月に寄りそう乙女の作法2~二人の小倉朝日~ 作:ヘソカン
しかし、朝日は出ますので。
獅子満月様、秋ウサギ様、烏瑠様、誤字報告ありがとうございました。
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「お待ちしていました、りそな様」
車から降りた私を出迎えてくれたのは巨人のメイドだった。
確か彼女は甘ったれとアトレが上の兄から譲られた桜の園のコンシェルジュをしてる筈でしたが……アメリカの下の兄が桜屋敷に戻って来ていますから、本業であるメイドの方に集中しているようですね。
「旦那様とルミネお嬢様が食堂でお待ちしていますので、どうぞ此方に」
「ええ、分かりました」
思えば桜屋敷に来るのは本当に久しぶりです。
こっちの下の兄がルナちょむ達とアメリカに渡ってからと言うのも、私が訪ねる理由がありませんでしたし、桜屋敷は桜小路家の屋敷ですから。
……桜屋敷に来てもアメリカの下の兄が出迎えてくれなくて、寂しさを覚えたくないのもありましたし。
それもあって、桜屋敷に来るのは本当に十年以上ぶりだ。苦手意識があっても、此処に来ていたら、あっちの下の兄を早期に見つけられたかも知れませんから、結構複雑です。
「あ、あのりそな様」
食堂に向かう途中で巨人のメイドに呼び止められた。
職務に忠実なこのメイドが、客人として来た私を呼び止めるなんて珍しいですね。
「なんですか?」
「……メイドとして桜小路家に仕えるこの身としては不躾なお願いなのですが……どうか小倉さんが入院している病院を先輩方にお伝えするご許可を頂けませんでしょうか?」
「先輩方?」
「はい。このお屋敷に嘗て勤めていた皆様の事です」
ああ、その人達の事ですか。
そう言えば、下の兄がこっちの桜屋敷に勤めていた人達に会えた事を喜びながら話していた事がありました。
「先輩方も小倉さんが倒れた事を知って、出来るならお見舞いに行きたいと願っています。どうかご許可を頂けませんでしょうか? お願いいたします!」
深々と頭を下げられた。
さて、どうしたものでしょうか? あまり下の兄が入院している病院を知られるのは問題ですが……この桜屋敷に勤めていた人達にならお見舞いに来て貰っても構わない。
下の兄の事情も知っているし、会えた事を下の兄も喜んでいた。何よりも本当に下の兄の事を心配してくれている人達だ。
お見舞いに来てくれるぐらいは良いでしょう。
「……分かりました。ただ面会の時は名前を確認させて貰いますので、後でリストを作って渡して下さい」
「あ、ありがとうございます! 先輩方もお喜びになられます!」
巨人のメイドはとても嬉しそうに笑みを浮かべてくれた。
上の兄の話だと。巨人のメイドは下の兄の対応にミスはしてしまったそうですが、彼女は下の兄を一年以上も保護してくれていた恩人だ。その恩人の願いは出来る限り、叶えてあげたいです。
「……あっ、そう言えば……」
食堂に入る直前に思い出した事があった。
この先にはルミネさんがいる。もしかしたらそろそろ隠すのは無理かもしれませんね。
「何かお忘れ物でもいたしましたか?」
「……ええ、つかぬ事を聞きますが」
私はこの桜屋敷に或る物があるかどうかを尋ねた。
「た、確かに御座います。万が一の事態を考えて予備の物が」
「じゃあ、それとですね……」
更に私は追加で注文した。
追加された代物に巨人のメイドは大きく目を見開いて驚いた。
「そ、其方も確かにサイズはあった筈です……ですが……その……本当に必要となるのでしょうか?」
「多分なります。追い込まれてルミネさんには何か洩らしてしまったようなので。もうこうなったら『
「いえ、それは分かりますが……旦那様がご納得されるとは流石に……」
「アメリカの屋敷やこの桜屋敷に夜な夜な現れていたらしいので文句は言わせません」
序でに写真を撮って、京都の人に送って上げましょう。
きっと京都の人は大喜びしてくれるでしょうから。
