。だから認めてるよ。便利だって」
「そういう言い方……」
梅宮伊瀬也は注意しようと思ったのだろうけれど、結局は思い留まった。
ジャスティーヌ嬢の持論の正否はともかく、何時になく饒舌に話していること自体が意外だったのだと思う。僕もそうだ。
僕らが考えているような形とは違うが、ジャスティーヌ嬢はカトリーヌさんを大切に想っている事だけは確かだと分かった。
もう話すことは無いと言うようにジャスティーヌ嬢は作業に戻ろうとする。だけど……。
「12時です。昼食の準備が出来ました」
カリンがアトリエの中に入って来て、昼食の時間を告げた。
「ああ、もう! いせたんが余計な話をしてくるから、終わらなかったよ!」
「ご、ごめん」
流石に自分が悪いと分かっているのか、梅宮伊瀬也は素直に謝った。
因みにカリンの作業での仕事は大体後片付けか、今のように休憩時間の準備だ。小倉さんのメイドという立場にいるから、本来なら家柄の低いアーノッツ家のメイドである立場にいる僕が接待しないといけないのだが、本人がその役回りを率先してやっている。
まあ、簡単に言ってしまえば、カリンは服飾に興味が無い。本来、彼女の役目は学院の調査だ。小倉さんに仕える事にはやる気はあるようだが、服飾という世界には興味が無い。だから、雑用的な事を率先してやってくれている。
それだけでも助かった。おかげで僕も作業に集中できるから。
「あ、もうそんな時間? 全然お腹空いてないから気付かなかった」
非常に珍しいこともあるね、エスト。
……そう言っていながら、何時も沢山食べているのに。
小倉さんとカトリーヌさんも作業の手を止めて、僕らはダイニングに移動した。
チラッと、二人の作業を見てみたが、凄く綺麗に縫製されている。やっぱり凄いな、この二人は。
side遊星
「他の皆さんの製作状況はどうなのでしょうね?」
エストさんの疑問は当然だ。
僕らの班は、経験者がいるから良いけど、他の班の人達は大半が素人だ。きっと皆、悪戦苦闘しているに違いない。
「私、昨日温井さんや遊佐さんに会ったよ……皆、大変だって言ってた。夏休みなのに、毎日学院に集まって樅山先生に見て貰いながら作業してるって」
やっぱり、大変な事になっているようだ。コンペに出せるような衣装を製作しないといけないんだから仕方ないよね。
でも、樅山さんが協力してくれているんだから大丈夫だと思う。容姿のせいで侮られてしまっているけど、樅山さんの実力は確かだから。
「お休みなのによくやるよ。日本人って不思議だね」
「ジャス子もやってるのに。ちゃんと参加してるって言ったら、みんなジャス子のこと見直してた」
「実力を認めてない子に見直されてもなあ……」
ジャスティーヌさんは呟きながらサラダを口にした。一緒にアトレさんの部屋で食事していた時も、野菜を良く食べていた。
お肉も食べるけど、野菜の方を好んでいるからベジタリアンなのだ、ジャスティーヌさんは。
「でも、大変なのは本当みたいだよ。エストさんや小倉さん、それとジャス子達みたいに、何度も衣装を作ってる子なんて他に居ないよ。私達の班のこと、皆、羨ましいと思ってるんじゃないかな? 私だって、小倉さんやカトリーヌさんが教えてくれるからついていけてるけど、最初はどんな順番で縫えばいいのかもわからないし……」
「縫い方なら聞いていただければむぐぅ」
才華さんが慌ててエストさんの口に豚肉を差し込んだ。
……今の行動に思うところが無い訳じゃないけど、こうして作業する時以外に教えるのは不味い部分があるのは確かだ。本来なら教師である樅山さんが三年間かけて教える事だから。
桜屋敷にいた時、服飾に関して素人の湊だって、本格的に学院に通うようになってからは、僕じゃなくて八千代さんに質問していた。今の才華さんの行動は、エストさんに自分の為に時間を使って貰いたいという事だろう。
「皆さん、頑張っているんですね」
「うん。年末のショーだって、一般科の子達に負けたくないってみんな言ってるし」
……パル子さんの一件以来、なりを潜めたと思ったけど、やっぱり特別編成クラスと一般クラスの溝は埋まっていないようだ。
純粋な競争という事なら、僕も受け入れられるが、怨恨や悪意が入って来るなら見過ごせない。幸いにも今の梅宮さんの言葉からは悪意のようなものは感じられなかった。その事に安堵する。
「いせたん、さっきからやる気ある口ぶりだけど、結局、工程表作るの黒い子と白い子の意見を聞きながら作ったよねー」
「それは仕方ないと思うの。誰だって物事を始める時は、人に教わりながら行なうものだから」
「何時か自分で書けるようになるといいけど」
「成れると思います。だって、梅宮さんは作業をしている間もずっとメモを取っていました。そういう細かな部分は、必ず力になります」
「そうだと良いなあ」
梅宮さんは自分がメモをとったタブレットをいじりながら呟いた。
「お嬢様、良かったですよねー……楽しそうで」
「ウメミヤさんが楽しそうなのですか?」
「楽しそうですよー。毎日、部屋へ戻って進行具合を確かめては、にこにこしてますしー」
「だって朝陽さんの衣装ではあるけど……一つのものが出来上がっていく過程って、見てると楽しいよね」
その気持ちは良く分かります、梅宮さん。
「今は生き生きしてますよねー。入学前は自分が本当に打ち込めるか心配されてましたけどー、デザインに自信が出せなくて悩んだりもしてましたけどー、今は見てて安心出来ますよー」
「心配とか、悩むとか、実力つけてからにしよーよー」
「いいじゃない、僅かながら先にこの道へ入った人間として応援したい。私も辿った道だから」
良い事をエストさんは言っているんだけど、言われた梅宮さんは軽く苦笑いをしている。
残念ながら教室でのエストさんのデザインの実力は、クラスで最下位だ。本当のエストさんの実力が明らかだったら、言葉に説得力があった。でも、梅宮さんには最下位だと認識されてしまっているから、言葉に説得力が無い。
本当のエストさんは、実力があるのに。でも、口止めされているから言う訳にもいかないし。
「さ! それじゃ昼食も済んだし、午後の作業やろっか!」
「え、もう? てゆか、最初からそんなに飛ばしていたら、後半でバテるよ?」
「バテてもいいように、前半から飛ばすんだよ。私、夏休みの宿題は最初に終わらせるタイプ」
……もしかしなくても、梅宮さん。ジャスティーヌさんの言葉を勘違いしているんじゃ?
