月に寄りそう乙女の作法2~二人の小倉朝日~ 作:ヘソカン
かなり辛いですが、頑張ります。
秋ウサギ様、烏瑠様、百面相様、エーテルはりねずみ様、誤字報告ありがとうございました!
side才華
フィリア学院に通うようになって半年近くになるけど、学院にあるサロンに入るのはこれで二度目だ。
以前の時もそうだったけど、今日も心臓がドキドキしている。違うのは、あの時は期待で胸が高鳴っていたのに対して、今は不安と心配でドキドキしている。
これからエストは何を語るのか? 少なくとも良い話ではないのは確かだ。
そのエストはサロンに置かれているソファーに座って目を閉じている。沈黙が少し痛い。
「……朝陽。話をする前に1つだけ聞いて良い?」
「はい。構いません」
何を聞かれるのだろうか? 僕がモデルの入れ替わりを知っていた事か? それとも別のこと?
「私がお姉ちゃんと部屋で言い争いをしている時に、朝陽は部屋に入ってすぐに私とお姉ちゃんを見分けられたでしょう? アレは隠れて話を聞いていたから? それとも他に理由があるの? ……もしかしてただの偶然?」
それか。確かにエストとエステル・グリアン・アーノッツは瓜二つの容姿をしている。
同じ服を着ていたら、確かに見分けるのは難しい。一般の人にとっては……。
不安そうにしているエストに、僕は答える。
「私がお嬢様とエステル様を見分けられたのは、隠れて様子を伺っていたからではありません。ましてやただの偶然でもありません。ハッキリとお嬢様とエステル様を見分ける事が出来ていました」
「それは何故? エステルも言ってたでしょう? 幼い頃から今まで、両親でさえ、同じ服を着た私達を見分けられる事の方が少なかったのに」
「以前、お嬢様にはデザインの為に内面を語って貰いました。そのおかげです。それに正直申しまして、エステル様にはあの衣装は似合いません」
エストと容姿が瓜二つだから、十分の一ぐらいは似合うかなと思っていたけど、エステル・グリアン・アーノッツと対話してハッキリと分かった。
彼女にはあの衣装は似合わないし、絶対に着て貰いたくもない。こんな気持ちを僕が抱く日が来るとは思っても見なかった。これからエストが語る内容に因っては、もしかしたら変わるかも知れないが、今僕はエステル・グリアン・アーノッツが……嫌いだ。
僕の言葉にエストは驚いたように目を見開いていたが、やがて落ち着くと共に頭を深々と下げた。
「ありがとう。疑ってごめんなさい。でも、今はもう何も疑わずに、貴女が私と彼女を見分ける事が出来たのだと、信じられる。こんなお伽噺のような出来事があり得るなんて思わなかった。私だってデザイナーを目指しているのに、その程度の事も知らなかった」
「いえ、私も今日まで自分で体験した事はありませんでした……ですが、既に近しい体験は目にしていました。そのおかげもあったのかも知れません」
「それは何処で?」
「小倉お嬢様が、アトレお嬢様の為に製作したあの衣装です。お嬢様も知っての通り、あの衣装のデザインはジャスティーヌ様が元々私をモデルとして描いたものです。ですが、小倉お嬢様が製作したあの衣装は、たとえ直接見ていなくてもアトレお嬢様の内面の輝きを発揮させていました。そして私もお嬢様の内面の輝きを発揮したいと思い、あのデザインを描いたのです。だから、もしかしたら私はお嬢様の内面で見たのかも知れません」
「……朝陽は本当に凄いね。あの頃に戻れても、今の朝陽には勝てるとは私には思えない」
「そうとは限らないのでは? お嬢様はエステル様のコンペの参加を拒否していたではありませんか?」
「ううん。拒否できたのは朝陽のおかげ……もし朝陽があの場に来てくれなかったら……私はお姉ちゃんの我儘を断れなかったかも知れない……根負けして頷いてしまっていたかも知れないの」
何故? エストは本心からコンペに参加しようとしていた。
なのに、何故その本心を抑えてエステル・グリアン・アーノッツの我儘を叶えようとするんだ?