「まあ、準備だけはしておいて下さい。説得は私がしますから」
「……分かりました……準備だけはしておきます。旦那様……どうか拒否してくれること、いよいよは願います」
複雑そうにしながらも巨人のメイドは頷いてくれた。
私は何時でも写真を撮れるようにするために、携帯をカメラモードにしておく。
それを終えると巨人のメイドが、食堂の扉を開けてくれた。
「いらっしゃい、りそな」
「……こ、こんばんは……そ、総裁殿」
食堂の中にいた2人の姿を見た私は、唖然として固まってしまった。
アメリカの下の兄の方は病院で別れた時と同じだが、ルミネさんの方は別人としか思えないほど憔悴し切った顔をして椅子に座っていた。
もし文化祭の日にあの演奏会場に来た人が見ても、今のルミネさんが同一人物だと思える人は少ないかも知れない。それほどまでにルミネさんは変わり果てている。
クイクイと首を動かして、アメリカの下の兄を呼び寄せる。気付いた彼は、すぐに近寄って来てくれた。
そのまま食堂の外に出て、巨人のメイドに扉を閉めて貰う。
「ちょっ! あ、アレはどういう事ですか!? 病院で聞いた話よりも、ずっと不味い状態じゃないですか!?」
食堂に聞こえてしまう恐れがあるのに、思わず私は怒鳴ってしまった。
いや、本当に驚きました。あの様子では、何時かどころか、明日には引き篭もりになってもおかしくないぐらいにルミネさんはやばいです。本当に一体何が?
アメリカの下の兄は困ったような顔をして、私に事情を説明してくる。
「そ、その……どうもルミネさん。今日学院で上級生の生徒と言い争いをしたらしくて……」
「はあっ!?」
言い争い!? そ、そんな……よりにもよって今のルミネさんの状態で一番したらいけない事を……。
「それで……ルミネさんを連れて帰って来てくれた人から教えて貰ったんだけど、結局言い負かされたらしいんだよ」
当たり前です。
音楽部門。その中でも特にピアノ科の上級生達が大蔵家に対して抱いている不満は、敵意にまでなってしまっている。
でも、これまでもルミネさんは過ごしていた学生生活の中で妬みや嫉妬の類の悪感情は向けられていた。だから、気付けなかった。
……自分の向けられているのが、妬みや嫉妬を越えて、本当の敵意だという事に……。
「それは言い負かされるに決まってますよ。あっちはそれこそ一年以上不満を溜め込んでいた相手なんですから……しかし、そんな中でルミネさんを桜屋敷まで連れ帰ってくれる人がいた事の方が驚きですね。もしかして甘ったれかアトレですか?」
ピアノ科の1年生の可能性もありますけど、同級生も同級生でやらかしの件でルミネさんとは距離を取っているらしいという報告をカリンさんから聞いていたんですけどね。
「才華とアトレじゃなくて……僕も会って驚いたんだけど……ルミネさんを連れて来てくれたのは、八日堂朔莉さん。ほら、女優の『イトウサクリ』ってりそななら知ってるよね。その人が連れて帰って来てくれたんだ」
「ああ、彼女でしたか」
彼女なら納得出来ました。部外者で唯一現状を知っている人ですからね。
「知ってるの?」
「知ってますよ。彼女は彼女で陰ながら助けて貰っていますから」
「助けて貰ってるって……どういう関係なの、りそなと?」
「私というよりも、甘ったれの方ですよね。アメリカの下の兄に分かりやすく説明するなら……学生時代のミナトン的ポジションですね、彼女は」
「えっ!? 湊と同じって!? そ、それってつまり! まさか!?」
無言で私が頷くと、アメリカの下の兄は戸惑うように視線を彷徨わせた。
「まあ、彼女に関しては甘ったれ達は協力者だという事を知りませんけどね」
「そ、そうなんだ。でも、『イトウサクリ』さんは良く才華達のしてる事に協力してくれてるね。言えた事じゃないけど、世間一般からすればアウトなのに」
「これも偶然ですが、どうにも彼女。幼い頃に甘ったれに一目惚れしたそうです」
