月に寄りそう乙女の作法2~二人の小倉朝日~   作:ヘソカン

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また遅れて申し訳ありません。
自分で書いていて悲しくなってしまい筆が止まってしまいます。
ですが、予定では後二話で彼が漸く目覚めます。

烏瑠様、誤字報告ありがとうございました。


九月下旬20

side里想奈(りそな)

 

「それでルミネさんがどうかしましたか?」

 

 まあ、ある程度予想はついているんですけどね。

 多分、今のルミネさんは……。

 

「うん……実はルミネさんから桜屋敷で話が出来ないかどうか聞いてくれないかって頼まれたんだ」

 

「話ですか。まあ、それは構いませんよ。お爺様と対決する前に一度ルミネさんとは話をするつもりでしたから」

 

「対決って!? ……や、やっぱりそうなるの?」

 

「なるに決まってます」

 

 下の兄の件だけじゃなくて、色々とお爺様はやらかしてくれた。

 しかも、反省もせずに次はルミネさんをフィリア・クリスマス・コレクションの演奏者に選ばれるように音楽部門の教師達に賄賂を贈っている。

 カリンさんが掴んだ証拠だけじゃなくて、今回は賄賂を渡された教師達が自主的に私に申告して来た。流石にお爺様関連で逮捕された者が出た事で、彼らも身の危険を感じたようだ。

 

「止めないで下さいよ、アメリカの下の兄。タイミングが悪かろうと、これ以上お爺様のやらかしを放置したら、妹は明日を以てフィリア学院の理事長を辞めさせられます」

 

 言葉の意味を理解したのか、アメリカの下の兄は息を呑んだ。

 

「……辞める事が決まったんだ」

 

「はい……今日の役員会議で正式に私は今年度を以て理事長を辞職する事が決まりました」

 

 会議ではこれ以上大蔵の関連で学院を騒がれたくないと言わんばかりに、私の辞職を要求された。

 ルミネさんが卒業すると共に理事長を辞める意向は伝えていましたが、もうその2、3年が待てないと役員達は言わんばかりだった。

 気持ちはとても分かる。お爺様のやらかしは、本当に此方の迷惑を考えない事ばかりだ。

 賄賂を渡された教師全員を辞めさせることなど出来ない。そんな事をしたら音楽部門そのものが機能しなくなってしまう。

 だから、去年はお爺様がしたことを知ってもどうする事も出来なかった。

 一応注意はしたが、私の注意など気にも留めていなかった。最後には必ず私も力を貸す。

 そうお爺様に思わせてしまった自分の甘さに怒りを覚えてならない。

 

「本来だったら他の役員達は、即辞職をさせたかったみたいですけど、私がフィリア・クリスマス・コレクションの服飾部門で作品を出すイベントがあるので、その関係で今年度まではとなったんです」

 

 あの総学院長が考えたイベントが、まさか首の皮一枚で私を救うなんて思ってもいませんでした。

 おかげで何とか年内限りは、甘ったれを通わせることが出来る。

 ……その首の皮一枚も、お爺様が更にやらかしたら終わりだ。

 

「アメリカの下の兄。貴方が言いたいことは分かります。今、お爺様と本格的に争う事になったりして、その真っただ中であっちの下の兄が起きる事を恐れているんですよね?」

 

「うん……僕もお爺様がしたことは赦せないよ。桜小路家の人間になった僕から見ても、お爺様がしたことは放置しておけない問題なのも分かる……だけど……」

 

 あっちの下の兄は間違いなくショックを受けてしまう。

 悪いのは勿論お爺様だ。あっちの下の兄にも言っておいたが、元々お爺様への追及は文化祭後に行う予定だった。

 文化祭でお爺様が音楽部門のピアノの演奏会に、沢山の人を呼び寄せていたのは掴んでいた。ただ掴んだ時点で残念ながら既に招待状が相手側に届いてしまっていたので、今更来ないで下さいなんて言えるわけがなかった。更に言えば招待状を送ったのに来なかったりしたら、お爺様の不興をかいかねない。