「……聞いても宜しいでしょうか? 何故お嬢様はそんなにも、エステル様に弱いのですか?」
過去のモデルの入れ替わりや今回のコンペの件だけじゃない。
エストはデザイナーとしての未来までも、エステル・グリアン・アーノッツに捧げようとしている。幾ら仲の良い姉妹だからといったって、余りにもいき過ぎている。
僕のように身体的事情がある訳でもないだろうし。というか、健康そのものじゃないか、エステル・グリアン・アーノッツは。
「それはちゃんと話すけど、朝陽はどうやって私とモデルの入れ替わりの件を知ったの?」
尤もな疑問だ。あのタイミングで偶然だとは言えないので、ちゃんと理由を説明しよう。
……エストの逃げ場がますます無くなってしまうが、これに関しては諦めて貰うしかない。出来るだけのフォローはするから。
「お嬢様には以前お話しましたが、私は大蔵家とは遠縁の親戚にあります。その縁でロンドンを拠点とし、活動している大蔵衣遠様とも知り合いです。小倉お嬢様を傷つけた一件で距離を取られるようになりましたが、互いの連絡先は交換していました……その衣遠様から、お嬢様が過去にモデルの入れ替わりをしていたかもしれないと連絡を文化祭前に受けたのです」
「……大蔵衣遠さんがロンドンを拠点に……そっか。だからクロンメリンさんも動いていたんだね……やっぱりプロだった人の目は誤魔化せないんだね」
流石に直接会ってなければ伯父様も気付かなかったかも知れないが、2人は入学式の日に会っている。
会った時間なんてほんの数分ぐらいだが、それで気付いた伯父様は流石というしかない。尊敬するしかないよ、本当に。
「最初は信じたくない気持ちで一杯でした。幾ら衣遠様の話とは言え、私はお嬢様と半年も過ごし、コンペに参加する意思もお聞きしていましたから。過去はともかく、今日のコンペに関しては大丈夫だと思いたかったのですが……思い出してしまったのです。衣遠様から連絡が来た日の朝に……お嬢様が
「……うん、朝陽の言う通り、お姉ちゃん。エステルと喧嘩した理由は、コンペの参加に関する事だったの」
……やっぱり、そうだったのか。伯父様の考えは当たっていたようだ。
「あの衣装は本当に良い衣装だったから……もしかしたらと期待したの」
「期待ですか? 一体何を期待されたのですか?」
「………お姉ちゃんに……エステルにもう一度服飾の世界に興味を持って貰いたかったの……そして一緒にデザインをしたかったの」
どうやら核心的な部分に入ったようだ。
しかし、エステル・グリアン・アーノッツが過去にデザインをしていたのは驚きだ。印象的に彼女は飽きっぽい感じを受けていたから、根気のいる服飾の世界に耐えられる人じゃないと思えたから。
いや、実際止めているようだから、やっぱり印象は間違っていないのかな?
「エステル様はお嬢様と同じようにデザイナーを目指していたのですか?」
「そう……最初に私にデザインを勧めてくれたのはエステルなの。元はと言えば、デザイナーを目指していたのはあの人の方が先なんだよ」
「……つまり、お嬢様にとってエステル様は夢を与えてくれた方という事でしょうか?」
「うん。小さな頃に、2人で話したの。『ロンドン発の双子姉妹のデザイナー』なんて素敵だねって。2人でそうなろうと約束した……でも私がデザインばかりしている間に、お姉ちゃんは次の楽しい事を見付けてしまったの」
あっ、やっぱり飽きっぽい人間だったか、エステル・グリアン・アーノッツは。
印象が変わるかと思っていたが、どうやら僕の見込み違いだったようだ。
「それは、きっと当たり前の事なのに、だけど私は最初の約束に拘ってしまって」
その気持ちは理解出来る。僕だって子供の頃の夢に拘っている。
初めて触れた色。初めて感銘を受けた文章。初めて感動を覚えた芸術。個人差はあれど、芸術を志す限り、自らの原点は大切なものだと僕も思う。
それが欠けてしまえば、創作活動が困難になる人間がいても可笑しくないほどに。だけど、それに囚われ過ぎる危険性も、僕は知ってしまった。
「夢を諦めきれなかった私は、何度もデザインに誘ったのだけど、お姉ちゃんはデザインをしてくれなかったの。たまに描いても、すぐに飽きてしまって駄目だった。でもある日、私のデザインが、ロンドン市内のデザインコンクールで入選したの。両親も、上のお姉ちゃんや妹も、皆が凄いと言ってくれて、学校でも表彰された。そのデザインで衣装を作って、1ヶ月後に自分でモデルをして、コンクールの本選へ出ることになったの」
「もしかして、その時に?」
エストは頷いた。なるほど、それが一番最初に行なったモデルの入れ替わりか。
……しかし、この最初のモデルの入れ替わりはともかく、伯父様が言っていた何度もエストの名前を使ってエステル・グリアン・アーノッツがモデルを務めたのは何故だろうか?