「ひ、一目惚れ!? さ、才華に八日堂さんが!? 何時どこで!?」
「ほら、まだアメリカに渡る前に桜小路本家で毎年行われている前に貴方が出席した『観桜会』の席に彼女も偶然出席していたらしいんですよ」
「『観桜会』に? それで才華の事を知っていたんだ。でも、最後に出席したのは才華達が子供の頃だった筈だから……もしかしてそれからずっと?」
「ええ、想いを寄せていたそうですよ。本当に凄い偶然ですよね、アメリカの下の兄」
「う、うん……ハハッ、ほ、本当に凄い偶然だね」
乾いた笑い声をアメリカの下の兄は上げた。
本当に話を聞いた時は私もあっちの下の兄も驚かされました。何せ十数年前のミナトンと似た経緯で、しかも……女装して再会するところまで同じですからね。
「……アレ? じゃあ八日堂さんはあっちの僕の事も知って……」
「いえ、それは知りません。直接会話しても、あっちの下の兄の事は未だに気づいていないようです。時々電話で話をしていますが、朝日の事は良く出来たお嬢様としか思っていないようです」
アメリカの下の兄は無言で壁に手を当てて俯いた。
いや、本当にバレないのは私も驚きなんですよね。複雑ですが……あっちの下の兄の女装のレベルは世界的女優を騙せるレベルになっているみたいです。
……私はゆっくりと落ち込むアメリカの下の兄の肩に手を伸ばす。
「落ち込んでいる暇はありませんよ、アメリカの下の兄」
「り、りそな。何で、そ、そんなに意地悪そうに微笑んでるの? こ、怖いんだけど」
ええ、これから十数年ぶりに妹の私の前で、『彼女』になって貰うんですから。
「アメリカの下の兄。巨人のメイドに衣装を用意して貰うように頼んだんで、ちょっと着替えて来なさい」
「えっ? き、着替え? 何で僕が着替える必要があるの?」
「ルミネさんに説明する為です」
「説明? ………………ま、まさか………り、りそな……じょ、冗談だよね?」
「冗談? そんなつもりはありません。まあ、必要が無かったら呼びません」
必要になるでしょうけどね。
多分、あっちの下の兄は核心の部分は漏らしていないでしょうが、断片的な部分は口走ってしまっている。
現にルミネさんはあっちの下の兄が訳の分からない事を口にしていると言っていた。
あっちの下の兄を責めるつもりはない。彼が其処まで追い込まれてしまっている事は分かっているから。
だけど、間違いなくルミネさんは私に聞いてくるに違いない。あっちの下の兄が口にした言葉の意味を……。
その説明をする為に、『彼女』に出て来て貰うのが一番手っ取り早いんです。
……ルミネさんは衝撃の余り気絶しそうですが……。
どうにかして私の提案を止めさせようと考えているアメリカの下の兄に、止めを刺す。
「覚悟を決めて下さい、アメリカの下の兄」
「うっ! ……ひ、必要なかったら呼ばれないんだよね?」
「ええ、呼びません」
「……分かった。どうか呼ばれませんように。どうか呼ばれませんように。神様ルナ様仏様」
「妻の事を様付け!?」
「あっ!」
……やっぱり、オカマの人の言っていた事は間違っていなかったんですね。
……ああ、あの頃の自分がした提案に今更ながら深い後悔を持ってしまいます。
気まずい空気を振り払うように、私は食堂の扉を開けて中に入った。
中で待機してくれていた巨人のメイドに合図を送る。
巨人のメイドは頷くと、すぐさま食堂から出て行った。
残されたのは私と、椅子に座って俯いている、ルミネさんだけ。
「待たせてしまってすみません、ルミネさん」
「……いえ……私は大丈夫ですから」
全然大丈夫に見えません。
「先に食事を取りますか。それとも話をしますか?」
「……出来れば話の方でお願いします。正直言って話をする前に食事を取ったら……せっかくの遊星さんの食事を台無しにしそうで」
アメリカの下の兄の食事を台無しにされたくない私は頷き、ルミネさんと対面するように席に座った。
「……それで学院で言い合いをしたそうですね?」