ジャスティーヌさんが言ったのは製作の方なのに、梅宮さんは夏休みの宿題全体の事を言っているのではないだろうか?
此処からの作業は本当に大変になって来る。勢いのままにやっていると、作業でミスをしかねないのに。
現にジャスティーヌさんは呆れたというように、溜め息を吐いている。
……忠告した方が良いかな?
「何だったらジャス子さんは休んでいて良いよ? 後半に頑張ってくれるみたいだから」
「なにその嫌味。私より家柄下のくせに」
「いつか王子様に嫁入りしようと思うの、ウフフ」
ジャスティーヌさんの家柄は旧伯爵家だ。それと同等の身分の相手にエストさんが嫁入り出来るのかなあ?
出来るんだったら、こんなに苦労していないのに。
「あー……あの、エストお嬢様と小倉お嬢様にお願いがありまして」
「え、私?」
「私もですか?」
「はい」
梅宮さんじゃなくて大津賀さんにお願いされるなんて、珍しいなあ。
主人の梅宮さんも驚いている。この様子だと、梅宮さんが何か指示をしたわけではないようだけど、一体何だろうか?
「私と小倉さんにお願い? なんでしょう」
「お二人ともジャスティーヌお嬢様と、仲が良いではないですかー」
「黒い子はともかく、アーノッツの子とは別に仲良くないよ。私に対して図々しいだけだからね?」
「それならうちのお嬢様にも図々しくなっていただけるとー」
「えっ?」
「うちのお嬢様、型紙の勉強させて貰ったことが嬉しくて、夕食の時に良く言っているものですからー」
「え、え? あの、別に呼び方とか喋り方とか気にしてないよ?」
「あ、ううん、そういう事なら。いせたんさん。うん、これで」
エストさんの呼び方に梅宮さんの頬が少し赤くなった。喜んでいるようだが……困った。
基本的に僕は小倉朝日の時は敬語ばかり使っている。普通に話したりしたら、大蔵遊星の地が出てしまうからだ。
それにあだ名で誰かを呼んだ事もない。湊の事だってそうなんだから。
「……申し訳ありません。私、基本的に誰に対しても敬語で話すように教育されて来たので。あだ名とか呼ぶのも苦手ですので」
「あ、そうなんだ」
残念そうにされてしまった。
「ただ、これからは梅宮さんの事は伊瀬也さんと名前で呼ばせて貰います」
「うん! 良いよ!」
良かったあ。何とかなったよ。
「私の付けたあだ名が馴染んで良かったね、いせたん」
「あ、うん、ありがと……でもそれなら、小倉さんはともかく、エストさんにもあだ名が欲しいね?」
「私にもつけてくれるの? やったあ、可愛いあだ名を付けてね」
「では私から、エストンというあだ名を提案します」
才華さんが呼んだあだ名を聞いて、思わず椅子からずり落ちそうになってしまった。
似たようなあだ名で呼ばれている相手を僕は知っている。い、いや! それよりも早く今のあだ名を止めないと!
「エストン。うん、いいんじゃないかな。可愛いよ」
「エストンね。じゃあ私もそう呼ぶよ」
だけど、僕が止める前にあだ名が定着してしまった!
才華さん! なんてあだ名を女性のエストさんに付けるんですか!? いや、湊にりそなが付けた『ミナトン』というあだ名を止めなかった僕が言えた事じゃないけどさ!
それよりもエストさんも認める前に忠告しないと。
「あ、あの……」
「エストン。可愛くて、良いあだ名を付けてくれてありがとう、朝陽」
……もう無理だ。エストさん本人まで才華さんが付けたあだ名を認めてしまった。しかも喜んでいるみたいだし。
僕に出来るのは、せめて真実を知った時にエストさんがショックを受けない事を祈る事だけだ。だって、『トン』の意味って……豚の事だろうから。
女性に付けるあだ名じゃありませんよ、才華さん。
朝日のイベントは中旬ごろにやります。上旬はとりあえず後、一話か二話で終わる予定です。
つり乙や乙りろのキャラ達も出て来ますので、楽しみにしていて下さい。