……途轍もなく嫌な予感がするけど、今はエストの話を聞こう。聞く事は後でも出来るから。
「お姉ちゃんは『自分が衣装を着られるなら何でもする!』って大はしゃぎして、私もエステルが服飾の世界に興味を示してくれたことが嬉しくて、喜んで譲った。私達が入れ替わったことに両親すら気付かないまま、結果は最優秀賞だった。エステルは大喜びでまた舞台に立ちたいと言って、デザインを始めてくれたの」
「でも……結果は伴わなかったのですね?」
「そう。半年ほど、当時の習い事だったダンスの傍らに描いていたのだけど、結局は飽きてしまって」
服飾の世界、いや、どの世界にしても才能は必要だが、それ以上に根気が必要だ。
この根気が足りなくて、アトレは服飾方面で僕の力になる事を諦めた。……九千代から聞いた話だと、アトレが服飾方面で頑張れなかった理由には、勉強する時間よりも僕の助けになりたいという気持ちばかりが先行してしまった事もあるそうだが。
とにかく、今までの話から推測するに、エステル・グリアン・アーノッツは非常に飽きっぽい面があるようだ。そんな人物がデザインというとにかく根気が必要な作業に耐えられるとは思えない。
それに伯父様も似たような事を言っていたし。
「今思えば、其処で私は諦めるべきだったのかも知れない」
「……お嬢様。衣遠様のお話では、お嬢様のお名前を使ってエステル様がコンクールにモデルとして参加したこともあるというお話でしたが?」
「其処までバレてるんだ……うん、そう。最初の入れ替わりの後にも、同じような事をしていた」
「それは何故ですか?」
とても嫌な予感はするけど、聞かないわけにはいかない。せめてまともな理由で……。
「お姉ちゃんはドキドキする冒険が大好きなの。だから、一番最初の時に感じたバレないかどうかのスリルをまた味わいたかったらしくて」
全然まともじゃなかった!? 嫌な予感が当たっていたよ!
いや、僕も女装の練習で外に出ていた時に、ドキドキした気持ちを感じてたから少なからず分かるけどさ!
「ず、随分と勇気があるのですね。正体がバレる事に恐れは感じてなかったのですか?」
「当時の私はとにかくお姉ちゃんに服飾への興味を持ってもらう事が何よりも優先だったから……お姉ちゃんの方は、悪気は全くないの」
妹の名前を騙ってコンクールやショーに参加しているのに、悪気がないって……。
「自分が可愛くなって、多くの人に愛されたいだけの気持ちだから。其処に、誰かを陥れようとか、嫌がらせしようだとか、嫉妬なんて感情は全くないよ。ただ自分が中心で愛されたいだけの純粋な子なの」
「……純粋ですか。確かに純粋なお方だったと思います」
人の話を聞かないのを純粋と言って良いんだろうか?