 私達のミスで、いまだお爺様には政財界との繋がりが残ってしまっている。ただ幸いと言うべきか、今回の件で既に自力では起き上がれないお爺様の代わりに指示を出している部下が判明した。

 その部下の人もカリンさんが動かぬ証拠を見つけてくれている。

 今こそお爺様を本格的に追及する事が出来る。

 ……代償として大蔵家が荒れてしまう事になる。

 そうならない為に穏便に終わらせたかった。どんな形にせよ、アメリカの下の兄が纏めてくれた大蔵家が荒れる事は、私達の誰もが望んでいない。

 特にあっちの下の兄に、『自分がいるせいで大蔵家が荒れた』なんて思って欲しくない!

 その為に私達は待った。だけど……そのせいであっちの下の兄はあんな姿に……。

 そして……これから行なうことをあっちの下の兄が知れば、ますます苦しませる結果になる。

 ………そんなことは……。

 

「……分かってるんですよ! 私だって!? 今私達がしようとしている事が、あの人を苦しませる事になるのは! でもどうしたら良いんですか!?」

 

「っ……それは……」

 

「お爺様をこれ以上放置したら大蔵家が荒れてしまう! 私は理事長を解任させられて、甥を年内までフィリア学院に通わせる事も出来なくなる! 此処で動かないで来年の『晩餐会』まで耐えきったとしても……あっちの下の兄はもう……無理なんですよ………これ以上……あの人に頑張れなんて……言えません」

 

「……ごめん。そうだよね……りそなとお兄様はずっと彼を見守っていたんだから……今更知った僕が言わなくても分かってることだよね……本当にごめん!」

 

 頭を下げてくれるアメリカの下の兄に罪悪感を感じる。

 アメリカの下の兄が何も知らないのは、私達が隠していたからだ。彼が悪い訳じゃない。

 

「……フゥー、一先ずこの話は置いておきましょう。此処は病院ですし、あんまり騒がしくするわけにはいきません」

 

「そ、そうだね」

 

 これ以上病院でするような会話でもないので、一先ずお爺様のことは此処まで。

 ……あっ! そういえば……。

 

「アメリカの下の兄。実は京都の人から連絡があったんでした」

 

「京都の人って……瑞穂さんの事だね?」

 

「ええ、ルナちょむから連絡が届いたみたいで、明日此方に来るそうです」

 

 本当なら協力して貰った手前、私が連絡すべきなんですけど、色々と忙しくて連絡する暇がありませんでした。

 

「それで悪いんですけど、京都の人が泊まる場所として桜屋敷を使わせて貰っても構いませんか? ルナちょむには許可を貰っているそうなんで」

 

「ルナが良いって言うんだったら、僕も構わないよ。瑞穂さんと会えるのを楽しみにしていたし。それに瑞穂さんだけじゃなくて北斗さんも来るんでしょう?」

 

「ええ、来ますよ」

 

「じゃあ、いよいよに連絡して2人が泊まる部屋を準備しないとね」

 

 普通に考えれば、幾ら広い桜屋敷で友人関係だからと言ったって、別の家の男女が過ごすのは不味いんですけどね。親戚のルミネさんはギリギリ大丈夫ですが、京都の人とアメリカの下の兄は学生時代から友人。

 一抹の不安を普通なら感じる。だけど、その男性の方がアメリカの下の兄だと全く不安を感じられない。

 アメリカの下の兄は年月を経ても、ルナちょむ一筋。それは誰もが知っている。

 悔しいが……私が再びアメリカの下の兄と過ごせるようになれるとしたら、ルナちょむが亡くなった後だと覚悟するほど2人の関係は固い。

 ……ただ……以前ほど私の気持ちはアメリカの下の兄には向いていない。

 今の私は……人生2度目の恋の最中だからだ。

 