「……はい……その……先輩方が私の事を話題にしていたので……思わず口を出してしまいました……その……りそなさんにご迷惑は……」
「一々学生の言い合いまで、私のところに話は来ませんから安心して下さい。暴力騒ぎになっていないんでしょう?」
「は、はい……言い合いまでです」
「それぐらいでしたら、学生の間ではよく起きる事ですから、私には何の影響もありません」
「よ、良かった」
心から安堵したというようにルミネさんは息を吐いた。
……やっぱり、かなり重症ですね、これは。
「で、言い合いの内容は何だったんですか?」
「……お父様の件です」
きましたか。ピアノ科の生徒達も遂に我慢の限界を迎えたみたいですね。
「私の事を『絶対に許さない』って言っていて、思わず問いただす形で言い合いになって……山県先輩の話を聞きました。本当にお父様は……その……」
「大瑛への邪魔ならしてましたよ」
あっさりと認めた私にルミネさんは、目を見開いて驚いた。
でも、すぐに冷静になってテーブルを叩きながら立ち上がりました。
「知ってたんでしたら!?」
「不正を正せば良かったと言いたいのは分かります。音楽部門の教師全員を辞めさせるという大事件が起きますけどね」
「っ!?」
「私だって貴女の父親であるお爺様に怒りや不満を抱かないと思っているんですか? そんなのは去年からずっと持ってますよ……ですが、お爺様のやらかしは規模が大きすぎるんです。お金を受け取った教師達にしても、彼らはお爺様と比べたら弱い立場にいる人達です。中には喜んで受け取った教師も間違いなくいるでしょうが、全員がそうとは限りません。そもそも音楽部門の教師全員を辞めさせる事が出来たとしても、すぐに同レベルの教師を用意できるはずがないんですよ」
「……あっ」
私が何を言いたいのか察したのか、ルミネさんは力を失って椅子に座り込んで俯いた。
「それに不正を正したとしても、どんな理由で不正をお爺様はしたと思っているんですか? 大瑛の活躍を聞きたくも見たくもないからです。明らかに個人的過ぎる理由で言葉もありません」
「……じゃあ、先輩方が言っていた事は」
「何をどう聞いたかは分かりませんが、お爺様が大瑛に嫌がらせを行なっていたのは事実です。その証拠に……名字が違うはずの彼が大蔵家の血を引いている事実が、音楽部門の生徒達と教師達に知れ渡ってしまっていますから」
「……どうしてお父様は其処まで山県先輩の事を? 彼が何かしたんですか?」
「大瑛本人は何もしていません……昔、彼の事が大蔵次男家で発覚した時、実の父親である富士夫叔父様は、ハッキリと認知しないと言ったそうです」
「富士夫お兄様が……」
「それに加えて……直接会った事がない人なのであまり悪く言いたくはありませんが、不倫の相手である大瑛の母親の女性も、遊びたい盛りなのか育児放棄をするつもりだったようです。そんな家庭環境の中で、大瑛を引き取ったのは上の従兄弟でした。ですが、これに対して富士夫叔父様とお爺様が猛反発を起こしたんです」
「何故ですか? どうして立派な事をしようとした駿我さんの邪魔をお父様は!?」
「大瑛はお爺様が嫌いな非嫡出子だからです」
私の指摘にルミネさんは唖然とした顔をして言葉を失いました。
私だって馬鹿らしいと心から思う。でも……お爺様にとっては片親だけでも自分が認めた人間でなければ赤の他人でしかない。昔、上の兄が大蔵の血を引いてないと知る前の下の兄に対する態度がそうだったんですから。
「以前にも私は貴女に言ったはずです。『今の大蔵家しか知らない』と」
「……こ、これが……昔の大蔵家だって言うんですか?」
無言で私が頷くと、ルミネさんは口元を手で押さえた。
気分が落ち着くまで私は待った。ルミネさんは確かに大蔵家の令嬢として相応しい努力を、昔の私よりもずっと立派に務めていました。学院での成績だって、努力した結果だという事を私は知っている。
でも……それは私がルミネさんの身内だから知っている事です。
