月に寄りそう乙女の作法2~二人の小倉朝日~ 作:ヘソカン
ですが、漸く納得出来る話をかけました。
烏瑠様、秋ウサギ様、えりのる様、誤字報告ありがとうございました!
side才華
「凄くドキドキしてる」
HRが終わった後、僕らの班員以外誰もいない教室で、梅宮伊瀬也は落ち着きなくうろついていた。
学院の文化祭とは言え、服飾のコンペに参加するなんて初めての経験だろうから緊張してしまうのは仕方ない。
他のクラスメイト達は今頃、やって来た家族を案内している頃だ。彼女達の作品もコンペに出るから、きっとコンペの会場は賑わう事だろう。
因みに教室に来てから改めて梅宮伊瀬也に確認したところ、彼女の母であり顔も知らない僕の伯母は本日の学院祭にはやっぱり来ないそうだが、彼女の父である梅宮の伯父様が親戚の子を連れて午後から来るらしい。
……正直かなり頭が痛い。出来るなら梅宮伯母様のように梅宮伯父様も、文化祭には来ないで欲しかったけど、娘の文化祭だ。親としては来てもおかしくない。
梅宮の伯母様ばかりに気を取られ過ぎていた。しかし、何よりの問題は……僕が梅宮の伯父様の顔を知らない事だ。
幼い頃に会ったような気もするけど、会ったとしても10年以上前の話だ。顔を思い出せる筈が無い。
まあ、多分向こうも同じだと思う。何よりも今の僕は女装しているからバレない筈だ。
ただ警戒は忘れないようにしよう。一応アトレと伯父様にもメールで連絡しておいた。
梅宮伊瀬也には悪いけど、会場で家族も一緒に座ると言われたら離れるようにしよう。尤もその前にエストがちゃんと舞台に立つまで見張るつもりだから、一緒に座れないだろうけど。
このままエストがメイク室へ入るまで、班員全員が教室にいるのかなと思っていたら……。
「小倉様。衣遠様からメールが来ました」
「っ! ……分かりました」
席に座っていた小倉さんが真剣な顔で立ち上がった。
「梅宮さん。お父様から呼ばれたので、私は此処で失礼します」
「う、うん」
流石に伯父様からの呼び出しとなれば、行かざるを得ない。
「エストさん。今日のコンペ頑張って下さい」
「うん。必ずコンペに出るから、小倉さんも大蔵衣遠さんと一緒に見に来てね?」
「はい」
笑顔で小倉さんは返事をすると共に、カリンを伴って教室から出て行った。
尤も、カリンは小倉さんとは途中で離れてエストの見張りに戻って来るだろう。
……しかし、今のエストの言葉。僕にはまるで自分に言い聞かせているかのように聞こえた。僕の考えすぎかもしれない。
でも、今のエストの言葉が本心から出たものなら、心から安心出来る。コンペに出るまでは警戒は続けるけどね。心の底から信じられなくて、ごめん、エスト
「黒い子も行ったから、私もそろそろ行くね」
「ジャス子まで!?」
「今日はパリから伯母様が来るの。私はその相手で忙しいから、コンペの方は任せたよ。代わりに表彰でもされたらリーダーのいせたんと、モデルのエストンが立てば良いよ」
いや、元々班のリーダーとモデルが立つ事は決まっている事だから。
そんな決まっている事を条件にして納得するほど甘くないんじゃ。
「そ、そんな。私、大したことしてないのに、壇上に立つなんて悪いよ」
……甘くて、ちょろかったようだ、梅宮伊瀬也。
言ったジャスティーヌ嬢本人も困ったように眉を寄せているよ。
「超嬉しそうなんだけど……」
「わっかりやすー」
「そんな、他の皆は大げさに言っても良いけど、私なんて大したことなんてしてないのに、それほど楽しみにしてることなんてないよ。ドキドキはしてるけど」
「もう素直に、優勝狙ってるって言えば良いと思うよ。まっ、私も優勝狙えると思ってるけどね。せっかく伯母様がわざわざ日本にまで来てくれるんだから、私達の班が一位を取るところを見せたい」
「ジャスティーヌ様の伯母様。電話で楽しみにされていましたます」