「とにかくアメリカの下の兄は、桜小路家を護る事に集中して下さい。負けるつもりはありませんが、お爺様が相手だと勝つにしても時間が掛かりますので……まぁ、息子と娘の方を頑張って下さい」

 

「うっ」

 

「えっ? 何ですかその反応? まさか、何かあったんですか? 甘ったれが反抗期を再発させたとか?」

 

「ち、違うよ、才華じゃなくて……そのアトレの方が……」

 

「アトレ? ……悪いんですけど、幾らあっちの下の兄が心配だからってこの病院には案内しないで下さいね?」

 

 メリルさんやト兄様はともかく、今、甘ったれ達にまであっちの下の兄の正体を話したりしたら、更に話がややこしくなりますからね。

 

「そうじゃなくて……その……前にアトレが酷い事を彼に言った事があるよね?」

 

 ……ありましたね。

 

「えぇ、思い出すだけで不愉快になる出来事でした」

 

 今まで甘やかし過ぎたと心から反省させられた。

 一歩間違えば、あの時のアトレの発言で、あっちの下の兄は今の状態になりかねない程に危険な発言でしたからね。

 

「順を追って話すけど、才華達にあっちの僕に起きた事をお兄様と一緒に説明したんだ。その時にアトレが、彼の以前の主人に会わせられないかって言ってきて」

 

 この時点でどうなったのか分かってしまいました。

 

「個人的に思うところは多々あるんですけど……それが出来るんだったらさっさと妹がやってます」

 

「……だよね」

 

 あっちの下の兄の罪悪感の根元。敬愛したルナちょむにしてしまった行い。

 その罪悪感を晴らす為には、あっちの下の兄が仕えていたルナちょむの言葉が何よりも特効薬。

 それはこっちのルナちょむの言葉では晴らすことが出来ない。あっちの下の兄の主人だったルナちょむにしか晴らせない。

 幾ら私達が言葉を重ねても、それをあっちの下の兄は心から信じる事が出来なかった。

 桜小路遊星。自分とは違い、ルナちょむを輝かせるという結果を出したアメリカの下の兄がいるからこその言葉ではないかと思っているからだ。

 気持ちは分かる。もしあの頃の私が、将来大蔵家の当主の座に就くなんて言われても、心からあり得ないと思うに違いないから。

 寧ろ、当時は当主の座を狙っている上の兄達に恐怖を感じていたぐらいでしたからね。

 

「つまり、あっちの下の兄が主人に謝罪しない事を責めてしまった事を、アトレは後悔している訳ですね」

 

「うん。詳しく話せなかったから仕方ない部分はあるんだけど、謝罪しなかったじゃなくて、謝罪出来なかった(・・・・・・・・)って分かって、凄く落ち込んでるんだ、アトレは」

 

 あっちの下の兄はもうあの件は許してますけど、改めて事実を知ったアトレは落ち込んでいると言う訳ですか。

 ……だけど、私にアトレを慰めている暇はない。なので……。

 

「こういう時こそ、親の出番です、アメリカの下の兄。頑張って下さい」

 

「な、何とか頑張ってみるよ」

 

 ちょっと自信なさげだ。

 アトレの問題の深さを甘く見ていただけに、自分に出来るのか不安なのかも知れない。

 ……何で親戚感覚のあっちの下の兄が出来て、実の親のこっちの下の兄は不安そうにしてるんでしょうか?