学院の生徒達は、ルミネさんとは他人。しかも去年のお爺様のやらかしで、誰もが大蔵家に少なからず敵意を持っていた。
「……お、お父様は私を信じてくれていなかったんですか?」
「信じてはいるでしょう、お爺様の認識では。でも、全てが完璧に出来る人間なんていません。些細なミスはしてしまいます。あの上の兄だってミスした事があるんですから……問題は、その些細なミスもお爺様は貴女の歩く道にあってはならないと思っている事です。実際、今だからハッキリ言いますが、私は貴女が今年のフィリア・クリスマス・コレクションに参加できたとしても、最優秀賞は取れないと確信していました」
「それは……お父様の事があるからですか?」
「違います。お爺様の干渉とか関係なく、貴女自身の実力では取れないと思っているからです」
大きく目を見開いて、ルミネさんは驚いている。
まだ、ピアノの技術に関しては自信があったのでしょう。技術に関しては、確かにルミネさんは高いものを持っています。技術を競う場では、ルミネさんにピアノで勝てる生徒は学院には居ないかも知れません。
技術を競う場では……。
「貴女のピアノの技術は学院では上級生を含めても、間違いなく学院ではトップクラスです。でも……お爺様と敵対すると決めた今だからハッキリ言います……ルミネさん、貴女のピアノの演奏は、〝つまらない゛んですよ」
「私の演奏が……つまらない?」
「ええ、そうです。訳が分からないという顔をしていますが、私は子供の頃の貴女の演奏はともかく、此処数年の貴女の演奏には何も感じる事が出来ませんでした。演奏の技術が伸びている筈なのに、伸びていくたびに貴女が鳴らす音は無機質に成っていくのを感じていたんです」
「……無機質……私のピアノの音が?」
呆然とルミネさんは自分の両手に視線を向けた。
「審査員が専門家で構成されたコンクールなら貴女は最優秀賞を実力で取る事が出来ると思います。ですが、専門外の人が聞けばただ音が鳴っているようにしか聞こえません」
現にピアノに関して素人である2人の下の兄は、何が良いのか分からないと揃っていましたからね。
それに……残念ですが、ピアノ科の生徒達からも不評だという報告がカリンさんから届いていました。大瑛のピアノで、音の楽しさを知ってしまった生徒達からすれば、ルミネさんの機械的な音は本当につまらないとしか思えないに違いない。
「今まで指摘しなかったのは、私はピアノを嗜んでいても専門家ではないからです。ただ嗜んでいるだけの人間と、専門の教師。ルミネさんはどちらの相手の言葉を聞きますか?」
「……専門の教師の意見を聞きます……でも、先生方はそんな事を一言も言ってくれなくて」
家庭教師も学院の教員も、残念ながらルミネさんに意見を言う勇気は持てなかったみたいですね。
前者に至っては、お爺様のルミネさんに対する過保護ぶりから不快にさせたら不味いと思って当り障りのない教え方をしているのでしょう。
後者にしても、お爺様から賄賂を受け取っているだけに、下手なことは出来ない。
入学式が終わった次の日に私に依願退職させられた教師もいるだけに尚更でしょうね。
「とりあえず暫くは冷静になって自分を見つめ直すことに専念することですね。学院の方はともかく、会社の方は私の権限で貴女を長期休暇させるように頼みましたから」
「ま、待って下さい! そんな事をしたらお父様が何をするか!?」
「今の精神状態で会社の仕事を続ける方が問題に決まってるでしょうが! 貴女の下にはどれだけの部下がいると思っているんですか!? 会社の大きさからすれば、大きなミスなんてしたら一発でアウトになりかねません。だから、長期休暇に入って下さい。これは大蔵家現当主としての命令です」
「…………分かり……ました……」
本当だったら最初から学生時代のルナちょむのように会社の方は重要な案件以外は部下に任せて、学業の方に専念して欲しかったぐらいですよ。