……ますます不味い。これでエストが本当に双子の姉とモデルの入れ替わりをしたりしたら、伯母に会えることで機嫌の良いジャスティーヌ嬢が一転して、怒りに満ちた暴君になってしまう。
総合部門の参加の話どころじゃない。伯父様の言う通り、大変な危機だ。
「じゃあ、行くから」
「うん、伯母さんに宜しくね」
悩んでいる間に、ジャスティーヌ嬢はカトリーヌさんを伴って教室から出て行った。
出て行く時にかなりウキウキした表情をしていたから、余程件の伯母様に会えるのが楽しみなのだろう。
ますますモデルの入れ替わりなんて、エストの為にもさせる訳にはいかないよ、
「本当に優勝なんてしたらどうしよう。コメントを考えておかないと。ドキドキするなあ」
「リハーサルの段階だと、モデルでは圧勝でしたからねー」
服飾のコンペはモデルが良ければ優勝が決まるという訳じゃないけど、確かにリハーサルの段階ではエストが一番目立っていた。
「上級生も、先生達も、皆見てたもんね。遠くから目にするだけなのと、舞台の上で注目されるのだと。全然違うなって思った」
「そんな、私が綺麗だなんてことはありません。朝陽に負けてないだなんてことはありません。いつも朝陽ばかり皆見ているけど、一人になれば私も負けてないだなんてことはありません」
照れているのかそうじゃないのかハッキリしてくれ。
いや、それよりも何よりも、モデルの入れ替わりをするのかしないのかハッキリさせてほしいよ。
「此方に朝陽さんはいるかな?」
教室の扉が開き、僕にとっては懐かしきメイド服姿をした紅葉が入って来た。
……えっ? 何で桜屋敷のメイド服を? 思わず唖然としてしまった。
僕だけじゃなくてエストも、梅宮伊瀬也と大津賀かぐやも驚いている。
と、とりあえず僕の名前が呼ばれた事だし、代表して質問してみよう。
「も、樅山先生……その恰好は一体?」
「こ、これはその……デザイナー科教師の企画で、学食で仮装喫茶店をやっているんだけど」
この場には僕だけじゃなくてエスト達もいるので、教師を貫いて、普段通りの喋り方をしていた。
「他の皆は仮装用のメイド服や燕尾服なんだけど、私だけ昔本職のメイドだったから、その頃の服を着せられて。酷いよね」
「いえ、とても似合っています」
「朝陽の言う通り、とてもお似合いです」
「その……私も似合っていると思います」
「本職ですけどー、お似合いだと思います」
「皆酷い! 私もう30代だよ! メイド服は似合わないよ!」
と言われても、桜屋敷に勤めていた頃と全く変わっていないからなあ。それに30代でメイド服がどうとか言ったら、アメリカにいる八千代や、40代なのにメイド服を着ているカリンとかどうなるんだろう?
2人ともメイド服が似合っているよ。
「恥ずかしいなあ。恥ずかしいなあ。早くコンペ始まらないかなあ」
「そういえば樅山先生。デザイナー科の先生方が仮装喫茶をされているんだったら、コンペの方はどうなるんですか?」
「あっ、そうだよね。確か樅山先生が司会進行をリハーサルでやってたし。エストンの言う通り、どうなるんですか?」
「勿論、コンペの司会進行もやるよ。仮装喫茶の方は交代制だから」
なるほど。しかし、これはまた懐かしい姿を見られた。余裕があったら写真を撮らせて貰って、壱与に見せたかった。
……でも、残念ながら今は懐かしんでいる場合ではない。
「それで樅山先生はどうして此方に? 朝陽に用があるみたいでしたけど?」
「あっ、そうそう。朝陽さん、少し良いかな? 総合部門の参加に関する事で少し話があって。文化祭中で悪いんだけど、すぐに終わるから」
「分かりました。では、お嬢様、少し行って来ます」
「うん。気を付けてね。私はいせたんさんと大津賀さんと此処で待ってるから」
……まだコンペまで時間があるとはいえ、入れ替わるチャンスなのにその様子がない。
これは……違うのだろうか? 僕らの思い過ごし?