 やっぱり将来、私に子供が出来たら厳しく躾けるようにしましょう。心に私はそう決めた。

 

「ところで聞き忘れていましたが、ルミネさんの様子はどうなんですか?」

 

「その……ルミネさんの方も元気が全然なくて、学院から桜屋敷に戻って来たらすぐに部屋に引っ込んじゃって……」

 

 やっぱり。

 思わず過去の悪夢を思い出して頭を抱えてしまった。

 

「だ、大丈夫?」

 

「ええ、まあ。こうなる事はある程度覚悟していましたから」

 

「し、してたんだ?」

 

「忘れているようですけど、妹。十数年前は引き篭もりのエキスパートだったんですよ。で、その妹の経験からすると、今のルミネさんは誰かの視線に酷く怯えているようになっていませんか?」

 

「うん、そう……本人は大丈夫って言っているけど、学院に行く時は顔色が悪いし、帰って来るともっと顔色が悪くなっていて今にも倒れそうになってるんだよ。それでも会社に行こうとしたり……」

 

「はっ? ちょ、ちょっと待って下さい!? え? まさか、ルミネさん。まだ会社業の方も続けてるんですか?」

 

 そんな状態では、大きなミスを起こしかねない。

 ルミネさんの会社は世界一の化粧品会社。その分、ミスしてしまった時の被害が大きいのに!

 

「僕も心配になって誰かに任せられないか尋ねてみたんだけど、『会社の人からお父様に連絡が行くのが怖いです。出来るだけ何時もの私でいないと』って言って」

 

 危険すぎる兆候じゃないですか!?

 私はすぐさま携帯を取り出して、秘書の上の兄に連絡を入れた。

 

『俺だがどうした?』

 

「あっ、上の兄ですか! すぐにルミネさんの会社の信頼出来る重役に連絡して、社長の長期休暇申請をするように頼んで下さい」

 

『ん? 叔母殿はまだしていなかったのか?』

 

「お爺様に睨まれるのが怖いみたいです。私の権限での命令だと言って構いませんから」

 

『分かった。手配はしておく。しかし、叔母殿にも困ったものだ。体調不良が原因で取り返しのつかないミスをする方が危険だというのに』

 

「今のルミネさんに其処まで考える余裕はありません。引き篭もりの直前状態にまで追い込まれていますから」

 

『ククッ、元引き篭もりのお前の言葉ほど信頼出来るものはないな』

 

「うるさいですよ。とにかくお願いしますね」

 

 電話を切る。

 これで一先ずルミネさんの会社の方は安心です。お爺様と対決する前に、問題は無い方が良いですからね。

 携帯を仕舞い、改めてアメリカの下の兄に顔を向ける。

 

「じゃあ、後の話はルミネさんを交えての方が良いですね」

 

「その方が良いと僕も思う」

 

「……私は面会時間が終わるまであっちの下の兄に付き添うつもりですが、そっちはどうしますか?」

 

「僕は一先ずルミネさんにりそなが来る事を連絡しておくよ。急に会う事になるよりも、そっちの方がルミネさんも心の準備が出来るだろうから」

 

「それが良いですね。じゃあ私と一緒に桜屋敷に帰りますか?」

 

「うーん……僕は先に帰って夕食の準備をしておくよ。りそなとルミネさんには体力をつけて貰いたいから」

 

「分かりました。じゃあ、私は病室に戻ります」

 

「うん。彼に宜しくね」

 

 アメリカの下の兄は出入り口のある方向に歩いて行った。

 私も病室に戻ろうとして……ふっと気がついた。以前はアメリカの下の兄がいなくなる事に言いようのない寂しさを覚えたのに、今はその寂しさを余り感じない。

 寧ろ恐怖を感じるのは……あっちの下の兄が元気のない姿を見る事。そっちの方が比べられないほどに寂しさと悲しさを感じてしまう。

 

「……大丈夫です。きっと……きっと……何時かまた前を向いて歩いてくれる筈です」

 

 それがどれほど困難な事なのか。理解しながらも、私は自分を奮い立たせて病室への道を歩いて行った。

 

 

 

 

side遊星

 

 暗転

 悲劇、■■■■の生涯

 『走馬灯R・Ⅱ』

 

『■■君。5歳になってもこんな問題ができないのですか。お仕置きが足りないようですね』

 