そうすれば、印象も少しは変わったかも知れませんし。
「あ、あの……それでりそなさん……不躾な願いですが、今りそなさんが泊まっているマンションで暮らすことは出来ないでしょうか? 勿論部屋は別の契約で……桜の園にはこれ以上いたら才華君達に迷惑が掛かるかもって思って怖くて……遊星さんは良いって言ってくれていますけど、この桜屋敷にずっといる訳にもいかないんで」
まあ、確かにそれが一番お爺様の干渉から逃れる方法ではありますね。
他に方法があるとすれば、私のように外国に留学するぐらいしかないでしょう。とは言っても、留学なんてあのお爺様が認める筈がありませんから、結局大蔵家現当主である私の近くにいるのが一番干渉を回避する手段。
ですが……。
「ルミネさん。私はこれからお爺様に徹底的な追及を行ないます。ハッキリ言ってしまえば、敵対します」
「……」
「実の娘である貴女には酷かもしれませんが、お爺様は本気でやり過ぎました。去年からの度重なる干渉に加え、遂には逮捕者まで教師から出てしまったんですから、もうこれ以上は放置できません」
「……いえ……お父様のしたことは……娘の私から見ても許せない事だというのは分かっていますから……ただ一つだけ確認しておきたいんです。りそなさん達が新しい家族だと認めている小倉さんは……その今も……」
「まだ意識が戻っていません。それと……朝日は今回の件を知れば、寧ろ自分を責めるでしょう」
「えっ?」
「……どうしても、どうしても……朝日は心から私達の言葉を受け入れる事が出来ないんです。大蔵家はそれだけのことを朝日にし続けていました。何も成し遂げていない自分が、急に大蔵家に受け入れられる。その事にずっと戸惑っていました。以前、アトレが朝日を責めた事がありましたが……そんな事は朝日自身が一番嫌と言う程に分かってるんですよ」
あっちの下の兄は、本当にいない筈の人間です。
荒唐無稽。物語でしかあり得ない事が、あっちの下の兄に起きてしまった。その事に一番戸惑ったのは、他ならぬあっちの下の兄でしょうが。
「……あの……小倉さんは一体誰の子なんですか?」
「あの子の父親は大蔵衣遠。上の兄です」
少なくとも此方では、それを通させて貰います。
実際……真星お父様よりも、上の兄の方が父親らしいことはしてますから。
一瞬不満そうにルミネさんは顔を歪めたが、すぐにハッとした顔をして改めて私に顔を向けた。
「私の聞き方が悪かったです。小倉さんの遺伝子提供者は……真星お兄様じゃないんですか? 前にアトレさんがりそなさんを怒らせた時、りそなさんは小倉さんの事を、『下の……』と呼ぼうとしたのをこの耳で聞きました」
やっぱり、失言に気づかれていましたか。こうなると……。
私はすぐに携帯を操作して、『準備が終わっていたら扉の前で待機』と言う内容のメールを送った。
「今更私は真星お兄様がした事を責めるつもりはありません。衣遠さんやりそなさん……そして小倉さんが本当に家族になろうとしていた事は分かってますから……でも、それだとあの時、小倉さんが言っていた言葉の意味が分からないんです」
「……何を朝日は言っていましたか?」
あの場に私が上の兄と共に駆け付ける前、きっと彼は本音を漏らしたはずだ。
その事を責めるつもりはない。彼は本当に頑張ってくれていた。何時絶望に戻ってもおかしくない精神状態の中で、それでも必死に頑張ってくれていた。
もし誰かが責めるというのなら、私はその相手を決して許さない。
「その……今も意味が分からない部分があるんですけど……先ず小倉さんは最初に私に、衣遠さんが大蔵の血を引いていないのか尋ねて来ました……小倉さんは……」
「上の兄が大蔵の血を引いていない事は、知りませんでした。いえ、知られないように私達は隠していたんです」
上の兄が大蔵の血を引いていない事を知った当初は、私とアメリカの下の兄も言葉を失う程に衝撃を覚えた。