……いや、エストがコンペの舞台に立つその瞬間まで警戒を緩めたら駄目だ。
紅葉と共に教室から出て周囲を見回す。幸いというべきか、僕らの教室がある階では、模擬店などは開かれていないので人通りは殆どない。だから、教室の扉が見える位置で話す事が出来る。
……後、良く見回してみると、廊下の曲がり角から教室を監視するように覗いている薄い金髪の女性。カリンがいる。
どうやら小倉さんと別れて戻って来て、エストの監視に入ったようだ。
おかげで、少し紅葉との話に集中しても問題は無い。ただ会話の内容を聞かれるのは不味いので、少し教室から距離を取る。
「エストさんは教室にいるようですね」
「うん……紅葉も伯父様から聞いてるんだよね?」
「正直信じたくない気持ちはありますけど、情報源が衣遠様ですから。あの方が確証のない事を言うとは思えません」
だよね。これが他の誰かからの情報ならともかく、尊敬する伯父様からの情報だ。
確証のない話なんて伯父様がする筈が無いから、エストが過去に双子の姉と共にモデルの入れ替わりをしていたのは、認めたくないけど認めるしかない。
「……一応聞くけど、直前でのモデルの入れ替わりは……」
「駄目です。モデルの変更はリハーサル前までです。他の生徒も同じなんですから若達の班だけを特別扱いなんて出来ません。出来るとしたら、モデルの順番を変えることぐらいです。それも特別編成クラス内での順番ですけど」
コンペにモデルが出場する順番は、先ず1年の一般クラスの生徒達から始まり、次に1年の特別編成クラス、後は同じように2、3年生と続いていく。
その中でモデルの名前順に舞台に上がって行く。僕達の班のリーダーは、梅宮伊瀬也なので、名前順で行くと僕らのクラスでは一番最初に舞台に出る事になっている。
「進行を遅らせるのは無理なので、私が出来るのは開始ギリギリ前まで控室を見張る事と、今言ったように若達の班の順番を若達のクラスの順番で最初から最後に変えるぐらいです」
「それだけでも助かるよ」
本当はそれだっていけない事なのに、してくれる紅葉には本当に感謝だ。
でも、一番良いのは順番を変えずに舞台に立つ事だ。紅葉の立場が危ないし、何よりも総学院長が怪しむ。
彼は間違いなく僕らの班の衣装に注目している筈だ。元々才能に興味を持っている僕だけじゃなくて、小倉さんとジャスティーヌ嬢も製作に関わっているんだから。
些細な事かも知れないが、出来るだけ彼に隙を見せたくない。
「壱与から連絡は来ていると思うけど……エストのお姉さんらしい女性が今、桜の園のエストの部屋にいるみたいだ。文化祭はもう始まっているのに壱与から連絡が来てない所を見ると……」
「其処で入れ替わるつもりなのかも知れませんね……信じたくありませんが」
「……ごめんね、紅葉。僕だけじゃなくて、エストの事で迷惑をかけて」
「これぐらいなんでもありませんから、気にしないで下さい、若。それに私は若達のクラスの担任です。生徒が困っていたりしたら助けるのは当然ですよ」
本当に紅葉にも助けて貰っている。厳しい時もあるけど、やっぱり僕は紅葉が家族として好きだ。
特に今は懐かしい桜屋敷のメイド服を着ているから、余計にその気持ちを強く感じる。幼い頃、彼女は今のメイド服姿で、僕に型紙の引き方を教えてくれた。
ルミねえが歳の近い姉なら、紅葉は歳が離れたお姉さんかな?
「それじゃあ、朝陽さん。私は着替えがありますので失礼しますね」
「えっ!? ……き、着替えてしまうのですか?」
せっかくの文化祭なんだし、その格好のままコンペの司会をやっても良いんじゃないかな?