……確かにエステル・グリアン・アーノッツと話をした印象では、エストが言うように陥れたり、嫌がらせしている訳でも、コンペに参加しようとしているエストに嫉妬している様子でもなかった。
ただ本当にコンペのモデルをやりたい。その気持ちだけで、彼女は日本までわざわざやって来たのだろう。
「ですが、お嬢様。幾らお姉様が純粋なお方だとしても……今日のコンペの件に関しては擁護しかねます」
「うん……分かってる」
流石にエストも今回の姉の行動には思うところがあるのか、顔を険しくした。
「……念の為にお聞きしますが、お姉様はお嬢様がお呼びした訳ではありませんよね?」
「さっきも話したけど、お姉ちゃんと私が喧嘩した理由は、コンペの参加に関して。衣装を見たお姉ちゃんは、昔のように私と入れ替わって参加したいって、提案したの……私はそれを断ったから喧嘩になったの」
心から安堵した。良かった。
エストはちゃんと断っていたんだ。でも……断っても日本にやって来るなんて。
「では、お姉様はお嬢様に断られたのに、日本に来たのですか?」
「電話では話にならないと思ったんだと思う。直接会って話せば、私を説得出来ると思ったんだと思う……そうなるんじゃないかと、此処最近はその事でずっと不安を感じてた。お姉ちゃんなら諦めずに、日本にやって来るんじゃないかって」
それがエストが此処最近元気がなかった原因か。姉の性格を知っているだけに、断っても諦めずに日本にやってくるんじゃないかと。
そしてその不安は的中してしまった。
「昨日の夜にお姉ちゃんから電話がかかって来たの。『今、エストが暮らしているマンションの近くのホテルに泊まっている』からって」
「お待ち下さい。お姉様もロンドンの学院に通っているのですよね? なのに、幾らコンペに参加したいからとは言え、学院はどうされるのですか?」
「エステルはそういう子なの。良い服を着て、自分が可愛くなる事で愛されて、目立って、祝福される為なら、学校の単位と両親が出す旅費を考えない……ううん、それ自体思いつかない子なの。素敵な服を着て、可愛くなって、とにかく愛される事が全てだと考える子なの。本人が自分でそう言ってる。『私は愛を与えられるために生まれて来たのかも知れない』って……パパとママには私の応援にどうしても行きたいって頼んだみたい」
それはさぞエストのご両親は顔を青褪めさせた事だろう。
エステル・グリアン・アーノッツのエストの応援に行くという言葉を信じて旅費を出したのに、実は不正をエストにやらせる為に、日本に向かったと知らされた彼らの胸中を思うと哀れに思ってしまう。
しかも、失敗したら国際問題にまでなっていたかも知れないんだから。いや、僕も人の事を言えないやらかしをしているんだけど、それでも流石にこれは……。
「それで連絡が来た時に、明日の朝には泊まっているホテルを出ないと行けないから、私の部屋に入れてって頼まれて……仕方なく鍵を渡したんだけど」
「……それだけでは済まず、教室にいた時にお姉様から電話が来たのですね?」
「そう……電話が来て、コンペに参加したいって言われたの。正直……お姉ちゃんが怖くなった。今回だけは絶対に無理だって、何度も説明したのにお姉ちゃんは参加するの一点張りだったから。もし部屋に行かなかったら、多分お姉ちゃんは自分の足で学院に来たと思う。日本語が喋れないのに」
フィリア学院には優秀な生徒が通っているけど、学院に通っている全員が英語をペラペラ話せるわけじゃない。
しかも、今日は文化祭。一般の来客がある中で、あの調子でエステル・グリアン・アーノッツが学院にやって来たら、それはそれで問題が起きそうだ。此処は日本。彼女が慣れ親しんだロンドンとは違うんだから。
しかし、聞けば聞くほど、僕の中でエステル・グリアン・アーノッツの評価は下がる一方だ。
実際、見た目がエストで、上品で、可愛く振る舞っているなら、愛される機会の方が多いに違いない。全てが全て勘違いという訳では無いのなら、それは彼女の中で事実だ。
ただあの性格から考えると、特定の個人と付き合うような事はしないに違いない。男性からすれば非常に質の悪い女性だ。俗な言葉で言えば……ビッチだ。
それに今回みたいな態度を、全てに対してしているなら、女子受けも悪そうだ。問題児じゃないか。
「直接話した印象では、まるでお嬢様は最終的にはお姉様のコンペへの参加を認めると言わんばかりでしたが、それは何故でしょうか?」
「あの子は当然、私が賛成すると思っているの。『自分が愛されるのだから、私を大好きなエストは喜んでくれる。これでみんな幸せ!』って考えていたんだと思う。反対していても、最後には認めてくれるって。実際、私はこれまで一度もあの子のお願いを断り切れたことが無いから」
……何だか姉妹の立場が逆転してないだろうか?