 ……ごめんなさい。

 

『あなたは将来、大蔵家に仕える身なのですよ。この程度のことで腕が上がらないなどと甘えてはいけません。旦那様に報告いたしますよ』

 

 ………ごめんなさい。

 

『さあ、早くお立ちなさい。あなたの怪我の痛みなど、大蔵家の偉業には何の関わりのないことですよ……全く旦那様のご令息って言うから、てっきり衣遠ぼっちゃまの事だと思っていたのに、まさか屋根裏王子の方だなんて。普段は他人のフリをしてるくせして、都合のいい時だけ家族に数えるんだから』

 

 …………ごめんなさい。

 僕なんかの為に、時間を使わせてしまって……。

 家庭教師の人達は僕を立派な大人にしようと頑張ってくれてるのに……だって……。

 

『ごめんね、■■。でもあの人達は、あなたを虐めている訳じゃないの。怖がらないで大丈夫よ。あの人達はあなたを、厳しさに負けない強い大人にしてあげたいと思ってるの。あなたが誰かの為に尽くせるような、立派な男の子になってほしいと思ってるのよ』

 

 そのお言葉は正しかったです、お母様。

 でも……そのお言葉の正しさを証明出来たのは……あの方(・・・)です。

 ……まただ、誰か凄い方がいた筈なのに……その相手を……思い出せない。

 何でだろう? 分からない。

 

『辛い思いをさせてごめんね。お母さんの子に産まれちゃってごめんね』

 

 違います、お母様。

 ……僕の方が。僕の方が……お母様の子に産まれてしまってごめんなさい。

 だって、お母様のお言葉は全て正しかったから。

 僕は……お母様との誓いを破ってしまいました。

 

『誰かの為になる立派な大人になる』

 

 誓ったのに……お母様にそう誓ったのに……僕は真逆の事をしてしまいました。

 

「お母様……ぼくの方こそ……お母様の子供として産まれて来てしまいごめんなさい!」

 

 産まれてからずっと過ごしているお屋敷の屋根裏部屋。

 目の前にいるお母様の胸の中で、僕は謝罪した。

 

『……頑張ったわね、もう一人の■■』

 

「……えっ」

 

 一瞬聞こえた声に僕は顔を上げた。

 目の前にいるお母様は、優し気に微笑みながら僕の頭を撫でてくれた。

 

『頑張った。本当に貴方は頑張った。あっちの■■に負けないぐらい貴方は本当に頑張った。だから今は休みなさい』

 

「……お、お母様?」

 

 何を仰っているんですか、お母様?

 疑問の答えを聞こうと口を動かそうとする。でも、僕の口が動く前に視界は暗闇に閉ざされた。

 

 暗転。

 

『何を見ている?』

 

「はっ……」

 

 内臓の心身にまで響く重いバリトン。

 その声に僕は我に返った。アレ? 何で僕はお屋敷の外に?

 確かお母様と一緒に屋根裏に居た筈なのに?

 ……違う。そうじゃない。僕はこの場所で……木を見ていたんだ。桜色の花を満開に咲かせている木を。

 ……桜の花? 何だろうか? とても綺麗に咲いているのに……何でこんなに……胸が痛いんだろう?

 

『聞かれたことに答えろ、雌犬の子。貴様は何を見ていた?』

 

 っ! いけない!

 この方の質問にはすぐに答えないと。

 

 『大蔵衣遠』

 

 旦那様と奥様のちゃく……アレ? 嫡子だよね。それで僕とは歳が十離れた戸籍上の……。

 まただ? 目の前にいる人は僕の()の筈。なのに……何故違和感を感じて……こんなにも悲しい(・・・)んだろう?