だけど、僕の願いは紅葉に届かず、彼女は顔を赤くして何度も頷く。
「着替えますよ! この格好やっぱり、三十代にはキツイです!」
……今、僕の背後から微かに怒りのオーラを感じた。
紅葉。怖くて口に出せないけど、三十代でメイド服が恥ずかしかったら、四十代で毎日メイド服を着て教室に来ているカリンや、制服を着て通っているカトリーヌさんとかもっと恥ずかしいんじゃないかな?
カリンが個人的な判断で評価を決める人じゃなくて良かった。
紅葉と別れた僕は、教室に戻った。
「あっ、戻って来た」
「少し長話をしてしまいました、申し訳ありません……ところでお嬢様は何故窓際の方に?」
梅宮伊瀬也に謝罪しながら、教室内を見回すと、僕の主人は窓際の方に立っていた。
てっきり僕が戻るまで、梅宮伊瀬也と大津賀かぐやを相手に話をしていると思っていたが……いや、良く見てみると、僕側からは良く見えないがエストは耳に携帯を当てて話をしているようだ。
小声で話しているせいで良く聞こえないが……何時になく厳しい表情をしている。
「朝陽さんが出て行って少ししたらエストンに電話がかかってきてね」
「何だかー、電話に出る時にかなり深刻そうな顔をされていましたよー」
……遂に来たか。
果たして会話の内容は入れ替わりに関する事か。それともただ家族との会話をしているだけなのか。
「……ん…来て……否し…よね? ……から……幾ら……」
いや、あの表情からすると間違いなく深刻な話だ。少なくともただの家族との会話では絶対にない。
何気なく近づいて会話を聞きたいけど……エストが立っている場所は窓際。日の光が照らす場所を歩けないこの身では、近づく事が出来ない場所だ。
恐らく……戻って来た僕に会話を聞かれたくないから、敢えて僕が近づけない窓際で電話をしているのだろう。
「……かった……こで……って」
……微かに聞こえるエストの声。良く聞けば、日本語じゃなくて、余り人前で使って欲しくない英語だ。
ますます会話の相手が、『エステル・グリアン・アーノッツ』としか思えない。
やがて通話が切れたのか。エストは肩を震わせて……。
「アクロバティック!」
何時になく怒りに満ちた怒声を上げた。
「お、お嬢様? どうされました?」
何となく察しているけど、何も知らない風を装い質問した。
「あっ……あ、朝陽。戻ってたんだ。ハハッ、ちょっと恥ずかしいところを見られちゃったね」
「い、いえ、余りお気になさらずに?」
「それよりもエストン。いきなりどうしたの?」
「えーと……うん、そう! 日本に来るって約束してた家族が急に来れなくなったって、連絡が今来て」
いや、来てるよ。今、桜の園に君の姉が来ているそうだよ。
……どうにも様子がおかしい。もしかして……エストの姉が日本にやって来た事をエストも知らなかった?
まだ、断言出来ないけど、その可能性が出て来たことに僕は喜びを感じた。
「そ、それよりも朝陽。少し2人で話したいんだけど良いかな?」
「はい、構いません、エストお嬢様」
寧ろそれは僕から言いたかった事だよ。
梅宮伊瀬也と大津賀かぐやにすぐに戻って来る事を伝えて、教室から離れた。
先ほど紅葉と会話していた時同様に、人がやって来る様子が無いので内緒話でも話すことが出来そうだ。
……唯一廊下の角から此方を監視するように覗いているカリンを除いて……。
今からエストが口にする言葉次第で、彼女の方針は決まるだろう。
「急に話をしたいだなんて言ってごめんね」
「いいえ、もうすぐコンペが始まるのですから、緊張や不安を抱くのは仕方のない事です。それに私の方でもお嬢様とお話をしたいと思っていました」
「そうなの?」
「ここ数日、お嬢様は何処か不安そうにしていましたから……ご家族の方と喧嘩をされたと言われた日からです」
エストの肩がハッキリと震えた。
明らかな動揺。攻めるなら……今しかない!