これはアレだ。駄目な姉としっかり者の妹だ。しかも妹はそんな姉を支えようと健気に頑張っている……自分の才能を捧げてまで。
繋がって欲しくなかったピースが全て繋がってしまった。
「……お姉様が日本に来られた事情は分かりました。思うところは多々ありますが、此処は一先ず置いておきます……ですが、お嬢様。お尋ねしなければならない事があります」
エストの肩が震えた。質問される事に察しがついているようだ。
出来る事なら僕だって聞きたくない。でも……聞かなければならない。
「謝罪は後で幾らでもさせて頂きます。私は……部屋に入る少し前からお嬢様とお姉様の会話を立ち聞きしていました。その中で、お姉様はこう仰っておられました。『将来、私がエストの代わりを務める
「うん……私は将来エステルのゴーストを務めるつもりでいるの」
ッ! 覚悟はしていたけど、やっぱりショックを受けた。
両膝に乗せていた手が震える。これがエストが実は桜小路才華がゴーストだったと知った時の衝撃だったとしたら、大変申し訳ない事をした。
これは……予想を遥かに超えるほどに辛い。
「ロンドンで過ごしていた頃にお姉ちゃんに服飾に興味を持って貰いたくて頑張って製作した衣装を着て貰って、最優秀賞を取ったコンクールが終わった日に、エステルは『次は何時?』って聞かれたの。それで急に不安になった。黙って、お姉ちゃんを疑わないでデザインを描き続けていれば良かったのに。思わず自分達の夢の現在地を確かめてしまったの」
……答えはもう分かり切っている。エストと同じ顔をした、彼女の姉がどんな気持ちでその問いを聞いていたか。
「お姉ちゃんは……『まだそんなこと覚えていたの?』って驚いてた」
当然だ。元々の飽きっぽさもあるだろうが、夢は自分の心に抱えるものだ。
同じ場所を目指す人達だっている。チームとして目指すこともある。
だけどそれは、たまたま個々の向いている方向が同じと言うだけで、他人の夢に依存しても成功なんてものはないだろう。
お父様とお母様のような関係は、まさに奇跡で成り立ったようなものだと思う。残念ながら、エストとその姉のゴール地点は違ってしまった。
「しかし、それならばそのままお姉様に専属モデルを務めて貰えば良かったのでは?」
『ロンドン発の双子姉妹デザイナー』という夢こそ諦める事になるが、妹がデザインを。姉がその専属モデルを務めて活躍する。これだって十分に話題性があるよ。
僕の質問にエストは沈痛な顔をしながら俯いた。
「私が2人で、デザイナーに拘ってしまったのもあるんだけど……お姉ちゃん。ううん、エステルは本格的なモデル業をやるつもりはないの。一時期は目指そうとしたんだけど……確か去年は映画女優になりたいって言っていたし、一昨年は歌手になりたいと言っていた。今年は……アナウンサーだったかな?」
……聞いているだけで力が抜けていく。
なるほど……伯父様が言っていたエステル・グリアン・アーノッツは、『努力をしない人間だ』という評価は此処からきているのか。的確な評価でした、伯父様。
「でも一番の理由はお姉ちゃんからすれば、自分は『愛される側』だから。いつか時期が来れば、素敵な人が自分を見つけて、何もしなくても自然と有名になれるものだと思っているの。だから、コンクールやショーに出るのは趣味程度なの」
……変態性が移っても良いから、八日堂朔莉の爪の垢を煎じて飲ませてやりたい。
今の時代、子供だって自分を売り込む努力はする。その体現者が八日堂朔莉だ。変態ではあるが、それを補ってしまえるほどに彼女は努力していた。
足で踏まれる子供の役だって、進んで八日堂朔莉はやっていたそうだから。
そういう相手を知っているだけに……エストが擁護しても、エステル・グリアン・アーノッツの評価は残念ながら僕の中で上がらない。寧ろ下がって行く一方だよ、エスト。というよりも……もう底辺?