アメリカの下の兄はそれでも上の兄を心から慕えた。あっちの下の兄だって、そうだ。本当なら上の兄の事実を知っても、変わらずに兄として慕う事が出来た筈でした。
桜小路遊星という成功した別の自分の存在がなければ。
失敗してしまった自分を受け入れるのは、桜小路遊星と言う成功した別の自分がいるからではないかと思ってしまう。
元々あっちの下の兄が、小倉朝日に成り切っていたのも、大蔵遊星としての自分を比べられたくないという事もあったからですし。
「朝日には何れ自信がついたら話す予定でした。尤もその前にお爺様が話してしまいましたが」
「それを更に私が肯定した訳ですね」
「責めるつもりはないので安心して下さい。悪いのはお爺様ですから……それで他には何を言っていたんですか?」
「他には……そのこれが一番困惑しているんです。その時の声も…何時もと違って……『僕は……何で此処に居るの?』って言いました」
………。
「その後は、『何もなかった』や『この世界にいない方がよかった』、後は謝罪の言葉を繰り返しているだけでした……りそなさん。小倉さんは一体どうしたんですか?」
「……『遊星』」
「はっ?」
「朝日の本名です。『大蔵遊星』。それが小倉朝日を名乗っていた人物の本当の名前です」
「……えっ? はっ? いや、あの……りそなさん? 何を言ってるんですか? 小倉さんの本名が『大蔵遊星』? それって、遊星さんの旧名」
「じゃあ、頭に朝日の姿形を思い浮かべて下さい。その隣にアメリカの下の兄を立たせて、先ず長い髪をアメリカの下の兄と同じにする」
「……あっ! ああ……」
「その次に化粧を消した朝日の顔を思い浮かべる」
「ああああ……」
「最後に服装をアメリカの下の兄が着ている物と同じにすると、年齢の違いはありますが、2人の下の兄の出来上がりです」
「ああああああああ!」
脳裏に浮かんだものを否定したいかのように、ルミネさんは頭を抱えて叫びました。
「ちょっと、待って! えっ? ただの他人の空似にしては幾ら何でも……それは前に小倉さんが実は遊星さんの隠し子じゃないかって疑った事は……そ、そうだ! りそなさん。ほら、小倉さんの実の母親は亡くなった『小倉朝日』さんですよね。ね?」
「それは嘘です」
「うそ!?」
ええ、嘘ですよ、ルミネさん。
「母親が大蔵家の使用人だったというのは事実です。『小倉朝日』が実の母親で、亡くなったという点だけは嘘です」
「じゃ、じゃあ、桜屋敷に勤めていた『小倉朝日』さんは今も生きて……あの、りそなさん? 何で意地悪そうに笑いながら、食堂の扉に近づくんですか? 嫌な予感が、その……」
私は困惑する、ルミネさんに構わずに、食堂の扉を開けた。
その先に……『彼女』はいました。
腰まで届く長い黒髪(あっちと違ってウィッグ使用)。
その頭頂部にはヘッドドレスが載っている。身に纏う服装は、黒と白の色合いの桜屋敷のメイド服。
膨らんでいる胸元に飾られている赤いリボン。
とても恥ずかしそうに顔を赤くして、俯きながら、『彼女』は扉の向こう側に立っていました。
ルミネさんは『彼女』を目で捉えると、全身をわなわなと震わせました。
「ま、ままままさか!?」
「はい、自己紹介どうぞ」
「……こ、『小倉朝日』です!!」
もうやけっぱちと言わんばかりに、『小倉朝日』に女装したアメリカの下の兄は嘗て(もしかしたら今も隠れて)名乗った名前を叫んだ。
「……そう、そういうこと。ふふ、ふふふっ………無理イィィィィィィィーーーー!!」
目の前に広がる光景が事実だと認識したルミネさんは、遂に精神の限界を迎えて床に倒れました。
遂に登場! 『小倉朝日』in三十代桜屋敷メイド服バージョンです!
次回からまたシリアスに戻って、鬱日を書きますので一度つり乙らしいギャグ場面を入れさせて貰いました。
以前にも書きましたが、ルミネは基本的に才華とのルートに入らない場合は、りそなと朝日の近くで暮らすことになります。爺への牽制もありますが、りそなの傍なら爺も強権を使えないので。