「お嬢様には申し訳ありませんが、心配になって朔莉お嬢様にお願いして様子を見て貰いました。私同様、朔莉お嬢様もお嬢様が不安そうにしているとハッキリと申してくれました」
「八日堂さんが……そう……さっきのはその為に」
「お嬢様。何か胸に秘めているものがあるなら、私を相手にお話し下さい。穴倉に叫ぶよりも、薔薇の花に語るよりも、人に話した方が気持ちは安らぐ筈です。これまでお嬢様には幾度と無く助けられてきました。貴女の良き従者として、貴女が悩んでいるのなら力になりたいのです。どうかお願いします」
深々と頭を下げた。エストの力になりたいのは本心だ。
伯父様には悪いけど、やっぱり僕はエストを信じたい。怪しい部分は多い。
教えられたモデルの入れ替わりの件だけじゃなくて、エスト本人が桜小路才華へのメールで誰かのゴーストを務めていると言ったとしても、今日のコンペには絶対に出る。
だって、あの衣装は僕とエストだけの衣装じゃない。班員全員の衣装なのだと、エストはもう知っているから。
「……顔を上げて、朝陽」
言われて顔を上げると、エストは顔を近づけて来た。
「もし……もしもだけど、私以外の誰かがあの衣装を着てコンペに立つところを貴女は想像出来る?」
「出来ません」
即答だった。何があろうとこの答えだけは変えられない。
あの衣装をエスト以外の誰かが着るところなんて、想像もしたくもないし、出来ない。たとえエストそっくりだという双子の姉だとしても、あの衣装は絶対に似合わない。
僕の答えにエストは目を見開いて驚いている。
「それは、総合部門の参加の為?」
「いいえ、違います。私にはお嬢様以外の誰かがあの衣装を着るところを想像も出来ないのです……たとえお嬢様に瓜二つのお方があの衣装を着たとしても、お嬢様以外の誰にも似合わないとハッキリ言えます」
少し踏み込んでみた。さて、エストの反応は?
「……ありがとう。おかげで私の答えは決まった」
「決まった? あのお嬢様? 何が決まったのですか?」
「朝陽。安心して。今日のコンペは何があっても私が必ず出るから。ううん。私が出たい。心からそう思っているの」
今の声は……そう、救命行為の直前、水に浮かびながら、エストが胸の内を語った時の声だ。丁度顔が近づいていたので、自然と脳裏に浮かんできた。
そして僕を見つめるエストの綺麗な瞳には陰りがなかった。
今の言葉は心からの本心だ。これまで築き上げたエストとの絆がそう言っている。
「そろそろ教室に戻りましょう」
「はい」
結局胸に秘めているものをエストは語ってくれなかった。
だけど……コンペに出るという意志だけはハッキリと示してくれた。もしその意志を変える事が出来るとしたら……エステル・グリアン・アーノッツとエストはただの双子の姉妹という関係じゃないのかも知れない。
コンペの開始時間が迫る中、本来は梅宮伊瀬也と大津賀かぐやと共に観客席に向かう予定だった僕だが、当然2人と別れて行動していた。
『教室に忘れ物をしてしまった』と言い訳をして、すぐに僕は控室の方に向かっていた。予定では、事前に頼んでおいた美容科の生徒がメイクをしてくれることになっている。
このメイクをしてくれる生徒は、ジュニア氏に紹介して貰った。そのジュニア氏は、快く総合部門でのメイクの担当を引き受けてくれたし、人数が人数なだけに何人かの生徒も誘ってくれるとまで言ってくれた。
本当に彼には感謝だ。
今日、エストのメイクを担当してくれるのはジュニア氏が誘ってくれた1人。紹介された時にも紳士的な態度で接してくれたので、安心してエストのメイクを任せられる。
しかし、その生徒は控室を覗いてみると、手持無沙汰な様子で立っていた。
「すみません。エストお嬢様は?」
「あっ、君は小倉朝陽さんだったね。丁度良かった。実はアーノッツさんがまだ来てないんだよ。何か聞いてないかな?」
……やっぱりか。
「いえ、私は途中で別れたので。もしかして迷子になっているのかも知れませんね」
「迷子って……」
「少々おっちょこちょいなところがお嬢様にはあるので。すぐに探して来ます!」
僕は彼から離れて、すぐに控室を出て行った。