まさか、僕がこんな評価をする人物がいるなんて夢にも思ってなかった。
「では……お嬢様が自分がゴーストを務めるからデザイナーになってと仰ったのですか?」
「……それは違うよ。エステルが言って来たの。夢を諦めきれなかった私は、同じ夢を叶えて欲しいとエステルにお願いしたの。お姉ちゃんは少し悩んでいたけど、すぐに良い事を思いついたみたいで、こう言ってくれた。『私をデザイナーにしたいのなら、エストの描いたデザインを私が描いたことにすれば良いんじゃない?』って」
……エストから言った訳じゃない事を心から喜ぼう。うん、この喜びで沸き上がって来た怒りを抑えないとね。
「表向きには『ロンドン発の双子姉妹デザイナー』ではないけど、私が『デザイン』の部分、エステルが『
……2人の関係は名前が表す通り太陽と月みたいだ。
ただし、月の輝きを太陽が奪って輝くという立場が完全に逆転した関係としてだ。本来、月は太陽の輝きを受けて輝く筈なのに。
「私はあの子の期待を裏切れなくて、だけどロンドンには家族や友人がいるから、いずれ自立して、あの土地を離れるまで本格的な活動は控えていたの」
エストの家族や友人が、この話を知ったら止めようとするだろう。だって、こんなの明らかにエストだけが苦労する。
「それとは別に、自分の事情でニューヨークへ留学する事になった。向こうではモデルを務めず、いずれ訪れる日の為にデザインの実力を磨いていたの。もし、私のデザインだと知っている人がいても、将来、デザイナーとしてメディアに顔を見せるのがエステルなら、彼女を私だと信じて、誰も疑わないでしょう?」
完全にゴーストじゃないか。
エストを知らない相手なら、確かに成功率は高いだろう。だけど……正直言って上手く行くのは最初の頃だけだと思う。きっと何処かでボロが出てしまうに違いない。
何故ならエステル・グリアン・アーノッツは、服飾に関して素人だ。恐らくデザイナー役を始めたとしても、勉強はしないだろう。ある程度はエストが補えるかも知れないが、服飾の忙しさを考えれば無理だ。それに、専門家の目を誤魔化せるとは正直思えない。
現に既にデザイナーを引退した伯父様が気がついた。それに教えて貰った総学院長の話もある。
伯父様が言っていた。彼のデザインは限りなくジャン・ピエール・スタンレーに近い筈なのに、買う人達が選ぶのは常にジャン・ピエール・スタンレーの作品だと。
僕やエストはまだ本格的に服飾の現場と言うものを経験していない。だから、初めてのグループ製作で失敗してしまった。
他にもデザインに関して問題がある。デザインは本人の感性と芸術性から生まれるものだ。
ハッキリ言って、エストとエステル・グリアン・アーノッツの内面は大きく違う。最初の頃は上手く行っても、有名になっていけば何処かで疑われてしまうに違いない。
……あっ! だからか!
「もしや……お嬢様がジャスティーヌ様がフランス人だから本当のデザインを見せられないと仰ったのは……」
「うん。ジャスティーヌさんは将来はパリで活動するだろうから、私の本当のデザインを見て、それがエステルの名前で使われていたら追求すると思って」
日本を侮っていながらも、服飾雑誌には目を通していたジャスティーヌ嬢だ。
僕もエストも外国の服飾雑誌は取り寄せているし、間違いなくあり得る。エストが小倉朝陽のデザインを桜小路才華のデザインだと気がついたように、ジャスティーヌ嬢も気がつくに違いない。
勿論僕だって気がつく。身体の事情があっても、問いただしにロンドンに向かいそうだ。
「では、最初の頃に才華様に対して怒っていたのは同族嫌悪のようなものですか?」
それなら気持ちが今は良く分かるよ。
「ううん。それは………彼に対する気持ちは、羨ましかったから」
「羨ましい?」
こんな不自由な立場が? いや、いや、エストが言っている事はそうじゃない。
「もしや……私との関係が成立しているからですか?」
「ううん。朝陽が桜小路才華さんに感謝していたから」
……そういう事だったのか。
エストは自分の欲しかったものを桜小路才華は手に入れていると思ったんだ。
エステル・グリアン・アーノッツはデザインを完全に捨てた。話を聞く限り、その原因は彼女の飽きっぽさに僕はあるとしか思えないが、エストはそう思わなかったのだろう。
良かれと思って身代わりになった為に、エステル・グリアン・アーノッツのデザインへの意欲を完全に奪ってしまったと思ったに違いない。
対して桜小路才華は、『小倉朝陽』というゴーストから離れてもデザインを続けた。いや、続けていることになっている。
きっと、エストが姉から欲しかった言葉はこうに違いない。
『ありがとう。あなたのデザインを見て、私もその道をもう一度目指したいと思えた』