 何か……何か違う関係が僕と兄との間であったような気がする。でも、それがなんなのか……思い出せない。

 思い出せないのなら……気にしないで良い。今は……彼の質問に答えよう。

 

「桜の木を見ていました。この木を見ていたら……何故でしょうか……自分でも分かりませんが……悲しいんです」

 

『………』

 

「とても……とても……大変な事をしてしまった。許して欲しいなんて願ったらいけないのに……願ってしまっている自分がいて……僕は、僕は……っ!」

 

 自分でも意味の分からない言葉が止めどなく出てしまう。

 許されないに決まってるのに! それでも!

 

「この桜のように華やかなあの日々に戻りたい! そんな資格なんて最初からないのに! それなのに……僕はまた……過ちを繰り返してしまいました……」

 

 僕は何もかもあの方(・・・)と違う! なのに、僕がいてしまったからあの方(・・・)が成し遂げた事が無くなりかけた!

 それなのに……それなのに……僕はあの方(・・・)が僕が輝かせたいと願った()を輝かせていた事を知って……心の底から嫉妬(・・)してしまった! そんな資格なんて僕には最初からなかったのに……あるなんて思い込んでしまった。

 醜い。僕は……なんて醜い人間なんだろうか。

 

 暗転。

 

 気がつけば、兄の姿は消えていた。

 期待外れだと切り捨てられたのかも知れない。それで良いと思った。

 僕はもう自分が……期待されても期待に応えられるとは思えなかったから。

 

『ごめんね■■、お願いがあるの』

 

 ある夜、いつもの屋根裏部屋で。右頬を赤く腫らせて帰って来た母は、いつになく神妙な顔をしていた。

 

『さっき、あなたの休暇届けを出して来たわ。だから、ごめんね。今日からあの方がお帰りになるまでの間、決してこの部屋から出ないでちょうだい』

 

 あの方。

 母が言うその方が誰なのかすぐに分かった。

 僕のお母様は、旦那様の愛人だった。お母様はさほど旦那様に熱く燃える想いを寄せていなかったけど、旦那様は母へ並々ならぬ寵愛を向けた。

 母が愛人なのだから、当然旦那様には本妻の女性がいる。

 何時もは日本にあるお屋敷の方で過ごされているお方だ。その方が来られるのなら母の対応は仕方ない。

 奥様に厳しい言葉を浴びせられたり、頭を下げている姿を、僕は昔からしばしば目にしていた。

 

「はい、分かりました」

 

 僕と母が過ごす屋根裏部屋には、簡素ながらバスもトイレもキッチンも設置されている。

 家庭教師によるハウススクーリングも基本的に全てここで行なわれる。数日の籠城もさほど難しい事ではない。

 この屋敷で微妙な立場にいるお母様に迷惑をかけたら駄目だ。

 ……だから、何があっても此処にいよう。

 ……そう。此処にしかもう僕がいて良い場所がないんだから。

 

『■■』

 

 母の胸に強く抱かれた。

 

『大丈夫。あなたは立派な子。きっと大丈夫だから』

 

「お母様?」

 

 何故か違和感を感じた。

 僕のお母様は……此処でこんな言葉を言っただろうか?

 ……言った? 何故そんな事が思い浮かんだのだろう? お母様は明日からの事を話しているのに?

 分からない。だけど、お母様。

 僕は決してお母様との約束は破りません。だって、破ったりしたらお母様と僕は……。

 

「っ!」

 

 頭に痛みを感じた。

 まるで思い出したらいけないというように。

 ……ううん。僕は思い出したくないんだ。此処にいれば大好きなお母様と一緒にいられるから。

 だから決して僕は約束を破りません。安心して下さい、お母様。

 そう心に僕は誓った。

 此処に居る為に。お母様の傍に居る為に、絶対に約束を破らないと誓った僕の耳に……。

 

『うえぇぇーん……えぇーん……』

 

 小さな女の子の咽び泣く声が聞こえた。




次回は遂にりそなとルミネの会話になります。
朝日の意味不明な言葉をルミネは聞いていますので、つまり……。

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