控室を出る直前に、待機していた紅葉に頷いておいた。これで最悪の場合は、エストが出る順番を変えられる。
でも、それだって余り時間の余裕は無い。すぐに携帯を取り出して、伯父様から教えて貰ったカリンのアドレスにメールを送った。少しの間離れることになった僕と違って、彼女はずっとエストを監視している。
返事はすぐに返って来た。
『地下通路を通って桜の園に向かっています』
「っ!?」
返って来たメールの内容に、眉を顰めてしまう。
……いやまだそうだとは断定できない。エストは僕に誓ってくれた。
今日のコンペに参加してくれるって。ならば従者である僕がすべきなのは疑う事じゃない。全力でエストが舞台に立つのをサポートする事だ。
エストの本心は理解した。なら、その本心を叶えさせることこそに、僕は全力を出すべきなんだ。
自分がすべきことが分かった僕は急いで地下に急ぐ。本当なら普通に外から出て先回りしたいけど、太陽の下を歩けないこの身では地下に潜って移動するしかない。
「来ましたか」
地下にある桜の園から上がるエレベーターの前でカリンは待機していた。
「遅れてごめん。それでエストはまだ?」
「エレベーターは彼女が乗ってから動いていませんし、コンシェルジュとして受付で待機している八十島壱与からも連絡はありませんので、65階に留まったままだと思われます」
「そう……」
「私は此処で待機して、もしもエスト・ギャラッハ・アーノッツが双子の姉と共に来た場合は声を掛ける予定でいます。事前に得た情報に因りますと、エステル・グリアン・アーノッツは日本語が出来ないそうなので」
「日本語が出来ないのに日本に来たの!?」
驚きだよ。というよりも、それでよく日本に行く気になれたよね!
「本人は基本的にロンドンを気に入っているのか其処で暮らしているようです。因みにエステル・グリアン・アーノッツが通訳の人間と共に行動しているのが、昨日の時点で判明しています。何せ彼女が泊まったホテルは大蔵家系列のホテルでしたので」
それはまた運が無いと言うべきかなんというか。
伯父様の事だから、学院から近場のホテル全部に監視役を配置していたのかも知れない。今回の件は、総裁殿にさえ累が及びかねない問題だ。
家族を大切にする伯父様が動かない道理はない。
……それにしても大蔵家系列のホテルとなると、それなりにお高い筈だ。アーノッツ家の経済事情は分からないが、通っている学院を休ませて、日本語ができない娘に通訳の人を付けて高級ホテルに泊まらせる余裕なんてあるのかな? しかも、やる事は明らかに悪い事なのに。
……今は考えても仕方がない。全ての事情は事が終わった後にエストに聞けば良いんだから。聞いて答えてくれるかは分からないけどね。
「そろそろコンペの開催時間が近づいています」
言われて時計を見てみる。確かに余り余裕は残されていない。
でも、エレベーターの位置表示を見てみると、まだ65階に留まったままだ。
本当に入れ替わるなら、もう終わって、地下に向かってもおかしくないのに。いや、疑問は後回しだ。
「じゃあ、行って来るよ」
本当はいけない事だが、エストの部屋の予備のルームキーを壱与から預かっている。
これを使えば、エストの部屋に入る事が出来る。出来る事なら使わずに済ませたいと願いながら、僕はやって来たエレベーターに乗り込み65階を目指した。
「はい。此方、クロンメリンです。衣遠様、どうされ……っ!? ……分かりました。此方の件が済み次第に、すぐに調査に入ります……それで小倉様、いえ、遊星様はどうする事に? ……分かりました。もしもの時のことを考え、コンシェルジュの八十島壱与に連絡を入れて車をご用意しておきます。使わずに済めばいいのですが……では、引き続き監視を続けますので……難儀では……済ませませんね」
次回、遂にエステル・グリアン・アーノッツが出て来ます。
その為に次回、ちょっとエストの言葉が汚くなりますが、此方は嫌がせではなく原作での仕様なので悪意とかはありません。エストは日本語は綺麗だけど、英語は汚いという設定なので。
また、最後のカリンの言葉は才華が65階に向かった後の言葉なので、才華は何も知りません。