エストは、その言葉が欲しかった。
でも……エステル・グリアン・アーノッツはデザインの道に戻るどころか、最悪な方針をエストに与えてしまった。
「もちろん、自分に対して何度も問いただしたい気持ちをぶつけたかったのもあると思う。でも私にとってのお姉ちゃんに当たる彼が、自分でもデザインの道を志していたのは、本当に羨ましかった」
偶然だが、どうやら僕の行動はエストの心に突き刺さっていたようだ。
「行為の是非は確かめるまでもないけど、少なくとも、私は彼を責められる立場にいない。卑怯者だなんてただの八つ当たり……今はただ謝りたい。それと……出来れば……私の気持ちを聞いて欲しい」
……出来る事なら小倉朝陽としてじゃなくて、今、桜小路才華としてエストに言葉を伝えたい。でも、それは出来ない。
「お嬢様のお考えは分かりました……ですが、ハッキリと申しまして、ゴーストが成功するとは思えません。既に……私だけではなく、気付いたり知った方々がいます」
「……やっぱり、そうなんだね。大蔵衣遠さんやクロンメリンさんが知っていると聞いた時点で分かってた。それにコンペの順番……アレも変わってたから司会をしていた樅山先生も?」
「はい。それともう一人は桜の園のコンシェルジュを為されている八十島さんです」
壱与から預かったエストの部屋の予備のルームキーをポケットから取り出して、エストに見せた。
「申し訳ありません。事が事だけに、八十島さんにお願いしてお嬢様のお部屋の予備のルームキーを勝手に借りさせて貰っていました」
「それは良いよ……朝陽が来てくれなかったら、私はエステルに負けてたかもしれないから。何度も自分にコンペに参加するって言い聞かせてたのに」
やっぱりそうだったのか。思えばエステル・グリアン・アーノッツと喧嘩したという日から、エストはコンペに参加すると口にする事が多かった気がする。
教室で小倉さんに対して参加する旨を伝えた時も、実際のところは自分に言い聞かせる方が強かったのだろう。
「でも……改めて考えると良くエステルは素直に帰ったね?」
「いえ、素直に帰った訳では残念ながらなかったようです。私の代わりに対処してくれたクロンメリンさんのお話では、ご両親からの連絡で帰国を促されたにも拘わらず、学院に来ようとされたそうなので」
「エステル……」
姉の行動にエストは頭を抱えた。まあ、頭を抱えるしかないよね、アレは。
「最終的には警備員まで呼んで、無理やりタクシーに乗せて飛行場に送られたそうです」
「は、恥ずかしい」
エストの顔は真っ赤になっていた。
無理もない。素直に帰国しないといけない状況にまで追い込まれていながら、それでも尚学院に来て不可能なモデルをエステル・グリアン・アーノッツはやろうとしたんだから。
その執念だけは凄いと思う。全く賞賛出来ないけどね。
「パパとママに知られただけでも不味いのに、クロンメリンさんにそんな迷惑まで掛けるなんて」
「心中お察しします」
人の事は余り言えない立場だけど、それでも流石に僕もエステル・グリアン・アーノッツの行動には言葉が出ない。
時間を確認すると、そろそろ表彰式が終わる時間になっていた。班員全員にエストは事情を説明すると言っていたから、この後教室で話すことになるだろう。
……だけど、エストにはどうしても確認しておきたい事がある。
「……お嬢様。そろそろ表彰式も終わる時間です」
「あっ! ……うん、そうだね」
「ですので、最後にこれだけは尋ねておきたいのです。お嬢様はまだ、お姉様、エステル・グリアン・アーノッツ様のゴーストを為されるおつもりですか?」
次回で今後のエストの方針が明らかになります。
原作では、本来のデザインではなくてもゴーストを続けようとした彼女ですが、本作では……。
そしてその後に朝日とカリン以外の班員への事情説明になります。
人物紹介
名称:エステル・グリアン・アーノッツ
詳細:『月に寄りそう乙女の作法2』のヒロインであるエスト・ギャラッハ・アーノッツの双子の姉。一卵性の双生児の為に、エストと瓜二つの容姿をしている美少女。その為にエストがアメリカに渡る前、ロンドンにいた頃にエストの作品のモデルを務めていた事がある。
仕草や言葉遣い(英語のみ)に関しては、エストよりも上品であり、ある意味では才華の理想像のエストに近い。しかし、その内面は自己中心的で、自らを『愛される』為に生まれてきたと思っている。自分を大好きなエストが自分の為に何かをしてくれるのは当然と思っている節があり、将来はエストに『ゴースト』を務めてと言う提案までするほどである。原作ではそれなりの付き合いになった才華であるが、本作では唯一才華が嫌いな人物となった。この理由は、原作と違い、全員で作った衣装という認識が強くなっているからである。